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2005年11月29日

もみじが美しくなりました。

急に風が変わって暖かくなり10月の気温とか、今朝雨が降って強い風が吹きました。
向かいの雑木林のもみじも、今が一番美しいようです。くすんだ赤色の桜やケヤキの褐色に混じって、クヌギやコナラの黄色が陽を浴びて輝いています。
ここの狭い庭でも、ハゼ(もう散っています)と3本ほどのカエデの紅色が急に美しくなりましたが、裏にある2本にブナの、少しずつ黄葉していたのがやっと全部が金色になったと思っていたら今朝の風でほとんど散ってしまいました。この木の下の地面は庭内なので積もるままにしておけば良いのですが、狭い割には道路に面した部分が多いので、これから毎日落ち葉を掃き集めねばなりません。草花の上に落ちた葉っぱも取り除かねばなりません。これらも一仕事です。
先日テレビの再放送とかで「ターシャ・チューダ 四季の庭」が映されていましたが、30万坪の花に溢れたれたアメリカの絵本作家の庭、まさに夢のような理想の庭。
私など確かに緑に囲まれているので、恵まれているといえましょうが、数えるほどの木々に振り回されて音を上げているのですから、やはり能力の差、人間の違いだなあと思ったりしてます。

投稿者 kinu : 15:49 | コメント (0)

2005年11月26日

タンゴコンサートに行く

書きそびれたことを少し書きます。ちょうど一週間前になりますが、タンゴを聴きに行きました。
門奈紀生ひきいるオルケスタ・アストロリコ楽団、アストロリコとは「素晴らしい天体」の意味のスペイン語の造語で、バンドネオン奏者のアストル・ピアソラはじめ3人の名手に因んでの命名だとか、クラシックとは違った懐かしく切なく熱っぽい雰囲気の魅力で心が揺さぶられました。
バンドネオン奏者は門奈氏のほか4人、その他ヴァイオリン,ビオラ,ギター、チェロ、コントラバス、ピアノと総勢若手11人を率いています。本場南米からもレギュラーメンバーとして歌手、友情出演のダンサーのカップルも加わっての素晴らしい舞台でした。聞きなれたものも混じっていて、歌手のロベルト・デ・ロサーノ氏は、パーキンソン病だそうでマイクを持つ手が震えるのでご容赦をといっていましたが歌唱力の衰えはなく、さすがアルゼンチンの歌い手で心を震わせ、同じ地の出身ホセ・マリア&ラウラのペアのダンスも、洗練されたエロチシズムとはこういうものかと思わせるような、肢体の美しさはもちろん、足のさばきや表情の、端正で技巧的な振りの数々に感嘆させられました。
小ホールとはいえ舞台の上でのタンゴはどんなものなのだろうと、イメージできませんでしたが、なかなか楽しいもので、最後は聴衆も歌にあわせて手拍子で参加して盛り上がりました。実はアルゼンチン大使も招待されていたようで、最後に紹介され拍手で迎えられました。
門奈氏は本場でも強い支持を受けているとのことで、日本では引っ張りだこ、これから岩波ホールで始まる映画「二人日和」の音楽も手がけたのだそうです。それも楽しみです。
 

投稿者 kinu : 16:02 | コメント (0)

2005年11月24日

台峯(田んぼについてーつづき)

台峯が残ることになったのは嬉しいことですが、市の管理になるため、その残し方が問題になります。隣接地に中央公園があり、大きく緑地を残し市民の憩いや散策に供されることになった事はそれはそれでいいことですが、この地をそれと同じに、公園的に整備されては何もならないからです。
日曜日に歩いた時も、車道からそれて、細い道に入ろうとしたとき、様子が大きく変わっていたことに声を上げてしまいました。内部に手を入れるために車が入れるようにと4メートル道路を作ったり、駐車スペースを作ったりすることは仕方ないことでしょうが、その調子で機械力がぐんぐん入ってくるのではないかと、不安を覚えました。
いえ、そんな話よりここでは田んぼの続きを書くことでした。
ここの田んぼの水は、川から引くのではなく、山肌からじわじわとにじみ出てくる「絞り水」によってまかなわれています。谷戸には水場があり、それが流れになっていますが、それも同じように周辺の山肌から出てくる「絞り水」が集まったもので、ちゃんとした水源のある川ではないのです。ですから乾燥期の冬場でも田んぼは湿っています。棚田なので、水気も下の方に行くに従い少なくなり、乾いてきます。そういう微妙な上下の湿気の違いがまた多様な生き物を生息させているのだそうです。
さてその田んぼですが、ここの2箇所のほか中央公園にも1つあります(もう一つ笛田にもあるとのこと)。この公園の田んぼではボランティアの人や子どもたちの体験学習のようなもので田植えから収穫などをやるそうですが、その米つくりに米の本場の青森からわざわざやって来た人がいたといいます。それはあちらでは収穫本位の大規模農業であり、米つくりの本当の面白さがないからだと言うそうです。
「利活用」の時代だからと案内者は言います。「利」がないと物事はすすまず、また残すことができない・・・と。この田んぼを耕している人も、採算を考えたらやってこられなかったでしょう。米つくりもコンピュータで・・・という傾向がすでにあるそうです。
大金持ちがいて、この田んぼを買って、道楽として残させてくれないかなあ・・・など言い合ったものです。
でもホリエモンさんは、田んぼよりコンピュータ、インターネットでしょうね。
こんなことを書いているのが、まさにそのインターネットというのは、まったく自己矛盾!ですけれど。

投稿者 kinu : 17:49 | コメント (0)

2005年11月23日

台峯(田んぼについて)

台峯といっても、保存が決まったのは倉久保谷戸といわれる谷間の湿地帯とそれを囲む斜面だけであって、その周りの峯にあたる部分は皆開発の惧れに晒されています。
ここに残る二つの田んぼもその部分に属しています。
新聞に、横浜にある蛍の生息地で、沢山の卵が死んだと出ていました(その新聞を探したのですが、見つかりません。確か昨日か一昨日くらい)。吹きかける湿気が多すぎたのだそうです。すなわちそこでは蛍を管理しながら育てていたのです。いわゆる魚を大量に養殖するように、大量に生殖させていたのでしょう。
蛍は流れがあり、田んぼがあって初めて自然に発生するのだそうです。ここの田んぼには蛍がいます。夏に蛍を見る会(夕方から谷戸に入るので一人では怖い)ももたれましたが、残念ながら出席できませんでした。
蛙もそうですが、卵を産む水場(水のある田んぼ)があり、棲み家としての土手や森があるから生きていけるのです。自然の田んぼには畦があり(土があり、草があり、そこにはいろいろな昆虫がいる)、水があります。そういう環境があって、初めて蛍は自然に姿を現すのです。蛍をたくさん見たいために大量飼育するなんて、あまり意味がないように私には思えます。それは環境を守るというより、それらを見たいという人間の欲望の延長に過ぎないのではないか・・・と。
二つのうち最初の田んぼは、梶原の住宅地に至る車道のそばにあります。もう一つは車道からそれて山道に入ったところにあって、ここの半分ぐらいですが、どちらも段になっています。稲刈りは終わって、黄色の鳥よけの網がまだそのままになっていました。網が張れるのも狭いからで、また網を張らなければ皆鳥に食べられてしまうからです。田んぼだけではなく畦の手入れ(これが昆虫や植物の生息に、これまで意識されていなかったことですが、重要な役割を果たしていたのだそうです)その手間と労力は大変なもので、この二つの田んぼの持ち主は高齢者。二つとも風前の灯火です。
この田んぼについて、もう少し話したいのですが、それは次回にします。

投稿者 kinu : 10:46 | コメント (0)

2005年11月20日

台峯を歩く(もみじについて)

冬の寒さの秋空のした、台峯を歩いてきました。
「台峯」は、最近やっと緑地として保存が決まった湿地帯の谷戸で、貴重な生物体系を保存している県内でも残り少ない質の高い自然です。
月一回、歩く会がもたれていて、この保存運動の母体として活動してきていて、私も何年か前から時々参加、最近はなるべく歩くようにしています。
午前中2時間半ほど、全身を耳にしてのゆっくりした散策ですが、季節の推移が感じられると同時に地元に密着した案内者の説明にいろいろ教えられます。専門的というより、自然そのものに入り込んでの観察、自然と人間との係わり合いを考えた意見が聞かれるからです。
一回歩いただけでも沢山学んだこと、話したいことが出てきますが、それは追い追いすることにして、今日は前回裏山の紅葉について書いたので、そのことについて書きます。すべて学習したことにすぎませんが、この自然を守る活動に(私は享受するだけで何もしていないので、書いて知らせるだけでも)何かの役に立つのでは・・・と思い、書きます。
この辺りの紅葉は、あまり綺麗ではないなあ・・と思っていましたが、その理由が分りました。
特別な場所を除いて、山を赤く染める楓が少ないからです。赤いのはせいぜいハゼの木。草紅葉。しかし黄葉する木は沢山あります。ケヤキ、シデ、イヌシデ、コナラ、ミズナラ、その他いろいろ、広葉樹は皆色を変えます。そしてその黄葉する時期がそれぞれ違うので、黄葉、褐葉の期間が長いのです。
この辺り、大きく言えば鎌倉のもみじの一番良いのは12月はじめ(昔は終わり頃だったが、温暖化でとの事)だそうです。何となく感じていたのですが、そういわれてみて、初めてなるほどと思いました。
もみじの季節、地味だけれどもしっとりした色合いの低い山々を、長い期間楽しめるのがここの取りえのようです。
春の芽吹きから新緑の季節についても同じことが言えます。北国の短い春と秋とは対照的だと言うことでしょう。

投稿者 kinu : 17:02 | コメント (0)

2005年11月18日

小春日和に

今朝は真冬のような冷え込みとなった。
10時過ぎから少しずつ陽が差しこんでくるが、午後からまもなく、また去っていってしまう。かつては南西に家がなかったので、午後からは夕方まで太陽が望めたのだが・・・。
けれども入ってくる日影は長い。それに手足を差し伸べながら、陽の恵みのありがたさを思う。
わが庭には、今ツワブキの花がたくさん咲いている。それからホトトギスの花。お隣をはじめ山茶花もあちこちで美しく咲いているのを眺めながら、外は暖かそうなので、六国見山に上った。丘陵はやっと褐色に黄色にもみじし始めたくらいである。この辺りの紅葉はそれ程色鮮やかではない。ここを限って言えば、秋よりも春の方が私は好きだ。早春、緑が兆しはじめて次第に薄紅色がまじり、若草色と紅色の濃淡グラデーションが柔らかくやさしく、はんなりと低い山並みは身を横たえる。
遠く海には靄がかかり大島は見えない。箱根や富士、丹沢などの山並みも逆光と薄い雲に隠れておぼろである。これら自然は、私がこの世にいなくなっても、依然としてこのように美しく在り続けるのだなあ・・と、思ったりする。この季節だからそう思うような気がする。春だとそうは思わず、何かいいこと起こらないかしら・・などと、少しは心がうきうきするようだ。
帰り道、ハゼの木(ウルシ?)が一本、見事に紅葉しているのが眺められた。この辺り赤くなる木は少ないので目立つのである。

投稿者 kinu : 22:11 | コメント (0)

2005年11月17日

「中村勘太郎・七之助 錦秋特別公演」を観る

近くの芸術館に、歌舞伎の公演があったので行く。今年その襲名披露で話題になった十八代目中村勘三郎の長男と次男。初めて兄弟による、しかも父親抜きでの共演だというが、今朝初めて蕾が開いたバラという感じの若々しさと艶やかさがあって,愉しかった。実は行く前はあまり期待していなかったのだが・・(といっても歌舞伎が詳しいわけではなく、何となく素人の感覚で)。やはり伝統の強さかなー。とにかく彼らは歌舞伎界のサラブレッドなのだから。『花伝書』に言う「時分の花」だなー。
演目は「蝶の道行」と次に芸談(アナウンサーによるインタビュー)、休憩が入り「妹背山婦女庭訓」と「団子売」。すべて台詞のない歌舞伎舞踊である。といっても、もともとは文楽の物言わぬ人形が演じる演題だから、義太夫が台詞を語る、お芝居ということになる。
すべて恋を主題にしたものを選んだそうで、最初は主君のために犠牲になった若い二人が死後蝶となって冥途への道行きをする、哀れにも美しく幻想的な踊り。三度の早変わり、舞台装置の転換などもあわせ見事で(初めて演じるという)、観客を先ず惹きつけた。
「妹背山・・」は、一人の男をめぐる二人の女の恋。内容は三輪山伝説やら大化の改新やらをまぜこぜにした妙な話だが、そんなことはどうでもよいのである。ただ好い男とそれをめぐる美女二人、お姫様と町娘の、上品な美しさと蓮っ葉な色気などの対比を見せようというもの。
「団子売」は、これまで演じられて定評となっているそうだが、なるほど軽快で楽しく面白く、「蝶の・・」のような大掛かりで派手ではない、細やかな見せ場があって楽しかった。これは屋台を持ち運んで売る団子売りの夫婦の話で、臼と杵で餅をつき、その餅をこねたり投げたりする所作、また最後は浮かれてお多福とヒョットコのお面をかぶって踊りだす。長年連れ添った夫婦の呼吸や機微が感じられ、和やかで親密な雰囲気が漂ってくる。この中にはマツケン・サンバも取り入れている、どこにあるか気をつけていてください、とインタビューで言っていたが、すっかり忘れていた。さてどこにあっただろう?
「蝶・・」と「団子売」は兄弟二人が、互いに男女を交替して演じていたが、それぞれになかなか色っぽく、
ヨンさまもいいけれど、日本の歌舞伎界にも魅力的な若者が次々に出てきたなあ、と思ったのであった。
帰りに空を見上げると、ちょうど満月で、冬を思わせる寒さの秋空にくっきりと中天にあった。

私は小学校に入る前から中学1年まで、祖母の趣味で日舞を習わされていた。舞台にも何度か立ったことがある。最後の舞台は「大原女」で、これはお多福の面をかぶった大原女の姿で前半を踊り、早変わりして今度は奴となり男になる、かなり難しい踊りだが、奴姿で纏を持って花道に走って見得を切る、その瞬間に拍手喝采、やはり気分の良いものである。遠い遠い昔のことである。

投稿者 kinu : 10:23 | コメント (0)

2005年11月14日

「詩と音楽」シリーズ最終回(4回目)に行く

小春日になった12日、県民ホールにいく。このシリーズは水野さんに教えられて、2回目から行くようになった。最初の馬頭琴は、幸いにも近くのホールに別の企画でだが聴くことができて、無念が晴らせた。
「シェイクスピアからワールドランゲージ」ということで、作品の朗読や歌、古楽器演奏、仮面舞踏会風な古い衣装でのダンスなど、王宮にでも招かれたような雰囲気を味わいながら愉しんだ。
演奏家や歌い手、踊り手は皆日本人だが、中に一人すらりとした英国人がいて、朗読と解説をしたが、彼がピーター・バラカン氏であることが帰ってプログラムを読んで知った。
ラジオFMではたいていクラシックを聴いているが、土曜の朝7:20からは、各国の現代の音楽、ロックなどが流れてきて、何となく聞いていたのだが、その担当者が彼であった。あまりに自然な日本語なので、日本人とばかり思っていたのに、名前がどうもそうではなくいつも不思議に思っていたのである。コメントもちょっと耳をそばだたせるものを持っていた。その本人を、目の前に見てきたのである。
ところがその日の新聞の別刷りBeに、当人のコラム記事が写真入で載っていたのを発見。声のみと本人自身と写真・記事との三つが一日のうちに偶然重なった、不思議な日であった。

そこへ行く前に、近代文学館にも行って、「日本の童謡」展も観てきた。これについても書こうと思ったが、これはまた別の機会にする。

投稿者 kinu : 10:52 | コメント (0)

2005年11月10日

チェ・ヨンミ(崔泳美)『三十、宴は終わった』を読んで

解説を書いた佐川亜紀さんからこの詩集が送られてきたので読みました。
題からでも分るように、30代のこの女性の詩集は百万部も売れてベストセラーになっているのだそうです。日本では考えられないことです。韓国での詩の位置が日本とは大きく違うことは、よく言われることですが、実際私も一度だけソウルに行った時に大きな本屋に行き、その様を実感しました。
大胆に性を描いたことでも話題を呼んだということは、いまだ儒教精神の根強い韓国だからで、日本ではとっくに開放され、そういう詩人も何人かいるわけですが、それだけでなく、若い感性と肉体を通した心情の新鮮さ、またしっかりした批判精神もあって、魅力的です。
民主化運動のための学生運動の挫折や、失恋などが背景にあるようですが、都会に暮らす若い女性の心をつかむものが確かにあり、多くの読者を得ただろうということも分ります。
「ああ、コンピュータとセックスができさえすれば!」(Personal Computer)というフレーズなどは,「私はお釈迦様に恋をしました」(お釈迦様)と書いた林芙美子を思わせますが、彼女のように元気溌剌とした上昇志向ではなく、暮らしに追われる人々に中に身を添わせるところがあります。
「詩」という題の詩は「私は私の詩から/お金の匂いがしたらいい」に始まり、「評論家一人、虜にできなくても/年老いた酌婦の目頭を、温かく濡らす詩/転がり転がり、偶然あなたの足の先にぶつかれば/ちゃりん!と時々音をたてて泣くことのできる//私は私の詩が/コインのように磨り減りつつ、長持ちしたらいい」で終わります。
イタリアの詩人ウンベルト・サバの「石と霧のあいだで/休日を愉しむ、大聖堂の/広場に憩う、星の/かわりに/夜ごと、ことばに灯がともる//人生ほど、/生きる疲れを癒してくれるものは、ない。」(ミラノ)[須賀敦子訳]というのに近い感じがします。
とにかくこの、詩に対する彼我の違いはなぜだろう・・・といつも思います。国情の違い、民族文化の違いでしょうが、これを読みつつ思うことがありました。韓国には両班(やんばん)の制度がありました。これは中国の科挙制につながるもので、高等文官試験のような役人の登用試験で、男子一生の仕事として、これに合格することが出世する第一の道です。もちろんこれにははじめ文と武があり、実践的なこともあったでしょが、何しろ試験ですから、教養の度合いや詩文の暗記、作成、そのような瑣末なことに精力が注がれることになります。韓国では李朝、その支配階級だけが科挙を受験でき、それが両班、すなわち特権階級であった文官です。ベトナムも詩の国と言います。韓国と良く似ていますが、そこも科挙制が最後の王朝阮朝まで続いています。
振りかえって日本を見ますと、科挙制は採用されませんでした。宦官制度もなかったように。日本は文化的には京に天皇という文化の拠点は残しながら、実権は江戸の将軍であり、これは武であり、サムライであり、軍事政府です。
中国でも韓国でも、またベトナムでもトップに立つ人間は、文章家であり、詩人であることが多いのはそのためではないでしょうか。日本で付け焼刃的に和歌を詠んだり、古典を引用したりするのとは、土台が違うような気がします。
(断っておきますが、私は歴史については疎い人間です。これはまったく知らないことの恐ろしさで、勝手なことを類推しているにすぎません。)
こう考えると、日本はずっと武の国であったのだなあ、と思います。だから黒船がやってきた時、うまく立ち回れたのかも知れないし、それに比べて大国である中国がめちゃめちゃに侵略されたのは文の国でありつづけたからかもしれない。
そう考えると、今しきりに刺客などを放って、巧みな戦略で獅子吼をする人物が人気を集めるのも、むべなるかな、と思わずにはいられません。
詩人が韓国のように、多くの人々に浸透できるようになるのは至難の業かも・・・と思ったりしています。

投稿者 kinu : 14:50 | コメント (4)

2005年11月08日

立冬の鶯

7日の昨日は暦の上では立冬だが、気温が高く9月下旬の陽気になった。
この時期、朝夕の寒暖の差が大きいのは例年の通りだが、やはりその揺れがいっそうひどくなったような気がする。
これは昨日の話しである。
前の日、やはり日中暖かかったが、寒気が入ったのか夜になって雨が降った。そして7日の昨日、庭に出ると鶯の、舌打ちをするような笹鳴きが聞こえると思っていると、鶯の声が聞こえた。二声、短いとっさの鳴き声であったが確かに聴いた。実は少し前のことだが、やはり鶯の声を聞いたのであった。こんな季節になって、しかもこんな間近に鶯がいるなんて!と嬉しさよりも不安を感じた。とっくに里から山に帰っているはずであった。帰りそびれたのか、お山の縄張りからはじき出されてしまったのか。愛しくなって、しきりにその姿を探したが、もちろん見つけることは出来なかった。
不等辺三角形の狭い庭であるが、大きな石があって、その上に鳥の水場を作っている。餌は、この辺では害獣にされてしまったリスを寄せることになるので、出していない。鳥たちが水浴びに来るのを見ているだけでも飽きずに一日が経ってしまう。そんなわけには行かないので、毎朝水がほとんどなくなっているのを見て、多く想像するのである。シジュカラ、メジロがやってくる。
この日もお天気が良く、予報も太陽印だけだったのに、午後から急に雲が湧き出てにわか雨が降った。そんな雨の庭を眺めていると、ドウダンの垣根に3羽のシジュウカラがいた。雨宿りしているのかしら・・・と見ていると、どうも水場を目指している様子、雨が降っているのになぜ? 天然のシャワーである雨が降っているのにと思っていると、本当に一羽が水をたたえた鉢のそばにやってきて、身を浸したのである。羽をぶるぶると羽ばたかせて、気持ちよさそうに水浴びをした。
日本人がシャワーだけでは満足せず、湯船にたっぷりと浸りたいように、鳥もそういう気持ちになるのかしらと、微笑みながらそれを眺めていたのだった。

8日の今日、鶯は鳴かなかった。お山にちゃんと帰ったのだろうか。

投稿者 kinu : 15:45 | コメント (0)

2005年11月04日

歴史について(1)

このところ秋晴れのお天気が続きます。「書物など捨てて巷へ出よう」と寺山修司は言いましたけれど、パソコンなど閉じて紅葉の林を散策しようと叫びたくなります。でもまだこのあたりは少しだけ色づいた感じでしかありません。
歴史について、続けます。小森さんの講座に出ていて感じたことは、いかに私が近代から現代にかけての歴史を知らないかということです。点としての事実は多少知っています。でも日清戦争がなぜ起きたか、またその結果は?というようなこと。そのとき莫大な賠償金をせしめたために一種のバブル景気になったことや、その後の日露戦争の時、大国ロシアに勝てるはずはないのに、各国の外交上の思惑もあって、辛うじて勝利を収め、賠償金などは望めべくもなかったのに(負けないだけ運がよかった)、前回のことで味を占めたせいもあって国民は承知せず(もちろん犠牲が大きかったので)、暴動まで起こったことなど、ちゃんとした因果関係としてはほとんど何も知らなかったのです。
もちろん私の不勉強、無知のせいでもあります。しかし考えてみると、高等学校までの学校教育における正規の歴史の時間にそんなことをちゃんと習っただろうかと、振り返ってみて思うのです。私たちの年代はまだ予備校などはなく、受験競争が始まろうとした頃ですが、歴史の時間は近代史になると時間が足らず、ほとんど打ち切りになってしまっていました。
歴史の時間は大体太古から始まります。それはロマンの世界です。確かに面白いにちがいないのですが、今と関わりのある歴史は、少し前の現代、近代です。それはもう歴史になっており、それは客観的な物となり、文献でも正疑が確かめられるものです。それを知らないで、今では存在しなくなった武将たちの国取り合戦や、弓矢や騎馬による合戦の模様や作戦を推理と架空をまじえてあれこれしたとしても、経営者の人生訓として少しは役に立つとしても、現実の政治や外交を考える上で、ほとんど役に立ちません。それは物語にすぎず、歴史ではないのです。
学校教育でちゃんとした歴史認識を育てるためには、歴史を現代からはじめ、近代、近世、中世・・・へと遡っていくのはどうだろうと思ったりします。そうすれば、今の政治のあり方も、また外交や憲法問題も、それぞれが考える下地が出来てくるのではないでしょうか。私自身を考えてそう思いました。
それがないから、日本人に神話を与えようとする、ロマンに満ちた歴史教科書が登場してくるのだと思います。

投稿者 kinu : 20:29 | コメント (0)

2005年11月03日

「嘔吐」を思い出す

今このブログに向かっているが、あまり良い気分ではない。16歳の少女がタリウムという毒薬を使って母親を毒殺しようとしたらしく、しかもその経過や写真までブログに出していたという報道に接したからである。おぞましいというか、いやな気分というか、生じた気持ちを表現しようがない。ブログを書く気持ちにもなれなかった。ブログそのものを閉めてしまおうかと思う気持ちにもなった。
そのうちこの「嘔吐」を思い出した。サルトルの実存主義を言う時によく持ち出される有名な作品である。うろ覚えであるが、図書館の本を順番にすべて読んでしまったというような男が(これは記憶違いかもしれない)、なんとも表現しがたい木の根っこを見たとき、嘔吐しそうになる。名づけようもない、奇怪で、混沌とした状態に耐えられなくなるからである。神は死に、ブルジョア的秩序も破られた時、そこに出現するもの、それが実存だという風に理解したりしたものだったが、西洋人でもなくまたキリスト教の信仰もない私にとっては、ただ言葉上の理解に過ぎなかったと思う。
もしかしてこういう感情、不愉快さかもしれないなと思った。同級生をナイフで殺害した少女も、パソコン上で自尊心を傷つけられたのが動機だという。今子どもたちの犯罪は多かれ少なかれパソコンが絡んでいる。
そういう犯罪に限らず、ここ数年世の中の経済という実業の世界をはじめとして世の中が大きく変わっている。教育、政治の世界までもそれによって変貌しているのではないだろうか。通信システムの変化にとどまらず、それらが世の中を根元から変えつつあり、産業革命が世界を大きく変えたように、いやそれ以上の見えない力でもって変えつつあるのではないだろうか。だからこの嫌悪感、嘔吐感は少女やブログに対するというより、自分には理解できない、得体の知れない事柄が生じているのではないかという思いに対したものではないかーと、言葉を使って、気取って言えばそういうことになる。でも確かにこのニュースは私に、ブログに対するおぞましさを感じさせたということだけは事実である。

投稿者 kinu : 21:01 | コメント (3)