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2006年03月30日

台峯緑地保存の基本構想

今日も真冬並みの冷え込みとなったが、昨日も寒かった。
台峯歩きもこのところ予定があったりして休みがちであったが、その緑地をこれからどのように保存していくか、その基本構想を市民に提示する市の説明会が昨夜行われたので、出かけねばならないだろうなあと思ったのだった。市内の5ヶ所で行われ、近くのその会場が最後であった。
本当は、昼間も外出したし、夜で寒いし、行きたくなかった。しかし意を決して出席したのだった。
思い切って出かけてみて、よかった。
これまで役所のやり方をあまり信用していなかったし、緑地が残ったのは嬉しいが、きっとがっかりさせられることが多いにちがいないと思っていたのである。役所もずいぶん変わってきたものだなあというのが実感だった。

詳しいことは書けないが、保存の基本理念の方向としては台峯緑地のすぐれた自然環境をできるだけ壊さないように、そのままの形で残すようにすること。もちろんそこが、人の自然とのふれあいや自然教育の場ともなるように考えるが、自然体系を壊すような手の入れ方はしないこと。所によっては人間の方を檻に入れるような形で近づけないようにもすることがあってもよく、単純に緑を守るというのではなく、自然そのもの、また専門家や市民の意見にも耳を傾けながら試行錯誤して計画を進めて行きたい、というのが大まかな内容であった。
もちろんここに至るまでの地道な市民レベルの活動があったわけで(私は含まれていません)、前から登場してもらっているこの地を丹念に歩き回り生態系を観察研究しておられ、毎月案内をしてくださっている久保廣晃氏たちの熱心な働きかけもあったにちがいないが、今のところこのようないい形で市が進めようとしていることに安堵した。
実際そういう気持ちの発言をした若い男性もいた。彼は台に住んでいるとのことで、(この「台」にも「台峯」とは別の緑地があったのだが、こちらの方は最近全て開発され60余戸の宅地になってしまった)
そこの緑地が次々に切り払われていくのを間近に眺めていて、胸が痛くなったのだが、こちらの方のこのように貴重な谷戸が残ったことが嬉しく、市や担当者の尽力に感謝するという趣旨であった。それを聞いて市の担当者は、そんな風に市民の方から言われると非常に嬉しい、その声が何よりの励みになるという言葉には実感がこもっていた。所有権という問題があり、行政の担当者も大変苦労するのである。

そういう発言や説明を聞きながら、緑に対する人々の意識、そして行政の対応に時代の推移を感じていた。実は私たちがこの地にやってきた時、同じようにというよりももっと大々的な宅地開発の波が、押し寄せていたのである。六国見山の中腹を開発する、いわゆる「円覚寺裏山を守る」住民運動が行われており、来たばかりの私たちも、柄になくそれに巻き込まれ、矢面に立った経験がある。結果はもちろん多くのそれと同様、開発は推進された。
25年以上も前のことだが、そのときの行政側の対応を思い出したのである。人々の意識も、行政側の態度もずいぶん変わったなあと思ったのはそういう訳があった。そしてその運動に一緒に携わった、今ではあの世に行ってしまった人への報告をもこめて、このことを書いておきたかった。

説明会でも出たことだが、緑を守ろうといっても、そもそもその主体者もまた、かつては緑の侵入者であるという、矛盾を抱えている。常に被害者であると同時に加害者であるという人間の両面を考えておかなければならないだろう。

投稿者 kinu : 21:06 | コメント (0)

2006年03月28日

「荒川静香」現象と「イザベラ・バード」

荒川選手が故郷に帰っておこなった凱旋パレードに、7万人以上が詰めかけたという。TVでも新聞でもその大歓迎の様が映し出されていた。日本では珍しいことではない。本人も喜びと感謝の気持ちを十分に表していたが、内心は少しばかりうんざりだと思っているのではあるまいか、と思うのは私だけだろうか。

群集にマイクを向けると、当然その演技への感動や励ましを述べるものがいるが、多くは「見ました」「見られなかった」、と「見た」か「見られなかった」かが重要で、あたかも初めてきたパンダか、多摩川に出現したタマちゃんを見に来たような感覚であるような気がする。
この物見高さは、人間であれば当然だが(類人猿もそうらしいが)、どうも度を越しているように感じられるのは、イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を最近読んでいるからかもしれない。

原文を読むのは大変なので、それを講義式に解説しながら読みすすめた「イザベラ・バードの『日本の奥地紀行』を読む」(宮本常一 平凡社ライブラリー)という新書であるが、すこぶる面白い。彼女は19世紀の女性としては特筆すべき大旅行家で各地を旅行していて、日本にも明治11年夏、3ヶ月間、東国と北海道を旅した。これはその時の記録である。女性であることからかえって先入観やそれまでの知識で眺めるのではなく、鏡に映すように物を眺め、細かに観察して、借り物でない分析力、批判力で記述している点、感嘆させられる。
これによって近代化がやっと始まった当時の東日本の世相が、まさに鏡に映すように浮かび上がってくる。このイザベラ・バードによる日本観を初めに言っておくと、この著書の巻頭に置かれた引用文のように日本は「穀物や果物が豊富で、地上の楽園のごとく、人々は自由な生活を楽しみ東洋の平和郷というべきだ」という記述に近いというのが、彼女の大まかな感想である。
もちろんそこには農村の想像できないほどの貧しさや、奇妙な風俗風習、またずっと付き添った通訳のずるがしこさや、役人の実態などマイナス面もきちんととらえているが、総体的に日本と日本人に好意を持っている。そんな彼女であるが、その日本人について、最も困り、奇妙に思ったのがこの物見高さだったのである。
障子と襖の日本家屋であるから、プライバシーが全然ないことが、英国女性としては我慢できないことであった。「障子は穴だらけで、しばしばどの穴にも人間の眼があるのを見た。私的生活(プライバシー)は思い起こすことさえできないぜいたく品であった。絶えず眼を障子に押しつけているだけでない、召使たちも非常に騒々しく粗暴で、何の弁解もせずに私の部屋をのぞきに来た。」
これは例外なく全ての場所で行われた。ある町に入って人に会うと「その男は必ず町の中に駆けもどり、『外人が来た!』と大声で叫ぶ。すると間もなく、老人も若者も、着物を着たものも裸のものも、目の見えない人までも集まってくる」。そして宿に着く頃には大きな群集となって押しかけてくる。・・・「何百人となく群集が門のところに押しかけてきた。後ろにいるものは、私の姿を見ることができないので、梯子を持ってきて隣の屋根に登った。やがて、屋根の一つが大きな音を立てて崩れ落ち、男や女、子ども50人ばかり下の部屋に投げ出された。」という状態になるのである。
即ちイザベラを道中悩ませたものは、付き纏ってくる「蚊」と「人間の眼」であったようだ。しかし彼らは皆おとなしく善良である。害を加えようとはしない。ただ見たいだけなのである。
イザベラが女一人で、馬でしか辿れない奥州や北海道の奥地を安全に旅行できたというのは、世界でも珍しいという。その頃のヨーロッパ、彼女の母国であるイギリスでも外国人の女の一人旅は、実際の危害を受けなくても、無礼や侮辱の仕打ちにあったりお金をゆすり取られたりするのに、日本ではそうではなかった。馬子でさえ、びっくりするほど親切だったと、イザベラは書いている。
これが私たち日本人の先祖の姿であり、性癖であるようだが、今でもそれは変わらないのかもしれないと思わせられる。というのも、もう一つ最近目にした記事があるからだ。

これは俳優の石田えりさんが某新聞に、有名になりたい人は多いだろうが大変だということを書いたコラムだが、彼女が一人落着いて、美味しいコーヒーを飲もうと小さな喫茶店に入った時のことである。
あいにく土曜なので満席になり、その時一人が彼女に気がつき、観察開始。「次に私に背を向けて座っていた2人のうち一人が席を移って観察開始。四つの遠慮のない目玉が近距離から、私の毛穴の位置まで確かめる勢いだ。その間、3人とも、無言。身動き一つしない。思わず笑おうとしたら、目玉がいっせいに私の歯に集中したので、わたしは驚いて口を閉じてしまった!」この無作法さは何だろうと、彼女は思う。一目見てギョッとする人がいても、そっと放っておいて上げるのが思いやりではないかーと。このようなことをあちこちで経験し、いまだ慣れることができないと。
個人を尊重する国では、たとえ有名人でも、いや有名人であるがためにかえって、そこにいても知らぬ顔、そ知らぬふりをしてその人が自由な気持ちになれるように計らってやることが多いと聞く。
大したことではない、有名税だといえば言えるだろうが、民族性というのは変わらないなあという思いと、だから今の世情を見ていて、かつて来た道をまた辿るのではなかろうかという思いもするのである。

広瀬中佐という人物を若い人は知らないだろうが、わたしは辛うじて知っている。日露戦争の英雄として熱狂的に国民から迎えられ、愛国心をそそった人物である。だが実は、功績といえば、旅順港に軍艦を沈めて敵艦が港を出ないように封鎖をする使命を帯びただけの、言ってみれば特攻隊のような役目をした人で、ただ杉野という部下がボートに乗り移ってこないのでそれを探しに爆薬を仕掛けた軍艦に戻っていく最中、敵の弾に当たって戦死したということから、部下思いの英雄像に作り上げられたのである。
その肉片が付いた(?)という軍旗が、全国を巡り、人々から大歓迎されたそうである。
この時期から、日本は戦争への道をひたすら辿ることになる。
私はれっきとした日本人だから私も決して例外ではない。日本は良い国だし、人間も決して悪くはなくおとなしい。今では個人主義もかなり根付いていると思う。しかし群集心理というか、群れになると個人の壁が訳もなく消滅し、個人の自由も、またそれへの思いやりもなくなってしまうのではないかと、自戒を含めて思ったのだった。

投稿者 kinu : 15:24 | コメント (0)

2006年03月24日

モーツアルト オペラ『魔笛』と「レクイエム」

混声合唱団コール・ミレニアムの第4回定期演奏会(22日)に出かけた。
今年はモーツアルト生誕250年ということで、その最晩年の対照的な二つの曲。

『魔笛』はもちろん全曲ではなく、ハイライトだけを編成したものをナレーター(真理アンヌ)の説明によって展開されていく。私のようなものには飽きずに楽しめて良かった。私のピアノの楽しみ方に似ている。クラシックやポピュラーのサワリの部分だけを練習し楽しんでいるように・・・。
「パパゲーノ」と「パパゲーナ」、「タミーノ」と「タミーナ」の響きもよく、コミカルで楽しく、主題は愛と誠の精神で、宗教宗派を超えた平和希求のメッセージがこめられている。今日の「社会の混乱時にあってこそ、流麗なモーツアルトの音楽に潜む高邁な理想を身と耳で確認しながら、いっときの心の平安を得たい。」とプログラムには記されてあった。

「レクイエム」は、死神のような男から依頼があって書かれたといわれる、まさに死の床にあったモーツアルトの未完のレクイエムであり、暗い。しかし真に力を失い、絶望している人間は明るい曲よりも暗いトーンの曲の方が、心に安らぎを与えられ悲しみも浄化され、そこから立ち上がる気持ちも徐々に湧いてくるのである。天才モーツアルトの幅の広さを実感じさせられる組み合わせ。

合唱はコール・ミレニアムとコール・リバティスト。指揮は小松一彦。管弦楽はフィルハーモニックアンサンブル管弦楽団など。

出かける頃、雨は降り出し、帰りも雨で、雨に閉じ込められたモーツアルトの空間であった。

投稿者 kinu : 15:20 | コメント (0)

2006年03月20日

「二人展」と「パウラ・モーダーゾーン=ベッカー展」

一昨日、「二人展」に行く。
これは水野さんがすでにブログに入れているので、それを読んでくだされば雰囲気がよく分る。私も楽しませてもらった。弓田弓子さんの野菜の絵など、自分でも描きたくなる気持ちをそそられるほどだが、シニックでユーモラスな素描はセンスがいる。難しいと思う。坂多瑩子さんのフラワーアレンジメントもそういうセンス、彼女の詩のように飛躍があって面白い。カタツムリができるとは思いがけなかった。
誰もいないとき、こういう喫茶店が少なくなったことなど、マスターと話をした。彼もカメラが趣味で古いカメラなど展示、儲けよりも小さいなりに文化の香りのする雰囲気をつくりだしたいのだそうだ。そのうち横浜詩人会の菅野さん、荒船さん、浅野さん、そして弓田さんも顔を見せたので、しばらくお喋りをして帰ってきた。
場所は新杉田のギャラリー喫茶「ラパン・アジル」。

昨日は神奈川近代美術館 葉山「パウラ・モーダーゾーン=ベッカー展」に行った。
近いのになかなか行く機会を見出せなかったが、やっと訪れることができた。環境が素晴らしい。幸い雨も上がって青空の下、春の気配が感じられる裏山と足元に穏やかに広がる海に抱かれた広やかで白い美術館、半日のんびりと過ごすのには好適なところだなあ・・・と思う。
パウラ・ベッカーは日本ではあまり馴染みがないように思えるが、リルケなどが高く評価した時代に先駆けたドイツの女性画家である。
ベッカーに心を惹かれ長年その画業を追い続けてきた早稲田大学大学院教授の佐藤洋子先生の講演がこの日にあったので、それを聴きに行ったのであった。2003年に出版された佐藤先生の著書『パウラ・モーダーゾーン=ベッカー 表現主義先駆の女性画家』によってその全貌が日本でも紹介されるようになったようだ。予約制であったが、満席であった。
講演の題は「画家パウラと彫刻家クララ」というのだが、リルケの妻であったクララとリルケ本人、そしてベッカーの北ドイツのブレーメン郊外の芸術家村における暮らしと交流が語られただけでなく、カミーユ・クローデルとロダンの話などへとそれはつながり、更に展覧されてなかったベッカーの画だけでなく、夫のモーダーゾーンと暮らした家など、長年にわたり実地を訪ね歩いたスライドなどが次々に紹介され、盛りだくさんで話は尽きないようで時間のたつのを忘れた。

展覧会の感想としては、先ず自画像が多いことである。そして対象の多くが女性で、女性の初夏秋冬を描きたいと本人も言っていたようだが、女でなければ描けないものがそこにはある。裸の少女があり、老婆がある。そして赤子を抱いた母親の姿があるが、それは男が描くような母子像ではない。ドイツであるから森、という自然を描くことはしていて、画家である夫の影響も見逃せずそれもなかなか力づよく、またセザンヌに惹かれたと考えられる静物の色彩感覚も美しいのだが、晩年離婚を考えるようになるのもその画の上での差異によるもののようで、ベッカーは内面をもっと描写したいと焦っていたようだ。
写真を見ると落着いたやさしそうな人だが、ドイツ女性らしいしっかりした強い意志を感じさせる眼差しを持っているようで、しかし佐藤先生の話によると大変お洒落な人だとのこと。確かに自画像の多くはネックレスをつけている。
だが惜しいことにベッカーは、和解した夫の最初の子を出産後、その産褥熱から引き起こされた病のために永眠。31歳という夭折。その間にこれだけの多彩な(日本の浮世絵にも関心があり、それを取り入れたものがある)画業を残したというのには感嘆させられた。

朝まで雨、そして青空と太陽を見上げての昼間であったが、帰りはまた雨になってしまったという気まぐれな春の陽気の、だが運の良い一日ではあった。

投稿者 kinu : 15:07 | コメント (0)

2006年03月16日

something2+AUBE 朗読会

鈴木ユリイカさんが編集・発行している『something』の2号が発刊され、『AUBE』の会と合同の朗読会への誘いがあったので、その2号には私も書かせていただいたので出席した。
昨日の夕方から、場所は明治神宮前の、とあるビルのスタジオ。
『AUBE』の人たちとは初めてであり、『something』の2号の執筆者も出席した人では山本楡美子さんのほかは面識がなかったけれども、皆いい詩を書く気持ちのいい人たちで、大変刺激され愉しい夕べを過ごすことができた。
『AUBE』はときどきもらっていたので、その活動は知っていたが、月に2回「世界の名詩を朗読する」企画が、ほとんど欠けることなく15年も続けられていたことを知り感嘆した。そのほかに会員それぞれの作品の朗読もあるのである。それがこの日297回目であるという。その選択や構想や準備はすべてユリイカさん1人ということを聞き、その情熱と尽力に舌を巻いた。もちろんテープ録音その他の仕事でずっと支えてこられた裏方のお友達がいらしたから続いたのであるけれども。
この日も両詩誌の作品全ての朗読がなされた。出席者は本人、欠席者は誰かが代読して、それを全てテープにとり、各人に送付するとのこと。それで休むことなく次々と朗読が続き、それに対するユリイカさんのちょっとしたコメントなどで2時間たっぷり、緊張し充実した時間であった。新潟、長岡、福岡から駆けつけた人もあって、全国的な広がりも感じた。2号の発行所の書肆侃侃房は福岡で、社主の田島安江さんも出席していたが、私も福岡出身ということから互いに親しみを感じて話をした。ネットの時代、出版業も少しずつ様変わりしているのだなあ。
会が終わってから、楽しみの食事は近くのそれほど高くなくておいしい中華の店に案内してもらって歓談し、滅多に来ることのない表参道の洒落た夜の街並みをほろ酔い加減で少しばかり楽しんだ。
ユリイカさん、AUBEの皆様ありがとうございました。

投稿者 kinu : 16:06 | コメント (2)

2006年03月13日

『スーパーサイズ・ミー』の続き

肝心のことを言い忘れたので追加します。
監督がこれを撮るきっかけになったのは、2002年11月、TVニュースで、肥満症で苦しむ二人のチィーンエイジャーが、「肥満になったのはハンバーガーが原因」とマクドナルドを訴え、「大量に食べたのは本人の責任」という判決結果だったことを見たからだという。
どちらが正しいか、それを証明してみようと思ったのだそうだ。なぜならアメリカでは37パーセントの子どもが肥満症に悩んでいるから。自己管理の甘さだけだろうか?

真摯な問いかけのこの映画には、大きな反響があった。しかし政府とF, F会社はこの映画がきっかけになった訴訟が続発するのを防ぐため、それら訴訟を禁止する通称「チーズバーガー法案」を、2004年3月に米下院で可決した。しかし同時に前回に述べたようにスーパーサイズは廃止され、「ゴー.アクティブ」というヘルシーな新セット・メニューも発売したという。またマクドナルドが数百万ドルをかけた”反「スーパーサイズ・ミー」”キャンペーンがオーストラリアで展開されたり、さまざまな社会現象を引き起こしてもいるようである。

マクドナルドではフライドキチンもハンバーガーと同じく、どこの部位というのではなく、あらゆる部位をぐちゃぐちゃに混ぜ込んでから固めたものだそうだ。いろいろな添加物も入れた、いわゆる加工された肉なのである。今輸入牛肉が問題になっているが、そういうマクドナルド的な考え方が濃厚なアメリカということを、十分に意識していなければならないだろうと思った。

投稿者 kinu : 00:10 | コメント (0)

2006年03月12日

映画『スーパーサイズ・ミー 』を観る

ファーストフードを一日3食一ヶ月食べ続けると、人間どうなるか? 監督(モーガン・スパーロック)の身を挺して実験台となり挑んだドキュメンタリー映画。現代食文化(特にアメリカ)への警鐘を鳴らす映画であった。
詩人のアーサー・ビナードさんもたびたびエッセイなどで触れているが、アメリカの肥満の実態は想像以上のものらしく、成人の60パーセント(約1億)が過体重か肥満で、その肥満も日本とは桁が違う感じがする。小食にするため、胃の手術をして小さくするなど、新聞でも読んだことがある。
それは車社会や金満家の飽食ということがあるにしても、それよりもファーストフードによるものであることがよく分る。しかも食への意識が高くなった上・中階層よりも下の階層の方が影響著しいのである。

実験台の監督はスリムな健康体であった。その恋人も美しく聡明なベジタリアン。その実験過程を医師たちが計測し見守りながら始まった。大手のマクドナルドの製品だけを食べ続けるのである。
その結果は、最初は確かに人間の味覚を研究され尽くされて味付けされた世界的な食品であるため、美味しいのである。「カロリー天国だ。これをかぶりつく幸せ」と、彼は冗談まじりに言う。だが、3日目になると、胃の調子が悪くなり、5日目で栄養士から摂取多過を注意される。7日目で胸苦しさを、9日目で気分がめいってくる。しかし食べても直ぐまた食べたくなるという。一種の中毒症状であろう。コカコーラが世界を席巻したのは、あの味には一種の中毒症状を起こすものが含まれているといわれたものだが、これもそうだろう。体重は12日で7.7キロ増加、お腹も出てくる。18日目になると「最悪、頭痛がして目玉の後がずきずきする」。血圧もコレステロールも上がり、肝臓も異常をきたしてくる。そして21日目に、とうとうドクターストップが出る。これ以上は危険だと。
22日目から、マクドナルド社への取材申し込みなどアタックが始まる。しかしそれは見事にかわされる。
各店への成分表示表などの提言や利用者へのインタビューをしたりして、その後階段を上るのも苦しくなるほどになりながらも何とか30日目を終える。

結果:体重は11キロ増え、コレステロールは65上昇、体脂肪も7パーセント増加。砂糖は一日約450グラムの摂取量。
気分はさえず、疲労感があり、情緒不安定になり性生活はないに等しかった。食べるともっと欲しくなり、食べない時は頭痛がしたという。
これ以上続けるとまさに命取りになっただろう。

アメリカの多くの栄養士の提言として、一ヶ月に1回以上ファーストフードを食べることをすすめないし、これを食べることは「肥満の重要な原因」という調査結果が出ているという。
それでいてなぜファーストフードが栄えているのか。

次にパンフレッドにあったデーターを挙げる。
アメリカでは毎日、4人に1人がF.Fに足を運ぶ。
食事の40パーセントは外食に頼っている。
年間消費額は1100億ドル。
マクドナルドは毎日4800万人によって利用されている。(>スペインの総人口)
マクドナルドは6大陸、100カ国以上(マクドナルドによると121カ国)に進出。合計店舗数3万店以上。
マクドナルドは頻繁に利用する客を「ヘビー、ユーザー」と呼ぶ。
マクドナルドはアメリカのF.F産業の43パーセントを占めている。

スーパーサイズというのは肥満の体格の比喩かと思ったら、それだけではなく、ハンバーガー、フライポテト、コーラのサイズをも示している。すこし高いだけで、大よりも一回り大きいスーパーサイズが買える。
人間の心理からも、また労働者や、貧しい者ほどそれに手を出すことになるだろう。それを売り出すことで消費量が大きく増える。しかも恐いのはTVのキャラクターで子どもたちの人気者となり、また店には子どものための遊具や遊園地まで併設していたりして、子どもの記憶や味覚への刷り込みもちゃんとしていることである。

食べるか食べないかは自己責任だろう。そしてアメリカ人も愚かではない。しかし資本主義の根幹を成す企業という見地から考えると、この体質を変えるのは困難だろう。
さてそのス-パーサイズであるが、この映画が公開される頃、廃止されたとか。しかし映画とは何の関係もないとの会社の発言。
日本では、今はそれほど問題ではないだろう。しかしアメリカ追随のお国柄、警戒しなければと思った。

投稿者 kinu : 16:48 | コメント (2)

2006年03月07日

憲法9条を守る詩の雑誌『いのちの籠』

今の平和憲法を守ろう、9条を守ろうという動きは各界にあって、詩人たちもあちこちで声を上げているが、この雑誌もその主旨にそって、単にスローガンではなく良い詩、エッセイを書いていこうというもので、詩人の羽生康二さんや甲田四郎さんら何人かが呼びかけ人になって去年の10月に創刊された。
『いのちの籠』という命名は、中 正敏さんの詩によるもので、それを次に紹介します。

               いのちの籠
                           中 正敏

        人は水にすぎぬものとしても
        水が洩れぬよう
        いのちの籠をたんねんに編む

        編み糸や葭 ひご あじろなどの竹類
        もので編んでは隙きまが漏らす
        自身の深い井戸底
        暗いおもいが光の芒で籠を編む

        遮るオーバー・ハングの壁は
        爪で剥がして爪をそぎ
        血まみれになって空を捜して
        千年 あるいは万年疑って なお
        
        ピアノ線よりしなやかに弾み
        まっすぐ伸びる光の糸で
        億年 人はいのちの籠を編みつづける
                          (2005年4月)

      
わたしは戦争を知っている世代ですが、実体験には乏しいので、反戦をこめた詩を書くのは難しく書けるかどうか分りませんが、反戦の気持ちは決して揺るがないので、そのことだけを基盤にして広やかに間口を広げているこの雑誌の趣旨に賛成して参加したのでした。
2号が今年2月に出て、そこにエッセイを掲載してもらったこともあって、この日曜日、「第2号の会」に初めて出席してみました。
その席で先ず最初に三井庄二さんが「高校生が反戦詩をどう読んだか」という報告をした。都立の定時制であるため、かえってちゃんと生徒たちは対応していると感じたのですが、そのことからすこし離れて、今高校に限らず教育の現場の締め付け、生徒の管理が年々厳しくなっていくさまをひしひしと感じました。

そんな時、わたしは何年か前に見たドキュメンタリー映画『軍隊をすてた国』コスタリカ、を思い出します。中米のコスタリカは小さな国ですが、そしてアメリカという大国から常に脅かされてもいるのですが、またそんな小さな国と、帝国でありたいという幻想を抱いた政治家や実業家がたくさんいるだろう日本とは比較できませんが、そこでの教育のあり方です。
コスタリカは何よりも人間を育てる教育に力を入れているそうで、軍事費をゼロにした分その多くを教育費に注ぎ込んでいるとのこと。そのため識字率も世界有数(93・5%)だと言います。しかも学校は単なる知識を習得するだけでなく、話し合いの技術を学ぶところとされ、その過程で徹底的に平和教育がなされているというのです。子どもたちは丸く輪になって、いろいろなテーマで話し合いをする。そこで議論や表現の仕方を身を持って学んでいく。大きな問題だけではなく身近なプライベートな悩みまで話し合い、皆で考えていくのだそうである。奇麗事すぎるかもしれないけれど、基本的な点だけはよく分ります。

今、教育基本法に「愛国心」を入れようとしています。誰でも自分が生まれ育った国が良い国で、誇れる国でありたいとは思うものです。オリンピックでも分るように、日本が金をとって欲しいし、日の丸も上げたいし君が代も聞きたくなるのです。どんなに貧乏でも醜くても自分の家族は軽蔑されたくないと思うと同じです。
ですから「愛国心」の教育など必要ないと、わたしは思うのです。その代わり「平和」教育をすれば良いのです。多分コスタリカではそうやっているのではないでしょうか。子どもの心も脳も白紙ですから、刷り込み、教育が大切でしょう。日本の戦時中の教育然り、また今でも独裁国はそうしているのでしょう。「愛国心」が必要なのは、国家が強力な軍隊を作ろうとしているからにちがいないとわたしは思っています。
少々大演説をしてしまいました。ちょっと恥ずかしくなりましたのでこれでやめます。

投稿者 kinu : 14:56 | コメント (0)

2006年03月06日

啓蟄の日 鶯も本番前

今朝6時すぎ、ウグイスのクチュクチュというつぶやきが、眠っている私の耳に聞こえてきた。囀りの練習をしているようであった。そのうち、なんとかホーホケキョウと声を出した。これは初音?? いや まだ練習の段階であるようで、稚拙である。その稚拙なところが可愛らしく、すっかり目覚めてしまった。
遠くの方に行って、谷渡りの練習もしている。
キジバトも ククウ ククウと声を上げている。電話線の上につがいが仲良く身を寄せ合っていた。

「春眠暁を覚えず 処々啼鳥を聴く」・・・か。
なかなか冬将軍もしぶといが、もう春である。
晴れていたのに、にわかに曇りだし、突風も吹いたが、それがニュースによると春一番だそうだ。
虫たちが土の中でうごめき出す、ちょうど啓蟄の日。
緑のものたちも少しずつ身じろぎをし、勢いづき始めた。

投稿者 kinu : 21:36 | コメント (0)

2006年03月01日

3月1日の庭

冷たい雨で、冬に逆戻りしたような一日でしたが、それでも何かしら春を感じさせられます。
水戸偕楽園では昨年より26日遅れで梅が咲き始めたそうですが、わたしの庭でもやっと少し前から乏しいながら花がほころび始めました。
そのほかヒイラギ南天の黄色い花。これは少々強い香りですが、よく匂います。
馬酔木の花も花房をたらし始めました。これは白ではなく薄い紅色です。
happyブログのロビーではもうウグイスが鳴いていて、愉しませてもらっていますが、ここではまだです。先日、何となくぐずり声が聞こえてきたようですが・・・・。

今日はほぼ半日、押入れの片付けをしていて潰れてしまいました。
水橋さんの突然の死、また「ふーず」で一緒したこともある渋田耕一さんの死、また茨木のり子さんや先日その全仕事を見に行った松井やよりさんの壮絶で見事な死など、死を身近に感じさせられることが多くなり、少しずつ身辺整理をしていかねばならないなあと思ったりしてます。

投稿者 kinu : 16:57 | コメント (0)