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2006年04月13日
緑の産毛(うぶげ)と愛国心
このところ雨が続き、春の気温になってきたので、向かいの雑木林がいっせいに芽吹き始めた。
まだほんのりと桜色が残っているところもあるが、その紅が濃くなったところは萼(がく)の色である。
幼い葉の色は実にさまざまで、萌黄、黄緑、薄緑、鶸色、若緑、浅緑、若草色、若葉色、(これを全て実景として識別したのではなく「色の手帖」の助けを借りているのですが)、その緑のグラデーションは微妙で、そのうえ新芽は正に柔らかな産毛に包まれていたりして朧である。鳥でいえば雛、動物でいえば幼獣の頃のふかふかと可愛く柔らかい感触。この頃の林は、いのちの美しさ繊細さが感じられて私は好きだ。緑の産毛に覆われた林は日差しを浴びて、いま長々と寝そべっている。
今朝の新聞に、愛国心の記事が出ていた。教育基本法を改正して、子どもたちに愛国心を教え込むのだという。一体愛国心とは何だろうか。
私はこの国に生まれ、育ち、生きている。もちろん西洋にあこがれたり、ロシア文学に共感したり、アラブのエキゾチシズムに魅力を感じたり、いろいろな国に行ってみたいけれども、やはりどんな豪華な屋敷に招待されても、我が家が一番良いと同様、この国にいるのが一番心安らぐだろう。オリンピックがあれば日本に勝って欲しいし、日本や日本人がほめられれば嬉しい。それは自分の家族に対すると同じことだろう。そういう感情、気持ちを、取り立ててなぜ教育しなければならないのだろう。
「国」を「愛する」ということは、具体的にはどうすることだろう。「あなた」を「愛する」とは、ということを人は恋愛や結婚をする前に勉強しなければならないのだろうか。
ここに「愛」について考えてみる。極限の愛とは、多分、自分を無にして、相手に自分を捧げることだろう。
エクスタシーの極限は、死の感覚で、それによって相手と合体し、相手の中に自己を融合させる感覚であろう。釈迦でさえ、トラの前に身を投げ出す、捨身という行為をした。宗教は全てその要素を持っている。宗教であればそれで良いだろう。そういうものだからだ。キリスト教でも殉教者は全て聖人となる。
イスラム圏でその原理をあくまでも貫くイスラム原理主義が、テロに組しているのもそれゆえであろう。
彼らは自分たちの神に対して、絶対的な「愛」を捧げているのである。
そう考えると、「国」を愛することを徹底すると、何かが生じた時、国のために命を捧げることが一番素晴らしいことだということになる。それが一番純粋で、美しい行為ということになる。愛が一番深いからだ。
そう考えると、今一番愛国者が多いのは、北朝鮮ではないだろうか。彼ら個人は国と一体化し、たとえ他国の人を騙し痛めつけたとしても、国のためになれば、英雄だということになる。ここに愛のエゴイズムがある。
藤原正彦『国家の品格』はベストセラーだという。ベストセラーといわれると敬遠して、読みたくなくなる方だが、これはつい買って読んでしまった。読みやすく書かれすらすら読めるが、とてもいい本である。その内容についてはここには書かない。それを読めば、私がこの文を書くにあたって枕のように置いた向かいの雑木林の意味が分ると思います。ただここではその著者が話した新聞記事(06.4.3)を、書くことにします。
氏によれば「愛国心」という言葉には二つの異質なものが含まれているという。「その一つが『ナショナリズム(国家主義)』。これは、自分の国さえよければ他国はどうでもいいという、戦争につながりやすい危険な考えであり、私は『不潔な思想』と呼んでいる。もう一つが『祖国愛』(パトリオティズム)だ。自分の生まれた国の自然や文化、伝統、情緒といったものをこよなく愛する考え方。祖国を愛する気持ちが深ければ深いほど、相手の同様な祖国愛を大切に・・・」することができると。
この二番目の愛国心に意義を唱える人は少ないだろう。私もこれには賛成です。ここで最初の議論に戻るのですが、それを育てるためには、ただ祖国の自然や文化や伝統や情緒を、大切にしてそれを子どもたちに伝えていけば良いだけではないだろうか。それらを、国が素晴らしいものにしていけばいいのである。恋人は、恋人自身が素晴らしいから愛されるわけで、愛されるためには自分で素晴らしくなればいいのであって、「愛せ」と強制はできないことと同じことだ。
ところがここに来て、なぜ「愛国心」を、教育のなかで強調し、それを道徳かなんぞの教科のなかで教えようとするのでしょう。もしかして国家のために自分の命を捧げることが、最も素晴らしいことだと考える子どもを育てようとする、すなわち国家の兵隊を作るための布石ではないでしょうか。なぜなら前述したように、その意味と実行を、教室の中で追求していけば、(宗教団体が、会合のなかで自分たちの愛について深く考えると同じように)国を愛する極限は、自分の命を国に捧げることなのだとなっていくからです。
そんな風にわたしは考えました。でもここに述べたことはまったく個人的な、思考の遊びに過ぎません。間違ったことも多いかと思いますが、これは私的な日記ですので、物言わぬは腹ふくるると言いますから・・・。
投稿者 kinu : 2006年04月13日 16:12