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2006年05月31日
ムクドリが巣を作る
ジャージャーという鳥のしわがれ声が、何日か前からときどき聞こえ、特に昨日から騒ぎ立てるというほどになっていたので何だろう、カケスかなと思っていたのだった。ところがお隣さんの戸袋に巣があるらしく、親鳥が餌を運んでいるのを見たという話をごみ捨てに行ったときに聞いた。
「ほらほら、あそこにいる鳥・・」と言われてみると、雀よりも大きい鳥が2羽(夫婦であろう)、付かず離れるず飛び交っている。ここは北斜面になっているので、お互いの家何軒かが見通せるようになっているが、最初に見つけた人は道路かららしい。
その家は私の家の南側にあり、庭に出るとその雨戸も戸袋も見えるので、盛んにしわがれ声を上げているとき急ぎ出てみると、我が家と並んだ東隣の家のテレビのアンテナに止まって、巣のあるらしい南隣の家の雨戸に向かってジャージャー鳴いている姿が何度か目撃できた。たしかに橙色の嘴と脚が特徴の、ムクドリである。お隣さんは息子さんたちが独立して家を離れているので、二階は普段は使わずに雨戸も閉め切ったままなのであった。ところが昨日、お世話をしにやってくる人が気を利かせて雨戸を開けて風を通そうとしたらしく、雨戸が開いている。それでムクドリとしては思いがけない事態が出来したわけで、大騒ぎしているらしいのである。お隣さんはこれまで気が付かなかったのである。
これらがはっきりするまでの経緯は省略するが、とにかく巣も雛も今のところは無事のようで、お隣さんもそれらが巣立つまで、その雨戸には近づかないようにすると言うことになったのであった。
雛や巣を守ろうとするときの親鳥の剣幕は相当なものだ。攻撃心も生じるらしく、我が頭上の屋根の上を音立てて、慌てて飛び去るものがいると思うとカラスだった。どうもムクドリが怒りをそちらに向けたのではないかと、その姿も見えたようなので、私はそう解釈したのだったが・・・
雛が無事に巣立つ日はいつだろう・・・と、見守っている家がこのあたりに何軒かあるわけだ。
2006年05月30日
映画『プライドと偏見』を観る
この映画は見たいと思いつつそのままになっていたが、幸い近くの館にやってきたので出かけていった。
私には非常に面白く、楽しく、いろいろ感じ、考えさせられることが多かった。
ジェーン・オースティン原作『高慢と偏見』は読書会でも取り上げたことがあって、その時アメリカで暮らした経験のある人から、これは向こうでは時代に関係なくベストセラー的な人気のある作品だというコメントが出たが、なるほどということがこの映像を見てよく分った。中心にあるのは、人間の誠実と真実の愛の物語であり、背景となるのはフランス革命の余波が押し寄せている18世紀末のイギリスの田舎町、爛熟のきわみにある上流社会と新興の市民階級のハザマに位置する、中産階級の一家が舞台となっている。
漱石がイギリスに留学するのもこの頃で、すなわち大英帝国の絶頂期(というのは衰退を内臓)にあたる。
昔読んだ時、題自体がよく理解できなかった。原文は「PRIDE & PREJUDICE」。映画では今日本でも普通になったプライド、いわゆる自尊心が使われているが、これのほうが適切だと思う。それが嵩じると、高慢になるのであるが。誰しもプライドを持っている。それが自立の発祥地点であり、それを確立することが個人として自立することだろう。しかし制度や環境によってそれがもてなくなる、または潰されることがある。
田舎の中産階級のこの一家は、夫婦と年頃の5人の娘から成っている。当事、娘には相続権がなく、たとえ今相応の財産があり裕福に暮らしていても父親が死ねば、一家は路頭に迷うことになるのだそうだ。こういう今では考えられない理不尽な法律が厳然としてあったのですね!(ここでも父の死によって相続権を持つことになる遠い親戚の甥が登場して、一家に自分の権威を見せびらかす)。
ですからそうならないためには娘たちに一刻も早く財産のある夫を与えなければならない。だからまた、娘たちの関心は、夫にふさわしい男をいかに見つけるかが最大の関心事とならざるをえない。
その中で次女のエリザベスだけは読書を好み(当事女は読書などはしない方がいい、ピアノ、絵画、ダンスといったブルジョワ女性の花嫁修業が大切)変わっていて、それらの常識に批判的で、すなわち自分の意見をしっかり持っていて、それをはっきり口にするいわゆるプライドの高い女性として登場させるのである(もちろん作者の分身でもある)。そして同じように階級社会という枠組みと常識の中に住む男たちの中での変わり者、ダーシーという上流社会の男を登場させ、最初は互いに誇り高いがゆえに反発し、誤解するのだが最後は互いの誠実さと真実の愛を認識し、階級を超えて結ばれるという結末だが、そこに至るまでのさまざまな事件によって当時の階級社会の有様、さまざまな理不尽、その暮らし、またその素晴らしさと愚かさなどについて映し出される。
すなわちそういう階級制度に縛られた社会の中で、自分のプライドを大切にした二人の男女が、その枠組みと闘いながら、それを超えて結ばれると言う、個性の自由と発揮をテーマにした物語であると読み取ることが出来る。
ここでは一人の男と女の、プライドと偏見だが、それは多分当時の階級社会へのそれを暗示し、象徴として描いているのではないかと、この映画を見たときによく判ったのだった。文字だけではなぜかしっくりと行かなかった。なぜならそれを日本の風土と社会の中で理解するしかないのだが、それでは良く分らなかったのだと思う。
漱石も確かオースティンに興味を示していて、最後に作品『明暗』のヒロインお延をそのような自立しようとする女として描こうとしたとか? こういう説を聞いたことがあるが、不確かなので断言はしないで置こう。こういうことを思ったのも、文字だけでは読み取れなかったのは私の浅学のためだが、映像の力を感じた。
ある小説を読む時、そのバックとなる社会や文化と言う土壌を知らないでは理解できないことがある。例えば谷崎の『細雪』(これも4人姉妹の結婚にまつわる話なので)、これも船場と言う土地やそこでの裕福な商家やまた日本の風土について、多少の知識がなければその面白さが味わえないように、この小説も映像で、田舎のブルジョワから一流の貴族の館や領地(全て今残っている館など実際のものを使ったと言う)を舞台にしているので、ストーリーや人々の会話が臨場感を持って初めてその面白さが理解できたような気がした。
最後に、これを見ながら感じたことは、言葉と言うものの使われ方の彼我の違いである。社交も恋愛も、また家族の間の交流も言葉によるのだと言うこと。何と言っていいかわからないのだが、言葉のあり方が日本とは大きく違うことが感じられたのである(当然だ、いまさら何をと言われるだろうが、)。なぜかひどくそれを感じた。
次にイギリスの階級社会というもののすごさと言うか、文化の厚みと言うか、日本とは桁違いの大きさ重厚さを感じた。日本の階級制度が紙と木で作られたものだとしたら、あちらのは固くて大きく重い石で作られたもののような気がして、これを壊すにはやはりフランス革命のような強烈な嵐が必要だったのかもしれない、それでもまだ壊れていない部分もあるのだからなどと考えた。
少々纏まりのない文章になったが、浮かんでくるあれこれを言わぬは「腹ふくるる気」がするので書きとめることにします。
2006年05月24日
懸念される「台峯緑地」(2)
今回は、この地の動植物やその生態に詳しい野鳥の会の会員で、いつも先頭に立って案内してくださっていたKさんが、珍しく風邪でダウンとかで、他の理事の人たちもちょっと慌て気味だった。初参加の人も多かったので、持参したこれまでの資料をひろげたりして、案内、説明を買って出てそれぞれ懸命にカヴァーしてくださっていたが、やはり全体がバラけた感じになったのは仕方ないことであった。しかしそのためにこの地で生まれ育った人や幼少期を過ごしたりした人の、これまでの短い歩行の中ではなかなか耳に出来なかった昔の話や意見が聞けて、とても面白かった。
今でこそ私たちは軽い気持ちで山を歩き回っているが、明治以前はそうではなかった。
だから『日本奥地紀行』を書いたイザベラ・バード(英国女性の探検家)が、東北の山中を歩き回った時はまさに奇行そのものに見えたにちがいない。
昔の日本では高い山は、霊山として信仰の対象であり、普通の人間は立ち入ることが難しく、修業としてか、又山伏のような行者しか入らなかった。山岳登山が日本に普及し始めたのは、上高地を開いたウエストンから始まる。すなわち高い山という偉大な自然を征服したり、興味の対象とする気持ちがなかったからだろう。
それに対して身近な低い山、すなわち里山は、人の暮らしと密接に結びついたものだった。里山は人あって成り立ち、また人は里山があって成り立っていたのであろう。村人たちは、里山と生活を共にしていた。子どもたちもその中で遊んだ。田んぼも畑も、家でさえ、山の恩恵を受け、同時に山も人から世話をされ、豊かになっていったのである。人は山に包まれていた。
今回も自動車道路を歩いて台峯へ向かっていた時、一台の建設会社のトラックとすれ違った。藁のようなものを満載していた。藁ではなく、カヤ(茅)だとのこと。どこから刈り取ってきたものだろう。茅葺きの家などはもう高級なものになってしまった。しかしまだ収穫できるところがあるのだなあ・・と面白く思いつつ見送った。
先日、TV番組「ダーウインが来た! はばたけ!イヌワシ大五郎」(5.21放映)を見た。
大型猛禽類イヌワシの生態を追ったものだが、今絶滅の危機にさらされている種という。イヌワシは蒙古などの草原に多く棲息する鳥だが、日本では岩手県の北上高地に400羽ほどしかいない。それが絶滅しかかっているのは、実は原生林などがなくなったからではなく、岩手で盛んだった牧場が次々になくなっていったからであるという。すなわち人間が原生林を切り開き、牧草地にしたために、そこで生きることが出来るようになったのであるが、酪農不振のため牧場は封鎖され、放置された結果、草は丈高くなり、樹木は茂り、自然が一見甦っていくように見えるけれども、かえって王者の風格を持つイヌワシは、狩りが出来ずに絶滅の運命を辿ろうとしているのだという。これまでイヌワシは、まさに人と共に生きていたのであった。
人と緑、自然との関係は、非常に根が深く複雑で、難しい問題だとつくづく思う。
台峯についてもそれに似たことがいえる。ここではこの台峯についての具体的な話については、書ききれませんでした。それで、もう少しだけこの場所についてお喋りをさせてもらいます。
2006年05月22日
懸念される「台峯緑地」(1)
昨日の日曜日、気温は高いものの爽やかな晴天、月例の「台峯歩き」に参加した。
ここが残されることは朗報だが、思ったとおりいろいろな問題が起こってきたようだ。
今、市は「基本構想案」を出してきて、それを市民、市民団体、業者とで協議しているところだが、その様子を聞いていると、懸念事項があれこれ出てきたように私には思われた。
その中の2つを挙げてみたい。
1つは、市が緑地として指定したからにはそれを整備、管理、公開しなければならないから仕方ないにしても、出入り口には駐車場や整備・管理棟、又内部にはベンチや標識などいろいろが設置されるわけだが、なんと言っても小さな池(周りの崖からの絞り水で成り立つ)とそれに続く湿地帯とせせらぎ、それを囲む尾根筋だけの狭い中に、それらが設置されるだけでもこの微妙な地勢の中には負担であるような気がする。これまで出入り口は、自動車道路から直ぐだが、駐車場がないので徒歩でしかここには入って来れない。又バス停や電車の駅などからは離れているので、この地味な自然をわざわざ見に来るのは、主としてよほどここに興味と関心がある酔狂な人、すなわちこの会を立ち上げた人たちのような人とか近隣の人だけだったのである。しかし駐車場が出来れば、車でくれば直ぐ緑地に入れる。
残された貴重な緑地というだけでやってきて、ああそうかとサッと眺めて、サッと帰って行く人たちも来れるのである。しかしここには観光の目玉になるような面白い見ものはないのだ(実はそうではないが、それは後に言います)。それでも彼らはやってくるだろう。
2つ目は、1とも関連するが、ここと尾根続きに隣接する「中央公園」との関係である。
公園の一部として組み込むのが行政としては一番やり易い。しかしそれではまったく残す意味はなく、市民団体としては決して同意できないことだろう。それは説得できるとしても、今切実な問題は、その公園とつなぐ道路の設置場所であるという。
市と業者の案としては、今でも険阻ながら尾根を越えて公園へ辿る隠れた細道があり、それを拡幅整備して正式な通路としたいとのこと。しかしそれはここの心臓部にあたる池のど真ん中に降りてくることになる。体験学習も出来る相当に広い、しかし整備された公園から、ちょっと足を伸ばせば直ぐここに入ってこれることになる。それはどういうことを意味するか。
大勢の人が簡単に入ってこれるということだけでなく、そういう人たちの侵入が、「歩く会」の人たちも踏み込まない(案内の人が決して踏み込ませない)、それほどその周辺には気を使っているその場所に、大きな影響を与えることは確実だからである。そうするとこちら側に渡る橋も架かるだろう。
実はここはもう少しすると、ホタルが見られる。平家ホタルと源氏ホタル、2回にわたって発生するのである。去年は台風などがやってきたため少なかったが、例年ならたくさん身の回りに飛ぶのだそうだ。(私はまだ見ていない、今年こそ見ようと思っているのだが・・・)。八幡宮でも見られるがあちらはよそから連れてくるが、ここは自然発生・・・という。
又ここではカワセミも見られる。ということなどが知られるようになったら、そして池に下りる道路が整備されたら、そしてまた車で簡単にここに来れて、緑地に入れるようになったら、橋や岸からそれらを狙ってカメラの放列が・・・・とイメージさせられると、ボランティアの幹部の一人が呟いた。
今でもここの出口(反対からだと入り口)から中央公園には行かれるのである。ただ宅地造成された住宅地を大きく迂回しなければならない。少々遠いのである。しかし今でも、坂道だが昔からの道が残っている。そこにしてくれと言っているところだそうだ。それだと緑地の端っこだから影響は少ない。そうなることを祈るほかない。
ここに入ろうとしていたとき、私たちの後から団体がやってきた。100人ほどもいるだろうか、コンニチワと言いながら傍を通り過ぎていく。これまで出合ったこともない(私だけではないだろう。グループにもこれまで会ったことがなかった)大勢の団体に、唖然としながらも、自分たちも同じく立ち入っているのだから非難は出来ないので、ニコヤカに挨拶を返しながら見送ったのであったが。今でも、もうこうである。
この会は、池のある谷戸に入る前に、帽子は取って、(入らせてもらいますと)お辞儀をして、入ることになっている。しかしそういう習慣、礼儀もまもなく旧習となっていくことだろう。
2006年05月20日
「吉屋信子展」とバラ園
もう梅雨に入ってしまったのでは・・と思わせる日々だが、今日の新聞でもこのところの日照時間は平年の5〜7割とかで、入梅も早まるか? と出ていた。
昨日も午後遅くから雨となったが、その前は薄日が射したりして出かけるには快適な日であった。
「港が見える丘公園」のバラ園も見ごろだろうと思って、近代文学館に出かけた。
吉屋信子は幅広い読者層の人気を得ていた女性作家で、少女小説から始まって家庭小説、歴史小説へと幅広く活躍したが、文学全集などには入ってはいない。私も少女小説以外の作品は読んでいない。いわゆるベストセラー作家で映画や演劇にもなったので、作品そのものを読みたいとは思わなかった。しかし最近は田辺聖子「ゆめはるか吉屋信子」の著書などもあって、関心と興味が湧いていたのだった。
会場は生涯を6部に分けて展示されていた。
1部 生い立ち
2部 「花物語」の誕生
3部 「女流」の主役へ
4部 戦場へ
5部 新たな境地へ
6部 歴史小説の大河
後年、ベストセラー的な作家であった丹羽文雄からもその稼ぎ振りを羨ましがらせたほど(展示資料による)の人気作家となったのは、もちろん本人の才能と努力によるものだが、バックに時代があったような気もする。それが3部によく表れている。
すなわち吉屋を作家として成長させていく過程に、近代史に名を残して行く女性たちとのかなり密な交流が見られるからである。平塚らいてう、岡本かの子、山高しげり、宇野千代、長谷川時雨、林芙美子など。特に宇野千代とは親密で、大森時代には近所に住んで行き来があり、男っぽく冷静で几帳面な信子と、女らしく情熱的な千代とは、正反対な性格であったため晩年まで「仲良し同士」であったという。千代はお喋りで、そのお喋りによって信子は「女」を教えてもらったという(資料による)。その千代の3度目の夫だったか、北原武夫との結婚式の仲人に吉屋と藤田嗣治がなっていて、その記念写真に同じ独特なオカッパ頭を二つ並べているのを見て可笑しかった。閑話休題。
とにかく当時の男性社会に立ち向かって行った女性たちの熱気に満ちた友情のあり方が窺われて、楽しくもまた羨ましくもあった。
それは会場に入るとき、又出てからも眺めて通るバラ園の豪華なバラの競演を思わせるものがあった。
大輪のものから「姫」と名づけられた小さく可憐なものまで、バラはこれからが見頃という感じで色と香りに満ちていた。
長くなるのでこれだけで止めるが、吉屋が女学校に入学した時に校長が力説したこと、「女性はその貞節を死をもっても守らなければならない」という言葉に、「それではどうして社会は公娼制度をみとめているのですか」と立ち上がって発言しなかったのだろうかと、日記に書いている。そういう気持ちはずっと心にあって、後にベストセラーになった「良人の貞操」もそんな気持ちから生まれたのだろう。
「女の戦争責任」ということも問題になるが、それはここでは手に負えないのでやめます。
今日も朝から晴れて気温も高く蒸し暑くなっていたが、急にバケツをぶち開けたような雨と風、久しぶりに横浜がホームランを何本も打って西武に快勝しつつあり、いい試合であったのに中断で残念。
世の中も気象も狂っていくようだ。
2006年05月12日
忍びの者<筍>との戦闘結果報告
このところ梅雨の走りのような日々が続いたが、今日は薄日が射したりする曇りだ。庭を見回っていて驚いた。今盛りのツツジの花の真ん中に、ニョッキリと青竹が2本突きでている。どちらも2メートル以上に育っている。慌てて折り取ったが根元はもう固くなりつつあるので、鋸を持ち出した。
植物の成長には驚かされるが、竹には驚嘆する。筍が出始めると毎日のように注意して見回っているのだが、物陰に隠れていたり、思わぬとろころから出てきたりして、目を眩ませられるのである。まさに忍者である。
竹(孟宗)にとっても、ここに生えさせられたのは不幸である。なんといっても狭い。1坪余りほどの細長い斜面に幾つかの花木・草花と同居させられている。そこにはすでに25、6本ほどの先輩がひしめき合っている。そこへ若竹となって育とうとしても到底無理なのである。そこで出てきた筍は人間に食べられてしまうか、捨てられてしまう。
そんなわけで、人間、わたしの筍収穫成果の報告をさせていただくことにします。
筍だけが私にとって自給自足できるただ一つの農作物?である。しかし「筍掘り」ではなく「筍採り」しか出来ない。本当の筍は、頭の先が地面に出たか出ないうちに特別なスコップを差し込んで、根元から掘るのだそうだが、ここでは完全に姿を現したときに、地面の上の部分だけを切り取るだけ、その方法しかできないのである。そのとき私は、出刃包丁を携え持って行き、ぶすりと根元に差し込んで採る。
今年は寒かったので例年よりすこし時期が遅れたように見えたが、それでも4月21日が初取りだった。
先ず我が家で食べ、それからはご近所に配る。ふかふかした地面の中で育ったものではなく痩せ筍だが新鮮なだけが取り柄。竹の風味も歯ざわりもあって柔らかいので、皆喜んでくれる。友達には運良く出会う日の朝、運良く筍が出ていたら、それを直ぐ茹でて、持って行ってあげるのだが、なかなかタイミングが合わない。筍掘り、いや筍採りに訪れる友は、今年2人だった。持っていって賞味してもらえたのは1人だけだった。近所では今のところ6軒に配っている。
記録を集計すると、なんとミニ、小、中合わせて人の口に入ったもの30数本に上り、伸びすぎたり細すぎたり、先端が出たところを踏みにじられたりしたものも10本ほどで、計40本は出てきているこことなります。
これからは本来のところでなく、遠隔地に侵入したものがときどき顔を出しなどするでしょうが、もう季節は終わりつつあります。次は、裏にある黒竹のシーズンで、しかしこれは孟宗竹とちがって食べられないから、ひたすら退治するだけである。こう書くと竹ばかりの庭のようですが、そうですね、確かにここは雀のお宿といった感があります。
2006年05月10日
『つむぐ』2号のフリー・トーク
先日の8日(月)に『つむぐ』2のフリー・トークがあり、参加してきました。
鈴木ユリイカさんが発案し立ち上げた『集』1号が、2号では『something』2とこの誌に分かれたようで、私はどちらからも参加のお誘いがあり、断る理由が無かったのでどちらにも作品を出したのでした。
この誌は同人誌ではなく、その号その号で自由参加の形をとり、 作品も3ページ分まとめて出せ、しかもエッセイも1ページあるので、各自がちょっとした自分の世界が造れるようになっています。定期刊行とか入会制度といった縛りも無く20人ほど集まれば出すというような、しかもその目的は、新たな可能性を探るという冒険心もあり、記録としての継続性を考えているという個性の自由と独立の趣旨が感じられたので好ましく思ったのでした。
私自身としても良いタイミングでした。このあたりで詩集を造ろうかと思いながら、考えた末に結局取りやめようとしていたところで、これを機会に両方にその中からの何篇かと新作を取り合わせて発表することによって、一区切りつけようと考えたからでした。
それで出版を機とした双方の会合に、出席することになったのです。
どちらも知らない方が多く、また名前だけ知っていて初めて会う方もあったのですが、それぞれに熱気があり、私にとってはとても刺激になりました。
こころざしというか目指すところが高く、また企画がユニークな場合、その遂行は困難な面があり、それを具体的に実行する場合、お互いにしっかりした個性があればかえって衝突があったり意見が食い違ったり行き違いがあったりするもので、悲しいことですが分かれてしまうということにもなるのだと思います。
けれども最初に旗揚げを考えた時は心は一致していたことでしょう。そのことは、両方に出席してよく分りました。どちらも同じところを目指しているように感じられました。そしてそれへの熱烈な思いもあり、それぞれ皆さまざまに勉強し実践し活躍されていて、怠惰な私は恥ずかしくなるばかりでした。
なぜ分れることになったのか詳細は知りませんし、またそれぞれに言い分があるのだと思いますが、参加してみるとそれぞれ雰囲気や色合いの違いがやはり少し出てくるように感じられました。
たとえば『something 』の集まりでは、作品が主体で時間内にびっしりと朗読が繰り広げられ、ユリイカさんの寸評も詩作品の深層に踏み込んでいこうとするような感じがしたのに対して、『つむぐ』では朗読もありましたが主としてフリー・トークで、「漢字」と「やまと言葉」の考察など評論めいた話が出たりして、高良留美子さん、しま・ようこさん、渡辺みえ子さんなどがいらしたせいか社会的な広がりも感じさせられました。しかしこれはあくまでもその号の参加者によるところが大きいわけで一概には言えませんし、またどちらも程度の差であって、共に共通することには変わりありません。ただどちらも参加者の熱気を感じ、私もそれに励まされる思いで帰ってきたのでした。
これらを見ると、その分裂をマイナスと考えるよりプラスに考える方がいいのかもしれないな、と思ったのです。分裂を増殖と考えれば、それは良いことだからです。原理主義からいえば、それは変節や裏切りであったりするでしょうが、大乗的な考えからは大きく豊かになることだからです。原理主義というのは一種の男性思考であって、女はそんな風には考えないのではないでしょうか。世に中ではよく運動が分裂すると、互いに敵対し、自分たちだけが正当だとし、本当の敵よりも憎しみ合うようなことが良くありますが、あれはまったくオトコの思考だと思わせられます。それぞれの会でもそんな風には相手を決して思ったりしてはいないようで、現実としてこうなってしまったのだ、という風に思っているように感じられたのです。ですからその時によっては、あちらに行ったりこちらに来たり、また時には合同でやったり、そんな自在なやり方だっていいのではないか。それが大きく豊かに末広がりになっていくことで、それがオトコにはなかなか出来ない、オンナの思考ではないかと思ったりしたのでした。
少々理屈っぽく論じてしまったのでこの辺でやめますが、とにかくそれぞれに刺激的で楽しい集いでした。ユリイカさん、スタッフの皆さんありがとうございました。そんなことより、作品を書かなくちゃあ・・・
2006年05月02日
下駄と草履
何という気象だ! 昨日は30度を越す真夏日の所ももあったのに、今日はまた寒くなった。
余りに暑いので昨日半袖のTシャツを着て、やはり腕が寒くなったりしたが、今日はまた長袖ウールシャツに変え、ホットカーペットや電気ストーブまでつけたりしている。しかも午前中から雷雲湧き出て、雨となった。
今日の新聞に、日本国際賞を受賞した英国の元気象局長官の話が出ていた。それによると地球温暖化を暗示する異常気象の原因は、「人間の活動です」とはっきりと言い切っているという。天に向かって吐いた唾が、私たちの身に振りかかっているのでしょう。
私は庭を歩いたり、ポストなど近所を歩く時は草履を履いている。これは気持ちのいいものです。しかし今日のように雨が降ると履けません。今朝も雨の中をカン・ビンを出しにいったのですが、そんな時は靴を履くのですが、最近は下駄で行くこともあります。でも急な坂になるとちょっと歩きにくいのですね。昔の人はよくこれでうまく歩いたものだなあと感心します。
激しい雨だと下駄ではダメですね。昔は高下駄というのがありました。つま先が濡れないように爪皮(つまかわ)というのをつけました。子どもの頃、下駄で過ごした経験を持つので覚えがあります。革靴などは高級品で、お金持ちしか持っていませんでした。
下駄は気持ちのいい履物ですが、音を立てるのでちょっと目立ちます。ハイヒールの音はコツコツといかにもキャリアウーマンの颯爽としたイメージがしますが、下駄はカタカタとかカランコロンとかいかにも長閑です。そんなことを考えていると、イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を思い出してしまいました。このブログにもかつてその面白さ、素晴らしさについて書いたのですが、その中の一節です。とにかくこのイギリス女性の奥地探検家の観察眼は詳細で鋭く、しかも先入観も優越感も持たない態度には好感が持て、明治の初めの近代化が始まろうとした頃の日本人の姿がビジュアルに描かれていてとても面白いのですが、彼女が横浜に着き、東京に近づいてきた時の記述です。駅に降りて彼女がびっくりしたことは、下駄の音だったということです。
「合わせて400の下駄の音は、私にとって初めて聞く音であった」と書きます。200人が汽車から降りたのでしょうが、その音がとても印象的だったようです。都会でもその頃は皆下駄をはいていたわけで、この下駄の音の印象については彼女だけでなく、いろいろな外国人が書いているそうです。確かにそうですね、今想像して見ると面白いです。それにこの下駄の音は個性が表れ、その音だけで誰が来たか分ると思います。荷風の小説にも「日和下駄」がありますね。
ついでに書くと、それを履いているから日本人は背丈が高く見えるとも書かかれており、つまり私などは下駄を履いた方がいいのですね。もっとついでに書くと「和服はまた、彼らの容姿の欠陥を隠している。やせて、黄色く、それでいて楽しそうな顔付きである」と。その通りで、イザベラの女らしい観察だが、日本が好きで、この国こそ楽園だと言い放った彼女の温かさが感じられる。また子どもについて「子どもたちは、かしこまった顔つきをしていて、堂々たる大人をそのまま小型にした姿である」とも。これはなぜか、想像してみてください。
最後にもう一つ、東京(江戸)に近づいた時の記事、
「品川に着くまでは、江戸はほとんど見えない。というのは、江戸には長い煙突がなく、煙を出すこともない。寺院も公共建設も、めったの高いことはない。寺院は深い木立の中に隠れていることが多く、ふつうの家屋は、20フィート(7メートル)の高さに達することは稀である」と。
その江戸は人口100万の、世界で一番大きな都会だったのである。ロンドンはその3分の1、しかなかったといわれる。見えなかったのは煙突が無かった、すなわち工業化されていなかったのである。その頃ロンドンは、世界で最初の公害で苦しんでいた。そこに漱石が留学のために派遣され、神経衰弱になって帰国した。近代化に対して、彼は疑問を呈している。近代化のお蔭で私たちは快適な生活を享受している現状であるから、なんとも言えないけれども・・・・。
昨夜のTV番組で、日本の故郷とも言える山村の風景、棚田や古い民家、茅葺き屋根が次々と無くなっていく様が報じられていた。近づかなければ見えなかった、木立に囲まれた世界一の大都会だった江戸、その生活こそが今考えればエコロジー的都会であり、それゆえに山村の豊かな自然も文化も存在しえたのかもしれない。郷愁に過ぎないとは思いながら、感じたのであった。