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2006年05月10日
『つむぐ』2号のフリー・トーク
先日の8日(月)に『つむぐ』2のフリー・トークがあり、参加してきました。
鈴木ユリイカさんが発案し立ち上げた『集』1号が、2号では『something』2とこの誌に分かれたようで、私はどちらからも参加のお誘いがあり、断る理由が無かったのでどちらにも作品を出したのでした。
この誌は同人誌ではなく、その号その号で自由参加の形をとり、 作品も3ページ分まとめて出せ、しかもエッセイも1ページあるので、各自がちょっとした自分の世界が造れるようになっています。定期刊行とか入会制度といった縛りも無く20人ほど集まれば出すというような、しかもその目的は、新たな可能性を探るという冒険心もあり、記録としての継続性を考えているという個性の自由と独立の趣旨が感じられたので好ましく思ったのでした。
私自身としても良いタイミングでした。このあたりで詩集を造ろうかと思いながら、考えた末に結局取りやめようとしていたところで、これを機会に両方にその中からの何篇かと新作を取り合わせて発表することによって、一区切りつけようと考えたからでした。
それで出版を機とした双方の会合に、出席することになったのです。
どちらも知らない方が多く、また名前だけ知っていて初めて会う方もあったのですが、それぞれに熱気があり、私にとってはとても刺激になりました。
こころざしというか目指すところが高く、また企画がユニークな場合、その遂行は困難な面があり、それを具体的に実行する場合、お互いにしっかりした個性があればかえって衝突があったり意見が食い違ったり行き違いがあったりするもので、悲しいことですが分かれてしまうということにもなるのだと思います。
けれども最初に旗揚げを考えた時は心は一致していたことでしょう。そのことは、両方に出席してよく分りました。どちらも同じところを目指しているように感じられました。そしてそれへの熱烈な思いもあり、それぞれ皆さまざまに勉強し実践し活躍されていて、怠惰な私は恥ずかしくなるばかりでした。
なぜ分れることになったのか詳細は知りませんし、またそれぞれに言い分があるのだと思いますが、参加してみるとそれぞれ雰囲気や色合いの違いがやはり少し出てくるように感じられました。
たとえば『something 』の集まりでは、作品が主体で時間内にびっしりと朗読が繰り広げられ、ユリイカさんの寸評も詩作品の深層に踏み込んでいこうとするような感じがしたのに対して、『つむぐ』では朗読もありましたが主としてフリー・トークで、「漢字」と「やまと言葉」の考察など評論めいた話が出たりして、高良留美子さん、しま・ようこさん、渡辺みえ子さんなどがいらしたせいか社会的な広がりも感じさせられました。しかしこれはあくまでもその号の参加者によるところが大きいわけで一概には言えませんし、またどちらも程度の差であって、共に共通することには変わりありません。ただどちらも参加者の熱気を感じ、私もそれに励まされる思いで帰ってきたのでした。
これらを見ると、その分裂をマイナスと考えるよりプラスに考える方がいいのかもしれないな、と思ったのです。分裂を増殖と考えれば、それは良いことだからです。原理主義からいえば、それは変節や裏切りであったりするでしょうが、大乗的な考えからは大きく豊かになることだからです。原理主義というのは一種の男性思考であって、女はそんな風には考えないのではないでしょうか。世に中ではよく運動が分裂すると、互いに敵対し、自分たちだけが正当だとし、本当の敵よりも憎しみ合うようなことが良くありますが、あれはまったくオトコの思考だと思わせられます。それぞれの会でもそんな風には相手を決して思ったりしてはいないようで、現実としてこうなってしまったのだ、という風に思っているように感じられたのです。ですからその時によっては、あちらに行ったりこちらに来たり、また時には合同でやったり、そんな自在なやり方だっていいのではないか。それが大きく豊かに末広がりになっていくことで、それがオトコにはなかなか出来ない、オンナの思考ではないかと思ったりしたのでした。
少々理屈っぽく論じてしまったのでこの辺でやめますが、とにかくそれぞれに刺激的で楽しい集いでした。ユリイカさん、スタッフの皆さんありがとうございました。そんなことより、作品を書かなくちゃあ・・・
投稿者 kinu : 2006年05月10日 14:28