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2007年12月16日
「オペラ・アリアと第九」を聴きに行く。
風邪をひいてしまったがマスクをして、恒例となった「第九」を、上野の東京文化会館に聴きに行った。
東京コール・フリーデ第30回記念演奏会で、30回ということから、パンフレッドにはその歩みが振り返られている。それをここに、ほんの少しだけ紹介します。
この合唱団は東京都の職員たちによるものだが、そのきっかけは、パブロ・カザルスが国連総会の場で、ステージから呼びかけた言葉
「平和のへの祈りとして、ベートーベン(第九)終楽章をオーケストラと合唱団を持つすべての都市が、 同じ日に演奏しようではありませんか。これが実現する日が,世界から戦争がなくなる日だから」
というメッセージを、昭和33年、ラジオで聴いた音楽愛好家が都庁に居たことからドラマが始まったという。
その頃職員の都と区の分断が行われ、クラブ活動も両者に分けられることになったが、このとき前述したカザルスの言葉に感動した人(石葉鴻)が、この「第九」を都と区の職員が一緒になって歌いましょうと呼びかけたことから始まったようである。それを最初は労働組合が後押ししたり指揮者渡辺暁雄氏の肩入れやらを受けながらも自主的に全員で力をあわせ、練習場や時間、資金繰りにも苦労しつつ、次第に成長していく。そして団員も固定したものではなく、ちょうど木々が葉を落とし新しい葉や枝を加えつつ伸びていくように育っていったようである。
共演オーケストラも日本フイル、群馬交響楽団、、東京ユニバァーサルフイルなどと組み、今回は東京シティ・フイルハーモニック管弦楽団であった。そして最近は第九のソロを歌うプロのソリストによる「オペラ・アリア」が加わるようになり、それが次第に年末の風物行事としても定着してきたようである。
そこで今回は、第一部は、ビゼーの歌劇「カルメン」から序曲<闘牛士の歌>(バリトン:成田博之) <花の歌>(テノール:福井敬) 間奏曲<何が出たって怖くない>(ソプラノ:塩田美奈子) <恋は野の鳥>ハバネラ(メゾ・ソプラノ:秋葉京子)であった。
合唱指導も今は3代目、前回も書いたと思いますが伊佐地邦治氏で19年目という。忙しい中での熱心な指導で、減少しつつあった団員も今回は200人を越えたようである。メンバーも高校生からかなり年配の人までと幅広いそうだが、少ない練習時間を効率的に集中してプロに対応できるまでに歌いこまねばならず、それぞれ今日は記念すべき晴れの日になるにちがいない。その熱意が伝わってくる。
名称も「都区職員第九を歌う会」であったのを、今の名前に変えたのは4回公演後で、「東京コール・フリーデ」とはドイツ語でコール(合唱)、フリーデ(平和)を意味する。
そして終演後の舞台上の解団式(毎年結団式と解団式をやるようである)で、伊佐治氏の今こそこの第九の精神、平和と平等と人類愛を・・・の願いが切実な時であり、これを歌い上げ若者たちにも訴え伝えたい、というスピーチに頷きながら、来年もこれを平和の中でこれを聴きに来られるようにと願いつつ帰途についた。
紅葉は少し遅れていて、銀杏が今盛んに金色の落ち葉を散らしていた。
2007年12月12日
民芸「坐漁荘のひとびと」
昨日の新聞にこの劇評が出てしまったので書きにくくなりましたが、ここに書かれていないことを少し書いていくことにします。
小幡欣治:作、丹野郁弓:演出のこの新作に対してはほぼ好意的な新聞評で「陸軍将校による二・二六事件を背景にした、女たちの外伝劇の趣がある」というのはなるほどと思った。西園寺公望(大滝秀治)の静岡の風光明媚な興津にある別邸(今は明治村に保存)を舞台にして、表舞台である政界の最期の元老と言われる西園寺と、その私生活の場に奉公する女たちを描くことで、その背後にある時代や社会情勢と同時にそれに翻弄される庶民の姿が描かれるからである。
昔、その屋敷に奉公していた元新橋芸者つる(奈良岡朋子)が、再び女中頭として奉公を要請されたことから話は始まる。小幡さんは昨年の同じ季節、ここで公演された「喜劇の殿さん」(古川ロッパを描いた物)でダブル受賞されたそうだが、最近は民芸での作品を多く書かれるようになった。東宝という商業演劇の大きな舞台で活躍していた氏が、新劇という地味で真面目な世界に帰ってきたことは、民芸にある種の面白さ、楽しさを引き入れた感じで、年末の三越劇場での公演に多いのも納得できる。今回も役者はそのほか樫山文枝、水原英子、鈴木智、伊藤孝雄ら多くの中堅が脇を固め、総勢20数名の華やかさだった。
時代は日本が戦争のへの道へ踏み込んでいく過程で、クライマックスは2・26の日、この別邸(西園寺は軍部の横暴に批判的だった)にも襲撃部隊がやってくるという報が届く所だろう。万一であってもその時はここで討ち死にする覚悟と言う西園寺に対して、犠牲になる女中たちのことを考えてくれと、つるは直言し、それを聞き入れ避難のために他所に移る。
その後屋敷では、最初は西園寺の替え玉などをこしらえたりはするものの、つるは最期は無血開城の手段を取ることに決める。すなわち随所にこのように男の硬直した正義と論理、戦いに走る男の姿を突き崩す女の眼を感じさせる。
小幡さんは戦争体験世代である。そして描く物は多く庶民である。英雄豪傑は書かない。それなのになぜこれを書いたかというと、そこで暮らす女中さんたちはどういう生活をしていたか、そして西園寺さんがどういう生活を、また交流をしていたかを知りたかったのだという。
最後の場面は、2・26の処分も終わり、戦争への暗雲が立ち込め始めた頃である。西園寺は高齢の身を押して、元老として最期の忠告(戦争をしてはいけないという)を直接天皇に申し上げようとしてステッキを手に、つるに支えられながら踏み出す。
新聞評では「最期の幕がうまく切り落とされていない」とあったが、ちょっと戯画化された終わり方(幕寸前)は面白かったと、私は思う。
演出の丹野さんは、この男の世界と女の世界とが絡み合っていない気がしてそこをどうするか、悩んだという。その結果、男と女の世界は、当然一本の糸にはならないこと気づいたという。それぞれが、あらゆる立場でそれぞれの戦いをしているのだ・・・と。
それで舞台装置では西園寺や執事、警備主任らの物語の場面が繰り広げられる応接間と、台所が舞台の正面の左右に並べられ、交互に展開していく形(片方に照明が当たっていても一方も動きがある)にしたそうだ。そうすることで、政治の世界がある一方で、つねに生活者の世界が一方にあるということを表現しようと思ったそうである。
舞台が跳ね、外に出るともう真っ暗だった。東京駅への人気も少ない道を、ビル街の芝生の星やトナカイ、街路樹などのキラキラした電飾を眺めながら帰途についた。これも私の最近の年末の一風景となったようだ。
2007年12月09日
博多うどん
昨日、民芸『坐漁荘の人びと』を観に行った。
年末の公演は、三越劇場となることが多い。大抵は東京駅から行くので、年末の駅の賑わいやビル街の年始にかけての装いなどを眺めながら、常盤橋のほうから歩いていく。
それでこの日のお昼は、久しぶりに東京駅南口の八重洲ビル地下街にある「博多うどん」を食べていくことにした。
昔九州から上京してきたとき、いわゆるカルチャーショックのような物を感じたけれど、うどんについてもその一つだった。東京のうどんは、汁の色が醤油色で濃い。向こうのは関西風に昆布だしで白っぽい。濃い、醤油だけで味付けしたような、うどんなどは○○が食べるような・・という風に差別語で軽蔑されるほどである。博多に、いや厳密に言えば福岡に帰ったときなど、何が一番食べたいかと聞かれると私は、「うどん」と答える。そして暫くはうどんばかりを食べ歩く。
「博多うどん」は健在だった。よくもこのような小さな、安いうどんだけしか置いていない店が、趣向を凝らし贅を尽くし、華やかな店が軒を連ねている中に生き残っているものよと思う。
正午を過ぎた頃だったが店は空いていた。土曜だからだろう。平日だといつも満席で混みあっている。たぶん近くの店員とか会社員が利用するからだ。いつも私は丸天うどんを食べる。丸天とは、さつま揚げのことで、その形の丸い物を指す。向こうでは、さつま揚げに類した物を天ぷらと呼ぶ。天麩羅も天ぷらである。さつま揚げも、「練り物」を揚げることでは変わりないからであろう。
しかしこの日は、ごぼう天にした。最近おでんにすることが多く、練り物を食べることも多くなっていたからである。ところが、「うどんだけですか?」と言われて、オヤ?と思いめぐらすと、厨房前に垂れ下がっている紙が眼に入った。ランチ定食というのが2つあって、Aが「博多うどん+いなり寿司」、Bが「ごぼう天+いなり寿司」とある。ああ、そうか。うどんは消化がいいので、男の人は大抵そのほか何かを取らねばお腹が持たない。
そういわれてみて、そのお稲荷さんも食べてみたくなった。ダイエットのことなどは考えないことにして、それを注文してみたのだった。これで740円(ごぼう天だけだと640円)。
天ぷらと名の付くものはこれだけである。かき揚げも、また値の高い海老天もない。一番高いのは鰊を載せたものぐらいだろうか。
このうどんの特徴といえば、特徴がないのが特徴というべきだろうか。讃岐うどんのように腰があるわけでもなく、姿だってどこにでもあるうどん、どちらかといえば柔らかく年寄りや子どもにには良い感じで、しいて表現すれば、しなしなつるつるした柔らかさで、なよやかな女体が湯船につかっている感じ。汁も始めはほとんど白湯ではないかというほどに薄いのだが、何度か口にしているうちに味がじわじわと広がってきて、いつまでもこのまま味わっていたい気分になるのである。それで塩分を考えれば汁は全部飲まない方がいいと思っても、最後の一滴まで味わいつくしたい気になるのである。
さて、食べにかかるのだが、かの地のうどん屋の特徴としてテーブルには丼くらいの大きさのすり鉢が必ず置いてあって、刻みネギが常に山盛りになっている。それをたっぷりとかけて食べる。もちろんここにも置いてあるのだが、皆白い。向こうでは青くて細い葱。香の良い、ビタミンもたっぷりありそうな細い刻み葱は白いうどんと見た目も美しいはずである。それに唐辛子の赤い色。
いなり寿司は、甘ったるくなく何となく家庭で作るような味であった。
とにかくうどんにしても稲荷寿司にしても、特別に目立つようなところはなく、贅も尽くさず洗練もされず、自己主張もなくといって卑下してもいない。淡々とした日常のような顔をしているのである。それはお袋の味なのかも知れない。だから時々食べたくなるのだろう
汁が白いものでは、有楽町の大阪のうどん、いわゆる、けつね即ちきつねうどん屋があって時々行ったが、無くなってしまった。新宿の紀伊国屋ビルの地階にも小さな店があるが、何となく落ち着かない。
またこの店には、学生食堂でも置いているようなチリ蓮華に似た木の匙のようなものもないので、熱い鉢を手で持ち上げて啜らねばならない。まあ町中の食堂という感じで飾りっ気もない。それゆえにきらきらした店に囲まれて気持が休まるのかもしれない。
地下街を抜けて駅の北口から地上に出て、常盤橋のほうに歩いて三越を臨む。銀杏が今黄金色に染め上げられ足元もまた落ち葉が散り敷いていた。師走なのに日ざしは暖かく風もなくその下に立ち、私はクリムトの画の中にいるような気分になりながら黄金色に包まれる。
公演については、次回に書きます。