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2008年07月29日
ミンミンやっと鳴き出しましたが・・
今朝、みんみん蝉が鳴き出したようです。でも何か心もとない感じもします。実は少し前にも一度声を聞いたようで、直ぐ鳴かなくなってしまったのです。
とにかくご報告まで。
2008年07月28日
真夏の祈り「ヴェルディ・レクイエム」の演奏会
連日、真夏日・熱帯夜が続いて、少々夏バテ気味です。
一雨あればと思っても降らない。しかし内陸では突風や大雨や、日本海側では洪水になって、死者まで出ているようで異常な夏。そういえばもう鳴いてもいいミンミンの声がしないのです。カナカナはかなり前から鳴いていて、その上なぜかツクツクの方が鳴きだしているのです。と思っていたら、今日、友人からの電話の中で、蝉が鳴きませんねと。皆さん所ではどうでしょうか。
サントリー・大ホールでのヴェルディ・レクイエム特別演奏会に行って来ました。アフター5でアマチュア合唱に力を入れている友人が、合唱団として出演するからです。努力の甲斐あって、だんだん難しい曲をこなすようになり、そして大きなホールにも出演するようになり、しかもプロのソロの歌手、管弦楽団と組んでなので、いつも楽しませてもらっています。
最初は景気付けという感じの『威風堂々』、次に本命のレクイエムでしたが、ヴェルディのは「三大レクイエム」といわれる、有名なモーツアルトとフォーレに次ぐ一つであることを私は初めて知りました。
何しろ大作で、演奏時間は90分、休憩をはさみ2部構成となります。
昨年の「東京カテドラル聖マリア大聖堂」でのヘンデル:メサイアのときも、会場としてなかなかいい雰囲気でしたが、今回もやはりヴェルディにふさわしい会場です。合唱団も、5つの合唱団がプロジェクトを組んでヴェルディ・レクイエム合唱団として編成されたもので、250人余り大合唱団。オルガンを背景に半円に段差がついた管弦楽の舞台との間の(確かこれは客席にもなる思える)空間にずらりと並んでおり、レクイエムですので皆黒衣、女性は薄くて白く長いマフラーを巻いた、それら姿は赤いシートにも映えて視覚的にも美しい。
ソロの歌い手は、合唱団と管弦楽団の間に場所を占めています。
指揮は小松一彦
ソプラノ:佐々木典子 メゾ・ソプラノ:岩森美里
テノール:中鉢 聡 バリトン:福島明也
合唱指導:久保田洋 小屋敷真
管弦楽:フイルハーモニックアンサンブル管弦楽団
この曲は、最初は亡くなった偉大な同郷の作曲家ロッシーニーの追悼のためにかかれたもので、しかしこれが興行上の理由から中止になってしまい、その後敬愛するイタリアの詩人アレッサンドロ・マンゾーニの不慮の死に遭って、今度こそとこのレクイエムを捧げる事にしたのだそう。二人への哀悼の気持がこもり、しかも60才を超えた晩年の作だけあって音楽的な完成度も高いという。
はじめはチェロによる聴こえるか聴こえないような響きからはじまり、次に又静かな、つぶやくようなコーラス、そしてコーラスだけのフーガ、といった始まり方をするこの曲、そしてソロがそれぞれに場面に応じてアリアのような歌声で歌い上げ、又それとコーラスのさまざまな絡み合いなどから、全体的な印象としても、やはりオペラを感じさせ劇的で、又先の二つより近代的なものに感じられた。解説によればブラームスが「これこそ天才の作品」といい、初演のときも「モーツアルトのレクイエム以来の傑作」と評判と同時に「教会音楽に相応しくない」とも言われたのもなるほどと思う。
私は2階席の左側だったが、まさに演奏の只中でちょうど真後ろからトランペットが鳴り始めたのにはびっくりした。これはバンダというステージの外からも演奏する一つの技法だったのである。客席の上方の左右から、ファンファーレが鳴り渡るのであった。
さまざまな技法を使ってドラマチックでスケールの大きい大作、こちらがそれをしっかり受け止めるほどのものを持っていない悲しさはあるけれど、十分に楽しく、帰ってくるとやはり暑さもあってちょっと疲れた一日でした。
Tさんも大役をおえてほっとしたと同時にぐったりしているのではないかしら。でもまだ若いから、次のステップに向けてもう心は歩きだしているかも・・・・
2008年07月09日
民藝公演 『プライスー代償ー』を観る
「セールスマンの死」などで知られるアーサー・ミラーの作品。
これも同様、1929年米国を襲った大恐慌後の社会を、一家族の姿を通して描いたものである。(ミラーの父親の会社も倒産した)
一代で財を築き成功者として豊かなブルジョア生活を送っていた父親は一夜にして破産、その後父親が亡くなり、遺された家具を処分するために別々の人生を送っていた兄弟が16年振りに再会する。そしてそこで自分自身、家族、そしてそれを通して経済で動いていく社会というのがあぶりだされてくるといった、心にずしりと来る舞台であった。
互いにすでに娘と息子をそれぞれ一人ずつ持っていて独立もしているという、人生の締めくくりの年齢だが、無気力になって働く事も出来なくなった父の面倒を見ながら、進学も諦め地元で慎ましく警察官を続けた弟は、家を出て希望する医学の勉強を続けて医者として成功した兄に対して抑え難い感情があり、二人の溝は深い。弟の妻は兄弟を仲直りさせようとするが、古家具という遺産を前にして(舞台の真ん中には父親の象徴のように皮製の大きな安楽椅子がおかれている)、当時は見えてなかった真相や互いの思い違いや行き違いが、かえって露呈されて、いまは妻と別れている兄の歩み寄ろうとする気持も、結局逆効果になる。結局は、どんな経緯があろうと、それは各自が選んだ道でありそれを引き受けるしかない。互いに積年の感情を吐き出した後、安易な和解というのではなく、それぞれに、というより弟は、新たに歩みだしていくのである。
THE PRICE は、遺された家具を丸ごと売ろうとして呼んだ古物商がつける値段でもあり、それに絡めて一人の人間の値段、又はこの世で支払わなくてはならない自らの代償、代価という意味となり、ここでは代償と訳されている。
登場人物は、たった四人。ビクター(弟=西川 明) エスター(その妻=河野しずか) ソロモン(古物商=里居正美 ) ウォルター(兄=三浦 威)、この少数の演技者の台詞だけで2時間強を持たせるのはやはり役者だけでなく脚本の構成と会話の力によるところが大きいだろう。(現実には昼食の後だったせいもあって、時々眠気に襲われたりもしたが・・・)
深刻な内容だが、それを茶化すような、時にはしゃしゃり出て邪魔するような古物商の存在が大きい。ちょうどギリシャ悲劇に不可欠の道化のようなもの。ソロモンという名前もそれを暗示しているようだ。
里居さんの、サンタクロースも顔負けなほどの真っ白い豊かな髭が見事である。本物かと質問されるというが、本物で、これに備えて伸ばし手入れしていたそうである。役柄つくりに最初戸惑ったという。確かに不思議な人物で、正体が掴めない。でもあの道化と考えれば理屈では理解できる。愚かでふざけた行為や言葉を発しながら、神のような視点を持ち予言をする。
実は、これは本邦初演だという。解説によると、その当時(1968年頃)、オーソドックスな演劇様式によって作られたこれは時代遅れと見られ、アーサー・ミラーも古い世代の劇作家と思われていたのだという。舞台一杯に積み上げられた豊かな時代を象徴するような重厚な古家具類、一度は置き場所もないと嫌われたそれらも、その当時でも値が上がってきていると古物商が言うが、今ではもっと珍重され見直されている。その戯曲もそれから40年経った今、少しも古くないのである。
むしろ「家族のあり方、夫婦の絆。それらに絡む金銭の問題。1968年の米国社会が、バブル崩壊後の日本のいまの社会と重なって見えてくる。予言書のような作品だ」(朝田富次ー月刊「民藝の仲間」)というように民藝らしい舞台であった。しかし入りは良くなく、空席もある。やはりスターが出なければ、このようなものである。劇団を保ち続けるというのも大変である。
私も「仲間の会」に入っていなければ観に来なかったかもしれない。又このような内容をずしりと受け止めるのは、私自身が自らの人生のプライスは・・・と考えさせられる年齢になっているからだと思う。そんなことまでいろいろ考えさせられた。