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2008年10月26日
秋の台峯歩き
洞門山問題を先に入れたので、先週の台峯歩きはそのままになってしまった。簡単に入れることにします。
今回の参加者は20人足らずである。この良い季節はかえってあちこちの行楽地に出かける人、また行事も多いこともあって、集まりが少ないのかもしれない。私も10月の参加ははじめてである。
この月の楽しみは田んぼであった。第一の田んぼは、黄金色をしていて、稲刈りも間もなくのようだったし、日照にはあまり恵まれていない第二のは、まだ少し緑が残っている感じ、とにかく実りの様子が眺められて嬉しかった。新聞によると、湿地帯を保護するラムサール条約では、「多様な生物を育む」として水田保全が提案されたという。水田が食料生産だけではなく、人びとの健康や野生動物の生態系を支えていると、その価値を改めて見直そうというものである。これはいつも案内のKさんが力説している事であった。
この田んぼがいつまで残っているだろうか・・・。
次の楽しみは秋の野の花たちである。
これは私のうちの小さな庭にも当てはまる事で、ほとんど手入れをしない庭などで草ぼうぼう、しかしそれらがちゃんとたくさんの花を咲かせて楽しませてくれるので、ついぼうぼうのまま、かれらが枯れるのを待つ事になる。(今は秋海棠、ホトトギス、イヌタデ、ミズヒキソウ、龍の髭、赤い実になりつつある南天など)。
さて台峯では、毎月この季節に見られる花や蝶や昆虫のプリントされたカラー写真を(この頂き物は大変貴重である)眺めながら歩く。一口に野菊と言ってもいろいろあって、ヨメナ(これがわたしたちは野菊と言っているようだ、またムコナと言うのもあると聞かされて、面白く納得)もあれば、ノコンギクもシロヨメナもある。前回も触ったネコハギ(葉っぱは猫の毛のような手触り)やキツネノマゴという小さな花が今は実をつけているものなど、細やかに観察しながら歩いていく。でもほとんどをすぐ忘れてしまう。センダン草というのも同じようなところにコセンダン草というのもあって、1つか2つ、覚えるだけでいいんですよ、と常連の人も苦笑します。
見晴らしの良い老人の畑と称しているところではススキが波打ち美しい。そこで、ボランティアの人たちがまだらに刈り取った草むらで今回も松虫やらオンブバッタ、コオロギ、イナゴなど昆虫の観察をしました。
今回は、ツルニンジン(キキョウ科)という面白い花、ちょうど花と実が一緒にある蔓状の植物を覚える事にしましょう。(でもまた忘れるかも)これは根が人参に似ているのかな?
沼にはコガモが3羽、泳いでいました。
2008年10月20日
洞門山開発(破壊)第二回説明会
10月19日(日)は第二回説明会が開かれる日ですが、同時に午前中は台峯歩きに当ってしまいました。それでこの日は一日出かけることになり疲れました。
歩く会ではこれまでの事情が聞けるだろうと思っていたのだが、あまり期待できない成り行きのようでその時はがっかりしてました。何しろ行政側の態度がはっきりしないようです。
台峯歩きは、秋晴れの一日で、楽しかったのです、それは後にしてここでは説明会について報告する事にします。
この日も、第一回の溢れるほどではなかったが超満員、60脚もある椅子はすぐ埋まり後や横に立つ人が出るほど。説明者は、前回と顔ぶれも同じ3人。机の上に、ハッポウスティロールで出来た変なものが置いてある。(これは前回、せめて全体像がわかる立体地形図をといったのに対して作ったもの。これも笑いものになった)
先ず全体の感触を簡単に述べると、最初はまた同じパターンだという落胆と失望で溜息が出るばかりだったが、後半になると次第に明るい希望めいたものが芽生え、最後にはもしかしたら・・・・という期待すら感じられるものであった。
一回に出た要求や質問に対する回答が、文書で各人に届けられていて、それを読み上げる形から進められたが、一番の要求、事業者であるK氏は、欠席。行政側の立会いもなし。
その理由として読み上げられたものは、K氏は「皆様の要望は理解できるし、可能な限りそれに応えるつもりだが、それを考えた上で諸般やむを得ず、今回のようになりました。また今回は諸事により欠席させていただきます。」というような紋切り型の回答にならない答え、行政はといえば「出席する立場にはない
。来庁すれば相談に乗る。許可が下りた段階ならそれへの説明には出る。」というもの。
まさにこれは、ある人の発言の中にもあった、この説明会は一種の「ガス抜き」で、工事を進めるということはもう既成の事実だが、それへの不満や反発を説明会という形で吐き出させて、何回かやった後に、もう十分に説明しましたし、要求も不満もわかりました、それを十分考慮したうえで工事を進めさせていただきますと終結し、発進させてしまうものでしかない。それが見え見えであったので、暗い気持ちになったのである。
しかし、設計者側の説明が終わり、住民側の質問や意見の発言になると、次第に気持が明るくなってきた。「まちづくり協議会」や「町内会」の人たちの調査によって、次々に新しい情報が知らされたからである。
先ず登録簿の名義が変っている事、それはすでにK氏の手からある会社に売られているか? など、複雑な事情があること、ここでは面倒なので書かないが、そんなことも問い詰められたり(それではK氏の委任状などは紙切れに等しくなる)、またその緑地というより赤トンネル、稲荷だけでなく八雲神社に通じるこの辺りは、周辺住民には鎮守の森としての役目を持ち愛着をもたれているということ、そういう歴史も住民感情も知らないで机の上だけで設計しても工事は決して進まず、また車一台しか通らない道路を使って山や大木を切り崩したものを運び出す大工事、採算が遭うわけはなく、それは二期、三期工事で辻褄を合わせることにしているのでは・・など、様々な意見が、それを専門にしている意見の人もいて、問い詰められ説明をされて、最後には彼らもやっとこの地の事情を理解させられたように見えました。総意として前面反対(最初は、そういう意見、木を一本も切るなというようなという意見では話し合いにならない。工事を認めるのを前提にしてそれにどういう要求や妥協をしてもらいたいかということをしきりに言っていましたが)という意見にも納得(心情的に)出来るようになっていったようです。しかしこれはこの場でのことで、一時的な感情に過ぎないわけです。
行政とのことも、市はそこの重要性は十分に承知で、全体を買い上げる方向でK氏と交渉もしたのだそうで、しかし金銭的に折り合えなかったようで(すなわち開発の出来ない山林としての評価しか出来ないにもかかわらず、K氏側は宅地としての評価を期待するわけで)、そうとしたら、決してそこは宅地には出来ないところだということを身をもって知らせてやるしかないわけです・・・というのは陰の声。
計画書を良く見ると、申請の敷地面積は999.77�です。すなわち1000�以上であれば許可されないので、第1期工事として、そうしたのであり、第2期第3期と少しずつ崩していけば、崩せると考えているのでしょう。
いろいろ住民側から良い意見が出ましたが書ききれませんし、疲れましたのでこの辺でやめますが、最後の方で立ち上がった若い父親らしい人の発言に、皆はしんとして耳を澄ませた事だけを書いて終わりにします。
歴史的にも風土的にも、また景観や生態系、動植物や、風や水の問題、崩せばいろいろ問題のある重要な山、それを住民感情を無視して(最後には工事を妨害する実力行使もやる覚悟だという意見が出て拍手喝さい)、たった3区画の宅地を造成するためにだけ(今の所第一期3区画を申請。以後二期に10区画らしい)無理やりの工事をやることに、あなた方は仕事として誇りがもてますか? と静かに問いかけたのです。自分は踏み切り近くに住んでいますが、子どもたちは通学路で安全を脅かされる上、狭い踏切と道路を往復するダンプカー(1万5千台にもなる)の騒音と埃をあびるのをじっと我慢しなければなりません。それもたった3軒の敷地を造るためだけに・・・。
これにはそれほど年齢が変らない説明者も、一瞬息を呑みました。
誰も宅地を作ることそのものに反対しているわけではありません。なぜなら自分たちだってその地に宅地を作り家を建て住んでいるのですから。そもそも人間という存在が今や地球には害を為す一番悪い動物でしょうから。人間がすまない方が一番いいのです。しかし今やそういうところはほとんど残っていない。とすると、両者が良い関係で住みあう、里山・・・それが見直されているのはそのせいです。
洞門山あたりに昔から住んでいる人は、それぞれが一軒か数軒ずつ、出来るだけ自然を壊さないようにしながらそこに住まわせてもらう形で住んでいるのです。ですから細い階段を上ったり、車が入らなかったり、不便な点も多いのでしょう。それを承知で住み、どうしても壊すことになった自然をまた、復元するような配慮をしながら、静かにひっそりと住んでいる、というような棲み方をしているのです。それがこの辺りの魅力になり、若い人もそこに呼び込まれているように思われます。ところが今度の計画はそれと全然違い、大々的に山(と呼んでいるだけで細長い林状の丘に過ぎない)を切り崩す(大木を切り土砂を大量に運び出す)というやり方です。それが許せないということが判っていないのです。
とにかく説明としては前回同様何も進展なし。ガス抜きの説明会ではなく、実質的な会にするために今度はK氏とその名義を変えた相手の人か会社が出てくるように、しっかり伝えて次回も開くようにということを伝えて会は予定時間を越えて終了しました。
見通しは悲観的ではなくなった感はありますが、現実は厳しいものであることには変りありません。
とりあえず反対の陳情を行政に提出するために署名を始めることになりました。もしこの趣旨に賛成してくださり、協力してくださる方がいらっしゃいましたら、私の方にご連絡ください。一枚10名の用紙をお送りいたしますので、よろしくお願いします。では一応これまで。
2008年10月11日
民藝公演『海鳴り』(紀伊国屋サザンシアター)
原作=藤沢周平、脚本=吉永仁郎、演出=高橋清祐
舞台は江戸時代の化政期、日本橋、深川、両国、本所などの市中。主人公は紙問屋の主ということからも判るように近松の世話物、心中物を思わせる世界であるが、なかなか迫力があり、現代性を感じさせられる芝居であった。
幕はなく、舞台装置も特別になく、海鳴りを思わせる不気味な音響によって始まる舞台(海鳴りは嵐の前兆である。主人公が江戸に奉公に出る途中で聞いたという伏線あり。その未来を暗示する言葉であるが、もっと深い意味を持たせているとも考えられる)には奥に弧を描くようにパノラマスクリーン、真ん中をすっぽり空けた両側には三枚ずつの黒いボードが遠近を持って並べられ、それを場面毎に黒子が敏捷に動かして様々な場面を作るのである。
スクリーンは、荒れた海辺となり、江戸の街並みとなり、また満開の桜堤、また急な夕立なども通行人たちの巧みな演技によって浮世絵のような光景が映し出される。左右に並べられたボードの間は、あるときは商家の部屋部屋、料亭や宿、または街道が、帳場格子や長火鉢や竈、軒行灯や茶屋の腰掛、小道具が置かれることによって場面が設定され、作り付けでないだけに小刻みな筋の展開が可能になるのであろう。
粗筋は、下積みから身をおこしひたすら真面目に働いてきた紙問屋の新兵衛(西川 明)が、あることから同業者の女房おこう(日色ともゑ)と知り合い、偶然の成り行きもあって、しだいに恋心を抱くようになるという設定。40半ばと30を過ぎた、当時としてはもう互いに老いが近い、それまでは制度上からも恋心などというものを思ったこともない真面目一方の二人の初恋に似た純愛物語である。もちろんこれの成就は、不義密通で獄門物である。しかしこれが近松の世話物とはならないところに藤沢周平の緻密な創作方法とまたそれへの人気があるのではないだろうか。
江戸時代は、すでに高度な経済社会、消費社会であって、そこに江戸文化が栄えたのであるが、「紙」というのも現代と同様に商業上重要な産物であって、それを生産、売りさばく機構は紙問屋を頂点として、その下に仲買があり、その下に紙漉きの職人たちがいる。それは今の会社組織と類似していて、問屋の中にも有力な少数と中小の幾つか、互いに競争し、合併があり浮き沈み、転落があり成り上りがある。
すなわちこここに現代社会と通じるものがある。この舞台は紙問屋の大店たちが仲買を通さずに直接紙漉きから上納させようとの画策があり、その寄り合いの場面から始まるのだが、それに対して新興紙問屋(仲買人からはじめ、紙漉き職人のことも良く知る)の、真面目な新兵衛が、異を唱えようという背景があり、また相手のおこうがその敵側の大店の女房という事で、しだいに二人は追い詰められていくのだが、それもサスペンスに似た展開がある。
近松の「心中天の網島」の主人公の治兵衛も紙屋であるが、その不始末の原因は、ただただ男の浮気と弱気が主な要因で、封建社会での組織上の不合理とは何の関係もない。ただその締め付けから逸脱しようとする人間としての情愛への眼差しがあるだけである。
また裕福で幸せそうにもみえる新兵衛の家庭も着飾って出歩くばかりの女房とは口もきかず、長男は放蕩三昧という隙間風だらけ、(長女だけがけなげで希望を感じさせる)今のモーレツ出世社員の家庭を思い出させる。
一方おこうの子どもが出来ない事から石女と姑からはいじめられ、しかも夫が外に生ませた男の子を跡取りの養子にという不理尽に耐えている。
寄り合いの帰り道、無理に酒を勧められて気分を悪くしているおこうを介抱して、止むを得ず連れ込み宿に一時寝かせてもらい介抱したそれを目撃され、実に覚えはないものの蛇のような男(紙問屋ではあるものの零落して夜逃げ寸前)に強請られそれが高じて、最後はもみ合いのさなかに脳卒中で死んだことから、結果として二人は駆け落ちということになるのであるが、結局はその事件の発端が二人の恋心に火をつけ、しだいに掻き立てることになる。
もう一つ、近松と違う事は、相方である女性のおこうである。
自分一人だけ身をくらませてしまいおこうをそのままに、と思う男に対して、一緒に行くというのは当然かもしれないものの、しだいに強くなっていくのである。それは男が遠い見通しを持たねば生きられないところがあるのに対して、一瞬を生きることに長けている傾向にある女の強さをうまく表現している感じがした。偽の関所の通行手形も用意し、また行く先も自分の乳母の里という水戸に変える。追っての目をくらませるためにはその方が良い。現実的な手を考え、生きられるだけ生きましょうと言う。
幻として晒し者になった心中者姿を時々映し出しながらも、最後は荒れた海をバックに舞台に二人の旅姿が現れ船出を知らせる声に向う情景で終わる。海鳴りが一際強くなる。
民藝の舞台には珍しく、ブラボーという声が2声もあがった。