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2009年05月31日
対談・鼎談「湯浅誠・小森陽一・内橋克人」を聴きに行く
「人間らしく生きられる社会を!」がテーマ。前回は講師アーサービナード・井上ひさしさんの対談だったが、ぼんやりしているうちに申し込みが満席になって聴けなかったので、今回はすぐに申し込みをしておいた。鎌倉・九条の会主催。
それでも30分前の開場少し前についてみると、もうかなりの行列ができていた。大ホール(1500人)も開演10分前には一階席は満席、2階席も始まる頃にはほとんどが埋まったようだった。杖を突いたご婦人もいた。係りの人が何人も飛び回って入場の整理をし、入ってからも一階席のたった一つ二つの空席でも連絡しあって、座らせていた。粛々として(政治家が好きな語句)いるが、熱気のこもった会場の雰囲気。それだけいまの自分たちの暮らしやこの国の将来について不安を覚える人が多いということであろう。会場には呼びかけ人の一人、なだいなださんの姿、また井上ひさしさんも舞台にマイクを持って来たりして、裏方を務めておられたようである。
司会役の小森さんは電車の事故で15分遅刻。もちろんこれは内橋さんが前座(と言っても肝心なことを先ず喋って、ロスにはならなかった)。まもなく小森さんが姿を見せ、しかしさらりと言ってのけたのは、これも今の一つの憂うべき社会現象である人身事故であったと・・・。今日の新聞にもまた人身事故のニュースが報じられていた。
わが身やこの国の行く手に不安を持つものの一人として、聴くに値する事が多くあったが、それをここに述べる力はないので、簡単に要点のみを書いてメモ代わりにしたい。
もらったプログラムの簡単な内容紹介を先ず。
内橋克人: F食料 Eエネルギー Cケア を自給し、そこに雇用を作り出す社会を!
湯浅誠: 反貧困~貧困スパイラルを止めよう~
小森陽一: 「格差」と貧困こそが、戦争を欲望する社会の最大の原因です。
この表題を見れば、大体のことは想像できると思うので、詳しくは書かないが、注意を引いたところだけを書いておきます。
*文学が専門で、最近は専ら漱石を読み解いている小森さんの言葉。その漱石の時代に類似する「100年に一度」の今は危機の時代に直面しているという事。漱石の「それから」をちょっと口にしたが、情況は違うが、あの時期である。
*経済評論家の内橋さんのいう、人が人らしく生きるための条件。
①安全性(経済的、物理的、精神的に安全に生きられること)
②生き方の選択の自由
③隣人との共生と価値観の共有(①②は自分ひとりのものとしては成り立たず、互いにそういう生き方ができなければならない)。それゆえ社会的排除(人種や差別意識による)があってはならない。.
④以上のことが可能であり続ける町、社会。
これらは当たり前で、平凡であるかもしれないが、実は今これらが壊れつつあると、小森さんも内橋さんも言うのである。それはなぜか、
それは生産条件と、生存条件とが、矛盾し始めたからである・・・と。すなわち戦後、日本は生産性を上げれば、生存条件もよくなると信じて邁進してきた。(今日の途上国も同様)。しかしいまや対立する時代になった。すなわち生産を上げるにつれて、生存が危う状態になっていく。(公害問題、派遣労働の問題ーここで湯浅さんが関わっている派遣や貧困問題につながる)
*なぜこういう状態になったかというと、それは市場原理で動くグローバル化である。小泉さんが打ち出した構造改革である。自動車産業をはじめとする輸出依存型の産業である。それによる中央と地方の格差が大きくなり、またこれにより働いても働いても暮らしが楽にならないのは、(経済学に疎いのでなぜかよく分らないが内橋さんの計算に寄れば)労働者の所得の5パーセントが流出してしまうのだという。とにかく利益を得るのは上から10社が30パーセント、上から30社が二分の一を占め、後20パーセントを中小が分け合っている計算になる。
今のアメリカで発生した金融破たんによる大地震が、なぜ日本に大きな津波をもたらしているかというのもそれによるからで、日本企業の自立的回復力がなくなっているからであるとする。おなじ影響を受けるとしてもヨーロッパはそれほどではない。金融では影響されても企業そのものは、日本ほどアメリカのグローバル化に巻き込まれていないからであると。
アメリカは震源地であるから被害は当然としても、オバマ大統領によって大きく変ろうとしている。それなのに、日本は旧態依然のアメリカのやり方にすがっているのだとも。
*大学生だった湯浅さんは大学が近くだったため日比谷公園によく来ていて、野宿している人をよく見かけたが、95年頃100人ぐらいだったのが急に600人ほどに増えて、この社会には何か大変な事が起こっているのではないだろうか、と思い始めたのがきっかけだったという。それで労働組合と一緒に始めたのだが、いろいろな事が見えてきたという。それを続けることによって見えてきたもの、気づいたことなどは、著書もあることだしここでは述べませんが、内橋さんと3回りも違う若い湯浅さんを、頼もしく思い、3点にわたって褒め上げて、湯浅さんは恐縮。
その目的は、彼らでも働ける職場のある社会を作ること。ストライクゾーンの狭い社会(市場経済主義、国際競争に勝ち抜いたりするためには競争社会となり、優秀な者しか働けない)をひろげること。そのための社会的セーフティネットを作ることだという。
*箱の中に3つの風船があり、一つは職場、一つは家庭というセーフティネットだとすると、第三の社会的なそれを制度的に作ることだと湯浅さん。
これまで日本はそういうものがなかった。福祉などという言葉はあるが、一度も日本は福祉国家であったことはないと内橋さん。
*この不況、破局もまだ序の口だそうです。
また、人類の歴史を顧み、いかにしてこの情況で戦争を回避できるか、これからが正念場であるようです。今テロ問題や北朝鮮などを口実にして武器輸出三原則がなし崩しにされつつある。その上憲法九条第二項をはずして、自衛隊が戦争できるようにされつつあると小森さん。
またまた長くなりましたので、この辺で止めますが最後に、内橋さんの言葉を揚げて終ることにします。
政治家のトリック(数字のトリック、個人老人の金融資産が1480兆円もあるので、それを放出させるというが、それは事業資産もローンなど借金も入り、決して個人の資産ではないなど)やレトリック(「努力をすれば報われる社会」という言い方)に騙されないで(マスコミも同様である)、それを見抜く力を養う事(これは難しく直感で行くしかありませんね)、利益追求のための労働ではなく、自分たちの生活に必要なものとしての労働をとりもどし、日本人特有の熱狂主義(熱しやすく冷めやすい)、頂点増長主義、異議申し立てのできない、などにとらわれないように・・・と。
あー疲れた!
2009年05月29日
朽木祥『風の靴』を読む。
朽木 祥さま
最新著書『風の靴』(講談社)を拝読しました。
主人公の海生(かいせい)少年になったような気持ちで、ワクワクしながら読みました。
わたしが中学校教師だったら、夏休みの課題図書ぴか一のものとして推薦したでしょう。いえ、そんなことより私自身がとても素晴らしい体験をしたような感じで楽しんだのでした。
物語は、中一の主人公、その年齢特有のもやもやした悩みと悲しみを抱えた海生が愛犬と、親友とひょんなことから従いてきてしまったその妹、3人と1匹が、ヨットで家出をするというものです。
これまでの『かはたれ』、『たそかれ』など、キツネや河童など異界の者たちとの交流をファンタジックに描いた作品とはまた違った世界が展開する事に先ず驚かされました。これまでは、どちらかといえば薄明の世界で哀しさがただよってたのに比べ、これは湘南の海が舞台になっているだけに、明るい陽光と海風に溢れていて、健康的で前向きの世界です。それでもなおこれまでのファンタジックで詩的な朽木さんの世界はちゃんと漲っていて、それゆえ解説にもありましたが、本格的でしっかりした、それでいて素晴らしくファンタジックな冒険物語として新しい流れをもたらすのではないかと(私はその方面には詳しくありませんが)予感します。急逝したおじいちゃんの愛用のヨットという絡みもあって、おじいちゃんの言葉や教え、人生への深い考察も自然に思い出されることもあって、体験による少年の成長物語にもなっています。
私も海や船への憧れがあります。特にヨットはやはり船の中では特別ですね。『太平洋一人ぽっち』の堀江さんがヒーローになったのも誰しもそういう気持を持っているのではないでしょうか。私も江ノ島のヨットハーバーを見るたびに、それらを操る人たちはどういう人だろうと思っていました。もし時代や環境によって、それに関わるチャンスがあったら、きっと嵌ってしまうに違いありません。もちろん不器用で、運動神経も鈍いので、ただ乗せてもらうしかないにしても・・・。
ところが朽木さんはそんなセーリングを仲間たちとなさった事があり、船舶免許までもっていらっしゃるのだと知り、それゆえにこの物語も細部まできちんとリアリズムで書き込まれていることに納得し感心しました。ヨットの種類から始まって構造や名称、帆やロープの結び方など簡単なヨット入門書的な面もあって、大いに目を見開かせられ勉強にもなりました。
そういうわけでぐんぐん引き込まれました。
地図があると同様、海図があったのだと思い当ります。いつもは陸地からしか海を眺めないのに、海からの眺めもあることに思い至ります。ヨットの上から湘南の海と光を存分に感じました。筋も構成も、人物の性格やその配置もピタリと決まり、犬一匹(いえ2匹?)というのも楽しい。家出から始まって隠れた湾の存在や宝探し、なぞの人物など冒険の定石はちゃんとあって、大冒険ではなく身近なところであることが、かえって真実味があり、どんな些細な事でもまた日常でも冒険は成り立つという事でもあります。そしてサバイバル体験も。見慣れたところを見直す感じにもなりました。
おじいちゃんの遺品、総マホガニー作りのクラシックの小さいヨット、ディンギーは、おじいさんと同様素敵ですね。キャビンのあるヨット、アイオロス号も楽しそう! でもおじいちゃんはカッコいいだけに、ちょっと若すぎる死であるように思われるのも、私がその歳に近いように思えるからでしょう。でも急逝だし、それは物語の運びとしては仕方ない事でしょう。
さて干潟で皆でするキャンプファイアの終りの花火(これも既成のものではなく、ありあわせの物で作っている)の場面は、ここでは一つのクライマックスだと思えますが、その描写がとても生き生きとして素晴らしかったです。またそれまで静かな波のようにバックで物語を支えていた挿絵もここでは花火と水しぶき、子どもたちの躍動を思いっきり表現していて効果的、良かったです。
そのほかいろいろ感じた事もありますが、長くなりますのでこの辺で止めます。
最後に題の『風の靴』も、裸足(はだし)の風に船の靴を履かせる、を意味しているようですが、この着想も面白いですね。
この著書も羽根の生えた靴をはかせられ、順風満帆の航海ができますようにと祈りながら、お礼まで。