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2009年06月29日
『源氏物語』 「蛍」の巻
前回、この巻のことについて書いたが、今この物語を原文で通読しはじめている。昔あちこちを虫食いのように読んではいたもの、一気に読み通したことはなかった。いまはその千年紀ということなので、これを機会に自分の目で読み通してみようと思い立ったのである。じっくりとではなく、まったくの走り読みなのだが、(そしてややこしい部分になると、現代語訳で援助してもらいながら[谷崎源氏])読み行くほどに、その見事さに感嘆すると同時にかつてとは違ったいろいろな思いが立ち昇って来るのを感じる。
それらを時々、ここにも書いてみることにしよう。
さて、その「蛍」の巻であるが、ここには紫式部の文学論というか物語論が語られている事で有名である。すなわち、「日本紀などは、ただ、片そばぞかし。これら(=物語)にこそ、道々しく、くはしき事はあらめ」、訳は「日本歴史(大体は六国史を指す)などは、ほんの一部に過ぎない。すなわち社会の表面の記事に過ぎない。世の中の真相は、個々の人間の詳細を描いた物語の方にこそ存在するのだ」という物語論を源氏の口を通して述べているのである。
ああ、それはこの蛍の巻だったかと、再認識したのであったが、それは大したことではない。
この大系の中にそれぞれはさまれている12ページほどのリーフレット「月報」の中に興味深い見解や解説があって面白いのであるが、ここではその一つを書き留めておきたい。
日本は漢字をはじめ中国文化によって文化の開眼をしたことは言わずもがな、この平安時代にそれを日本化して、その頂点とも言うような世界に誇れる『源氏』を生み出したわけだが、それを魯迅の弟である周作人が絶賛しているという文章があるという。(中国では日本の文化は自分たちの真似だと考える人多かった時代である)。必ずしもそうではなく、日本には日本の文明があり、特に芸術と生活の方面ではそれが顕著であるとし、「紫式部の源氏物語は十世紀の時に出来上がったのですから、中国で言いますとちょうど宋の太宗の時分で、中国における長編小説の発達までにはなお五百年の隔たりがある」と言っていて、「まさに一つの奇跡と言わざるを得ない」ともいう。これはヨーロッパにおいても同様である(これは私の言葉)。つまり周作人は日本文化の独創力を認め、その典型を源氏物語に発見しているのだとし、「彼は一九の膝栗毛や三馬の浮世床なども日本人の創作したあそびだと言っており。かなり深く日本文学を究めたようである。」と、これを書いているのは、肥後和男(肩書きがないがたぶん源氏の研究者、大学教授)という方である。「源氏物語と山岸君」のタイトルで。(源氏の大家山岸博士を君付けをするのだからもっと偉い先生だろう)
今、日本のアニメ、漫画が世界的な広がりをみせているのも、この流れの一つではないかと、これを書きながらふと思った。
では、今日はこの辺で。
2009年06月23日
夏至の夜の蛍の宴
日がいちばん長い夏至、21日は台峯歩きの日であったが生憎雨であった。しかし夕方からは上がって蛍の観察会は催されるというので出かけた。
風もなく穏やかで、条件としては悪くはない。参加者は15人と子ども2人。雨具と十分な足元の準備をして出かける。その頃から霧雨よりももっと細かな、まさに霧のような雨も降ったりしたが、傘を差すこともなく行程を終えた。
蛍が光り始めるのはほぼ7時半ごろ、それから30分ぐらいでクライマックス、それから30分ぐらい経つと終ってしまう、まさにほぼ一時間ほどの、命の饗宴である。ここでの観察は3回目なので、最初のつよい感動は薄れたかもしれないが、最初の瞬きを捉えた時の心の弾みはなくなることがない。暗闇に中でじっと待機しながら目をこらしていると、どこかでピカリと光り始める。するとまもなくあちこちから同じような光が明滅し始める。時にはスウッと流れるように飛んだり、こちらにぐんぐん近づいてきたり、時には空の星かと思うとそうではなく空に飛び立った蛍であったり・・・。
この蛍に出合うことで、やっと夏が迎えられると感じられる、という常連の人もいた。まさに過ごしにくいこの国の夏を迎えるための蛍はエネルギー、清涼剤かも知れない。これが味わえるのは幸福な事である。
今年は、まだ日が長いので入口辺りではホトトギスが、また行き帰りにはアマガエルの声が迎えてくれた。アマガエルの声のなんとけたたましい事! 赤貝の殻を激しくすり合わせるような声。途中で聞こえた、ちょっと不気味な神秘的な声はガビチョウということだが?
まだ蛍が光り始めないころ、ハンゲショウの香りをかぎに行きましょうと行ったのだが、朝からの雨で香が流されあまり感じられなかった。
今は源氏蛍の時期、しかし今年は平家の方もかなり光り始めていて、例年より少し早いとの事。来週になるともう源氏はあまりいなくなり、ほぼ平家だけになる。人間の歴史と反対なのだなあ・・・。
源氏と平家は点滅の長さ方が違う。源氏はゆっくりしていて、平家は早い。池の奥の方では平家が多くいて、歩く足元にまで光っている。踏み潰しそうだ。
そこでこの山道にこの谷戸の整備にあったって仮説道路(工事のための)が通る計画になっているという。そうなるとここに多く生息している平家蛍が危ぶまれるという。それでその平家を上流に移すことも考えねばならないなど、問題も生じているのである。ああ、平家はやはり行く末がおぼつかないなあ。
『源氏物語』に「蛍」という巻がある。その頃から、私たちはこの五月雨の頃の蛍に美を見出し、愛してきた。中国では「蛍の光」で学問をしたようだが、こちらではそうではなく恋愛の小道具として使われる。何となく彼我の文学の違いのようなものを感じる。
「蛍」の巻では、もう源氏は36歳の中年、はかなく死んだ夕顔の忘れ形見(自分の子ではなくライバルの娘)を探し出して(親友でいてライバルの実父には隠して)養女にして、紫の上ほか大勢の女性たちに囲まれながら、その若い玉鬘にまで懸想している。その上に、(源氏の嫌なところであるが)彼女に言い寄っている公達の心を一層かき乱そうと)今のような雨模様の夕方、こっそり蛍を袖の中にたくさん隠して、その男が玉鬘の部屋を訪れた時、その几帳のなかに一斉に放ち、その顔を露わにさせる(その頃のお姫様は今のイスラムの女性と同様男性に顔を見せてははしたないのである)。
しかし蛍は、自分以外のものを明るく照らし出すほどの明るさは持っていないのではないだろうか。
とにかく今年も蛍に会えた幸いを感じながら、またもや霧のような雨の中を帰ってきたのである。