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2011年11月21日
秋の「台峯歩き」(異常気象)
土曜日は前線通過のため台風並みの風雨が吹き荒れましたが、日曜日は晴れて南風が吹き込み20度を越す暖かさとなりました。そのためか「台峯歩き」の参加者も総勢で9人という少なさ、でもこのくらいがちょうどいい人数だ、とKさんは言います。あまり多いと声の通りが悪く、Kさんの説明も聞き取れなくなるので、出てきてよかったと思いました。
というわけで今日はゆっくりのんびりと、皆で気ままに道中を楽しみます。
でも誰もが心の底では、不安の霧が辺り一面に漂っているのを感じているに違いありません。昨日のような気象は11月としては珍しいと、Kさんは言います。この台峯の生態系にも色々な異常が生じていると。たとえば今年は蜘蛛の数が少なかった。それは餌がすくなかったに違いないし、また今丸々太っていなければならないものが痩せている。気象が荒々しく変動するのもその異常の一つだし、また夏に逆戻りしたような日もあったためか、新緑があちこちに見られる。新聞にも桜が一輪咲いた写真が載せられていましたが、ここでも桜が数輪咲いているのを目撃。
ここにある2か所の田んぼでは、刈り取られた後の株からまた稲が伸びていて、一面の青田になっていました。二期作の土地ではないので、それは枯れてしまいますし、木々の新緑も冬の寒さで、春芽を無駄にしてしまうことになります。あちこちで様々な天災が起こっていますが、こういう身近な自然にも異常が生じているようです。
しかも第2の田んぼに来たとき、手書きの立て看板がいくつも立っているのに出くわしました。崖(最近この辺りに宅地が建つにあたってコンクリの壁になってしまった)になっている上部に
どうもまた宅地開発されるらしく、それへの反対抗議の文面です。そこに家が建つと深い谷になっているこの辺りの日照はいっそう遮られます。「蛍も棲む、有機栽培の田んぼの稲も育たなくなる、開発反対」というのをはじめとする数枚のタテカンです。
とうとうここもまた…という思いです。ここだけではなく、先日も取り上げましたがこういう事態はいたるところで繰り広げられているというのが現状です。この地の緑はまさに屏風かカーテンの緑の壁です。ひと並びだけ樹木があって、その両側が宅地であるところが大部分です。
市の行政や保存の現状について詳しい人の話では、世界遺産への登録は、観光客を呼び込もうという商業的な計算であって、本当にこの地の自然や文化を守ろうという姿勢はほとんどない、今では地方に行けばどこでもあるその地の資料館(寺院による宝物館は別にして)のようなものもここにはなく、発掘による様々なものは記録も分類もされないままトロ箱のようなものに入れられ放りっぱなし、そしてじわじわと法の網をくぐる違法開発は後を絶たず、それを防ぐ方策も立てられない。これではその資格はないだろうと。
暗い話ばかりになりましたのでちょっと話題を変えます。
この辺りの紅葉(黄葉)は今月末から来月にかけてゆっくりしたものですから、今回もそれほどの彩は見られませんでした。そもそも楓のような木は少ないので、あまり綺麗な彩りはなく地味なものですが、それでも最近は紅色も見られるのはハゼ類が多くなったからだろうとのこと。今黄色に色づいているのは、エノキ、アカメガシワ、クワなどで、ヌルデやどこにでも巻きつくヤマイモの葉の黄色も緑の常緑樹の中で目立ちます。紅色ではコマユミとかカマツカとか、教えられてプリントの図を見てわかりましたが、一人では見つけられないでしょう。高山の鮮やかな紅葉の一つ、ナナカマドも出口辺りにあるのを教えられました。
鳥類では、アオジやクロジやウグイス(地声)、ヤマガラが鳴いていると言いますが私にはなかなか聞きとれません。
秋の青田の上を蝶が舞っているのも見られ、またヤマトシジミかウラナミシジミかという、小さな蝶が羽を休めているの、アカスジという昆虫の幼虫(この時期は赤い筋ではなく黒に白い筋を持っている)という不思議な虫も教えられました。このようにゆっくり観察していくと、人間には想定できない自然の不思議さ美しさ、巧みさにただただ感心するばかりで、その奥の深さを思い知るばかりです。そして私たちも、その中の砂粒のような一員として、ただ今を生きていく外ないのでしょう。
2011年11月13日
「インド音楽 シタール演奏」を聴きに行く。(大震災8か月目)
恒例になったシタール演奏を去年は風邪のため出かけられなかったが、今年は出かけることができた。震災8か月目の次の日である、ということもあってか何故か身に染みた。
インドの代表的な弦楽器シタール(共鳴胴は乾燥したトウガンからできている)と打楽器(小太鼓やつづみに似ている)、それにタンブラーという始終低音を奏でているシタールより長くて細身の弦楽器によるもので、堀之内幸二氏の独奏、そして合奏(タブラ=龍聡氏)であった。
演奏する曲は、一日の時間帯や季節の巡りに合わせたもので、朝のラーガ(旋律)、夜のラーガなどと言われ、またその旋律も演奏者個人の感性による即興性も加わって演奏されるという。聴いているとその微妙な変化による単調なリズムと旋律は眠くなるようであるが(実際私も途中うとうとした)、それは心地よく、終わってからも暫らく身体の中に旋律とタブラの響きが残っているようである。今もこれを書きながら脳裏にその音が微かに聞こえてくる。たぶんその音楽は、建築物のように構築され練り上げられたものではなく、風や波の音、せせらぎや木の葉のそよぎに似ているからかもしれない。
背後のスクリーンには、昨年行われたインド・ツアー旅行で撮った実景が映され、特に演奏の時はベナレスのガンジス川に夕日が沈んでいく光景が映し出されているので、震災の多くの死者たちへの思いも重ねられ心に染みたのかもしれない。
そして帰ってきて、7時のニュースでやっと初めて福島第一原発に報道陣が入ることができたということを知った。ただそれは細野原発相と同行するという形でとのこと。そして吉田所長へのインタヴューを聞いたのだが、それは爆発事故を聴いたとき、放射能は人間の手ではコントロールできないので、もう死ぬかもしれないと思った、といった率直な発言がなされているのを聞き驚いた。現場を見た記者の、事故の凄まじさに言葉も出なかったという報告と合わせて、やはり初めから今のようになる可能性は分かっていたのだと思いで愕然とした。やはりパニックを起こさないように隠されていたのだ。そして、しかし今は何とか安定している(しかし今後どうなるかは不明)、だから安心するようにということである。
何とか安定するまで漕ぎつけたので、所長も当時の本音を漏らすことができたのであろう。
私は慌ててこの日の新聞を見返した。しかし最前線(原発事故の復旧作業基地になっている「Jヴィレッジ」)に報道陣が入ったと報じられているが、インタヴューも原発事故の現場も報じられていない。パソコンを開け、そこでのニュースを見ると、インタヴューの記事はあった。しかし聞いたのより和らげられている感がした。今は安定しているから安心するようにという意見が前面に出ている。ところがそのうちその記事が消えたのである。この日はニュースが犇めいていた。今日本にとってはTPPが切実な問題である。トルコでも地震があり、タイの洪水はなかなか収まらない。ヨーロッパの問題、オリンパスもあり巨人の内紛、しかもこの日女子のフィギュア(これは私も楽しんだ)もあった。それらの報道で消えてしまったのである。しかしまたその後、記事は復活した。
心安からぬものがあったが、朝の新聞では第一面に、大きく原発事故の現場や所長の発言が掲載されていて、安心した。
私個人で自分を振り回していたことに苦笑しながらも、これらを考えるに、下衆の勘繰りと言われるかもしれないが、福島原発事故の現場視察は、実際は、8か月目の11日に行われ、その報道記事の発表は12日ということにしたのではないかということである。報道記事をよく読むと11日に入ったということは書いてあるが、12日に入ったとは書いてなく、「初めて公開される」という書き方になっている。すなわち11日の視察内容、記事を調整して12日に公開、発表するという事なのだ。
ここでそれらを非難しているわけではない。所長も死ぬ思いで事故の収束に懸命になったであろうし、作業員たち、記者たちも高放射能の中で必死に自分たちの職務を果たしている。みなそれぞれに懸命に持ち場で頑張っていると思うけれど、報道、マスコミというものはこういうものだということを、やっといま痛感しているという事だけを、自戒を込めてここで書いておきたかった。