2015年05月23日
幻のドキュメンタリー映画『戦ふ兵隊』を観る
「鎌倉・映画を観る会」の30周年記念として上映されたこのドキュメンタリーを見に行った。
これは1938年、日中戦争が泥沼化していく中、戦意高揚のため陸軍省の後援で製作されたものにも拘らず、内容があまりにも厭世的・反戦的であるため上映禁止となり、そのフイルムが発見されたのが1975年だったという幻の名作である。
今年は戦後70年、この国がまたいつか来た道をたどるのではないかという懸念が生じている現在、
戦争について改めて考えてもらいたいという気持ちからの上映という。
上映前20分に着いたのに空席は少なく、上映時には全席満員となるという有様で関心の深さも感じられた。
監督の亀井文夫は、当時の戦争映画とは違う映画を作ろうという気持ちがあり、撮影で中國人と触れあう中で「戦争で苦しむ大地、そこに生きる人間(兵隊も農民も)、馬も、一本の草の悲しみまでも逃さず記録することに努力した」という。
まさにそんな内容で、勇ましい戦闘の様子はほとんどなく、部隊が通過した後の村の様子や、戦火に追い立てられて避難していく難民たちの流浪の長い列など、また兵隊側も野営地で戦死した兵隊の火葬や弔いラッパや卒塔婆、残された背嚢から出てきた家族からの手紙や写真などで、「戦争と生命との悲痛な関係を」鋭く見つめ、記録し続けることで、戦争の非人間性に迫っていこうとしている。
最初のシーンは道祖神の祠に長い祈りを捧げる中国農民、また日本兵の部隊が通過したあと、その焼け跡に呆然とたたずむ家族たちの姿である。
そしてラストシーンは、長い闘いと行軍の果てに疲れ切った兵隊たちの、石像のように身動き一つなく深い眠りに入っている姿である。これが編集により短くなっているというが、その群像が静かに映し出されて終わる。
またナレーション、解説がなく、ただそのシーンに短いタイトル・表題をつけただけで(侵略していく道筋として簡単な地図で示される)、ほとんどが同時録音と音楽(古関裕而)で構成されていて、それを観る者の判断や気持ちにゆだねようとしている。
戦闘の場面がないわけではないが、それは機関銃を打つ兵士の顔のアップとか、広い荒野の、砲弾の飛び交う中を進んでいく兵士たちの俯瞰とか、前線に駐屯する中隊司令部のテントの中などで、勇ましい兵士というよりまさに戦場の臨場感が伝わってくるものである。
また軍が行進していった後、行軍に耐えられなくなったため捨てられていった病馬がたった一頭、崩れるように倒れていく姿をカメラで追いかけている。まさにここには人と馬との区別なく、戦争と命の悲痛な関係の実証がある。
この武漢攻略の最後に、やっと漢口にたどり着くのだが、街に軍隊が軍靴を響かせながら行進して続々と兵隊の群れが入ってくるシーンに胸が圧迫される思いがした。占領とはこういうものなのだという思いである。
そして、確かに戦いに敗れ、占領されたが、また国土は焼け野原となり原子爆弾を落とされたが、沖縄は別としてこのように他国の軍隊が自分たちの街の中に入り込んでこられた経験はなかったのではないかという思いである。アメリカ兵が駐留してきたのは終戦後の事である。
空襲では、アメリカ兵の顔が見えるまでの至近距離から爆弾を落とされたとしても、軍隊そのものが軍靴をとどろかせて街中に入ってきたのではない。それを受け入れる側の気持ちを身に染みて感じることができないのかもしれない。「歴史認識」が足りないと言われるのも、それを味わったことのなかったゆえに、それを受け入れる側の惨めな気持ちを心から(体感的に)感じることができないのではないだろうか、と漢口の街の広場にあふれるように集合する兵隊たちの姿、その一画で奏でられる勝利の演奏曲などの場面を見ながら思ったのであった。
2015年02月16日
バッハの「ミサ曲」と台峯歩き
真っ白な富士がくっきり見える週末、友人が属している合唱団が出演する演奏会を聴きに杉並公会堂まではるばる出かけました。
曲目は『ロ短調 ミサ曲』、バッハ最晩年の遺言ともいえるこの曲は、オーケストラから合唱、ソロの各パートを揃えての、壮大で緻密な複雑な構想を持った2時間近く27曲にも及ぶ長丁場の曲で、ミサ曲と言うものを堪能させられた思いがしました。
ミサ曲の内容には聖書全体が要約されているとのことで、神の憐れみを乞う声々から始まり、神の御子イエスの出現からその受難、イエス・キリストの十字架と復活、それによって全ての人々を救いに招かれるという御業を示し、それにより真の平和が与えられるということをこの全曲で表現しているとのことです。
全くの素人の私は、耳を傾けつつも渡された「曲目解説・歌詞対訳」を眺めながら、一曲ずつ巧妙に、オーケストラやソロや合唱の組み合わせを変化させていくその進行に、ついていくのが精いっぱいという感じで、まさにこの曲は、教会の大伽藍のようだと思わせられました。
そしてつくづくキリスト教の奥深さ、緻密さ、大きさと言うものを思わせられました。音楽でもその進行の世界を、建築にも劣らぬほどの表現で実現しようとしたのではないだろうか、とも感じました。
そういう音楽がこの国にはあるだろうか。またそういう信仰(?)があるだろうか。少なくとも私にはないのでした。つくづく私はキリスト教の世界からは遠い気がしました。ミサ曲もただ、音楽として鑑賞しているだけですから。
そして次の日の日曜日、台峯歩きの日でした。少々疲れていましたが、あまりに良い天気なので(日本海側や北海道では記録的な大雪で雪崩など大変のようですが)参加してきました。今はほとんど花がないので、今回はシダ類を中心に観察しながら、参加者も少なかったですが、陽射しは温かくちらほら咲き始めた梅のような凛とした空気は気持ちが良く、楽しい歩きになりました。
シダ類の種類は1万種ほどあり、この辺では1000種ほどが生息しているとのことで、プリントされている種類は20数種ですが、それを見分けるのもなかなか難しいです。でもそれぞれをゆっくりと眺めると、その手触りや色合い、艶や形などは様々でそれを観察していくとこれまではわが庭ではいつも邪魔者として見境なくむしり取っていたそれも、もっとよく眺めようという気持ちになります。
鳥はモズ、カシラダカ、アオジ、そしてここに渡ってきたのは13年ぶりだと理事の人が感嘆していたベニマシコが見られました。
シダ類でさえその世界に踏み入れてみるとそれぞれが微妙で、複雑な姿と変化を遂げています。
同じところを歩き続けていても、その姿の長い歴史とその変化は予想できないものを秘めています。
まさに自然そのものが、一種の大伽藍、カテドラルのようなものだと思わずにはいられません。
この国の多くの人は無信仰、と言うより自然教だという人がいますが、自分も自然の中の一個として、自然に抱かれ自然を崇拝しているようにも思え、一神教であるキリスト教と比べてしまいます。
「イスラム国」の台頭などを見るとき、宗教とは一体なんだろう? とバッハ『ロ短調 ミサ曲』を聴いたり台峯を歩きをしながら考えたものでした。とても難しい問題ですが・・・。
2014年04月08日
桜と土筆
このところの陽気で桜は一気に開花、都内では盛んに散っているようですが、ここから見える雑木林の桜色は、褪せてはいますがまだ健在です。先日の激しい風雨にもまれても開ききらない花はしっかりと枝にしがみついているのを見て、命と言うものの強さ、しぶとささえ感じさせらました。この辺りはソメイヨシノの親系で、開花も少し遅い、原種の大島桜(白っぽい)が多いので、いっそうそう感じるのかも知れません。
この暖かさと雨によって、草木はいっせいに萌えはじめ、六国見山頂から眺めた丘陵も、白や桜色から緑のグラデーションへと色合い華やかに染まりはじめ、鬱々とした気持ちもこの時ばかりは晴れる思いがします。
その道すがら土手に土筆を見つけました。スギナが一面に生えているのには気がついていましたが、今日あちこちにそれを見つけたのです。さっそくそれを摘んできて、といってもほんの10本ほどですが、食しました。茹でて水にさらし、卵に混ぜて卵焼きに・・・。全くのオママゴトですけれど・・・(笑)。
2014年03月13日
鶯鳴き始める。
予報通りに今日は、夕方ちかくから雨風強くなって春の嵐の感じです。
朝のうちはまだ穏やな曇り空で陽も射すこともあったので、雨にならない前にとこの辺り歩いてきたのですが、その時ウグイスの声をききました。どうしてか何時ものように声繕いをするような拙い声ではなく、もうきっぱりとした声で高く二声、鳴いたのにはちょっと驚き、本当にウグイスだったのか? と思ったほどでした。
前回ブログを書いたのは雪が降った日の事で、その後それ以上の記録的な大雪となり、国中が大騒ぎしたので、ピンポイントの私的状況など発信する気持ち余裕もなくなってそのままサボってしまいました。でもやはりウグイスの声をきくと、やはりちょっと報告したい気持ちになりったのでこれを書いています。いよいよ春になったなあ・・・と私自身感じたからです。
梅に鶯と言うものの花の蜜を吸いに来るのは大抵はメジロなど、でも梅はまだ春も浅いうちから咲きはじめ、長い間咲きつづけるので、どうしても春を告げるウグイスと対に考えられてしまうのでしょう。
三月は冬将軍と春の女神の争いの月、大体荒れ模様の日が多いことは昔から決まっていますが、それでも毎年その様相が異なるので、今こそが最たるものと思ってしまうのかもしれません。それでもやはり年々気象は荒っぽくなっていく感じです。
こういう荒れた日は、折角張り切って声を上げていたあのウグイス君は、どこにどうして凌いでいるだろうか、と思ってしまいます。
2014年02月11日
大雪、その後。
今朝、外に出て驚きました。軒場からツララのようなものが垂れ下がっているのです。
ほんの3、4本のことですが、屋根に張り出すように積もった雪が解けて、その滴がツララとなって凍ったのでした。それほど今朝は冷え込みました。外の寒暖計は2度でしたが、まだたっぷり残っている雪のために風がとても冷たく感じられます。横須賀や千葉では雪になっているところもあるようです。
大雪の翌日、入っていなかった新聞は午後になって、前日土曜日の夕刊と一緒に届きました。バイクの音を聞かなかったようなので、もしかしたら歩いて配っていたのではないでしょうか。ほんとうにご苦労様です。またこの日は最初の雪かきでバイクぐらいが通れる細い道をつくったのですが、その後若い人たちの手で夕方ごろまでかかり拡幅されました。これでゴミ収集車も上がってこられることになったわけで感謝。肝心のゴミ収集車ですが、やはりかなり遅れて、午後遅くに来たようです。雪のためあちこちで難渋したのだと思います。
今少しばかり陽がさしてきましたがおおむね曇り空で、気温が上がらず庭の雪も解けずに固まり続けています。当日にやっと雪の中から救い出したヒイラギ南天(南天ヒイラギ?)やマンリョウは、最初それまでの雪の重みで腰を曲げてましたが何とか元に近い形に返りましたが、雪のためキンシバイなど枝が折れてしまいました、道路沿いにあるハクチョウゲが固い雪に根元から折り曲げられているのを発見して救い出そうとスコップで取り除く努力をしましたが、どういう事になるやら…。
まだ深い雪の下に埋もれたままの植物たち…そのなかで大きく膨らんでいた梅の花が、雪の滴をはらいながら一輪、一輪と咲いていく姿は誠にけなげです。
2014年02月09日
大雪の朝。
この辺りでも、予想外のこれまでにない大雪になりました。
東京では45年ぶりの大雪で27センチ、熊谷では43センチ、千葉では記録し始めてから最高の33センチとか報じられていましたが…。
わが家は坂道の中腹、道路も行き会う処に建っているので、吹雪模様になった昨夜、どうも雪のたまり場になったようです。朝起きてみると、猫の額ほどの庭には雪が深々と積り、郵便受けのある入口に出ることさえ出来なくなっていました。しかも今にも咲きそうになっていた南天ヒイラギの木が雪の重みで頭を垂れて道を塞ぎ、あまりに重たく雪を落とすこともできず、仕方なく玄関からではなく居間のガラス戸の方から辿ろうとしたのですが、それでも長靴を履いてもすっぽりと入って腰まである深さがあるので慌てました。もちろんバイクは下の坂を上がってこれませんから新聞も届いていませんでした。この辺りは坂道なので雪が降ると各戸雪かきをしなければならないのですが、それにしても今度の雪はやはりこれまでになく深いものでした。
ちょうどその時前の道の雪かきをしていた近所の若いご夫婦が玄関から入口までの除雪をしてくれ、
大変助かりました。ほんの5、6メートルぐらいなのにやはり大変で、こんな雪かきを雪国の人は毎日のようにするわけで…と思いやりながら言い合いました。その細い通り道も両側は5~60センチほどの雪壁になり、何メートルにもなる雪国からすれば笑止ものですが、なんとなく雪国を思わせるのでした。道路の雪かきをした細い道もやはりちょっとした雪の壁になっています。
でも細い道では2輪は上がってこれますが、4輪はダメなので、明日のごみ収集車はやってこないかもしれません。以前にもそういう事がありましたから。
雪晴れの朝は雪の反射で眩しいくらいに光があふれて、軒端から雪解けの滴が盛んにしたたっています。この家の屋根からも積もった雪が大きく張り出し今にも落ちそうになっています。
昨夜、玄関先に並べてあったメダカを入れた2鉢に、雪がどんどん降りこんでシャーベット状になっているのに気がついて慌てて屋内に入れたものも、今朝はまだシャーベット片が水面にまだ浮いているものの、水草の下にメダカはお互いに集まって生き延びていたようなのでほっとしています。
風流にもガラス戸の手前は雪見障子になっているのですが、雪見をして愉しむというよりは、この陽射しで少しでも雪が解けてくれるのを望むような心境にさえなっています。
今日はほんの少しですが、雪国の暮らしの一日となったようです。
2014年01月02日
御前崎に行く。
大晦日から元旦にかけて御前崎に行ってきました。
長い間グループで栃尾又温泉で年越しをしていたので、大晦日の夜を独りで過ごすのはやはり少々寂しく侘しく、今年はその中の一人と御前崎で初日の出を観ようと思いついたのでした。
栃尾又のような素朴さが残るところが好きなので、灯台に近い御前崎ユースホステルに申し込みました。私はもうユースの年齢から遥かに遠いところに来てしまっていますが、いまだにその会員なのです。(シルバー会員と言う枠もあります!)
御前崎は新潟と比べて近いところと思うのですが、交通の便から言うと鉄道は乗り換えが1から2つあり、バスも終点から終点まで2つの路線で行かねばならない、ちょっと大変だと気兼ねのいらない人でなければ誘えません。
結果から言えば、宿は灯台の傍から初日の出を見るに最適のスポットの近くにあり、朝の6時50分頃が日の出と言う少し前に宿の主人に連れられて出かけましたが、少し霞んではいるものの(と常連のカメラマンは言ってましたが)ばっちり見られました。
またユースホステルも、最近は利用していないので最初はちょっと勝手を忘れて戸惑うこともありましたが古いながらも懐かしいい雰囲気がいっぱいでアットホームな感じ、食堂兼ロビーには薪ストーブが身体にやさしい温もりをはなち、この薪の炎が懐かしく毎年やってくるという常連客もいました。
料理も栃尾又と同様、大晦日と元旦は仕来りどおりの特別のご馳走で味付けもよく美味しく、年越しそば、元旦の御節からお雑煮までちゃんと出てくるというサービスぶり、これでいつもと同じ安い宿泊料と食事代と言うのは申し訳ないような気がするほどでした。
しかしそこにたどり着くまでの行程は想像した通り大変でした。電車は新幹線を使っても乗り換えねばならず時間もさほど短縮されないのですべて普通、しかし快速アクティーを使えば少し早くなるのでそれで乗り換えの熱海まで行きましたが、問題は静岡駅からのバスです。年末年始なので本数が減り、しかも2本目のバスの時の待ち時間が1時間以上もあって、大晦日なので店はすべてしまっているという有様、それ程冷え込んではいない晴れでしたからよかったものの着込んできて良かったと思ったものです。
という事で、電車で2時間半ほどそこからバスでも同じくらいかかってしまい、合計乗り物に5時間以上。帰りはバスの時刻表をもらってちゃんと時間を考え、早めに宿を出てバスは所定の1時間半ぐらいで調子が良かったのですが、折も折、強風のため熱海:湯河原間が一時不通になってしまいました。その後何とか復旧し、速度制限をしながらの運行になりましたが、アナウンスの指示に従って乗客はあちこちしなければならない羽目になり、往復とも時間がかかりあたふたする様はまさに東海道の弥次喜多道中でした。
でも食堂で相席になった一人は香川県からずっと一人で自転車旅行の最中で、これから横浜まで行き、そこから少し引き返して栄区にいる親戚の家に行くのだという頼もしい青年、またこれも横浜から一人でやってきたという気持ちのいい娘さん(この人もずっと電車は普通で来たとのこと)などとちょっと話をしたりして、こちらも元気をもらえる感じでした。また初日のスポットに案内してくれたご主人の話ではこの辺には民話が多く、オオネズミを退治してくれた猫の話などちょっとしてくれ、確かに「猫塚ネズミ塚」などもあるのでした。
宿もよく楽しかったものの、そこまでの旅程は大変で帰ったらくたくたになりました。
元旦からこれでは今年は多難の年になるのかなあと思いつつもそれも人生で面白いかもと覚悟を新たにした元旦です。
2013年11月25日
映画『ハンナ・アーレント』を観る。
岩波ホールで上映されているこの映画はなぜか評判のようで、混み合っているとのこと。でももう、少しは落ち着いているだろうと思い、出かけてみた。最近は神保町からはすっかり足が遠のいていたので、街をぶらついてみたくもなったのである。
上演50分前ぐらいに着いたのに、入場券売り場は列ができ、整理をする人が立っていた。開演時にはほぼ満席となった。
さて映画の題名となっているハンナ・アーレントは、ニューヨーク在住、ナチの大虐殺のとき強制収容所送りになったが、運よく脱出できてアメリカに渡り、今では大学の客員教授の職にあり著書には『全体緯主義の起源』などもある高名なユダヤ人哲学者の女性である。
映画は、ユダヤ人を強制収容所送りにした責任者 アドルフ・アイヒマンが逮捕された場面から始まる。彼がイスラエルで裁かれるとき、裁判の傍聴を要望し、それは「ザ・ニューヨーク」紙に傍聴記を書くことを希望することによって叶えられ、戦後初めてイスラエルに到着し、志を同じくした友人一家とも再会を果たすのであったが…。
裁判を傍聴したアーレントの筆はなかなか進まない。だがアイヒマンに死刑判決が下されたのをきっかけに、やっと執筆を再開し発表し始めたが、発売直後、その発言が「アイヒマン擁護」であるとされ世界中からパッシングされるのである。
イスラエル政府からは記事の出版を中止するよう警告され、その結果大学からも辞職を勧告される。彼女のもとには非難中傷の手紙が続々届く。ネット時代の今であれば、パソコンの炎上という事態であろう。しかし決してそうではない、擁護など微塵もしていない、という事を学生たちへの講義という形での反論を決意する。
大教室に集まった学生たちをはじめ大勢の聴衆を前に、堂々と言語で戦い、誤解を解く演説をすることを図り最後には拍手も起こる。私たちもそれを一緒に聴くことになり、その正論には頷かされることになる。
パッシングされる箇所とはどういう点かというと、アイヒマンが彼女の想像したような「凶悪な怪物」などではなく「平凡な人間」だったという驚きがあり、それ故に記事を書きあぐんでいたわけだが、それをそのままに感じたとおりに書いたことによる。彼が極悪非道な、邪悪な人間であったわけではなく、ごく平凡な、普通の凡庸な人間であり、それ故にこのような悪を生じさせたという表現である。
それをアーレントは「悪の陳腐さ、凡庸さ」と言う。
これはドキュメンタリーではなく演出されたものだが、裁判でアイヒマンが尋問を受ける場面は実際のフイルムを使っている。彼女は言う、「世界最大の悪は、平凡な人間が行うものです。信念も邪心も悪魔的な意図もない、人間的であることを拒絶したものなのです。」そしてこの現象を「悪の凡庸さ」と名付けると。これがアイヒマンを擁護したものと受け取られた。その上、彼女はユダヤ人指導者の中にもアイヒマンに協力していた人たちがいて、それがいっそう犠牲者を増加させたとも。もちろんこれは強制されたものであり抵抗出来なかったからであるが、それらの発言はユダヤ人を激怒させたのである。
そしてただ一人残っていた、同郷の古くからの友人も、冷たいまなざしを向けて教室から出ていくのである。
一緒に亡命してきた夫だけは最後まで彼女の理解者であったことにはほっとさせられるが、その後も生涯、「悪」について考え続けた哲学者であったようだ。
アイヒマンが、特に凶悪でも悪魔的な人間でもなかったという事については、戦後社会で生きてきたからかもしれないが、アーレントほどの驚きはない。むしろそうだろうという考えの方である。犯罪者が捕まってみれば多くがいかにも悪で乱暴者であるより普通の人間、むしろ真面目で大人しい、そうとは思えない人の方が多いからである。
しかしそのような普通の、平凡かつ凡庸な人間こそが最大の悪をなすというのは、本当に怖ろしい。
なぜそういう結果を生むのかという事が、ここでは非常に大切なことだと私には思えた。アイヒマンは繰り返し言う。自分の手では何もしなかったと、ただ上からの命令を伝えただけ、業務を真面目に遂行しただけだと。即ち彼には思考と判断力が全く欠如していた。自分の業務がもたらす結果を想像することすらできなかったのである。
考えることを放棄した葦、それは人間である止めた事を意味し、それこそが「悪の無思想性」で、「表面にはびこり渡るからこそ全世界を廃墟にしうる」とアーレントは考えたようである。
映画はこのようにすこぶる真面目で深刻な問題をはらんでいる内容で、アーレントと有名な哲学者ハイデガーとの学生時代の恋愛なども絡めてはいるが、そんなに楽しいものではないのに、どうして評判になって観客を集めているのか私には分からなかった。もしかして今と言う時代に不安を感じた人々が何かに引き寄せられる形でやってきているのかもしれない。
けれどもなぜ彼女の記事がそれほどまでにパッシングをされたのだろう。確かに彼女の指摘は正しく、私にもよく分かった。反論のスピーチも拍手で締めくくられたのである。しかしそこに私は立ちどませられた。
確かに彼女の言い分は正しく、アイヒマンを弾劾はしても擁護などはしてない(むしろ公平な目線である)。そして趣旨ももっともである。しかし何かが足りなかったというか、人々の心の奥底に潜む或るものを彼女にも理解できなかったのではないだろうか。それは何か? 私にも分からないし表現も出来ないが、人間と言うものの複雑微妙さ、業のようなものが存在するからかもしれない。考えさせられる重たい映画に思えた。
2013年10月31日
映画『東京家族』を観る
山田洋次監督のこの映画が、近くで上映されたので観に行った。小津の代表作として世界的にも有名な『東京物語』は、1950年代、高度成長期に至る前の核家族化とその末の老齢社会化を予兆するような内容だが、それを今日に置き換えたときどう描かれるのだろうかという興味もあった。
まさにこれは山田監督自身が字幕にも書いているとおり小津安二郎の『東京物語』へのオマージュであってそれ以上には出ないように思えた。老夫妻(この年齢設定も今日では老齢という年ではなくなっているだろう)の暮らす長閑な町も、尾道ではないとのことだが似たような近い土地、笠智衆の役が橋爪功で、始めは誰か分からないくらいで、笠智衆のような根は頑固だが茫洋とした雰囲気を出そうとしている懸命さは感じられるものの、やはり笠の独特の風格はなかなかまねできないに違いない。東山千栄子の妻の役は吉行和子だが、こちらは適役に思えた。3姉弟の設定も、長女が美容師、長男が医者という点は同じである。最後の戦死した次男、そして今は未亡人になったその嫁を演じる原節子が、後半部で老夫婦を支える重要な人物となるのだが、その部分だけは今の社会に照合させて、戦死ではなく父から全く認められていないフリーターの舞台芸術家、そしてその婚約者が3:11の大津波の被災地先で同じくボランティアをしていた女(彼女も被災者の一人)で、それを蒼井優に演じさせている。しかし登場する場面は短く原節子のように都会の片隅で咲いた百合の花のような存在にはなっていない。
重要な場面はほとんど、細部にわたって「物語」を踏襲している。ただ長女や長男のいずれにも泊まることができずホテルに泊まらせられることになるのだが、それがうるさくて眠れないような宿ではなく、横浜の「みなとみらい」の大観覧車が見える豪華ホテルという点、あまりに広くて豪華で、勿体なくて一泊で出てきてしまうなどは、皮肉を込めたユーモアかと思わせられたりもした。
けれども型があるという事は、どうしてもそこから出ることは難しく、大都会における今現在の家族の在り様、また故郷というべき地方の在り方などをそれ以上描くことはできないだろう。あくまでも小津監督に対する敬意と愛惜を表した映画なのだと思った。
そして思うのだった。宮崎駿の最後といわれるアニメ映画「風立ちぬ」も時代に対する愛惜である。
いま次々に時代を画した有名、著名人が亡くなっていく。そして世の巨匠といわれる人たちもエネルギッシュに仕事を推し進めるというよりは、すでに事なり回顧の心境に今は至っているのでは…と思われるのである。そして時代もまた、一つの転機、爛熟期になっており、良くも悪くも大きく変わっていくのだろうという思いが深くする。私自身もその去っていく時代の一人であるが…。
2013年05月26日
ガビ(蛾眉)鳥、庭先に来る。
先のブログでも書いた蛾眉鳥ですが、今日のお昼頃、あの高く鋭くけたたましい声が間近に聞こえてきたので、慌てて窓を開けて見ると、この鳥が来ていました。
今伸びている黒竹の先のほうに、ちょうど止ったところで横顔がはっきり見えました。
歩く会でもらったコピーで想像したよりもずっと大きい感じで、ウグイスよりも一回りどころかヒヨドリくらいはある大きさ、羽根の黒っぽいウグイス色もぼさぼさした感じで、眼のあたりも隈取をした歌舞伎役者のよう、こちらの思い込みもあって何か猛々しい様子で憎らしい姿をしているのです。
これまでウグイスやホトトギスの声を圧するように林の中で啼いていたガビの声が、そこではこのところあまり聞かれなくなって、高校の校庭の木々の繁みなどから聞こえてくることが多くなっていて、昔は飼い鳥であったせいで町中が恋しくなったか、などと思っていたのですが…。
中国からやってきたこの外来種は、姿も大きく声も高く、何処にいても在来の鳥たちを圧倒しているようです。
ウグイスがこの庭先にやってきて、声を聞かせてくれたときは感動しましたが、この鳥の声を聞き、姿まで見たときは(初めてみました)、憎らしく思ってしまったのはやはり偏見かもしれません。
それでもウグイスやキビタキやシジュウカラのように小さくて可愛らしくて繊細な小鳥、声も澄んだ声であるのに対して、この大柄な鳥は姿もぼさぼさ、甲高い声もガラガラした声が混じっていて好きになれないのでした。ガビにしては気の毒な、身びいきです。
2013年05月15日
ホトトギス、鳴き始める。
早朝の散歩の際、ホトトギスの声を聞いた。私にとっては今年初めて、これを聞くと、ああ夏が来たなあと感じます。このところ夏日になることが多く、今日も夏の暑さでいよいよ夏の到来と思うのですが、湿度が高いので爽やかな感じはしません。
このところ鳴く鳥の声も増えてきて、もうすっかり歌も上手になったウグイスのほか、よく声を響かせるコジュケイも時には子ども連れの姿を現したりします。シジュウカラもチーペチーペと電線に止まって盛んに囀り続けます。春にはよく見かけていたメジロはかえって見られなくなりました。巣の中で抱卵の最中でしょうか。山中の高く鋭い声の持ち主はどうもガビチョウのようで、これは中国でよく飼われている鳥が渡ってきたらしい外来種で、大体において外来種は強く、生態系を脅かす原因になっているのであまり歓迎できないのです。
先月の台峯歩きの日は雨で、今月の第3日曜日も予報によれば雨になるかもしれないので、その代りに簡単に今の様子を書きました。わが家の植木鉢で、ほとんど枯れそうでいて毎年何とか少しだけ蔓を伸ばしていたものの花など咲かせなかったテッセンが、今年はぐんぐん伸びて蕾をつけ、昨日白い花を一輪咲かせました。今朝、その花の中に青いものが見えるので覗き込むと、生まれたばかりのような小さなバッタが止まっていました。命は、死なないで生き続けていればいつかはこんな風に
花を咲かせる時もあるのだろうか。今年はちょっといいことがあるのでは…と勝手に思ったりしてます。
2013年03月10日
やっとウグイスの初音を聞く
鶯の声を聞いたと近所の人は言っているのに、私はまだ聞けず残念に思ってましたが、やっと今日、朝の裏山で耳にしました。もうちゃんと完全にホウホケキョと鳴いたのでした。やはり、ちょっと心が躍り、立ち止まって耳を澄ませたのでした。そして声を聞かせてくれたウグイスに、アリガトウと言いたい気持ち。
その道筋でよく出会う人に話すと、彼女はもう3度ほど聞いたということ、ちょっとまだ下手で、ホ、ホケ、などいうのもいたけど…と。
今日はその後気持ちが悪いくらい暖かくなり、5月から6月の初夏の気温だとかで、内陸ではもう25度を超えているようです。しかし晴れて陽射しは強いのに、なんとなく辺りは靄がかかった感じで、遠くの山並みは見えません。これは黄砂がPM2,5を引き連れてきたのではなかろうかと思ったりする。それでもウグイスの声を聞いただけで嬉しくなるのは不思議だが、やはり寒い冬が終わりいよいよ春になったという、生き物の持つ本能的な喜びなのだろう。
また、これまで蕾はふくらみながらなかなか咲かった土手の河津桜が、やっと咲き始めたのも嬉しかった。そのピンクに染まった梢も暫らく立ち止って見上げた。
明日で大震災から二年になる。その後の不安で暗くなっていく日々が、なんだか遠い日々のような気がする。これは被災地でなく、普通の日々が何事もなかったかのように続いていけるからだろう。こんな状態が物事を風化させていくというのだろうか。そのことを改めて考えなければと思う。
2013年03月04日
ドキュメンタリー映画「シェーナウの想い」を観る。
これはドイツ南西部、黒い森の中にある小さな町シェーナウ市(自然豊かな、人口2500人くらいの静かな町)で、チェルノブイリ原発(2000K離れているが、ここにも放射能が降った)をきっかけにして、親たちが子どもの未来を守るためにと、「原発のない未来のための親の会」と立ち上げ(フランスの原発からは30キロ圏内という)、原発反対から始まり、最後には自分たちの電力会社を作るまでに至り、今ではそれを外部にも送電できるくらいになったという、「電力の革命児」と言われている町の、そこに至るまでの過程を描いた自主上映のドキュメンタリー映画であった。
ドイツが国としても即座に原発は作らないという方向に舵を切ったのに、事故当事者である日本では、行く末はその方向を目指しているもののという糖衣錠をかぶせた形で、国が再稼働にどうして踏み切ってしまっのたか? と思っていたが、この映画を見るとなるほどと思わせられた。このような市民意識がすでに育っていたのである。
もちろん国土の規模や風土の違い、民主主義の成熟度などの違いもがあり、比較はできないという思いもあったが、これを見ているうちに決してそうではなく、状況は同じなのだと思えてきて、日本でも不可能ではないと思え、それはこれを日本で公開した人たちの考えでもあったようです。
市民たちが太陽光、風力、水力など自然エネルギー発電をして、それだけで成り立っている市民の電力会社…。しかしそこの住民が特別であったわけではなく、専門家もいるわけではなく素人ばかりの平凡な市民たち、ただ会を立ち上げたことで、そこに外部から専門家や学者が集まってきて知恵が集積したということなのであった。
また電力会社という、金儲けを主として考える、独占の企業の体質は、どの国であっても同じ構造を持っている。環境にやさしくなどと考えるより、どうすれば収益が上がるかが優先し、システム自体がそうなっているのである。たとえば、節電したほうが安くなるより、たくさん使ったほうが安くなるというシステム、またドイツにも「原子力ムラ」の構造があり、それに市民が抵抗する難しさも同様にあるとのこと。それらを一つ一つ克服しながらここに至るまでが、1時間のドクメンタリーで描かれたものでした。
また町自体も、全員がこの運動に賛成したわけではなく、ほとんど5分5分、それを集会や戸別訪問で、この方向にまとめていったという経緯があります。もちろん投票や決定となるとそこには感情も無視できません。小さな町で誰もが知り合い、最終決定した後も互いに共に暮らさねばならない人間関係、シコリが残らないかと思われますが、そうはならなかったことにも納得できるものがありました。
折しもその夜はTVでマイケル・サンデル白熱教室があり、議題は「これからの復興の話をしよう」でした。これまでの架空の論題ではなく、現実の話、東北在住の1000人との議論で、(これは初めての試みとのこと)、当然のことですが、サンデル氏は、結論じみたものを自分から決して出そうとはせず、議論の中から自然に出てくるのを待つのですが、この時の議論にシェーナウの町の例に通じるものを感じたのでした。
そこに出た論点の多くについて5分5分でした。そして最後のほうで復興事業が遅れていることに対して、事業のスピードを上げるためには住民の合意がえられるのを待たないでもいいという意見と、そうしてはいけないという意見、この微妙な問題が出たときに、ある意見に氏は頷きながら、合意と納得とは違うということですね、と言ったのです。
合意は、意見が一致すること。しかし納得はそうではなく、意見は違うが、状況や相手の意見などを考えた結果、そうせざるを得ない、そうするのも仕方ないなあと頷くことだからです。そしてその納得は、お互いの良く話し合い、考えた末に出るもので、そのためにも十分な議論、話し合いが必要だと氏は結んだのです。
シェーナウもたぶん原発反対と母親たちが立ち上がってから、十分に話し合い、活動し、知恵を絞る間に最初はほぼ5分5分であった反対派を納得させ、町全体としてその方向へ進んだのでしょう。最初は互いに意見は違っていたが、こうなってみればよかったと納得したのだと思います。サンデル氏も言ったように、それが同じところに暮し共存するもののやり方だと私も納得したのでした。
そしてこの東北在住の1000人の議論の現場を見ながら、これは氏が意図したものでしょうが、最初の意見で、「東北人は、他人の悪口を言って自分も相手も気分が悪くなるより、自分が我慢すればいいと考えるようなところがあるので、このような議論の場は成立しないでしょう」という意見を取り上げ、最後はそうでは決してなかったことが証明されたような形になったのも、互いに意見を率直に出し合い話し合っていくことの大切さ、それが民主主義なのだと、これも納得させられる事柄でした。
会場では『原発をやめる100の理由』(築地書館)という本も売られていました。ここには「ドイツから」としてドイツの現状と、「日本では…」として日本の現状の比較がなされています。
2012年12月27日
『栃尾又温泉行き 三十年』について。
年の瀬もせまり、今年も数日を残すだけになってしまいました。
皆様も何かといろいろとお忙しい事でしょう。私も例年なら、暮れからお正月にかけての温泉行きの準備に取り掛かっているところですが今年から、もうご推察かとも思われますが取りやめることにいたしました。
その時の様子はこのブログで書かせてもらっており、その最後は今年1月5日で、そこには27年目としておりました。しかし実は30年目だったのです。この一世代ともいえるその年数に驚くとともに、少なくても6人ほどで出かけていた私たちグループも帰るときには4人になってしまっていたことからも、この行事も潮時では…(ということもブログには書き込んでいたのですが)と、結局ここでいったんケリをつけようという結論に至りました。というわけで年末年始の温泉行きはやめ、そのけじめとして、私が記録してきたメモ風のものにここで書かせていただいたブログを合わせて、その記録を冊子として刊行することにしたのです。
しかしこれは全く個人的な思い出にすぎず、参加していない人には何の興味も面白味もないものに違いありません。最初はコピーをし、製本だけを頼もうと考えていたのですが、結果としてこのようにコルボプリントさんに頼んで、見かけだけは立派な一冊の本に仕上げていただくことになりました。
考えてみると私のメモ風記録だけであれば到底考えなかったことでしょう。ブログの文章があったからで、それがあれば何とか読み物風の味わいも出てこようと思い考え付いたのです。この点でも Happy Blog という場を設定してくださったOさん、またそれを読んでくださっている方々にも感謝しております。又この場で紹介もしてくださっており、ありがたく思いました。
印刷所に頼んだので最初考えていたより多く作ったものの、採算の合う最小限度の部数であり、配ったのもまだ身近な方々だけです。参加者へも、締めくくるに当たっての打ち上げ会も今年はそれぞれ日程が合わず来年回しにしたので、まだ手渡してはいない状態でおりますが、このブログ誌面を借りてお礼とご報告をさせていただきました。ありがとうございました。
今年はことのほか寒さが厳しいようです。皆様どうかお元気で、来年もまたよろしく、と申し上げて今年最後のブログといたします。
2012年10月05日
「田村能里子講演会とインド音楽コンサート」
このところ年に一回インド音楽(シタール演奏:堀之内幸二氏)を聴きに行っているが、今年は女性としては珍しい壁画作家の田村さんとのライブ演奏である。台風も幸い海上にそれ、秋晴れとなった昨日の事。
油絵画家として模索中に田村さんはインドに行き、砂漠で生きる女たちの姿に魅せられ、そのような酷しい自然の中で生きる女たちを専ら描き続け、それが世界各地で壁画を描くことによって大きく開花したようである。その生涯と作品が、第1部の画廊主との対談形式で語られ(「誰も歩いてこなかった絵筆の道」)、第2部では主要作品がほぼ年代順にシタール演奏とともに大型のスクリーンで映し出される、コラボレーションだった。
中国の西安の「唐華賓館」の壁画を頼まれたことを皮切りに(40歳を過ぎたころからのようだ)、その後次々に59箇所の壁画を書き続けたという。日本だけでなくバンコクなどもあり、豪華客船飛鳥Ⅰ号、Ⅱ号、横浜のみなとみらいのコンサートホールなどもある。描かれるのは女性ばかりで、しかも自然の中に溶け込み生き物たちと共に戯れ楽しむ集合図で、そのためホテルはもちろん病院や老人ホームなどもあり、禅寺の襖絵も依頼されたというのも興味深かった。
壁画であるから足場を組んでその上に立って描く。しかし飛鳥では船中のため足場が組めずロープにつるされたゴンドラに乗って描かねばならず、全体像を確かめるためにはいちいち足場を下りねばならなかったり、肉体的な労力も想像に余りある。細身の田村さんから迸り出るその情熱と力に感嘆した。
それら壁画を映像にした技術も素晴らしく、アップにしたり部分をズームしたり、キャプションやナレーションもあり、動画ではないものの田村さんの画家としての足跡や自然や絵画に対する考え方などもおのずと辿れて次第に惹きこまれていった。そしてそれは絶え間なく流れるインド音楽のシタールの演奏(この日のために新たに作曲したものもあるとのこと)が素晴らしく効果的で、絵画と音楽が共に響きあって画面の壁画の世界に吸い込まれていくようだった。会場を後にしてからもその旋律が耳の底にいつまでも残った。
2012年09月21日
「洞門山」保全決定の最終報告
横須賀線の電車が北鎌倉駅に滑り込む寸前の左手にある緑地、鎌倉の玄関口ともいえる通称「洞門山」。
ここが大きく宅地開発されることになって、それへの市民の反対運動が生じた時、そこを通過するものの一人として最初のうち開発業者の説明会にも出たり署名も集めたりしたことから、ここにも書きましたし、またその後ほぼ全面的に残されることに決まったということも、確か書いたと思いますが、今年3月はっきり決定したようなので、ここに最終的な報告をさせていただきます。
宅地開発計画が明らかになったのは、08年3月。その後さまざまな経過を経て、最終的に市が宅地開発業者から約1億9千万で取得したとのこと、またそれを受け保全活動を行ってきた市民団体「守る会」が集めた募金や「宇崎竜堂のチャリティーコンサート」(これについてもここに載せました)の収益金などと合わせ257万円を、この9月に「市緑地保全基金」として寄付したとのこと。
そして今後、「守る会」は行政による洞門山の安全対策を見届けたうえで解散する予定、ということです。一応、めでたしめでたしです。 以上最終ご報告まで。
2012年09月10日
「レクイエム」を聴きに行く。
年下のTさんが属している混声合唱団コール・ミレニアムが 第10回記念演奏会として、東京芸術劇場で行う、ブラームスの「ドイツ・レクイエム」を聴きに行った。一昨日(9月8日)の事である。
劇場もリニューアルされたばかりのオープニング週間、その改装なったばかりの大ホールでの演奏会である。
共演はフィルハーモニックアンサンブル管弦楽団(指揮:黒岩英臣)、独唱:佐々木典子 大島郁郎)特別出演としてハープとオルガンが加わっている。
第一部は、管弦楽団による モーツアルト晩年の3大交響曲の一つ第39番(変ホ長調)。
第2部が、ヨハネス・ブラームス「ドイツ・レクイエム」 作品45であった。
Tさんはこの他コール、フリーデなどにも属していて、主としてレクイエムを長年歌っている。
最近は大震災などもあってレクイエムを歌う人も多くなったということだが、この合唱団も演奏会がその翌日の3月12日に予定されていたが、それでも東北の人々に対しての祈りを届けようと、あえて開催しレクイエムを歌ったらしい。
今回のレクイエム 《ドイツ・レクイエム》は、いわゆる教会における死者のためのミサ曲であるレクイエムとは性格が違っていて、普通ラテン語で歌われる歌詞をブラームスは、ドイツ語の聖書から引用し、合唱が盛んであった当時の一般市民が親しみやすい演奏会用のレクイエムを、10年がかりで完成した曲だという。
しかもこれを作曲した契機は、恩師であるシューマンの死、彼自身の母親の死であり、そのため内容は残されたものへの慰めと癒しがテーマになっている。そのため不信心者に対する脅し(と私には感じられる)「怒りの日」の部分があったり、その後の天国行きを奨励する(同前)歓喜の歌があったりするのではなく、全編に悲しみが漂い、しかしその中でも微かな喜びが混じりこみハープやオルガンによって神秘的な境地、慰めへと導かれるといったような構成になっているようだった。
挨拶の中にも、これは「死の悲しみを歌い、愛するものを神のみもとに送り、悲しんでいる人々に慰めが与えられるよう願った作品」であり、いまだ心癒えぬ東北の方々に、心を込めて送りたいと思います。」と書かれてあった。
実はKさん自身も長年共に暮らした相棒を失って間もない時期の練習の日々であった。これを練習し歌うことで、悲しみに浸り、また慰められ救われたようだと語っている。
歌が持つ力を感じた。
2012年08月05日
コシアカツバメを見に行く。
今日も酷しい暑さ、北の空には盛んに入道雲が湧き上がっています。
昨日は曇り空で、蒸し暑いながら歩きやすかったので幸いでしたが、午前中コシアカツバメを見に行きました。ツバメが少なくなったと報じられ、そんな話をしていると、近くの小学校にコシアカツバメの巣があるという情報を耳にした人に教えられ、案内してもらったのです。
夏休み中は野球部など部活動があるので校門は開いているとのこと、入ると直ぐの玄関にそれはありました。すでに先客があり、三脚を立てて眺めている男性の姿にすぐそれと分かりました。あとからまた別の男性が立派な望遠カメラを持ってやってきます。
巣は3個あって、一つは巣立ちしてしまって空き巣、2つはまだ子育て最中のようでした。
普通のツバメは、斉藤茂吉の『赤光』の中の有名な一首「のど赤き玄鳥(つばくろめ)ふたつ梁にゐて垂乳根の母は死にたまふなり」からでも分かるようにノドが赤いのですが、これはノドではなくコシが赤いのです。また巣の形も、ツバメはお椀状ですが、これは徳利を横にして天井に貼り付けたような形、玄関へのアプローチに立つ垂直な柱と天井の直角になった隅にそれぞれ作られていて、ツバメのよりは少し大ぶりの感じ、ツバメ自体もちょっと大きく、尾羽も長い。
お椀状だとカラスなどから幼鳥が狙われやすいですが、これはその危険がなく、また垂直の柱や壁の上だと蛇も登れないでしょうし、また入口が一羽がやっと入り込めるような小ささで横を向いているのも、安全は完璧だろうなと思わされます。この日の午後、激しい驟雨に見舞われましたが、こういう時も、この巣であれば安心ですね。
ということは、中に鳥がいるかいないか、なかなか分からないわけで、じっと暫らく眺め続けていなければなりませんでした。すると、あ! 飛びました。続けてもう一羽!
カップルが一緒に狩りに出かけるようでした。暫らくして、ほとんど同じタイミングで2羽が帰ってきます。鳴き声が聞こえないのはまだ幼いのか、そういう巣の構造なので声が漏れないのか? 何度か目撃しましたが、いつも一緒に行動するようでした。
もう一つの巣は、ちょうど反対側にあって、そちらからもカップルが出てきます。双眼鏡を当て、確かに腰が赤褐色であることを確かめました。また巣の中にいてじっとこちらを眺めているらしい姿も見えました。「またうるさい人間どもがやってきているな」などと思いながら眺めているのでしょうか。
暫らく彼らの行方や飛び交っている姿を仰ぎ見たり、またいつ帰ってくるか、またいつ出ていくかわからない姿を待ちつつ巣を眺めた後、頻りに写真を撮っている男性たちを残して私たちはそこを離れたのでした。
2012年07月29日
ヒグラシが鳴きました。
この数日猛暑続きですが、昨日からヒグラシが鳴き始めました。
昨年は20日ですから、今年は少し遅れているようですが、これを耳にすると私は、ああ、また夏が来たなあ!という思いに打たれるのです。少し物悲しく、寂しさをそそるこの鳴き声に…。
「夏は夜…」といわれますが、このヒグラシが鳴く「夕暮れ」が、私に「をかし」を感じさせる一番印象的な光景だと言ってもよいかもしれません。
日中の耐え切れない猛暑が、日が傾くころにふっと緩んで、風さえも出てくると、たとえクーラーをつけていても、狭い部屋での不自然な冷房は段々息苦しくなって、それを消して少しは生ぬるくても風が吹き込んでくる、それに心底ほっと息をつく感じの時にヒグラシが鳴くのです。
この一瞬に夏を感じます。しかし夜になると、パタリと風は止んで、今の時代ホタルを近くで目にする環境もなく、昔のように縁台で夕涼みという風情でもなく、夕食後は部屋に閉じこもってTVなど見るということになり、もちろん夜の街を存分に楽しむ人もいるでしょうが、そういう元気がなければ「夏は夜」とは言えないのです。
というわけで、今その夏の夕暮れのひと時に真夏を感じています。もう少しして夜が訪れると風が無くなり、また食事や食後の片づけやその他、生活の雑事や情報に振り回されることになります。
2012年04月13日
六国見山の桜、やっと満開になりました。
全国的に遅れていた桜前線も、急ぎ北上していますが、六国見でも満開を迎えました。
ここは山桜や大島桜といった古い種類が多く、またその下で花見をするというよりも、里や畑から眺めたり、尾根筋を歩いて鑑賞するような感じですから、街中にある公園とは違った風情が楽しめます。特に今年は、初夏を思わせる暖かさと雨が通り過ぎた今日、幕が切られたように、白と薄紅色の花が、急に芽吹き始めた木々の若葉の、まだ芽吹かない常緑樹の深い緑の中で落葉樹の黄色っぽい緑、白っぽい緑、鮮やかな緑などのグラデーションに華やぎを加え、微妙で柔らかな春の山の風景になっているのに驚きました。
例年ならばもっと緩やかな変化をするはずなのに…。今日からまた、お天気は崩れるとのことですから、今日がまさに見頃でしょう。
ソメイヨシノも、高校の周りのは前日の雨に打たれ多く散っていましたが、それでもまだ残っていましたし、民家の敷地にある大きな古いソメイヨシノの少し遅れていたのは、まさに散る寸前という感じで、爛漫と咲いていました。でもこれは空き地になっているため残っているもので、この土地が宅地になれば伐採されるか、小さく剪定されてしまうことでしょう。
それで気がついてみれば、我が家の小さな庭も一斉に芽吹きと開花、花は雪柳、ヒイラギ南天、黄水仙はもう終わりごろで、何故か立ち壺スミレが一面に広がり、サクラソウ、ムスカリ、雲間草など。早くも都忘れやシャガの花が咲き始めました。これから眺めるほうの眼も、またそれに急かされて、怠けがちながらそれらの世話に、わが身も忙しくなりそうです。
2012年03月11日
ウグイスが鳴き始めました(震災1年目)
2、3日前から、今年初めてウグイスの声を聞く。
沈みがちだった心がやはり弾む感じになる。まだ拙いのも可愛らしく、励ましてやりたくなる。
今日で東日本大震災から一年がたちます。昨日、「原発最前線の町で生きる」南相馬市の日常を一年間、住民の生の言葉だけを拾って淡々と綴ったNHKのTV番組を見ました。ほとんど解説をせず、放射能に汚染された地域での、日々の生活とそこで洩らす人の短い言葉、その背景にモリアオガエルの産卵から桜の開花、鮭の遡上など四季の風景を映し出しながらのドキュメンタリーは、ただ息をのみ見つめるしかありませんでした。
今日は時々陽が漏れてくるものの一面に雲が広がっていて、被災地は雪のところもある様子、あの日、この辺りは朝は冷え込んだものの日中は良く晴れていたのでした。とても穏やかなので、私は急に思い立って海辺に立つ美術館に出かけたのです。見終ったのち、館の外に出ると海を眺めながらサンドイッチを食べ、そして帰途についたのですが、帰り着いて間もなく、大きな揺れを感じたのでした……。
このような帰宅難民にもならなかった幸運な私でしたが、それでもその後いろいろと考えさせられ、反省させられ、学ばされる日々を過ごしました。この国の人たちのほとんどが同じだったろうと思います。
TV番組での放射能地区の人たちの短い言葉は、皆胸を刺してくるものでしたが、アナウンサーに「士農工商」という言葉を知っているかといい、今はその逆だなと泣きそうになる顔を歪めながら絞り出すように吐き出す言葉、「東電は世の中を動かせるが、俺たちにはそれができない」今の世の中なんだ…、というのもその一つでした。
確かに「商」という企業という経済力・資本、お金、損得が世の中を動かすわけで、農・工、漁のように生活の糧をもたらすものはその下にある時代。この言葉が作られた江戸は平和な時代でしたから、「士」は武力ではなく、為政者やいわゆる知識人を指すといってよく、そうすると…という思いもしたのでした。
しかしまた、為政者の混乱の中でも立ち上がるこの国の民の力の強さをも感じながら、第二の敗戦のようなこの国は、「過ちは繰り返さない」という風に変わることができるだろうか、という思いも、自分をも含めて考えたりもしたのだった。
しかし四季はその循環を変わらず続けていきます。早咲きの河津桜が、やっと満開になったと報じられましたが、この辺りに最近植えられた河津桜の並木は、蕾は膨らんでいますがまだ咲きません(1,2輪程度)。
それでも春は、確実にやってくるようです。まだ日々余震も続いていますけれど。
大震災一年目に当たり、被災された方々、犠牲者に、黙祷を捧げつつ…。
2012年01月29日
「東京コール・フリーデ定期演奏会」に行く
昨日、友人の合唱団の演奏会があり今年も聴きに出かけた。会場は、渋谷区の文化総合センターのホール。演目は、G・フォーレ「レクイエム」とA・キンタナ「 Mass From Two World」その他である。
いずれも被災された地域の人々への見舞いと早い復興の祈りを込めて、練習し捧げられたものであった。
フォーレの「レクイエム」は、よく知られているように「怒りの日」がない。フォーレはこれまでのとは違う新しいミサ曲を作りたい気持ちがあって、「死は喜ばしい解放」とのメッセージを込めたかったということですが、全体的に静かで美しいハーモニーに貫かれている感じがした。それもその音色が流れのように微妙な変化していくようです。解説によると、かれの音楽の特徴は、半音階的な和声と揺らぎと施法性という(知識のない私にはさっぱりわかりませんが)、とにかく和声の揺らぎの快さを感じたことは事実でした。最初は不評だったとのことですが、今聴くと悲しみを乗り越えた平穏な心境、哀悼の気持ちの漂った曲に感じられる。
キンタナのミサ曲の2つの世界というのは、ミサ曲の様式が固まり進化していった時代と現代の南米のリズムとシンセサイザーの迫力を持ち込んだ現代を指しているとのこと、葬儀の曲とは思えないほどの色彩にとんだ、活き活きした感じがありました。
それぞれプロの歌手によるソロも、音量豊かで聴きごたえがあった。
最後は、元気づけられるような日本の有名なポップス(指揮の伊佐治邦治・編曲)でした。
でも久しぶりに都心に出ると、その変わり方に驚かされます。そしていかに自分がお上りさんであるかを気づかされます。日々変化するエネルギーの坩堝ということでしょうか。それが面白いという人もあるでしょうが、疲れます。では。
2012年01月05日
T温泉行き 27年目 (今年で幕引きか?)
明日はもう小寒、日本海側は大雪が続いているようです。
例年ながら雪深い中で過ごした日々から、雪のないカラカラ天気のこちらに帰ってくるとまさに夢の中にいた感じで、今年は特に大震災があったせいか感慨深いものがありました。
T温泉では、毎年2日に新年会も開かれており、常連客の多くが出ているようで(私たちも最初に誘われ1回だけは出てみましたがその後は止めました)これは50年も続いているそうですが、その参加者のカップルが、帰るとき私たちと同じ送迎車で「今年はお宅のメンバーの人数が少ないように見えますが…」などと声をかけてきて、互いに知らん顔をしていながら、ちゃんと見、見られているものだなあ…と感じたものです。
さて私たちメンバー、確かに今年は最小になりました。出発時は7名でしたが帰るときは4人になってしまいました。36畳敷きの広間に(これも昔は中広間という名称で、宴会は大広間のほうでしたが、時代が変わり大広間は幾つかの小部屋に仕切られ野草庵という食事処になりこちらだけが広間として残った)です。
そのようなこともあって、この辺が潮時かなと思いました。
毎年同じ温泉と宿での、暮れから正月にかけての3泊4日の27年間、そこには変遷があり一つの歴史が見られます。
行基上人が発見開湯されたと伝えられる国内有数のラジウム温泉で、宿は400年以上の歴史を持つ由緒のある湯治宿、そこにたまたま生前の相棒と訪れ、今度は正月を過ごそうと発案して6人のメンバーで申し込んだのですが部屋はもう満員でやりくりがつかず、とりあえず中広間に通されたのが話の始まりでした。
1983(昭和58)年の事です。
客室の設えはないものの広くゆったりしているうえに窓も大きい。その代り全員一緒で合宿のようなものだから、一人静かにというわけにはいかないが、広いので気心も知れた者たちなのでそれぞれ勝手に振る舞うことにし、また皆働き盛りで共に飲み食いしようと合宿気分で集まってきた同士でもあるので、誂えの部屋とも言えた。それで次の年から予約の取り合いの心配のないその中広間を最初から希望することにしたのだった。
それから27年、集まる者も年を重ね、宿や温泉の設備(クワハウスとか言って村のオンセンターのような建物ができたりして、またそれが失敗して少し前に戻ったり)、また交通手段も(新幹線時代の前は急行ー東京から上野まで出てーそこから急行で小出まで行き、その後もバスで温泉までたらたら行ってました。新幹線時代になっても私たちはしばらく抵抗して在来線を使ってましたが、だんだん接続が悪くなったのでとうとう新幹線利用、しかも浦佐からのバスが無くなったのでタクシーか宿の送迎を頼むしかなくなってしまったのでした。)変遷変化し、それは政治や社会現象とも連動して、ここにフォーカスされた形で一つの歴史が辿れるのを知りました。最初の頃は朝出て、向こうには夕方ごろ着いていたのに、今は新幹線で1時間半、そこから送迎車で30分ほど、まさに通勤並みになりました。
最初に出かけた6人のうち、発起した我々と親しかったカップルが中心で、私の相棒が亡くなった後、一人は早く去って行ったものの、残る4人が今日まで残るメンバーである。その後枝葉のように兄弟(姉妹)親戚、友達の友達…といった風に芋づる風に伸び縮みして、一番多いときは、20人にも膨れ上がっていた(記憶では13人ぐらいと思っていたがメモを確かめるとそうではなかった)。それは彼らがよく行くという渋谷のバーのマスターの家族や従業員まで同行という年であり、その時は店のワインを大量に持ち込み(持ち込みも許されていた)、私たちは大いに普段飲めない名のあるワインをご馳走になったものである。(彼らはそれを積んだ車でやってきた)。
そして最近は、幼児の頃に連れられてきた子どもが成長して、伴侶や子を連れてくるようにもなってきたが、これも例外的でやはりこの行事もこの辺が限度かなと、思っているところである。
私の相棒が病を得て退職し、亡くなった年までの2年間、私たち二人はこの旅に参加しませんでした。それでもこの行事自体は続いていたのである。しかしもう一組の主要メンバーの一人が今回は加わらないことになって、振り返ると私自身も正月を過ごすのにあまりにぴったりの環境、快適であるのを良しとして、疑似故郷への里帰り…という気分でやってきたもののやはり一種のマンネリ、縛りを自分にかけていたのではないかと思い始めたのです。
それで次回はどうするか、このまま続けるかこれでピリオドを打つか、予約の申し込みをする頃まで各自考えて貰うことを提案したのだった。
最初のうち、折角の機会だからと皆で連句の歌仙を巻いたことも思い出が深い。
詩を実際に書いているのは私だけだが、職業は色々ですが文系が多く読書家もいるので、歌仙の規則を書いたものを渡し、それを参考にしながらであるが、皆苦しみながらもそれなりに楽しんでいたようだ。これもメモによると1979(昭和54)年から1987(昭和62)年、また1997(平成9)から1999(平成11)の11年も続いたようだ。大抵は36首の歌仙だが、参加者10人の時は百韻も詠んでいるし、50韻も一巻ある。旅行中完成しないときには持ち帰り、それを郵便で回したこともある。まだやっとワープロ時代で、パソコン普及などはその後の事である。
いろいろ書けばきりがないのでこの辺で止めますが、やはり日本だけでなく世界もまた転換期になったこの年、私たちの上にもある転換が求められているような気がしたのでした。
2011年11月13日
「インド音楽 シタール演奏」を聴きに行く。(大震災8か月目)
恒例になったシタール演奏を去年は風邪のため出かけられなかったが、今年は出かけることができた。震災8か月目の次の日である、ということもあってか何故か身に染みた。
インドの代表的な弦楽器シタール(共鳴胴は乾燥したトウガンからできている)と打楽器(小太鼓やつづみに似ている)、それにタンブラーという始終低音を奏でているシタールより長くて細身の弦楽器によるもので、堀之内幸二氏の独奏、そして合奏(タブラ=龍聡氏)であった。
演奏する曲は、一日の時間帯や季節の巡りに合わせたもので、朝のラーガ(旋律)、夜のラーガなどと言われ、またその旋律も演奏者個人の感性による即興性も加わって演奏されるという。聴いているとその微妙な変化による単調なリズムと旋律は眠くなるようであるが(実際私も途中うとうとした)、それは心地よく、終わってからも暫らく身体の中に旋律とタブラの響きが残っているようである。今もこれを書きながら脳裏にその音が微かに聞こえてくる。たぶんその音楽は、建築物のように構築され練り上げられたものではなく、風や波の音、せせらぎや木の葉のそよぎに似ているからかもしれない。
背後のスクリーンには、昨年行われたインド・ツアー旅行で撮った実景が映され、特に演奏の時はベナレスのガンジス川に夕日が沈んでいく光景が映し出されているので、震災の多くの死者たちへの思いも重ねられ心に染みたのかもしれない。
そして帰ってきて、7時のニュースでやっと初めて福島第一原発に報道陣が入ることができたということを知った。ただそれは細野原発相と同行するという形でとのこと。そして吉田所長へのインタヴューを聞いたのだが、それは爆発事故を聴いたとき、放射能は人間の手ではコントロールできないので、もう死ぬかもしれないと思った、といった率直な発言がなされているのを聞き驚いた。現場を見た記者の、事故の凄まじさに言葉も出なかったという報告と合わせて、やはり初めから今のようになる可能性は分かっていたのだと思いで愕然とした。やはりパニックを起こさないように隠されていたのだ。そして、しかし今は何とか安定している(しかし今後どうなるかは不明)、だから安心するようにということである。
何とか安定するまで漕ぎつけたので、所長も当時の本音を漏らすことができたのであろう。
私は慌ててこの日の新聞を見返した。しかし最前線(原発事故の復旧作業基地になっている「Jヴィレッジ」)に報道陣が入ったと報じられているが、インタヴューも原発事故の現場も報じられていない。パソコンを開け、そこでのニュースを見ると、インタヴューの記事はあった。しかし聞いたのより和らげられている感がした。今は安定しているから安心するようにという意見が前面に出ている。ところがそのうちその記事が消えたのである。この日はニュースが犇めいていた。今日本にとってはTPPが切実な問題である。トルコでも地震があり、タイの洪水はなかなか収まらない。ヨーロッパの問題、オリンパスもあり巨人の内紛、しかもこの日女子のフィギュア(これは私も楽しんだ)もあった。それらの報道で消えてしまったのである。しかしまたその後、記事は復活した。
心安からぬものがあったが、朝の新聞では第一面に、大きく原発事故の現場や所長の発言が掲載されていて、安心した。
私個人で自分を振り回していたことに苦笑しながらも、これらを考えるに、下衆の勘繰りと言われるかもしれないが、福島原発事故の現場視察は、実際は、8か月目の11日に行われ、その報道記事の発表は12日ということにしたのではないかということである。報道記事をよく読むと11日に入ったということは書いてあるが、12日に入ったとは書いてなく、「初めて公開される」という書き方になっている。すなわち11日の視察内容、記事を調整して12日に公開、発表するという事なのだ。
ここでそれらを非難しているわけではない。所長も死ぬ思いで事故の収束に懸命になったであろうし、作業員たち、記者たちも高放射能の中で必死に自分たちの職務を果たしている。みなそれぞれに懸命に持ち場で頑張っていると思うけれど、報道、マスコミというものはこういうものだということを、やっといま痛感しているという事だけを、自戒を込めてここで書いておきたかった。
2011年10月20日
猫の額の野原
秋も深まってきました。昨日は肌寒い一日、今日はかなり強い風が吹いています。
季節の変わり目は変動が大きいとはいえ今年の秋は特に心騒がせられること多く、日々野分が吹きすぎていく感じで心が落ち着きません。
先の日曜日は台峯歩きの日でしたが残念ながら休んでしまったので、この庭のことを描くことにします。猫の額ほどの庭ですがそれでも庭らしく整えるのは大変で、飛び石のあるところだけは草取りをして、という風に放っておいたのですが、今秋の野原のように野草の花盛りになりこの風情もいいものだと眺めています。ミズヒキソウ(あちこちにはびこり猛々しいくらい)、ホトトギス(これは通路にぐんぐん芽を出していたので相当間引いたのですが)、イヌタデ(と思われる小さなもの)、ツユクサ(瑠璃色一色と花弁の周囲が白いものの2種、しかしこれはもう終わりに近い)、一番華やかな彩りを加えているのがシュウカイドウ(秋海棠)です。心臓型の大きな葉っぱの上に桃色の胡蝶のような花を群がり咲かせて、穂花とは違った派手なのでこの庭舞台のプリマドンナといったところ。
その他どこから飛んできたのか、紫色のカタバミを大きくしたような(アゲハチョウを頭を中心にして並べたような3つの葉があり、夜になると蝶が羽をたたむように閉じる)葉を持つ草が、一つの植木鉢を占領した上地面にも下りている。図鑑を見ても特定できない。繁殖力強く、黄色い小さな花も咲かせるのでカタバミ類だと思うのだが、観葉植物的なアクセントをつけている。野花は蕾を沢山持っているので、しばらくは次々に花を咲かせるのである。これら野の花に押されたのか、日当たりが悪いせいか、植えたムスカリは今年はとうとう花は一輪も姿を見せなかった。
あとは南天の実が赤くなり始め(万両の実はまだ青い)、これは樹木ですが山査子(サンザシ)の実も赤くなっている。
ツワブキが花芯を伸ばし始めた。
この辺りでは、今群がるセイタカアワダチソウの黄色とススキの蘇芳色が富士を遠景にして秋を感じさせている。紅葉はまだうっすらである。
しかし先日、円覚寺裏の六国見山麓の、河津桜も植えられた土手(宅地開発をされることになっていて長年争いが続いていたこの辺りの奥まった一画をやっと円覚寺が買い取って残ることになった)に行ってみると、その一画の下草がすっかり刈られて丸坊主になっていることを知った。確かに夏草が茂り茫々になっていたから当然だと言えるけれど、そこにあったセイタカアワダチソウの一群れとススキは見事で、ちょうどその上に白い半月までが添えられていて、絵になる光景であったのにと、残念に思った。そこにはもう少しすると、チガヤの一群れが白い穂をそよがせていたりして目を楽しませてくれたのにと、効率の良い機械による丸坊主の土手のあっけらかんとした風景を見ながら、機械に頼らない台峯の手入れの事も思い比べるのだった。しかし雑草と言われる野の花たちは逞しいので、やがてここにも飛んできて蔓延っていくことだろう。
2011年08月22日
水木さんが描く「福島原発」(32年前のイラスト刊行へ)
このタイトルの記事に引かれ、この本を取り寄せて読んだ。
これは『福島原発の闇ー原発下請労働者の現実』という、ライターという身分を隠して実際に現場に労働者として潜り込み、まさに身を挺して取材したルポ(堀江邦夫)に水木しげるさんも実際福島原発にまで出かけて見学、内部の写真資料などをもとにして制作したイラストを加えて刊行され(32年前)、今では幻となった本の再刊である。最初それほど乗り気でない風に見えた水木さんも次第にのめりこみ、自らの末端の兵士として死にかかった体験と重ね合わせて気合の入ったイラストとなったというが、その緻密さと迫力によって原発の内部に連れ込まれたような臨場感と怖ろしさを感じ、昨夜は奇妙な夢を見た。
私たちは今瓦礫と化した原発建屋しか目にしないが、あの内部は、まさに「パイプの森、ジャングル」であったようで(その内部のイラストもすごい)、その狭い隙間に身を捩りこむようにして作業をし、またその防御服は不完全で、また線量計も故障することも多く、そこで働く人は一種の使い捨てである。
折しも今朝の新聞では、原発の周辺は、居住長期禁止にとなり、夕刊では「居住禁止 最低10年」と言い、土地を国が借り上げる方向で検討に入ったとある。
いよいよこれまで隠していた原発の闇が、次第に臆面もなく晒さざるを得なくなったようである。
読書会で借りてきた、『原発のウソ』(小出裕章)と合わせ読むことによって、いっそう怖さが増した。この著者は原子力学者であり、はじめは、原子力推進派であったが、研究を重ねるにつれ、その危険性に気づき反対をずっと言い続けてきたのだという。しかしそれゆえ、原子力の世界では異端として無視されてきたのだという。
こんなことを書くとき感じるのは、これまで何も考えずそれを見過ごしてきた怠慢といい加減さによって自分自身も加担者であったのだという思いである。
しかし、原発事故が報じられ、天皇の姿が国民の前に現れた時に感じた、あの終戦時と同じようなことが今回も繰り返されたということも、これらを読んでいて分かった。
日本の原子力産業は、まさに国策であった。それゆえに国民になるべく現状を秘し、下請け労働者の間でも、原発に対する批判めいたことを言ってはならないという(昔の非国民という言い方のように)無言の圧力があったという。それゆえ事故でこのルポライターが肋骨を折る重傷を負ったとき労災にしない(労災隠し)ようにと言われたという。それを象徴するかのような、東電福島第一原発構内に立つ記念塔(無災害150万時間達成記念)がある。
この当時、そんな労働者が2~3万人いたというが(2009年には7万5000人という)。こういう人たちが
日夜、放射能を浴びつつ原発の汚泥を掃除したり、点検や修理をしたりしていることなど意識することがなかった。
また法律を厳密に適応すれば、国民の被曝限度量は1ミリシーベルト(一年間に)と決められているが(ちなみに作業員は、一日の許容限度量が1ミリシーベルト、すなわち一日で一年間の限度が許されている)、これでは福島では通用できないから、これが守られない。それですでに放射能値の高いところは、これを20ミリシーベルトまで引き上げる検討を始めたと、『原発のウソ』では書かれているが、(今朝の新聞の記事では「政権が避難の目安としている20ミリシーベルトを超え…」とあるので、すでにもうそのように変更されているようである。すなわち今や「『安全を考えて』基準を決めるのではなく、『現実の汚染にあわせて』基準を変えようとしているのです。」の通りになったようです。
また、被曝量がどのくらいになれば危険で、どこまでが安全かと誰も知りたがるが、その境目(しきい値)はない、とのこと。すなわちどんな低レベルであっても浴びることは危険で、それは年齢に反比例するようです。子供が一番危険。
しかも放射能は、人間の五感では感じられず、被曝してもそれを症状としては初期は出てこない。なぜならそれは放射能というべらぼうなエネルギーが遺伝子を傷つける、最後はバラバラにするだけだからである。ここまでが安全とは言い切れない。
そしてフクシマ原発は、広島原爆の80万発分の「死の灰」をまき散らしているということである。
今やそういう不安の中に私たちは置かれているのだということだけが、現実なのである。
そして原発は地球温暖化を防ぐということはむしろ逆で、電力が足りなくなるということや、コストも膨大であることなど、すべてウソであることもいろいろ勉強させられました。
2011年07月23日
今年の蝉
この夏、蝉が遅れているようだと、新聞が報じていた。
私もそれを感じていたのだった。
ああ、夏が来たなあ! と感じるのは、蒸し暑い長雨がある日急に明けて、真っ青な夏空になったような夕方、カナカナと細い声で鳴く、どこか哀しく寂しいヒグラシの声を聞いた時だ。
いつもは大体ここでは中旬である。鳴かないなあと思っていたら、台風6号が徳島に上陸した日の20日、各地に大雨を降らせていたがここは晴れたその夕方、ヒグラシが鳴いた。
しかしそれはどこか心許なげだった。その後、鳴かない。
今朝、入り口の戸の敷居に蝉がいた。ヒグラシで、まだ生きていたが、すぐ捕まえられるほどに元気がなかった。「どうして鳴かないの?」と言いながら手に乗せるとやっと飛び立っていった。
今日は一日晴れたのに鳴かない。気温もまだ猛暑まではいっていない。
もちろんまだミンミンも鳴かない。
地震や放射能のせいではなく、春先の低温の影響と新聞では言っていたが、これは先日の台峯の時も話題になった。蛍も例年よりも一週間遅れているという。
一般的に、なぜか昆虫の世界に異変が起きているという。今年からある昆虫がバタッといなくなった。25年見ているのに、また環境が変わったとは見えないのに…。森がしっかりしていれば大丈夫と普通言われているが、どうもそうではなく昆虫だけがということがある…と。
でも樹自体もあちこちで樹液が出なくなった、ということもある…とも。
そして自然に付き合えば付き合うだけ、観察を続ければ続けるだけ自然がよくわからなくなる、自然は一筋縄ではいかない、自然はいつも想定外の姿を見せるのだというのが、Kさんの意見でした。
2011年06月30日
地方の力(小野市を訪ねて)
TV番組、鶴瓶の家族に乾杯を時々見る。タレントが鶴瓶さんと一緒に、地方の訪れたい処に行きそこの家族と交流する、本当にぶっつけ本番の番組という。
その他にも各地の食材を探し、そこでぶっつけに調理する、走るキッチンとか、その他、民放でもそれに類した地方の魅力を探して放映する番組が最近増えたような気がする。
それらを見ていると、日本の地方がいかに自然に恵まれ、それらに育まれた人々の暮らしががいかに豊かでゆったりした生活をしているかと感じることが多い。それでそこで暮らす人々も自ずから心豊かで親切なのだ。
鶴瓶さんも今回の被災地にも尋ねるが、そのことだけでなく、三陸海岸をはじめとする東北地方の自然、そしてそこでの海・山の恵みがいかに素晴らしかったか、港がどんなに活気づいていたか、人々がいかに生き生きと働いていたか、 現況の悲惨な有様の向こう側の姿をあらためて気づかされるのであった。
しかしこういう現況であっても、その地の人々は屈することなく立ち上がろうとしている、そのことに感動せずにはいられない。
「地方の力」というものを感じる。大昔から、その土地に深く根付いた生活をしている人の力、というか、トポスの力、伝統の力と言ってもいい。そう感じ始めたのは、小野市を訪れた時からである。
心身落ち着かずにいたとき、朗報が飛び込んできた。水野るり子さんが小野市詩歌文学賞を受賞されたという。お祝いに駆けつけるのには少々遠いと思っていたが、これをチャンスとして私自身も旅をしようと思ったのだった。その上これを機会に、帰りには神戸(従妹が震災にあい夫を亡くしている)にも寄り、17年前に震災に遭ったその地の復興の姿を見、従妹とも話しをして来たいという欲張った考えもあった。
実は、小野市を私は知らなかった。関東以北の人はあまり知らないのではなかろうか。ソロバンや刃物の生産では有名だということや、近くに揖保の糸という素麺を産するということで知っている人もいるかもしれない。私は素麺はもっぱら揖保の糸だから馴染みなのに…。
新神戸から地下鉄で15分ほど行き、そこからは豊かな緑が迫ってくる中を箱根鉄道のような(それほどの山坂ではない)電車でとことこと1時間ほども走る。そこは周囲が森に囲まれた、広々とした平野の広がる、何やら映画「サムライ」に出てくる武士たちがこもった隠れ里、桃源郷のような感じのする(少々オーバーだが)町であった。
温暖な瀬戸内海気候と豊かな自然に恵まれているだけではなく、奈良時代から続く文化が国宝級の寺や仏像を交えて遺跡も多い。温泉まであるようだ。
そこには自然と文化も育ち花開き、歌人として著名な上田三四二を先人とした文化活動も盛んで、全国的で大きな、この詩歌賞はまだ歴史は浅いが、市民の「短歌フォーラム」は20年以上も続いてきているようである。
このような文化的イベントを開くにはまず財力がいる。そして何よりも市民の意識、文化度が高くなければならない。
そして実際の行動力も求められる。経済的文化的に豊かでなければできない事柄である。
ここにも「地方力」というものを私は感じた。
この、地方の力があるゆえに、国家とか政府とか、抽象的で中央集権的な日本のトップが、オタオタして頼りがいもなく、またたとえ誤った方向に人々を導いたとしても、この地方の力、そこで根を張って生きている人々の力が一種の復元力となって、日本を復興させる(あの大戦からも)のではないだろうか、と思ったりした。
これを書いている私も実は地方から出てきた人間である。しかしまだ貧しかった時に、その地を離れ、その後は根無し草になって、東京(近辺)という吹き溜まり、にたどりついた。いわばデラシネである。しかしそれだから、それが良く見えるのかもしれない。東京と言っても、下町などというのは一種の地方である。ここにも地方力があり、それが今見直されているような気がする。
そして、森に囲まれ、自然も人も豊かなこの小野市によって、森の深みにまで踏み込んでいくような水野さんの詩集『ユニコーンの夜に』に、賞が与えられたことは相応しく、何やら不思議な縁を感じた。
2011年06月27日
下駄は脳にも良いそうです。
月に1度の放送(FM)になった日曜喫茶店で、「下駄の効用と楽しみ」という話題で歌舞伎役者の片岡愛之助さんと足の研究家(?)の加城貴美子さんの二人がゲストとして話していた。
夏になると、日本的な生活習慣や暮らしの知恵が見直されるが、節電というエコ生活の今年は特にであるように思われる。簾や葭簀、グリーンのカーテン、打ち水、風鈴や金魚鉢や団扇やなどなど…、ステテコまでも今年は姿を変えて登場するそうだ。それらは高温多湿を凌ぐ過ごし方を、わが先祖が知恵を出し合って作り出したものだからでしょう。
下駄も西洋人には面白く映るようで、『東北奥地紀行』を書いた英国の女性探検家イザベラ・バードも大勢の下駄の音の賑やかさに驚いている。
また小泉八雲は、路地の下駄の音に、日本的な情緒を感じると好ましく感じていたという。
しかし今日、下駄で通勤電車に乗れば、白い目で見られるし、ホテルやレストランでは断られるだろう。
しかし、しかし、蒸し暑い夏、下駄は気持ちがいい。子どもの頃は下駄を履いていたし、実は今でも家では下駄か草履である。近くのポストまではこれで行く。
ところが今、子供の健全な心身の発達にも、下駄が見直されているそうである。
裸足で過ごさせる幼稚園などがあるが、下駄はそれ以上に良いそうである。足の指の機能を発達させるという。足裏には全身のツボが集まっているというのは周知のことだが、そのツボを発達させるという。外反母趾というのも下駄であれば生じない。
特に、脳の発達にもいいそうです。(勿論子供にとってで、私のような昔人間にはもう影響ないけど)、一位が下駄で、次が裸足、いくら運動靴を発達させたところでこれに敵うものはないのでは。と言っても下駄を履いてスポーツは出来ませんね。
裸足のマラソン選手アベベを思い出します。
その上、下駄は大変経済的、エコでもあります。一足あればそれを歯がちびるまで履けます。鼻緒を付け替えさえすれば。特に子供は成長するので、靴だとすぐ合わなくなるが、下駄だとアバウトなので、一足で大人になるまで使い切ることもできる。
私はユニットバスのタイルの上で履くのも木のサンダルを使っていましたが、それが余りに古くなったので買い換えようと探したのですが、なかなかありません。木の感触が良く、またカランコロンという音も好きだったのです。
やっと見つけたのは某デパートのジャパンというコーナーで、しかも高級なものになっていて、昔の素朴なものではなくなっていました。まだ残っている古い下駄屋さんを探せばよかったのですが、思い切って買ってしまいました。台は日田の杉ということ、鼻緒というか甲のベルト状のものは藍染のしっかりしたもので、履き心地もよく満足しています。
2011年04月20日
『東京焼盡』(内田百閒)と『いのちと放射能』(柳澤桂子)を読んでいます。
もうこれ以上大震災、原発事故についてブログを書かないと言いましたが、あと一回書きます。
なぜならそれがチェルノブイリを、或る点では超えるかもしれないと言われる状況になってきているようだからです。
今私は原発事故に対するTVのニュースをほとんど見ないし、見たくありません。だらだらした事後報告や状況説明などは新聞を見ればわかりますし、見ていると感情が波立つばかりですから。
最近それらに対応するものとしてタイトルに書いた2冊を読んでます。
『東京焼盡』は、先の大戦下の終戦の年の一年間(昭和19年11月1日~20年8月22日)にわたる百閒による克明な日記です。「本モノノ空襲警報ガ初メテ鳴ッタノハ」19,11,1、で、その日を第一日として終戦直後の21日までの300日、この間に東京は一面の焼け野原と化した。まさに焼尽である。その実態を鮮烈に、しかも克明に伝えているのには驚嘆する。若いころから百閒は日記を書き続けていて、それも文章修業との一つとしていたそうで、これもその一つにすぎず、その部分を戦後ひと纏りとして出版したのだが、「語調の潔さと凄絶さ、誠に見事に、帝都の壊滅を伝えるにふさわしい格調を伴っている」という評の通りである。
しかもこれは、いわゆる知識人などによる思想的、思索的なものではなく、また荷風のようにいかにも文学者的な感慨を伴うものなどではなく、至って庶民的な日常生活の中での行動や思い、生活感覚がその視点から書きつづられているので、今の非常時にも重なり臨場感さえ帯びてくるのだった。
空襲が激しくなったとき、絶対に疎開などしない、「何ヲスルカ見テイテ見届ケテヤラウト云ウ気モアッタ」と「序ニ代ヘル心覚え」にある。まさにその通り、よくも毎日のように空襲があり、食糧は乏しくなり、薄い粥でさえままならぬ中、よくこれだけ正確に(空襲のあった時刻や来襲した敵機の数や焼けた地域のことなど)把握し書きとめたことかと感心する。そして空襲に怯え夜もよく寝られず、防空壕だけでなく表に寝なければならず寒さに震えながらよくもこれまで書き続けたその散文魂に打たれました。3月10日のもっともひどい下町界隈の住居ではなく山の手(四谷あたり)であったのでまだ余裕はあったのかもしれないが、それも5月25日、焼夷弾によって自宅消滅。その日の記述がまた圧巻である。この時百閒は、70歳に近く、また病気持ちであった。奥さんと二人、何を持ち出すかと考える所など(この時、最後まで飼っていた駒鳥と鵯を、小さな籠に入れて持ち出そうとするところを読んだとき、最近読んだ『ある小さなスズメの記録』を思い出した。このスズメも大戦中も飼い主によって守られたのであるが…。結局火の手の中を逃げつつ果たせなくなってしまうのであるが、これも飼い鳥は火を見るとその中に飛び込んでいくらしいので、同じ死ぬなら一緒にと思ったらしい)、細々とした日々の生活が語られている。
しかしそこには百閒独特のたくまざるユーモアもあり詩情もあり、単なる記録とは違っている。
詳細は書くときりがないので止めますが、この中でも人々はやはり淡々と暮らしていく(暮らしていかざるを得ない)姿、百閒自身も嘱託とはいえ職場の日本郵船に水曜と土曜を除く毎日、出勤し続けているのである。その間、電車が不通になったり、空襲警報になったり。家の近くに不発の焼夷弾があり、自宅からの退避命令が出たので、と奥さんが四ツ谷駅まで出迎えに出たり、またお米が足りなくなり、借りたり、焼酎をもらって喜んだり、久しぶりにキャラメルを数個もらって、これがこんなに美味しいものかと感激したり、そのような庶民としての生活が具に書きとめられている。
その中でも今日の事柄と関連させて興味深かったのは、たとえば近くで爆弾が落ち火の手が上がり、もう少しでここもと思ったがそうではなく終わった時、焼け出された近所の人が表を通っていく姿を記した所である。「焼け出された人人が列になって通った。火の手で空が明るいから、顔まではっきり見える。東京の人間がみんな江戸っ子と云うわけでもあるまいけれど、土地の空気でこんな時にもさらりとした気持でゐられるのかと考えた。着のみ着のままだよと、可笑しそうに笑いながら行く人もあった。」
次の『いのちと放射能』は、チェルノブイリ原発事故に驚き生命科学者の柳澤桂子さんが、その後の残留放射能とその影響などについて書き(昭和63年10月)、それを文庫本として出版した(2007,8.15)ものに、付記として「新潟県中越沖地震で、柏崎刈羽原発で火災が起き、微量の放射能が大気と海に漏れた。この発電所は活断層の上に位置していることがわかった」を加えたものを、2011年4月5日に2刷したものである。
その「はじめに」の文章だけを紹介します。
「原子力発電に対する反対運動が盛り上がりを見せていることをたいへんうれしく思います。いろいろなものを読んでみますと、私たちは何も知らされていなかった、だまされていたのだという感をぬぐいきれません。
けれども、もし、私が経済産業省のお役人だったら、あるいは電気会社の幹部だったらこの問題を阻止できたかどうかと考え込んでしまいました。…中略…
ただひとつ、私は生命科学を研究してきたものとして、はっきりと言えることがあります。それは『放射能は生き物にとって非常におそろしいものである』ということです。そのことをひとりでもそれ多くの人に理解していただくように努めることが『私のいま、なすべきことである』と思います。」
ということで、ここにはなぜ放射能がおそろしいかが、誰にもわかるように説明されているのです。私もこれからこれを読むことにします。
参考までに、4月18日の朝日新聞の世論調査によると、原子力発電は今後、やめると減らす、を合わせて41%、増やすと現状程度と答えた人は56%、と出ていました。以上
2011年04月12日
「憲法の集い」のつづき
今朝、花に嵐という感じの激しい風が吹き目が覚めてしまい、なんとなく胸騒ぎがしましたが、はたしてテレビによると、とうとう原発事故はチェルノブイリと同等のレベル7になってしまっていました。
このブログは私にとって呟きのようなものであり、でもツイッターというようなところには加わりたくなく、ここでは一応公開ということであっても守られているようで安心して書けたわけですが、もうこの件については書く気持ちすら失ってしまいました。
続きは各講師の話の内容をと言いましたが、皆著名な方、有名人で、著書もいろいろあるので
それら読めば自然にどんなことを話したかぐらいは推察ができ、私が紹介するまでもないこと
です。
それぞれの人柄の表れた興味深い話で、すべてに惹きこまれ、頷かされ教えられたりもしましたが、それをここで話しても何の面白味もありません。そしてこの問題を書き続けているのは、たぶん自分の不安をこういう形で放出しているにすぎないのだと気づいたのです。それゆえ最後にただ一つだけ書いて、やめることにします。
それは今回の原発事故のことです。これに私が敏感に反応したのは、テンノウヘイカの姿が出てきて、それが終戦の場面を思わせたからです。ああ、また私たちは(私と書くべきでしょうが大きな問題なので、どうしてもこう書いてしまう)、同じような過ちをしたのではないだろうかという思いでした。私の中で原発が戦争と重なったのです。
私は先の戦争のとき、児童期でしたから、変節とか責任というようなものからは免れていました。そして戦後の民主主義教育、自由平等、平和と戦争放棄という中で育ちました。けれどもいつの間にか、原爆を受けた国として、「過ちは2度と繰り返しません」(これも曖昧な表現ですが)といったにもかかわらず、昔日本国民が知らず知らず侵略戦争へと巻き込まれていったように、原爆に相当するものを持って、放射能を地球上にまき散らすに至ってしまっているのではないかという思いに突き動かされたのです。
今度の災害は、講師の内橋さんが言っていたように、単純な天災ではなく人災を含んだ複合災害だというところに、複雑な思いと戸惑い、強いショックを与えているといいましたが、その通りです。単なる地震や津波ならば、いくら想定外でも人間はその前にひれ伏すことしかできません。しかしいったん根こそぎ倒された草木でもまた自然の力によって甦ることができるかもしれないのです。しかし原発は人間自身がもたらした災厄で、不毛です。戦争と同じです。
知らず知らず私も、原発を作ることに加担していたのです。なぜなら、私は電気というものを使っていた、すなわち原発の恩恵を享受していたからです。戦後、戦争責任ということを問われたとしたら、震災後もやはり原発事故責任ということも問われなければなりません。その時、その問いは自分自身に向けられることになるはずです。
これも内橋さんの話です。真偽のほどは、私には証明する知識はありませんが、国には原発を作り始めたころから、100基の構想があったということです。今日本には54基あります。建設予定の物も何基かあります。最終的に120基だそうです。それらは国民的な合意もないまま作られていったのです。それに至るため極めて緻密な国家的戦略がとられた。その戦略は3つあります。(メモによるものですから少しは言い回しが不完全)
1、原発は安全という、緻密な説明というか証明。すなわち原発安全神話を作り出す。
2、学校教育。原発は安全、必要、といった教育を子供たちに行う。(これは最近新聞でも見ました。その教育をした校長先生が、子供たちにどう説明していいか悩んでいるとの記事)。また今日の朝日(夕刊)10面に資源エネルギー庁は、小学校高学年向けに作った副教材(福島第一原発の映像)のDVDの配布を中止したという記事。そこには「日本の原発は格納容器などに守られ、常に放射能も監視しているから安全だ」と案内している職員の姿が映っているとのこと。そのほか広報誌のこともそこには書かれています。
3、原発賛成の著名人、文化人を動員して宣伝。
これらのことが国家戦略としてこれまで続けられていたのだといいます。
これは戦前の軍国主義の方法論と同じであり、国民をある方向へ向かわせる国家戦略なのだというのです。そして原発反対を唱える科学者は、ドンキホーテと名付けられるらしい。
そして福島原発が何とか収束しても、それを機会にして原発を見直す方向に行こうとは考えてはおらず、ほとぼりを冷ましてまた作り続けるだろう。
そのほか今日の「不安社会」についてもいろいろ話されましたが、この原発のみにとどめます。
アメリカの原子力学者の言ったというスロー・デスの中に私たちは入ったのでしょう。しかしたとえそうであってもここから逃げ出すことはできません。同じ地震国であるニュージーランド(日本人学生が地震に巻き込まれたばかりの)は、それゆえ原発は作らないそうで(産業の違いもろもろあるにせよ)、それでその地に移り住んだという某有名人のようなお金持ちでない限りは。
またくだくだしい呟きをしてしまいましたが、もうこれで止めることにします。あとは自分自身の中で考えていくしかありません。
2011年04月11日
「憲法の集い 2011鎌倉」‐井上ひさしの言葉を心にきざんで‐に大勢が参集!
4月11日の今日、震災から1か月です。
冬のような寒さのため遅れていた桜も、このところの暖かさと一昨日の雨で急にいっせいに開花し始め、この辺りもほぼ満開、そのほかの花たちの開花、木々の芽生えとともに柔らかな美しい春景色を描きはじめました。被災地の人の目からみればこれは、まさに夢の世界のように思えるのではないでしょうか。(しかしこののどかな春の景色も、その上には放射能が浮遊していることを思えば、不安の靄が晴れませんが)。そして今報道などによる被災地の悲惨で無残な光景は、まさに私にとっては悪夢ではないかと思えてきます。しかしそこでの悲しみや苦しみ辛さは、ただ思いやることしかできず、何もできないのです。ただ自分の無力と言葉のむなしさを感じるばかりです。
そういう中で昨日に続き今日がまた始まるといった日常が続きます。そんな日常でさえ失い、それを取り戻そうと必死になっている人のことを、せめて考えながら、これを今書いています。
4月9日は井上ひさしさんが亡くなってからちょうど1年目、この鎌倉・九条の会の発起人の一人である氏をしのんでこの会が持たれました。
「むずかしいことを普段のやさしい言葉に的確におきかえ」憲法や平和について語りかけてくださっていた井上さんにとって「平和」とは、「日々の暮らしがおだやかに続くこと」でありました。まさにそれが根底から脅かされようとしている今、この会は「井上ひさしの言葉を心にきざんで」をテーマにして開催されたのでした。
これも非常に奇しき偶然というか、少し前に書いた「遠野講座」と同様不思議にも3・11の大災害に出会ってしまったのでした。この案内は2月初めにもらい、さっそく予約をしていたのですが、はたして開かれるかどうかと危ぶんでいたものです。
その日は運悪く前日から雨になってしまいました。夕方はもう上がっていましたが一日中どんよりした雲が空一面広がっていました。
この集まりはいつも参加者は多く、大ホールにもかかわらず前回も満員で、当日売りはキャンセル待ちだったことを思い出し、お天気も悪いことだしとは思いつつ開場(開演前30分)より30分近く早く行ったのですが、すでに長蛇というよりエントランスいっぱいに行列がとぐろを巻いていました。プラカードで示された最後尾に付いたのですが、そこには2列と書かれた文字が4列と訂正されていたことかも分かるように、次々に人波は押し寄せていたのです。やはり戦争を知っている年配者、中高年が多いですが、中には杖を突いた白髪の高齢者もあちこちみられ、皆「粛々と」指示に従い待っている様子でした。もちろんすでに満席でしたし、入場してからも1・2階はすぐに満席、3階はまだ残っているといわれている時、舞台の両袖にも椅子が並べられ、舞台にもどうぞとアナウンスがあり、最初は尻込みしていた人もだんだん上がっていき、最終的に50人近くにもなりました。
説明によればこの会を支えた人の数は150人、実際に駆け回ったスタッフは50人だそうで、大変手際よく運ばれました。「福島・九条の会」の人も駆けつけたとのことです。
(このことからも分かるように、この盛会ぶりは、ただ大津波といった天災だけではなく、それに重なる原発事故という、明らかに人災といえる災厄故であったと思われます。それが戦争や憲法問題と結びつきます。チェルノブイリに近づきつつあるかもしれない今)
さて肝心の講師の顔ぶれは次の通りでした。
(一応パンフレット通りに書きます)
大江健三郎(作家 九条の会呼びかけ人)
・九条を文学の言葉として
内橋克人(経済評論家 鎌倉・九条の会呼びかけ人)
・不安社会を生きる
なだ いなだ(作家 医学博士 鎌倉・九条の会呼びかけ人)
・靖国合祀と憲法
3・11があったから思われますが、最後に
小森陽一(東大教授ー日本近代文学 九条の会事務局長)さんが駆けつけて閉会の辞とともにメッセージを話されました。
当日は、ちょうど井上さんの最新刊「グロウブ号の冒険」(岩波書店)の校正をやっている最中で、帰れなくて泊まり込むことになったとのこと。これも奇遇ですね。そしてこれは会場でも販売していましたが文芸誌『すばる』の最新号(5月)に「井上ひさしの文学」の座談会が連載として始まり、それに小森さんも加わっています。
内容についての概略(今回の大災害にもかかわる内容なので)を少し紹介ながら考えたかったのですがあまり長くなるので次回にします。
東北を何よりも愛され、そこを舞台に次々と小説、戯曲などを書かれた井上さん(「新釈遠野物語」もありますし)。テレビの人形劇で人気のあった「ひょっこりひょうたん島」のモデルになったといわれるのは岩手の大槌町沖の「蓬莱島」、そこも津波に襲われている。
そこでのテーマソングの歌詞を引いて被災者の人を励ましている若い人の新聞投稿者の声を、この講演会で紹介していましたが、それをここに書くことで次につなげたいと思います。
「井上さんの作品には、世の中の不条理が克明に描かれると同時に、『希望』がある。日本人の弱さが垣間見えたかと思うと、信じてやまなかった日本人の強さも描かれていた。」と書きそれがこの歌詞に凝縮されている思い、苦難の生活を強いられている東北の人たちに、いまは笑う余裕などないかもしれないが、この先この遺志が人々の支えになると信じている、井上さんも天国から願っているに違いないと結ぶ。22歳の大学生である。
その歌詞=「苦しいこともあるだろうさ 悲しいこともあるだろうさ だけどぼくらはくじけない 泣くのはいやだ 笑っちゃおう 進め」。 以下次回
2011年01月24日
東京コール・フリーデ定期演奏会に行く
会場は浜離宮の朝日ホール。友人Tさんが属ししている合唱団(指揮:伊佐地邦治)である。
開演は2時で、天気は晴れ、穏やかなので地下鉄に入ろうとしたときふっと思い立って、お堀端を少し歩いて行くことにしたのである。
休日のオフィス・官庁街は森閑としている。お堀端をランニングしている人もほとんど見られない。時々若いカップルやと高齢のご夫妻。細々と芽をふいた柳に縁取られた緑色のお堀にはカルガモや白鳥、あれはユリカモメだろうか、また頭と羽根の黒いのは何カモ?などと眺めながら、かなり強い陽射しの中を和田倉門から馬場先門を通り日比谷まで歩き、そこから地下鉄に乗った。実はもっと近いと思っていたのだが、かなり歩くことになってちょっと慌て、地下には行ってからは勘違いしてうろうろと間違え、遅れそうになり汗をかいた。
演目は
*ルイジ・ケルビーニの「レクイエム・ハ短調」
昨年はケルビーニ生誕250年だったそうで、これはフランス革命によって断頭台に消えたルイ16世の鎮魂のために弟のルイ18世の依頼によって作曲されたものという。ソリストによる独唱・重唱がなくすべ合唱。オーケストラもない。ピアノだけの伴奏ですべてが合唱。一年間これに打ち込んできたというだけあって、人の声によるハーモニーの美しい響きを堪能させられました。
休憩の次に
*清水脩 作曲 芥川龍之介 原作 松平進 脚色・作詞
合唱のための物語「鼻長き僧の話」
これは語り手(宮沢賢治の作品などを歌や寸劇などに脚色して演じる独特の活動をしている俳優ー斉藤禎範ーが賛助出演)が登場して物語の展開をする。 面白い趣向であった。
アンコールには シューベルトの「菩提樹」、「セレナーデ」、日本の歌曲「お江戸日本橋」、また「アベマリヤ」などの大サービス。合唱団の日々の蓄積のほどが窺われるものであった。ゆったりとした豊かな午後をありがとう。
2011年01月21日
映画 『ノルウェイの森』を観に行く。
催し物などは、忙しかったりして出かけなくなると、いつの間にかさっぱり腰が上がらなくなるなるもので、映画もこのところご無沙汰だったが、Sさんから「良かったですよ、お勧めです」と知らせを受け、今週いっぱいで終るということから早速出かけた。これまで見たいと思い、いつかは観るつもりであったのだが。
ベトナムの新進映画監督トラン・アン・ユンの作品は、繊細で官能的な美しさをもつ映像表現は素晴らしく私自身も魅かれていて、これまでも『青いパパイヤの香り』、『夏至』は観ていた。しかし今回は自国のベトナムではなく日本が舞台である。なぜだろうという思いもあった。
だがこれまでも舞台はベトナムであるが、自身はベトナム戦争の際に一家は亡命してフランスに渡り、その後彼はパリで育ち暮らしているので、その感性は東洋のベトナムを土台にしながらフランス文化の影響、すなわち西欧的な明晰で繊細な感性知性で磨かれたものに違いないのである。
そういう彼が、どうしてこの作品に、そして日本での映画作りに心惹かれたのだろう。
映像化に際して、春樹(トラン監督の作品の美しさに魅了されていたとの事)も本人と直接会って了解したようで、また題名にもなっているビートルズの曲を使うことも了承を受けたようである。脚本も春樹は目を通していてメモをつけ注文もつけたようである。キャストのオーディションや撮影などはすべて日本、なぜなら「僕が魅了されたのは日本らしい文化や日本人らしい佇まいであったからです。」とトランは語っている。
驚いたのは最初のシーンである。原作は37歳になったワタナベがドイツ行きの機内で「ノルウエイの森」を耳にして18年前の、直子と恋に落ちた時のことを思い出すことから始まるのだが、ここではそれを思い出としてでなく、現実の事実として始めるのである。すなわち共通の友人であったキズキが何の前触れもなく自殺してしまう。(その行為の現場から始まるのには驚いた)。親友を失ったワタナベは、誰も知らないところへと東京の大学に行き生活するのだが、或る日直子と再会して交際が始まることから実際の物語は始まり、その時すでに直子はキズキの死により深い傷を負い精神を病んでいるという展開になっていく。
東京で偶然直子と再会したワタナベは、その後直子と付き合いながら学生寮での学生生活をし、ちょうど時は学園闘争(1970年代)の真っ只中での大学生活やアルバイトなど、社会情勢のなかの若者としての生活を送る。その暮らしを語りながら日本のその頃の懐かしい情景(大学のキャンパスや学食、レコード屋、アパートや昔の家など)や風景が再現されているにもかかわらず、どこか違った感触があるのはなぜだろう。森や草原や渓流や滝や蓮池や雪山や海原や岩礁など自然の風景、そしてそこに降り注ぐ雨や風や波などが、登場人物の心の動き綯い交ぜにしながら描かれるその映像の素晴らしさに魅了されながらもこの美しさは、いわゆる和的ではないなあ・・と思うのであった。
水の使い方(プール、雨、波、雪など)、風の効果(草原や海岸などで)の巧みさ、そして日本らしい佇まいが好きだという監督の、当時の暮らしの細部(家屋そのものと同時に調度品や台所用品また衣装なども)が再現させられているのに美しさと懐かしさを感じながら思ったのは、これは日本そのものと言うよりは、監督の感性を通した日本の美しさだなあ、と思い至ったのだった。
表現とは皆そういうものかもしれないが、そういう彼独特の感性で、切迫した感情と官能、そこでの荒々しさと繊細さを自然の中に溶け込ませながら青春期の若者たちの姿として描いている映画となっているように思えた。
この小説は、春樹の中ではほぼ全体がリアリズム的な作品である。それがいまや日本という国を越境して世界的なベストセラー作品となっているように、トランの映画も日本でありながら日本を越えたものになっているのではないかと思うのであった。
最後は原作通り(予想通りでもあった)ワタナベが公衆電話から緑に電話をかけるところで終る。
「あなた、今どこにいるの?」という緑に、ワタナベは「僕は今どこにいるのだ」と思う。そしてどこでもない場所の真ん中から緑を呼び続けるのである。
まさにこれは青春の物語である。青春期の悩み苦しみはどんな国の人々にも共通する。ふっと私はサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を思い出した。
ワタナベは松山ケンイチ、直子は菊池凛子、緑は水原希子、その他のキャストも監督自身がかかわっただけに、みな的確であるように感じた。
2011年01月08日
T温泉行き・つづき(蟹を折る話)
今朝はここも氷が張りました。
すっきりと伸びた水仙が、清らかな眸のような花を咲かせています。
梅はもう咲いているところもありますが、わが家の蕾はまだ固いです。
今年は蟹を折ってみようと思っているとき、原利代子さんの詩集『ラッキーガール』に出合って面白く思いました。原さんも旅先で折り方を習いながら蟹を折ったようで、四川省 松藩県の黄龍という名勝地を訪れたときのことです。今年の年賀状もアメリカコロラドの国立公園のアナザシ族住居跡という不思議な土地の写真でしたし、あちこち珍しい地を旅行されるようです。
題は、「黄龍の蟹」
時々 蟹を折る
正方形の紙一枚で蟹を折る
四川省 松藩県の黄龍へ登ったときのことだった
O博士が蟹を折ろうと言い出した
天までも届く無数の石灰棚から流れ落ちる水はあまりにも美しかった
博士は水の中に蟹を見たのだったろうか
ホテルに戻るとロビーでにわかの折り紙教室が開かれた
クロレラ研究の第一人者O博士の折り紙教室だ
ホテル備え付の質の悪い便箋を折り紙にし
博士は太った身体を丸め一気に蟹を折っていく
丸っこい指が器用に動き
二本の爪足と八本の足を具現していくのだ
(中略)
(そして原さんをはじめグループの人たちは皆熱心な生徒となって一緒に折っていったのである。「蟹はまことに複雑な題材であった」と書いているように、初心者には難しい部類に入る。
一枚の紙であらゆる立体的なものを折りあげる日本の折り紙の精巧で複雑な技法は、芸術品とまでいえるくらいで目を見張りますが、それは到底かなわぬもの、初心者でも折れるくらいのものを習得するのがやっとですが、そこでも蟹はやはり難しいもののようです。原さんたちも、帰りの飛行機まで持ち越した人もあったようだが、原さんは無事習得されたようである。そして)
今でも ときどきあふれるように蟹を折りたくなるときがある
出来上がった蟹はボールペンで目玉を入れられテーブルの上に鎮座する
しばらくは ガニガニと足を広げそこに居るのだが
いつも いつの間にか居なくなってしまう
蟹は戻っていくのだろう
わたしの脳髄の奥深く
黄龍の石灰棚の清らかな水が流れ続けているところ
「蟹の折り方」というマニュアルのあるところへ
きっと戻っていくのだ
まぼろしの蟹よ
『ラッキーガール』より
音もなく降り積もっていく雪の温泉宿、清らかな水が流れていく渓流の音を聞きながら折った私の蟹、少々ギクシャクしているのも表情があっていいといわれたその濃い緑の蟹はまだ棚の上に居ます。もう一度折るにはまたテキストを見ながらしか出来ないかもしれないが、その行為はまた雪国の清流へと遡っていく、私のまぼろしの蟹をつくることかもしれない。
2011年01月07日
T温泉行き 26年目になりました。
お正月も七草となりましたが、明けましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いします。
恒例の温泉行き、日本海側は大雪という情報で交通機関など心配していましたが、不思議にも豪雪地帯であるあちらは、むしろ雪は少なめでした。その代わり山陰や会津、また九州などの方が大変だったようですね。所にもよるのでしょうが、ちょっとした気象図や地形によって変るもののようです。とにかく今年はまだ一度も雪下ろしをしなかったと言ってましたし、2日は青空も覗いたりしました。雪が楽しみな私たちとしてはちょっと残念なくらいでしたが…。いつものことですが、大雪ではないと言っても一面の雪景色であるかの地から、トンネルを抜けるや太陽いっぱいのカラカラ天気であるこの地に帰ってくると、まさに夢の世界から帰ってきたような感覚になってしまい、しっとりとして雪と闘い、楽しんで暮らしているかの地が懐かしくなります。
でもこの七草の日、東京は初氷とか、あちらもその後雪が降り続いています。きっとこれからが雪も寒さも本番となることでしょう。
さてそのT温泉行きですが、はじめは10人を越える参加であったのに、間近になって体調を崩したりインフルになったりして結局6人というこれまでとしては一番少なくなってしまいました。子どもの頃や中学生時代に参加したことがあり、その後結婚して共働きでなかなか休暇が取れず、やっと互いに休暇が取れて楽しみにしていたカップルや双子の一家など、若いメンバーで賑やかになるところだったのに、いつもより静かで淋しいお正月となりました。
お料理は例年のように鴨鍋を初めとして岩魚を揚げたものを味噌仕立てにした鍋、自在鍋(いか、ホタテなどの海産鍋)を、また炭火で焼いた骨までぱりぱりの岩魚や鮎、刺身も虹鱒や紅鮭や手作りのコンニャクなど、そして天ぷらや酢の物、和え物なども地元の山菜やキノコを上手に調理したもので、味も姿も、そして器もだんだん洗練されてきてヘルシーで美味しくなり、元日に出るワッパに詰められたおせち料理は、いつものようにお昼用として部屋に持ち帰ることになります。元旦はお雑煮とアンコロ餅、お屠蘇としての日本酒をお銚子一本、これらで今年のお正月も満足です。
2日に行われる餅つきも例年通りに2臼、ご主人も杵を持ちます。これも前に書きましたので省略しますが、この餅つきの最中に到着する若いお客も今年は多いようで、この日に行われる古い古い常連さんたちの新年会のメンバーが(多分)しだいに減っていると思われるなかで、世代の交代もじわじわと行われていると思わずにいられません。26年目にもなった私たちのグループがそうである様に…(いつまで続くか実のところ分かりませんが)。
温泉での日々ですが、これも前にお話したとおりこのラジウム温泉の主浴場は人肌程度のぬる湯なので1時間でも2時間でも入っていられるので、日に何度も入ることになり、それでたいていは湯に浸かるか、それぞれ本を読むか、疲れて敷きっ放しの布団で寝るかですが、今回は昔取り寄せて少しやったもののそのままにしていた折り紙講座のテキストと折り紙を持っていき、それで蟹を折ることに挑戦しました。講座の基礎編で最後のほうにある蟹、つれづれに任せてその折方を習得しようと思ったのでした。ところが私よりもKさんが興味を示し、それにはまりこみ、全くの初心者なのにテキストをひっくり返しながら苦心惨憺、大晦日から元旦午前2時過ぎまで挑戦して、とうとう折り上げてしまいました。(どちらかといえば理科系に強い彼女は、集中力もまた人並み以上)。
それで元旦は、彼女を先導者としながら私を含めた何人かで蟹を折ることに挑戦、大小あわせて6匹の蟹が仕上がりは様々ながら何とか勢ぞろいしたという訳です。
これまで放置していた蟹を折るということを今年は温泉地でやろうと思っていたその時に、頂戴した原利代子さんの詩集『ラッキーガール』の中の一篇に蟹を折る話が出てきたのには驚きました。実はそのことを書こうと思ったのですが、あまりに長くなるので、その詩の紹介などは次回に回します。
2010年11月28日
インド音楽 シタール演奏を聴く
ちょうど2年前のこの時期、ブログにも一度書いたことがあるこのインド音楽の演奏会に、今年も昨日聴きに出かけた。
シタール演奏は、ヨーガ教室の堀之内博子先生の夫君、幸二先生である。
三味線とギターを合わせたようなシタールという楽器は、インドの代表的な弦楽器で13世紀ごろ古来からのものを改良して作ったのが始まりという、北インド音楽で使われる楽器である。本胴と共鳴胴は乾燥したトウガンから作られ、長いネック(三味線の棹に当るか)は特殊な木材。当初は3本弦であったが、後に7本になり、現在では18~20本の弦を持つ洗練されたものになったとのことだが、そのうち18~20本が共鳴弦ということからも分かるように弾き方はギターのようだが、旋律が共鳴して深く広がりのある音色をひびかせるようだ。1オクターブが22の微分音に分けられるというのもよく分かる。複雑微妙な自然の音色に近いのかもしれない。
シタールのほか、前回と同様タブラというインドの太鼓、演奏も前と同じ龍聡さん。今回は、タンブーラ(今野敬次)というシタールを一回り小さくしたような楽器が加わりこれは低音部をずっと奏で続ける。
前回も書いたが、旋律も時間帯に沿ったものになるというのも、音楽があくまでも自然の中にあるということを意味する。今日は夜のラーガから始まった。会場は真っ暗になり、演奏者の前に置かれた、小さな蓮の花の中に蝋燭を灯したような小さな照明だけで演奏される。少し聴き慣れたせいかもしれないが、同じようでありながら微妙に変化している旋律は、懐かしい瞑想的な世界に引き込まれる感じがした。
休憩(この間、マンダリン紅茶とクッキーが饗された)を挟んでの第2部の最初は、日本の歌、赤トンボや五木の子守唄などが演奏される。
シタールは三味線のルーツとされるというように、日本の古い旋律と同様5音階であることから、そういう日本人の心に響き懐かしく感じられる民謡と共通するところがあるようだ。沖縄の島歌もそうであり、結局そういうものすべては通じ合うのかもしれない。タブラの繰りかえされる響き、それは16音符であり、シタールもそのリズムに乗って奏でられる。両者が合わなくなると迷子になってしまうそうである。微妙なタイミングのタブラのリズムは、何となく日蓮宗徒が叩くウチワ太鼓の テンツク テンテン ツクツク というリズムにも通じてくるような気がした。
最後は朝のラーガという曲で終ったが、1時間半というのは短く、もう少し聴いていたかったと思う。林間で静かに目をつぶって瞑想しているような気分にひと時を過ごして、早くも年末商戦で賑わう横浜の雑踏を抜けて帰ってきたのだった。
2010年10月25日
女郎蜘蛛たち
急に秋冷、秋雨という日々になって、夏の猛暑の記憶はどこへやら。
小さなわが家の庭には秋の草花でいっぱいです。
ここには女郎蜘蛛たちが大きな巣をかけています。
蜘蛛がいるのは自然が残っている証拠だと、台峯歩きのときのKさんの言葉。
なるほど、廃屋や荒れた庭などにすぐ蜘蛛たちが巣を作るのは、それが自然に帰りつつあるからなんだ!
わが庭もほとんどガーデニングめいたことはやらず剪定も最低限、草ぼうぼうにしているので、特に秋の今はまさに野原の風情。しかし野の草が皆可愛い花をつけ、なかなかです。桜色の花弁と黄色い花蘂の秋海棠、ホトトギス、紅白のミズヒキソウ、タデなど。金木犀の束の間の香りと色が終ったあと、目を楽しませてくれます。
その南庭の上空に、それぞれ1メートルくらいの巣を張っている女郎蜘蛛が、4匹はいます。それぞれ風や虫などの通り道をうまく捉えて、大きな見事な巣をひろげています。それで人間の通り道だけは遠慮してもらって彼女らの様子を眺めています。
家の中でもよく見かけますが(女郎蜘蛛ではない)、蜘蛛は虫を食べてくれるというので殺しません。ゴキブリも食べて欲しいのですが、それは無理のようです。
さてその女郎蜘蛛ですが、黒い脚には黄色い縞模様、太った胴体は黄色の地にラメを帯びた緑青色の縞帯、尻のほうに紅斑があり、いかにも名に相応しい装いで、広げた巣の真ん中に堂々とかまえています(大きいのは25センチほどにもなるという)。そしてそのすぐ近くにもう一匹小さな蜘蛛(全体で1センチにも満たない)がいることにある時気がつき、子どもかななどと思っていましたら、それが雄なのだとやっと知りました。なんという無知であることか!
そしてその雄は、秋も終りになり産卵近くになると、雌に食べられてしまうのだそうです。まさに身を捧げての愛です、とKさんは言います。雄というのはそういう存在なのですね、哀れなものです、と。カマキリもそうですが、産卵のための蛋白源として身を挺すわけですね。
この何日かの雨や風にも巣は耐えていました。しかし幾何学的に素晴らしい網目をみせていた巣もあちこち破れ、繕われ、二重三重になり哀れな姿になっていましたが、蜘蛛自体は丸々と太っていました。そしてどの巣にも、小さな雄の姿はありませんでした。
産卵も間近なのでしょう。そのうち雌の蜘蛛の姿は消え、空き巣となったぼろぼろの網が残されることでしょう。季節は足早に過ぎていくようです。
2010年10月13日
音楽劇『銀河鉄道幻想』(作・のまさとる 原作(宮沢賢治の作品など)
昨夜来の雨が上がった「体育の日」の夕べ、星空を眺めながら野外劇を楽しんだ。
以前にもブログで紹介したが、近くの高校生による演劇である。これまで何度も県大会や関東地区の大会に優勝、全国大会で2位を取った伝統のある演劇部である。
今回は、賢治の作品「銀河鉄道」に、賢治の子供時代や家族関係、その暮らしぶりや人生思想を重ね合わせながら、音楽あり踊りありのオリジナル作品で、樹木に囲まれた丘の上で虫の音を聞きつつ星空を見上げながらの舞台(演出から舞台装置、大道具・小道具、衣装やメイク、音響や照明などすべて手作り)は、若者たちの熱気と鍛錬された演技は素晴らしかった。
特に今回は、舞台の両脇に小さな回り舞台までが作られているのには感心した。それが賢治の家の中になったり、妹のトシのベッドになったり、銀河鉄道の車内になったり、賢治が農民たちに教える教室になったりして、場面をスピーディに展開させるのに効果的だった。
小道具や衣装もあの当時のしつらえで、着こなしもなかなか、着物姿で飛んだり跳ねたりも様になっていた。賢治は音楽好きだったがチェロを初めとした合奏も舞台上での生演奏もあって、楽しい音楽劇ともなっていた。
作家となった賢治が舞台裾に出てきて筋の展開を語るという形式で進んでいく。また、「どつどどう どどう…」の音楽と共に現れる風の又三郎や、最初と最後に賢治の家族写真を出演者で演じさせるという枠組みがあり、子供時代の賢治やその後の活動、トシの死を絡めながら、ストーリーとしては「銀河鉄道」に沿っていく。ジョバンニに賢治を投影させながら、カンパネルラをはじめとして、車掌や鳥捕りや燈台守、死神やカラスや、また火に体を燃やすサソリなど…、衣装も役作りもよく出来ていて楽しめた。そしてそのストーリーの中で、風土も気象も厳しく、そこでの貧しい農民の生活、それをどのようにしたら皆が幸せになれるかと自問し行動していく賢治の生涯を描いていく。脚本もしっかりしていたし、演技も大勢であるにもかかわらず、皆きりっとした動きと振り、しかもエネルギッシュで、若者の意気と努力を頼もしく思い、劇のクライマックスは感動させられた。これは今日でも、いや今日であるからこそ伝わってくる賢治のメッセージがあるからかもしれない。
劇の終り頃、斜め前にふっと落ちてくる小さな光があった。ホタル? と思ったが、もうその季節ではない。何だったのだろうか? 私の目の錯覚か? 分からないでいる。
2010年01月07日
T温泉行き(承前)
温泉行きに直接関係はないのですが、年頭に当って少しだけ。
帰った翌日の正月5日、BSの「日めくり万葉集」(もう再か再々放映になっていますが)を見ていましたら、次の歌が紹介されていました。
「新(らた)しき年の始めの初春の
今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)」 大伴家持
各界の人がそれぞれ心に残った一首を紹介するたった5分の番組ですが、とても興味深く聴きつづけていました。今回は、俵万智さん。育ったところが福井県なので・・いかにも新年に相応しいと。同じく家持もその福井、越前に国司として赴任させられ(左遷である)その地での正月の宴の席で作ったものである。
この歌は、4500首余りの最後に置かれたもので、これにはこの集を編纂した家持の気持が集約して込められているのだといったのは、篠田正浩さん。万葉集の時代、奈良時代は血まみれの権力闘争があった時代、しかも大伴氏は天皇に尽くしながら次第にそれからはじき出され排斥され没落していく過程でもあった。そしてこの集は家持の大伴一族の真情を守り抜くという信念から編まれたものであると。それゆえこの集は権力の非情さのアンチテーゼとして編まれているという。政治的にはそれら怨霊を鎮めるために「平安」と名づけ京都に遷都したのであるが、まさに今は「平成」、「昭和」という戦争に血塗られた時代から脱皮しようという願いもあるにちがいなく、何となく共時性を感じる。
新年と立春がたまたま一致しためでたい年であり、それを寿ぎ、この日しきりに降る雪
、そのようにいっそう益々吉事(よごと)、良いことが続きますようにという、情景とめでたいことを重ねながら詠んだ歌である。
口に出すことで良いことはやってくるという信念、「言葉」の力によって「事」を手繰り寄せようという家持の想いがあり、それがこの集に心血を注いだのだという篠田さんの解説が心に残った。
昨年は「源氏物語」を、さっとの走り通読であったが、やったので、今年は少し万葉集を読み込んで見たいという思いに駆られている。
そしてもっと言葉を信じ、言葉を大切にしようとも・・・。
以上が、雪の温泉から帰ってきた私の念頭の思いです。
2010年01月05日
T温泉行き25年目も雪降り続く
からからの晴天が続いていたこの地に、昨夜から今朝にかけて雨が降りました。
やっとお湿りという感じです。でも日本海側はずっと雪が続き、大雪になっています。
新幹線によって列島横断がたちまちに可能になった今、大雪に閉じこめられたT温泉でのお正月は、たった2時間余の間に、まさに異国、または夢の世界からこの世界に戻されたという感覚になり、不思議な、懐かしい気持を抱きながらそれらを思い出しています。
例年通り今年も、暮れからお正月にかけて3泊4日のT温泉行きも、25回目になってしまいました。宿の人にもそのことを言われましたが、上には上があって、40回という人もあるようです。それだけ温泉自体が昔からいい湯とされてきたわけですが、この宿のもてなしもまたいいからでしょう。本当に最近ではここが正月に帰省する故里のような感じになってしまいました。
今年は一人が本当に異界である天国に旅立ち、7名になってしまいましたが、ほぼ常連だけのメンバー、一人は急に仕事が出来て一泊のみという状態です。
昨年と同じように暮れ近くから日本海側は雪が降り続き荒れ模様になって来ましたので、交通事情が心配でしたが、往復とも無事。上越新幹線は、雪への対策が十分にとられているので、かなり安心できるのでした。何年か前、大きく乱れた事がありましたが、それも確か雪自体というより電気系統の故障だったようです。実際私たちの往路も、大雪になっていましたが新幹線の遅れはなく、ただ在来線はストップしてしまったとか。宿への道路状態も、絶え間ない除雪と警戒によって、ほぼ正常どおり。しかしそういう風に大雪でも生活や行動に支障がないように計らうためには、並々ならぬ土地の人の努力と働きがその陰にあることを見逃すわけには行きません。やはり雪国の生活は大変だと思います。しかしそこにまた自然と向き合うことの手ごたえと、苦しみ喜びがあり、生きる事への実感もある。そのようなことを、観光客として快適な部分だけを味わわせてもらいながら、少しばかり擬似体験させてもらうという事ですが、細胞が目を覚ます感じがするのでした。
雪は三が日絶え間なく降り続けました。屋根に積もった雪が打ち上げ花火の音のような音を立ててときどき落ちてきます。メンバーも最近はスキーに出かける人もなく、専ら温泉三昧。後は勝手に本を読んだり、眠ったり。TVで箱根駅伝も見ましたが、こちら側の晴天を、雪に降り込められた中にいて眺めるということになり、つくづく山脈という自然の屏風が作り出す自然現象の面白さを思いました。ここの温泉は前にも話しましたが、人肌よりも低い温度なので、何時間でも入っていられるからです。最近は若い人もいるようで、水に濡れてもいい本を持ち込んで読書しながら浸かっている人もいましたが、今年は見かけませんでした。
料理も大晦日の鴨鍋をはじめ1日2日とそれぞれ違った鍋が中心で、刺身もまたその他の料理も土地の物産ばかり、海老や蟹や肉類といった金目のものは使わず、串に刺し炭火でじっくり焼いて頭から全て食べられる岩魚、天ぷらも山菜とキノコ類などと全てヘルシーで、しかも元旦はお屠蘇代わりに銚子一本、お雑煮、欲しい人には餡子餅、おせち料理は曲げわっぱに詰められた、いかにも土地のお母さんが作った家庭の味のするものばかりで、これは食べきれないので部屋に持ち帰りお昼用にする…といったものです。これら料理も昔からではなく、時代と共に変ってきたもので、宿の事情や世の中の動き、それらによって年々変化してきたもので、それらが判るというのも同じところに毎年行っているという面白さかもしれません。
お餅搗きも健在でした。始めは何の張り紙もなく(古い人たちによる新年会の案内は掲示されていたのに)、大雪なので男衆は雪掻きに駆り出されたりして今年はやらないか3日か、と思っていましたらいつもどおり2日に行うとの事、11時半に玄関に集まりました。いつものように2臼、昨年まで杵を持っていたお年寄の代わりに若い人が主人と一緒につきあげます。女の人が水をつかって裏返す方法でなく、男二人だけで杵で最後まで捏ね上げる方法を、実演で見せてもらいました。清酒と漬物も供され、小豆の餡子と黄粉、大根おろしに醤油、の三種、私は今年はその三種とも全部賞味し大満足。今年はよく撞き上がった、と主人の弁。(そんなこともあって、体重が少々増えたようです)
もう少し別の話もしたかったのですが、長くなりますのでそれは回を改めてということにします。
2009年12月02日
ドキュメンタリー映画『いのちの食べかた』
「食べる」ことを見つめれば、どうしても厳粛にならざるを得ない。
生きものは、全て自分以外の「いのち」をもらって生きている。しかしその「いのち」もまた、生きる権利をもって生まれてきたはずのものだからである。
昔は、その命のやり取りの現場に立ち会うことが多かった。しかし今はそれらは綺麗にラップされ、スーパーに商品として並べられている。人口が増えるにつれ食料の増産が不可欠で、私たちに馴染のあるのはブロイラー方式で育てられる鶏や卵のように次第に大規模な生産方式が考えられて来るのはやむを得ないことかもしれないが、その最極端というかグローバル化された大規模な食料生産工場(まさに工場のイメージである)の現場を撮影したドキュメンタリー映画である。(2005年、オーストラリア・ドイツ)
遥かかなたにまで伸びる工場の中で、ほとんど人の手も煩わさずオートマティックに
大量に処理され、解体されていく豚や牛や鶏。それら行程と現場を、全くナレーションなしに淡々と映していく。その機械的で整然とした画像は、時には美しささえ感じさせ、それゆえいっそう恐ろしさとおぞましさで胸がふるえる。
「誰もが効率を追究した生産現場の恩恵を受けている。それなのに、その現場を知っている人は本当に少ないのです。」と監督は語っている(パンフ中の言葉)が、効率よく最良の肉をとるためにどのようにするか、餌から育て方、処理の仕方まで、人の手によって管理され、全てを機械によって製品化していく生産現場が、生々しく映しだされる。もちろん動物だけでなく、リンゴのような果物、パプリカやトマトやキャベツ、キュウリなどの農産物も同様で、先が霞むほどの長くて大きいビニールハウスの完全に温度調節された環境に中で育てられ、収穫する人間も、移動する機械に乗ってである。そこには土などという厄介なものが無くても良い。養分をしみこませたスポンジのようなものに生えていたことが、収穫が終って枯れてしまった苗を片付けているときに分かったりもした。魚も例外ではない。日本での養殖なども規模の違いはあれ同じかもしれない。大地一面に広がった向日葵畑。その上空を薄い布をかけるように、飛行機が殺虫剤を撒いていく。その殺虫剤をガラス室のパプリカに無人の自走式散布機を撒いている。
大なり小なり、命をとることは同じではないか、という問いは当然出てくる。
しかし最良の肉を大量に作るために、生殖まで人の手で行い、しかも生まれてきた子豚・子牛を乳首にくわえさせたまま回転していく小さな空間に閉じこめたまま成長させるなどというのは、生命そのものを生きさせるのでなく単に肉を製造しているという感じである。傷のつかないまたは発育を促進するためか分娩させないで腹を割いて取り出したり、肉を新鮮にしておくために電撃波で気絶状態にしてぶら下げ、そのために固まらない血を逆様な状態なので十分に抜くなど(日本人のやる魚の活き作りなどを外国人が残酷と非難するが)、命を食べる人間の傲慢さを思う。
日本でも牧場では食牛を育てている酪農家がいるが、少なくとも手塩にかけてというふうに育て、送り出すときには胸を痛くする。そういう人間味があるのは小規模だからできることである。しかしブローバルな工場では、そういう人間性が全くなく、まさに工業製品と同じである。ほんの少数働いている人たちの無表情で無言に近い姿、一日中であろう淡々と豚の手首を、また切り鶏の首を落としている女性、そのような中でもお昼のパンをただ一人も黙々と食べている、そういう人間の姿も映している。
このグローバル化していく「食べる」ことの反対側に、アイヌやアメリカ原住民などの食生活があるだろう。アイヌは熊を食べるが同時にそれは神であり、姿を変えて人間に食を与えてくれているのだと、神として崇めた。その全てを利用し必要以外は捕獲しなかった。これは今でも昔どおりに暮らしている原住民たちの間では同様のことだろう。
ここまでになってきた私たちの食生活。
牛は中でも人間に近しいので、それが生殖のはじめから命を終える最後まで、工場の中で単なる食肉製造物として扱われている現場、盛り上がった筋肉をつけた牛たちの虚ろに見開かれた眼などを眺めさせられていると、狂牛病が発生するのも当然という思いにさせられる。
かつて宮沢賢治の作品について井上ひさし氏が「じゃんけんポンの法則」といわれたことを思い出す。出てくる熊と猟師と旦那の3者の関係は、じゃんけんポンの関係、すなわち熊は猟師に負け、しかし旦那には勝つ(無手の人間は襲える)、猟師は熊に勝つが、旦那には頭が上がらないという関係、すなわち唯一の勝者は無く、そういうバランスの中で生きているのだと・・・。
命の大切さは分かるが、同時に命という業をも持っているのである。
「食べ方の作法はどうでもいい。見つめよう、そして知ろう。自分たちの業と命の大切さ、そして切なさを。」とこの映画への賛辞を森達也氏が寄せている。
2009年10月22日
冷泉家の歴史と文化(つづき)
冷泉家とは一体何なのだろうか。実は私はよく分かっていなかったのである。藤原俊成、定家から延々800年続いてきた「和歌の家」と言う程度の知識である。それゆえに和歌の勅撰集をはじめとする和歌集だけでなく「明月記」や「源氏物語」などの写本まで、重要文化財が8つの倉にどっさり納められていて、それをずっと守り続けてきた家系だというぐらいの判りかたであった。
冷泉という姓も、天皇の場合のように(朱雀帝、桐壺院など)その家の在り場所で呼ばれる例で、3兄弟の二条家、京極家に対して、末っ子の藤原為相邸は冷泉にあり、彼から一族は始まるからである。だから本当の姓は藤原であったが、近年になって藤原では同姓が多すぎるので、区別するために冷泉を名乗るようになったのだという。
さて冷泉家というのは何か。言って見れば、和歌の「家元」という事である。日本の文芸・芸能の多くは家元制をとることが多い。お茶やお花から、能や歌舞伎やその他、一子相伝の家元によってその芸は受け継がれてきている。そんな家元である。
現代詩はそういう日本の和歌的抒情から先ず抜けだそうとしるところから始まった。もちろん短歌や俳句を書いていた人が詩を書き始めたり、また反対に詩人が短歌や俳句を取り入れたりすることがあったりするが、初期はむしろそれらに傾こうとする事を潔しとしなかったのではないだろうか。今でもpoemとして根っこは同じであっても決して
それらに手を染めない人もいるし、私もちょっとだけ短歌や俳句を作ってみたりしたが、それぞれにおくが深いわけであるし、そちらには行かなかった。
現代詩はそういう伝統から見ると異端児的である。しかし冷泉貴実子さんの言うように七五調というリズムは、遺伝子の記憶として自分の中にある。もちろん伝統が全て良しというわけではなく、たとえば花柳幻舟さんのようにと例を挙げ、家元批判の気持も分かるけれど自分たちはただ祖先の遺産を守り続けてきたと話された。
芭蕉のいう不易流行なのだろうが、現代詩に関わってきたものとしては、その伝統の素晴らしさ、力に感嘆しつつもちょっと複雑な気持にもなるのだった。
これら家宝の数々については、新聞にも宣伝され、東京都美術館で展覧される事になっているからここには書かないが、面白いと思ったことを少し。
大体において、日本では祭政一致は平安朝以降は無くなり、実権は武士が握り、また明治以降は、政治の中心まで東京に移り、貴族は公家ということになったが、政治に携わることをしなくなった彼らは一体何をしていたかということである。
一体何をしていたのか?
それは年中行事を行っていたのだという。すなわち新春のための準備(掃除、餅つき、飾りつけ)からお正月の行事、その後節分、お花見、端午の節句や七夕、お月見などなど四季折々の行事を、昔行われていた通りに今も踏襲しているのである。明治以後、東京に逝ってしまう公家たちも多い中で、冷泉家だけは昔のままの750坪の古い屋敷に昔のままの年中行事を延々と800年間続けてきたのだという。まさにここには「源氏物語」の世界がそのまま残っているのである。
「源氏」を読んでいると、ここには政治のことは出ていないので、貴族たちはいわゆる年中行事を行いながら管弦の遊び、詩歌の作成や朗誦に明け暮れている場面ばかりであるが、まさにその世界を今日まで守り、引き続いているという事を知って驚嘆した。
それが一体何の役に立つか、また何故そうするのか、分からないが、しかしそれが文化というものではないだろうか。それが大切な事だと先祖から言われているので、それをただ自分たちはやっているだけだとも。
しかし8百年間、当代で25代にわたる期間守り続ける事はやはり大変だったようだ。日本本土の爆撃にも、京都であったことから免れたが、その後の経済バブル期を切り抜けることは大変だったようで、そして今日は相続税の問題など、やっと新聞による発掘で学術調査が入り財団法人になったことで、これらが守られたのである。
そういえば、今の天皇家の仕事も公務のほかに、宮中のさまざまな行事も大切な仕事のようで、冷泉家と同じようなものだなと、思い至ったのであった。
もう一つ、この冷泉家の存続に大きな役割をしたのが、あの「十六夜日記」を書いた阿仏尼であるということを知った。はじめに書いたように3兄弟の末っ子の為相が一代目になるが、その母親がその阿仏尼。彼女は女でありながら息子の相続問題で訴訟を起こしはるばる鎌倉幕府に訴えにきた、しっかりした文学的な才もある人で、それが認められて家の復興が遂げられたのである。上の二人は、父親からは目にかけられていたのにもかかわらず、政争に巻き込まれて家は断絶。まさに祖父に当たる定家の有名な言葉「紅旗征戎わがことにあらず」が、この家を守ったのである。
これは「源氏物語」が世界に誇れる文学作品であるように、倉の宝物と同時に、家という生きた文化財もやはり世界に誇るものであろう。ただその家に生まれた人は宿命だとはいえやはり大変だろうなあと思った。
2009年10月17日
公開講座「冷泉家の歴史と文化」
源氏物語の世界に浸っているこの折、このような特別講座が開催されるとのことを知り早速申し込んだ。
平安時代の和歌の家、俊成、定家を祖として綿々と続く(もちろん更にその祖は藤原道長である)王朝の和歌守の家系、文化を守り続けてきた家である冷泉家のことは、新聞などで報じられ、すでに名高いのだが、その実態はどういうものであるのか、西欧で言えば由緒ある古城を見学させてもらえるような感じで聴講した。
近年になってやっとその重要性が国にも認められて学術調査も始まり、財団法人となってからは、長い時代を経て守られてきた(倉が5つもあるとのことであった)歌書(8百年の伝統の中で集積されてきた勅撰集、私家集)や歌学書、古記録などを、将来の保存のため調査と平行して「冷泉家時雨亭叢書」全84巻を完成。その完結の記念として新聞社後援で行われたようである。私は和歌は詠まないが、日本の伝統的な詩歌としてそれをないがしろにはできないジャンルであり、その詩的情緒は私の中にも脈々として流れているものであり、詩を書き続けていくにつれ、また歳を重ねていくに従ってこの国の伝統の力をいっそう感じないではいられない。源氏を読み返そうとしたのもそのことがあり、しかもちょうどそういう今であったので、貴重な機会と期待して出かけた。
ここまで書いて、ちょっと緊急の用事ができたので続きは稿を改めます。
念のため冷泉は[れいぜい]と読みます。昨夜は横浜のヒルトンホテルに泊まったが、読めなくてちょっとスペルを書いてくださいと言われたと貴実子さんは笑っていらっしゃいました。ぎっくり腰になっていて、幸い着物の方が腰のサポートには良いようでと・・・この叢書の宣伝のためにも頑張って出ていらっしゃったようです。平安の面影を残したようなふっくらと、ゆったりした感じの、良いお声の方でした。
2009年10月14日
『源氏物語』宇治十帖 大君と中君
薫が宇治の八宮の許に通いだしてから3年が経っている。目的は若くして出家心の強い薫が、仏典への造詣が深い宮に教えを乞うためだったのに、はからずも姫君姉妹の姿を直接見てしまったため、心が動かされてしまう。もちろん姫君たちの事は知らされていたし、間接的にはお互いのことを知っていたのだが、一気に薫の心が高まったのである。これが匂宮であれば、姫君たちがいるということだけで、積極的にアタックするところであろうが、これまでの薫はそうではなかった。このとき薫は20歳、匂宮は21歳、大君21歳、中君は20歳。
折りしも八宮は、近くの師と仰ぐ阿闍梨の寺に7日ほどこもっている最中で、薫はお忍びの単独で馬を使ってであった。さすがにこの時は接近する。そして、この時は、侍女たちによって慌てておろされた簾近くに寄って、消息の和歌を差し上げるのである。しかし姫君たちは容易には返事をしない。こういうとき気の利いた若い侍女でもいれば代わりに返歌をするであろうが、残念ながらやはり世離れした田舎住まいである。
(この返歌もまたそのタイミングも難しい事柄である。あくまでも姫君はつつましく上品でなければならない。それら機微をよく心得た女房、侍女たちを侍らせているかどうかによって、その姫君の格も上がる。そしてたとえ返歌をしたとしても、その文字の良し悪しや散らし書きをするデザインセンス、また紙の種類やその色など、全てひっくるめて評価の対象となる。すなわち単に容貌だけではなく、教養や美的・デザインセンスなどあらゆるものを兼ね備えていなければ、理想的な姫君とはなれない。洋の東西を問わず王朝文化、貴族文化というのは結局そういうものであろう。)
さて、思わぬ訪問を受けた姫たちはというと、宇治という都から離れた山里ではあるが、帝とつながる八宮の姫君たちはその片鱗を備えている。薫のような輝かしい身分の人から真面目に消息をされたら何とかしなければならない。といって対等に堂々と応えて恥を掻くということだってあるわけで、驚いて即答できないままに、大君は「何もわきまえない私どもの状態で、物知り顔でどんなことが申し上げられるでしょう」と、謙遜しながら奥へ退いていくのである。その姿は「よしあり、あてなる声して、引き入りながら、(声を)ほのかにきこゆべく」、すなわち、いかにも由緒ありげで、上品な声をしていて、しかも小さな消え入るような声であり、それがいっそう心を誘うようである。それでもなお薫は引き下がらず、あれこれ細々と話をして、何とか大君から返事をもらおうと思う。と言ってもかえって返事がしにくくなり、そこで老い人の女房にその応対を譲るのであるが、その人こそ薫の実の父親である柏木の乳母であった事がわかり、秘せられていた薫の出自も明かされ、しかもその臨終の様もわかり、遺言も聞かされ遺品も手渡されるという展開になる。すなわち運命の糸に導かれるように、薫はこの宇治と深い縁が出来てしまう。
胸底に鬱積した憂いの種の一つ、出自が判明した事で、いろいろまだ聞きたいことはあるが満足するが、大君の心の声を聞くことはできず、明け方になり、霧も晴れてきて迎えの車まで差し向けられたので、今度は八宮がいらっしゃる時に参りますといって帰って行く。やっとその時薫がしたため差し上げた歌に対して大君から返事がかえってくるのだった。
だがこの話を、つい匂宮に話してしまう。これまで秘し続けていた、隠れ里のような処にひっそりと棲んでいる姫君という夢のようなロマンに、匂が憧れていたということを知りながらである。まめであることで通っていた薫であるから、つい匂宮に自慢したくなったのであろうか。このことが、物語の大きな展開、そして悲劇へと突き進ませる事になるのである。
では、今日はここまで。
2009年10月07日
『源氏物語』宇治十帖の月
月の明るさは照明の発達によって実感できなくなったが、それらを無くしてみると月の明るさに感嘆する。先日の台峯での体験はまさにそうで、懐中電灯の明かりしかない山中で、しかも向かいの山稜も麓に所々人家の灯火が見えるだけだったので、満月の明るさを全身に浴び、その色合いの神秘性を体感した。草むらの前方に薄の群れもあり、右上方には満月、そのずっと下にはなだらかな山並みといった情景は、懐かしい谷内六郎の絵のよう、まさに絵のような風景の中で、時代をしばし忘れた。人の顔もそこでははっきり見えるが、しかし昼間とは少し違っているのかもしれないとも思えるのだった。
源氏物語では、当然ながら月は舞台装置にはなくてはならぬものである。雨もまた道具立てとしてよく使われるが、月は何と言っても筆頭だろう。宇治十帖は、薫が道心追究のために山深い宇治の地に源氏の異母兄弟であるが不遇で落ちぶれている八宮を尋ねて、そこで宮が大切に育んでいる二人の姫君を垣間見る事から始まるが、そこでも月が大切な役割を持っている。
時はやはり秋の末、有明の月の頃である。すなわちちょうどこれからの時期ということになる。有明とは、朝になってもまだ月が空に残っている状態の頃なので、だんだん月の出が遅くなり、従って月が朝まで残る事になる。
八宮は近くの師とする僧都の所で修行に励んでいて留守、そこで薫は二人の姫君が奏でる琵琶と琴の音を耳にする。姉妹は警戒心も無く簾を巻き上げて月を眺めながら演奏している。(もちろん警護の者にしっかり守られている筈なのである)
もう馴染みになっていた薫は(宮の許を訪ねるようになって3年が経っている)、宿直の者に頼んで家の中に入れてもらっている。そこで月明かりで二人の姿をみて、たちまち道心は何処へやら恋に落ちるのである。
「源氏」は、演劇的だともいわれるが、むしろ映像的ではないかとも思う。物語絵巻があることからも分るように、場面場面は一幅の絵になっているが、この満月を少し過ぎた月の明るい夜、演奏する二人の姫君の姿があたかも眼に浮かぶような、しかも単にその周りの光景だけでなく姫君一人一人の容姿から立ち振舞い、またそれによって推理される性格や気質まで、詳細でいて簡潔に描写されているのには驚くほかない。まさに映像的であり、また演劇的でもある。
先ず濡縁に寒そうに細っそりした女童が一人、また同じような格好の大人の侍女が一人などがいて、ちょっと奥の方に柱に少し隠れるように坐って、琵琶を前に置いて撥をてまさぐりしている時(これが妹の中君である)、ちょうどその時、流れてきた雲に隠れていた月が「にはかに、いと、明るくさし出でたれば」、中君は、ー扇ではなくて、これ(撥)でも月は招くことができたようですよ!ーと声をあげながら月を仰ぐように顔をさしだすのです。ここで月の光で露わになった中君の顔を、「いみじく、らうたげに、匂ひやかなるべし」と描写する。それに対して、そひ伏したる(ものに寄りそうようにしている)していた大君はこれまで演奏していた琴の上に身を乗り出すようにして傾きかかり、笑いながらこう言うのです。入日を返す撥というのはありますが、月を呼び返すというのは、思ってもいませんでした、面白いこと、などといって笑いあうのです。その大君のけはいは、「いま少しおもりかに(重々しい)、よしづきたり(由緒がある、奥ゆかしい)」と、薫は眺めながら判断する。またこの会話から扇で入日を招くという漢詩のようなものがあるようで、姫君の教養の程も察しられるのである。
このように月明かりは、スポットライトとして、物語の中で重要な効果をあげ、男の恋心を煽る。薫はこの垣間見によって姉の大君に魅かれるのである。
では、この大君・中君と薫についてはこの次に。
2009年10月03日
『源氏物語』宇治十帖の浮舟
源氏を読んでいると、色々思うことが出てくる上に横道にも入っていくことになり、書きたいことも沢山でてきてなかなか終られない。そこで今日は、今考えている私の結論めいたものに、先ず一気に跳んで見ようと思います。
宇治十帖の女主人公の大君と中君の姉妹の姫君を巡る、薫と匂宮の恋の駆引きのお話は一先ず置いて、最初にも述べたように、この世界でも冠たる名著(王朝文化、絢爛豪華で芸術性の高い平安時代の文化のことごとくがここには詰っている)の中に流れる暗いものは何であろう? という事が解ってきたような気がする。もちろん私なりの意見である。
先ず一つは、底流に流れる「もののあはれ」、無常観。それは別に特別な事ではなく、時と共に全てのものは変化し、盛衰することで、当たり前の事だが、これは恋物語なのであるから、それは男女の心、その変化である。そして女が主体性を持てなかったこの時代、主としてそれは男たちの恋心の変化、しかもこの時代は制度的にも一夫多妻のようなものだから、女は男次第ということになる。その女を守る事ができるのが、後見、すなわち父親やそれに代わる男の、地位や権力や財産である。宇治に住む二人の姫君は高貴な血筋(父は八宮、すなわち帝につながる)であるが、地位も財産も乏しい情況に置かれている。そのような女たちはどうなっていくか、そこに紫式部の眼は注がれていく。これが宇治十帖である。
第二に、これは前にも述べたことだが、これが書かれた一条天皇の時代、大きく時代は変っていき、藤原一族、特に道長によって天皇と外戚関係を結んで政権を握っていく摂関政治、父系全盛が確立していく時代。このことによって、姫君たち女性は、ただただ男たちの意のままに生きるしかすべを無くしていくのである。
それをとうとうと流れる無常という時間の大河、そして政治による大きな潮流、それに翻弄されるしかない姫君たちの姿を、哀れに美しく、絢爛豪華に描いたのである。宇治は、宇治川が流れているその頃は都を離れた山里であり、最後に登場させた姫君は「浮舟」。宇治川に漂う小さな舟、「浮舟」というのも、象徴的な命名である。
薫と匂宮はその浮舟を巡ってまた争い、その果てに浮舟は宇治川に身を投げる。しかし横川の僧都に助けられてしまうのである。そして身分も事情も話さないまま、切なる願いによって出家を果たすのである。
浮舟に式部は自分自身を投影させたといわれてもいるが、浮舟によって思うところを語ろうとしたことは確かであろう。
式部が出仕したのは、1005年か6年、夫を亡くして4~5年、その間彼女を救ったのは物語り好きの友人たちだったらしく、その間に源氏物語の一部は書かれ、それが評判になって道長も彰子付きの女房へと召抱えたのであるようだ。いわゆる、のし上がっていく権力の中枢部を裏側から眺めていた。衰退していく一条天皇側の姿もやはり伝わってきたはずで、その皇后定子の哀れも見ていたであろう。それに仕えた清少納言の悪口を日記に書いているが、それはライバルであるからであり、互いに意識せざるを得ないのは当然である。生身の人間同士であれば嫉妬がありプライドもある、そんなことは大したことではない。それぞれの特質を活かして、女主人を精一杯助け励まし、そして素晴らしい作品を生み出したのである。
新鮮な感覚が勝負のエッセイを得意とした清少納言と違ってドキュメンタリー的な散文ということになれば、やはり権力の最中に紛れ込んでいた方が、物事も良く見えてくるであろう。
宇治十帖を、「光のない憂き世の物語」(赤羽龍夫)という意見、またこれを書き終えた式部は、為すべき事はなし終えたと、仏道に惹かれていた(今井源衛)という論もあるが、そのようにこの最後の辺りは暗いものが漂う。浮舟の出家後の心境は、まさに式部自身の心の描写、解説である。
書き終えてから暫くは彰子の下にいたが、最晩年は実家で静かに暮らしていたらしい。資料上、1019年まで確認できるという。結局表立った活躍は、13、4年ということになる。もう少し書き足りない部分を次に書くことにします。
2009年09月28日
虫の声
今日のFM放送の「弾き語り・フォーユー」で、リクエストが多かった曲として、「虫の声」と「小さな秋」がピアノで流れてきた。(この番組はこのブログのJinbeiさんから教わったもので、聴けるときにはほとんど聴いている楽しい番組です)。秋といえば虫の声という感覚はやはり伝統的なのだなあ、平安の昔から延々とこの国の人たちは虫の声に耳を傾けて秋を感じたのだなあ、と思った。
しかし私自身、最近は食事時、TVのニュースを見たりしていて、ほとんど静かに耳をすませて虫の音を聴くなどしていないことに気がついた。それでTV を消してみた。6時くらいになってやっと虫は鳴き出したが、思ったより多くはないのである。狭い庭だが、ほとんど野原に近い感じになっているのにである。昔は確かカネタタキなどの声を聴いた気がする。暫くすると確かに虫たちは鳴き出したが、やはりアオマツムシらしい。木の上のほうから聞こえてくる。歩き回っているうちに、少しは下の草むらから声がしていて、どうもツヅレサセコオロギのようだ。とにかく虫の声に包まれるというのはいいなあ…。でもそれほど多くはないのである。TV ニュースなどでアナウンサーが、虫の声が溢れるように…などと言っていたが、それの多くはアオマツムシで、都心の街路樹などに沢山いてうるさいほどの声を聞いたことがあるが、それではないのだろうか。
いわゆる「虫の声」にあるような虫たちは今でも活発に鳴いているのだろうか、と思うのだった。それにしても平安時代に宮廷で虫の声を聞きながら、殿上人たちがそれに合わせるように演奏した、その有様を想像してみるのは楽しい。笙などの笛、雅楽がやはり似合うだろう。「鈴虫」のなかに文字として出てくる楽器は、横笛と和琴、七弦琴である。
先に虫もよく見ると親しみが出るといいながら、ゴキブリはやはりぞっとすると言ったが、実はこの感覚は昔からのものではなく、現代になって作られたものだということを知った。『害虫の誕生ー虫から見た日本史』(瀬戸口明久・ちくま新書)によると、害虫という概念ができたのは近代国家になってからで、またゴキブリが誰からも嫌われるようになったのは、むしろ戦後からで、昔はこのゴキブリをコガネムシと言っていた地方があったということ。それについてはこれを読めば判るし(私もまだ全部読んでいない)ここで紹介するつもりはないが、あれやこれやで虫の話は尽きなくなってきて、三味線の虫の声についてはまた後回しになってしまった。ではまた。
2009年09月04日
(緑を守るための) 宇崎竜堂 チャリティーコンサート
洞門山を守る会主宰のこのコンサートに、昨夕行って来ました。
そこでの会長さんの挨拶によると、洞門山は何とか守れそうです。
まだ交渉は続いているようですが、業者からの要求は次第に後退してきており、年内には目処がつき、大きな開発にはいたらない様子です。
そしてこのコンサートも、それを買い取るためまたこれからの緑を守るための資金調達にと、宇崎さんの力を借りて開催したものです。宇崎さんは疎開先の京都で生まれ、そのせいかこの地に別荘を持つようになり、ここはリフレッシュできる地であり、宝物であり、そこが何時までもこれまでのままでいて欲しい、という気持から一役買ったとのこと。
プログラムを紹介します。
第一部 トーク&スライド
講演者:志村直愛(デザイン工学、環境デザイン学助教授、専門は日本近代建築史、都市景観。各地の歴史を生かした景観作り、市民参加型のまちづくりにも携わる)
休憩
第二部 宇崎竜堂 コンサート with 横田明紀男
第一部は、この地及びそれを含んだ都市全体の意義を、時間的空間的にスライドを写し出しながら簡潔に説明。この地は、要塞都市であり、全体的に寺社も旧跡も全て山を背負った地にあること、しかも一本の中心道路を幹にして、枝のように細い道路がいわゆる谷戸と呼ばれる谷間にのびている事、そこに寺社や住宅がひっそりと住みなしている事、それゆえ緑の山は不可欠である。しかし高度成長により都市化の波が押し寄せ、今は終戦当時の緑の半分以上は失われてしまったこと、それを航空写真などでも映写。それを何とか食い止めようとした最初は、八幡宮の裏山の開発に地元名士たちが立ち上がり市民運動となっていった、昭和35年の有名な「おやつ騒動」をきっかけにして、古都保存法が成立、その後も市民を中心にした地道な活動によって緑は守られているということもさっと簡単に紹介。それは単なる地域エゴではなく(もちろんそれがないわけではないが)この地を守りそれを子孫に手渡すことが任務であること。しかし現実問題としてはなかなか難しく、市もできるだけ力は尽くしているが全てを守ると財政はパンクしてしまう。それを助けるためにもこういうコンサートなどをして援助するのだと。
最後に洞門山、そしてその周辺についてもスライドで紹介。
いよいよお待ちかねの第二部。
小ホールながら満席。ギターリストと登場した宇崎さんは、はじめはちょっと勝手が違うといった感じ。何しろ聴衆のほとんどが昔若者であった人たち(私を含めて)なのでクラシックコンサートを聴くような雰囲気だった。それで曲も、趣旨に合ったようなソフトで優しく温かで、ウッディなものを選んできました、といってトークを交えながら、デビュー35周年記念としてブルース集を出した、日本にもそのブルースに当たるものはといって「竹田の子守唄」、また「思い出ぽろぽろ」と静かな出だしであったが、ギターリストのかなり強烈な独奏を披露させた後は、巧みなトークによってエコーに始まってたった二人の演奏であるから皆さんがパーカッションになってくださいと拍手から、最後はコーラスのようなものまで聴衆を巻き込み参加させるほどになり、熱気を帯びてきて
ライブならではの楽しいコンサートとなった。この道に疎い私であっても知っている「あんた あの娘のなんなのさ」の文句がある「ミナト ヨコハマ・・」や山口百恵の「ロックンロール」、「サクセス」「生きているうちが花なんだぜ」など。アンコールにも応えてくれた。また若いギターリストの横田さんは、ギターの演奏も素晴らしかったが格好よかった。
外に出ると、雨になるかと思っていたら晴天で、満月に近い月が薄い雲をときどきまといながら中天にあった。
2009年09月02日
『源氏物語』宇治十帖 その3
宇治の八宮は、失意と不遇の中で二人の姫君を慈しみ育てている。自らは出家の意志が強く、山寺へ参篭などして準備をしているものの姫君たちのことが心配で、果たせないでいる。そこに薫がやってくる。
仏教についての教えを請うはずの薫だったが、姫君たちを垣間見ると(これら物語は多くここから始まる)我もなく心が動いてしまったのである。これまでも、源氏(表向きは)と皇女の息子であり、容貌容姿からも引く手あまたであったわけで、また現実にも今上天皇と明石中宮の娘、二宮についても、仄めかされているにもかかわらずその気になれない、生まれつきどこか非世俗的なところのある青年(20歳)だったのに。
八宮と薫は、宮が師とする僧侶も加え仏教を語る良き仲間として(当時仏教は男性の学問であり思想であり、教養でもあった)仲睦まじくなって行き、消息を交し合うようになって早くも3年が経ってしまう。
そしてある秋の終わりごろ(舞台装置として良い季節の月夜である)、八宮が山寺に参篭中に薫は宇治を訪れる。そこに月を愛でて琵琶と筝(琴)を奏でる姉妹の姿をかなり露わに見てしまう。好き好きしい心などではないと、宿直の男に案内させてのことであるが…。早速消息(歌を贈る)を交わそうとするが、田舎びた侍女たちはすぐ応対することができない。そしてそこに昔からいた老いた侍女は応対することになり、彼女が薫の実の父親の柏木のことをよく知っており、やっと薫はこれまでもやもやしていた疑念が晴らされることになる。
そんな深い縁もあり、今にも荒れ果ててしまいそうな宇治の里の侘び住みの姉の大君の方に心を奪われる。
その後、薫は何度か宇治を訪ね、それにより宮中の雰囲気や華やぎももたらされ、八宮も薫を見込んで姫たちのことを頼む気持になり、いよいよ出家の念願が果たせると思うようになる。
ところが大君は、結婚する気持はさらさらないのである。出家したいと思うばかり。父君から後見を頼まれていると言って迫っても、自分はそういう気持はなく、ただ中君だけが心配だと、そればかりを言うのだが薫は大君に執着があるのである。
そこへ、華やかで艶っぽい、自分の感情に積極的な匂宮が登場する。彼には隠していたのだがそういうわけには行かず、初瀬詣での中宿りとして近くの山荘に泊ったり、管弦の連中を乗せての舟遊びをしたりしてアッピールする。
そしてとうとう八宮は、薫に姫たちを託し遺言を残し他界する。
葬送も追善供養も全て薫が行なうのである。源氏の誠実でまめな面を、全て引き受けているような薫はあくまでも面倒見が良い。雪が降り、大変な時でも訪れて世話を焼く。
それでも大君は、薫を受け入れようとはしない。一方、匂宮は背も高く今風な中君にぞっこんである。この方も、実は夕霧の娘、六君との結婚話が正式に持ち上がっている。しかし匂宮は気が進まない。中君こそと思っており、それを正式に中宮にでもして自分が世話をしようと、その時は思っているのである。
それぞれに大君と中君を思ってであるからちょうどいい。二人は揃って、喪中の姫君たちを訪ねる。しかし姉妹は寝所を別にしていないのである。妹は、ただただ思慮深く賢い姉を頼りとしていて、姉も妹だけを大切にしているので離れることがない。
薫が言葉を尽くし、大君を説得するが承知しない。せめて近くにでもと(ストーカーのようになってしまっているが)、言い寄り、侍女たちも(この女房たちの存在は一種の「世間」の役割を果たしている)あまりに気の毒だ、などと言って部屋の中に導くのであり、とうとう部屋に入ってしまうのであるが、それでも大君は、するりと衣を脱ぎ捨てて、部屋の外に出てしまうのである。残るのは身を伏せた中君。そこに一緒にいた匂宮が入り込み、中君と契ってしまう。
薫が丹念に作り上げ、秘しつづけた世界の良い部分を、トンビが油揚げをさらうようにつまんでいった感がある。
思がけぬ展開に、薫は臍をかみ、また姉妹は悲嘆にくれる。
しかし世間的に言えば別に悪いことではない。実際匂宮は、中君に魅かれていて、結婚が成立したと言うだけだ。しかも匂宮は、将来は帝になるであろう春宮なのである。薫はといえば、下心として中君を自分に任せようとしていた大君を此方に振り向かせようとしてのことであったのに、自分の方は成就しなかったのに、匂だけがいち早く成功したのであった。そこで薫はあくまでも八宮に託された後見役に徹しようとするのである。中君が、幸福になることを願うだけである、それは大君の願いでもあることだから。
このように粗筋を書き出すことに終りましたがご容赦ください。
先ずこういう成り行きを書かねば、考えが先に進まないので。では、又長くなりましたので、次にします。
2009年08月31日
『源氏物語』宇治十帖 その2
予想を上回るような劇的な政権交代で民主党が大勝した。オバマ大統領のチェンジの呼びかけが、この国の人々をも鼓舞したのかもしれない。どんな風になるかわからないが喜ばしい事である。
さて「源氏」が書かれた一条天皇の時代も、大きく時代が変ろうとしていた(女性にとっては厳しい時代へと入るのであったが)。それは書きはじめにも少し触れたが(父系制度になっていくこと)、じわじわと台頭していた藤原一族の力が、道長の時代になり一気に高まり、その全盛時代へと入っていくからである。いわゆる摂関政治の確立である。
摂関政治とは自分の娘を次々に内裏に入れて外戚関係を結び、皇子が生まれれば祖父として、また次期の天皇の父親として政権を握るというやり方である。
先に入内した中宮(後に皇后)定子は藤原道隆の娘で、仕えたのが清少納言であり、後にまだ若いうちに道長によって送り込まれたのが、女御(後に中宮)彰子で、これに仕えたのが紫式部である。この道隆と道長は歳の離れた兄弟であるけれど、万葉時代もそうであった様に、両家の政権を巡る争いに、最初はそれほど期待されていなかった道長が成り行きや偶然や運によって頭角を現し、中関白家といわれる道隆の家系が瓦解の道をたどり、道長の一族による独裁政権となっていく。いわゆる「望月の欠けたるところなし」という栄華を極めるようになる。勝者となる彰子側に紫式部はいたのだが、この有様を作家としての眼でしっかりと見ていたのである。
敗者側の定子と一条天皇は、稀に見る純愛で結ばれていた同士で、道長側による露骨な苛めからも懸命に守るのであるが、天皇の力でさへ守りきれず、また家臣たち、いわゆる知識人にあたる学者たちでさえ、権力には無力となり定子は悲運のなか(とはいえ一条からは心から愛された幸運も又のちの悲嘆も、とにかく浮沈にみちた)24歳の若さで世を去るのである。後に一条天皇も32歳で没する。
この没落していく後見ゆえに露骨にいじめにあっていく定子を、持ち前の明るさと才気で支えたのが清少納言であった。
少々前置きが長くなったが、「源氏」は、これらの生々しい政治の現実の中で描かれたということ、その人間模様の実像が、この物語のなかには鏡に映る像のように、虚構としての姿であるが映し出されているのだということが、いまやっと読みとれるようになった。「日本紀などは片そばぞかし」といった式部の真意はここにあるのだろう。その事を分らせてくれたのは、『源氏物語の時代いー一条天皇と后たちのものがたり』(山本淳子)である。これはとても読みやすく、歴史の詳細な記載は苦手な私でも、すっと入り込めて物語を読むように歴史を辿る事ができた。
閑話休題。
さて宇治十帖に入ることにしますが、又長くなってしまいましたので、とっつきだけを述べて次回まわしにします。
宇治十帖は「橋姫」からで、源氏と正妻である女三宮の息子である薫は、自分の出自に何となく疑問を感じているせいか若くして出家心が強く、この世をはかなく思っているのだが、かれが山深い宇治の八宮を訪ねるところから物語りは始まる。
前に「六宮の姫君」について述べたが、これからも分るように、「宮」と付いているので生まれは帝の血筋であるわけだが、六番目ということは、恩恵がまわってこない可能性がある。しかもこれは八番目である。それゆえ正統な流れからそれて、政治からも取り残されてしまい、それゆえ出家の気持が深く宇治へ引きこもってしまっている境遇なのである。そこに同じ出家の気持をもつ薫が尋ねていき、思いがけず二人の姫君、大君と中君を垣間見るところから物語は展開するのです。
では続きはまた。
2009年08月24日
『源氏物語』 宇治十帖 その1
源氏物語は恋に充ちていても、恋の喜びというものはほとんどなく、恋の無常の物語ではないかと思え、心わくわくするところがない。とくに光源氏が亡くなり、その子や孫の時代となる「宇治十帖」になるとその感が強い。ただただ恋の、この世の、無常観だけが漂っていて、姫君たちが哀れなのである。それにわが身を重ねたり、又その情緒に美を、すなわち「もののあはれ」を感じたのかもしれないけれど。
一つに、光源氏という大きな主人公が去ってしまった後を引き継ぐ者たちが小ぶりになったからでもあろう。源氏の分身のような二人の主人公、薫(源氏の晩年の息子となっているが、実は密通によるものであり、直接の血の繋がりはない)と匂(源氏の娘と今上天皇の子、すなわち血のつながりのある孫)が、源氏のそれぞれをまさに受け持った形になっている。すなわち匂が源氏の色好み、浮気な部分、そして薫が源氏の誠実でまめな部分。その二人が互いに同じ姫君またはそれぞれの姫君を巡っての物語を紡ぎだしていく訳であるが、その過程は、今を生きている私にとって、相手の、すなわち女の気持などを微塵も感じず、考えない貴公子たちの身勝手さというか、エゴイスチックな恋心に、いまいましささえ感じる。
それこそ、作者紫式部が感じたものではないだろうか。その男の身勝手さ、エゴイズム、それに翻弄される姫君たちを、女房の立場から見続けていたのである。しかもそこに置かれた姫君はそれらにほとんど抵抗ができない。それは姫君個人の問題、強さの問題ではない。置かれた場と慣習、制度の問題である。
これは前々回にも書いたけれど、すなわち「法制的に父系社会になっていく」、そしてこういう社会では女性は全く財産権も相続権もなく、男に頼るしか生きていく道はない。結婚する前は、父かまたはそれに代わる有力な後見者がいてはじめてひとり立ちできるのであり、それがなければほとんど生きることができない。
宇治十帖の最初のヒロイン、大君と中君は、そういうぎりぎりの境遇に置かれた姫君であった。この詳細については長くなるので、次回にまわします。
2009年07月27日
高校演劇『アニータ ローベルの じゃがいもかあさん』
梅雨明け宣言後も梅雨のような天気が続き、その末期症状のような日々だが、昨日は珍しく晴れ間となった。
近くの高校の演劇が、昨年に続いて全国大会への出場の権利を獲得、それに向けての公開リハーサルを行なうということなので出かけた。予選2700校の中で勝ち残った12校の1校である。新聞にも紹介されており、期待できそうである。
前年と同様、野外公演なので、お天気がよかったことは幸運であった。雨だったらどうしたのだろうと、思ったが。
夕方7時開演に向けて、日が傾くと蒸し暑さも和らいできて、ヒグラシもなく始めた中を夕涼みの気分で高校へむかった。
去年と同様、奥まった木立が繁る崖と校舎に挟まれた場所に舞台装置が設えた平面の舞台と折り畳み椅子が並べられた観客席がある。夏場なのでまだほの明るいがだんだん暮れていくのが分り、涼しくもなっていくので心地いい。蚊の心配もいらなかった。
「じゃがいもかあさん」の原作はアニータ・ローベルの絵本であるという。
時は1944年、第2次大戦下のポーランドと聞けばすぐ分るように、これはナチの収容所送りを絡めた反戦劇である。しかし絵本が原作の音楽劇であることからも分るように、とてもカラフルで音楽と踊りにもあふれた楽しい舞台である。しかもその奥に悲惨で深刻な歴史の事実、それら人間の根源的な悪、すなわち戦争と言うものの愚かさと悪とを描き出した重いテーマが潜まされており、新聞記事の見出し、リードの言葉を借りれば「戦争 鬼気迫る演技で 踊り、笑い、涙あり」に演じられていて、さすが代表に選ばれた演出だと感心した。
幕は、今取り壊されようとしているポーランドの劇場、そこに70余歳のアニータが、衣装箱の中に隠していた劇の脚本を取りに来る事から始まる。
それは彼女が13歳の時の書いた脚本で、それはナチス軍に追われてここに潜んでいたユダヤ人とポーランド人が、共に演じようとしていた劇のためのもので、そこから一挙に1944年の12月へと時代は遡る。しかもその劇場の地下に潜む彼らによって実際、アニータの脚本による劇が演じられるわけで、すなわち劇中劇も加わるという構造で、演技者も部員のほとんど51名が出演ということで、役も一人2役3役を演じることもあるようで込み入っていて、最初は筋が追えるだろうかと懸念されたが、場面の切り替え、転換も素早く適切で、見るものの頭の中はちゃんと整理されて、十分楽しむことができた。
「じゃがいもかあさん」というのは、その劇中劇の脚本の「かあさん」で、西の国と東の国に挟まれた、すなわち国境にある家に住んでいて、夫は戦争に取られて死に、二人の息子を一人で育て上げる。すなわちヨーロッパでは主食のような、そしてどんな寒さの中でも出来る「じゃがいも」一筋で若者に育て上げるのである。西の国と東の国は戦争ばかりしている。戦争から自分たち一家を守るためにかあさんは、高い塀を建てて暮らすのであったが、成人した息子たちは、西と東の軍隊に憧れて、かあさんの制止も振り切って志願してしまう。互いにそれぞれ武勇を立てて将軍になり、相手国に攻めていく。結局兄弟が刃を交わすことになり・・・それを止めに入ったかあさんがその刃を受けてしまう・・・と言う展開になるのであるが、これから先は言わないことにしよう。とにかく戦争の愚かさと悲惨さ、人間のどうしようもない欲望が寓話的に描かれる。そしてそこで最後に帰りつくのは母なる大地であり、その地面の中で育ち人間を養うじゃがいもと言う食物であることであり、大戦の最中に描かれた13歳の少女の反戦の脚本ということになる。
この劇がなかなか面白く、楽しい。じゃがいもの発育過程やそれを食い荒らす青虫は皆人がそれを面白く表現した衣装を着て演じ、東軍・西軍の玩具の兵隊のような制服や振る舞いも楽しく。雪崩の様子もやはり人が演じる。楽器もピアノやクラリネット、サクソフォンなどもあり、楽しいのである。
しかしこの劇中劇は、演じる彼らがまもなく収容所に送られる運命の中で演じられるのである。それでもまだ、彼らは収容所では劇を演じるようなことも出来るという一縷の望みを持っている。それに常に冷や水を掛け、冷笑する黒マントを来た死に神のような男がいる。実は彼は収容所から脱出してきた男で、実態を知っているのである。
またその潜伏している劇場の地下にはユダヤ人とポーランド人がいる。その対立も時にはあるという構造もあり、とにかく複雑であるのだが、それをあまり感じさせなかったということは、やはり原作と脚本ががしっかりしていて、また部員たちの切れの良い、練習で磨き上げた演技の巣晴らしさにあるのではないかとおもい。前回よりも数段に上達したと私には思われるのであった。
最後は、楽しい劇中劇を演じ終えた後、皆で記念撮影をする。そのシャッターを切ったのは脚本を書いたアニータであるが、写真の全員はこの後(それを暗示する不吉なノックの音が聞こえる)収容所で殺され、ただ一人アニータだけが生き延びたのである。舞台には、まさに写真のように貼りついたような全員が写しだされ、そこで幕が下りる。これが戦争の現実なのである。
ブラボーと言う声やよかったよ・・と言う声が飛んだ。
大勢の出演者が、全身全霊でその若さをぶつけているような舞台、その漲るエネルギーに圧倒された。高校生と言う若さでなければ作れないような舞台だと感じながら、全国大会ではきっといい成績が取れるにちがいないと言う思いを抱きながら帰途につく。今回も出口に全員が並んで拍手で送られ、そのなかを花道のように観客は通らされながら出て行く。ほんとうによかったですよ、と言いたい気持ち。
外に出ると真っ暗である。空には雲もほとんどなく星も見え、西に傾いた三日月(実は月齢5日)がくっきりと美しかった。
梅雨の晴れ間の幸運な一日、全国大会にかけても運が付いてくるようにと祈りながら家路をたどった。
2009年07月24日
芥川と北村薫の『六の宮の姫君』 及び 『今昔物語』
『源氏物語』と対極にある同時代の仏教や庶民の生活が書かれた説話集に『今昔物語』があるが、この話はそこに採集されていて有名(芥川が小説化したことによって)である。
前回にこの時代から女性の社会的、法制的に地位が下がり、「女は三界に家なし」になって行った究極の姿が、ここには描かれている。
「六の姫君の父は、古い宮腹の生まれだった。」が、時勢に遅れ昇進もしなかったから家は貧しくなるばかり、それでも父がいるうちは良かったが、その後は全く暮らしていけず、そのうち乳母たちの勧めで、ある受領(地方の長官クラスの階級)の心やさしい男と結ばれる。しかしその男が陸奥の国に赴任していってしまい残されると、たちまち暮らしが立たなくなってしまう。9年後、男が帰ってきたが、その時は彼の国での妻と子を引き連れてである。もちろんこの時代は、妻は何人いても構わないのであるから、元のところで何とか暮らしていれば良かったのだが、(『源氏』にも末摘花というお姫様は、そんな風に一度は見捨てられるが、その事を思い出した源氏によって、改めて屋敷に引き取られる事になる。その容貌が鼻赤であったり教養も古めかしい事があっても、一度思いを寄せた女は見捨てないと言うのが源氏なのである。しかもこの期間はせいぜい1年ぐらいである)その屋敷に行ってみると、崩れ残りの塀だけがあるだけで荒れ果てている。近くの板屋にいた見覚えのある老尼にその後のことを聞いた男はそれから洛中を探し回る。
そしてやっと見つけたのは、朱雀門の近くの軒下で、病人らしい女を介抱している破れた筵を羽織った尼、それが姫君の忠実な乳母なのであった。
『今昔』は、仏教を広めるための説話であるから、その男は、自らの罪深さと世の無常を感じてその後法師になるが、それを芥川は更に換骨奪胎して自らの作品に仕上げた。
もちろん芥川は、女性の社会的地位についての例として取り上げたわけではなく、むしろそんな風に解釈される事を封じるような文を別に書いているのだが、一つの現実として、そういう風な事実もあったと思われ、それが貴族社会『源氏』の世界とは別の庶民の世界、魑魅魍魎がひしめく京の周辺部が描かれた『今昔』に載せられていることに私は興味深く思われました。
さてさてそんな風に、女性の立場はほんとうに男次第であったことは事実で、『源氏』の中でも、いかに頼りがいのある男を姫君のために見つけてやれるか、それに汲々としているのです。それはもう今だって同じことかもしれませんが、今は女は一人でもなんとか生きていかれる、だけでも幸せと言わざるを得ません。
ここではそんなことを書くつもりではありませんでした。
この北村薫さんは、今年度の直木賞をとられた方、遅きに失したような大家で、その「六の宮」は、何故芥川はこれを書いたかという問題を、大学の卒業論文を書く女子大生を主人公(それにしてもこんな博覧強記の卵のような学生は今はいないだろうなと思わせるほど作家の分身)にしてのミステリ仕立てで、軽快なタッチながら面白く文学史上にも緻密で唸らせる作品である。
その内容は、読めば分る事なので紹介しませんが、ここには芥川の友人である菊池寛がこの作品を生み出す上で重要な存在で、これを読むと菊池の作品も改めて読んでみたくなりますし、その彼が創設した直木賞をやっと取られたことにも、ある感慨を覚えられたことだろうと思いました。
そして実は昭和2年の今日、この日7月24日に、芥川は薬を飲み自死します。理由は「漠然とした不安のために」・・・。その日は、その夏一番の猛暑だったそうです。
昨年はここもそんな風な猛暑でしたが、今年は戻り梅雨になって、蒸しはしますが気温は低く涼しいです。
2009年07月01日
『源氏物語』世界の権力者・政治家
今の総理大臣の教養の程度が、漢字を読み違えたりなどして話題にされているが、この物語の時代であれば、政治家として失格であろう。もちろん貴族社会の最盛期であり、物語であることは承知のうえだが、読んでいるうちにそんなことをしみじみと思う。
源氏は、後宮の女性たちの中では身分の低い更衣腹で、そのため母はいじめにあって死にいたるという出生であり、その後も一時勢力争いに敗れて、須磨に流されたりするが、最後は最高の地位、権力を持つことになる。もちろん源氏は、光る日の宮と呼ばれるほど美形で才能もあふれた、理想像として描かれているが、それが同時に現実社会においても最高の地位に相応しいと描かれていることが面白い。
とにかくこの時代(勿論物語の中での話しだが)、男女共に貴族として生きるのも大変な事である。身分や財産、姿、形は別にしても、文学的、芸術的な素養や知識、才能がないと付き合いも昇進もできないからである。付き合いのための消息には和歌を詠むことが必要で、恋をしかけるのもまたそれに応えるのも和歌の出来栄えが問われる(それで侍女が力を貸したり代作をしたりしてお姫様を助ける事もある)。音楽も、琵琶や和琴、横笛など何かが演奏できなければ恥ずかしい。公け事といえば年中行事であり、花見の宴、藤や紅葉の宴、また帝の何歳かの賀であり、また仏教や神社の祭礼であり、その度ごとに器楽の演奏がなされ、舞を奉納しなければならない。言って見れば年中遊んでばかりいる感じである。勿論このように年中「遊ぶ」ことができるのは、貴族以外のものたちの働きを吸い上げているからであるが、文化・芸術とは結局そういったものではないだろうか。そしてそこから、源氏物語のような最高のものが生まれるのである。
単に音楽・文学的なものだけではない。ここには絵画や香道、書道のあれこれも描かれていて、何よりも読んでいてため息が出そうになるのはその装いの詳細である。人物が登場すると、どんな生地のどんなものを、その色彩(季節や場所などTPOによってどんな襲[かさね]の色目か)までが詳しく語られ、いちいちそれを思い描いていると先に進めない。衣装によっても人物の評価もなされるわけで、デザイン、お洒落のセンスも問われるのであり、消息やその和歌の筆跡によってもやはり人物は類推され評価される。
そして源氏はこれら全てにおいて、超一流である。すなわち人望を得るのは人柄は勿論だが文学・芸術的な教養やセンスに富み、女性たちをも惹きつける、いわばアイドルのような人物に設定されているのである。
しかもこれを読みながらフランスの太陽王ルイ14世の時代をおもった。フランス芸術の偉大な興隆期になった時代である。この頃からフランスは芸術の都となっていく。イタリアなどに遅れをとっていた音楽、オペラなども「フランス様式」の形成、洗練されていく。それを王自らがイタリア人のリュリを舞台音楽総監督にすることによってなし遂げ、自分も踊ることを好んだということは少し前に上映された映画『王は踊る』にも描かれている。
その後武士の世の中になり、武力ですぐれたものが天下を取るようになった。戦争の時代も結局戦力によって天下を治めようとするものであろう。戦争を放棄した日本は文化国家として生きるほかはなく、とすると源氏のような人間が最高指導者として、皆の信望を集めるのではなかろうか。勿論今の市場経済、経済戦争の世の中では一笑に付される世迷言にすきないであろうけれど、政治家の資産の一覧を云々するより、政治家の文学や音楽、そういう芸術的な素養や教養の程度の一覧をみせてもらいたい思いがする。少なくとも政治家の品位、品格を考えるのに参考になるだろう。
アニメの殿堂という箱物に莫大な税金を使うよりも、それに携わる者が十分「遊べる」ように補助をしたり、自らも政治運動ばかりに金を使わず、自分の教養や芸術的な素養を高めるために使った方がこれからの世の中には必要で、何よりも平和的だと思うのだがなあ・・・と思うのであった。
2009年06月29日
『源氏物語』 「蛍」の巻
前回、この巻のことについて書いたが、今この物語を原文で通読しはじめている。昔あちこちを虫食いのように読んではいたもの、一気に読み通したことはなかった。いまはその千年紀ということなので、これを機会に自分の目で読み通してみようと思い立ったのである。じっくりとではなく、まったくの走り読みなのだが、(そしてややこしい部分になると、現代語訳で援助してもらいながら[谷崎源氏])読み行くほどに、その見事さに感嘆すると同時にかつてとは違ったいろいろな思いが立ち昇って来るのを感じる。
それらを時々、ここにも書いてみることにしよう。
さて、その「蛍」の巻であるが、ここには紫式部の文学論というか物語論が語られている事で有名である。すなわち、「日本紀などは、ただ、片そばぞかし。これら(=物語)にこそ、道々しく、くはしき事はあらめ」、訳は「日本歴史(大体は六国史を指す)などは、ほんの一部に過ぎない。すなわち社会の表面の記事に過ぎない。世の中の真相は、個々の人間の詳細を描いた物語の方にこそ存在するのだ」という物語論を源氏の口を通して述べているのである。
ああ、それはこの蛍の巻だったかと、再認識したのであったが、それは大したことではない。
この大系の中にそれぞれはさまれている12ページほどのリーフレット「月報」の中に興味深い見解や解説があって面白いのであるが、ここではその一つを書き留めておきたい。
日本は漢字をはじめ中国文化によって文化の開眼をしたことは言わずもがな、この平安時代にそれを日本化して、その頂点とも言うような世界に誇れる『源氏』を生み出したわけだが、それを魯迅の弟である周作人が絶賛しているという文章があるという。(中国では日本の文化は自分たちの真似だと考える人多かった時代である)。必ずしもそうではなく、日本には日本の文明があり、特に芸術と生活の方面ではそれが顕著であるとし、「紫式部の源氏物語は十世紀の時に出来上がったのですから、中国で言いますとちょうど宋の太宗の時分で、中国における長編小説の発達までにはなお五百年の隔たりがある」と言っていて、「まさに一つの奇跡と言わざるを得ない」ともいう。これはヨーロッパにおいても同様である(これは私の言葉)。つまり周作人は日本文化の独創力を認め、その典型を源氏物語に発見しているのだとし、「彼は一九の膝栗毛や三馬の浮世床なども日本人の創作したあそびだと言っており。かなり深く日本文学を究めたようである。」と、これを書いているのは、肥後和男(肩書きがないがたぶん源氏の研究者、大学教授)という方である。「源氏物語と山岸君」のタイトルで。(源氏の大家山岸博士を君付けをするのだからもっと偉い先生だろう)
今、日本のアニメ、漫画が世界的な広がりをみせているのも、この流れの一つではないかと、これを書きながらふと思った。
では、今日はこの辺で。
2009年06月23日
夏至の夜の蛍の宴
日がいちばん長い夏至、21日は台峯歩きの日であったが生憎雨であった。しかし夕方からは上がって蛍の観察会は催されるというので出かけた。
風もなく穏やかで、条件としては悪くはない。参加者は15人と子ども2人。雨具と十分な足元の準備をして出かける。その頃から霧雨よりももっと細かな、まさに霧のような雨も降ったりしたが、傘を差すこともなく行程を終えた。
蛍が光り始めるのはほぼ7時半ごろ、それから30分ぐらいでクライマックス、それから30分ぐらい経つと終ってしまう、まさにほぼ一時間ほどの、命の饗宴である。ここでの観察は3回目なので、最初のつよい感動は薄れたかもしれないが、最初の瞬きを捉えた時の心の弾みはなくなることがない。暗闇に中でじっと待機しながら目をこらしていると、どこかでピカリと光り始める。するとまもなくあちこちから同じような光が明滅し始める。時にはスウッと流れるように飛んだり、こちらにぐんぐん近づいてきたり、時には空の星かと思うとそうではなく空に飛び立った蛍であったり・・・。
この蛍に出合うことで、やっと夏が迎えられると感じられる、という常連の人もいた。まさに過ごしにくいこの国の夏を迎えるための蛍はエネルギー、清涼剤かも知れない。これが味わえるのは幸福な事である。
今年は、まだ日が長いので入口辺りではホトトギスが、また行き帰りにはアマガエルの声が迎えてくれた。アマガエルの声のなんとけたたましい事! 赤貝の殻を激しくすり合わせるような声。途中で聞こえた、ちょっと不気味な神秘的な声はガビチョウということだが?
まだ蛍が光り始めないころ、ハンゲショウの香りをかぎに行きましょうと行ったのだが、朝からの雨で香が流されあまり感じられなかった。
今は源氏蛍の時期、しかし今年は平家の方もかなり光り始めていて、例年より少し早いとの事。来週になるともう源氏はあまりいなくなり、ほぼ平家だけになる。人間の歴史と反対なのだなあ・・・。
源氏と平家は点滅の長さ方が違う。源氏はゆっくりしていて、平家は早い。池の奥の方では平家が多くいて、歩く足元にまで光っている。踏み潰しそうだ。
そこでこの山道にこの谷戸の整備にあったって仮説道路(工事のための)が通る計画になっているという。そうなるとここに多く生息している平家蛍が危ぶまれるという。それでその平家を上流に移すことも考えねばならないなど、問題も生じているのである。ああ、平家はやはり行く末がおぼつかないなあ。
『源氏物語』に「蛍」という巻がある。その頃から、私たちはこの五月雨の頃の蛍に美を見出し、愛してきた。中国では「蛍の光」で学問をしたようだが、こちらではそうではなく恋愛の小道具として使われる。何となく彼我の文学の違いのようなものを感じる。
「蛍」の巻では、もう源氏は36歳の中年、はかなく死んだ夕顔の忘れ形見(自分の子ではなくライバルの娘)を探し出して(親友でいてライバルの実父には隠して)養女にして、紫の上ほか大勢の女性たちに囲まれながら、その若い玉鬘にまで懸想している。その上に、(源氏の嫌なところであるが)彼女に言い寄っている公達の心を一層かき乱そうと)今のような雨模様の夕方、こっそり蛍を袖の中にたくさん隠して、その男が玉鬘の部屋を訪れた時、その几帳のなかに一斉に放ち、その顔を露わにさせる(その頃のお姫様は今のイスラムの女性と同様男性に顔を見せてははしたないのである)。
しかし蛍は、自分以外のものを明るく照らし出すほどの明るさは持っていないのではないだろうか。
とにかく今年も蛍に会えた幸いを感じながら、またもや霧のような雨の中を帰ってきたのである。
2009年05月31日
対談・鼎談「湯浅誠・小森陽一・内橋克人」を聴きに行く
「人間らしく生きられる社会を!」がテーマ。前回は講師アーサービナード・井上ひさしさんの対談だったが、ぼんやりしているうちに申し込みが満席になって聴けなかったので、今回はすぐに申し込みをしておいた。鎌倉・九条の会主催。
それでも30分前の開場少し前についてみると、もうかなりの行列ができていた。大ホール(1500人)も開演10分前には一階席は満席、2階席も始まる頃にはほとんどが埋まったようだった。杖を突いたご婦人もいた。係りの人が何人も飛び回って入場の整理をし、入ってからも一階席のたった一つ二つの空席でも連絡しあって、座らせていた。粛々として(政治家が好きな語句)いるが、熱気のこもった会場の雰囲気。それだけいまの自分たちの暮らしやこの国の将来について不安を覚える人が多いということであろう。会場には呼びかけ人の一人、なだいなださんの姿、また井上ひさしさんも舞台にマイクを持って来たりして、裏方を務めておられたようである。
司会役の小森さんは電車の事故で15分遅刻。もちろんこれは内橋さんが前座(と言っても肝心なことを先ず喋って、ロスにはならなかった)。まもなく小森さんが姿を見せ、しかしさらりと言ってのけたのは、これも今の一つの憂うべき社会現象である人身事故であったと・・・。今日の新聞にもまた人身事故のニュースが報じられていた。
わが身やこの国の行く手に不安を持つものの一人として、聴くに値する事が多くあったが、それをここに述べる力はないので、簡単に要点のみを書いてメモ代わりにしたい。
もらったプログラムの簡単な内容紹介を先ず。
内橋克人: F食料 Eエネルギー Cケア を自給し、そこに雇用を作り出す社会を!
湯浅誠: 反貧困~貧困スパイラルを止めよう~
小森陽一: 「格差」と貧困こそが、戦争を欲望する社会の最大の原因です。
この表題を見れば、大体のことは想像できると思うので、詳しくは書かないが、注意を引いたところだけを書いておきます。
*文学が専門で、最近は専ら漱石を読み解いている小森さんの言葉。その漱石の時代に類似する「100年に一度」の今は危機の時代に直面しているという事。漱石の「それから」をちょっと口にしたが、情況は違うが、あの時期である。
*経済評論家の内橋さんのいう、人が人らしく生きるための条件。
①安全性(経済的、物理的、精神的に安全に生きられること)
②生き方の選択の自由
③隣人との共生と価値観の共有(①②は自分ひとりのものとしては成り立たず、互いにそういう生き方ができなければならない)。それゆえ社会的排除(人種や差別意識による)があってはならない。.
④以上のことが可能であり続ける町、社会。
これらは当たり前で、平凡であるかもしれないが、実は今これらが壊れつつあると、小森さんも内橋さんも言うのである。それはなぜか、
それは生産条件と、生存条件とが、矛盾し始めたからである・・・と。すなわち戦後、日本は生産性を上げれば、生存条件もよくなると信じて邁進してきた。(今日の途上国も同様)。しかしいまや対立する時代になった。すなわち生産を上げるにつれて、生存が危う状態になっていく。(公害問題、派遣労働の問題ーここで湯浅さんが関わっている派遣や貧困問題につながる)
*なぜこういう状態になったかというと、それは市場原理で動くグローバル化である。小泉さんが打ち出した構造改革である。自動車産業をはじめとする輸出依存型の産業である。それによる中央と地方の格差が大きくなり、またこれにより働いても働いても暮らしが楽にならないのは、(経済学に疎いのでなぜかよく分らないが内橋さんの計算に寄れば)労働者の所得の5パーセントが流出してしまうのだという。とにかく利益を得るのは上から10社が30パーセント、上から30社が二分の一を占め、後20パーセントを中小が分け合っている計算になる。
今のアメリカで発生した金融破たんによる大地震が、なぜ日本に大きな津波をもたらしているかというのもそれによるからで、日本企業の自立的回復力がなくなっているからであるとする。おなじ影響を受けるとしてもヨーロッパはそれほどではない。金融では影響されても企業そのものは、日本ほどアメリカのグローバル化に巻き込まれていないからであると。
アメリカは震源地であるから被害は当然としても、オバマ大統領によって大きく変ろうとしている。それなのに、日本は旧態依然のアメリカのやり方にすがっているのだとも。
*大学生だった湯浅さんは大学が近くだったため日比谷公園によく来ていて、野宿している人をよく見かけたが、95年頃100人ぐらいだったのが急に600人ほどに増えて、この社会には何か大変な事が起こっているのではないだろうか、と思い始めたのがきっかけだったという。それで労働組合と一緒に始めたのだが、いろいろな事が見えてきたという。それを続けることによって見えてきたもの、気づいたことなどは、著書もあることだしここでは述べませんが、内橋さんと3回りも違う若い湯浅さんを、頼もしく思い、3点にわたって褒め上げて、湯浅さんは恐縮。
その目的は、彼らでも働ける職場のある社会を作ること。ストライクゾーンの狭い社会(市場経済主義、国際競争に勝ち抜いたりするためには競争社会となり、優秀な者しか働けない)をひろげること。そのための社会的セーフティネットを作ることだという。
*箱の中に3つの風船があり、一つは職場、一つは家庭というセーフティネットだとすると、第三の社会的なそれを制度的に作ることだと湯浅さん。
これまで日本はそういうものがなかった。福祉などという言葉はあるが、一度も日本は福祉国家であったことはないと内橋さん。
*この不況、破局もまだ序の口だそうです。
また、人類の歴史を顧み、いかにしてこの情況で戦争を回避できるか、これからが正念場であるようです。今テロ問題や北朝鮮などを口実にして武器輸出三原則がなし崩しにされつつある。その上憲法九条第二項をはずして、自衛隊が戦争できるようにされつつあると小森さん。
またまた長くなりましたので、この辺で止めますが最後に、内橋さんの言葉を揚げて終ることにします。
政治家のトリック(数字のトリック、個人老人の金融資産が1480兆円もあるので、それを放出させるというが、それは事業資産もローンなど借金も入り、決して個人の資産ではないなど)やレトリック(「努力をすれば報われる社会」という言い方)に騙されないで(マスコミも同様である)、それを見抜く力を養う事(これは難しく直感で行くしかありませんね)、利益追求のための労働ではなく、自分たちの生活に必要なものとしての労働をとりもどし、日本人特有の熱狂主義(熱しやすく冷めやすい)、頂点増長主義、異議申し立てのできない、などにとらわれないように・・・と。
あー疲れた!
2009年05月29日
朽木祥『風の靴』を読む。
朽木 祥さま
最新著書『風の靴』(講談社)を拝読しました。
主人公の海生(かいせい)少年になったような気持ちで、ワクワクしながら読みました。
わたしが中学校教師だったら、夏休みの課題図書ぴか一のものとして推薦したでしょう。いえ、そんなことより私自身がとても素晴らしい体験をしたような感じで楽しんだのでした。
物語は、中一の主人公、その年齢特有のもやもやした悩みと悲しみを抱えた海生が愛犬と、親友とひょんなことから従いてきてしまったその妹、3人と1匹が、ヨットで家出をするというものです。
これまでの『かはたれ』、『たそかれ』など、キツネや河童など異界の者たちとの交流をファンタジックに描いた作品とはまた違った世界が展開する事に先ず驚かされました。これまでは、どちらかといえば薄明の世界で哀しさがただよってたのに比べ、これは湘南の海が舞台になっているだけに、明るい陽光と海風に溢れていて、健康的で前向きの世界です。それでもなおこれまでのファンタジックで詩的な朽木さんの世界はちゃんと漲っていて、それゆえ解説にもありましたが、本格的でしっかりした、それでいて素晴らしくファンタジックな冒険物語として新しい流れをもたらすのではないかと(私はその方面には詳しくありませんが)予感します。急逝したおじいちゃんの愛用のヨットという絡みもあって、おじいちゃんの言葉や教え、人生への深い考察も自然に思い出されることもあって、体験による少年の成長物語にもなっています。
私も海や船への憧れがあります。特にヨットはやはり船の中では特別ですね。『太平洋一人ぽっち』の堀江さんがヒーローになったのも誰しもそういう気持を持っているのではないでしょうか。私も江ノ島のヨットハーバーを見るたびに、それらを操る人たちはどういう人だろうと思っていました。もし時代や環境によって、それに関わるチャンスがあったら、きっと嵌ってしまうに違いありません。もちろん不器用で、運動神経も鈍いので、ただ乗せてもらうしかないにしても・・・。
ところが朽木さんはそんなセーリングを仲間たちとなさった事があり、船舶免許までもっていらっしゃるのだと知り、それゆえにこの物語も細部まできちんとリアリズムで書き込まれていることに納得し感心しました。ヨットの種類から始まって構造や名称、帆やロープの結び方など簡単なヨット入門書的な面もあって、大いに目を見開かせられ勉強にもなりました。
そういうわけでぐんぐん引き込まれました。
地図があると同様、海図があったのだと思い当ります。いつもは陸地からしか海を眺めないのに、海からの眺めもあることに思い至ります。ヨットの上から湘南の海と光を存分に感じました。筋も構成も、人物の性格やその配置もピタリと決まり、犬一匹(いえ2匹?)というのも楽しい。家出から始まって隠れた湾の存在や宝探し、なぞの人物など冒険の定石はちゃんとあって、大冒険ではなく身近なところであることが、かえって真実味があり、どんな些細な事でもまた日常でも冒険は成り立つという事でもあります。そしてサバイバル体験も。見慣れたところを見直す感じにもなりました。
おじいちゃんの遺品、総マホガニー作りのクラシックの小さいヨット、ディンギーは、おじいさんと同様素敵ですね。キャビンのあるヨット、アイオロス号も楽しそう! でもおじいちゃんはカッコいいだけに、ちょっと若すぎる死であるように思われるのも、私がその歳に近いように思えるからでしょう。でも急逝だし、それは物語の運びとしては仕方ない事でしょう。
さて干潟で皆でするキャンプファイアの終りの花火(これも既成のものではなく、ありあわせの物で作っている)の場面は、ここでは一つのクライマックスだと思えますが、その描写がとても生き生きとして素晴らしかったです。またそれまで静かな波のようにバックで物語を支えていた挿絵もここでは花火と水しぶき、子どもたちの躍動を思いっきり表現していて効果的、良かったです。
そのほかいろいろ感じた事もありますが、長くなりますのでこの辺で止めます。
最後に題の『風の靴』も、裸足(はだし)の風に船の靴を履かせる、を意味しているようですが、この着想も面白いですね。
この著書も羽根の生えた靴をはかせられ、順風満帆の航海ができますようにと祈りながら、お礼まで。
2009年04月26日
モーツアルトのミサ曲と貴志康一生誕100年記念
4月24日、若い友人の属している合唱団コール・ミレニアムの第7回定期演奏会に出かけた。
太田区民会館ホール、アプリコ大ホール。JR蒲田駅の発着音が映画のテーマソング蒲田行進曲である事は知っていたが、このアプリコ辺が撮影所跡であることは知らなかった。
それと同様に、貴志康一という作曲家、というより演奏家・指揮者でもあったという天才的な音楽家の名前も知らなかった。生誕100年記念ということで、その「日本歌曲集」から合唱曲に編曲して演奏された。曲が知られていないからか、国際女優として名高い島田陽子さんをナレションとして迎え、総括指揮者である小松一彦氏とのトークをもまじえ、楽しく始まった。プログラムに掲載の貴志康一の写真を見ると頗るノーブルな貴公子然とした顔をしていて素敵である。帰って調べてみると大変な人であることが分った。
インターネットで見れば分るので詳しくは書かないが、1909年生まれ、お公家さんの家系で成功した裕福な大商家の出身、神戸でミハアエル・ウェクスラーに直接師事。3度もヨーロッパ留学、その中でもベルリン滞在時には作曲家・指揮者として活躍、自作の作品をベルリン・フイルハーモニ―管弦楽団と録音したりフルトヴェングラーとも親交あり、ストラディヴァりウスを購入など。1936年には3回日本でベートーベンの第九を指揮して、そのうち一回は新交響楽団(現NHK交響楽団)という目覚しい活躍ぶりで、湯川秀樹のノーベル物理学賞受賞の後の晩餐会の時に彼の曲が流れたことは有名であるとのことだが、不肖私は全く知らなかった。
これほどの才能があり国際的にも大活躍した人であるのにあまり知られることがなかったのは、夭折したからであった。なんと心臓麻痺のため28歳いの若さだったという!西洋音楽の草分けの頃でもあり、才能がありすぎたために期待され活躍しすぎたからでしょうか。彼が生きていたら音楽地図が変っていただろうとも言われているようだ。
大阪でもこの生誕100年記念コンサートがおなじ小松一彦氏の指揮で大阪フイルによる演奏会が行なわれようである。ちなみになくなったのは1937年3月31日である。
ちょっと脇道に寄りすぎたが、合唱として歌われたのは
*「行脚僧」 「かもめ」 「花売娘」 「風雅小唄」
いずれも歌曲の中に東洋的な味わいをもつもので、今聴いても新鮮なものを感じた。
次に
*ワーグナーの歌劇「ローエングリン」から馴染みのある婚礼の合唱。
後休憩。いよいよメインのモーツアルト
*ミサ曲ハ短調 KV427
これはモーツアルトが父親の反対にもかかわらずウイーンでコンスタンツェと結婚して、何とか父に新妻を認めさせようとして作曲し、これを故郷のザルツベルグの教会で初演をしたという記念すべき曲。
スケールが大きく「大ミサ曲」の愛称を持つのも、新妻がソプラノ歌手であった事から、ソプラノのアリアを多く登場させ目立たせようとしているだけではなく、対立していた司教への反抗心もあって、壮大なものになっている。これを合唱団として歌い上げるのも大変な事であろうと友の努力を思い拍手である。
西洋の夭折の天才のモーツアルトに対する、規模は小さいながら東洋の夭折の天才ともいえる貴志康一を、ともに楽しむことができた夜であった。
2009年03月02日
「はやぶさ」乗車記(つづき2)
昨日のニュースで、九州方面では最後となる寝台特急「はやぶさ」に名残を惜しむ人が大勢集まってきているさまが放映。少しだけ早く行動に移したので、あのような騒ぎに巻き込まれなくて良かった。
2月16日はまだそれほどではなく(横浜から乗車したからかな?)、向かいのホームにカメラを向ける人が数人いただけで、こちらにはカメラマンも又乗車する人もほとんどなかった。17分遅れでやってきた列車を迎えながら私もカメラを向ける。ソロの車両には大きな星印のロゴがついているので、乗り込む前にそれもカメラに収め、急いで乗り込んだ。先頭から3番目である3号車、14番は先頭乗車口に近い方だった。細長いドアが並んでいる。奇数が下段個室、私は偶数なので上段個室である。階段が数段あり、天井が下段室よりも低いはず。左側にベット、窓の下にはゴミいれを下に設置したサイドテーブル、ベッドを椅子に使う場合のテーブルが折り畳みになって右側にある。そのほか鏡、ハンガーフック、水彩画も飾られている。足元のベットの奥には荷物の収納場所、手前には毛布と浴衣、そして肝心のキイ。
こんな風に言葉で言うよりも写真をここで紹介すれば一目瞭然ですね。でも残念ながら私のカメラはデジカメでもなく、又それをパソコンに取り込む方法も知りません。又このB寝台個室の内部についてはインターネットで検索すればいろいろ出てきますし、誰でも見られます。私もこの内部については検索して、プリントアウトして来ました。その再確認でしかなかったいほど同じでした。知りたい方があればそれをご覧ください、ということでこれで描写は終ります。その印刷と自分で撮った写真とを使って、薄いアルバムを作ったところです。近しい人にはこれを嫌でも見せて、話を聞いてもらうことになるでしょう。
室内には今ではほとんど見られなくなった、昔はかならず窓の下に付いていたあの金属性の煙草の吸殻入れがありました。個室だから、今でも煙草が吸えるのかしら?でも煙草の臭いは残っていませんでした。横浜まで切符を買った人は、この部屋に入ってきたのかしら?写真を撮るだけで出て行ったのかしら?そういう人は乗るときは居なかったけど・・・。
ソロはどうも男性ばかりのようでした。マニアが多いのでしょうか。17分遅れた間に、お茶を買っていたのは正解でした。食堂車はかなり前から、ビュッフェも、売店もなくなっていることはネットで知っていましたので弁当は持ち込んでいましたが、飲み物も車内で買う事が難しい感じで、後できいたところ自動販売機も2台あるきりで、朝コーヒーを買おうと思ったところ売り切れだったのです。
朝、徳山から初めて弁当が持ち込まれ、その徳山の「穴子弁当」が美味しいということなので、それを買おうと思っていましたのに、車内放送では車内販売に回ると言いながら来ないので通路で様子を覗っていると弁当を持って通り過ぎる人あり聞いてみると、先頭で販売しているが行列ができて動けない有様という、ではと行ってみると長い行列。列車の中で行列するとは思っていませんでしたが、せめてコーヒーぐらいは飲みたいと私も列の尻尾に付き、幸い穴子弁当も手に入れました。これはなかなか美味しかったです。それも写真に撮りました。
ところが、九州に渡るに際して下関で機関車の付け替えがあり、少しだけ長い停車があるのですが、その時にはきっとカメラマンが殺到すると思い、その殺到のさまをカメラに撮ろうかなと思っていましたら、カメラが壊れてしまい果たされませんでした。
結局私の乗車記の最後は穴子弁当で幕ということになりました。
少し前から細かな雨が降り出していましたが、関門トンネルを抜けて九州に入ると沿線には雪がうっすらと積もっていました。列車はその後も遅れ(関が原辺りで一時停車)が出て結局1時間近く遅れ11時18分(予定は10時10分)に博多に着きました。
2009年02月27日
寝台特急「はやぶさ号」乗車記(つづき1)
今日は朝から冷たい雨、雪になるかもと思っていたら、案の定ニュースで都内は雪だとのこと、気温は2度ということだ。今冬初めての雪だという。
昨日の朝、ゴミ出しに行った時、ウグイスの声づくろいを聞いた。ああ、もうウグイスが春を感じ始めたのだと思ったばかりだったのに、この寒さである。
さて、これから「はやぶさ号」に乗ったときのことを書きます。横浜発18時28分。
「新横浜」発ではないのです。普通の通勤列車にまじって走るのです、といわなければ勘違いしてしまうほど、もう私たちは新幹線に慣らされているのですね。
本当にこのホームでいいのだろうか、そして停車時間は僅かなので、どの辺に待っていればいいのだろうかと心配なので、前々から落ち着かず、その日も少し早めに出かけたのでした。ホームにも少し早めに出て、駅員さんに尋ねようとしたのですが、今はその姿がほとんど見当たらないのです。合理化ということで人員も少なくなり、仕事もびっしりと決まっているようで、ぶらぶらしている人などはいません。仕方なく、ホームで工事をしている人に声をかけて、聞いてみたりしました。その人も、ああそういう列車がここに停まるみたいだ、という風な認識しかなく、それで説明してあげたりしたのでした。カメラマンも撮影に集まっているようなことも、言われて見れば見ているようでした。そしてたぶんこの辺に待っていればいいだろうということを、駅員ではなくその人に教わったのでした。そのうち向かいのホームにカメラマンたちが数人現われ、三脚を立てたりしていました。待っているのは「はやぶさ号」である事は間違いないのです。
ところがアナウンスを聞いていると、どうも事故が起こって遅れている様子、京浜東北線に人身事故があり、それにより並行して走っている列車に遅れが出ているとのこと。おやおや、やっぱり始発の東京から乗ればよかったなあ・・・と思ったものです。なぜなら、この特急券を手に入れたと話したとき、自分だったら横浜からではなく東京からにするのに・・・とある人に言われたからでした。その人はマニアではありませんが若い時に各地を旅したことがある人で、寝台特急も乗ったことがあり、始発だと入線してから発車まで時間があるのでゆっくり乗車できるし、その間のひと時がなんとも言い難い旅情がある・・・と。
言われてみればその通りでした。用事での乗車なら時間と費用がほんの少しですが節約になりますが、今度のような場合は、やはり東京から乗るべきだった、ついいつもの倹しさから安い方を選択してしまうものだと思ったのでした。特急寝台の料金は変らないのです。ただ乗車料金が少し高くなるだけだったのに・・・。こういう事故で遅れても列車に乗っていれば、ただ走るのをまっていればいいのに・・・・。
でも、かえってカメラマンたちが居て、うるさいだろうから、これでよかったのでは・・・と負け惜しみを考えたり。結局17分遅れで、列車はやってきました。今日に限って事故で遅れて・・・と気の毒がってくれていた工事の人も、やっと来ましたねと、言ってくれたのでした。
実は、予約の切符を引き取りに窓口に行ったとき、「東京〜横浜」までの寝台特急券など買う人などいないから空いている筈、そこで東京からに切りかえてもらおうと思っていたのでした。ところがそれがもう買われていたのです。その人はどうしたのでしょう?
さてこれから16時間ほどの旅が始まります。そのなかで17分遅れなど、少々寒かったけど大したことはありません。いわんや人身事故で重傷を負ったか命を失くしたかをした人に比べると・・・。
くだくだしく書き始めてしまいましたが、こんな風に書こうなどと思ってもいませんでしたが、どうせ時代遅れの長旅です。このブログも時代遅れの書き方で、書いていこうと思います。後は又次回で。
2009年02月25日
最後の寝台特急「はやぶさ号」に乗る
東京から九州に向かって走っていた寝台特急、ブルートレインといわれ愛されてもいたこの列車たちが、新幹線や航空機によって次々に姿を消していたが、この3月14日のダイヤ改正で全てなくなる。これを知った時、是非これで帰郷しようと思った。
昭和30年、「もはや戦後ではない」という言葉をスローガンに、国民生活も経済も高度成長の軌道に乗り始めた頃から、「あさかぜ」をはじめとして「さくら」「はやぶさ」「みずほ」日豊線に入っていく「富士」が、次々に登場した。
それから50年、全てが姿を消そうとしているのである。もちろん「トワイライトエクスプレス」など観光を目的とした、北に向う豪華特急寝台、それに類した列車が新しく登場してきたが、それはジャンルが違う。私が上京した頃は、これが輸送手段であり、庶民にはこれしかなかった。これに乗るのが移動の手段であると同時に、またこれに乗れることが憧れでもあった。これを手に入れることが難しい時期もあり、また乗る喜びがあった。ゴトゴト揺られて眠れない苦痛もあったが、朝起きて顔を洗い、ホテルに泊まった気分で食堂車に行く贅沢も時には味わい、上りでは車窓に大きく姿を現してくる富士山に声を上げ、また下りでは瀬戸内海を眺める楽しみや関門海峡のトンネルを実感がある。また門司駅では機関車の付け替えで少し長く停車する儀式が行なわれて、これは使用されている電流の違いだそうだが、二つの島がこれによって結ばれている事が知らされるのである。
さて、そう思うと廃止まで一ヶ月余、ぐずぐずしていると切符を手に入れにくくなると思い、早速行動に移した。案の定一ヶ月前の発売と同時に売切れてしまうようである。しかも私は今回はB寝台でもソロ(個室)があり、しかも解放寝台と同じ値段だということを知り、それを取ろうと思ったのだった。しかし手を尽くして4日目に、幸いにも手に入れることができた。何と言っても今は鉄キチという人が増えているようである。それに私のように懐かしさから思い立つ人もいるだろう。後で読んだ新聞記事によると、最終列車になる3月14日は、発売から10秒で完売だったという。手に入ったことに少々興奮しながら、その日を待った。
その日については、また稿を改めます。
2009年02月14日
ドキュメンタリー映画『エンロン』
低気圧通過による風雨の後、急に春真っ盛りの気温になり(23度!)、気持ちが悪いくらいの今日、近くのホールで行なわれた自主映画で、この作品を見てきました。
「エンロン」とは、アメリカで急成長を遂げた巨大企業、それが不正を暴くある記事により一転株価の大暴落、その後に次々とその正体は明るみに出て、その記事から46日後には破綻に追い込まれた、いわゆる「エンロン・スキャンダル」と言われているそうであるが、私は名前くらいは聞いたことがあるような、という感じでほとんど何も知らなかったのである。
ドキュメンタリーであるが、まさにテレビゲームの世界のようだ。だがこれは現実の、巨大な多国籍企業が(実際はそれを動かす数名のボスたち)、実業者だけでなく政治家や銀行公認会計士や弁護士、もちろん現場で働く労働者を巻き込んで、「儲かる」という金銭感覚(すなわち欲望)による、世界を舞台にしたゲームに思えた。
1985年、天然ガスのパイプライン会社として設立されたこの会社は、テキサス州のヒューストンに本社をおいて次第に世界最大のエネルギー卸売り会社となっていく。(それゆえブッシュ元大統領父子とも、家族ぐるみの付き合いで、政治家も絡む)規制緩和によって業務拡大、僅か15年間で全米第7位の巨大企業になり、海外進出も41カ国。それにつれて業種も卸しだけでなくオンライン・サービスやブロードバンド業、エネルギーサービスなど拡大。
細かなカラクリは、私のようなものには分らないが、規制緩和、自由競争、市場原理などというものは、大きければ大きいほど更に大きくなり(大量生産で価格が安く出来る。儲けが出る)、小さいものは負けて潰れるか吸収される。次第に少数のものが巨大になっていくものなのだということが分った。
そして巨大になったものは、常にどんどん大きくなっていかねばならない宿命を持つ。すなわち停滞する事ができないのである。なぜなら大きくなるためには先を見越した設備投資をしているわけで、立ち止まると、先を見越した設備投資の分は赤字になる。たとえばインドに巨額の設備投資をして発電所(?)のような物を作る計画。しかしその電力を買えるような会社はインドにはなく、その計画は頓挫して、その現場はいまは廃墟と化しているとか・・・。
結局、エンロンの現実は赤字だらけだったようである。しかし幹部は大儲けしていて(潰れる前に何億と儲けて退職した幹部はいま南部で大地主になっている)、ボーナスも多額で、従業員たちは誇りを持って働いていた。なぜ業績は上がらないでも、現実に儲けがなくても、給料が払え、幹部たちは何億と収入が得られるのか?
それは株式市場という「場」があるからである。エンロンの株は、どんどん上昇したのだそうだ。急成長するエンロンはどこまでも成長するという「エンロン神話」が生まれ、株はどんどん買われ、値段は高くなる。儲けは、その利鞘から出てくる。バブル神話と同じことだ。実際の経営状態については、最後まで明らかにされなかったのである。それを監査する組織も、それを見逃していた、というよりそれによって懐を肥やしていたので、眼をつぶっていたのである。政治家も同じことだ。
タイタニックの船長である事を、ボスたちは感じていて、いつそれが来るかと思っていたようで、社長のケン・レイの顔が次第に疲れ衰えていくのからも感じられた。それでも投げ出すわけには行かないのは、それを知りながら、なおかれらを存続させることで儲かる人がいたからである。またその企業の未来を信じ働く従業員がいたからである。
しかし株式の大暴落をきっかけとして、2ヶ月も経たないうちに潰れ、後は負債総額2兆円、失業者は2万人、従業員(その年金資産も)をはじめエンロンに投資した巨額の資産は失われた。
エンロンの宣伝コピー(コマーシャルの最後に登場したという)は,「Ask Why」 (常に疑問を)というのは、皮肉である。責任者たちは裁判にかけられたが、最高責任者のケン・レイは、有罪判決を受けた一ヵ月後に心臓発作で死亡した。
日本でもライブドアをはじめ、似たようなことが生じている。幻想とそれに踊らされる群集心理、人間の欲望がそれを生み出すのであろう。映画の最初に映し出された高層ビルの一群は、東京のそれにそっくりで、株式市場が主導する経済というものが世界を動かしていることの実態に慄然とした。
2009年01月05日
温泉文化という事
温泉から帰った翌日の日曜日、正午のニュースが終ってから始まる、NHKのFM「トーキング・ウイズ・松尾堂」を聴いていた時の事である。この時間は長い間「日曜喫茶室」が放送されていて、昼ごはんの流れでよく聴いていたが、それが最終日曜日だけとなって、後はこれにリニューアルされた。たぶん若返りのためだろうけれど、内容は同じようで、オーナーや主人が最近話題になった人や本を出版した著者、いろんな分野の人をお客に迎えて話を引き出すという趣向なので面白い。
先には喫茶室だったが、松尾堂は本屋という設定になっている。
この日の二人の客の一人が山崎まゆみというエッセイストであった。温泉ルポルタージュというか温泉エッセイスト、日本各地のみならず外国の温泉まで訪ね巡っている人らしかった。彼女によるとやはり日本人は温泉好きで、日本の温泉はその数も多いが楽しみ方も独特で、世界に冠たるものらしい。
話題の本は『だから混浴はやめられない』という新書版で、混浴の温泉を訪ね歩いてのルポということ。そのほかにも温泉に関した著書も幾つか著しているようである。混浴を妙な好奇心からでなく、それを一つの文化としてとらえたもので、不思議にも読者はいわゆる「おじさん」達ではなく女性が多いのだという。
温泉は元々混浴が多く、それが野蛮、風紀の乱れというふうに捉えられたのは明治以後の近代化によるものだった。また西洋の医療や健康のためといった合理的な温泉利用と日本のそれとは違っていて、そのことも最近では西欧でも注目されているようである。
この温泉談義をここに書いたのは、著者の山崎さんが温泉に関心、興味を持ったそもそもの動機について語った時、T温泉の名が出て来たからである。
実は彼女の両親になかなか子どもに恵まれず悩んでいた時、子宝の温泉として有名な近くの温泉に行って、(と聴いた時、出生の地が長岡という事なので、もしやと思っていたらそうだった)逗留したら自分が生まれたと聞かされて育ったと言う事だった。そしてその温泉は36度〜7度ぐらいの長く入れる温泉だった、ということからますますそうだと確信した時、その名前が出た。
T温泉、すなわち栃尾又温泉は古い歴史を持つ温泉で、およそ1200年前、行基によって発見開湯されたと伝えられる有数のラジウム温泉で、湯治場として利用されるようになったのも400年前、子宝の湯として知られ、宿の隣には薬師堂があり、たくさんの絵馬やキューピーが飾られている。テレビにも放映された事もある。私たち常連にはもう子宝には関係ないが、その効能については、そのほかいろいろあるのである。
人肌程度なので、長く入ることが出来るのがいい。今回も、今日は8時間も入ったという声が聞こえてきたりした。毎日10時間ぐらい入って、ここで湯治しつづけたら糖尿病が治ったとか言う人もいて、また傷にも効くので、交通事故の後療養に来たりもするそうだ。
ここも最初の頃は、元湯に近いところでは混浴であった。それで私たちは入れずに旅館内の内湯に入っていたのだった。そんな事を思いながらラジオを聞いていたのだが、今や女一人、国内外の混浴の温泉を巡り歩く人も出て来たということで、楽しくなってしまった。各地でそれが復活もしているようだ。そしてそれを堂々と楽しむ若い女性も出てきているようだ。といって私自身はまだ混浴に入る勇気はもてないでいる。
露天風呂は、今でこそ男女別にしたり時間制にして別にしているが、そもそも区別不可能な状態である。
そもそもそれは自然の中に融合するような形であるから、そこには猿でさえ入ってきて良いわけであり、傷ついた鹿であってもいい、人間も動物も、また男女という関係でも妙な意識は取り払われていいわけである。
温泉の効能は、身体だけでなく精神的な効能も大きいだろう。こういう温泉の効能、楽しみ方は今西洋でも注目されていて、それに模した温泉地の開発も始まり、今年はフランスで「雪国と温泉」というテーマのシンポジウム(?)のようなものが開かれるという。もちろんこれは川端康成の小説と関連させてという事らしいけれど。
まさに裸と裸のコミュニケーション、自然との一体感、日本的なのであろうけれど、中東のハマス軍とイスラエル軍の兵隊とを同じ温泉に浸からせれば、戦争などしたくなくなるのではないかと思うのであった。
2009年01月04日
雪に降り込められた三が日(T温泉行き)
明けましておめでとうございます。
世に中は急激に厳しくなり、多難な時代に入っていくようですが、何とか良い方向へと向うようにと祈りつつ、今年もよろしくお願いします。
今年も例年どおり大晦日からT温泉に来て、雪国の元日を迎え、3日に帰ります。
この地でお正月を迎えるのは24年目、歳月の速さに感無量です。これまで温泉地もまた宿泊する私たち自身とそのメンバーもいろいろ推移、変化がありましたが、いまのところどちらも落ち着いた形になっています。即ち参加メンバーも昨年と同じ常連の8人、宿も交通事情も変りなく、昨年とほぼ同じ状況となりました。無事帰ってきました。
昨年と違うのは、お餅つきが恒例の2日となり(昨年は集中的に降った大雪のため、男衆の手が足りなくなって3日に変更され、私たちはその恩恵に与らなかった)、その雰囲気と振舞いを楽しむことが出来て満足でした。この搗き立ての餅は格別です。最初から最後まで水で返すという事をほとんどせずに搗きあげるので、粘りがありしかも柔らかい。振り上げた杵の先から臼まで、ガムのように伸びるのです。年季の入った男の人でなければ出来ません。2臼搗かれます。もっと搗くこともあるようです。餡子や辛味醤油、大根おろしや納豆、野沢漬けが用意され、土地の清酒「緑川」もサービスです。私は最初は餡子を、次は辛味醤油に大根おろしで頂きました。黄粉は今年はなかったようです。
滞在中一日くらいは晴天になるのですが、今年は雪が絶え間なく降り続きました。しかし年末の雪は気温が高かったようでべたつき、駅の近くでの雪の壁はあまり見られませんでした。それでも降り続く雪に温泉近くでは雪の壁が日に日に高くなり、車は埋もれていきます。やみそうもない雪の中、2日は例年のように川下の大湯まで散策しました。雪体験です。雪は小止みになったり降りしきったり、激しく降る時は眼前の風景も紗の幕に閉ざされて、見えなくなってしまうくらい。雪山での遭難、雪の恐さがほんの少ししのばれます。
このように3日間雪が降り続いているこの地にいると、一方太平洋側は晴天続きである事が信じられない感じがします。TVで箱根駅伝をみているだけでもその違いをはっきり知らされるのですが・・・
雪が降り止まぬ中を3日、駅まで送られて新幹線に乗り込み、長い長いトンネルをくぐって、外に出るとそこはもう雲さえ見当たらないからっとした青空で、太陽が輝いている。ほんとうにそれまでが夢であったのでは思えるほど。またはどこか外国に行ってきたのではないかと思えるほど。
日に日に速くなるスピード、狭くなる地球、こういうことは年々多くなっていくのでしょう。
3日間の内容はこれまでも書いてきましたし、変り映えしないので省略しますが、帰ってから面白い事があったのでそれを書こうと思いましたが、少々長くなりましたので稿をあらためます。では今日はこれまで。
2008年12月29日
洞門山問題・第4回説明会
暮れも押し詰まった昨日、説明会が行なわれたにもかかわらず、ほぼ満席に近い人が集まった。
結論から言うと、何も進展のない説明側の回答であった。しかしこの工事がいかに無理であり、無謀であり、不可能に近いものであるかが、問い詰める事によって明らかになった。
4回もやりながらこの状況では、説明会はよくあるようにダミーであり、陰では着々と工事に向けての工作が進められているのではないかという疑問がある。実際その気配もあるという。保全を考え、指導していると言っても役所は信用できない。なぜならそこには人間の顔が見えてこないことが多いからだ。個人としての信念も心ももたず(持てないようになっている)、組織、仕組みの中で動かざるを得ないからである。そこにあるのは法律や理論や数字であり、それらに辻褄が合えば、許可が下り、工事を認めることにもなる。賄賂はないにしても、法をうまく使えば、理念も正義も感情も押しつぶすことができる。
法といえば、この申請の工事区画が999平米であることも、その一つである。
即ち、1000�からは、4メートル道路に隣接していなければ出来ないのだそうだ。私はやっとそれを今回知った。しかしここはいずれも2メートル前後の道で、いちばん狭いところは1.84メートルである。
今でさえ高校の登校時間に出会うものなら、人間でもすれ違うことが困難な道路を、工事のトラックやダンプが、歩行者を気遣いながらどうして往来できるだろう。
しかもそういう狭い道路が合流するところから踏み切りに入るのだが、その幅は2.55メートルである。(これら数字はすべて説明者側の提示したもの)車はすべてここを通過しなくては自動車道路には出られない。しかもこの踏み切りは、横須賀線なので結構列車の通過が多く、人でさえ上下線が通過するときなどは遮断機が上がるのにいらいらするのであるが、そういう現地の事情はまったく説明書には反映されていない。
即ち今回の説明も現実に即したものではなく、図面上、計算上のもので、そこには実際に工事を起こそうとする熱意もなく、周辺住民への誠意もないものであったが、それは事業主もまた請け負う工事主もはっきりしてないということが大きな原因であった。不備を突かれ詳細を訊ねられれば、工事業者でなければわからないと逃げてしまうからである。といってその事業者が出てくるわけではない。
今回は、樹木を伐採して崖の8メートルを崩して出るその土砂や樹木の搬出車両やその量やかかる日数についてが主だったが、それはこちら側の専門家による計算と大きく違っていた(1:3)。
細かいことは書けないが、たとえば説明では土砂の運び出しに61日、伐採したものは20日と計算し、全体で4ヶ月としていたが、こちらの計算では3倍の12ヶ月はかかるはず。その中間を取ったとしても大変な工事である(これは搬出だけの計算)こととは間違いない。
しかもここは前述したように、幅2メートル前後の細い道、しかも一方はJRのホームに隣接した道(この駅で乗降する高校生の通学路、また幼稚園児、小学生、また大人の通勤路でもある)、の2本に挟まれた屏風のような緑地である。その頭を8メートルも切り崩そうとするのであるから、土台無理なのである。トラックも2トントラックしか入れないが、それを3トントラックとして使うのだという。しかし樹木伐採の重機もその2トントラックで運びこむもので、大木をいかに切ることができるか。
また土砂の運び込む先も、市内の一ヶ所と同時に小田原だというが、その往復の交通事情も考えていない。また樹木の根っこは産業廃棄物であり、それはまた別のところを探す必要ありなど、様々な問題や疑問点、JR線と隣接していることから、それへの配慮も必要であることなど、様々な点から工事の無理を指摘されながらも、結局は、それらを把握したうえで何が何でも「ご理解、ご協力のほどお願い申し上げます」でしかないのである。
こちらこそ、ここのこの辺に残った最後の砦、この街の玄関しての緑は守りたいという気持、そして周辺の住民の暮らしや命にとっても、その工事がいかに無理で無謀であるかを考え、何とか「ご理解、ご協力をお願いしたい」と、こちらも言いたいのですと、その言葉を逆に返して、会合は終ることになりました。
私の今年のブログはこれで終ります。国内でも景気の落ち込みから派遣労働者の問題、様々な不祥事、生活事態が危うくなってきて暗い気持ちになってきます。中東もまた戦闘状況となり、平和もなかなか望めず、これからどうしたらよいのだろうと考えさせられてしまいます。といいながら結局は何もしない体たらく。今年もいつものように雪国に行って参ります。
これをお読みくださりありがとうございました。来年もよろしくお願いします。皆様、どうか良いお年を!
2008年12月26日
民藝公演『海霧』
今年の一字漢字は、「変」だという。
変化、変動の年と言うことだが、年末にかけて景気も社会的現象も厳しさを増し、暗澹たる気持ちになる。事柄の変化は、徐々に進んでいた時には気がつかず、見過ごしていたものが、ある時急に大きな形で現れてくる。臨界点というのか、ある温度に達すると水が急に氷に、また水蒸気になるように。
今年はそういう年だったのかもしれない、などと思う。
例年のように三越劇場で行なわれる民藝の今年最後の公演『海霧』を観に行った。
原作は、原田康子。ある年齢以上の人は、「挽歌」のベストセラーを書いた人として記憶に残っているだろう。その後も地元の札幌在住、北海道に根を張った作家活動をしておられるのだが、あまりにも有名になりすぎて、伝説のようになってしまったようだ。50年前だとのことで、改めて時の速さを感じる。
この作品は、北海道を舞台に作家一家の年代記を主軸にして、開拓と近代化されてい日本の姿をも絡ませた一大叙事詩で、3巻からなる長編を劇化したものである。
これを2時間半あまりで演じようというわけだから、大変である。しかしスピード感のある舞台転換と人物造形の切り込みの上手さ、テンポのよさで、少々骨太だがその流れはよく辿れ面白かった。
脚本は、小池倫代。演出は、丹野郁弓。
物語は、プロローグの明治8年からエピローグの昭和4年までの長期に渡る、作者の血族3代の年代記である。中心になるのは開拓者として夫とともにやってきた祖母さよ(樫山文枝)で、一代で財を築きいた夫(伊藤孝雄)とその娘の長女リツ(中地美佐子)と次女ルイ(桜井明美)、そして最後にリツの娘千鶴(中地の二役)、この女系の3代とそれぞれの夫(みやざこ夏穂・斉藤尊史)、それに信頼にたるアイヌの、主人の補佐役となるモンヌカル夫婦なども含めて、家庭内の歴史と一家の盛衰を見守り続けるのである。
和人があたかもアメリカ大陸を開拓していく歴史にどこか通じるところのある日本の北海道開拓の歴史、それは果敢な男たちの陰にある女たちによって支えられていたのだと感じられる女三代の物語であったが、長女リツが男言葉を使い、男のように振る舞い、男のように勇敢で真っ直ぐな性格で早く死んでしまうそれは、家督制度などの時代の悲劇でもありまた滑稽でもあり、それらの流れに時代もまた感じられるドラマであった。
今朝の新聞の「声」欄に、「アイヌを学び、自然を守りたい」という若い人からの投書があり、「北海道では北方領土返還を求める看板を眼にしますが、本来はアイヌに返される土地だと考える人は少ないでしょう」とあって、和人の侵略は自然破壊そのもので、アイヌとともに生きる神を殺すものだったととらえ、北海道に住むものとしての最低限の義務は、彼らの歴史と精神を学び、彼らが守りともに暮らしてきた「自然=カムイ」を自分も守り生きていくことだと思う、という頼もしい文章を読んで嬉しくなった。
2008年12月22日
「オペラ・アリアと第九」を聴きに行く
冬至の昨日から生暖かい風が吹いて、冬らしくない陽気の今日だが、先週の水曜日は一日冷たい雨であった。
その日、例年のように「第九」を聴きに出かけた。今回がラストコンサートだということである。
パンフによると、コール・フリーデが第九を歌い続けて31年になるということであった。その記念すべきコンサート、友人のTさんが最近の世話役の一人なので、このところいつもその楽しみを分かたれている私としても、やはりある感慨があった。しかし年末に第九を歌うことはないにしても、合唱団としての活動は続けられ、定期的な演奏会はつづくという。長い間、ご苦労様でした! そしてありがとう! なお今後も充実した活動を、と祈りながら心をこめて聴きました。
第1部は、特に今回はソリストに日本有数のオペラ歌手をそろえての、馴染みのあるオペラ・アリア。
モーツアルト 歌劇『フィガロの結婚』より
谷口睦美(メゾ・ソプラノ) 「恋とはどんなものかしら」(ケルビーノ)
福島明也(バリトン) 「ため息をついている間に」(伯爵)
モーツアルト 歌劇『コシ・ファン・トゥッテ』より
樋口達哉(テノール) 「恋のいぶきは」(フェランド)
佐々木典子(ソプラノ) 「岩のように動かずに」(フィオルディージ)
第2部 ベートーベン 交響曲第9番 ニ短調 作品125「合唱付」
第九は、年末恒例になってしまった感がある。この時期歌われることが日本では特に多い、と聞いたことがある。
今町に出ると、ジングルベルがあちこちから聞こえ来て、うるさいほどである。皆がクリスチャンでもないのにと、商業主義に踊らされている事に腹立たしいような、又それにお尻を叩かれて働かせられている人たちを見ると、気の毒な感じさえする。しかし、この第九が多くの人に歌われることは、しかも普通の人たちによる合唱があちこちに見られることは、いいことではないかと私は思う。
なぜならこれにこめたベートーベンの思い、そして合唱として歌われるシラーの詩の趣旨が、今こそ広く歌われるべきで、それを日本人の名もない市民たちの口から歌われることは、意義あることだと思うからである。弱小国日本が、世界に向けて発信できる事は、このシラーの詩、又ベートーベンの曲にこめられた祈りしかないのではないかと、これを聴きながらしみじみと思ったのである。
その詩のさわりの部分だけをほんの少し、誰でもご存知でしょうが書き上げてみて、結びといたします。
[歓喜の歌]
「 (略)
歓喜、美しき神々の火花、
楽園の乙女!
(略)
汝がやさしき羽交(はがい)の下に憩わば、
すべての人々は兄弟(はらから)となる。
(略)
生きとし生ける者は、歓喜を
自然の乳房より飲む。
(略)
百万の人々よ、わが抱擁を受けよ!
この接吻(くちづけ)を、全世界に!
(略) 」
2008年12月05日
洞門山問題 追記
やっとこの問題をマスコミが取り上げたようです。
駅への道を歩いていた時に、立て札で知りました。
実はわが家は、同じ町内でもまた隣接地区でもないので、この辺りに立て札はなく、駅への道すがらに情報を得るしかないのでした。「台峯」の会は直接関係しているのではなく個人的に重なるだけですから。
そこには第三回の説明会の報告と同時に12月2日付の神奈川新聞の記事が掲げられていました。
「山林の保全訴え 市民団体が陳情」とタイトルがあって、陳情書を一日、市側に提出という記事でした。それによると、署名は2万7百56人集まったようです(説明会の当日は2万にやっと達したぐらいだったので、あとはその時に持ってきたものでしょう。私もその日の午後に出た横浜での詩人の集まりの席で署名集めをし、持って行きましたから)。
内容は、北鎌倉駅や円覚寺の近くの「鎌倉の景観百選」にも選ばれている地域の約999�(この数字の欺瞞は先に述べましたが)の「開発で山が削られれば今の景観がすっかり失われてしまう」などと訴えている、という記事になっていて、宅地開発計画が浮上しているこの山林の保全を市側に働きかけるようにとの陳情書を市議会に提出したとありました。
神奈川新聞を取っていないので、その足で販売所に出かけ、その日の新聞を買ってきたというわけでした。
2008年12月01日
洞門山破壊の件(第3回説明会)
11月30日(日)に行なわれた。しかしそれは実質的に何の説明にもならず、また何の回答にもなっていないものだった。
順序は逆になるが、会のほうからの報告をまず紹介すると、署名は21,000人(目標は1万だった)近く集まったこと(12月1日に市議会に提出)。短期間(2ヶ月)の間に、これだけ集まったということは、それだけ関心と反対意見が多いということ、それを十分に考えてほしいということ。
これは景観や史的意義だけでなく、トラックや工事の車が出入りする道路〈車が一台しか通れない狭さ)は、近くにある幼稚園、小学校、高校(県立と私立の2校)の通学路になっており、また絶対通らねばならない踏み切りも2メートル余しかなく、実際に工事が始まれば大変な事になり、それで学校のPTAなどによって多くの人たちの署名がすぐに集まったとのことです。
次に、後で書きますが、樹木や土砂の運び出しに、会側の専門家の試算によれば、1年4ヶ月はかかるはず(設計者は2〜3ヶ月とみている)、いろいろな点を総合すれば、これは施工しても採算が合わない(3宅地の開発ー今の所)ということは、私のようなものにでも判るのでした。
先ず、その小高い緑地が削られる事によって生じる動植物系や風や音、水などの影響についての回答は、市が発行している図鑑やインターネットその他、現地をまったく知らないものが机上で考えた内容でしかなく、専門家の意見などをきいた形跡もない(もちろんこれを求めたのは、そこがこの辺りの景観や自然に与える影響が大きいのだということうを自覚してほしいということの1意見だったのであるが)。たとえば鳥については、数ページにわたり、市内に生息する鳥類についての羅列があったり・・・。そんな事より実際に、そこは六国見に通じる緑の回廊の一つとして、サシバの幼鳥を見た人もあり、大きく伐採する事はそれを断つことになるなど、そういう具体的なことを考えて欲しいわけである。
次に、樹木を伐採し土砂を運び出す事の搬出土壌量についても、その見積りは、施工者が決まってからでしか正確には出せないということ。しかしこれはこちらの会には建築家もいるわけで、それを計算した結果をすでに送りつけているはずで、それについて施工者の意見を聞きたかったと言っても、それは見ていないとか、とにかく土地の所有者と施工者が現時点ではあいまいで、それへの確答もなかったのである。
なんと言っても話し合う対象が隠されたままなのである。名義はまだK一家のものだが、実際は他人に渡っていて、90パーセントの払い込みは終っている事、そして施工者についても、市の買取の件で話し合っているという某事業者の名前は判明しているにも関わらず、説明をしている設計事務所は、まだ決まっていないという。それでいて、全権を任されているという。
たとえばの話だが、K氏がどうしても宅地化してお金が欲しいという事情があれば、それを聞き、3宅地ぐらいなら、大きく地形を変えないで、新たに真ん中に道路を作るなどということはしないで(たぶんそれは今後の開発の道を開くため)既存の道路沿いに(道路分が開発を免れる)作れること、そういう詰め方もあること。結局は開発会社に手渡してしまえば、あとは効率と採算、利益というソロバンで、全面破壊になりかねないのである。
市には「町作り条例」というのがあって、その3条には、開発は事業者と市民の相互の理解と協力があってなされねがならない、とあるそうです。事業者が不明で、欠席のままの話し合いは意味を成さないことであり、次回はそれをちゃんと守ってほしいということで、時間オーバーして終わりになりました。まだいろいろあるのですが、少々疲れたのでこの辺でやめることにします。
2008年11月27日
バロック音楽とインド音楽(シタールの旋律)
先の土曜日、はからずも西洋音楽の粋であるバロック音楽と東洋の旋律であるシタールの演奏を聴くことになった。
バロック音楽は月に一回、講師の解説を聞いた後、DVDやCDで音楽を聴いているが、今は時代としてもちょうど佳境に入ってバッハである。
そして今日はバッハの《ブランデンブルグ協奏曲》とカンタータ第147《心と行いと生活が》を聴いた。
前者は、私も知っているような有名な曲だが、それはほんのさわりの部分であって、それを1番から6番まで聴くことが出来、しかもこの音楽鑑賞と研究に生涯をかけた講師である先生の解説つきであるから、私などにはちょっと勿体ない位である。DVDの演奏も本場の城館での録音で、演奏者、年季の入った楽器、古楽器、会場のみならずその外観まで映し出されているから楽しい。
バッハのカンタータは沢山あるが、この曲は旋律が美しく、後期の「魂のドラマ」としての迫力や深みに欠けているかもしれないが、抒情的な美しさがあってカンタータへの入門曲として素晴らしいといわれる。
《ブランデンブルグ》も、6つの協奏曲集であるから、それぞれに弦楽器、管楽器の編成も違い、曲調も違い、一曲として同じような曲を書きたくないというバッハの芸術家気質が強烈に見られる曲集だというが、解説されて聴いてみると、なるほどと感心させられる。
この講座が終ってから、これも偶然にこの日に重なったのだが、「インド音楽 シタールの旋律」という講座が始まるのである。この講師は堀之内幸二先生。このブログで、ベトナム旅行の際に書いたのだが、ヨーガの先生堀之内博子先生の夫君で(その際、企画から下見や準備などを周到にしてくださり、大変お世話になった)、シタール奏者なのである。
という事情で、今度はインド、東洋の音楽を聴く事になった。最初に少しだけレクチャーがあった。インド音楽の音階について。また曲をラーガというが、西洋音楽の「曲」とは違い旋律のパターンだというのは、〜長調,〜短調というのに似ているようですが、今日は時間帯の法則に則った「夕暮前のラーガ」、「夕暮のラーガ」、「夜のラーガ」を演奏するという。それをここで説明するのは至難の業で(私自身がよく分っていない)、またシタールについても説明があったが、これもネットで探索すればすぐ分る事なので省略するが、胴というか共鳴部はトウガンの実をくりぬいて作ったもので、割れやすいが修理も利くので人間よりも長生きしますとのこと。
次に伴奏に使われる打楽器のタブラ(大小の壷状の上面に皮を張った太鼓)、とその演奏者が紹介される(演奏者=龍聡)。その楽器の説明も少し。
いよいよ演奏となったが、西洋音楽との違いをしみじみと感じた。風の音や木の葉のそよぎ、せせらぎや波音、星の輝きや月の運行、そのような外気に対して心が解けて行くような感じがするからである。バッハも素晴らしかったが、それは心が引き絞られゴチック建築のように天にそそり立つような清らかな美しさで、それとは又違って、単調だといえば単調なパターンのくりかえし、それでもよく聴けば決して同じではない微妙な違いでもって奏され、それが次第に心を解放し、深いところへ導かれる感じがする。音楽を聴くというより自然の中に放りだされるよう感もする。しかも時々唸りに似た音色がまじるのも快く、西洋の明晰さとのちがいが感じられるのである。
それにイ短調とかヘ長調というのではなく、夕暮のラーガとか真昼のラーガとか、自然の運行が使われるのも東洋的、インド的だと思うし、やはり東洋人である私は、一方では西洋音楽のすばらしさに感嘆しながらも、やはりシタールの音色には全身が抱きこまれる感じで、身近な気もするのだった。
2008年11月02日
映画『夢のまにまに』(岩波ホール)
90歳の新人が描く戦後、と新聞には紹介されていたが、長編の映画を監督をするのは初めてというだけで、美術監督としては長い経歴を持つ巨匠だという。
木村威夫90歳、鈴木清順や熊井啓の下で腕を振るったとあるが、なるほどという場面がたくさんあった。
「美術は映画全体に大きく影響する」という黒澤明の言葉は、偶然にも昨日耳にしたのだが、まさにその通りだと思った。映画は映像芸術であるのだから。しかしその美術監督の名を私は知らなかった。前述した有名な監督の名前の陰に隠れて、私のようにいい加減に見る人間の眼には留まらなかったのである。
場面は老夫婦の朝の光景から始まる。美術監督の夫(長門裕之)が映画専門学校の学院長というのからも分るように自伝を骨子としたもので、その現在と戦中戦後の青春や時代60年が、回想の映像で語られる。妻(有馬稲子)は車椅子の生活、若い溌剌としたお手伝いさんがいる。学園の学生で、マリリン・モンローの刺青をしてちょっと飛び上がった青年(有望な新人という井上芳雄)、しかしどこか才気を感じさせながらも繊細な神経ゆえに心を病んでいる(最後には死を迎える)、との交流を描きながら自らの青春を重ねながら戦後の世相などが描かれている。
朝の昭和の時代を感じさせる食卓が、泰西名画を感じさせるように美しい。ロマンティシズム、エロティシズム濃厚な美しい画面、昔見た鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』を思い出した。また画面いっぱいの絢爛たる桜並木に以前ここで見た黒木和雄の『紙屋悦子の青春』を思い出した。そうか、彼が美術を担当したのだなあと思うのだった。
ここには脇役としても、宮沢りえ、桃井かおり、そしてこれが遺作となった亡き観世榮夫も出演する豪華キャストである。
主人公の自宅から職場である学園までの途中に、大きな瘤と空洞を持つ巨木がある。それに象徴されるような、一人の男の物語であった。もちろんその物語そのものというよりそれらの時代を独特の感覚的な美しい映像で描いたものである。
ちょうど古本祭りで神保町は賑わっていた。天ぷらはよくないなと思いながらも、「いもや」に入ってお昼を食べて帰った。
2008年10月20日
洞門山開発(破壊)第二回説明会
10月19日(日)は第二回説明会が開かれる日ですが、同時に午前中は台峯歩きに当ってしまいました。それでこの日は一日出かけることになり疲れました。
歩く会ではこれまでの事情が聞けるだろうと思っていたのだが、あまり期待できない成り行きのようでその時はがっかりしてました。何しろ行政側の態度がはっきりしないようです。
台峯歩きは、秋晴れの一日で、楽しかったのです、それは後にしてここでは説明会について報告する事にします。
この日も、第一回の溢れるほどではなかったが超満員、60脚もある椅子はすぐ埋まり後や横に立つ人が出るほど。説明者は、前回と顔ぶれも同じ3人。机の上に、ハッポウスティロールで出来た変なものが置いてある。(これは前回、せめて全体像がわかる立体地形図をといったのに対して作ったもの。これも笑いものになった)
先ず全体の感触を簡単に述べると、最初はまた同じパターンだという落胆と失望で溜息が出るばかりだったが、後半になると次第に明るい希望めいたものが芽生え、最後にはもしかしたら・・・・という期待すら感じられるものであった。
一回に出た要求や質問に対する回答が、文書で各人に届けられていて、それを読み上げる形から進められたが、一番の要求、事業者であるK氏は、欠席。行政側の立会いもなし。
その理由として読み上げられたものは、K氏は「皆様の要望は理解できるし、可能な限りそれに応えるつもりだが、それを考えた上で諸般やむを得ず、今回のようになりました。また今回は諸事により欠席させていただきます。」というような紋切り型の回答にならない答え、行政はといえば「出席する立場にはない
。来庁すれば相談に乗る。許可が下りた段階ならそれへの説明には出る。」というもの。
まさにこれは、ある人の発言の中にもあった、この説明会は一種の「ガス抜き」で、工事を進めるということはもう既成の事実だが、それへの不満や反発を説明会という形で吐き出させて、何回かやった後に、もう十分に説明しましたし、要求も不満もわかりました、それを十分考慮したうえで工事を進めさせていただきますと終結し、発進させてしまうものでしかない。それが見え見えであったので、暗い気持ちになったのである。
しかし、設計者側の説明が終わり、住民側の質問や意見の発言になると、次第に気持が明るくなってきた。「まちづくり協議会」や「町内会」の人たちの調査によって、次々に新しい情報が知らされたからである。
先ず登録簿の名義が変っている事、それはすでにK氏の手からある会社に売られているか? など、複雑な事情があること、ここでは面倒なので書かないが、そんなことも問い詰められたり(それではK氏の委任状などは紙切れに等しくなる)、またその緑地というより赤トンネル、稲荷だけでなく八雲神社に通じるこの辺りは、周辺住民には鎮守の森としての役目を持ち愛着をもたれているということ、そういう歴史も住民感情も知らないで机の上だけで設計しても工事は決して進まず、また車一台しか通らない道路を使って山や大木を切り崩したものを運び出す大工事、採算が遭うわけはなく、それは二期、三期工事で辻褄を合わせることにしているのでは・・など、様々な意見が、それを専門にしている意見の人もいて、問い詰められ説明をされて、最後には彼らもやっとこの地の事情を理解させられたように見えました。総意として前面反対(最初は、そういう意見、木を一本も切るなというようなという意見では話し合いにならない。工事を認めるのを前提にしてそれにどういう要求や妥協をしてもらいたいかということをしきりに言っていましたが)という意見にも納得(心情的に)出来るようになっていったようです。しかしこれはこの場でのことで、一時的な感情に過ぎないわけです。
行政とのことも、市はそこの重要性は十分に承知で、全体を買い上げる方向でK氏と交渉もしたのだそうで、しかし金銭的に折り合えなかったようで(すなわち開発の出来ない山林としての評価しか出来ないにもかかわらず、K氏側は宅地としての評価を期待するわけで)、そうとしたら、決してそこは宅地には出来ないところだということを身をもって知らせてやるしかないわけです・・・というのは陰の声。
計画書を良く見ると、申請の敷地面積は999.77�です。すなわち1000�以上であれば許可されないので、第1期工事として、そうしたのであり、第2期第3期と少しずつ崩していけば、崩せると考えているのでしょう。
いろいろ住民側から良い意見が出ましたが書ききれませんし、疲れましたのでこの辺でやめますが、最後の方で立ち上がった若い父親らしい人の発言に、皆はしんとして耳を澄ませた事だけを書いて終わりにします。
歴史的にも風土的にも、また景観や生態系、動植物や、風や水の問題、崩せばいろいろ問題のある重要な山、それを住民感情を無視して(最後には工事を妨害する実力行使もやる覚悟だという意見が出て拍手喝さい)、たった3区画の宅地を造成するためにだけ(今の所第一期3区画を申請。以後二期に10区画らしい)無理やりの工事をやることに、あなた方は仕事として誇りがもてますか? と静かに問いかけたのです。自分は踏み切り近くに住んでいますが、子どもたちは通学路で安全を脅かされる上、狭い踏切と道路を往復するダンプカー(1万5千台にもなる)の騒音と埃をあびるのをじっと我慢しなければなりません。それもたった3軒の敷地を造るためだけに・・・。
これにはそれほど年齢が変らない説明者も、一瞬息を呑みました。
誰も宅地を作ることそのものに反対しているわけではありません。なぜなら自分たちだってその地に宅地を作り家を建て住んでいるのですから。そもそも人間という存在が今や地球には害を為す一番悪い動物でしょうから。人間がすまない方が一番いいのです。しかし今やそういうところはほとんど残っていない。とすると、両者が良い関係で住みあう、里山・・・それが見直されているのはそのせいです。
洞門山あたりに昔から住んでいる人は、それぞれが一軒か数軒ずつ、出来るだけ自然を壊さないようにしながらそこに住まわせてもらう形で住んでいるのです。ですから細い階段を上ったり、車が入らなかったり、不便な点も多いのでしょう。それを承知で住み、どうしても壊すことになった自然をまた、復元するような配慮をしながら、静かにひっそりと住んでいる、というような棲み方をしているのです。それがこの辺りの魅力になり、若い人もそこに呼び込まれているように思われます。ところが今度の計画はそれと全然違い、大々的に山(と呼んでいるだけで細長い林状の丘に過ぎない)を切り崩す(大木を切り土砂を大量に運び出す)というやり方です。それが許せないということが判っていないのです。
とにかく説明としては前回同様何も進展なし。ガス抜きの説明会ではなく、実質的な会にするために今度はK氏とその名義を変えた相手の人か会社が出てくるように、しっかり伝えて次回も開くようにということを伝えて会は予定時間を越えて終了しました。
見通しは悲観的ではなくなった感はありますが、現実は厳しいものであることには変りありません。
とりあえず反対の陳情を行政に提出するために署名を始めることになりました。もしこの趣旨に賛成してくださり、協力してくださる方がいらっしゃいましたら、私の方にご連絡ください。一枚10名の用紙をお送りいたしますので、よろしくお願いします。では一応これまで。
2008年10月11日
民藝公演『海鳴り』(紀伊国屋サザンシアター)
原作=藤沢周平、脚本=吉永仁郎、演出=高橋清祐
舞台は江戸時代の化政期、日本橋、深川、両国、本所などの市中。主人公は紙問屋の主ということからも判るように近松の世話物、心中物を思わせる世界であるが、なかなか迫力があり、現代性を感じさせられる芝居であった。
幕はなく、舞台装置も特別になく、海鳴りを思わせる不気味な音響によって始まる舞台(海鳴りは嵐の前兆である。主人公が江戸に奉公に出る途中で聞いたという伏線あり。その未来を暗示する言葉であるが、もっと深い意味を持たせているとも考えられる)には奥に弧を描くようにパノラマスクリーン、真ん中をすっぽり空けた両側には三枚ずつの黒いボードが遠近を持って並べられ、それを場面毎に黒子が敏捷に動かして様々な場面を作るのである。
スクリーンは、荒れた海辺となり、江戸の街並みとなり、また満開の桜堤、また急な夕立なども通行人たちの巧みな演技によって浮世絵のような光景が映し出される。左右に並べられたボードの間は、あるときは商家の部屋部屋、料亭や宿、または街道が、帳場格子や長火鉢や竈、軒行灯や茶屋の腰掛、小道具が置かれることによって場面が設定され、作り付けでないだけに小刻みな筋の展開が可能になるのであろう。
粗筋は、下積みから身をおこしひたすら真面目に働いてきた紙問屋の新兵衛(西川 明)が、あることから同業者の女房おこう(日色ともゑ)と知り合い、偶然の成り行きもあって、しだいに恋心を抱くようになるという設定。40半ばと30を過ぎた、当時としてはもう互いに老いが近い、それまでは制度上からも恋心などというものを思ったこともない真面目一方の二人の初恋に似た純愛物語である。もちろんこれの成就は、不義密通で獄門物である。しかしこれが近松の世話物とはならないところに藤沢周平の緻密な創作方法とまたそれへの人気があるのではないだろうか。
江戸時代は、すでに高度な経済社会、消費社会であって、そこに江戸文化が栄えたのであるが、「紙」というのも現代と同様に商業上重要な産物であって、それを生産、売りさばく機構は紙問屋を頂点として、その下に仲買があり、その下に紙漉きの職人たちがいる。それは今の会社組織と類似していて、問屋の中にも有力な少数と中小の幾つか、互いに競争し、合併があり浮き沈み、転落があり成り上りがある。
すなわちこここに現代社会と通じるものがある。この舞台は紙問屋の大店たちが仲買を通さずに直接紙漉きから上納させようとの画策があり、その寄り合いの場面から始まるのだが、それに対して新興紙問屋(仲買人からはじめ、紙漉き職人のことも良く知る)の、真面目な新兵衛が、異を唱えようという背景があり、また相手のおこうがその敵側の大店の女房という事で、しだいに二人は追い詰められていくのだが、それもサスペンスに似た展開がある。
近松の「心中天の網島」の主人公の治兵衛も紙屋であるが、その不始末の原因は、ただただ男の浮気と弱気が主な要因で、封建社会での組織上の不合理とは何の関係もない。ただその締め付けから逸脱しようとする人間としての情愛への眼差しがあるだけである。
また裕福で幸せそうにもみえる新兵衛の家庭も着飾って出歩くばかりの女房とは口もきかず、長男は放蕩三昧という隙間風だらけ、(長女だけがけなげで希望を感じさせる)今のモーレツ出世社員の家庭を思い出させる。
一方おこうの子どもが出来ない事から石女と姑からはいじめられ、しかも夫が外に生ませた男の子を跡取りの養子にという不理尽に耐えている。
寄り合いの帰り道、無理に酒を勧められて気分を悪くしているおこうを介抱して、止むを得ず連れ込み宿に一時寝かせてもらい介抱したそれを目撃され、実に覚えはないものの蛇のような男(紙問屋ではあるものの零落して夜逃げ寸前)に強請られそれが高じて、最後はもみ合いのさなかに脳卒中で死んだことから、結果として二人は駆け落ちということになるのであるが、結局はその事件の発端が二人の恋心に火をつけ、しだいに掻き立てることになる。
もう一つ、近松と違う事は、相方である女性のおこうである。
自分一人だけ身をくらませてしまいおこうをそのままに、と思う男に対して、一緒に行くというのは当然かもしれないものの、しだいに強くなっていくのである。それは男が遠い見通しを持たねば生きられないところがあるのに対して、一瞬を生きることに長けている傾向にある女の強さをうまく表現している感じがした。偽の関所の通行手形も用意し、また行く先も自分の乳母の里という水戸に変える。追っての目をくらませるためにはその方が良い。現実的な手を考え、生きられるだけ生きましょうと言う。
幻として晒し者になった心中者姿を時々映し出しながらも、最後は荒れた海をバックに舞台に二人の旅姿が現れ船出を知らせる声に向う情景で終わる。海鳴りが一際強くなる。
民藝の舞台には珍しく、ブラボーという声が2声もあがった。
2008年09月30日
洞門山破壊(つづき)
最後に、私の発言を入れて、この項目は終わりです。
先ず、この土地の古い大地主であるK氏であれば、その土地への愛着は強くまた大切に思っていらっしゃるにちがいないと思いますが、いかがですか? の問いを、YES NO で答えてください(直接本人から聞きたいが、それに代わって全権を委譲されていると言っているあなた方に)と訊ねた後。
それでは、ここの風景、雰囲気のシンボルのように見られ、映画でもまた文学上にも登場している地を壊す事について、どういう気持ちを持っていますか。それに代わる何かヴィジョンをお持ちなのですか、それをお聞かせくださいと言い、そこが描かれている作品を一例としてここで朗読させていただきます、と提案しました。
もっといい例があるかもしれませんが、最近出たヴィジュアル新書『「鎌倉百人一首」を歩く』(集英社・2008.5.21)著者:尾崎左永子(鎌倉ペンクラブの会員たちが、鎌倉で詠んだ古今の短歌を集めたもの)、この辺の本屋ではガイドブックの一つとして平積みになっている、の中から、その辺りを描写した部分(短歌に尾崎さんが解説していて、そこに出てくる)があったので、それを読みました。(コピーも20部作りましたが、これでは到底足りませんでした)
それをここに掲載してみます。
短歌は、石原吉郎さんのです。私は詩人としてしか知らず、『北鎌倉』というのは詩集とばかり思っていたのに歌集だったのですね。
「鎌倉の北かまくらの夕みどり触るるにとほき肩をもつ人
石原吉郎
横須賀線が大船を出て、東海道線の鉄路と分岐し、町屋の間をしばらく走ると、あたりに急に緑が多くなる。山がいくつも見えてくる。夕日の反照に光っていた線路も、急に山陰に入って銀いろに変る。そして電車は片側の細長い駅廊に滑り込んでいく。北鎌倉である。木の柵の向こうに細い道、そして駅に近いのに静寂を保つ家々。「北鎌倉」の駅名は「鎌倉」とちょっと異なる響きがある。小津安二郎のモノクロ映画に登場した時代とほとんど変らない、独特の雰囲気をもつ。円覚寺、明月院、東慶寺、長寿寺、多くの名刹に囲まれた、寂かなたたずまいの町である。人が大声を立てて笑い転げるような喧騒な町とは無縁にみえる。夕ぐれの青葉若葉、日陰、山陰、木陰、どこにでも陰がある。しっとりと、北鎌倉の雰囲気を、この歌はよく表している。そして、愛していても告白をためらわせ、近付こうと思っても何か気後れさせる、美しい女人。育ちのよさは品格でもあり、生まれつきの威厳でもある。・・・(後略)・・・ 」
最初の問いと朗読の間に、向こうがどう答えたか、覚えていません。やはり上がっていましたし、時間もないので急いで朗読しなければと思ったし・・・。でもここに描かれているような「山々」も実は線路側から見れば山ですが、手前は開発されて緑は屏風に過ぎなくなっている現在、このシンボル的な駅前の緑を破壊する事は、大きな一撃を加えるようなものだという意見だけは述べたかったのでした。
世界遺産の登録を考えていると言う鎌倉市、とんでもない事、そんな資格、品格などないではないかと思ってしまいます。
2008年09月29日
洞門山破壊説明会
23日(日)の6時から始まったこの説明会は、雨模様の雲の下、急に寒さに襲われた日でしたが、会場は人であふれ、その熱気で上着を脱いでしまうほどでした。これほど人が集まった事はなかったと、司会をした人は言っていました。50脚ほど並べられた椅子も足りなくなって、横にも後にも人はひしめき扉は開け放ったままになりました。
説明側のプリントも足りなくなったようです(これも社員が3人もいるのだから誰かが走って行ってコピーをしてくればいいことなのに、などと最後にはからかわれる程でしたが)。私は10分ほど早く行ったので座れましたが、開催時間間際に、どっと人は集ってきたのです。この地に住んで古い人、新しい人、老若男女、小さな子ども、ワンちゃんも(?)一匹いたようです。
参集者の意識も見識も高く、業者はしだいにたじたじとなり、まだ市の開発許可は下りていないようなので希望が持てそうな雰囲気でした。
結果を先ず報告すると、地権者であるK氏(近くに居住しているのだから、いま連れて来て下さいという声も)が顔をみせていない(自分たちが全権を任されていると最初は言ってましたが、色々突っ込まれて返答に窮していました)、そして説明も調査も不十分な(これもただ地図上に線を引いただけの図面、素人にはちんぷんかんぷんの細かな設計図など12枚)、また何よりも設計者(説明している会社)がこの地の環境・風景における重要性について何も知らないということが、質問者の様々な突込みによって明らかになり(彼らも終わり頃になるとそれが少しは認識するようになったようで、この説明会も皆様の意見をうかがうという内容であることに、なって行ったようです)と言う事で、全面的に工事着工(部分的にも色々質問あり、指摘、提言は出たものの)に反対が、総意であることをK氏に伝え(この会場の発言は録音してK氏に渡すと司会から提言されている)、近いうちに改めて会合を持つこと(その日取りも決めさせようとしましたが)、その時はK氏が必ず顔を見せること(話の中で、実はもうこの土地はK氏が誰かに売ってしまい、しかしまだ名義はK氏であるらしい、問題になるところによくやる手)、そしてここは風致地区であるため(樹を一本切る事も届出が必要)市の担当職員も立会いの下、話し合うことと言う満場一致の決議に至りました。
これを設けたのはもちろんK氏依頼による施工会社ですが(大手の会社は、事情を知っているので、またもめる事は承知しているので引き受けない。聞いたこともない小さな会社です)、彼らも仕事を取ること、また生活もかかっているので必死でしょう。ですからそういう人たちに向かって色々言っても空気に話をしていると同じなので(発言の言葉)ちゃんとした地権者と(金銭的に何とかしたいなら、それを市に買い取ってもらうとか何とか、いろいろ腹を割って住民と話し合うことだと)向かい合う必要がある、そこを壊す理由、信念、ヴィジョンなども。また風致保存地域であり、歴史的な風景、市側(建設課、緑課、など縦割りで横の連絡がないので、個別の許可でミックスされて許可が出る可能性あり)の立会いも必要。
この会の進行をしたのは、「町づくり協議会」の会長とこの地の町内会長です。
町内会長が、好々亭の主人である事をしり、ほっとしました。廃業したと言っても、この山の所有者と組んで開発側に回ったのではないかと心配したからです。
あの赤トンネルは、やはり手掘りで昭和10年ごろお祖父さん(父?)が掘ったもので(その人はとても変わり者だったといい、料亭にしたのはその後と言う事らしい)、それを自分が壊すわけには行かない。壊させないと言っていました。会場では「山の内瓜ヶ谷の戦後の原風景の聞き語り」をしているグループのチラシを貰ったり、台峯を歩く会の人も来ていましたし、多くの人たちが立ち上がっているので、何とかここは守れるのではないかと思い、少し安心しました。
この「町づくり」会長さんにより、会社が示せなかった開発が施工された時の風景図面のパノラマが示され、第1期工事,第2期工事と、どうなっていくかを見せてくれました。そして大きな二つの質問をした後に皆もいろいろ質問したのですが、それぞれに義憤を持って集った人ばかりであるため、誰もが発言したいようで、発言する隙がなかなかありませんでしたが、私も終わりごろ一応発言してきました。それをこの次にここに入れることにします。
実は私はこの区域に隣接して住んでいるのではありません。駅から歩いて峠に至り、少し下ったところにあり、旧鎌倉とは少し違います。まあ周辺部だといっていでしょう(だから住めたということでしょう)。でもこの頭上を大きく開発したのが同じK氏です。会場で知ったのですが、やはりそのK氏で、名前が違っているのは、その息子であることを誰かが訊いて分り、その時発言者が「ああ、やはりそうですか」と言って笑いが起こったのは、血は争えないと言うか、政治家も世襲が流行りですが、開発もやはり世襲のようです。では今日はこれまで。
2008年09月27日
洞門山の破壊について
洞門山が無くなるかもしれないので、雨が上がった日に写真を撮ってきました。ほぼ全景を線路をはさんで両側から。近くからは赤いトンネル、たとえここが〈交渉の結果〉残されるとしても、埋められてしまい、入口から望める明るい出口の眺めはなくなるでしょう。穴を失ったトンネルは、穴のない竹輪が竹輪でなくなるようにトンネルではありません。確かこのトンネルは、手掘りと読んだ事があります。トンネルの出口は細い道に通じていて、そこを渡って小路に入った奥の方に好々亭があるので、お客が訪れやすいように主人がコツコツと掘ったと聞いています(?)。青の洞門ですね!これは確かではないけれど、大型機械ではないと思います。
その並びにある赤いお稲荷さんの祠も撮りました。ここにはまだ榊が供えられ、白い小さなお狐さまも何匹か飾られていました。ああ、お狐様、このお山をお守りください!
この辺りの岩は柔らかく掘りやすいので、ここも岩をくりぬいたものでしょう。血で血を洗う合戦や権力争いの果ての死者が累々と眠るこの地で、崖にやぐらと呼ばれる横穴が墓場や土牢として多く使われてきたのも、そういう岩の質だからでしょう。
好々亭にも入って見ましたが、確かにもう廃業して、荒廃していました。人の手が入らないとたちまちこんな風に荒れてしまうのかと愕然としました。
引きかえし線路側に出てくると、そこに開発の計画図と、説明会の日時が書かれた立て札が出ていました。
そして今日、出かける予定があるので、駅に出たのですが、その立て札は写真にとらなかったのでカメラを持って行き、それにレンズを向けていると、男の人が寄ってきて、「ここが崩されるのですか」という。この辺の人ではないようです。「そうですよ」というと、でも「道がないではないですか」という。たしかにここには車が出入りする道がないのです。線路沿いの道は、自転車がすれ違うのがやっと、車は一方通行です。「トンネルの向こうにも道があるのですが」といって気がつくと、その道も車一台がやっとの細い道で、それは緩い上り坂になり八雲神社から円覚寺に通じるいっそう細い道になって行く。「道がないのにどういう風にして切り崩すのだろう」とその人は首をひねっていました。
すなわちこの洞門山と言うのは、好々亭を含むひっそりした家々と線路との間に立っている緑の屏風のような小山なのです。それをたった3区画(?)の宅地のために、崩してしまおうと言うのですから、理解に苦しみます。
そもそもこの辺の緑と言うのは、もうすべて屏風のように奥行きのない物になってしまっています。私がここに来てからも次々とそうなって行くのを眺めてきました。そして今度はいよいよ、駅近くの玄関口ともいえるここをコンクリートの崖にしようというのです。
駅への道に、やっと『洞門山を無謀な開発から守ろう』と、私も貰ったチラシを板に張った立て札が2本立ちました。昨日ゴミ当番表を回しにきた同じ町内のファンタジー作家のTさんにもこのことを言うと「知らなかった」といい憤慨していました。
「開発」と言う語には、プラスのイメージがあります。開発をする側にはその意識があるでしょうが、私はそうは思わないので「破壊」と言う語を使うことにします。
とにかく明日の夕方から公会堂で説明会(この語にも私は疑問を感じますが)がありますので、それを聞いてくるつもりです。ではまた。
2008年09月14日
虫の声・ミンミンその後
蝉の声にかわり夜になると虫の声が聞こえるようになり、秋を感じます。猛暑が長々とつづいた或る日、急に肌寒いくらいになり、しかしまた残暑がぶり返すなど、害毒を流し続ける人間を翻弄するような気象が続きますが、やはり地球はゆっくりと回っていて、季節は巡ってくるようです。
先にミンミンが鳴かず、少ないなどと書きましたが、その後同様の知らせを聞いたり、しかし所によってはそんな事はないとも、また例年より多いようだと言う人もあり、地域・場所によるようです。
そのミンミンが、急に涼しくなって雨模様になった頃から、ここではむしろ盛夏の時のようによく鳴きだしたのです。そして真夏日になった一昨日、駅に至る道を歩いていたらまだ盛んに鳴いていたのです。ツクツクボウシよりも盛んに・・・。ヒグラシは鳴かなくなりました。
これらから考えるに、この辺は夏に入ってからほとんど雨がなかったので、(都内や横浜に集中豪雨・大雨が降ったときでも、遠くにゴロゴロいう音が聞こえるだけでなかなか雨が降らなかったのでした。)蝉が地面から出てこれなかった〈地面が固くなって)のではないか、と情報を寄せてくれた人の意見に今は頷いているところです。
それで晩夏になって、やっと姿を現したのでは? と素人解釈して少し安心していますが。
今日は台風の影響で曇り空ですが蒸し暑い日になりました。
以上ご報告まで。
2008年08月02日
小澤征爾音楽塾 特別演奏会 喜歌劇「こうもり」
これに行くのは去年に続いて2回目である。
去年は歌劇「カルメン」であった。
小澤征爾提唱のプロジェクトで、オーディションに合格した若い演奏家たちを集め、各パートの一流音楽家たちを招いての一ヶ月間の集中練習によって仕上げ、公演にこぎつけるというもの。もちろん指揮は小澤の直接指導である。若い息吹と才能が感じられる、楽しく気持の良いものだったので今年も出かける事にした。
確かTVで、中国の若手の天才ピアニストと共演するための集中指導を密着撮影した番組があって、天才同士のツーカーぶりの練習光景に驚嘆した記憶があるが、そんな風に作り上げたものであろう。
指揮は、昨年と同じ鬼原良尚 20歳の若さである(帰って自分のブログを見ると確かに去年は19歳であった)。
喜歌劇「こうもり」は、「オペレッタの王様」といわれているヨハン・シュトラウス�世作曲の、たった42日間で仕上げたといわれている作品ながら、完成度が高くウインナ・オペレッタの中でも最高峰といわれている。とにかく優雅で軽快なウインナ・ワルツの旋律が全編を彩り(耳になじみの旋律も多かった)、まさに夏の夜の夢、の楽しさに満ちたものだった。(しかし舞台の時間はは大晦日であるが)
オペレッタと言っても豪華な舞台ではなく、オーケストラ&合唱団による、しかしオケの背後は舞台になっていて、そこでチャンと衣装を着けた歌い手が演じるわけで、侯爵家の舞踏会が多くを占めるので結構華やかで、楽しく美しいのだった。チケット料も手ごろで、近いということもあって私にはこれで十分である。
若く、きらきらした才能の数々、また幕間に姿を見せて話をした小澤さんの、変わらぬエネルギッシュで情熱的な姿にも感嘆し、少し元気をもらった感じがしたけれど、帰ってくるとぐったりしてしまった。
今日もいろいろ感想など書きたかったけれど、もう疲れました。
さて、ミンミンですが、確かに鳴き始めましたが、この庭では朝暫く鳴いたと思っていたらそのうち鳴かなくなってしまうのです。この周囲の地面に何かがあったのかなあ。カナカナばかりが多い。
2008年07月29日
ミンミンやっと鳴き出しましたが・・
今朝、みんみん蝉が鳴き出したようです。でも何か心もとない感じもします。実は少し前にも一度声を聞いたようで、直ぐ鳴かなくなってしまったのです。
とにかくご報告まで。
2008年07月28日
真夏の祈り「ヴェルディ・レクイエム」の演奏会
連日、真夏日・熱帯夜が続いて、少々夏バテ気味です。
一雨あればと思っても降らない。しかし内陸では突風や大雨や、日本海側では洪水になって、死者まで出ているようで異常な夏。そういえばもう鳴いてもいいミンミンの声がしないのです。カナカナはかなり前から鳴いていて、その上なぜかツクツクの方が鳴きだしているのです。と思っていたら、今日、友人からの電話の中で、蝉が鳴きませんねと。皆さん所ではどうでしょうか。
サントリー・大ホールでのヴェルディ・レクイエム特別演奏会に行って来ました。アフター5でアマチュア合唱に力を入れている友人が、合唱団として出演するからです。努力の甲斐あって、だんだん難しい曲をこなすようになり、そして大きなホールにも出演するようになり、しかもプロのソロの歌手、管弦楽団と組んでなので、いつも楽しませてもらっています。
最初は景気付けという感じの『威風堂々』、次に本命のレクイエムでしたが、ヴェルディのは「三大レクイエム」といわれる、有名なモーツアルトとフォーレに次ぐ一つであることを私は初めて知りました。
何しろ大作で、演奏時間は90分、休憩をはさみ2部構成となります。
昨年の「東京カテドラル聖マリア大聖堂」でのヘンデル:メサイアのときも、会場としてなかなかいい雰囲気でしたが、今回もやはりヴェルディにふさわしい会場です。合唱団も、5つの合唱団がプロジェクトを組んでヴェルディ・レクイエム合唱団として編成されたもので、250人余り大合唱団。オルガンを背景に半円に段差がついた管弦楽の舞台との間の(確かこれは客席にもなる思える)空間にずらりと並んでおり、レクイエムですので皆黒衣、女性は薄くて白く長いマフラーを巻いた、それら姿は赤いシートにも映えて視覚的にも美しい。
ソロの歌い手は、合唱団と管弦楽団の間に場所を占めています。
指揮は小松一彦
ソプラノ:佐々木典子 メゾ・ソプラノ:岩森美里
テノール:中鉢 聡 バリトン:福島明也
合唱指導:久保田洋 小屋敷真
管弦楽:フイルハーモニックアンサンブル管弦楽団
この曲は、最初は亡くなった偉大な同郷の作曲家ロッシーニーの追悼のためにかかれたもので、しかしこれが興行上の理由から中止になってしまい、その後敬愛するイタリアの詩人アレッサンドロ・マンゾーニの不慮の死に遭って、今度こそとこのレクイエムを捧げる事にしたのだそう。二人への哀悼の気持がこもり、しかも60才を超えた晩年の作だけあって音楽的な完成度も高いという。
はじめはチェロによる聴こえるか聴こえないような響きからはじまり、次に又静かな、つぶやくようなコーラス、そしてコーラスだけのフーガ、といった始まり方をするこの曲、そしてソロがそれぞれに場面に応じてアリアのような歌声で歌い上げ、又それとコーラスのさまざまな絡み合いなどから、全体的な印象としても、やはりオペラを感じさせ劇的で、又先の二つより近代的なものに感じられた。解説によればブラームスが「これこそ天才の作品」といい、初演のときも「モーツアルトのレクイエム以来の傑作」と評判と同時に「教会音楽に相応しくない」とも言われたのもなるほどと思う。
私は2階席の左側だったが、まさに演奏の只中でちょうど真後ろからトランペットが鳴り始めたのにはびっくりした。これはバンダというステージの外からも演奏する一つの技法だったのである。客席の上方の左右から、ファンファーレが鳴り渡るのであった。
さまざまな技法を使ってドラマチックでスケールの大きい大作、こちらがそれをしっかり受け止めるほどのものを持っていない悲しさはあるけれど、十分に楽しく、帰ってくるとやはり暑さもあってちょっと疲れた一日でした。
Tさんも大役をおえてほっとしたと同時にぐったりしているのではないかしら。でもまだ若いから、次のステップに向けてもう心は歩きだしているかも・・・・
2008年07月09日
民藝公演 『プライスー代償ー』を観る
「セールスマンの死」などで知られるアーサー・ミラーの作品。
これも同様、1929年米国を襲った大恐慌後の社会を、一家族の姿を通して描いたものである。(ミラーの父親の会社も倒産した)
一代で財を築き成功者として豊かなブルジョア生活を送っていた父親は一夜にして破産、その後父親が亡くなり、遺された家具を処分するために別々の人生を送っていた兄弟が16年振りに再会する。そしてそこで自分自身、家族、そしてそれを通して経済で動いていく社会というのがあぶりだされてくるといった、心にずしりと来る舞台であった。
互いにすでに娘と息子をそれぞれ一人ずつ持っていて独立もしているという、人生の締めくくりの年齢だが、無気力になって働く事も出来なくなった父の面倒を見ながら、進学も諦め地元で慎ましく警察官を続けた弟は、家を出て希望する医学の勉強を続けて医者として成功した兄に対して抑え難い感情があり、二人の溝は深い。弟の妻は兄弟を仲直りさせようとするが、古家具という遺産を前にして(舞台の真ん中には父親の象徴のように皮製の大きな安楽椅子がおかれている)、当時は見えてなかった真相や互いの思い違いや行き違いが、かえって露呈されて、いまは妻と別れている兄の歩み寄ろうとする気持も、結局逆効果になる。結局は、どんな経緯があろうと、それは各自が選んだ道でありそれを引き受けるしかない。互いに積年の感情を吐き出した後、安易な和解というのではなく、それぞれに、というより弟は、新たに歩みだしていくのである。
THE PRICE は、遺された家具を丸ごと売ろうとして呼んだ古物商がつける値段でもあり、それに絡めて一人の人間の値段、又はこの世で支払わなくてはならない自らの代償、代価という意味となり、ここでは代償と訳されている。
登場人物は、たった四人。ビクター(弟=西川 明) エスター(その妻=河野しずか) ソロモン(古物商=里居正美 ) ウォルター(兄=三浦 威)、この少数の演技者の台詞だけで2時間強を持たせるのはやはり役者だけでなく脚本の構成と会話の力によるところが大きいだろう。(現実には昼食の後だったせいもあって、時々眠気に襲われたりもしたが・・・)
深刻な内容だが、それを茶化すような、時にはしゃしゃり出て邪魔するような古物商の存在が大きい。ちょうどギリシャ悲劇に不可欠の道化のようなもの。ソロモンという名前もそれを暗示しているようだ。
里居さんの、サンタクロースも顔負けなほどの真っ白い豊かな髭が見事である。本物かと質問されるというが、本物で、これに備えて伸ばし手入れしていたそうである。役柄つくりに最初戸惑ったという。確かに不思議な人物で、正体が掴めない。でもあの道化と考えれば理屈では理解できる。愚かでふざけた行為や言葉を発しながら、神のような視点を持ち予言をする。
実は、これは本邦初演だという。解説によると、その当時(1968年頃)、オーソドックスな演劇様式によって作られたこれは時代遅れと見られ、アーサー・ミラーも古い世代の劇作家と思われていたのだという。舞台一杯に積み上げられた豊かな時代を象徴するような重厚な古家具類、一度は置き場所もないと嫌われたそれらも、その当時でも値が上がってきていると古物商が言うが、今ではもっと珍重され見直されている。その戯曲もそれから40年経った今、少しも古くないのである。
むしろ「家族のあり方、夫婦の絆。それらに絡む金銭の問題。1968年の米国社会が、バブル崩壊後の日本のいまの社会と重なって見えてくる。予言書のような作品だ」(朝田富次ー月刊「民藝の仲間」)というように民藝らしい舞台であった。しかし入りは良くなく、空席もある。やはりスターが出なければ、このようなものである。劇団を保ち続けるというのも大変である。
私も「仲間の会」に入っていなければ観に来なかったかもしれない。又このような内容をずしりと受け止めるのは、私自身が自らの人生のプライスは・・・と考えさせられる年齢になっているからだと思う。そんなことまでいろいろ考えさせられた。
2008年04月10日
ホイアン[会安]の印象
会安 [ホイアン]
南北弓なりに細長くのびた国土の
片側すべてが海に面しているベトナム
二期作 三期作の 青く広々とした田んぼで
水牛を曳く菅笠姿の村人たちの面ざしは
どこか古い日本の風景を思い出させる
朱印船のころ日本人町があった
古い港町 ホイアン
東南アジアでさかんに交易していた日本商人の
各地で造った日本人町は すべて破壊されたが
ここだけは 痕跡が残された
日本人の手になるという屋根のついた日本橋
後に改修されて来遠橋と名づけられたが
たずさわった日本人名はちゃんと刻まれていて
「来遠」の由来は「朋あり遠方より来る
また楽しからずや」の『論語』からきたもの
ホイアン[会安] という地名の響きは
やさしく やわらかで
勝手に語釈すれば 訪れた人を
ゆったりと受け入れ 安心させてくれる
この町のふところの深さを
なんと うまく表したものではないか
今ここは 世界遺産となり
たくさんの人々が集りつどい
古い時間を巡りながら
セピア色の土ぼこりを巻きあげている
日本人の墓も守られているが
大戦中に日本軍が中国人を殺戮した
記念碑もまたあって
ゆっくりと 時は流れていく
2008年04月05日
民藝公演『浅草物語』
このあたり桜はもう満開、花吹雪である。隅田堤、すなわち墨堤も今日明日と花見の人で賑わうことだろう。こういう花見の習慣は江戸期からのようだ。
先日、『浅草物語』(小旗欣治作)を見てきた。これは小旗さんの実家(綿屋)をモデルに昭和の東京下町浅草界隈の庶民の生活の哀歓を描いた物語である。戦争に突入していくまでの平穏でつつましく小さな陽だまりのような平和な暮らし、これらは東京大空襲によって壊滅させられてしまう。懐かしのメロディーといってしまえばそれまでだが、戦争への危機は今なお続いており、世の中の急速な発展に振り回され油断すれば弾き飛ばされてしまいそうで心休まらない昨今、昭和という時代、特に大戦以前が一種の郷愁のように思い返されるのかもしれない。
還暦を過ぎた隠居の身のおじいちゃん(大滝秀治)が結婚したいと言い出す騒ぎを中心に、その綿屋の堅実な家族(夫を失い懸命に子を育て店を切り盛りしてきた妻を、日色ともゑ)、浅草十二階下カフェーのママ(奈良岡朋子)などといった配役で、赤紙が来たという赤子の時に手放してしまった息子との対面(?)という多少のドラマと泣かせどころを含みながら、当時の暮らしが舞台に再現される。吉原も隣接し、カフェのママの前歴もまたおじいちゃんが結婚すると言い出した相手も花魁上がりである。
浅草は当時大衆芸能の発祥の地であったが、文学においても下町界隈は、そういう面を持っていた。山の手文学があるように下町の文学がある。芥川龍之介をはじめとして隅田川、すなわち大川のあたりは当時の文学者をひきつけるものがあって、生地ではないが永井荷風がこの辺をうろついた事は言うまでもなく、多くが魅せられている。太宰もこの地で女義太夫に熱を上げたとかどうととか。いかにも西洋風でモダンな立原道造は本所生まれの箱物屋の息子、この伝統はやはり壊滅させられたはずの今日にまで続いていて、最近では吉岡実、会田綱雄、辻征夫などもそうである。
江戸期からの文化が淀んだ土地、そういう成熟というか腐敗に近いところからそれらを堆肥として文学の芽が育つところもある。パリがそうであるように。
私は地方出身なので、それらからは遠い。しかし東京に出てきて、最初に勤めたのがこの界隈だったので、少しだけその香りをかいだ。その頃はまだ東京はただ西に伸びりことに懸命であった時期、何の整備もなされていないようで、汚く侘しげな場末の感がした。まだ都電が走っていた頃で、本郷三丁目辺りから延々と路面電車に乗って、上野や浅草、吾妻橋を渡り、寺島まで通ったのである。今また江戸の文化それに伴って下町の文化も若者たちに見直されいるようだが、西洋などの下町と違って何かしら侘しくはかない気がするのは、私の心の在り様ゆゑだろうか。
2008年03月28日
「ベトナム&チャンパの旅」
19日から一週間ほどベトナムへ旅をしてきました。
これは「ホリナータ」というヨーガグループを主宰なさる堀之内博子先生ご夫妻の企画によるもので、私はまだ新参者ですが参加してきました。修行を経ていっそう静かな美しさを内に湛えられている女神のような博子先生とそれを支えられるシタール奏者である幸二先生のご尽力、何度も下見をした末の特選の旅であったようで、各地の最高級のホテルと吟味されたレストランに、これからは決して味わえないだろうという思いの満足感に堪能し、まだ夢見心地と旅の疲れから抜けきれずぼんやりと過ごしています。一行は30人もいたのですが、皆ユニークな人たちで楽しくつつがなく旅を終えることが出来ました。
ツアーの内容は、ヨーガという性格からベトナムというよりはベトナムに残っている(滅ぼされた)インド文化であるチャンパ(現在残っている少数民族のチャム族の祖先)王国の遺跡を巡る旅だといっていいでしょう。
最初の日はダナン泊(ホーチミン経由)、次にインドの神々の像が収蔵されているチャム博物館を見た後、ホイアンへバスで行き、そこでゆったりと3泊。世界遺産にもなったホイアンは、当時世界的な貿易港であり(後ダナンにその役割を奪われたがそのために、古いものがそのまま残ったといえる。)、日本とは大変関わりが深く、御朱印船貿易の時代日本人町があり、珍しい形をした日本橋もあり、その後は中国人、すなわち華橋に独占されるに至ったが、かれらの古い建物も今では文化遺産として名所となっている。
ここでのホテル(旧市街からは少し離れたリゾート地にある)も素晴しいものだった。河に面した瀟洒なホテルの背後は白砂がつづく南シナ海へとひろがり、連なる椰子の木の下にはニッパ椰子で葺いた傘のような日覆いが並び。ホテル内にあるプールの周りにはゆったりと昼寝用の寝椅子がいくつもピーチパラソルの下で待ち構えている。海風を一杯に入れたレストラン、いたるところに蘭を根付かせたりもして熱帯の樹木、ハイビスカスをはじめ色とりどりの花。部屋部屋を結ぶのは洒落た小路であり、ブテックもエステもあり、部屋は床はもちろん調度品、天井に至るまで凝った木組み細工であしらわれた、上品でハイセンスな落ち着きのある部屋は、スイートルームではなかろうかと思われるほどの素敵な造りだった。どこに行かないでもここで暫く滞在するだけでもいいと思わされるくらい、ほっと心やすらぐ部屋であり環境であった。
それらに浸り、安らぎながら思うのであった。ベトナムという国は亜熱帯と熱帯であるから、とにかく草も花も動物も魚も湧き出るように生育する、すなわち美味しい食料は豊富である。そしてこの地の人間は、個性の強い西洋人と比べて温和で物静かで、従順である。やってきたフランス人が、この地でいま私が味わっているような生活を日常のものとして手に入れたがった気持が分るような気がする。だから植民地にしたかった。それを手放したくなかったのだろうなあ・・・。もちろん貿易とか何とかいろいろな利益のためだろうが心情的にはここでのここでのリゾート的生活が、彼らにはこたえられなかっただろうなあ・・・と。
そういう状況に今じぶんは、単なる観光客としてお金を払ってのことだけれどいる。そういう気分を味わっている。客という主人格として・・。西洋人も多いここにいて、ベトナム戦争を知っている同じ東洋人として複雑な気分にもなるのだった。それほどこのホテルでの生活は優雅で豪奢なものに感じられた。
ここで、初めて誘われて、全身のオイルマッサージなるものを体験した。
ちょっと脇道に逸れましたが、ホイアンでのスケジュールは、先ず翌日朝食後早々にチャンパ王国の聖地ミーソンに行く。ここは簡単に言えば森の樹木や草に埋もれて残る祠堂や神殿が60ほどもある遺跡跡。ここにはシヴァ神が祀られ、ヒンドゥー教を主として仏教と土着信仰の混じりあったものが信仰されていたようである。ベトナム戦争で破壊された跡の生々しいものも多い。そこではチャムの音楽とチャムダンスが時間を限って野外舞台で演奏されていて、日本で言えば国宝級の笛の名手の演奏を聴く。
その日の夜は、これもミーソン行きと並んでこのツアーのメインでもある満月の夜に催されるというランタン祭り(電灯の明かりを消して色とりどりの布で作ったランタンを町中灯して過ごす)を見ながら川辺の料理店で食事。その後町を散策しながら雰囲気を味わう。
翌日は美しいホテルの前のビーチでヨーガ。後は自由にホイアンの旧市街での市場や雑貨店めぐり。昼食には又庭園の美しいホイアン名物料理店で食事など。
次の日は、またダナンからホーチミンに出て、ここでも繁華な市の中心にありながら河に面した絶好の立地にある最高級の高層のホテルに宿泊。ここでもホテル内ではなく最高のベトナム料理店と名高いレストランにちょっとお洒落をして出かけました。
翌日はもう帰途につく日ですが。0時発なので、オプションツアーとしてメコン川クルーズに参加。対岸に渡り、ココナッツ製造所や蜂蜜採集、果樹園ではフルーツの食べ放題、後手漕ぎボートに乗ってニッパ椰子の繁る支流を下って密林の探検気分を味わいながら又船着場に戻る、観光の目玉をも体験。
その後はホテルに戻っていよいと帰国の運びとなりました。
翌朝7時過ぎに成田到着。
お疲れ様。この上ない企画と道中も細かな心遣いで皆を引き連れていってくださった両先生に感謝しつつ、旅がつつがなく終わったことも神々に守られての事と思いなしつつ、旅装を解いています。
2008年02月08日
「ドストエフスキー」ブームについて
ソフトエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」が、50万部を越えるベストセラーになっていて、翻訳本としてはこれまでなかった出来事だという。このような古典の新訳本は若い人の興味を新たに引き出して、村上春樹をはじめいろいろな人がそれぞれ新訳に挑戦して新たな読者を掘り起こしているようだが、長大重厚の見本のような、しかも翻訳本がベストセラーになるのは、やはり不思議な現象である。
その訳者である亀山郁夫氏の話を最近聴いたり見たりすることも多いが、先日のテレビで「罪と罰」についての話を聴いた。その時心に残った言葉がある。
亀山氏によれば、「罪と罰」は最後の童話だという。最後という言葉をもっと聞いてみたかったが、童話という言葉に私はなるほどと思ったのだった。そして前回、「彼岸花はきつねのかんざし」の感想を述べたとき、私はこういう重い出来事(殺人、すなわち戦争、原爆)は、かえってファンタジーのようなものでなければ表せないものがあるのかもしれないといったようなことを言ったが、その気持にどこかフイットするのを感じたからである。
童話、ファンタジーは、リアリズム文学と対照的なものである。リアリズム文学の最盛期である19世紀の代表的な作家であるドフトエフスキーの作品を童話といった真意が判るような気がした。リアリズム文学は現実を写し取ったものである。このバックには自然科学の発達がある。最たる物が自然主義文学で、ゾラなどは科学的な眼による分析で人間社会や人間を捉えようとした。(それゆえにこういう潮流に対して最後といったのであろうか)
自然科学、すなわち理性は、現実しか見ない。その力は強大で文明を急速に発展させた。神を殺し、妖精や物の怪や幽霊など見えないあらゆる物を駆逐した。山や川やそこに暮らす生き物たち、それらと未分化な状態でいた人間は科学的な眼を獲得して、かれらを対象化して、征服していった。
前回でも挙げた「日本人はなぜキツネにだまされなくなったか」にも、それは日本人が文明開化していく時期であったと指摘している。また日本人が騙されていた時でも、やってきたヨーロッパ人は決して騙されなかったという。私も多分、決して騙されないだろう。
「罪と罰」は、殺人が主題である。
亀山氏は、これを中学1年生の時夢中になって読み、あたかも主人公ラスコーリニコフになった気持になったという。だから暫くは警察に目をつけられるのではないかと、怯えた気持ちにさえなったというのである。すなわち主人公にすっぽりと同化したのである。子供向けの絵本にしても物語にしても、読み聞かせをすると子どもたちは眼を輝かせ、すっかりその世界に没入する。そこには現実もファンタジーも同じである。亀山氏は、そういう読み方で「罪と罰」を読んだのであろう。もちろんまだ少年であったということにもよるが、そういう力を作品が持っていたということである。
これは殺人が主題であるが、殺人を描いた物でも、またそこに至る心理を描いた物でも、社会情勢を描いた物でもない。ドキュメントではない。ここでは、人は人を殺してもいいのか、すなわち聖書にある「人を殺すなかれ」はどうして正しいのかを深く問いかけるものである。天才である人間が(そうでなくても人は自分をこの世で一番と考えることから自我が始まる)、世に害を為すだけの醜い人間(高利貸しの老婆)を殺してなぜ悪いのか。それを描こうとするものである。ここには哲学的な宗教的な、現実を越えた問題がある。それをあたかもリアリズム文学のように構成し描いているのである。
今、思いがけないさまざまな殺人があちこちに発生している。「なぜ人を殺してはいけないのですか」という問いが、平然とまかり通っている。それに大人たちはちゃんと答えられるだろうか。汚く臭く人びとに目障りなだけのホームレスなどは、殺した方が世のためになると嘯いて石を投げ、火をつけ、殺しにまで至る少年。こういう時、眼に見える事柄だけで論理的に説明したとしても、納得させることは出来ないだろう。現に民族や国家、宗教規模ではそういう理論がまかり通っているのだから。
そんな時、人を殺してはどうしていけないか、この小説を読むことによって、いわゆるバーチャル体験をすることによって、それが身にしみて判ると亀山氏は言う。だから若い人にこれらをぜひ読んで欲しいという。「カラマーゾフ」は、親殺しである。これも今日の問題でもある。
このことは今のテロについても言えることで、彼らの正義を単なる理論では覆すことは出来なくても、もし彼彼女らがこれを読んだならば、人を殺すことを思いとどまるかもしれない。それだけの力が、多分文学にはあるだろうし、それが言葉の、文学の力だと言っていいかも知れない。そして、今この不安に満ちた危機的な時代、若者たちはただ現実をリアリスチックに描いたものではなく、もっと大きな深い世界を、象徴的に抽象的に、しかもリアリズム文学の手法で描いたこれらに魅かれるのかもしれないと思った。
昔、日本が戦争への道をたどり始めた頃、「描写の後ろには寝ていられない」という、有名な評論が出た。これは緊迫した情勢の中で、のんびりとリアリズムだけに頼る文学に苛立ちを示したものだが、結果としては、プロレタリア革命や戦争反対のスローガンやメッセージとしての文学しか生まれなかったが、これからはどうであろう。
リアリズムだけではもう描けなくなった現代社会、折りしも島田雅彦氏が新しく新聞連載を始めたが、最初の大いなる抱負として、今日のさまざまな問題を今度はファンタジーの手法で書くのだと語っていた。
期待して読んでいる。
2008年01月24日
朽木祥・作『彼岸花はきつねのかんざし』を読む
今年も早々にファンタジーの新作を出された。一昨年、第一作の『かはたれ』で、大賞をはじめ3つもの賞を独り占めなさったが、その後毎年一冊ずつ上梓されている健筆ぶりで感嘆するばかりだ。
前作2冊は福音書店からだが、今回は学研の新・創作シリーズからである。絵は、ささめやゆき氏である。
前2冊も、その感想をここに入れてきたので(`005.10.26と`006.12.17)、今回も書くことにしました。いろいろと考えさせられることがあったからです。
これは、のどかな春の或る日、れんげ畑に寝転がってうとうとしている女の子(也子=かのこ)が、ふと子狐らしきものを見ることから始まり、その後秋までのお話です。それは確かに狐の子どもで、しだいにその子狐と仲良しになっていき、話す言葉も聞こえるようになっていきます。
作者の前作も河童と人との交流が描かれていますが、ここではそれが狐です。ここではただ女の子だけではなく祖母や母、村人たちの狐に化かされる話がたくさん出てきます。昔はそういう話が多くありました。狐だけではなく、狸や狢、人に身近な動物たちに人は化かされていました。この辺りの語り口は民話風で、それゆえに作者の出身地である広島の風習や方言が、もちろん注をつけてですが紹介され、その当時の村の暮らしや遊びの様子が、女の子の目から見た形で楽しくありありと描かれています。これらは私にとっても懐かしい風景であり暮らしです。
そうです、これは今日の話ではなく、60数年前のお話です。
これまでも同様ですが、作者は自然の中での人間と動物の交流をファンタジックに描いているのですが、その底には秘められた意図があります。
作者は原爆2世。詳しいことは聞いていませんが、近しい人にはたくさん体験者があるようです。
このお話は、そのピカドンが落ちるまでの、村のなんでもない、しかし豊かで活き活きしていた日常、狐たちとも当たり前のようにいっしょに暮らしていた日々が語られているのです。
このことを知っている私は、これを読み進むにつれて、少しどきどきしました。いつそれがやってくるだろう・・・と思うからでした。その頃にはもう也子と子狐は鎮守の森や竹林、ひめじょおんの原っぱで遊んだり、とつとつながらお話も出来るようになり、プレゼントをするようにもなっていました。
しかし、とうとうその日がやってきました。
町ではなく在で、しかも鎮守の森と裏の竹やぶが盾のようになっていたため、也子の家の者は幸い皆無事でしたが、町に出かけた者は帰ってはきませんでした。そして也子もプラタナスの木陰にいたために助かったのである。この物語では、その悲惨さについては、もちろんさっとしか書かれてはいません。それで十分でしょう。最期に「おきつねさま」たちが登場する。お母さんをよく化かした、若いおきつねさんは、町に行ったらしく死んで見つかった。子狐は・・・・。その後也子の前には現われませんでした。ただ、地蔵石の前に、也子が欲しいといった白い彼岸花の束が置かれてあったのです。
彼岸花は、死者と交流するお彼岸の季節に咲く花、それを簪にするということからも作者の気持が感じられます。人間よりも動物の方に弱い私は、子狐もピカドンの毒にやられて死んでしまったのではという作者の筆の運びの時にはうっすらと目が潤んでくるのを感じました。
「あとがき」にもあるように、この物語は原爆そのものの悲惨さを訴えようとしたものではないのです。
何が書きたかったといえば、「戦時下のきびしい暮らしの中でも、子どもたちは、元気よくかけまわったり、縁側であやとりしたり、おばあちゃんにお話を聞かせてもらったりしていたのです。・・・・この物語を読んでくださったみなさんと同じように」。「そんなあたりまえの暮らしが奪われることこそが戦争のかなしみなのだと、わたしはいつも考えています」と。そして、戦争とは、一瞬のうちに7万を越える(原爆の死者)の命が失われ、その暮らしや絆が断たれることです。
その暮らしを日常を絆を、甦らすことで、そのレベルから原爆とは戦争とはどういうものかを、考えてもらいたいという気持があるのだと思いました。
これを読む少し前に、私はTVで「世田谷一家殺害 7年目 闇と光」をみました。正月を控えた30日、理由もなく一家4人が惨殺された事件です。今だもって犯人は捕まらず動機も考えられないという事件ですが、その一家は、紹介されている限り仲睦まじい(たくさん一家の写真がある)、羨ましいような家族で、恨みを買いそうにもないのですが、ここではその事件そのものではなく、2所帯住宅の隣に住み家族ぐるみで仲良く付き合っていた、奥さんの妹に焦点が当てられていました。
これまで密接に付き合い、暮らしを共にしてきたような姉夫婦と幼い子どもたちが、数時間の間に、突然理由もなく皆殺しにされ、その目撃者となる。その驚愕と喪失の悲しみ、後悔(なぜ隣にいながら助けることが出来なかったか)は想像に余りあります。もちろん殺された者の無念は当然ですが、残されたものはその悲しみと無念さを一生重たい荷として背負うことになります。そこからいかに立ち直って行ったかが、たどられていました。なぜ?という思い。不条理ともいいたくなるような状況の中に、想像の上でも自分を置いてみるとその重たさが分ります。
彼女は、周囲の励ましもあって徐々に回復の道を歩むのですが、最近絵本を出されたことを知りました。
その絵本の内容は、4人との交流の日々、楽しかった思い出を描いたもので、『ずっとつながっているよ』という題です。その絵の内容も少し紹介されていましたが、とても綺麗で楽しい絵本のようでした。そしてそこでの物語の主人公は、4人が大切にしていた「熊の縫ぐるみ」です。
その熊さんが2人の子ども、そしてお母さんお父さんに可愛がられていて、ある日突然彼らがいなくなったという設定であるに違いありません。
どうして彼らがいなくなってしまったのか、楽しかった日々がどうして突然なくなってしまったのか、熊のプーさん(という名ではないのですが)は、どう理解して良いか分らないでしょう。それが突然命を断つという殺人なのです。
一人の人間が行うその悪を、国家規模で行うのが戦争であり、原爆投下だと言うこと、そして片方の主人公が、子どもたちが可愛がっていた熊の縫ぐるみであること、もう一方が子狐であることに、不思議な暗示を感じました。
真に重たい問題は、ファンタジーでしか表せないのかもしれないと思いつつ・・・・・。
もう一つ、思ったことがあるのですが、それはあまりに長くなるので省略することにします。
ただこれも最近読んだ本、『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(内山節)講談社現代新書、によって、キツネに化かされていたというのは一体どういうことだったかを考えると、このファンタジーがもっと深く鑑賞できるように思われるからです。くだくだしく書き連ねましたが、我慢強く付き合ってくださっていた方がいらっしゃいましたら、感謝いたします。
2008年01月04日
雪降り続いたT温泉行き(23年目)
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
今では恒例となったT温泉に、今年も出かけました。
30日夜から降りだした雪が、帰る日の3日まで絶え間なく降り続き、これまでにない雪に埋もれたお正月をすごしてきました。参加者は8名、新しい人もまた若い人もいないほぼ常連だけの一行となりました。
大晦日の前日、確認の電話があった頃から降り出したと思える雪が、年が明けてもずっと止むことなく続き、大雪となってしまいました。
初雪後ほとんど降らなかった雪がやっと降りだしたと聞いて、迎えの車の中で、「私たちを歓迎して降ってくれたよう・・・」などと不謹慎な言葉をつい発してしまいましたが、地元の人たちには大変であることが次第に分ってきました。宿のご主人の顔がどこにも見えないので、どうしたのかと思っていましたが、男性たちは雪対策で、外へ駆り出されていたからでした。
一夜明けた元日はもう新雪が一メートルほども積もっていて、何もしないで置くと車などは雪から掘り出さねばならないほどなので、絶え間なく道路の除雪はもちろん車なども雪下ろしをしておかねばならず、帳場にいることは出来ないのでした。
2日目の夕方頃、やっと忙しそうに館内を歩くご主人と出会って、挨拶を交わしました。
一昨年も記録的な豪雪で新幹線もぎりぎりまで不通になって心配しましたが、昨年は全くの雪不足で道路が乾燥しているほど、そして今年は降るとなればこのように絶え間なく降り続くという極端さ、やはり異常なのでしょうか。
今年はスキーに出かける人もなく、温泉と雪とお酒と時々はテレビ、それぞれ勝手に読書など静かにすごし、大晦日の鴨鍋に始まるいろいろな鍋、炭火で炙った岩魚や鮎の串焼き、手をかけた山菜やキノコの小鉢などのこの地ならではの料理を楽しみました。
持込の酒は古風な瓶に入った琉球泡盛、泡盛を長期保存した古酒(クース、味も香もまろやかに素晴らしくなる)と LAPHROAIGというスコッチウイスキーのモルトの10年もの、これはスコットランド沖にあるISLAY島で作られたものらしく村上春樹のエッセイの中に出てきたというのだが、私はまだ確認していない。どちらもその香りといい、きつさといい、なかなかの物で皆でちびりちびり賞味しながら頂きました。持ってきた者もエッセイの題の記憶が不確かで、推測するに『もし僕らのことばがウイスキーであったなら』の中にあるのではないかと思うのですが、まだ調べていません。
連日雪は止むことなく、寝ていると次々と大砲のような音を立てながら落ちる屋根の雪に驚かされます。しかし風がそれほどではないのが幸いで、2日には雪をついて川下の大湯まで散歩しました。新雪だけで出来た2メートル近い壁、道路は除雪車と雪国ならではの工夫で水は流れていても歩きやすいのですが、やはり長靴でなければダメで、わざわざ持って行った私の長靴は大いに活躍。これは初期の頃小出で買った物なので、この靴も雪国への里帰りで満足したことでしょう。
大湯では、熊野神社の隣に共同浴場が新設されていました。「雪華の湯」と名づけられ、外には足湯もありました。ここのスーパーで土地の白ワインを購入、持込の赤ワインボージョレヌーボーと共に帰ってからワインタイム。
残念だったのは餅つきが3日になったこと、この大雪で2日は男手が揃えられなかったということでした。ということで、餅つきを前にして3日、帰途に就いたわけですが、駅までの道はそれほど困難はなく(一昨年は吹雪模様で大変でした。時間に間に合うかどうかとはらはらしました)、すいすいと到着。道筋ではあちこちで雪下ろしをする姿が見られましたが、滑って雪の埋もれたら一たまりもないなあと思われる雪の量でした。雪も少し小降りになり、雲間から少しだけ青空が覗いたりするほどになってきて新幹線乗車。
いつものことですが今年ほどトンネルを境に南と北の気象の違いがはっきりした時はありませんでした。湯沢を出ると後はトンネル、トンネルの連続、クジラが息をするようにちょっとだけ地上に顔を出すことがあっても、後は延々と地中の闇の中、そして地上に顔を出した時はもう雪は全くなく太陽が燦燦と降り注いでいる。あの大雪はどこへ消えてしまったのだろう?と不思議な感覚に陥ります。
私が地球を風船のように手玉に取れる大男だったら、日本海側の雲の群れを手で掬い上げて太平洋のからから天気の野山にふりかけてやるのになあ・・・と夢想したくなるほどです。
そんな乾いた土地に降り立つと、何やらあの雪に埋もれた日々が無性に懐かしくなります。
いよいよこれからまた一年が始まる、という気持でこれを書いています。
2007年12月16日
「オペラ・アリアと第九」を聴きに行く。
風邪をひいてしまったがマスクをして、恒例となった「第九」を、上野の東京文化会館に聴きに行った。
東京コール・フリーデ第30回記念演奏会で、30回ということから、パンフレッドにはその歩みが振り返られている。それをここに、ほんの少しだけ紹介します。
この合唱団は東京都の職員たちによるものだが、そのきっかけは、パブロ・カザルスが国連総会の場で、ステージから呼びかけた言葉
「平和のへの祈りとして、ベートーベン(第九)終楽章をオーケストラと合唱団を持つすべての都市が、 同じ日に演奏しようではありませんか。これが実現する日が,世界から戦争がなくなる日だから」
というメッセージを、昭和33年、ラジオで聴いた音楽愛好家が都庁に居たことからドラマが始まったという。
その頃職員の都と区の分断が行われ、クラブ活動も両者に分けられることになったが、このとき前述したカザルスの言葉に感動した人(石葉鴻)が、この「第九」を都と区の職員が一緒になって歌いましょうと呼びかけたことから始まったようである。それを最初は労働組合が後押ししたり指揮者渡辺暁雄氏の肩入れやらを受けながらも自主的に全員で力をあわせ、練習場や時間、資金繰りにも苦労しつつ、次第に成長していく。そして団員も固定したものではなく、ちょうど木々が葉を落とし新しい葉や枝を加えつつ伸びていくように育っていったようである。
共演オーケストラも日本フイル、群馬交響楽団、、東京ユニバァーサルフイルなどと組み、今回は東京シティ・フイルハーモニック管弦楽団であった。そして最近は第九のソロを歌うプロのソリストによる「オペラ・アリア」が加わるようになり、それが次第に年末の風物行事としても定着してきたようである。
そこで今回は、第一部は、ビゼーの歌劇「カルメン」から序曲<闘牛士の歌>(バリトン:成田博之) <花の歌>(テノール:福井敬) 間奏曲<何が出たって怖くない>(ソプラノ:塩田美奈子) <恋は野の鳥>ハバネラ(メゾ・ソプラノ:秋葉京子)であった。
合唱指導も今は3代目、前回も書いたと思いますが伊佐地邦治氏で19年目という。忙しい中での熱心な指導で、減少しつつあった団員も今回は200人を越えたようである。メンバーも高校生からかなり年配の人までと幅広いそうだが、少ない練習時間を効率的に集中してプロに対応できるまでに歌いこまねばならず、それぞれ今日は記念すべき晴れの日になるにちがいない。その熱意が伝わってくる。
名称も「都区職員第九を歌う会」であったのを、今の名前に変えたのは4回公演後で、「東京コール・フリーデ」とはドイツ語でコール(合唱)、フリーデ(平和)を意味する。
そして終演後の舞台上の解団式(毎年結団式と解団式をやるようである)で、伊佐治氏の今こそこの第九の精神、平和と平等と人類愛を・・・の願いが切実な時であり、これを歌い上げ若者たちにも訴え伝えたい、というスピーチに頷きながら、来年もこれを平和の中でこれを聴きに来られるようにと願いつつ帰途についた。
紅葉は少し遅れていて、銀杏が今盛んに金色の落ち葉を散らしていた。
2007年12月12日
民芸「坐漁荘のひとびと」
昨日の新聞にこの劇評が出てしまったので書きにくくなりましたが、ここに書かれていないことを少し書いていくことにします。
小幡欣治:作、丹野郁弓:演出のこの新作に対してはほぼ好意的な新聞評で「陸軍将校による二・二六事件を背景にした、女たちの外伝劇の趣がある」というのはなるほどと思った。西園寺公望(大滝秀治)の静岡の風光明媚な興津にある別邸(今は明治村に保存)を舞台にして、表舞台である政界の最期の元老と言われる西園寺と、その私生活の場に奉公する女たちを描くことで、その背後にある時代や社会情勢と同時にそれに翻弄される庶民の姿が描かれるからである。
昔、その屋敷に奉公していた元新橋芸者つる(奈良岡朋子)が、再び女中頭として奉公を要請されたことから話は始まる。小幡さんは昨年の同じ季節、ここで公演された「喜劇の殿さん」(古川ロッパを描いた物)でダブル受賞されたそうだが、最近は民芸での作品を多く書かれるようになった。東宝という商業演劇の大きな舞台で活躍していた氏が、新劇という地味で真面目な世界に帰ってきたことは、民芸にある種の面白さ、楽しさを引き入れた感じで、年末の三越劇場での公演に多いのも納得できる。今回も役者はそのほか樫山文枝、水原英子、鈴木智、伊藤孝雄ら多くの中堅が脇を固め、総勢20数名の華やかさだった。
時代は日本が戦争のへの道へ踏み込んでいく過程で、クライマックスは2・26の日、この別邸(西園寺は軍部の横暴に批判的だった)にも襲撃部隊がやってくるという報が届く所だろう。万一であってもその時はここで討ち死にする覚悟と言う西園寺に対して、犠牲になる女中たちのことを考えてくれと、つるは直言し、それを聞き入れ避難のために他所に移る。
その後屋敷では、最初は西園寺の替え玉などをこしらえたりはするものの、つるは最期は無血開城の手段を取ることに決める。すなわち随所にこのように男の硬直した正義と論理、戦いに走る男の姿を突き崩す女の眼を感じさせる。
小幡さんは戦争体験世代である。そして描く物は多く庶民である。英雄豪傑は書かない。それなのになぜこれを書いたかというと、そこで暮らす女中さんたちはどういう生活をしていたか、そして西園寺さんがどういう生活を、また交流をしていたかを知りたかったのだという。
最後の場面は、2・26の処分も終わり、戦争への暗雲が立ち込め始めた頃である。西園寺は高齢の身を押して、元老として最期の忠告(戦争をしてはいけないという)を直接天皇に申し上げようとしてステッキを手に、つるに支えられながら踏み出す。
新聞評では「最期の幕がうまく切り落とされていない」とあったが、ちょっと戯画化された終わり方(幕寸前)は面白かったと、私は思う。
演出の丹野さんは、この男の世界と女の世界とが絡み合っていない気がしてそこをどうするか、悩んだという。その結果、男と女の世界は、当然一本の糸にはならないこと気づいたという。それぞれが、あらゆる立場でそれぞれの戦いをしているのだ・・・と。
それで舞台装置では西園寺や執事、警備主任らの物語の場面が繰り広げられる応接間と、台所が舞台の正面の左右に並べられ、交互に展開していく形(片方に照明が当たっていても一方も動きがある)にしたそうだ。そうすることで、政治の世界がある一方で、つねに生活者の世界が一方にあるということを表現しようと思ったそうである。
舞台が跳ね、外に出るともう真っ暗だった。東京駅への人気も少ない道を、ビル街の芝生の星やトナカイ、街路樹などのキラキラした電飾を眺めながら帰途についた。これも私の最近の年末の一風景となったようだ。
2007年10月31日
北海道(道北)に滞在してきました。
紋別郡の小さな村のコテージに毎年春から秋にかけて滞在しているTさんの誘いに乗り、一週間ほど北海道を味わってきました。
近くのホテルに素泊まりで宿をとり、ほとんどご夫妻の世話になりつつ、5年間の経験を活かした車による案内で、あちこちの温泉と道中の紅葉、有名な美瑛に劣らぬ草原・牧場風景など、また豊かな村の自然の恵みの新鮮さ美味しさをも存分に味わい楽しませてもらいました。地形的にもオホーツク海と日本海の両方を見ることさえ出来たのでした。
この小さな部落は、山脈の北はずれの起伏の多い山々に囲まれた山岳地帯、二つの川に挟まれた林業と農業で成り立っていた村です。最近は豊富な自然、温泉を活かした近代的なコミュニティー施設も完備し、「夢」と「小さくても輝くむら」をモットーにしているとのことで、Tさんの農園つきコテージや泊まったホテルもその一つであるようです。
北海道に行くのは初めての私。札幌も小樽も行ったことがなく、はじめての体験がこの村だというのは珍しいとTさんは言いながらも、それはいいことだ、なぜならこの地方にこそ、まだほんとうの北海道が残っていてそれが味わえる・・・とも。まことにそうだと思える毎日で、Tご夫妻のお蔭ながらまだ北海道の風景が心の中で揺れていて、夢見心地でいます。
書けば長くなりますから、簡単に二つだけ北海道の印象を書くことにします。
先ず誰も感じることでしょうが、雄大でたっぷりした自然の中に車が稀で、人も少ないということ。その例の一つ、飛行場に迎えに来てくれたTさんの車に乗って村までほぼ1時間の間に対向車は一台もなく、村近くになってやっと2台に会いました。人も少なく時たま歩いている人を見ると、どこに行くのだろうと不思議に思えるほど。むしろ動物や鳥に、牛や馬は牧場には当然ですが(晩秋ですから数は少ない)、やはり感動したのは、キタキツネに会ったこと。鹿にも会いましたが、熊には幸か不幸か会えませんでした。
次に紅葉が素晴らしかったこと。暖冬のせいらしくまだ紅葉は残っていて、というより盛りを継続していて、どこに行っても紅葉、紅葉の日々を送りました。その紅葉も京友禅のようなものとはまた違う、西欧風景画にあるような白樺やダケカンバなど高木で濃淡のある黄葉を主体とした森や林がとこまでも続くといった感じで、そのなかにもナナカマドやカエデの紅、常緑樹の緑、まだ緑色をした牧草地が得もいわれぬ彩を奏でている所などもあり、大げさかもしれませんが一生涯の紅葉を見た感じになりました。それはやはり北海道の広さ故であり、そのなかを車で移動し続けたからかもしれません。
温泉も石油の匂いのする、しかしアトピーなどには効き目があるという最北端にある昔からの鄙びた温泉、またお砂糖を持っていって入れて飲むとサイダーになるというほどの胃腸に良い炭酸の強い温泉、近代的設備の整っている一日楽しめる温泉など連れて行ってもらいましたが、この辺はいたるところに温泉があり、この辺に住む豊かさを感じ羨ましく思います。
なおこの地に古きよき北海道が残っているというのも、一つには道内でも過疎地であることを示しているのでしょうか。廃屋もあちこちにあります。
宗谷本線と平行して走っていた天北線が1989年に廃線となり、その駅の跡、歴史資料館なども幾つか残されていましたが、それを見ながら、また古い建物を案内されながら(T夫妻は古いものがお好きなのです)北海道の成り立ちや歴史についてもあらためて考えさせられました。
T夫妻と私は長年の知人でも友人でもありません。ただお二人はどちらも私の相棒であったKの友人で、特にT氏は同僚の先輩として敬愛の気持をずっと持っていてくださり、二人は互いに性格が対照的な面もあって良いコンビとして公私ともに親しくしていたその気持の表現として、死後17年も経った今日のこの接待でもあったわけで、滞在ちゅう常に中心にあったのはその亡くなったKの存在でした。
例年ならばもう末枯れているはずの紅葉が盛りを保ってくれたのも、また滞在中は晴れ続きで予報で雨だといった日も晴れ上がり、発つ日に初めて雨になった幸運ももしかしたら亡き人の采配かもしれないと思いつつ、T夫妻への感謝の気持を抱きながら機中の人となったのでした。
2007年10月21日
野外劇場 高校生の演劇 『山姥』
近くの高校から、近隣の住民へこの招待状のチラシが届いた。
ここでも先にこの高校の花火のことを書いたが、演劇活動も活発なようで、本格的なカラーのチラシや紹介された朝日新聞の記事のコピーなども入っていて、面白そうなので出かけてみた。
穏やかな秋の宵、爽やかだがいかにも冷え込みそうな中、高校裏庭の木立をバックにした野外ステージがあった。背景は重なる白い山々と左手の夜空にかかる大きなオレンジ色の蜘蛛の巣。蜘蛛の化身であるという山姥が、人間の子どもを生みたいと思うことから始まる、民話を基にした物語である。
蜘蛛の巣は100メートルのロープを編んで作ったというが、このように大道具から小道具、音響、照明、衣装、メイク、宣伝まで全て生徒の手になるもの、部員は31名とのことで溌剌とした表現力に楽しませられた。
主演の山姥の世界は山神はじめ狐や鼬や蛙等の妖怪たちの奇抜で華やかな衣装、一方人間界の村人たちの質素な衣装もそれぞれ面白くまたふさわしく、雪や洪水、土砂崩れ、炎なども大布を使った場面展開も巧みで、テーマとなる歌から祭りの大太鼓、梟などの声までそろっていて、それぞれの部門で皆頑張っていることが感じられる。
テーマは、山の掟と村の掟、山姥が産んだ子どもを村人に託すことから両者の関係が生じ、そこに生まれる親子愛である。その子が成長し絆が破局へと進んでいく経緯を、狂言回しとしての狐が物語って行くが、山姥をはじめ皆熱演で、中でも大勢で踊る群舞には勢いがあり、いかにも若者のエネルギーが感じさせられる場面であった。
ここまでに至るのはやはり積み重ねがあったようで、熱心な顧問の先生が赴任してきた9年前から活発になったようで、今回は先日の横浜のフェスティバルでは、大人の劇団にまじっての公演も経験してきたとのことである。一時間半の熱演。帰りは入口に部員が全員並んで、まぶしいほどの照明の中、花道を行くように観客は「有難うございました」の声に見送られる。
目潰しの光のトンネルを抜けると、「若い人は、元気が良くて羨ましいね」と年配のご夫婦の声が聞こえてきた。「この次は、何か持ってきてあげましょうか」と奥さん。
私も元気をもらったような気持ちになりながら、冷え込んできた夜道を家路についた。中天にはくっきりと半月が眺められた。
2007年10月19日
民芸公演『白バラの祈り』を観る
映画にもなっているのでご存知の方も多いでしょうが、第二次大戦末期ナチの狂気が吹き荒れる中、「人間の尊厳と自由」を求めて立ち上がろうと呼びかける、アジびらを撒いたミュンヘン大学の学生5人が、斬首刑に処せられた事実を基にした劇である。
眼の悪い大学の用務員による密告から始まり(その功績で勲章を受ける)、ただ状況証拠だけで次第に罪状がでっち上げていく(というより追い詰めていく)様が、骨組みだけで作られた舞台の暗転によるスピーディな展開と背後一面に翻る逆卍のナチの旗とあいまって、その恐ろしさが迫ってくる。
この裁判(民事という建前をとりながら短期間秘密裏になされる)は、ベルリンの壁が壊されてから初めて詳しく全貌が明らかになったそうである。
「白バラ」というグループ名は、ビラの署名だが、ただ一人兄とともに行動した少女ゾフィーが次第にグループを象徴するような輝きを持ち始めていく。
純粋で清楚な美しさも、その輝きは短命だという白バラ、それは青春期の輝きとはかなさをも象徴しいているような・・・・。
5人の学生たちは特別優秀でもまた確たる政治的信念を持つ者でもなく、真面目で健全な普通の学生、特にゾフィーは帰京の際は洗濯物を鞄一杯持って帰るような、ダンスが好きでボーイフレンドが気になる明るいフツーの女の子、彼らが1943年の2月、たった5日間で弾圧の槍玉に上がるのである。はじめはこの地のゲシュタボによって、青春期特有の学生の跳ね上がり者の一部に過ぎないと、穏やかな形で処理しようとするのだが、ベルリンんから派遣されたナチのサイボーグのような目付け役の突き上げによって、まさに国家反逆罪へと組み立てられていく。
当局は、それが組織的なものであることを何とか探ろうとするが皆無である。証拠は眼の悪い目撃者一人、それでも捜索によってコピー機を発見。匂いを嗅ぎつけたマスコミをオミットして秘密裏に事を運ぶ手はずは整っている。
ビラを撒いた事は正しいと彼らは言い、自分の意思でやったという。「私たちが書いたことは多くの人が考えていることです。ただ、それを口にすることをはばかっているだけです」、「それを誰かが言わなければならない。誰かが始めなければならない。それをしただけだ」と。
実際、そのビラで決起は起こらなかった。しかし、大学に訪れたナチスの指導者が「次世代を担う健康な兵士を生み育てることが女の務めだ」と演説した時反発を買い、それをきっかけに会場は騒然としたものの、そしてそのことを「白バラ」は喜んだが、たちまち軍隊が投入され鎮圧される。大勢の怪我人が出る中で、周りの住宅は彼らを助けることなくピタリとシャッターを下ろしたままだった。そんな状況であっても彼らは命乞いの署名はしなかった。なぜなら、ビラの文句のような理由からである。
「自由と尊厳! いまドイツの若者が立ち上がらねば、ドイツの名は未来永劫汚される! 1942年夏 ミュンヘン」
汚れのない若々しい彼らと対比する取調べをする尋問官は、まだ人間味の残った男でゾフィーと同年代の娘があることから、せめて彼女だけでも命を助けたいと説得に力を尽くす。世の中の裏表を知り尽くし辛苦を味わいつくし、自分と家族だけでも何とか守りたいと生き延びてきた大人との、調書をとるという対話による真剣勝負が、劇の見所となっている。時には強圧的に、又法や自己の正当性を主張する尋問官は次第に本音を語るようになり、この揺れ動く心情があるため両者の姿をくっきりさせる。最後には、この戦争は終わりに近いことまで、そっとゾフィーに語るまでに至り生き延びるように説得する。
最初は軽く考えていたようなゾフィーが、この取調べの過程で次第に確固とした自分の信念を持つに至り輝きを帯びるようになるのは、ただ文字で読むのとちがい人間の肉体で演じられるからではないだろうか。実際の調書を読んでいないので、このように理路整然と言ったかどうかは分らないにしても次のような趣旨で、彼女は最後には懸命の審査官の努力にもかかわらず、兄たちと同じく死を選ぶのである。
「一番恐ろしいのは、何とか生き延びようと流れに身を任せている何百万という人たちです。唯そっとしておいて欲しい、何か大きなものに自分たちの小さな幸せを壊されたくない、そう願って身を縮めて生きている、一見正直な人たちです。自分の影におびえ、自分の持っている力を発揮しようとしない人たち。波風を立て、敵を作ることを恐れている人達」。
そういう人間にはなりませんという決意である。
自分自身を振り返っても、彼女の台詞に身が引き締まる思いがした。
そして最後にどんなに生きていることが素晴らしいかを語る。朝の光が、そこで囀っている鳥の声がどんなに美しいか、しみじみと味わいながら刑につくという幕切れに(もちろん他の男子学生も同じような心境で)なっている。
60年安保の学生運動の空気を知っている私は、この劇に胸が震えるのを感じた。
2007年08月22日
南風洋子さんを悼んで
残暑というより猛暑のぶり返しで暑い。
昨日の新聞で、南風さんの訃報(77歳)を読んで、驚いた。
というのもほんの先ほど、民芸の舞台で、毅然として若々しく、華やかなその姿を拝見したばかりだったからだ。
7月1日のブログに、その紹介と感想を書いていますが、その時はすでに病を内にもち、それを抑えての演技だったのだろうかと思うと、胸に迫ります。
「林の中のナポリ」は、山田太一さんの書き下ろしで、南風さんを主人公に設定しての作品であるという。
少女時代の引き揚げ体験、故郷の神戸での2度の空襲などの人生の重みを一杯抱えながら、宝塚のトップスターを経て民芸に、そこでもいまや北林谷栄、奈良岡朋子さんらにつぐ代表女優として活躍されていたのに・・・・。(民芸にはお嬢さんの若杉民さんがおられます。)
ブログにも簡単に入れたけれど、この作品は南風さんを象徴するような作品であった。たくさんの悲しみ、傷み、苦しみを現実には抱えながら、自由にはばたく夢を持って、すっくと独り立ちして生きる、いや生きようとしている美しい老齢の女性を主人公としているからである。
劇ではペンションのオーナーたちをはじめ若い宿泊客たちにも、そんな生き方の自由と、それへ向わせる勇気を与えた後、そのなぞの老婦人は一体どこへ行ってしまったのか、暗示的に終わるのも、何やら南川さんの最期にふさわしいような気がする。でもこれは全く私の後から考えた一人解釈で、私の眼の中には、ただただ気品に満ちてきりっとした南風さんの、美麗な姿だけが残っているという事です。
どうかあの世でも、うつくしく輝いていてください。
ご冥福をお祈りします。
2007年07月01日
民芸公演「林の中のナポリ」
先日、これを観に行った。ナポリは港町だから変だと思うかもしれないけれど、これは林の中にある、中年夫婦と娘が経営するペンションの名前である。シェフである夫がイタリアで修行した経験があり、また森の中でも港町のような明るい雰囲気にしたいという願いがこめられている。
席に着くともう舞台には紗の幕(小さな花が織り込まれて美しい)が下がっていて、照明効果による雪がその上に盛んに降っている。それを透かしてペンションのロビーは見えていて、紗の幕が上がるといよいよ劇が始まったのだが、そのロビーは、なかなかシックで洒落ていてとても気持が良く、泊まってみたいほどだった。
窓の外の風景、雪をかぶった樹木などもきれいで、舞台装置に楽しませられた。場面はここだけで変わらない。ここでの10日ほどの出来事が描かれる。
森の中のペンションは冬場にはほとんど客が来ない。スキーなどのウインタースポーツもまた温泉もない所だからである。その上インターネットに悪口を書かれたりして腐っている。
そこに娘が駅前で拾ってきたとも言える、正体不明の一人の高齢の女性が登場することからドラマは展開する。
それを演じるのが南風洋子、元宝塚スターでもあった彼女はまた空襲や引き揚げなどの戦争体験、また介護体験なども現実に経ている女優で、その懇願もあって現時代を描くことに長けている山田太一によって書かれた新作脚本である。
簡単に言えば、今日の高齢者の生き方の問題である(それはまた若い者の生きかたにも繋がる)。だから南風さんの経歴とも重なって、人生の難問を潜り抜けてきた毅然とした老婦人の謎めいた美しさが発揮されるぴったりの役なのである。(もちろんそれを目指して山田氏は書いたのであろうけれども)
ペンションの夫婦は、伊藤孝夫、樫山文枝、娘は中地美佐子。タクシーの女性運転手(有安多佳子)も面白かった。実はその老婦人とペンションのオーナーとは遠い昔の記憶に何やら重大な関わりがあったことに気づくのだが・・・。
ちょっと種を明かせば、その老婦人は家を処分して老人ホームに入ることになっていて、その途中に姿をくらまして気儘に旅をしている、確信犯的行方不明者である。
その女性の願望とも法螺ともみえる身の上話、劫を経た人間の巧みな人あしらい、その決意など、同年代であれば、ペンション夫婦の会話と共に同感する事も多いようで、私の後ろの席の女性は盛んに同意し、笑い、拍手し、少々目立ってうるさかったほどであった。
そんな年になって(なったからこそ)初めて、「そういうのは嫌だ。こうしたい」と我侭勝手をしようとするその老婦人に、女たちは次第にそうだそうだと皆いいはじめ、同調していく。しかしそこに至って(そうなったからこそ)、ただ夫だけはそれはいけないと、おろおろする。そういう男を大胆な女たちと対応させて描いたというところがうまいと、パンフにあった清水真砂子さん(「ゲド戦記」などの翻訳家、評論家)は書いているが、なるほどと感心した。
2007年06月24日
「グレゴリー・コルベール展」に行く
「ashes and snow」展が終わりに近づいていると言われ、駆け込みの感じで出かけた。どうしても見たかったからである。その後コンサートに出かける日となっていたので、連チャンとなった。
お台場に設えられたコンテナを積み上げて造られたような巨きな会場の内部は薄暗く、内部には砂一粒さえも浮き上がって見えるような臨場感のある、しかしセピア色のスクリーン状の写真パネル群、その元となった動きのある映像が、3箇所に映し出されており、全体に流れる宇宙的な音楽によって、しばし見るものは神秘的な世界に漂わせられる。
地球上で一番大きなゾウ、クジラをはじめヒョウやタカ、その他マナティ、チーター、もっと小さな動物・鳥たち、それらとニンゲンとの共生というより、静かに寄りそい、時には共に踊り、愛撫するほどに接しあい、またはクールに存在しあい、そして祈り、瞑想する、奇跡的な調和の世界が繰り広げられているのであった。すべて合成写真ではなく、そのままの写真・撮影である。どうしてこれが可能であったかということの方が奇跡のように思える。15年かかったというのも当然だろう。
それにしてもこのようにニンゲンに優しく、静かな動物たちを実際触ってみたいものだなあ・・・
この世界を要約したようなメッセージを次に掲げてみます。
この世のはじめには、大空いっぱいに空飛ぶゾウがいた。重い体を翼で支えきれず、木のあいだから墜落しては、ほかの動物たちをあわてふためかせることもあった。
灰色の空飛ぶゾウたちは皆、ガンジス川のみなもとに移り住んだ。そして、翼を捨てて地上で暮すことにした。ゾウたちが翼を脱ぐと、無数の翼は地上に落ち、雪がその上をおおってヒマラヤ山脈が生まれた。
青いゾウは海に降り、翼はヒレになった。ゾウたちはクジラになったのだ、大海原に棲む鼻のないゾウに。その親戚にあたるのがマナティ、川に棲む鼻のないゾウだ。
カメレオンゾウは、翼を捨てなかったが、もう地上には降り立たないことにした。眠るときには、カメレオンゾウたちはいつも空のおなじ場所で横になって、片目を開けて夢を見る。
夜空に見える星は、眠っているゾウたちの瞬きをしない目。ぼくたちのことをできるだけ見守ってやろうと、片目を開けて眠っているゾウたちの。
これを読んだ時ふっと、これはまさに水野るり子さんの詩の世界だなあ、そこに通じているなあ・・・と思ったものでしたが、いかがでしょうか?
そこから帰って一休みして、コンサートに行きました。安くて割引のある席でしたが。
ベルリン交響楽団。 シューベルト:「未完成」 ベートーベン:ピアノ協奏曲第5番「皇帝」 同じく:交響曲第5番「運命」。 指揮者は、テル・アヴィヴ生まれのオール・シャンバダールという、ちょっとビール腹(今ではメタボが心配ではないだろうかと思ってしまう)の貫禄ある人、ピアノはタシケント生まれのエフゲニァ・ルビノヴァという「恐るべきパワーと想像力を持っている」と評判になったという国際コンクール2位の美しい女性。アンコールも全部で4曲もサーヴィス。
その日、私の方がメタボリック症候群になりそうなご馳走ずくめの一日で、楽しかったですがほとほと疲れました。贅沢ですね。
2007年06月11日
「パタゴニア」社について
最近、新聞が大きく様変わりしたように感じられる。ニュース性や物事の真実に迫ろうとする真摯さや意気込みが薄れ、情報の多彩さや読み物的なものが多くなり、読者の関心には敏感で、その参加やサービスにあれこれ努める姿勢になった気がする。もちろんこれはインターネットなどの急速な発展で、新聞も生き残り作戦で大変なのだと思うけれど、情報があふれる割には私にとっては読みたい部分が少なくなり、資源ごみばかりをやたら増やしている有様である。
その読み物的な附録版の「be」のBusiness版(土)の一面は、創業者や起業家が紹介されていて、関心のない私は大抵素通りしてしまうのだが、この日(’07,6.9 朝日)は「おや?」と思った。
パタゴニア創業者、イヴォン・シュイナード(68歳)さんが、サーフィンしている姿が出ていた。
「パタゴニア社」
この会社について、私は’07,9,23のブログ「ハンノキのコンサート(2)」に書いているので、関心のある方は見てくださってもいいのですが、これは古いお寺のお堂という自然に囲まれた中で開かれるコンサートであるが、この日は自然保護、地球の環境を考えるをテーマにした体験談や講演も行われたときで、そこでこの社の話を、初めて聞いたからである。
今日、地球の環境破壊の元凶は、近代化でありそのための経済活動であるが、私たちはそのなかに現実として生きているのであり、それを止めるわけにはいかない。(消費もその一端を担う大きな経済活動)そして経済活動自体が、つねに成長と効率と利益を上げねばならないという宿命を持っているともいえる。しかしその観念を大きく変えて、しかも会社として存続し続けているこの社は、これからの産業や経営の在りかたを示唆していると思え、とても関心を覚えたのだった。
その社の在りかたは、新聞を読んでくだされば分りますが、ちょっと簡単に紹介だけしておきます。
先ずその企業理念は、「私たちの地球を守る事を優先する」ということで、そのため「成長のための成長、利益のために利益は追わない」、「最高の製品を作り、環境に与える悪影響を最小限に抑える」、「ビジネスを手段として環境危機に警鐘を鳴らし、解決に向けて実行する」というのである。実際の売り上げの1パーセントは自主的な「地球税」として寄付し、またクラフトマンシップ(職人気質)を追究し、個人的な利益も多く地球環境保護のために醵出しているようである。
もちろん社員も理念に沿った生き方をさせ、フレックスタイムであり、品質の高さと自主性による責任感、協調性で効率を上げるというやり方で、「ハンノキのコンサート」で話したのも、その日本社員であった。
最初この社の名前を聞いた時、会社の名前だとは思わず混乱したのだが、確かに南米のこの地方に起こった、大きな自然環境危機に直面した事から、この会社〈この地域を自然公園にしようというプロジェクトから発する〉の名前も付けられたようである。
社長は昔はクライマー、ヨセミテ渓谷の大岩壁にルートを切り開いた一人で、自ら磨きだしたハーケンを売り出すことからビジネスを始めたようだが、(その後それが岩を傷つけることを悟ってその製造をやめる)、新聞の画面でサーフインをしていることからも分るように、アウトドアスポーツ用品製造・販売などのようである。
私はそういうスポーツはダメだけれど、こういう企業が増えることを願います。
社長の言葉、「地球の将来について私はとても悲観的ですが、何もしないことが一番の悪です。私には、会社というパワーがあります。私にできる最善のことは、この会社を世界を変えるツール(道具)として使うことです」。
ブログにも書いたが、この社について知りたいと思っていたそれが果たせた。こういうことがあるので、やはり新聞を読むのはやめられない。
2007年05月25日
「東京カテドラル聖マリア大聖堂」でのヘンデル「メサイア」
ブログをすっかり怠けていました。
異常なジグザグ模様ながら季節はすすみ、緑の季節になりました。
いま黄色いのは竹林とシイの木などの常緑樹で、これから日ごと緑が深まっていきます。
今年もたくさん咲いたシャガやエビネの花はとっくに終わり、サギゴケは盛りをすぎ、今はユキノシタが満開です。今年も筍は出ましたが、何しろ狭い上に放っておくばかりの庭なので、出てくるだけでも大したものです。
このようにこの家の草花は、シダ類があちこちに芽を出すことからも分るように皆日陰に適したものたちで、向いのバラ一杯の庭とは対照的で、お向かいさんとも「お互い陰陽ですね」、と言ったりしていますが、まさに暮らしそのものも同様だなあ、と思うのでした。
そういう日常とはちょっと違った感じですが、カトリック大聖堂、丹下健三が設計した有名な教会へ音楽を聴きに出かけてきました。若い友人のTさんが所属する例のコール・ミレニアム合唱団も出演するからです。
ヘンデルのオラトリオ『メサイア』は、当時でも大変有名であったようで、あの「ハレルヤ」の合唱が入った、イエスの誕生から受難、復活までを描いた壮大な宗教楽劇、モーツアルトもこれを編曲して、隠れていた魅力を引き出したとか・・・これは付け焼刃的に「毎日モーツアルト」で最近知った知識などを動員して、鑑賞の手引きとしたのでしたが・・・。
この曲の全曲を目の前で聴くのも初めてながら、大聖堂の中で聴くというのも始めての経験でした。
音響的にどうかというのは分りませんが、教会の中心部に向って円錐形にそそり立っていくむき出しのコンクリートの壁面、それにそって独唱や合唱が沸き立ち吸い込まれていくような感じで、なかなか良いものでした。聴衆もあの木の長い椅子の部分の他にたくさんの補助椅子が並べられていましたが、ほぼ満席で、復活と高らかな勝利宣言へと高まっていく音楽の効果もあって、最後はブラボーという声があちこちから上がり、拍手も長く続きました。
でも、ブラボーといっていいのかな、とちょっと思う。それは客観的な評価であって、ほんとうのクリスチャンであれば、感極まって涙するのだろうか、そういう力を持っているにちがいない。信仰のない私はちょと戸惑うと同時に、そういう人の意見を聞いてみたい気持ちになりました。
聴く方もなかなか充実したひと時でしたが、合唱団の一人として歌っている方はきっと感動をもって歌い上げたに違いないと思います。ここに至るまでのいろいろな雑事、ここに至るまでの猛練習、多くは職を持った人たちで、その間に練習を重ねているようですから。
上気したようにも見える顔で引き上げていく団員の人たちに大きく拍手!
もう真夏のようになった日の、涼しくなってきた夕べのひと時でした。
2007年04月14日
木下順二追悼公演『沖縄』を観る
ブログにもすっかりご無沙汰していました。
先日、民藝の『沖縄』を観ました。
東京裁判を扱った『審判ー神と人とのあいだ』と同様、亡くなった木下順二さんの作品ですが、これもまた日本人、というより本土人である私たちにとっては重たい問題を突きつけられるものとなっています。
日本の今の平和と経済発展は、この沖縄の犠牲というか、人身御供のような存在によって成り立っているということを、つくづく考えさせられる劇となっており、自ずと口が重くなってしまうのです。
この作品は、沖縄について調べられるだけ調べ上げた末、自分の観念で書いたということですが、観念劇という領域を超えた象徴性を持った、ギリシャの古典劇を思わせるものを持っていると私には思われました。
この劇作法は、有名な『夕鶴』や、平家の滅亡を描いた『子午線の祀り』などにも通じるもので、そこには幻想と現実が交差し織りなしていく、リアリズムを超えた舞台が展開していきます。
舞台は60年代の沖縄のある小島、本土復帰がなされていない時代です。主人公は、過酷な戦争体験を持つ、その島に本土から帰島したばかりの元教員の波平秀(日色ともゑ)、その沖縄のユタの系譜を思わせるその女性を軸にして、政治問題や米軍につくか本土の資本につくかの男たちの勢力争いなどが展開し、ただ一人の本土人、ヤマトンチューとして登場するのが元日本軍の兵士(杉本孝次)である。この日本兵に本土人の贖罪意識やまた狡猾さ卑小さを象徴させているところがあるけれども、結末はここには書かないが劇的な場面で幕が下りる。これも古典劇の作法を思わせる。
こういう能舞台を思わせるお芝居は、昼食後の午睡の時間にあたるとついうとうとしてしまうのだが、沖縄の深い森の場面となり、そこで繰り広げられる祀り、仮面をかぶった「男神」と「女神」と太鼓をたたいて歌い踊る群衆が出てくると俄然目が覚めた。夜中の12時に行われるノロの儀式など、そしてその儀式で次のツカサに選ばれようとする(と工作される)秀、それゆえに悲劇が起こるのだが、それがちょうどカタルシスのように、神話的な世界へと導かれる感じがする。洞窟の中から(このようなところから女たちは身を投げたのであろう)空を望むという舞台装置もあって。この結末は沖縄の、ひいては日本の未来のどんな展望を暗示しているのだろうか。
ここではただ沖縄を犠牲者だという立場だけを強調しているのではない。むしろ沖縄自身の問題として、「昇る太陽は拝む。が、沈む太陽は拝まぬ」や「ものくれる人、わがご主人」といった意識などをも、課題として突きつけているのである。
最近では教科書の沖縄戦での記述が書き直させられる動きがあった。また、昨日は憲法改正の国民投票法案が国会で成立した。民芸は少々真面目で面白みや娯楽性に欠けるところがあるけれども、「ドラマトゥルギーとは思想である」という木下さんの言葉を、一つのバックボーンとして持っている民芸は今の世の中、必要な存在ではないかと思った。
2007年03月28日
『Happy Feet』 を観る
オデヲン座最後の映画として、この『ハッピー フィート』を観ました。
これはアニメ映画ですが、ブログ星笛館でも取り上げらていましたし、新聞でも「おそらくアニメ映画の一つの到達点を示す作品だろう」とありました。
そうでなくても動物大好きの私は、本物の皇帝ペンギンの記録映画を観ていましたし、南極の自然とそこに生きる皇帝ペンギンの、まさに皇帝と名づけられるべき生態の素晴らしさに感動していたので、それをアニメがどのように迫るのかという関心があったのです。
これが見られてよかったと思いました。アニメとは思えないほどペンギンは良く出来ていました。元々ペンギン自体、ちょっとアニメ的ですからね。それがヒーロー、ヒロイン、脇役、また主人公を助けるアデリーペンギンの5人(羽)組などの個性的なペンギンの他、2万5000羽もスクリーンに出てきて、歌い踊るのですから楽しくて圧倒されます。
この題名は、幸福な足(両足)を意味して、足から生まれたようにひとりでにタップダンスをしてしまう主人公のペンギンの物語りです。しかしそれゆえというより、彼は歌が全く歌えないことから群れからは異端児としていじめられ排斥されるのです。しかしまたそれゆえに群れを救おうと冒険を重ねる救世主的存在にもなり、また彼らにとってはエイリアンである人間とのコミュニケイトを果たすということにもなります。
このように子どもが楽しめるアニメでありながら大人向けの寓意性と深いメッセージを含んだ映画ですが、それは別にしてどうしてこのようにペンギンの自然の動きが表現できるのだろうと驚かされ、その踊りもタップもとてもリアルで笑ってしまうくらいでした。
メッセージの中心にあるのは「愛」である。それでサントラも、愛を歌った有名なロックやポップスを集めたもので構成されている。エルビスの「ハートブレイク・ホテル」や「マイ・ウエイ」などもあって、ペンギンがそれに合わせて踊りうたう姿はなんとなくエルビスを思わせるなまめかしささえあった。
しかし後半になると暗いトーンになる。ここには人類によって破壊されようとする地球の未来を映し出していくからである。しかし結末は希望を持って終わる。「ペンギンが地球を救う?」 主人公のペンギン、マンブルが、仲間たちからは哂われたタップ・ダンスという表現で、人間たちにメッセージを伝えたからだった、と言う事になるだろうが、そんな事よりもスリルとスペクタクルと歌と踊りを楽しめばいいだろう。
主人公のマンブルの「みにくいアヒルの子」のような、ペンギンらしからぬどこか悲哀に満ちた顔と姿がいい。
ただメッセージとして感じた事、今ここで言うような「愛」、キリスト教的な愛が、これからの地球を果たして救う唯一の思想なのだろうか、ということである。もちろんこれを否定はしないが、今はもっと別の何かが必要なのではあるまいかと・・・。
2007年03月27日
さよなら 『オデヲン座』! そしてありがとう。
藤沢の南口と北口にあった二つの小さな映画館が、この3月末でとうとう閉館となります。それぞれの館が2つずつスクリーンを持ち、それぞれの客層に応じた映画を上映していて、私も馴染みでもあったのに、とても残念です。館の雰囲気もよく座席もよく、いろいろ営業努力も感じられたのに、やはり時代の流れにはかなわなかったのでしょう。同じオデヲン座が大船にもありましたが、ずいぶん昔に閉館、またその前には鎌倉にも小さな映画館があったのに、それがなくなったのはもっと昔の事。全てが中央に、また人が大勢集る繁華な部分に、吸い寄せられて集中させられてしまうのが自由資本主義による市場優先の現象なのでしょうか。
確かにTVなどの驚異的な発達で、映画館に足を運ぶ人は少なくなっていますが、それでもTVで見るのとは違うものがあって、それを味わいに行くのですが、それがわざわざ遠出してではなく、身近に味わえてこそ生活が豊かになると思うのに、世の中はそれと全く反対の方向に進んでいる気がしてなりません。それで私もこの最後の週、最後の映画を見に行きました。最後なので少しは人が詰め掛けるかと思っていましたが、それほどではありませんでした。ラーメン屋が最後だというと行列が出来るくらいに詰めかけるようですが、やはりこの程度だったのですね。ご苦労様でした、ありがとうという感じでパンフレットも買い、サウンドトラックも買って帰ってきました。
何を観たのですって?それは次に書くことにします。
2007年03月02日
「あ、ウグイス!」 それから『小島烏水 版画コレクション展』へ
昨日の朝ゴミ出しに行ったとき、ウグイスの声を聞いたような気がした。まだ「ホーホケ」というような、声にならないものだったが・・・。だが今日はまだ下手糞だがちゃんと鳴いたのであった。やはり例年よりも早いようである。九州では日中の気温が20度を超えたそうだが、日差しが強く穏やかな天気だったので、横浜に出たついでに水野さんから教えられていたこの展覧会に足を運んだ。
小島烏水については、アルピニストのさきがけの人で山の文章を書く人ぐらいしか思っていなかったが、すごい人物で、明治以後近代化していく日本の中でウエストンに始まる登山の歴史や紀行文学だけでなく浮世絵研究家でもあり美術、特に版画の発展に大変な役割を果たした人物だということを始めて知った。そのコレクションの一部が展示されている。
生まれは高知だそうだが、東西文化の融合する横浜育ちで、横浜商業高校=Y高卒業後、横浜正金銀行の行員として勤務する傍らこれら多才な活動、そして収集をしたというのであるから驚きである。
日本の浮世絵が初めは国内では省みられず、外国で買い占められていた時に、烏水はそれらを特に自分の好きな広重や北斎などの風景画を買い取っている。同時に西洋版画を買い集めてそれを体系的なものとして紹介したようであり、ミレーなどのバルビゾン派や印象派のゴッホやゴーギャン、またドガやルノアール、セザンヌ、ゴヤ・・・。そしてピカソに至るまでの500点以上を集めたそうで、そのうち350点を公開しているとのこと。よくもこれだけの物を手に入れらたものだと思う。
浮世絵も目の当たりにつくづくと眺めると、その線の優美さといい繊細な色彩といい、なんて美しいものよと思う。ヨーロッパ人が感心したのも判る気がする。もちろん西欧の銅版画の緻密でふくよかな表現力にも感嘆するのだが、それとは違った美がそこにはある。そしてそれは、絵師だけでなく彫師や摺師などの職人技の素晴らしさがある。版画にはそういう職人芸の要素があり、これは日本人には有利な面ではないだろうか。
日本の版画も浮世絵だけではなく明治時代、西洋版画の影響で製作された石版画などもなかなか面白かった。しかし当時は誰も評価せず紙くず同然だったとか、それを彼は収集していて、また庶民生活に密着した作品、宣伝チラシや団扇の絵や、熨斗袋まで捨てられてしまうものまで集めていてそのデザインや資料性を見出している。
単に収集だけではなく、紹介や執筆や同時代の新しい版画制作、版画の復活運動にも協力し力を注いだようで、それが駒井哲郎を初めとして長谷川潔など世界的な版画作家を生み出す基盤となったのである。
もちろん登山家のパイオニアでもあって、日本山岳会を創設、その最初の会長で、出口では山頂に立つ登山服姿の烏水さんの写真がわたしたちを見送っていた。
2007年02月22日
「菊池洋子 ピアノリサイタル」に行く
最近ピアノに人気が出ているそうだが、日本にも若くすぐれたピアニストも輩出しているようだ。
先日この「国内外で活躍をしている才色兼備のライジングスター」と紹介されている菊池洋子のリサイタルを聴きに行った。
実は、フォルテピアノとモダンピアノの2台を使っての演奏というので、大変興味がそそられた。今TVでもピアノの歴史を紹介している番組があり、またモーツアルトもそのピアノの変遷期を生きた音楽家であったので、ほんの少しだが知識も出来たからである。
当然のようだが、曲にはモーツアルトが入っていた。
一部は、
モーツアルト:ピアノソナタ ニ長調 K.311
きらきら星変奏曲 K.265
ピアノソナタ イ短調 K.310
これをフォルテピアノで演奏。フォルテピアノについても演奏家自身による簡単な説明があった。
きらきら星はよく知られた曲だが、単純な楽しいメロディーがこんなにさまざまに変奏、変幻されていくものよ、とモーツアルトが演奏しているのを想像させるような楽しく巧みな演奏だった。
二部は、
武満徹:雨の樹素描
ブラームス:ヘンデル主題による変奏曲 Op .24
これはモダンピアノ使用。
両方並べて聴くとその違いが良く分って面白かった。やはりフォルテピアノはきらきらした宮中での演奏などが浮かんでくるようで優雅で繊細な音色があり、モダンピアノは知的合理的な力強い響きがあり、それぞれに楽器の女王といわれるだけの魅力がある。ブラームスの変奏曲もその演奏者の技巧の巧みさが華やかに表現される曲のようで、聴衆はそれほど多くはなかったが、ブラボーの声が聞こえてきた。
2007年02月16日
民芸公演『はちどりはうたっている』を観る
前作『遥かなる虹へ』で総合商社で働く女性たちのひたむきな姿を描いた新進気鋭の松田伸子の最新作、演出は渾大防一枝。今回は航空機産業を巡る話で、遠い世界のように感じたが、それは今日の世界を動かすカギでもあり、私たちの生活ともかかわりのあることなのだと考えさせられる脚本であった。
出演者もベテランの梅野康靖、水谷貞雄のほかは若手が活躍していて、若い熱気が感じられた。
舞台はカリフォルニア州サンノゼ。時は、現代あるいはごく近い未来、というのもこれは虚構として書かれたからであろう。そこで航空機を輸出入する大会社の支店に働くエリート商社マンと日本から訪れてきた婚約者(彼女も有能なキャリアウーマンだが、正社員にまだなれないでいる)を中心に展開する。
筋は長くなるので省略するが、劇作家が十分に取材をし調べ尽くして書いたものだといい、軍事産業がいかに戦争と結びついているかを教えられる。
その航空機会社の空中給油・輸送機が行方不明になっているという情報があり、しかもそれはドアの強度に問題があったのではというのであるが、実はそれを日本の民間航空会社に売り込もうという最中であり、原因がまだはっきりとはしない時点で、明らかにはされたくない。そこで上からの圧力がかかっているという状況である。これらは今安全問題などで取りざたされている今日の会社組織とも共通するものだろう。
しかし有能な商社マンである前に有能な技師でもあった主人公は、それを明らかにすべきだと思っている。そして自宅には、久しぶりに休暇をとり会いに来た婚約者が来ているというのに、正体不明の日本語も中国語も片言で話す正体不明のマレーシア人(梅野泰靖)を連れてくるのである。
アメリカの現代、近い未来ということなので、ここには9・11から後のアメリカの変化の状況が描かれる。「愛国者法」があり、「テロ防止法」が出来、言論行動の締め付けが厳しくなり、戦争反対というだけでも当局ににらまれ、職場も危うくなる。また政府の失態続きで格差もひどくなっていて、それゆえニューヨークでは、「八賢人」を中心にして大々的なパレードが行われようとしているという設定である。
種を明かせばその正体不明のマレーシア人(実は日本軍から両親を殺された中国人)、ハルと名乗る人物(また実はだが、ヒタム・クチンという詩人である)も指名手配されているその一人で、彼を匿ったのである。彼は杜甫やガルシア・マルケスを口にする。すなわち八賢人のメッセージの中心には詩人がいて詩がある。
この18日に横浜でも「輝け9条! 詩人のつどい」というのがあるが、これから何かが生じたときアメリカのようにパレードの中心に果たしてなれるだろうか、などと思った。
結局、いろいろな事があった後、婚約者もその(危険であるかもしれない)平和パレードに出かけるということで終わる。
この中の台詞で「なぜ戦争する? ベラボウ儲かる」という言葉が心に残る。今では明白なことだろうが忘れてはならないだろう。戦争といって悲惨な映像ばかりだ映しだされるが、役者が一人足りないのだと、それを受けた主人公は言う。
「愛国者たちが熱狂する演説・・・その足元でむせ返るほどの金が、一握りの、いつも同じグループに流れ込んでいく。・・・・・この戦争でいくら儲かるか、やつらは安全な高みから、血みどろの地獄絵を見下ろして、そして金を吸い上げていく。・・それがほんとうの戦争の姿なのに・・」
はちどりはハミングバード、南米の民話「ハチドリのひとしずく」のような一票でも集れば大きな力になるということから来たらしい。
2007年01月08日
「ゾリステン・ニューイヤーコンサート」
七草の昨日、強い冬型で北日本は大荒れであったが、この辺りは風は強いものの冬晴れのお天気。
第25回のゾリステン・コンサートに出かけた。
以前にも書いたが、この15人ほどからなる室内合奏団は、芸術館専属の、元N響ソロ・コンサートマスターでもあった徳永二男さんを中心に漆原啓子・朝子さんなどオケ首席奏者やソロイストなど弦楽器の名手たちが集って作られた、なかなか贅沢なものだ。それでいて料金も手ごろで、割引もあるので気軽に楽しめる。それゆえ今回もほぼ満席であった。
ニューイヤーということで、演目はポルカやワルツ。ウイーンのコンサートの雰囲気を、ささやかながらも味わわせられた感じでとても愉しかった。
プログラムは
Part 1
J.シュトラウスII
歌劇「こうもり」序曲
アンネン・ポルカ
ポルカ「かわいい女の子」
トリッチ・トラッチ・ポルカ
春の声
Part 2
J.シュトラウスII:南国のバラ
チャイコフスキー:『弦楽セレナード』から「ワルツ」
クライスラー:愛の喜び(V;ソロ=漆原啓子)
愛の喜び(V;ソロ=徳永二男)
美しきロスマリン(V;ソロ=漆原朝子)
ヨハン&ヨーゼフ・シュトラウス:ピツィカート・ポルカ
J.シュトラウスII:美しき青きドナウ
アンコールのポルカでは手拍子まで起こって、楽しさが盛り上がった。肩肘を張らない寛いだ雰囲気がこのコンサートにはあって、演奏者も楽しんでいる感じだ。
今回は演奏会後、<演奏家と語らいのひととき>という懇親会があり、ドリンクとおつまみが供され、そこでは演奏家たちの一口スピーチなどがあったりして、聴衆たちとの交流が持たれた。私も予約申込みしていたので、ワインと小さなサンドイッチ、クラッカー・チーズなど手にしながら、(お腹がすいていたので赤ワイン一杯でもちょっとした酔い心地)音楽の余韻もあっていい気分になった。
こういう気軽な音楽会があちこちにあって、誰もが気楽に楽しめたらいいだろうなあと、幸福な気持ちになりながら暗くなってしまった道を歩いて帰った。
2007年01月06日
正月5日,アマサギを見る
今日は冷たい雨が降り続きましたが、昨日は日中はポカポカする良いお天気でした。
所用で出かけ、お昼過ぎに帰ってきたのですが、駅からの帰り道でアマサギに出会いました。
鳥の名前は、帰ってから図鑑を調べてわかった事です。
頭上をバサバサと飛んでいくものがあるので、トビかなと思いながら見上げると電柱に止まったのですが、どうも違うようです。嘴が長く、体も大きくて細く、全体に白っぽいけれども羽には青灰色の部分がある大型の鳥です。
立ち止まると、誰かこの珍しい出会いを共有できる人はないかとしばらく眺めながら観察していました。
正月の事ゆえあまり人は通らず、女子高生が二人坂道を降りてきましたが、私が突っ立って見上げているのには気にも留めず通り過ぎていきます。しばらくして私が来た方角から同年輩ぐらいの男女がやってきたので、指を差して知らせました。
「あの鳥は何でしょうか? サギの仲間のようですけど・・」とか何とか言って。
さすがにこの二人は興味を示しました。
「白くはないのでシラサギではないようだからゴイサギかなんかでしょう」と男性が言います。
それから私はかれらと一緒に歩いていったのですが、この辺りには古い人のようで、「昔はキジなどはどこにもいた」など言っています。「ヤマドリは、なかなかいなかったけど・・」など。
サギにシラサギという種類はないのです。コサギとかダイサギなどはあっても・・・。ただ白いのを全体的に言う通称ということだけは知ってました。ところでこれはダイサギではありませんでした。
しかしアマサギは、夏鳥として渡来するとあったので、おかしいと最初は思ったのですが、どうしても姿はそれで、しかし少し古い図鑑のいずれもが、最近は北上の傾向があると書かれていたので納得しました。特に最近の温暖化によって、この鳥がここにもやってきたのにちがいないのです。
「これは春から縁起がいいぞ」と、正月早々大型の優美な鳥、サギに出会ったのを喜びつつも、これを喜んでいいのやら地球の将来にとっては憂えねばならないのかと思ったのでした。
2006年12月28日
「オペラアリアと第九」を聴きに行く
恒例になった東京コール・フリーデ(合唱団)の公演(東京文化会館)を聴きに行くことで、今年の締めくくりとします。前日の大雨が上がって、異常なほどの温かさになった昨日のことです。
オーケストラは東京シティ・フイルハーモニック管弦楽団、指揮は現田茂夫、ソリストは省略させてもらいます。
この一年、モーツアルトにかなり浸っていたので、毎年のことである第九が新鮮に聞こえました。ベートーベンはモーツアルトを師と仰ぎ崇拝していましたが、生み出されたものは違っているのだなあーと。
天上の音楽という感じでありながら、実はとても人間的で、人生の喜びを、愛を歌ったものだということが、ずっと聴いていて分ったのですが、ベートーベンの場合は、同じ人間的であっても、もっと地べたを這い回るような、生々しいものがあるような気がしました。当然35歳で亡くなった夭折の天才(奇跡ともいうべき神童)と病や人生の苦悩を味わった努力の秀才(型の人間)とのちがいみたいなものもあるでしょうし、また時代の違いもありますが・・・。もちろんモーツアルトの短い生涯にも多くの苦しみや悲しみが十分にありましたが、その表れかたが違っているようなのです。
ですから聴く方もベートーベンが聞けないときと、モーツアルトが心に響かない時があるのだろうなーと。
詩もそうなのでしょうか? そうある筈なのですが、言葉は音楽のようには心に直接ひびかず、またそれが難しいのですね、残念ながら。
年も押し詰まり、何もしない私ですら雑用に追われている日々です。
やっとこれを書き、今年の納めといたします。
では皆様、良いお年を!
2006年12月17日
『たそかれ』朽木祥 (福音館書店)を読む
昨年10月26日のブログに、朽木さんの第一作『かはたれ』を読んだ感想を入れたのですが、これは今年出た第2作目になります。最初の本で、日本児童文学者協会新人賞・同文芸新人賞など3つも賞を重ねてもらう幸運にも恵まれ、大いに期待される作家となられました。
この題も「かわたれ」と同義の「たそかれ」です。舞台は同じ場所、またその時刻からも推量できるようにあの世とこの世、人間界と異界が重なり合う世界で、ここにも散在ガ池の子どもの河童「八寸」が先ず登場しますが、前作より4年後という設定になっています。その世界は前作と同様仄かな感じを漂わせながら重層的で詩的雰囲気に満ちていますが、もっと深まり、また例えて言えば個の存在から社会や類の存在まで思索が深まっている感じがしました。
こう書けばとても難しく固い話のようですが決してそうではなく、旧いプールのある(それが取り壊されそうになっている)高校での河童騒動を部活舞台としたミステリー物語として読んでも面白く、前作に八寸と仲良くなったニンゲンの少女・麻との再会、新しく登場してきた、小学校時代のいじめを克服して今では音楽家を目指している河井君との出会いと友情、部活のモデルになる前作にも登場したラプラドール犬のチェスタトンの活躍などの学園物語的な要素もあるのです。
しかしもっとも重要な登場者は、八寸が長老から探す事を命じられた同じ河童の「不知」と、かれが出会ったニンゲンの「司少年」です。そこで時間は急に60年遡る事になります。不知は司少年との約束を守って、60年も待ち続けているらしく、その河童を連れ戻すことを八寸は命じられたのです。不知が棲んでいるのが、高校の取り壊されようとしている旧いプールなのです。
果たしてその不知を八寸は探し出し、無事に連れ戻す事が出来るでしょうか。どんな風に麻や河井君の力も借りながらそれを果たすのでしょうか、それがこの物語の大きな筋です。
しかしこれが作者の本命ではありません。その筋立てを使って、もっともっと深くて大きなことを伝えたいのです、と断言めいた事を言いましたが、私はそう読みました。60年前の(現在点から言えば64年前)のことですから司少年は戦争に行っています。戦死したと思われていたのに、片腕は失いながら帰ってきます。その後空襲がひどくなり、爆撃に追われて多くの人がこのプールに火を避けて飛び込み亡くなったという記録が残っています。(戦災を受けた都市にはこういう場所が多くあるでしょう。東京大空集の時は隅田川というふうに)司少年も崩れてきた大きな梁に挟まれて動けなくなり、友達になっていた河童の不知もやむを得ずかれを置いてにげるしかありませんでした。そのとき司少年が言った言葉を守って、彼がきっと会いにくる事を信じて待ち続けたということが分ります。こういう不知をどのように説得して連れ戻すのか、また司少年は本当に約束を果たしたたのであろうか。それは読んでいただくしかありませんが、そういう戦争で喪われた魂へのレクイエムが潜ませてあります。まさに潜ませてあり、あからさまには語られません。ちょうど音楽のように、言葉ではなく感覚で語ろうとしているみたいです。実際このお話の中にはたくさん音楽が出てきますし、音楽が奏でられます。
また、時間も場所も重層するわけですが、それが巧みにファンタジックに映像的に描かれている点も感心しました。
この本は童話シリーズで小学校中級以上が対象と分類されていますが、その枠を超えるものです。前述したようにそういう児童生徒も十分に楽しめますが、深いところまでは感受できないでしょう。しかしモーツアルトが子どもに楽しめない事がないと同じです。多くのすぐれたファンタジーが年齢を超えて楽しめるように、これもそれ類した物語だと思いました。参考まで付け加えると作者は広島出身です。
音楽や絵や物語について、心に残った文がありますので、次に書いて見ましょう。
<人の心が悲しみや苦しみでいっぱいになってしまうと、音楽や絵や物語のいりこむ余地はなくなってしまう。だけど、心はそのまま凍ってしまうわけではない。人の心の深いところには、不思議な力があるからだ。何かの拍子に、悲しみや苦しみのひとつが席をはずすと、たとえば音楽は、いともたやすくその席にすべりこむ。そっとすべりこんできた感動は、心の中の居場所をひそかに広げて、まだ居座っている悲しみや苦しみを次第にどこかに収めてしまう>
2006年12月08日
TV番組で「木村さんの林檎」を知る
昨日TYで、日本で始めて無農薬、無肥料で美味しい林檎を育て上げた、この「木村さん」の話を見て驚嘆し感動した。
最近は農薬や殺虫剤の被害や影響が問題になって、農業もなるべくそれらを使わない自然農法をと変わってきているようだが、全く農薬を使わずまた肥料さえ使わずに、しかも素晴らしく美味しい林檎を育てるというのだから驚きである。
もちろんここに来るまでは苦難の道のりであって、追い詰められて自殺を考えたこともあったそうだが、8年かかってやっと立派な実を実らせた事が出来たのだという。
日本の農業で一番苦労するのは害虫である。「虫やらい」の昔からの行事があるように虫から農作物を守る事がどんなに必要で大切な事か。しかし害虫があればそれを食べてくれる益虫もあるわけで、木村さんの農園には雑草がいっぱい生えていて、自然のままに植物や昆虫が共存できるようになっているという(しかし決して放って置くのではなく、適当で必要な草刈もし手入れもする)。
それでも林檎の木や実に害を為すものがあるわけで、それをどうするのだろうと思っていると、それは植物から作った酢を丁寧に散布するのだそうだ。それも一本一本を、散布機でなく手に持ったホースで散布する。散布機を畑に入れると、草や土を痛めるからである。
ここに至って分ってくることは、その秘密は土、土壌にあったのである。肥料も全く必要ないというのも(素人考えでは有機肥料であれば少しぐらいやったほうがいいのでは・・・と思うのだが)、そこにあるようだ。
林檎の木下の土はふかふかで、そこには生えた土や落ちた木の葉やその他生き物たちの死骸などで十分に栄養があるのだろう。
林檎の木は「育てない、(木が育つのを)手助けするだけだ」というのが、木村さんの農法の基本なのだという。そして「こんなに立派に育ってくれて有難う!」と、林檎に頬ずりする木村さんの姿は美しい。
林檎は家族の一員であり子どもであり、その根本にあるのは「愛」である。
その林檎もまたそれを絞ったジュースも素晴らしく美味しく、今はそれを手に入れることは難しく、また業界でも「不可能を可能にした男」として見学に来る農家や研究者たちも多いという。もちろんホームページもある。
瑞々しく美味しいだけではなく、腐らないというのも不思議だ。日が経ってドライフルーツのようになったものがスタジオに出されていた。どうしてだろう、野性的な強さがあって腐敗菌が付かないのだろうか。
話の中で、ある転機とになった事柄が興味深かった。それは自殺も考えて岩木山の山奥に入って寝そべっていた時に一本の野生の林檎の木を見たのだという。肥料もやらず、農薬もかけない林檎の木がどうしてこんなに美しく花を咲かせているのだろう?と思ったのだと。
それが農法を進めるきっかけになったのだ・・・と。
知識は全て自分で調べ、体験を基にした独学である事もすごい。
これを聞いていて、私はふとニンゲンの子どももそうではないか・・・と。
今ニンゲンの子どもにも、肥料をやりすぎ、消毒薬をかけすぎ、手をかけすぎ育てすぎているのではないだろうか。
ニンゲンは林檎よりも素晴らしいはずではないか。そのニンゲンの子どもを「育てない、(子どもが自分で育つのを)手助けするだけ」にしなければ逞しく立派な人間に育っていかないのではないだろうか。そんな事より、その土壌を豊かなものにすれば良いのではないか。
政治家までがしゃしゃり出て、教育基本法にまで手をつけ、無理やりに愛国心のある人間に育て上げようとする行為は、これとは逆の方向に向っていると思わざるをえない。
2006年11月23日
『仏像 一木にこめられた祈り』展を観に行く
今日と打って変わり、昨日は幸いにも気持の良い小春日和だった。
残っていた最後の招待券だという一枚を、水野さんから頂いて一緒にこの仏像展に出かけた。
最近では珍しい良いお天気だったこともあって、上野の改札口からどっと吐き出される人の群れに驚きながら、又会場の入口でも待たされたけれど、仏様は陳列棚に入っておられるわけでもないのだから、ゆっくりした気持で向き合い仰ぎ見る事が出来た。
私は信仰心はないし、またこれまで仏像も有名だとか美しいとか仏閣めぐりの際にフムフムという感じで単に鑑賞していたに過ぎず強い関心を仏像に抱いた事もそれほどなかった。しかし日本全国の約50の神社や寺から集めた(門外不出のものもあって苦労されたようだが)一本の木から彫り出した「一本造り」の仏様たちが、ずらりと並んだこの会場を経巡っているうち、ひどく魅せられ感動していく自分を感じたのである。
この展覧会の趣旨である日本人の木(特に巨木)に霊力を感じる心と仏教への信仰が結びついた、日本人の心の源流のようなものが、これら初期の仏像(後には寄木造りその他、木ではなく銅などの金属でも造られる事が多くなるのである)には表現されていて、色々考えさせられたし、また仏像一体一体をぐるりと全身を眺めさせてもらえる機会など、実際の寺を訪れても不可能なことにちがいなく、こんなにお一人お一人が違っていて、素晴らしいものであるかということを、しみじみと感じさせられ仏像に対する関心と興味が急に湧き上がって来たのだった。
色々な思いは書くと長くなるし、また知識も鑑賞力もないのだから馬脚が現われるので色々思ったということだけに止めるけれど、その中の一つ、ヨーロッパではギリシャ・ローマから彫刻が盛んで、日本には美術として彫刻があまりないような気がしていたのだが、こんなに仏像があるではないか、と思ったのだった。そもそも彫刻という概念が東西で違うのではないだろうか?
実はフランスへ行ったときのこと、ロダン美術館で大理石の彫刻を見たとき、なぜが涙が出るほどに感動した。同じ場所にあった色彩豊かな印象派の絵画よりも色彩豊かに感じられたのである。なぜかわからないが・・・。そのことも思い出していた。
会場を出ると、公園の中は銀杏や欅など黄葉がやっと美しくなっていて、降りかかってくる落ち葉を踏みながらレストランの道を3人で歩いた。ここの印象派の景色はなかなか快く素晴らしかった。
2006年11月17日
『紙屋悦子の青春』を観にいく
上映期限が残り少ないと知り、慌てて観にいく。昨日(教育基本法改正案衆議院通過の日)の事である。
今年4月に急逝した黒木和雄(監督)の最後の作品で、戦争レクイエム3部作(『父と暮せば』ほか)で反響を呼び、これもそれに続くものだが、元の脚本が舞台上の戯曲(山田英樹原作)のためか、台詞が絶妙で笑いが絶えなかった。笑いながら自然に涙がにじみ出てくる良い映画だった。ちょっと小津映画を思わせるところもあった。
ここに登場する人物は誰も戦争に反対してはいない。むしろ日本が勝つと信じ(?)、信じようとして堪え忍び、お国の役に立とうとしている庶民である。筋は単純で、悦子という若い女性にともに思いを寄せ合う二人の海軍士官、その一人と見合いをすることになって、その日を中心にした何日間かの話、本土決戦を覚悟させられた日本人の或る日常の描写である。
その相手と結ばれた二人が、老人となり病院の屋上で共に回想する構成になっている。
『父と暮せば』は広島弁だったが、ここでは鹿児島弁、それが又良い味を出している。
舞台は悦子が身を寄せている兄夫婦(両親は出張中に東京大空襲で死亡している)の家だけで、それは全てセットだそうで当時の暮らしのさまざまな細部が復元された感じで、ちゃぶ台をはじめ火鉢や茶箪笥や台所に竈や水がめなどが、懐かしいと言うか、今の物があふれ贅沢になった暮らしが改めて振り返らせられてしまう。そこでの兄夫婦のちょっとした口げんかや見合いの話のやり取り、又見合いの場面での当時の若い男女のぎこちない対面風景などが当人たちが真面目なだけにたくまぬユーモアとなって笑わせられる。
茶の間が中心なのでどうしても食べ物が出てくるが、夕食は一汁一菜と漬物だけ、その一菜が一昨日のサツマイモの残りという場面から始まるのだが、それをいかにも美味しそうに食べるのである。ご飯が白米と言うのは、やはり地方だったからだろう。終戦間近の4月、庭に咲く桜が象徴的な点景となるが、それが蕾から満開になって、散るまでの時間が描かれる。
お見合いのもてなしで、取って置きの静岡茶を入れようとするのだが、その美味しさを皆でつくづく味わう場面や、これも兄嫁の才覚で配給されたものを取っておいた小豆で作ったお萩を食べる場面など、そういうささやかな満足に幸福を見出せた時代だったことを思う。物があふれる事が果たして幸せであるかどうか。
幸せであるのにどうしてそれが実感できないのであろうか。
実は悦子は二人の中の一人、しばしば訪れていた好青年の士官の方にひそかに思いを寄せていて、それを兄嫁も気がついているのだが、見合いを申し込んだのはもう一人の方で、彼も一目ぼれしていたのだった。実は好きな方の少尉は特攻志願をしていて、そのために親友に悦子を託そうとしたのである。
結末は言わなくても分るが、終戦間際にその優秀で秀麗な士官は沖縄沖で自爆する。見事に敵に体当たりして名誉の戦死を遂げるのである。これは実話を基にしているとのことだが、そういう経緯が悦子に当てた遺書とも言える手紙で語られる。
それを読むときに聞こえてくる幻聴ともいうべき潮騒の音・・・。士官たちが訪ねてくる時の背後の電柱が十字架を象徴しているようにも見え、一本の見事な櫻もまた当然全体を象徴しているわけで、これを監督の黒木和雄さんはあの時代を生きた若者たちに捧げるレクイエム」と言われたそうだが、同じく4月に逝かれた監督に対して、観客の一人としてレクイエムのような気持でこの拙い紹介をさせていただくことにしました。
2006年10月04日
「二コラ・ベネデッティ ヴァイオリン・リサイタル」
毎日雨か曇りの日がつづきます。すっきりとした秋空はどこへ行ってしまったのでしょう。そんなときは心が晴れ晴れする音楽でも聴くのが一番でしょうか。
先の日曜日、予報より早く雨になってしまった中を、すこしばかり痛めた足を引きずりながら、近くで開かれるヴァイオリン・リサイタルに出かけてきました。
1987年生まれというからまだ若い、スコットランド生まれの女性。イギリス国内だけでなく国際的に目覚しい活躍をしているという新星。その美しさにも魅かれて切符を買ってしまった。共演のピアニストも美しかった。やはり美しいというのは得だなあ。
しかし入りの方は、まあまあではあるが満席と言うわけではなかった。
演目は
ブラームス:「F.A.Eソナタ」より スケルッツオ
ブラームス;ヴァイオリン・ソナタ第1番 ト長調 作品78「雨の歌」
休憩
ラヴェル:ヴァイオリン・ソナタ
サン=サーンス:ハヴァネラ
ラヴェル:ツィガーヌ
サガンの小説に「ブラームスはお好き」というのがあるが、純文学の重厚で長い小説を読むような感じがして私には少しばかり重たい。しかしヴァイオリニストの鋭い感性やテクニックが良く感じられるものらしく、休憩時に入ってくる会話にそういう声を聞いた。
ラヴェルのソナタは、第一楽章 アレグレットは、伝統にとらわれない自由の構造、第二楽章のブルース、モデラートは、ジャズの手法を採り入れたもの、第3楽章は、技巧的で華麗な旋律と解説にあるように、現代的感覚のみなぎる技巧も華やかな曲で、すっかり魅了された。
ハヴァネラも、キューバの民族音楽であり、耳に馴染みがあり、これはサン=サーンスがキューバ出身のヴァイオリニストに捧げたものであるという。これも情熱的で技巧的で、それを細い身体で弾きこなす姿とその力量には惹きつけられる。
最後の曲も、「演奏会用狂詩曲」という副題があるようで、これもジプシー音楽の要素を持つもの。ハンガリーの民族舞曲の形式の緩急二つの構成からなるという、これもひどく技巧的で華麗で、ブラヴォーの声もひときわ高くなった。
拍手は鳴り止まず、アンコールも2曲をサービス。一つは、多分タイスの瞑想曲だと思うが、次のは分らなかった。掲示の紙を見るのを忘れてしまったのである。
2006年09月10日
もうひとつの「9・11」を思う初秋の夕べ
今日は、アメリカの9・11同時多発テロ5周年。しかし昨日わたしは、それとは別の9・11を思う会に出席した。ラテンアメリカのチリにおける「9・11」事件である。これまで私はこれについて全く無知であった。多分日本人の多くが同じようなものなのではないだろうかと思う。
チリの詩人ビオレッタ・パラの『人生よ、ありがとう』の翻訳者である水野さんが朗読をするというので、参加したのである。プログラムはそのほか、「世界は、たくさんの『9・11』に満ちている」(太田昌国)、「チリへの思い」(画家、富山妙子)、9・11事件(軍事クーデター)の首謀者「ピノチェット将軍」を描いた著書の翻訳者(宮下嶺夫)の話などがあり、富山さんの絵が並び、パラをはじめとする歌が流れ、チリのワインや手作りのつまみまで振舞われる、楽しくも充実した、だが刺激的で深く考えさせられる会であった。
確かにアメリカでのテロは許しがたい、悲劇的な大事件である。しかしここでは、その悲劇を自分たちだけが蒙った特別な独占物とするな、という。それを争いや憎しみを克服する原点としてこれまでの事を考え直そうと言うのであればいいが(もちろんそういうことは市民レヴェルではやられている)、それを口実にテロへの戦いと称して、武力で世界へ自らの優位だけを誇示していこうとする国家の姿勢が変わらなければ、テロは決して収まらないだろうからだ。
チリの1973年9月11日は、南米チリで軍事クーデターが起こった日という。これは社会主義政権(稚拙で不満も多い政治であったにせよ植民地から開放された民衆によって作られた)が、軍部によって倒され、その後、凶暴な軍政によって民衆は苦しむ。その背後にはアメリカがいた。同じ構造が、植民地時代の宗主国が引き上げた後のラテンアメリカでは起こっているのである。これを聞きながら、私はベトナムでも同じだったではないかと思った。それはアフガニスタン、イラクにも通じる。
大々的に報じられるマスコミの、大きなニュース、そして次々に現われては直ぐ消えていく現象のみに振り回されずに、その裏にあるものや地味であっても大切な事柄をしっかり見ていく事が必要だなあと思った。
80歳という富山さんの情熱的で意志的な、姿勢正しい美しさに圧倒されながら、日本は今堕落している、自分は今その堕落を噛みしめていると言う言葉に、つくづくわたしもそれを噛みしめねば・・・と思ったのだった。思うだけなら易しいけれど・・・・・
帰りの夜空に中秋の名月をやや過ぎた月が、くっきりと眺められた。
2006年08月17日
地球温暖化:「ナガサキアゲハ」がいました。
ブログも夏休みと思っていましたが、昨日TVで「ちょっと変だぞ日本の自然!」という怖〜い番組を見て、最初に出てきた「ナガサキアゲハ」(九州だけにしか見られなかった蝶が今神奈川に定着、北上中)のムクロを庭で発見したので報告します。
このところマスコミでも北極の氷やヒマラヤの氷河が解け始め、白熊も絶滅の危機、海面上昇で島全体が水没して生活や住居を奪われていきつつある太平洋の島々など色々報道されていて、私たちにも気象や生態系の異常が感じられますが、何日か前に大きくきれいなアゲハチョウ! と思って死の間際に捕っておいた蝶がそれだと知り、つくづく眺めてしまいました。
「台峯を歩く会」で、このあたりの蝶の話が出たとき、その話を聞いたのを思い出しました。そのときは実物も図版もなかったので分らなかったし、聞き流していたのでした。
まさにTV で映されたナガサキアゲハでした。広げた羽は15センチほどもあり、黒い羽の根元に茶色の紋と後羽の白が目立ちます。
そのほかにもモンキアゲハという大きなアゲハも南方系で最近増えたと、歩く会で聞きましたが、ガーデニングに精を出しきれいな花をいっぱい咲かせているお隣さんも最近なぜか大きな黒いアゲハが良く飛んでいると思った、と言ってました。その大きく見事な蝶の出現で、元々の蝶は減っていくわけです。
シミュレーションによると、このままの状態がつづけば、100年後、世界最大の森と大河のアマゾンが砂漠になってしまうのだそうです。こういう地球規模の危急存亡の時、どうして人類は互いにいがみ合い、争い、戦争ばかりしているのでしょう。
2006年08月02日
ドキュメンタリー『ザ・コーポレーション』を観る
これは全てがインタヴューによって構成された、怖〜い、怖〜い実話です。
2時間半の長丁場で、その事実や映像を追いかけるのに大変だったのにも拘らず、最後まで食い入るように観てしまい、時間を忘れるほどでした。
題名どおりこれは「企業」の話。「企業」が現代においてどのような存在であるかということを、とことん事実でもって追究した映画です。
これには原作があるそうですが「ザ・コーポレーション —わたしたちの社会は『企業』に支配されている」(ジュオエル・ベイカン/早川書房)、これは研究者向けに書かれた大学教授の著書で、そのアイデアをテーマにして、映画用に逸話やインタヴューで構成して一般にも分りやすくしたものだそうです。
カナダの男女二人の監督。スタッフには、アメリカ銃社会をえぐった「ボウリング・フォー・コロンバイン」や同時多発テロ問題の真相を描いた「華氏911」の監督マイケル・ムーア、また言語学者ノーム・チョムスキー、らが名を連ねています。
インタヴューの対象は、大企業家、政治家、政治・心理・哲学者、報道関係者、さまざまな分野の人間、産業スパイをも含めた人物たちで、その信念や意見の本音を聞きだそうと勤めたそうで、そこから自ずと浮かび上がってくる「企業」の姿とは・・・・。
人類の支配者は、昔は王や貴族、皇帝であり、近代社会では専制君主、独裁者であったが、今日では「企業」が世界の支配者となってしまった。企業の最終目的は、利益と市場シェアの拡大であり、その目的のために人間はモラルも思いやりも忘れ、ひたすらその現代の専制君主にひれ伏し、利益追求に邁進させられているという事実、それによって世界が動いていると言うことに慄然とさせられる。その裏側がこの映画では暴かれている。
考えてみるにブッシュが中東から手が引けないのは、石油という資源のためである。
昔は企業も王や皇帝など政治家に左右されていたが、今日では「企業」は、人と同様に人権と自由が与えられるようになった。「法人」という語で象徴されるように・・・。
「法人」は法が生み出した特別の存在である。しかも「人」と大きく違っているのは、不死身であること、しかもこれには感情も、政策も、倫理もないことである。ただあるのは『どれだけ儲けるか』だけであり、それを唯一の信条として、世界をターゲットにして自由に動き回るのである。それゆえ自分の利益のためには弱いものを踏みつけ、そのためには戦争をも引き起こしてもビクともしない。死の商人と言う言葉が昔からあったが、今日では売る物は武器とは限らない。
とはいえ近代社会は企業なしでは一日たりとも機能しないだろう。また我々はその恩恵を受けて生活をしてもいる。ただそれが知らぬ間に、いまやあまりに巨大な力と自由を得たために怪物化したという事実がある。それを見つめる必要があるとこの映画は警告している。
これを映画では、人間の知と技術によって作り出したドラキュラに喩えている。人間が快適な生活やその発展のために作り出してきたその企業が、怪力を持つドラキュラのように人間を支配しようとしているのだと・・・・。
歴史上封印された事実として、米企業が初期ナチスをサポートした件、戦争の筋書きを作ったこと、GMはオペルを、フォードもまた同様に自車を守り、コカコーラは特別に「ファンタオレンジ」をドイツ人のために作ってナチス御用達となり、IBMのコンピューターはユダヤ人強制収容所で大いに活躍したなど、戦後も責任を取られることなくその利益と自由を謳歌しているのである。
多くの挿話の一つに(日本の企業不祥事件もいくつか取り上げられている)「ボリビアの水道民営化を阻止した民衆の運動の事件」がある。
ある都市で財政困難なため水道事業を民営化したそうである。ところが谷川の水を汲んでも料金を払わねばならないようになった、というのには驚いた。当然、大規模な民営化反対の抗議行動が起こり、最後は取りやめになったというけれど。
民営化とは、公共機関を常に善良な人に譲るとは限らず、損得の競争の中に置くということ、損得を信条とした専制政治の中に置くことである。日本の今の民営化の流れの際も、このことを考えておかねばならないだろう。
この映画の結論として,「企業」を一つの人格としてみた時、今日の企業は
・他人への思いやりがない
・利益のために嘘をつづける
・人間関係を維持できない
・罪の意識がない
・他人への配慮に無関心
・社会規範や法に従えない
以上の点において、人格障害<サイコパス> と診断を下す。
今毎日のように起こっている日本の企業の不祥事、重なる事故もまさにそうだろう。
映画の中の台詞に、奴隷制度の中でも全ての雇い主が悪いのではなくむしろ優しく思いやりのある主人も多かっただろう。しかし制度の中ではそれ以上どうしようもなく、制度自身が変わらねばならなかったのであると。すなわちドラキュラのような企業の姿を変えねばならないのだろう。
この映画を観ると少々絶望的になるが、この企業も元々は人間が造ったものである。この映画を観た人がこれらの事柄に関心を持ち、それに気がついてくれることに希望を託している。
2006年07月30日
黄色い毛虫を飼う
<毛虫の飼育日誌>
7月7日朝、カエデの葉に一匹の毛虫を見つける。
このカエデは最初から紅色をした葉をしているので、そこに黄色の毛虫を発見した時、その美しさが目に付いた。長さ3センチほどだがその毛は細くて黄金に近い感じなので、つい枝を折って家に持ち込んでしまった。
少しも動かないので死んでしまったかと思ってそのままにしていたのだったが、翌日見ると、姿が見えないので慌てた。黄金の毛だけが、なぜか脱ぎ捨てたように置かれていたので、脱皮したのか?など思うと同時にその毛が繊細で美しいので、これは羽衣だ・・・などとつい美化してしまったりした。綺麗な蝶になるのかも・・・と。
あちこち探しまわり、もしかして何かで潰してしまったのではないか可哀そうなことしたと思っていると なーんだ、近くを這っていたのだった。生きていることを確認し、そうすると飼ってみようという気になり一輪挿しのカエデの葉に戻し、この日からスチールの洗い篭で一番大型のをその上にかぶせて観察することにしたのだった。
それからは毎日新鮮な葉を入れてやったが、昼間は死んだように動かない。しかし朝にはたしかに葉は食べられでいて、その色と同じ色の糞が散らばっている。夜、食べるところも観察したが、まさに蚕のような口で咀嚼していく。糞は乾いてコロコロしていて汚い感じではない。前に青虫を同じように育てたことがあるので、この後蛹になるのだと思いながら毎日眺めていた。
ところがこの話をある人にしたところ、そういう派手な毛虫は毒蛾になるのだといわれてがっかりした。
殺した方がいいのだろうか、また殺すべきなのだろうか・・・。しかし毎日葉を新しくして眺めて来たので情のようなものがわき、殺せないのだった。しかし少々疎ましい感情が出てきたのは確かである。
悪魔の子を孕まされるという筋の映画があったのを思い出す。腹の子が悪魔だと知ってもそれを殺せず(そういう人間の母性を悪魔は利用したのである)その醜悪でおぞましい赤子が産まれて来たときも、本能のように乳房を含ませようとする場面があった。そのように私も毒蛾を育てることになるのか・・・・
どうなるのだろうと怖さもそれからは感じながらそのまま育てているうち、丁度10日目の17日、朝見ると繭が出来ていた。スチール篭の側面に自分の長くて黄色い毛を使って薄い4センチほどの繭をつくり、更にそに中に身の丈ほどの繭を少し濃い目に作っていた。すなわち二重の繭の中に入ってしまっていた。
最初も自分の毛を脱ぎ捨てたように見えたが、そんな自分の毛を使って繭を作るとは・・・と器用さに感心する。それもなかなか綺麗である。
何時羽化するか・・・それが少々気がかりだった。毒蛾が出現したらどうしよう?
恐る恐る毎朝それを点検する日がつづいた。中はだんだん蛹色が濃くなっている感じ、頭部が出来つつある感じ、微動だにもしないのに内部では劇的変化をしているにちがいないことに不思議な思いを抱く。そして一昨日28日の朝、見てみると繭の上に一匹の蛾がいた。
それは止まって動かない。生まれたとたんミイラになったのかもと思われるほどであった。
夕方になってもそのままだある。てっきり死んだのだと思ったが、夜露に当てるべきだと言われ、庭の草むらに夜中そのまま篭を伏せて置くことにしたのだった。
さて、その蛾の姿と言えば、全体が生成りの布のような白っぽい色をして体長3.5センチほど、羽は少し細長く止まっているときは蝉のようにつぼめた感じ。白い羽には薄く細い焦げ茶の筋が横じまとなって2本。昼間は全く動かないので、(夜どんな風にしているかほとんど分らない)危険な毒蛾とは思えずちょっと安心した。
そこでこの蛾の正体についてですが、私の蝶類図鑑には出ていないので、図書館に調べに行きました。そこでピタリと分ったわけではなく大体の感じからですが、どうもヒトリガの一種であるようです。ドクガというのではなさそうで、またその害は毒針によるらしいので、毛虫の毛に触らなければ大丈夫のようです。昼間は蛾になった今でも全く動かず、羽を触ってもビクともしません。手さわりはいいのです。
しかしかつて問題になった、アメリカシロヒトリもこの仲間なので、これも蔓延ると庭木を食い荒らす害をなし、退治するのに大変だと言われたこともあって、自分の手で殺すのは忍びがたいので今夜にでも少し遠くに放してやりに行くか(カミツキガメではないので、一匹ぐらい害にはならないだろう)・・・・などと思っているところです。それにしてもデジカメもケイタイも持っていないし、ここに取り込むことも出来ないので、こんな時言葉だけの説明ではどうにもなりませんね。
ほぼ20日間の飼育記録でした。
2006年07月27日
「母たちの村」を観る
フランス・セネガル合作のこの映画を「岩波ホール」へ観にいった。感動的な映画であった。
いまだにアフリカに残っている「女性性器切除(女子割礼)」の風習に、一人の女性が立ち上がり最後には村の女たちがこぞって拒絶していく物語で、事実にも基づいている。
私たちには到底考えられず許しがたいこの風習については、ずいぶん前に読書会でも取り上げているが、最近もそれを拒絶してアメリカに逃れ、その体験記を著したと新聞に紹介されていたのを目にもしていた。その体験記によると、その有様は「4人の女に押さえつけられて、ナイフで外性器をそぎとられる。麻酔も消毒もない。両足を閉じた格好でぐるぐる巻きにされ、傷口がふさがるまで40日間、ベッドで過ごす。ショックや感染症、出血多量で命を落す人もいる。同一視されがちな男子の『割礼』とはずいぶん違う」とある。
この風習は50余りあるアフリカの国々のうち、現在でも38カ国で行われているという。行わなければ結婚も出来ず差別される。こうした伝統はアフリカ社会における男性優位と一夫多妻制を維持するためのものと思われるが、女性の中でもそれを宗教的伝統として是とする者もいることは、長い歴史を持った制度だけに仕方ないことである。(中国で行われていた纏足でもそうである。これは男性が女性の足を性的な愛玩物としたいがため、また愛妾たちに逃げられないため、女を閨の中に閉じ込めておきたいがために作り出した男性の美意識によるものであって、それは女性の美意識まで影響しているのである。天下の美女楊貴妃も纏足をしていた。)
この「女性性器切除」(略称FGM)廃絶は「世界女性会議」にも持ち出され、支援運動も広がっている。
さて前置きが長くなったが、この舞台は西アフリカの小さな村が舞台。そこでの風景と村人たちの日常生活が映し出されているので、アフリカのことはほとんど知らない私には新鮮で楽しかった。緑は豊かだが乾燥した黄色い土地におとぎ話の村のような土造りの家々、円筒形の貯蔵庫、中心には大きな蟻塚とこの土地独特のハリネズミのように黒い棘を出した白い土造りのモスクが象徴として存在し、鶏の声がして牛や犬も人間と共にうろうろして、その中で女たちがいそいそと働き、子どもを育てている。女たちが着ている物は皆カラフルで、村に一つの露天の店先には色とりどりのjシャツにまじってブラジャーやパンティが翻り、薬缶までもがカラフルな縞々なのだった。
その村に、かつて自分の娘に性器切除を拒否した女性(コレ)の下に、それから逃げ出した女の子が4人保護を願って頼ってきたことから端を発する。その行為を「モーラーデ」と言い、原題はそれである。それはちょうど日本で言えば駆け込み寺のようなもので、有力な人のところに駆け込んで保護を願い、それを受け入れれば、それが始まり、入口に綱を張り結界として、そこから出なければ、どんな有力者も手が出せないという、古い掟があるのである。しかし女の身で、第二夫人、しかも夫の旅行中にそれを始めるのは決死の覚悟がいる(第一夫人もかげながら支援するが)。
そして最初は割礼を行う女たち、男たち、最後は長老や夫の兄たち、また少女たちの親たちからでさえそれを解くようにさまざまな圧力がかかる。圧巻は帰ってきた夫が、最初は理解を示しながら一度も女を殴ったことがないという優しい人柄であるにもかかわらず長老や兄に責められ、「それは我々の名誉を汚すものだ、夫として権威を取り戻さねばならない」と言われて鞭を手渡されたとき、初めてコレに鞭を振り上げ、綱を解くと言葉を発するまで叩き続けるところである。
コレは最後まで声を上げない。次第に男たち(割礼行為の女を含む)と女たちの対立がくっきりしてくる。
黙っていた女たちがいっせいにコレを励まして声を上げるのである。そうしてこの後全員で長老の前に押しかけて、今後は全員拒絶すると宣言するのである。
いま大筋だけを辿ったが、コレが割礼させなかった、年頃の娘と副村長のフランスから帰ってくる婚約者(彼我の落差などもあって面白い)の婿の話や、露天商と村人、特に女たちとのやり取りやら、女たちから情報の元であるラジオを全て取り上げて燃やすこととか、いろいろ話はあってドラマとしても面白かったが、はじめはこの映画は女性の監督だと思ったのに男性で、しかも15本も作品のある85歳だというのも驚きであった。(ウスバン・セルベーヌ監督はアフリカ映画の父といわれ、あらゆる権力と戦い、常に勝ち抜いてきた英雄だと尊敬されている人だとのことである)
このような映画なのでいろいろ感じたこと考えることもあるがここでは最後に特に感じたことを少し。
先ず、映画では女たちの働く姿がいろいろ出てきたが、そのとき男たちはどうしているのだろうと思った。
もしかしてモスクで祈るか、自分だけラジオを聴くか、パイプをふかすか・・・?
するとパンフレッドにちゃんと書いてあった。アフリカでは女性の方が多く働き、男性は畑用の土地を開墾すると、後はせいぜい除草を手伝うくらいでその他はほとんど女性によってなされているのだという。子育てから力仕事まで全部。女性は一日中労働し続けで、だからそんな女性を多く持つことが富につながっているのだという。多妻を持つのは経済のためなのだ!そして女性性器を切断して性交を苦痛なものにすれば、浮気を防ぐだけではなく、快楽を求めることも出来ないので労働に専念できる!何という巧妙な策略だろう。大昔からそれは男の知恵だったのだ!
次に、人間らしい心を持ったコレの夫が、鞭を手にして妻を打擲する決心をしたのは、兄から言われた言葉、男の権威、名誉を汚すことを許してはならないと言う一言である。すなわち、これこそが人と人を戦わせる言葉なのではないかと私は思い、これこそが今もって戦争へと男を駆り立てるものではないかと思うのであった。いまアフリカでは部族紛争が絶えない。いや中東然り、あらゆるところに・・・・。そういう男の原理で国も動いているような気がするのである。
最後に「アフリカは『母性的』だと思います。」という、監督がインタヴューにこたえている内容のなかで、心惹かれた部分があったのでそれを紹介することで終わることにします。
『アフリカ人男性は、母親という観念をとても大事にします。自分の母親を愛しますし、母に誓いを立てます。また、母親の名誉が傷つけられてしまうと、息子たちは自分自身の存在価値をも傷つけられたと感じるのです。アフリカの伝統によると、男には本源的な価値はなく、母親より価値を与えてもらいます」
人類のルーツを探るとアフリカの一人の女性に辿りつくと、どこかで見た気がする。今こそ人類はそういうアフリカ精神の大本を思い出すときかもしれない。
ところでサッカーのWCでフランスのジダン選手がイタリアの選手に頭突きをした事件、それは母親と姉を侮辱されたからだと言う。ふっとそのことを思い出してしまった。
2006年07月24日
梅雨空の下「ゾリステン コンサート」に出かける
今日もまたどんよりとした空の下、時折雨が降っている。梅雨明けは8月になるかも・・・と告げている。
こんな日々の続く昨日、弦楽器のソリストたち16人ほどで構成されるこの合奏会を聴きに出かけ、さわやかな気分になって帰ってきた。
しかし、記録的な豪雨によって、少し前には長野など中部日本、また今は鹿児島など南九州で川が氾濫し道路も鉄道も水面下に没したり、山や崖が崩れて家が押し流され死者も出ているのを見聞きするにつけ、何か申し訳ない気になったりする。欧州では記録的な暑さで、パリなども40度近くにまで気温が上がり、死者も出ているとか。確かに世界的に最近は異常気象がつづき、これらも地球温暖化の一つの現象かもしれないが、とにかく自然というのは人間の手に余る、頗る厄介なものだなということを痛感させられる。
90歳になるまでこんなことは経験したことがないと語るお年寄り。しかし被害にあった人たちの多くは、ただ早く雨が止んでくれることを願うだけ・・・と静かにつぶやくだけである。これだけ人類が進化し、科学が発達し、近代化し、国が豊かになり国力もあるのに何の為すすべもないのである。
アメリカ南部を襲ったハリケーンだってそうだ。
こんな時先日TVで「人間の脳に潜む 地球破壊のメカニズム」という内容で養老孟司が秘境でそれを解明する番組を思い出す。すなわち「脳」という知(理性、意識的、合理的な解釈、「ああすればーこうなる」という因果関係、すなわち科学、近代的思考)の発達は、人間を「肉体」という感性(五感、意識下、非合理、混沌、未開といわれる、もやもやした部分)から人間を解き放ち、人間に秩序や合理性を味わわせ、それが脳に快感を与えた。そして脳はどんどんその方向に進むのであるが、それこそが自然破壊、地球破壊につながっている、と解くものである。脳ばかりを発達させて、自然である肉体の声を無視するためにストレスなどが生じると同様、環境の場合も、「脳」に当たる「都会」に対しての「緑」、「田舎」の都市化が進み、すなわち近代文明の発達、近代化、コンピュータ化が発達しすぎてしまっているゆえに地球破壊の方向に進んでいるとというのであるが、これらは今までも言われてきたことであろう。
しかしその中で私の心に残ったことがあり、これも当然のことかもしれないが、自然(肉体)は決してコントロール(征服、支配)はできず、それと対話するしかないという言葉である。すなわち、自然には人間の論理や理性で測れるような因果関係、ルールなどはなく、それを知るにはただ対話をするしかない、その声を聞くしかないということである。「秘境」の人々はそうしながら生きて来たのである・・・と。
「台峯を歩く会」のKさんが常に言うのもそのことであった。この自然をどうしたらいいのか、その答えは直ぐには見つからないと。自然はその土地土地によって全て違う。年によっても違う。だから学者の説も研究も、参考にはなってもこの場所に全て当てはまるわけではない。いつもいつもこの自然と付き合うことによって、どうしたらいいか考え、試行錯誤していくしかないのだ・・・・と。(昔の人は生活の中でそれをやってきたのでした)それが「里山」の「手入れ」だと。しかし役所の管理下に置かれるとそうは行かないであろう。しかしこれは別の問題なのでこの辺で終わります。
閑話休題。
こんな風に依然とつづく梅雨空の下、コンサートに行ってきました。内容は「真夏に聴きたい名曲集」と銘打ってモーツアルトを最初と最後に置いた、いずれも楽しくさわやかな曲、それに身を浸しながら脳も身体も共に快感を味わいながら帰ってきたのでした。
モーツアルト(ディヴェルティメント ニ長調 K.136)
ヴォルフ(イタリア風セレナード)
ヴィヴァルディ(協奏曲集「調和の霊感」から第8番 イ短調)
休憩
バーバー(弦楽のためのアダージョ)
チャイコフスキー(アンダンテ・カンタービレ)
モーツアルト(セレナード第6番 ニ長調 K.239 )
この家も丘の中腹にあります。この下の町は、床上浸水したことがありますし、このあたりも崖崩れの危険が常にあります。そうならないようにと、これからの梅雨空に向かって祈るしかありません。
2006年07月13日
『夢の痂(かさぶた)』を観る
井上ひさしの「東京裁判三部作」シリーズの3作目とのこと(演出:栗山民也)だが、戦争責任を考える上で、「日本語」自体に焦点が当てられているらしいことを新聞の劇評で知り観に行こうと思った。
ところがまだ中(なか)日にもなっていないのに全日程満席と言う。当日売りかキャンセルしかない。井上ひさしの劇は評判が高いことは知っていたが、やはり新聞に紹介されたからであろう。民芸の場合でも、そんなときだけは補助椅子が出たりする。どちらかと言えば真面目で真摯な民芸に対して、コメディー仕立てで面白おかしく物の本質に迫ろうとする井上劇は前に『円生と志ん生』を観たが面白かった。
何とかして見たいものだ、せめて台本だけでも読みたいと思ったが(よく文芸誌にそれが掲載される)、まだ出ていないようだった。ここで言ってしまいますが、実は『すばる』8月号に載ったばかりで、それが劇場で販売されていました。こんなことを言っているのですからもちろん私は切符を手に入れたわけです。キャンセルを狙い、まだ日にちはあることだから毎日でも電話をしようと思っていたのですが、運良く二日目に取れました。初台にあると言う新国立劇場は初めてでした。
当日は出かける日が続き疲れていたこともあって、最初は少しうとうとしてしまったところもありましたが、だんだん面白くなり目もぱっちりしてきて引き込まれ、笑ったりもしながら最後では大きな拍手を送りました。
井上氏は言葉へのこだわりがあって、そこに私も興味が引かれます。この作も「東京裁判」の一環として、「戦争責任をあいまいにしてきた庶民の心性そのもの」(新聞評)を、底から見つめようとするものですが、それは日本語という言葉に拠るところが大きいと言う点に、大いに興味がありました。この問題は言葉に関わるものとして常々考えていることですが、問題は大きく、ここで論じるわけには行きませんが、劇の中で言われていることを簡単に言うと、日本語には主語がない、主語「が」が省かれることが多く、状況「は」によって物事が決まる、だから「が」の責任は問われることなく、「は」の状況によってクルクル変わることができる・・・。そして「は」という状況の中に、主語の「が」を捨てて隠れることができる といった(言語学や文法的な硬い内容の)ことを、敗戦後人間宣言をした天皇の地方巡幸という舞台設定で劇に仕上げているのはなかなかのものです。それをビジュアル化したものが屏風という発想も面白く、元大本営参謀で自殺を試みるが命をとりとめ、今は古美術商をしている男(角野卓造)が商う古い屏風の数々です。天皇はもちろん金屏風で、ご巡幸のリハーサルをするという筋書きの中で、天皇の責任についても追求されているのですが、これは新聞には取り上げられないでしょう。
状況というのは、場です。
「金屏風でおごそかな場、簾屏風でくつろぎの場、枕屏風でやすらかな眠りの場、・・・・・・私たち日 本人は、屏風を使って、一つの座敷をいろんな場に変えるんだよ。昔立っていたのは天子さまの屏風、今立っているのはマッカーサー屏風、だからそこは民主主義の国、自由自在なんだ。」と。
もちろん劇はそういう論理的なものだけでなく、時代風俗や色恋沙汰もまじえつつ歌と台詞で楽しませられますが、最後はどんなことがあっても続いていく庶民の日常の大切さ、それに希望を託しつつ(「日常生活のたのしみのブルース」)最後にこう歌わせて幕を閉じます。
「この人たちの
これから先が
しあわせかどうか
それは主語を探して隠れるか
自分が主語か
それ次第
自分が主語か
主語が自分か
それがすべて」
2006年07月08日
民芸『エイミーズ・ビュー』を観る
もう一週間近くたってしまったが、紀伊国屋サザンシアターでこれを観た。
題は日本語にすると「エイミーの考え」と言うことで、エイミーが子どもの頃、自分で印刷して近所に売り歩いていた新聞のことである。そんなしっかりした考えのエイミー(河野しずか)と彼女が尊敬してやまない舞台女優の母親、エズミ(奈良岡朋子)の母と娘の物語である。と同時にエイミーの夫となり、後にTVで代表されるマスコミの世界で成功していくドミニック(境賢一)との芸術上の対立のドラマでもある。
父子と違って、母娘には絶ち切れぬ関係が最後まで続き、愛が深ければ深いほどその愛憎は深くなる。一方、舞台芸術に固執しTVを軽蔑する母親と、その世界で成功の道をひた走る夫との間に立って、それを何とか和解させようとするエイミー、その信念は「愛」であるが、バブル期を経て16年間に夫婦の間は破綻し、エイミーの自死ではないが突然の死という結末に至る。
奈良岡朋子は、舞台で自分の職業の女優の役は初めてだそうだが、この役は経歴はもちろん現在の状況に通じるところがあり、水を得た魚のように思い切り演じているようだ。
TV、マスコミの発展の中で、果たして演劇は死に瀕しているのか・・・?
そこで、パンフレッドの中にある作家恩田陸さんの文章に共感を覚えたので、それを紹介することで結びとします。
「この作品は、1997年のものだが(イギリス=筆者注)、現在のヘア(作者)はどう思っているのだろうか。21世紀を迎えた今・・・まさにテレビもマスコミも死につつあるこの状況を? 「死んだ」と断定したがるのは、常に男たちである。特に現代のきな臭く不安に満ちた世界では、男たちは世界を終わらせたくて仕方ないように思える。しかし、女たちが芝居を演じる限り、誰も死なないし、演劇も死なない。先ずは、女は産んで育てるところから始めるからだ。—そもそも苦労して自分が産んだものを、おいそれとは殺せないし、死なせない。もしかすると、「母と娘たち」の時代(=いまや息子に多く期待せず、むしろ誰もが娘を頼る時代になったと言うこと)は、終わりたがっている世界が意識下でSOSを求めている時代かもしれない。」
2006年07月04日
「ヨコハマメリー」を観る
まだ横浜で上映している、良かったですよ、と水野さんに教えられて見に行った。
一時は行列ができるほどの混雑だったようだが、館も変わり平日なのでゆったり観られた。
横浜の街に戦後から最近までずっと一人で立ち続けた米軍相手の娼婦の半生の物語で、戦後の街の映像やインタビューなどで構成したドキュメンタリー。
顔を真っ白に塗り、白いドレスを着ていたことから、人々から奇異の目で見られ、注目されていた。私は見かけたことはなかった。しかし関心はあって、新聞記事を切り取ったこともあり、それはこの映画の前に女優の五大路子さんが、彼女をモデルにした一人芝居「横浜ローザ」を公演していた頃の話で、メリーさんを知る人を訪ねてインタビューをするTVのドキュメンタリー番組の紹介であった(98.8,9)。もちろんこの話も映画には取り入れられている。その当時も、すでに街からは離れ、老人ホームで暮らしているとのことであったが、今度の映画では、そのホームまでカメラは追いかけており、と言うより彼女に親友のように接し交流もしたシャンソン歌手の永登元次郎さんが訪ねるという結末があり、それが或る感動をもたらす。
五大さんのお芝居のフィナーレで、感動した観客は「五大さーん!」でなく、「メリーさーん!」と言って触ろうとするのだと、五大さんが熱っぽく喋っていたのも印象的だった。それは新聞のリードに「『ハマのメリーさん』軸に横浜の戦後裏面史たどる」とあったように、その背景には横浜の戦後の庶民史と復興によって変わっていく街の姿かあり、それへの人々の愛惜と共感があるからであろう。
私は見かけたことがないが、ハマっ子の徳弘康代さんはよく見かけたらしく、「ペッパーランド」の今号にそのことを取り入れた詩を書いている(メリーさんその人をではなく、一つの点景としてである)。
しあわせおばあさん
−略ー
むかしこの街に
まっ白く化粧した白いドレスの
しあわせおばあさんがいた
メリーさんと呼ぶ人や
シンデレラおばあさんと
呼ぶ人がいた
街角にすっと立っていて
ほとんど動かなかった
もうシンデレラおばあさんは
いないけれど
高島屋あたりに立っていたことを
覚えている人は少なくない
あのおばあさん
どうやって暮らしていたんだろう
-略ー
その立ち姿には、不幸だとか惨めだとか哀れなどという言葉をはね返すほどの毅然としたものがあったのである。横浜という地は、大空襲にさらされ、敗戦になったときは厚木基地に降り立ったマッカーサーが宿泊したのが横浜のホテル、それに象徴されるようにその後米軍の町になっていく。いわば戦後の日本を象徴する町の一つ、そこで娼婦とはいえ一人、気位高く生き続けた生涯であった。
どうやって暮らしたかも映画を見るとすこしは分り、又どこで寝泊りしたかも分ります。
戦後という混乱期の舞台で十分に自分の役を演じきったメリーさんが、実は故郷に帰ったということも初めて知った。その引退先の老人ホームで、真っ白い仮面を脱いだその素顔の美しさには感動すら覚えた。
元次郎さんの歌う「マイウエイ」、まさにメリーさんの生涯そのものを歌ったようなその歌詞(それは元次郎さん自身にも重なる)に頷きながら聞き入るその顔は、周りのお年寄りたちの中でも際立っており、輝きを帯びているようにさえ感じられたのである。
まさに「しあわせおばあさん」の顔であった。
2006年06月27日
ホトトギスとウグイスとムクドリ
先日26日のTVの『毎日モーツアルト』で、モーツアルトがムクドリを飼っていたことを知った。父の反対を押し切って結婚した後、その許しを得たいと初めて新婦コンスタンツエを連れて里帰りをしたその留守中、長男を無くして悲嘆にくれるが、その悲しみを癒そうとして飼いはじめたらしい。ところが嬉しいことにコンスタンツエが2度目の妊娠をしていることを知り、その喜びの気持ちを表現したのが「ピアノ協奏曲 第17番 ト長調」であると言う。それは生命感のあふれる曲となり、3楽章のはじめにムクドリの囀りを表した部分があるというので、興味津々で聴き入った。
確かに鳥の鳴き声を模した、弾むような旋律がある。しかし日本のムクドリはそんな鳴き声なのかなあと、思うのだった。実を言えば、差別するようだが姿も色もあまり綺麗ではなく、ムクムク ボサボサした印象で、鳴き声だってしゃがれていたような気がする。どなたかご存知だったら教えてください。だからムクドリを飼いたいと言う気にはならないのである。モーツアルトも綺麗な鳥というふうには言っていないようで、おどけたお喋り、時にはふざけたいたずら者・・・憎めないやつ、いとしの道化、などというのだからやはりあまり綺麗ではなかったのだろう。しかし曲で表現された囀りの旋律は活き活きとして心が明るくなる。それは鳥の声そのものではなく彼のピアノの作曲に拠るものなのだろうか。
ところで今この辺りではしきりにホトトギスが鳴いている。昔から夏を代表する典型的な鳥で、その鳴き声も特徴のある馴染みのものだが、なぜか今年はその鳴き声が目立つような気がする。ウグイスもこの辺ではずっと夏まで鳴き続けるのだが、反対にその声があまりしない感じなのである。なぜだろうとふっと思う。ホトトギスはウグイスに託卵する。とすると、もしかしてウグイスの卵の方が少なくなってホトトギスのほうが増えすぎたのでは・・・など、要らぬ心配をしたりする。
2006年06月22日
『坂本繁二郎展』を見る
昨日用事もあって出かけたが、そのついでにブリヂストン美術館に行く。
坂本繁二郎は生まれが久留米、そして後年もその近郊(八女)に住んで制作活動をしたのでブリジストン(石橋家)とは深い関係があり、これは美術館開館50周年を記念して開かれたものである。そんなこともあってその生涯(89歳で没)が一望できるようになっていて見ごたえがあった。
私も久留米に子どもの頃住んでいたことがあるので、ちょっとした縁も感じた。八女はお茶の産地である。
TVでの紹介で見たいと思ったのは、日本の洋画の創成期に活躍、パリへも留学しながら青木繁、梅原龍三郎、佐伯祐三といった人たちのように日本の風土を超え、強烈で新鮮な色彩感覚で独特な画風を造ったのとは違って、それらを取り込みながらも日本の風景や馬や牛や人物を、模索しながら日本画や版画の技法にも近づくような形で独自の世界を造っていったような人であることに魅かれるところがあった。名前は知っていたがこれまでしみじみと見たことはなかった。
全体的に油絵でありながら、どこかパステル画を思わせるような色彩、マチエールである。一見単調で淡く地味な色調でありながら、じっと見ていると深い質感があり、確かな存在感がある。東京やパリにいた時期には人物画も多いが、八女に居を構えてからは風景や牛や馬、特に後年はさまざまな馬の画がある。馬の躍動する姿、親仔の情愛をも感じさせる姿、そしてその毛並みにすらまじる独特のエメラルドグリーン。そしてそれは馬自身を描くと共に、その肌につやを与える陽の光や風をも感じさせる印象派的な画風をも思わせられるのである。
高年になると能面や静物画が多くなり、晩年は月(それも満月)を書くことが多く、雲と月、馬と月などの取り合わせなど、風景と言うより一種の幽玄の世界、抽象画、心境画的なものへとたどり着く。
詩人との付き合いもあり、前田夕暮、蒲原有明、三木露風、丸山薫などの詩集の装丁や挿画も手がけているので、どこかそのポエジーに近いものもある。
西洋画に迫る油絵と言うより、西洋画をとりこみ日本的な油絵を創出したと解説にあったが、まさにそういう感じがした画群であった。
はっきりしない曇天で小雨も降り始めていたけれど、会場の中に漂う梅雨の晴れ間のような気持ちの良い空気を味わい外に出ると、雨は止んでいた。こういう日本特有の季節にむしろぴったりの画家かもしれないと思いながら会場を後にする。
2006年06月18日
オペラ『魔笛』を観る
今年はモーツアルト生誕250周年、色々特集が組まれていて、わたしもこれが機会とばかり、かなりモーツアルトにはまっている。これもその記念特別企画ということで、近くに『魔笛』がやってきたので観に行った。
恥かしながらオペラを実際に観るのははじめてである。TVやFMで聞くことがあっても劇場に出かけたことがない。それで、ちょっとワクワクした感じだった。しかも私のような者にも馴染みのある『魔笛』で、2幕全曲である。出かけるときは梅雨空ながら薄日の射すお天気だったが、帰りには雨となった。じめじめした日本とは対照的なヨーロッパ文化の粋を思わせる、豪華な異次元体験を味わった思いで雨の中を帰ってきた。耳の中にはパパゲーノの笛の音、夜の女王のアリア、パ・パ・パの二重唱などがいつまでも鳴っているような気がした。
演じるのは「プラハ室内歌劇場」(プラハ国立歌劇場、プラハ・ナショナル・シアター、チェコ・フイルのトップソリスが集結とある)という。
ライヴというのはやはり映像とは違う。しかも初めてなので何もかも新鮮で、楽しみながらも色々考えてしまったが、それを少しばかり書いておくことにする。なんといっても初心者、滑稽な感想もあるかと思うけれどそれも許していただくことにしよう。
舞台には歌舞伎などとはまた違った重たい深紅の緞帳が下がっている。その前がオーケストラのボックスである。それはちゃんと分っていたのだが、いつもは舞台の上で見るオケが、狭い穴のようなところに入っているのは気の毒な感じもする。その中は、私は3階席であったので覗ける(オペラグラスというより双眼鏡を持って行っていた)が、1階の最前列は前の仕切りの壁が立ちふさがっていて、面白くないなあと思ってしまった。
しかし考えてみれば歌舞伎の場合も同じことで、長唄連が舞台の奥にずらりと並ぶ場合もあるが、多くは舞台の袖の御簾の中にいて演奏している。やはりどちらも音楽と劇とが合体した総合芸術なのだなあと当たり前のことだが思った。音楽だけを聴いているとそのことを余り考えていなかったのである。
序曲が終わるまで、深紅の緞帳に大きくハート型のライトが当たったままで、幕は開かない。どんな舞台が出てくるだろう、どんな劇が展開するのだろうと、その間に期待が高まってくる。そんな気持ちを高めるように、またその内容をも何となく予感させるように、序曲は作られているのだということが実感できる。確かにだんだん心が高まってくるのが感じられる。それが終わると、サッと幕が開くのである。
王子タミーノが、怪物に追われて夜の女王の棲む森の中に逃げ込み女王の3人の侍女たちに救われる場面から始まるが、夜の森にすむ者たちの豪華というかおどろおどろしい衣装は、歌舞伎の誇張されて派手なデザインの衣装とも通じる感じがしたし、どんな場面も観客をあきさせない趣向が凝らされていることも、舞台芸術のあり方の共通性を見る思いがした。大ホールは隅々まで満員で、拍手もなかなか鳴り止まなかった。
オペラそのものや演出についてあれこれ言う能力はまったく持っていないが、とにかく面白く素晴らしく、モーツアルトのオペラの中でも内容面でも構成面でも完成度の高いものではないだろうか、と直感的に思った。
パパゲーノたちカップルを登場させたことが、いかにも天才モーツアルトの軽々と天空を行く才能を感じさせる。それは重々しいイシス、オリシスの神を讃える清らかな正義の世界の中に、人間味あふれる軽やかな風を吹き込み、主題である愛を身近なものにさせてくれるからである。
歌舞伎を比較に出したのでついでに、これも独断と偏見で物をいうと、そこに見られる主題の違いということも考えさせられた。ここでの大きな主題は愛だろうと思うのだが、そこには必ず神の存在がある。これに限らず西欧のオペラには、人間の情欲を含めた愛、究極の愛、神との愛など、愛が問題になることが多いと思うのだが、そしてそれは日本の歌舞伎や人形浄瑠璃なども同様だが、日本の場合は義理と人情と言われるように、主君や親への忠孝といった義理と、人間の自然な心である情愛であり、地上的・横軸的な関係であるのに対し、あちらは天上的・垂直的、なんとなく東西の違いがあるような気がする。
こんなことをくどくどと考えさせられたオペラ初体験。それを祝し帰ってから、ビールで乾杯した。
蛇足一つ。これはまったく初歩的なことで、笑われるかもしれないが、劇が始まると舞台の両袖に字幕が出て、台詞や歌の和訳が電光掲示されたことは私のようなものにはとても助かった。それによって笑い声の生じる場面もいくつか出たのだった。多分歌舞伎の海外公演などもこういうことが行われているのであろう。
2006年06月12日
ムクドリ無事に巣立ったようです
巣がシーンとしているのでもう巣立ったのだろうと思っていたが、確認できたので報告します。
巣のあるお隣さんと出会ったので聞いてみると、やはり鳴き声が全然しなくなったとのこと。
今日ゴミ出しに行った時、それらしい場面を目撃した人がいて話をしてくれました。先の月曜日、その家のエアコンの屋外機の陰に雛が落ちて蹲っているのを若奥さんが発見、人間が触って匂いがつくといけないからと、そっと一緒に見ていると、親鳥らしいのが来てしきりに鳴き、その声に励まされて雛は立ち上がり、それから親に付き添われるように何とか飛んでいったとのこと。しかしその後からカラスも飛んで行ったので、カラスに追われてそこに逃げ込んだか・・・、後は分らないが親が付いているので何とか生き延びれたかも・・と。後にはまだ雛が残っていたけれど、それもきっと巣立って行っただろうと。
まあこれは人間が傍から眺めて勝手に想像した一つの物語だけれども、人間世界とは別に鳥の世界が同じように独自に存在して(植物も昆虫も)、それらが層のように重なり合い、それぞれ独立しながら関係しあって地球上の世界を作っているのだなあ、と思ったものだった。
こんなことを考えたのもこれもまたTVだが、先日渡り鳥の生態を素晴らしいアングルで追いかけたドキュメンタリー映画『WATARIDORI』を見たせいかもしれない。地球上を何千、何万キロの旅をして暮らす渡り鳥などは、人間世界の範疇を超えたところで生きている存在のように思えてくる。それでいて人間の文明の毒をもろに浴びもするのであるけれど。渡り鳥の種類も多く、それぞれが毎年何千キロもすることに感嘆しながら、ついメモを取ってしまったので、すこしここに書いておくことにしよう。
ハクガン 4、000キロ / カナダヅル 3、500キロ / キャクアジサシ 20、000キロ /
シギ、チドリ 10,000キロ /ハイイロガン 3,000キロ / クロヅル 4,000キロ /
カオジロガン 2、500キロ / オオハクチョウ 3,000キロ / インドガン 2、500キロ /
ハクトウワシ 3000 / カナダガン 3500キロ / モモイロペリカン アメリカ大陸横断 など・・・.
とにかくすごい距離である。
2006年06月06日
「割り箸」と『山の郵便配達』
「割り箸」は、自然破壊につながるものか否かと言う議論は前からあって分らなかったが、今晩TVで初めてその実態を知った。
これまでも使い捨てすること自体が、資源の無駄遣いという議論は分りやすいが、実はそうではなく、山林を育てるためには間伐が必要で、それを利用することが出来、またそれが利益をもたらすという点で、結局は山林と林業を育てることになるという、廃物利用という意味でエコロジカルなシステムだと言う意見があり、なるほどと納得してきた。
ところが昔の日本はそうであったが、今はそうではないと言う。今はその90パーセントが中国からの安い材木を輸入しているのだという。中国でも建築材料としては役に立たない白樺だそうだが、今日それも建材として使えるようになり、また割り箸も日本に真似て使うようになり、山林破壊も進んできたため材木の値上げが持ち出されてきて、割箸業界やそれを使用する外食産業、コンビニは大慌てらしい。
そこで国内の割箸産業の復活をと方向転換しようとしたところ、中国からの安い輸入に押されて、ほんのわずかな家内工業をのぞいて多くが廃業してしまっているのだそうだ。そして資材を提供してきた山林自体も荒廃してしまっているそうなのである。(その地は吉野という)
安価とスピード、利便性を追い求めてきた私たちが辿ってきた道である。中国だって同じことで、それに気がついて引き返そうとしているだけであるが。
そしてその後やはりTVで映画『山の郵便配達』を見てしまった。というのもこれは岩波ホールですでに見ているのだが、また見てしまったのだった。ご覧になった方も多いと思うがとてもいい映画である。
物語は単純で、中国の山岳地帯(湖南省)に転々と散らばる小さな集落に、手紙や新聞を一往復2泊3日がかりで険しい山道や川、崖をよじ上ったりして歩いて届けて回る郵便配達員の物語である。引退する父が息子とともに歩く(共に行くシェパードの犬がまた利口で可愛くて見ているだけで飽きない)たった一回の行程の話なのだが、そこには回想が重ねられ、山の集落の生活があり、村人と配達員との絆があり、そこにも発展していく近代国家の影も落ちることもあるものの、まだここには貧しいながらも自然と人間の豊かな結びつき、そして親子をはじめとする人と人との絆の輝きがあって、心が深々としてくるのである。
急速に経済発展を遂げる中国の、これはもう一種の郷愁のようなものになっているのかもしれないけれど。
折りしもこのところ村上ファンドの社長が逮捕されて、世は大騒ぎ。これもただ金 金 金 と経済効率の世界。安ければ売れる、安いのが勝ちの世界。金儲けをしたものが勝ちの世界。私たち消費者もつられて、安いものを、便利なものをと追い求めてきた付け、すなわちその崩壊が今来ているのだろう。
割箸産業で生活していた吉野も山の村である。その村と山林を荒廃させたのも、私たち消費者にちがいないのである、とつくづく思いながら『山の郵便配達』を見ていたのであった。
2006年05月30日
映画『プライドと偏見』を観る
この映画は見たいと思いつつそのままになっていたが、幸い近くの館にやってきたので出かけていった。
私には非常に面白く、楽しく、いろいろ感じ、考えさせられることが多かった。
ジェーン・オースティン原作『高慢と偏見』は読書会でも取り上げたことがあって、その時アメリカで暮らした経験のある人から、これは向こうでは時代に関係なくベストセラー的な人気のある作品だというコメントが出たが、なるほどということがこの映像を見てよく分った。中心にあるのは、人間の誠実と真実の愛の物語であり、背景となるのはフランス革命の余波が押し寄せている18世紀末のイギリスの田舎町、爛熟のきわみにある上流社会と新興の市民階級のハザマに位置する、中産階級の一家が舞台となっている。
漱石がイギリスに留学するのもこの頃で、すなわち大英帝国の絶頂期(というのは衰退を内臓)にあたる。
昔読んだ時、題自体がよく理解できなかった。原文は「PRIDE & PREJUDICE」。映画では今日本でも普通になったプライド、いわゆる自尊心が使われているが、これのほうが適切だと思う。それが嵩じると、高慢になるのであるが。誰しもプライドを持っている。それが自立の発祥地点であり、それを確立することが個人として自立することだろう。しかし制度や環境によってそれがもてなくなる、または潰されることがある。
田舎の中産階級のこの一家は、夫婦と年頃の5人の娘から成っている。当事、娘には相続権がなく、たとえ今相応の財産があり裕福に暮らしていても父親が死ねば、一家は路頭に迷うことになるのだそうだ。こういう今では考えられない理不尽な法律が厳然としてあったのですね!(ここでも父の死によって相続権を持つことになる遠い親戚の甥が登場して、一家に自分の権威を見せびらかす)。
ですからそうならないためには娘たちに一刻も早く財産のある夫を与えなければならない。だからまた、娘たちの関心は、夫にふさわしい男をいかに見つけるかが最大の関心事とならざるをえない。
その中で次女のエリザベスだけは読書を好み(当事女は読書などはしない方がいい、ピアノ、絵画、ダンスといったブルジョワ女性の花嫁修業が大切)変わっていて、それらの常識に批判的で、すなわち自分の意見をしっかり持っていて、それをはっきり口にするいわゆるプライドの高い女性として登場させるのである(もちろん作者の分身でもある)。そして同じように階級社会という枠組みと常識の中に住む男たちの中での変わり者、ダーシーという上流社会の男を登場させ、最初は互いに誇り高いがゆえに反発し、誤解するのだが最後は互いの誠実さと真実の愛を認識し、階級を超えて結ばれるという結末だが、そこに至るまでのさまざまな事件によって当時の階級社会の有様、さまざまな理不尽、その暮らし、またその素晴らしさと愚かさなどについて映し出される。
すなわちそういう階級制度に縛られた社会の中で、自分のプライドを大切にした二人の男女が、その枠組みと闘いながら、それを超えて結ばれると言う、個性の自由と発揮をテーマにした物語であると読み取ることが出来る。
ここでは一人の男と女の、プライドと偏見だが、それは多分当時の階級社会へのそれを暗示し、象徴として描いているのではないかと、この映画を見たときによく判ったのだった。文字だけではなぜかしっくりと行かなかった。なぜならそれを日本の風土と社会の中で理解するしかないのだが、それでは良く分らなかったのだと思う。
漱石も確かオースティンに興味を示していて、最後に作品『明暗』のヒロインお延をそのような自立しようとする女として描こうとしたとか? こういう説を聞いたことがあるが、不確かなので断言はしないで置こう。こういうことを思ったのも、文字だけでは読み取れなかったのは私の浅学のためだが、映像の力を感じた。
ある小説を読む時、そのバックとなる社会や文化と言う土壌を知らないでは理解できないことがある。例えば谷崎の『細雪』(これも4人姉妹の結婚にまつわる話なので)、これも船場と言う土地やそこでの裕福な商家やまた日本の風土について、多少の知識がなければその面白さが味わえないように、この小説も映像で、田舎のブルジョワから一流の貴族の館や領地(全て今残っている館など実際のものを使ったと言う)を舞台にしているので、ストーリーや人々の会話が臨場感を持って初めてその面白さが理解できたような気がした。
最後に、これを見ながら感じたことは、言葉と言うものの使われ方の彼我の違いである。社交も恋愛も、また家族の間の交流も言葉によるのだと言うこと。何と言っていいかわからないのだが、言葉のあり方が日本とは大きく違うことが感じられたのである(当然だ、いまさら何をと言われるだろうが、)。なぜかひどくそれを感じた。
次にイギリスの階級社会というもののすごさと言うか、文化の厚みと言うか、日本とは桁違いの大きさ重厚さを感じた。日本の階級制度が紙と木で作られたものだとしたら、あちらのは固くて大きく重い石で作られたもののような気がして、これを壊すにはやはりフランス革命のような強烈な嵐が必要だったのかもしれない、それでもまだ壊れていない部分もあるのだからなどと考えた。
少々纏まりのない文章になったが、浮かんでくるあれこれを言わぬは「腹ふくるる気」がするので書きとめることにします。
2006年05月20日
「吉屋信子展」とバラ園
もう梅雨に入ってしまったのでは・・と思わせる日々だが、今日の新聞でもこのところの日照時間は平年の5〜7割とかで、入梅も早まるか? と出ていた。
昨日も午後遅くから雨となったが、その前は薄日が射したりして出かけるには快適な日であった。
「港が見える丘公園」のバラ園も見ごろだろうと思って、近代文学館に出かけた。
吉屋信子は幅広い読者層の人気を得ていた女性作家で、少女小説から始まって家庭小説、歴史小説へと幅広く活躍したが、文学全集などには入ってはいない。私も少女小説以外の作品は読んでいない。いわゆるベストセラー作家で映画や演劇にもなったので、作品そのものを読みたいとは思わなかった。しかし最近は田辺聖子「ゆめはるか吉屋信子」の著書などもあって、関心と興味が湧いていたのだった。
会場は生涯を6部に分けて展示されていた。
1部 生い立ち
2部 「花物語」の誕生
3部 「女流」の主役へ
4部 戦場へ
5部 新たな境地へ
6部 歴史小説の大河
後年、ベストセラー的な作家であった丹羽文雄からもその稼ぎ振りを羨ましがらせたほど(展示資料による)の人気作家となったのは、もちろん本人の才能と努力によるものだが、バックに時代があったような気もする。それが3部によく表れている。
すなわち吉屋を作家として成長させていく過程に、近代史に名を残して行く女性たちとのかなり密な交流が見られるからである。平塚らいてう、岡本かの子、山高しげり、宇野千代、長谷川時雨、林芙美子など。特に宇野千代とは親密で、大森時代には近所に住んで行き来があり、男っぽく冷静で几帳面な信子と、女らしく情熱的な千代とは、正反対な性格であったため晩年まで「仲良し同士」であったという。千代はお喋りで、そのお喋りによって信子は「女」を教えてもらったという(資料による)。その千代の3度目の夫だったか、北原武夫との結婚式の仲人に吉屋と藤田嗣治がなっていて、その記念写真に同じ独特なオカッパ頭を二つ並べているのを見て可笑しかった。閑話休題。
とにかく当時の男性社会に立ち向かって行った女性たちの熱気に満ちた友情のあり方が窺われて、楽しくもまた羨ましくもあった。
それは会場に入るとき、又出てからも眺めて通るバラ園の豪華なバラの競演を思わせるものがあった。
大輪のものから「姫」と名づけられた小さく可憐なものまで、バラはこれからが見頃という感じで色と香りに満ちていた。
長くなるのでこれだけで止めるが、吉屋が女学校に入学した時に校長が力説したこと、「女性はその貞節を死をもっても守らなければならない」という言葉に、「それではどうして社会は公娼制度をみとめているのですか」と立ち上がって発言しなかったのだろうかと、日記に書いている。そういう気持ちはずっと心にあって、後にベストセラーになった「良人の貞操」もそんな気持ちから生まれたのだろう。
「女の戦争責任」ということも問題になるが、それはここでは手に負えないのでやめます。
今日も朝から晴れて気温も高く蒸し暑くなっていたが、急にバケツをぶち開けたような雨と風、久しぶりに横浜がホームランを何本も打って西武に快勝しつつあり、いい試合であったのに中断で残念。
世の中も気象も狂っていくようだ。
2006年05月12日
忍びの者<筍>との戦闘結果報告
このところ梅雨の走りのような日々が続いたが、今日は薄日が射したりする曇りだ。庭を見回っていて驚いた。今盛りのツツジの花の真ん中に、ニョッキリと青竹が2本突きでている。どちらも2メートル以上に育っている。慌てて折り取ったが根元はもう固くなりつつあるので、鋸を持ち出した。
植物の成長には驚かされるが、竹には驚嘆する。筍が出始めると毎日のように注意して見回っているのだが、物陰に隠れていたり、思わぬとろころから出てきたりして、目を眩ませられるのである。まさに忍者である。
竹(孟宗)にとっても、ここに生えさせられたのは不幸である。なんといっても狭い。1坪余りほどの細長い斜面に幾つかの花木・草花と同居させられている。そこにはすでに25、6本ほどの先輩がひしめき合っている。そこへ若竹となって育とうとしても到底無理なのである。そこで出てきた筍は人間に食べられてしまうか、捨てられてしまう。
そんなわけで、人間、わたしの筍収穫成果の報告をさせていただくことにします。
筍だけが私にとって自給自足できるただ一つの農作物?である。しかし「筍掘り」ではなく「筍採り」しか出来ない。本当の筍は、頭の先が地面に出たか出ないうちに特別なスコップを差し込んで、根元から掘るのだそうだが、ここでは完全に姿を現したときに、地面の上の部分だけを切り取るだけ、その方法しかできないのである。そのとき私は、出刃包丁を携え持って行き、ぶすりと根元に差し込んで採る。
今年は寒かったので例年よりすこし時期が遅れたように見えたが、それでも4月21日が初取りだった。
先ず我が家で食べ、それからはご近所に配る。ふかふかした地面の中で育ったものではなく痩せ筍だが新鮮なだけが取り柄。竹の風味も歯ざわりもあって柔らかいので、皆喜んでくれる。友達には運良く出会う日の朝、運良く筍が出ていたら、それを直ぐ茹でて、持って行ってあげるのだが、なかなかタイミングが合わない。筍掘り、いや筍採りに訪れる友は、今年2人だった。持っていって賞味してもらえたのは1人だけだった。近所では今のところ6軒に配っている。
記録を集計すると、なんとミニ、小、中合わせて人の口に入ったもの30数本に上り、伸びすぎたり細すぎたり、先端が出たところを踏みにじられたりしたものも10本ほどで、計40本は出てきているこことなります。
これからは本来のところでなく、遠隔地に侵入したものがときどき顔を出しなどするでしょうが、もう季節は終わりつつあります。次は、裏にある黒竹のシーズンで、しかしこれは孟宗竹とちがって食べられないから、ひたすら退治するだけである。こう書くと竹ばかりの庭のようですが、そうですね、確かにここは雀のお宿といった感があります。
2006年05月10日
『つむぐ』2号のフリー・トーク
先日の8日(月)に『つむぐ』2のフリー・トークがあり、参加してきました。
鈴木ユリイカさんが発案し立ち上げた『集』1号が、2号では『something』2とこの誌に分かれたようで、私はどちらからも参加のお誘いがあり、断る理由が無かったのでどちらにも作品を出したのでした。
この誌は同人誌ではなく、その号その号で自由参加の形をとり、 作品も3ページ分まとめて出せ、しかもエッセイも1ページあるので、各自がちょっとした自分の世界が造れるようになっています。定期刊行とか入会制度といった縛りも無く20人ほど集まれば出すというような、しかもその目的は、新たな可能性を探るという冒険心もあり、記録としての継続性を考えているという個性の自由と独立の趣旨が感じられたので好ましく思ったのでした。
私自身としても良いタイミングでした。このあたりで詩集を造ろうかと思いながら、考えた末に結局取りやめようとしていたところで、これを機会に両方にその中からの何篇かと新作を取り合わせて発表することによって、一区切りつけようと考えたからでした。
それで出版を機とした双方の会合に、出席することになったのです。
どちらも知らない方が多く、また名前だけ知っていて初めて会う方もあったのですが、それぞれに熱気があり、私にとってはとても刺激になりました。
こころざしというか目指すところが高く、また企画がユニークな場合、その遂行は困難な面があり、それを具体的に実行する場合、お互いにしっかりした個性があればかえって衝突があったり意見が食い違ったり行き違いがあったりするもので、悲しいことですが分かれてしまうということにもなるのだと思います。
けれども最初に旗揚げを考えた時は心は一致していたことでしょう。そのことは、両方に出席してよく分りました。どちらも同じところを目指しているように感じられました。そしてそれへの熱烈な思いもあり、それぞれ皆さまざまに勉強し実践し活躍されていて、怠惰な私は恥ずかしくなるばかりでした。
なぜ分れることになったのか詳細は知りませんし、またそれぞれに言い分があるのだと思いますが、参加してみるとそれぞれ雰囲気や色合いの違いがやはり少し出てくるように感じられました。
たとえば『something 』の集まりでは、作品が主体で時間内にびっしりと朗読が繰り広げられ、ユリイカさんの寸評も詩作品の深層に踏み込んでいこうとするような感じがしたのに対して、『つむぐ』では朗読もありましたが主としてフリー・トークで、「漢字」と「やまと言葉」の考察など評論めいた話が出たりして、高良留美子さん、しま・ようこさん、渡辺みえ子さんなどがいらしたせいか社会的な広がりも感じさせられました。しかしこれはあくまでもその号の参加者によるところが大きいわけで一概には言えませんし、またどちらも程度の差であって、共に共通することには変わりありません。ただどちらも参加者の熱気を感じ、私もそれに励まされる思いで帰ってきたのでした。
これらを見ると、その分裂をマイナスと考えるよりプラスに考える方がいいのかもしれないな、と思ったのです。分裂を増殖と考えれば、それは良いことだからです。原理主義からいえば、それは変節や裏切りであったりするでしょうが、大乗的な考えからは大きく豊かになることだからです。原理主義というのは一種の男性思考であって、女はそんな風には考えないのではないでしょうか。世に中ではよく運動が分裂すると、互いに敵対し、自分たちだけが正当だとし、本当の敵よりも憎しみ合うようなことが良くありますが、あれはまったくオトコの思考だと思わせられます。それぞれの会でもそんな風には相手を決して思ったりしてはいないようで、現実としてこうなってしまったのだ、という風に思っているように感じられたのです。ですからその時によっては、あちらに行ったりこちらに来たり、また時には合同でやったり、そんな自在なやり方だっていいのではないか。それが大きく豊かに末広がりになっていくことで、それがオトコにはなかなか出来ない、オンナの思考ではないかと思ったりしたのでした。
少々理屈っぽく論じてしまったのでこの辺でやめますが、とにかくそれぞれに刺激的で楽しい集いでした。ユリイカさん、スタッフの皆さんありがとうございました。そんなことより、作品を書かなくちゃあ・・・
2006年05月02日
下駄と草履
何という気象だ! 昨日は30度を越す真夏日の所ももあったのに、今日はまた寒くなった。
余りに暑いので昨日半袖のTシャツを着て、やはり腕が寒くなったりしたが、今日はまた長袖ウールシャツに変え、ホットカーペットや電気ストーブまでつけたりしている。しかも午前中から雷雲湧き出て、雨となった。
今日の新聞に、日本国際賞を受賞した英国の元気象局長官の話が出ていた。それによると地球温暖化を暗示する異常気象の原因は、「人間の活動です」とはっきりと言い切っているという。天に向かって吐いた唾が、私たちの身に振りかかっているのでしょう。
私は庭を歩いたり、ポストなど近所を歩く時は草履を履いている。これは気持ちのいいものです。しかし今日のように雨が降ると履けません。今朝も雨の中をカン・ビンを出しにいったのですが、そんな時は靴を履くのですが、最近は下駄で行くこともあります。でも急な坂になるとちょっと歩きにくいのですね。昔の人はよくこれでうまく歩いたものだなあと感心します。
激しい雨だと下駄ではダメですね。昔は高下駄というのがありました。つま先が濡れないように爪皮(つまかわ)というのをつけました。子どもの頃、下駄で過ごした経験を持つので覚えがあります。革靴などは高級品で、お金持ちしか持っていませんでした。
下駄は気持ちのいい履物ですが、音を立てるのでちょっと目立ちます。ハイヒールの音はコツコツといかにもキャリアウーマンの颯爽としたイメージがしますが、下駄はカタカタとかカランコロンとかいかにも長閑です。そんなことを考えていると、イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を思い出してしまいました。このブログにもかつてその面白さ、素晴らしさについて書いたのですが、その中の一節です。とにかくこのイギリス女性の奥地探検家の観察眼は詳細で鋭く、しかも先入観も優越感も持たない態度には好感が持て、明治の初めの近代化が始まろうとした頃の日本人の姿がビジュアルに描かれていてとても面白いのですが、彼女が横浜に着き、東京に近づいてきた時の記述です。駅に降りて彼女がびっくりしたことは、下駄の音だったということです。
「合わせて400の下駄の音は、私にとって初めて聞く音であった」と書きます。200人が汽車から降りたのでしょうが、その音がとても印象的だったようです。都会でもその頃は皆下駄をはいていたわけで、この下駄の音の印象については彼女だけでなく、いろいろな外国人が書いているそうです。確かにそうですね、今想像して見ると面白いです。それにこの下駄の音は個性が表れ、その音だけで誰が来たか分ると思います。荷風の小説にも「日和下駄」がありますね。
ついでに書くと、それを履いているから日本人は背丈が高く見えるとも書かかれており、つまり私などは下駄を履いた方がいいのですね。もっとついでに書くと「和服はまた、彼らの容姿の欠陥を隠している。やせて、黄色く、それでいて楽しそうな顔付きである」と。その通りで、イザベラの女らしい観察だが、日本が好きで、この国こそ楽園だと言い放った彼女の温かさが感じられる。また子どもについて「子どもたちは、かしこまった顔つきをしていて、堂々たる大人をそのまま小型にした姿である」とも。これはなぜか、想像してみてください。
最後にもう一つ、東京(江戸)に近づいた時の記事、
「品川に着くまでは、江戸はほとんど見えない。というのは、江戸には長い煙突がなく、煙を出すこともない。寺院も公共建設も、めったの高いことはない。寺院は深い木立の中に隠れていることが多く、ふつうの家屋は、20フィート(7メートル)の高さに達することは稀である」と。
その江戸は人口100万の、世界で一番大きな都会だったのである。ロンドンはその3分の1、しかなかったといわれる。見えなかったのは煙突が無かった、すなわち工業化されていなかったのである。その頃ロンドンは、世界で最初の公害で苦しんでいた。そこに漱石が留学のために派遣され、神経衰弱になって帰国した。近代化に対して、彼は疑問を呈している。近代化のお蔭で私たちは快適な生活を享受している現状であるから、なんとも言えないけれども・・・・。
昨夜のTV番組で、日本の故郷とも言える山村の風景、棚田や古い民家、茅葺き屋根が次々と無くなっていく様が報じられていた。近づかなければ見えなかった、木立に囲まれた世界一の大都会だった江戸、その生活こそが今考えればエコロジー的都会であり、それゆえに山村の豊かな自然も文化も存在しえたのかもしれない。郷愁に過ぎないとは思いながら、感じたのであった。
2006年04月28日
教育基本法改正案・閣議決定と撃壌歌
いよいよ教育基本法が改正される段取りとなった。憲法改正と連動したこの一連の動きは憂うべきものだと、私は思う。なぜなら国や郷土を愛すること、また日本の自然、伝統文化を大切にすることを、道徳の時間に殊更取り上げて学ばせる必要がなぜあるのだろうか・・・と思うからである。
私はかつて生徒を教えた経験があり、そのときの同僚や知人などから今の教育現場の話を聞くと、非常に締め付けが強くなった(特に東京都)という。教育は大切で、また教師の質もそれを左右する。しかしそれを国家権力による締め付けで行うことに、疑問を持つのである。
こんな現状を耳にし目にするにつけ、私は今「撃壌歌」を思う。
この言葉は、昔々漢文の時間(歴史も関係するが)に教わった話で「鼓腹撃壌の歌」とも記憶している。
中国の上代歌謡で、時は上古の堯の時代、時の帝が世情を探りに身をやつして巡っていたとき、百姓がこれを唄って畑仕事をしていたという。
日出而作、
日入而息。
鑿井而飲、
耕田而食。
帝力于我何有哉。
その意味は、朝になれば(仕事に)出かけ、日が暮れれば、息(やす)む。井戸を鏨(うがち)て(水を) 飲み、田を耕して食べる(生きる)。帝力(堯帝の権力)など、私にとって何有哉(どのような影響力があろうか)。
これを聞いた堯帝は、大変満足したという話。
すなわち、民は自分たちの平和で満足した生活は、誰の力でもなく、帝の政治力や権力によるのでもなく、自然にあるものだと感じている。それこそが治世者として最高の功績だと思ったからであり、自分の政治がうまくいっていると考えたからである。
中国では、この堯と次の時代の舜とを合わせて、政治の規範、理想とした。すなわち堯舜の時代という(伝説のようであるが)。
政治というのは、本当はそんなものではないだろうか。
だが、こんなことを考えるのは余りにも理想論過ぎるだろうか。
しかし憲法もまたそれに準じた教育基本法も、言ってみれば私たち国民の理想を掲げたものではないだろうか。もちろんそれを現実化する面ではいろいろな細工も必要であろう。しかし理想という背骨まで失ってしまっては、国は堕落の一途を辿るしかないだろう。
2006年04月21日
綿菓子に膨らんだ緑と竹の子
4日ほど留守をしていて帰ってきたら、あたりはすっかり新緑に包まれていた。
樹木では紅色と黄緑のそれぞれのカエデの新芽(この家はカエデが多い、葉の形や色の違う大小がある)、それと同時に出てくる花(紅色の葉柄に包まれていて小さい)が一面に散り敷いてた。ドウダンや雪柳や梅を初め、ブナやソヨゴ(?)などの落葉樹の柔らかな新葉が陽射しに鮮やかである。昨日の、屋根が飛ばされたところもあったという突風交じりの春の嵐に、この家もカエデの枝が折れていた。
急に花も咲き出した。シャガがいま盛りだが、飛び石の間に根付かせたサギゴケも、白い小さな花を一面に咲かせている。花の大きな八重の椿。エビネ(普通のと黄エビネ)、ジュウニヒトエ、ミヤコワスレ、まだ名前が分らないハナニラに似た薄紫の小さな星のような5弁の花などが、咲き始めた。
気にかかっていたものを見つけに孟宗竹の中に入っていく。やっぱり顔を出していた。
筍の初収穫! 15センチほどのが1本と後はもっと小さいのが2本(このうち1本は掘るのに失敗してほとんど残らなかった)で、合計3本。さっそく茹でて、今日のお惣菜。命がすこし延びるかしら? もう少し大きいのがあれば誰かにお裾分けできるのに、これでは私一人分ぐらいだ。これからは順次、採れたものを近所や時には友人に届けられるようになるでしょう。
これを読んでくださる方には届けられず悪いですが、想像して旬の味を甦らせて下さいね。竹林といっても初め家のそばの細い斜面に3本だけ植えた孟宗竹が、今は20数本になったというもので、時には畳を突き上げたりして、家が壊されないかと心配も伴う同居者なのです。
今日もまた午後から雲行きが怪しくなり風も出てきたりしましたが、明日は穏やかな春のお天気になるそうです。明日はモーツアルトのお勉強とその音楽を楽しみに出かけます。
2006年04月13日
緑の産毛(うぶげ)と愛国心
このところ雨が続き、春の気温になってきたので、向かいの雑木林がいっせいに芽吹き始めた。
まだほんのりと桜色が残っているところもあるが、その紅が濃くなったところは萼(がく)の色である。
幼い葉の色は実にさまざまで、萌黄、黄緑、薄緑、鶸色、若緑、浅緑、若草色、若葉色、(これを全て実景として識別したのではなく「色の手帖」の助けを借りているのですが)、その緑のグラデーションは微妙で、そのうえ新芽は正に柔らかな産毛に包まれていたりして朧である。鳥でいえば雛、動物でいえば幼獣の頃のふかふかと可愛く柔らかい感触。この頃の林は、いのちの美しさ繊細さが感じられて私は好きだ。緑の産毛に覆われた林は日差しを浴びて、いま長々と寝そべっている。
今朝の新聞に、愛国心の記事が出ていた。教育基本法を改正して、子どもたちに愛国心を教え込むのだという。一体愛国心とは何だろうか。
私はこの国に生まれ、育ち、生きている。もちろん西洋にあこがれたり、ロシア文学に共感したり、アラブのエキゾチシズムに魅力を感じたり、いろいろな国に行ってみたいけれども、やはりどんな豪華な屋敷に招待されても、我が家が一番良いと同様、この国にいるのが一番心安らぐだろう。オリンピックがあれば日本に勝って欲しいし、日本や日本人がほめられれば嬉しい。それは自分の家族に対すると同じことだろう。そういう感情、気持ちを、取り立ててなぜ教育しなければならないのだろう。
「国」を「愛する」ということは、具体的にはどうすることだろう。「あなた」を「愛する」とは、ということを人は恋愛や結婚をする前に勉強しなければならないのだろうか。
ここに「愛」について考えてみる。極限の愛とは、多分、自分を無にして、相手に自分を捧げることだろう。
エクスタシーの極限は、死の感覚で、それによって相手と合体し、相手の中に自己を融合させる感覚であろう。釈迦でさえ、トラの前に身を投げ出す、捨身という行為をした。宗教は全てその要素を持っている。宗教であればそれで良いだろう。そういうものだからだ。キリスト教でも殉教者は全て聖人となる。
イスラム圏でその原理をあくまでも貫くイスラム原理主義が、テロに組しているのもそれゆえであろう。
彼らは自分たちの神に対して、絶対的な「愛」を捧げているのである。
そう考えると、「国」を愛することを徹底すると、何かが生じた時、国のために命を捧げることが一番素晴らしいことだということになる。それが一番純粋で、美しい行為ということになる。愛が一番深いからだ。
そう考えると、今一番愛国者が多いのは、北朝鮮ではないだろうか。彼ら個人は国と一体化し、たとえ他国の人を騙し痛めつけたとしても、国のためになれば、英雄だということになる。ここに愛のエゴイズムがある。
藤原正彦『国家の品格』はベストセラーだという。ベストセラーといわれると敬遠して、読みたくなくなる方だが、これはつい買って読んでしまった。読みやすく書かれすらすら読めるが、とてもいい本である。その内容についてはここには書かない。それを読めば、私がこの文を書くにあたって枕のように置いた向かいの雑木林の意味が分ると思います。ただここではその著者が話した新聞記事(06.4.3)を、書くことにします。
氏によれば「愛国心」という言葉には二つの異質なものが含まれているという。「その一つが『ナショナリズム(国家主義)』。これは、自分の国さえよければ他国はどうでもいいという、戦争につながりやすい危険な考えであり、私は『不潔な思想』と呼んでいる。もう一つが『祖国愛』(パトリオティズム)だ。自分の生まれた国の自然や文化、伝統、情緒といったものをこよなく愛する考え方。祖国を愛する気持ちが深ければ深いほど、相手の同様な祖国愛を大切に・・・」することができると。
この二番目の愛国心に意義を唱える人は少ないだろう。私もこれには賛成です。ここで最初の議論に戻るのですが、それを育てるためには、ただ祖国の自然や文化や伝統や情緒を、大切にしてそれを子どもたちに伝えていけば良いだけではないだろうか。それらを、国が素晴らしいものにしていけばいいのである。恋人は、恋人自身が素晴らしいから愛されるわけで、愛されるためには自分で素晴らしくなればいいのであって、「愛せ」と強制はできないことと同じことだ。
ところがここに来て、なぜ「愛国心」を、教育のなかで強調し、それを道徳かなんぞの教科のなかで教えようとするのでしょう。もしかして国家のために自分の命を捧げることが、最も素晴らしいことだと考える子どもを育てようとする、すなわち国家の兵隊を作るための布石ではないでしょうか。なぜなら前述したように、その意味と実行を、教室の中で追求していけば、(宗教団体が、会合のなかで自分たちの愛について深く考えると同じように)国を愛する極限は、自分の命を国に捧げることなのだとなっていくからです。
そんな風にわたしは考えました。でもここに述べたことはまったく個人的な、思考の遊びに過ぎません。間違ったことも多いかと思いますが、これは私的な日記ですので、物言わぬは腹ふくるると言いますから・・・。
2006年04月10日
劇団民藝『審判』を観にいく
実はこれは『神と人とのあいだ』その他各地での国際裁判の総序論みたいにして書くつもりの第一作だったそうで、『夏・南方のローマンス』とこれとで後が進まなくなったものだといい、木下順二作、宇野重吉で上演されたものの36年ぶりの再演であるという。
いわゆる東京裁判、すなわち極東国際軍事裁判のA級戦犯(28人)の法廷場面を描いたものである。
この事実への知識は乏しく、また前もって本などを読むことなどしていないので、ただこれを観て考えたことだけの素朴な感想を書いてみたいと思う。
裁判というのは、『怒れる12人の男たち』でもよく知られているように、言葉による闘いの要素があって、ドラマチックな部分がある。これも舞台は法廷、そして観客席が被告席と傍聴席という設定で最後まで続く。確かに劇的要素はあるが、法というものの形式的、瑣末的、事務的な部分もあって、冗長で退屈な部分も多いわけで、その中からエッセンスの部分を選択し構成して、私にでも理解できるように一幕物の劇に仕上げてられている点、さすがだと思った。
これは、大きく3つの場面に重点が置かれている。一つは「ポツダム宣言」を受諾した時にはまだ入っていなかった、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」が、新たに付け加えられたということ、また裁判長の経歴などから、この裁判は管轄権がないとして、裁判長忌避を提唱する。この日本弁護人が大滝秀治で、新聞やテレビでも取り上げられていた。法律に疎い私にはその法的根拠が良く理解できなかったが、戦勝国が敗戦国を裁くということ自体、正義と公平に基づいた判決などそもそも望めないだろうというのが、素人の感想である。その中で、正義面をして裁判席に座る連合国に対して、必死に自国の誇りを守ろうとする一弁護人のけなげな姿を描こうとしているように思った。
2つ目は、インドシナ(今のヴェトナム)における日本軍の惨殺行為、フランス軍人への虐殺の問題である。しかしそれは、その時すでにヴェトナムはフランスの植民地であったわけで、それへの抵抗運動がフランス自国でも生じて軍隊も分裂しており、その事実も一種のゲリラに相当するかもしれないと考えれば、この法廷での日本の戦争犯罪ではないということにもなる。そう主張するのが弁護側で、そうではないというのが検事側だが、それを追究していくにつれ、フランスのすなわちそれまでの植民地政策の実態が、すこしではあるが露わになっていくのである。
3つ目はケロック・ブリアン条約ー「戦争放棄に関する条約」というが、この名称など私は知らなかった。
この法廷に参加している大国はほとんどこの条約に加盟しているのである。とすると、ほとんどの大国がこの条約違反をしているではないかということになる。
それを弁護人はついてくる。泥棒(連合国)が泥棒(日本)を訴追するのはおかしいではないか・・・・と。
この弁護人と検事は連合国の人間たちが担当するのだが、その弁護人(ここには日本人もいる)はたとえアメリカ人であっても、その国からはなれて、日本国のために弁護する態度には感服した。自分はアメリカ人だが、敢えて・・・といって母国を非難して、日本を弁護する。それは弁護士という立場ゆえである。
しかし時には自国の宣伝や利害、政治的なエゴも出てくる。ここに、人間が人間を裁くという、まやかしや矛盾も露呈する。
最後に原爆投下・・・・・。この種の兵器はヘイグ条約違反であるのだという。その使用は明白な戦争犯罪だと言う。だからそれ以後の日本軍の行動は「報復の権利」が認められるともいう。
しかしそれは戦争を早く終結させるためには仕方がなかった・・・のか。
ただこの原爆投下による現状だけはしっかりと見て欲しい・・・というメッセージを残しながら幕は下りる。
シリアスなまた真面目そのものである劇だが、現実もそういう真面目な場面がかえって可笑しかったり自ずとユーモアが表れたりするが、それを巧みに生かして、笑いも生じたりした。
これを観ながら、これは遠い話だが今にも通じていると思った。イラクのフセインを裁判にかける場合はどうか。フセインを最初盛り立てたのはアメリカではないか。北朝鮮が今持て余し物になっているが、本国でもほとんど知られていなかった金日成を掘り出し偶像化することに手を貸したのが、ソ連(ロシア)だというドキュメンタリーを先日テレビで見た。自分で作り出した鬼っ子に、手を焼いているのである。
しかしこの裁判をまやかしだと言ってしまうわけには行かない。そう言って、あの戦争を正当化する動きも強くなっているからである。裁判そのものはたくさんの問題があるけれど、日本が行った侵略や不当な行為、残虐行為がそれで消えるわけではないということである。
そして「東京裁判とはなんであったか」・・・
それは日本人の手によらず、全て「あちらさん」任せにしたのである。それを木下順二は言っている。もちろんそういう裁きも当然あるが、今、靖国神社が問題になっているのも「自らの手で戦争責任を追及しなかったこと」にあると、木下氏はあの世で言っているような気がする。その点ドイツは違っていたという。もちろんナチという大掛かりなものではなかったからかもしれないけれど、自国の問題としては、それをやってこなかったツケが今来ているのだろう。
細かいことはもう疲れたのでやめるけれど、一つだけ、パンフレッドによって知ったことをここに書いておくことにします。「戦争犯罪には時効を適用しない」という条約が国連第23回総会で成立して1970年に発効したのに、日本政府はこれに批准していない、とのこと。しかしこの文章は1976年なので、今は知りません。でもそれに批准しているとすると、靖国問題にも関係しますね。
2006年04月08日
「かもめ食堂」とレシピ詩集
今日は春の嵐の一日。晴れた空が一瞬曇り、雨が降り、突風が吹く。雹が降ったところがあるかもしれない。「花に嵐」のたとえ通り、歩けば花吹雪である。このような中で映画「かもめ食堂」のことを書くのはすこし難しい。場所はフィンランドのヘルシンキ、気候風土がまったく違う感じだからである。だからこの日本の現実から離れて、映画の世界に、一気に飛び込むことにしよう。
これを見たのは、すこし話題になりかけた頃だが、書く機会をなぜか逸してしまっていた。なぜなら美味しいものを食べた後の満足感のようなものがあって、あれこれ喋る必要がないように感じたからである。とにかく気持ちがよく、気分がさわやかになり、豊かな森とカモメの舞う港町と青い空、すがすがしい大気の中でのんびり暮らす人々、その日常を感じるだけで十分な気がしたのであった。
日本女性のサチエが、なぜか一人で「かもめ食堂」を新規開店する。ガラス張りのシンプルで清潔な店構えだが、メインが3種のおにぎりというのが面白い(おにぎりは確かに美味しいですよね!)。もちろん他の料理もあるのだが、鮭の網焼き、豚のショウガ焼き、とんかつなど、日本の家庭料理である。それらが目の前で料理されるが、とにかく美味しそうで食べたくなる。
最初は訪れる人は誰もいない。しかし少しずつ興味を持って眺めて行く町の人も出て、また日本が好きな青年の登場など、ちょっとしたエピソードもあって、最後は満席になるという、その過程を淡々と描いただけのものであるが、そういう日常が、ゆったりとした時間の流れの中で豊かに暮らしているヘルシンキという町の人々生活とその空気を鏡となって写し出す。
女店主の小林聡美の他、片桐はいり、もたいまさこ、それぞれ個性的な俳優の組み合わせもよく、笑ってしまうシーンもあって、楽しい。女性3人だけの店というのも、今日の女性の生き方それぞれが背後に想像できて、これにも共鳴させられる。
「どうしてこの町の人は、ゆったりとした生活が送れるのでしょうか」というようなことをサチエが、青年に聞いた時、彼は言うのだった。「それは森があるからでしょう」と。それが心に残った。
それを見た頃、羽生槙子さんから『想像』112号が届いた。羽生さんは野菜作りを通して、環境問題から社会問題まで視野を延ばし、また実際の活動も地道になさって、いつも感服し、また畑の詩も楽しく読んでいるのだが、そこに友田美保さんが最近レシピ詩集といってレシピを詩にしたものをのせている。その一つをここに紹介する。
酢みそ和え
あたたかくなってくると
ひんやりした 酢みそ和えが 食べたくなる。
ちょうど わけぎが 畑で 育っている。
わけぎをゆでて ワカメをもどし
あおやぎを 魚屋で 買って来たら
みそ さとう 酢 からしを ほどよくまぜ。
わけぎとワカメとあおやぎを 和える。
それに サワラの塩やきと
菜の花のおひたしと
フキノトウと入れた トウフのみそ汁。
春の香りが するでしょう。
この詩も、読むと酢みそ和えが食べたくなる詩です。
2006年04月02日
このあたりの桜たち
東京・横浜のソメイヨシノは満開とか、昨日はお花日和ということなので、この辺りの桜たちに会いに行くことにした。向かいの雑木林も、仄かな芽吹きにほんのりと薄紅色が混じるようになってきた。
六国見山から明月谷に抜けるコース。4時を過ぎてからなので人もほとんどいない。
このあたりの桜は山桜と大島桜が多い。ヤマザクラはえび茶色の葉といっしょに花が咲く。オオシマザクラは花の色は白に近く、葉は緑色でやはり花と共に芽吹くようだ。だからソメイヨシノのような華やかさはない。染井吉野は染井という江戸の町に由来することからでも分るが江戸時代に品種改良されたもので新しい。
今のお花見の形も、庶民が享楽できるようになった江戸時代、特に江戸の庶民の習慣から来たのかもしれない。昔は、というよりこの辺のお花見は、花の下でというのではなく、丘陵の緑の中に点在する桜を遠くから眺めて楽しむものだったと、これは「台峯歩きの会」で聞いたことである。
頂上の桜は、まだ蕾が多かった。だがその花を見上げるよりも前方の丘陵の重なりの、あちこちが桜色に染まっているのを眺めるのが快い。ああ今年もまた春がきたのだなあ・・・と。そしてこういう感慨はこれから年を重ねるにつれ多くなっていくのだろうとも思うのだった。
そこから尾根伝いに明月谷へと下りて行く。そして明月谷に至ろうとする途中の眺望が、私のお気に入りだ。深い谷のこちらと向かいの、まだ幼い芽吹きの、微妙な濃淡をした緑の中に桜色が刷毛で描いたようににじんでいる・・・。このあたりはソメイヨシノも結構あるようだ。
この谷の喫茶店「笛」で休んでいこうとしたら、3月末頃から4月2日まで春休みをしますと書かれてあった。この間は木曜日だったので休業日、どうもこの店とはタイミングが良くないようで残念。
明月院に来るとすでに閉門しているが観光客の姿もあって、いっしょにぶらぶらと、ほぼ満開のソメイヨシノを見上げながら駅まで歩いた。それから雲頂庵への階段を上り、また線路の向こうの丘陵を眺めながら帰途についた。その丘陵の向こうが台峯の谷戸である。
2006年03月28日
「荒川静香」現象と「イザベラ・バード」
荒川選手が故郷に帰っておこなった凱旋パレードに、7万人以上が詰めかけたという。TVでも新聞でもその大歓迎の様が映し出されていた。日本では珍しいことではない。本人も喜びと感謝の気持ちを十分に表していたが、内心は少しばかりうんざりだと思っているのではあるまいか、と思うのは私だけだろうか。
群集にマイクを向けると、当然その演技への感動や励ましを述べるものがいるが、多くは「見ました」「見られなかった」、と「見た」か「見られなかった」かが重要で、あたかも初めてきたパンダか、多摩川に出現したタマちゃんを見に来たような感覚であるような気がする。
この物見高さは、人間であれば当然だが(類人猿もそうらしいが)、どうも度を越しているように感じられるのは、イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を最近読んでいるからかもしれない。
原文を読むのは大変なので、それを講義式に解説しながら読みすすめた「イザベラ・バードの『日本の奥地紀行』を読む」(宮本常一 平凡社ライブラリー)という新書であるが、すこぶる面白い。彼女は19世紀の女性としては特筆すべき大旅行家で各地を旅行していて、日本にも明治11年夏、3ヶ月間、東国と北海道を旅した。これはその時の記録である。女性であることからかえって先入観やそれまでの知識で眺めるのではなく、鏡に映すように物を眺め、細かに観察して、借り物でない分析力、批判力で記述している点、感嘆させられる。
これによって近代化がやっと始まった当時の東日本の世相が、まさに鏡に映すように浮かび上がってくる。このイザベラ・バードによる日本観を初めに言っておくと、この著書の巻頭に置かれた引用文のように日本は「穀物や果物が豊富で、地上の楽園のごとく、人々は自由な生活を楽しみ東洋の平和郷というべきだ」という記述に近いというのが、彼女の大まかな感想である。
もちろんそこには農村の想像できないほどの貧しさや、奇妙な風俗風習、またずっと付き添った通訳のずるがしこさや、役人の実態などマイナス面もきちんととらえているが、総体的に日本と日本人に好意を持っている。そんな彼女であるが、その日本人について、最も困り、奇妙に思ったのがこの物見高さだったのである。
障子と襖の日本家屋であるから、プライバシーが全然ないことが、英国女性としては我慢できないことであった。「障子は穴だらけで、しばしばどの穴にも人間の眼があるのを見た。私的生活(プライバシー)は思い起こすことさえできないぜいたく品であった。絶えず眼を障子に押しつけているだけでない、召使たちも非常に騒々しく粗暴で、何の弁解もせずに私の部屋をのぞきに来た。」
これは例外なく全ての場所で行われた。ある町に入って人に会うと「その男は必ず町の中に駆けもどり、『外人が来た!』と大声で叫ぶ。すると間もなく、老人も若者も、着物を着たものも裸のものも、目の見えない人までも集まってくる」。そして宿に着く頃には大きな群集となって押しかけてくる。・・・「何百人となく群集が門のところに押しかけてきた。後ろにいるものは、私の姿を見ることができないので、梯子を持ってきて隣の屋根に登った。やがて、屋根の一つが大きな音を立てて崩れ落ち、男や女、子ども50人ばかり下の部屋に投げ出された。」という状態になるのである。
即ちイザベラを道中悩ませたものは、付き纏ってくる「蚊」と「人間の眼」であったようだ。しかし彼らは皆おとなしく善良である。害を加えようとはしない。ただ見たいだけなのである。
イザベラが女一人で、馬でしか辿れない奥州や北海道の奥地を安全に旅行できたというのは、世界でも珍しいという。その頃のヨーロッパ、彼女の母国であるイギリスでも外国人の女の一人旅は、実際の危害を受けなくても、無礼や侮辱の仕打ちにあったりお金をゆすり取られたりするのに、日本ではそうではなかった。馬子でさえ、びっくりするほど親切だったと、イザベラは書いている。
これが私たち日本人の先祖の姿であり、性癖であるようだが、今でもそれは変わらないのかもしれないと思わせられる。というのも、もう一つ最近目にした記事があるからだ。
これは俳優の石田えりさんが某新聞に、有名になりたい人は多いだろうが大変だということを書いたコラムだが、彼女が一人落着いて、美味しいコーヒーを飲もうと小さな喫茶店に入った時のことである。
あいにく土曜なので満席になり、その時一人が彼女に気がつき、観察開始。「次に私に背を向けて座っていた2人のうち一人が席を移って観察開始。四つの遠慮のない目玉が近距離から、私の毛穴の位置まで確かめる勢いだ。その間、3人とも、無言。身動き一つしない。思わず笑おうとしたら、目玉がいっせいに私の歯に集中したので、わたしは驚いて口を閉じてしまった!」この無作法さは何だろうと、彼女は思う。一目見てギョッとする人がいても、そっと放っておいて上げるのが思いやりではないかーと。このようなことをあちこちで経験し、いまだ慣れることができないと。
個人を尊重する国では、たとえ有名人でも、いや有名人であるがためにかえって、そこにいても知らぬ顔、そ知らぬふりをしてその人が自由な気持ちになれるように計らってやることが多いと聞く。
大したことではない、有名税だといえば言えるだろうが、民族性というのは変わらないなあという思いと、だから今の世情を見ていて、かつて来た道をまた辿るのではなかろうかという思いもするのである。
広瀬中佐という人物を若い人は知らないだろうが、わたしは辛うじて知っている。日露戦争の英雄として熱狂的に国民から迎えられ、愛国心をそそった人物である。だが実は、功績といえば、旅順港に軍艦を沈めて敵艦が港を出ないように封鎖をする使命を帯びただけの、言ってみれば特攻隊のような役目をした人で、ただ杉野という部下がボートに乗り移ってこないのでそれを探しに爆薬を仕掛けた軍艦に戻っていく最中、敵の弾に当たって戦死したということから、部下思いの英雄像に作り上げられたのである。
その肉片が付いた(?)という軍旗が、全国を巡り、人々から大歓迎されたそうである。
この時期から、日本は戦争への道をひたすら辿ることになる。
私はれっきとした日本人だから私も決して例外ではない。日本は良い国だし、人間も決して悪くはなくおとなしい。今では個人主義もかなり根付いていると思う。しかし群集心理というか、群れになると個人の壁が訳もなく消滅し、個人の自由も、またそれへの思いやりもなくなってしまうのではないかと、自戒を含めて思ったのだった。
2006年03月24日
モーツアルト オペラ『魔笛』と「レクイエム」
混声合唱団コール・ミレニアムの第4回定期演奏会(22日)に出かけた。
今年はモーツアルト生誕250年ということで、その最晩年の対照的な二つの曲。
『魔笛』はもちろん全曲ではなく、ハイライトだけを編成したものをナレーター(真理アンヌ)の説明によって展開されていく。私のようなものには飽きずに楽しめて良かった。私のピアノの楽しみ方に似ている。クラシックやポピュラーのサワリの部分だけを練習し楽しんでいるように・・・。
「パパゲーノ」と「パパゲーナ」、「タミーノ」と「タミーナ」の響きもよく、コミカルで楽しく、主題は愛と誠の精神で、宗教宗派を超えた平和希求のメッセージがこめられている。今日の「社会の混乱時にあってこそ、流麗なモーツアルトの音楽に潜む高邁な理想を身と耳で確認しながら、いっときの心の平安を得たい。」とプログラムには記されてあった。
「レクイエム」は、死神のような男から依頼があって書かれたといわれる、まさに死の床にあったモーツアルトの未完のレクイエムであり、暗い。しかし真に力を失い、絶望している人間は明るい曲よりも暗いトーンの曲の方が、心に安らぎを与えられ悲しみも浄化され、そこから立ち上がる気持ちも徐々に湧いてくるのである。天才モーツアルトの幅の広さを実感じさせられる組み合わせ。
合唱はコール・ミレニアムとコール・リバティスト。指揮は小松一彦。管弦楽はフィルハーモニックアンサンブル管弦楽団など。
出かける頃、雨は降り出し、帰りも雨で、雨に閉じ込められたモーツアルトの空間であった。
2006年03月20日
「二人展」と「パウラ・モーダーゾーン=ベッカー展」
一昨日、「二人展」に行く。
これは水野さんがすでにブログに入れているので、それを読んでくだされば雰囲気がよく分る。私も楽しませてもらった。弓田弓子さんの野菜の絵など、自分でも描きたくなる気持ちをそそられるほどだが、シニックでユーモラスな素描はセンスがいる。難しいと思う。坂多瑩子さんのフラワーアレンジメントもそういうセンス、彼女の詩のように飛躍があって面白い。カタツムリができるとは思いがけなかった。
誰もいないとき、こういう喫茶店が少なくなったことなど、マスターと話をした。彼もカメラが趣味で古いカメラなど展示、儲けよりも小さいなりに文化の香りのする雰囲気をつくりだしたいのだそうだ。そのうち横浜詩人会の菅野さん、荒船さん、浅野さん、そして弓田さんも顔を見せたので、しばらくお喋りをして帰ってきた。
場所は新杉田のギャラリー喫茶「ラパン・アジル」。
昨日は神奈川近代美術館 葉山「パウラ・モーダーゾーン=ベッカー展」に行った。
近いのになかなか行く機会を見出せなかったが、やっと訪れることができた。環境が素晴らしい。幸い雨も上がって青空の下、春の気配が感じられる裏山と足元に穏やかに広がる海に抱かれた広やかで白い美術館、半日のんびりと過ごすのには好適なところだなあ・・・と思う。
パウラ・ベッカーは日本ではあまり馴染みがないように思えるが、リルケなどが高く評価した時代に先駆けたドイツの女性画家である。
ベッカーに心を惹かれ長年その画業を追い続けてきた早稲田大学大学院教授の佐藤洋子先生の講演がこの日にあったので、それを聴きに行ったのであった。2003年に出版された佐藤先生の著書『パウラ・モーダーゾーン=ベッカー 表現主義先駆の女性画家』によってその全貌が日本でも紹介されるようになったようだ。予約制であったが、満席であった。
講演の題は「画家パウラと彫刻家クララ」というのだが、リルケの妻であったクララとリルケ本人、そしてベッカーの北ドイツのブレーメン郊外の芸術家村における暮らしと交流が語られただけでなく、カミーユ・クローデルとロダンの話などへとそれはつながり、更に展覧されてなかったベッカーの画だけでなく、夫のモーダーゾーンと暮らした家など、長年にわたり実地を訪ね歩いたスライドなどが次々に紹介され、盛りだくさんで話は尽きないようで時間のたつのを忘れた。
展覧会の感想としては、先ず自画像が多いことである。そして対象の多くが女性で、女性の初夏秋冬を描きたいと本人も言っていたようだが、女でなければ描けないものがそこにはある。裸の少女があり、老婆がある。そして赤子を抱いた母親の姿があるが、それは男が描くような母子像ではない。ドイツであるから森、という自然を描くことはしていて、画家である夫の影響も見逃せずそれもなかなか力づよく、またセザンヌに惹かれたと考えられる静物の色彩感覚も美しいのだが、晩年離婚を考えるようになるのもその画の上での差異によるもののようで、ベッカーは内面をもっと描写したいと焦っていたようだ。
写真を見ると落着いたやさしそうな人だが、ドイツ女性らしいしっかりした強い意志を感じさせる眼差しを持っているようで、しかし佐藤先生の話によると大変お洒落な人だとのこと。確かに自画像の多くはネックレスをつけている。
だが惜しいことにベッカーは、和解した夫の最初の子を出産後、その産褥熱から引き起こされた病のために永眠。31歳という夭折。その間にこれだけの多彩な(日本の浮世絵にも関心があり、それを取り入れたものがある)画業を残したというのには感嘆させられた。
朝まで雨、そして青空と太陽を見上げての昼間であったが、帰りはまた雨になってしまったという気まぐれな春の陽気の、だが運の良い一日ではあった。
2006年03月16日
something2+AUBE 朗読会
鈴木ユリイカさんが編集・発行している『something』の2号が発刊され、『AUBE』の会と合同の朗読会への誘いがあったので、その2号には私も書かせていただいたので出席した。
昨日の夕方から、場所は明治神宮前の、とあるビルのスタジオ。
『AUBE』の人たちとは初めてであり、『something』の2号の執筆者も出席した人では山本楡美子さんのほかは面識がなかったけれども、皆いい詩を書く気持ちのいい人たちで、大変刺激され愉しい夕べを過ごすことができた。
『AUBE』はときどきもらっていたので、その活動は知っていたが、月に2回「世界の名詩を朗読する」企画が、ほとんど欠けることなく15年も続けられていたことを知り感嘆した。そのほかに会員それぞれの作品の朗読もあるのである。それがこの日297回目であるという。その選択や構想や準備はすべてユリイカさん1人ということを聞き、その情熱と尽力に舌を巻いた。もちろんテープ録音その他の仕事でずっと支えてこられた裏方のお友達がいらしたから続いたのであるけれども。
この日も両詩誌の作品全ての朗読がなされた。出席者は本人、欠席者は誰かが代読して、それを全てテープにとり、各人に送付するとのこと。それで休むことなく次々と朗読が続き、それに対するユリイカさんのちょっとしたコメントなどで2時間たっぷり、緊張し充実した時間であった。新潟、長岡、福岡から駆けつけた人もあって、全国的な広がりも感じた。2号の発行所の書肆侃侃房は福岡で、社主の田島安江さんも出席していたが、私も福岡出身ということから互いに親しみを感じて話をした。ネットの時代、出版業も少しずつ様変わりしているのだなあ。
会が終わってから、楽しみの食事は近くのそれほど高くなくておいしい中華の店に案内してもらって歓談し、滅多に来ることのない表参道の洒落た夜の街並みをほろ酔い加減で少しばかり楽しんだ。
ユリイカさん、AUBEの皆様ありがとうございました。
2006年03月13日
『スーパーサイズ・ミー』の続き
肝心のことを言い忘れたので追加します。
監督がこれを撮るきっかけになったのは、2002年11月、TVニュースで、肥満症で苦しむ二人のチィーンエイジャーが、「肥満になったのはハンバーガーが原因」とマクドナルドを訴え、「大量に食べたのは本人の責任」という判決結果だったことを見たからだという。
どちらが正しいか、それを証明してみようと思ったのだそうだ。なぜならアメリカでは37パーセントの子どもが肥満症に悩んでいるから。自己管理の甘さだけだろうか?
真摯な問いかけのこの映画には、大きな反響があった。しかし政府とF, F会社はこの映画がきっかけになった訴訟が続発するのを防ぐため、それら訴訟を禁止する通称「チーズバーガー法案」を、2004年3月に米下院で可決した。しかし同時に前回に述べたようにスーパーサイズは廃止され、「ゴー.アクティブ」というヘルシーな新セット・メニューも発売したという。またマクドナルドが数百万ドルをかけた”反「スーパーサイズ・ミー」”キャンペーンがオーストラリアで展開されたり、さまざまな社会現象を引き起こしてもいるようである。
マクドナルドではフライドキチンもハンバーガーと同じく、どこの部位というのではなく、あらゆる部位をぐちゃぐちゃに混ぜ込んでから固めたものだそうだ。いろいろな添加物も入れた、いわゆる加工された肉なのである。今輸入牛肉が問題になっているが、そういうマクドナルド的な考え方が濃厚なアメリカということを、十分に意識していなければならないだろうと思った。
2006年03月12日
映画『スーパーサイズ・ミー 』を観る
ファーストフードを一日3食一ヶ月食べ続けると、人間どうなるか? 監督(モーガン・スパーロック)の身を挺して実験台となり挑んだドキュメンタリー映画。現代食文化(特にアメリカ)への警鐘を鳴らす映画であった。
詩人のアーサー・ビナードさんもたびたびエッセイなどで触れているが、アメリカの肥満の実態は想像以上のものらしく、成人の60パーセント(約1億)が過体重か肥満で、その肥満も日本とは桁が違う感じがする。小食にするため、胃の手術をして小さくするなど、新聞でも読んだことがある。
それは車社会や金満家の飽食ということがあるにしても、それよりもファーストフードによるものであることがよく分る。しかも食への意識が高くなった上・中階層よりも下の階層の方が影響著しいのである。
実験台の監督はスリムな健康体であった。その恋人も美しく聡明なベジタリアン。その実験過程を医師たちが計測し見守りながら始まった。大手のマクドナルドの製品だけを食べ続けるのである。
その結果は、最初は確かに人間の味覚を研究され尽くされて味付けされた世界的な食品であるため、美味しいのである。「カロリー天国だ。これをかぶりつく幸せ」と、彼は冗談まじりに言う。だが、3日目になると、胃の調子が悪くなり、5日目で栄養士から摂取多過を注意される。7日目で胸苦しさを、9日目で気分がめいってくる。しかし食べても直ぐまた食べたくなるという。一種の中毒症状であろう。コカコーラが世界を席巻したのは、あの味には一種の中毒症状を起こすものが含まれているといわれたものだが、これもそうだろう。体重は12日で7.7キロ増加、お腹も出てくる。18日目になると「最悪、頭痛がして目玉の後がずきずきする」。血圧もコレステロールも上がり、肝臓も異常をきたしてくる。そして21日目に、とうとうドクターストップが出る。これ以上は危険だと。
22日目から、マクドナルド社への取材申し込みなどアタックが始まる。しかしそれは見事にかわされる。
各店への成分表示表などの提言や利用者へのインタビューをしたりして、その後階段を上るのも苦しくなるほどになりながらも何とか30日目を終える。
結果:体重は11キロ増え、コレステロールは65上昇、体脂肪も7パーセント増加。砂糖は一日約450グラムの摂取量。
気分はさえず、疲労感があり、情緒不安定になり性生活はないに等しかった。食べるともっと欲しくなり、食べない時は頭痛がしたという。
これ以上続けるとまさに命取りになっただろう。
アメリカの多くの栄養士の提言として、一ヶ月に1回以上ファーストフードを食べることをすすめないし、これを食べることは「肥満の重要な原因」という調査結果が出ているという。
それでいてなぜファーストフードが栄えているのか。
次にパンフレッドにあったデーターを挙げる。
アメリカでは毎日、4人に1人がF.Fに足を運ぶ。
食事の40パーセントは外食に頼っている。
年間消費額は1100億ドル。
マクドナルドは毎日4800万人によって利用されている。(>スペインの総人口)
マクドナルドは6大陸、100カ国以上(マクドナルドによると121カ国)に進出。合計店舗数3万店以上。
マクドナルドは頻繁に利用する客を「ヘビー、ユーザー」と呼ぶ。
マクドナルドはアメリカのF.F産業の43パーセントを占めている。
スーパーサイズというのは肥満の体格の比喩かと思ったら、それだけではなく、ハンバーガー、フライポテト、コーラのサイズをも示している。すこし高いだけで、大よりも一回り大きいスーパーサイズが買える。
人間の心理からも、また労働者や、貧しい者ほどそれに手を出すことになるだろう。それを売り出すことで消費量が大きく増える。しかも恐いのはTVのキャラクターで子どもたちの人気者となり、また店には子どものための遊具や遊園地まで併設していたりして、子どもの記憶や味覚への刷り込みもちゃんとしていることである。
食べるか食べないかは自己責任だろう。そしてアメリカ人も愚かではない。しかし資本主義の根幹を成す企業という見地から考えると、この体質を変えるのは困難だろう。
さてそのス-パーサイズであるが、この映画が公開される頃、廃止されたとか。しかし映画とは何の関係もないとの会社の発言。
日本では、今はそれほど問題ではないだろう。しかしアメリカ追随のお国柄、警戒しなければと思った。
2006年03月07日
憲法9条を守る詩の雑誌『いのちの籠』
今の平和憲法を守ろう、9条を守ろうという動きは各界にあって、詩人たちもあちこちで声を上げているが、この雑誌もその主旨にそって、単にスローガンではなく良い詩、エッセイを書いていこうというもので、詩人の羽生康二さんや甲田四郎さんら何人かが呼びかけ人になって去年の10月に創刊された。
『いのちの籠』という命名は、中 正敏さんの詩によるもので、それを次に紹介します。
いのちの籠
中 正敏
人は水にすぎぬものとしても
水が洩れぬよう
いのちの籠をたんねんに編む
編み糸や葭 ひご あじろなどの竹類
もので編んでは隙きまが漏らす
自身の深い井戸底
暗いおもいが光の芒で籠を編む
遮るオーバー・ハングの壁は
爪で剥がして爪をそぎ
血まみれになって空を捜して
千年 あるいは万年疑って なお
ピアノ線よりしなやかに弾み
まっすぐ伸びる光の糸で
億年 人はいのちの籠を編みつづける
(2005年4月)
わたしは戦争を知っている世代ですが、実体験には乏しいので、反戦をこめた詩を書くのは難しく書けるかどうか分りませんが、反戦の気持ちは決して揺るがないので、そのことだけを基盤にして広やかに間口を広げているこの雑誌の趣旨に賛成して参加したのでした。
2号が今年2月に出て、そこにエッセイを掲載してもらったこともあって、この日曜日、「第2号の会」に初めて出席してみました。
その席で先ず最初に三井庄二さんが「高校生が反戦詩をどう読んだか」という報告をした。都立の定時制であるため、かえってちゃんと生徒たちは対応していると感じたのですが、そのことからすこし離れて、今高校に限らず教育の現場の締め付け、生徒の管理が年々厳しくなっていくさまをひしひしと感じました。
そんな時、わたしは何年か前に見たドキュメンタリー映画『軍隊をすてた国』コスタリカ、を思い出します。中米のコスタリカは小さな国ですが、そしてアメリカという大国から常に脅かされてもいるのですが、またそんな小さな国と、帝国でありたいという幻想を抱いた政治家や実業家がたくさんいるだろう日本とは比較できませんが、そこでの教育のあり方です。
コスタリカは何よりも人間を育てる教育に力を入れているそうで、軍事費をゼロにした分その多くを教育費に注ぎ込んでいるとのこと。そのため識字率も世界有数(93・5%)だと言います。しかも学校は単なる知識を習得するだけでなく、話し合いの技術を学ぶところとされ、その過程で徹底的に平和教育がなされているというのです。子どもたちは丸く輪になって、いろいろなテーマで話し合いをする。そこで議論や表現の仕方を身を持って学んでいく。大きな問題だけではなく身近なプライベートな悩みまで話し合い、皆で考えていくのだそうである。奇麗事すぎるかもしれないけれど、基本的な点だけはよく分ります。
今、教育基本法に「愛国心」を入れようとしています。誰でも自分が生まれ育った国が良い国で、誇れる国でありたいとは思うものです。オリンピックでも分るように、日本が金をとって欲しいし、日の丸も上げたいし君が代も聞きたくなるのです。どんなに貧乏でも醜くても自分の家族は軽蔑されたくないと思うと同じです。
ですから「愛国心」の教育など必要ないと、わたしは思うのです。その代わり「平和」教育をすれば良いのです。多分コスタリカではそうやっているのではないでしょうか。子どもの心も脳も白紙ですから、刷り込み、教育が大切でしょう。日本の戦時中の教育然り、また今でも独裁国はそうしているのでしょう。「愛国心」が必要なのは、国家が強力な軍隊を作ろうとしているからにちがいないとわたしは思っています。
少々大演説をしてしまいました。ちょっと恥ずかしくなりましたのでこれでやめます。
2006年02月24日
日本が金メダルをとった日、お葬式に行く
朝、ラジオでニュースを聴いていて荒川静香選手が金をとったらしいと分り、いつも朝はテレビを見ないのだが、急いで切り替えてみるとちょうどその演技の最中であった。見事な演技で、惚れ惚れと眺めたのだった。それから私は身支度をして葬儀場へと足を運んだ。
水橋晋さんのお葬式の日である。通夜とは違って午前中なので粛々とした感じで式は始まった。突然の訃報でまだその事実を受け止められないでいるということから始まる横浜詩人会会長の禿慶子さんの弔辞を聞きながら、涙がにじんで来るのを抑えきれなくなった。あちこちでそういう気配がする。
奥様の話では、朝7時ごろいったん起き、もう一度寝ようとしたとき激しい頭痛と同時に嘔吐が来て、救急車を呼んだが、その車中ですでに意識がなくなり、病院でその後手を尽くしたものの夜10時頃、帰らぬ人となったそうである。その前の晩まで気分よくお酒を飲んでいられたそうである。訳詩誌「quel」次号の発刊準備も着々としており、元気な(といっても目まいや心臓不調などで病院とは縁の切れないお体ではあったが)様子を電話や手紙で、何人かが確認しており、本当に誰もこのように急に逝ってしまわれるとは思っていなかった。
本人でさえ、自分が死んだとは思っていないのではあるまいか、と水橋さんの写真を遠くから眺めながら思った。
日本の金メダル獲得と、うっとりさせられる美しい演技に国中が沸いている。もちろん私もその快挙に心が躍った。何度見ても美しく見事だと見ほれるような演技が出現したということが、素晴らしいと思った。
この映像を水橋さんは、もう見られないのだなあと思うのだった。見たいと思うかどうかは別にして、もう見られないのだなあ・・と思うと、この世での水橋さんの不在を感じる。ああ、もう遠くへ行ってしまわれたのだ・・・・。
ニュースで沸き立っている世の中と、水橋さんの棺に付き添って霊柩車に乗っていく親族とそれを見送っている私たちと、そこに見られる大きな落差。世の中と個人の関係を見る思いがした。「方丈記」で言う、川の流れとそこに浮かぶ泡(うたかた)・・・。私たちは皆そんな風に生まれては消えていくのだろうなあ・・・。水橋さん、とりあえずさようなら、私もそのうちに行きますからね。
2006年02月16日
読書会(ル・クレジオ「はじまりの時」村野美優訳)を読む
昨日、長々と書きすぎて読書会まで書けなかったが、それが幸いであった。
今日の朝日の夕刊の文化欄に「文化の同等性希求の時」のタイトルで、39年ぶりに来日したル・クレジオ氏の様子が大きく取り上げているからである。
実は、邦訳としては最新刊の、自伝的な要素の濃い「はじまりの時」(上下2巻)を、読者会のメンバーの一人村野さんが出版されたので、それを今回は取り上げて読んだのであった。
読書会については、水野さんがブログに書かれると思うので、その新聞記事と村野さんの訳書について簡単に紹介しようと思う。
ル・クレジオは、一時期日本でもフランスのヌーボーロマンの旗手のような感じでもてはやされたことがある。しかしそういうイメージとはまったく異なる姿でここに再登場してきたといっていいだろう。現代文明の欧米中心の文化から外れた、インディオの文化に深く関わり、そこでの体験から生みだされた著作も多く、日本で言えばアイヌや奄美大島など辺境の、マージナルな文化の豊かさがこれに当る。そういう方向付けを持つシンポジウムに招かれようで、これは氏の出自にもよるが、その文学は国境時空を超えたこれからの文化の在り方を示唆するものでもあるといえよう。
その来日は地味なものだったらしく、村野さんがそのことを聞いたのはシンポジウム間際であったそうで、しかし本人にも会え、言葉も交わし、質問もさせてもらい、いい励ましの言葉ももらい、まさに彼女にとって「はじまりの時」となったようで、その場の様子を聞いた読書会のメンバーは皆喜びと祝福の声を上げた。
上下2巻と読むのは少々大変だが、とても読みやすく、惹きこまれる。よくもこれだけ大部なものを(歴史的なもの、地理的にも広範囲)よく訳したものと、感心し感嘆する。若いエネルギーがなければ出来ない仕事である。ル・クレジオの文学を理解するにはこれを読まないでは通れないであろう。
題は直訳すれば「革命=回転」であるが、何とか別のものにしたくて、「はじまりの時」という訳語を考えるのに苦労したという。その良否はいろいろ意見はあるだろうが、それはもう訳者の権利であり、自己責任である。そのような象徴的な訳をつけた時から、彼女の運命もまた開けてきたような感じもするのである。
関心のある方は、どうかお読みになってください。
2006年02月15日
「書の至宝展」と「読書会」と。
「書の至宝(日本と中国)展」はぜひ御覧なさいと聞かされ、しかし混雑は大変なもので入るのに40分かかったとのことなので諦めかかっていたが、開場間際に行けば入れるのは入れるだろうと、思い切って早起きをして出かけていった。それは当っていたが、入るともう人はいっぱいだった。
流れに入っては少しも進まないので、隙間を見つけてはもぐりこみ、要所要所をじっくり目に入れるしか方法はないのだが、それでも十分に満足した。何しろ中国を源とする漢字の、紀元前の甲骨文から始まる書の歴史が、文字通り宝物である実物によって辿られているからである。王羲之から始まる中国の書、それが日本に渡ってきて経文や仮名文字として発展していくさまが、次々に展開する。
書の美しさなどよく分らなかったのだが、これら昔の人の名筆を眺めていくうちに、それが次第に感じられるようになってくる。描かれた紙や巻物などの姿もそのままに眼前に出来る、その迫力もあるのだろう。墨色の線だけで描かれているのに、そこには色彩のある絵よりももっと美しいものが感じられるのはなぜだろう。
中国の力強い漢字も素晴らしいが、日本の仮名のたおやかさも素敵だ。昔のお坊様が膨大なお経を一字一字活字よりも細く美しく紺地の紙に金泥の筆で書いた努力も感嘆する。日本の歴史で習った三蹟とか三筆という書の名人の筆跡も見ることが出来、一本しか現存しない、豪華な「古今和歌集」も見ることが出来た。
私が見たかったものがある。良寛の書である。それは時代的にも最後にあった。
4面の大屏風2枚(数え方が間違っているかも)。漱石も欲しがっていたという良寛の書は、とても人気があるようだが、字は細いが伸びやかでおおらか、風になびいているような風情があり、それを眺めているだけで心が安らいでくる。幸いそこが直ぐ出口になるので初めはほとんど人がいなかった。ゆっくりとその吹いてくる風に当ることが出来たのであった。その反対側には、良寛と通じるところのある、悠々自適と自己の自由の尊重を唱え、脱俗の書風を作り上げたという中国の漢詩人の、同じ大きさの屏風が展示されていた。そちらもなかながすがすがしい書であったが、こちらは漢字ばかりということもあるが個をはっきりと前面に出した力強さがあった。どちらも自作の詩を書いたものであり、好対照で、この書展の締めくくりとしてよく考えられたものだなあーと、勝手に考えて頷いたのであった。
12時少し前に、会場を出ると、4列の長い行列が出来ていて、入るのに一時間かかりますと案内の人が叫んでいた。
それから読書会に行ったのだが、それはまた後日にします。
2006年02月09日
「日詰明男展」と「宮崎次郎展」を見に行く
「ヒポカンパスの詩画展」を開いた「ASK?」の次の企画が面白そうだからと、水野さんに誘われて一緒に見に行った。水野さんの詩の世界にも通じるような宮崎さんの方が本命で、ついでにこちらも見ようということになったのだが、こちらも素晴らしかった。その素晴らしさを文字で描写するのはとても難しい。なんといっても高等な数学の世界と建築、音楽が結合した美を表現したコラボレーションだからである。
フィボナッチ・ドラゴンと名づけられたそれは、フィボナッチ数という私には理解できない数値を基にしてコンピュータによって描いた図形であり、構造物であるという。会場には、螺旋状に限りなく成長するドラゴン(龍)を意味するらしい、壁のパネル群と木とプラスチック片で形作られた塔のようなものが2つ、青い光の漂う暗い会場に置かれているだけである。
しかしその中に佇んでいると、宇宙から流れてくるような静かな音楽に包まれ、まさに夜に宇宙を眺めているような気持ちになる。
クリスマスツリーのような2つの塔、螺旋の組み合わせで作られ無限に成長変化する龍を表すというそれと、またあちこちに下がっているこれも数学によって計算された立体、蛍のように呼吸し明滅する星籠のいくつかは、時間につれゆっくりと光り方を変え、明滅し、そして会場全体もまたそれに呼応して明るさを変えていくのである。
数学は美であるというのは、読書会でも読んだ小川洋子の「博士の愛した数式」にも出てくるが、これはそれを目に見える形の美として表現しようとしたものである。
巻貝のような自然の驚異的な美しさも、数値として計算できるといい、その逆の狙い方で、その美を表現しているということだが、あまりに深遠すぎて理解が及ばない。とにかく青白く発光するドラゴンや幾何学的な蛍の姿、そして無限の螺旋に埋め尽くされた、目がくらくらするパネルなどが、今でも目に浮かんでくるようだ。
宮崎次郎さんのは、またまったく違った世界と雰囲気を持ったものだったが、これも愉しく、心豊かになるものだった。アトモスフェールと名づけられた作品群で、そのかなりの作品が日本丸の船内を会場として展示されたというが、豪華船内で美味しい料理やワインを飲みながら眺め、陶然としながらこのファンタジックな世界に入っていくにちがいないと思わせられるからである。ここにはパリの匂いが濃厚である。男も女も道化師も笛吹きもヴァイオリン弾きも曲芸師もまた馬も鶏も花までも魅力的な顔をして目を見開いている感じがする。
少々書くのに疲れたのでこのくらいにします。私が拙く紹介するより、それぞれ画家のホームページを検索すると出てきますので、こういう書き込みは無用の長物かもしれませんね。
2006年02月06日
「ゾリステン コンサート」
このところ厳しい冷え込みである。
今朝は鳥の水場には厚い氷(1センチ近く)が張った。昨日も同じくらいで、起きた時窓の外を見ると屋根が真っ白。霜にしては厚いと思ったら一昨日の夜、雪が降ったようだった。
きのう、コンサートに行った。日本を代表するソリスト、主要オーケストラのコンサートマスター、首席奏者が集まったゾリステン・メンバー(20人ほど)による23回目の公演。私2回目である。
演奏曲目は、今年はモーツアルト生誕250年、武満徹没後10年ということで二人の作品で。大ホールは1,2階とも空席がまったくないほどの(私は2階席なので3階は分らなかった)満員だった。
曲目は モーツアルト:アイネ・クライネ・ナハトムジーク
モーツアルト:ヴァイオリン協奏曲 第3番(ソロ:漆原啓子)
休憩
武 満 徹:3つの映画音楽
モーツアルト:ヴァイオリン協奏曲 第5番「トルコ風」(ソロ:徳永二男)
アンコール
モーツアルト: ヴァイオリンとヴィオラのための協奏合奏曲 第2楽章
(徳永二男:川崎和憲)
やはりライヴで聴く音楽は、素晴らしいと思う。音が足の裏からも這い登ってくる感じで、身体全体で聞いている思いがする。CDで聴くのもいいけれど、何となくそれは頭の方から降って来るようで、それにひたるような気がする。特にモーツアルトの曲は、光か水かが身体の中にしみこんできて、全身を経巡り、それがまたスーッと出て行ってしまう感じだ。私などそれほど詳しくないので、何番といわれてもとっさに曲を思い浮かべることは出来ないのだけれど、今回のはいずれも有名なよく耳にするもので、その時はああそれかと頷きながら、ときには口の中でメロデーをなぞったりしながら聴くのだけれど、終わったらそれがどういう曲だったか忘れてしまう感じなのである。特にモーツアルトはそういう感じだ。その代わり身体がふわりと軽くなった感じ、浄化されるといったらいいだろうか。
癒しということで、モーツアルトがよく取り上げられているようですが、と徳永さんは最初のスピーチで話された。しかし、演奏家にとっては、モーツアルトの演奏ほどストレスになるものはないのです(笑い)・・。
何しろ天才が作曲したものですから大変難しく、また繊細微妙なので、その演奏には大変緊張するものです・・・と。
武満徹は100本以上の映画音楽を担当したといい、そしてその作曲は、一種の休息であったのかもしれないとのこと。それでこの3つの映画音楽もブルース風、レクイエム風、シャンソン風のスタイルで、とても分りやすい楽しいものであった。
アンコールのメロデイアスな曲にうっとりしながら、私も含めて満員の聴衆はご馳走にあずかった後のような満足そうな雰囲気だった。
2006年02月02日
懐かしい映画『流れる』と『浮雲』を観にいく
近くの芸術館でこの二本立ての映画を見た。
どちらも女性映画の名手といわれる成瀬巳喜男監督。『流れる』は幸田文原作、『浮雲』は林芙美子のそれぞれ名作である。
どちらも内容は有名なので省略するが、出演者は、前者は田中絹代、山田五十鈴、高峰秀子、杉村春子、岡田茉莉子、栗島すみ子・・・といった、今考えれば豪華極まりない顔ぶれで、後者も高峰秀子と森雅之の組み合わせのほか岡田茉莉子、加藤大介、山形勲など。彼らの若い頃が見られるというのも、映像の不思議な面白さ。どちらも白黒である。
最近こういうリバイバルものに対して、私は内容の芸術性云々よりも(もちろんそれは大切で、それが前提だが)そこに映し出された映像そのもののほうに興味が行くようになった。即ち、その時代の風景、人々の日々の暮らしぶりや習慣、今では見られなくなってしまった家具や道具、日常の細々したものまで、それが背景として映し出されているので、あたかもタイムスリップしたように感じられて懐かしいのである。
前者は(1955年製作)、舞台が大川端に近い花街の芸者の置屋で、そこの女中(文自身の体験)の目から見た芸者たちの姿なので、華やかな表に対しての裏側の暮らし(同じ花街を彷徨した荷風には決して書けない)が描かれており、暮らしのディテールは映像ならではのものがある。
しかもどぶ板を踏んでと形容されるような路地で一見だらしなく暮らしている女が、さてお座敷という職場に向かうときに蛹が蝶に変わるように、たちまち美しくなっていく姿を見るとき、女でもうっとりしてしまう。
特に最後で山田五十鈴の女将が潰れそうになった置屋を何とか建て直そうと、決死の覚悟で恥を忍んで、昔の旦那に会いに行く時の芸者姿には、恐ろしいほどの美しさを感じた。
後者(1956年)は、戦時中の安南(ベトナム)が男女の出会いなのでそこから始まるが、後は戦後で、闇市の賑わいやパンパンといわれた女の暮らし、戦後の庶民たちの暮らし。そして浮雲のごとく転々としていく、代々木、千駄ヶ谷、渋谷などから二人で行く以伊香保温泉のその頃の様子など、バックに写し出され、その頃の暮らしや貧しさが偲ばれる。
そして最後に高峰秀子の雪子が寂しく死んでいく屋久島も、今でこそ縄文杉などでもてはやされ観光地になっているものの、その頃は電気も何もない流人の島のように雨ばかり降る遠い僻地で、農林省の技師(森雅之)や工事関係のような人しか行かなかったのであろうと思われる。
この映画の中にある道具やそれが置かれてあった家、それらが作っていた町並み全てが、今の日本ではほとんど無くなってしまっているなあ、と思うのであった。折りしも今日のニュースでは、青山の同潤会アパートの敷地跡が新しく「表参道ヒルズ」となって様変わりした様子が映されていた。その面影は残しながらだと紹介されていたが、しかしそれはもうまったく別物であろう。
2006年01月31日
『二人日和』(野村恵一監督)を観る
タンゴのアストロリコ楽団の演奏を聴いた時に買っていた前売り券。あと少しで終わりそうなので慌てて出かけた。門奈紀夫率いるこの楽団が音楽を手がけていたのである。バンドネオンの懐かしく哀愁を帯びた音色がバックに流れる。
観客は補助席も出して満員だった。
入口に映画で使われた汗衫(かざみ)が展示されていた。二藍(藍と紅)で染めたという薄い紫の羽衣のようにうすい衣。これに象徴されるように雅びな美しさ、はかなく哀切に満ちた映画。
妻(藤村志保)が筋肉が急速に衰えていく難病にかかり死に至るまでの一年ほどを描いた年配夫婦のラブストーリーであるが、夫(栗塚旭)が神官の装束を全て引き受ける神祇装束司という伝統ある職の当主ということから、昔ながらの京の町屋の町並み、特に家の内部が日々の暮らしと共にうかがい知ることが出来て心がなごむ。またゆったりとした鴨川の流れとその向こうになだらかに広がる山並みを背景に、満開の桜から葵祭など平安時代からの行事もからませ、直面している死と対照的な生の美しさ輝きを描き出している。それゆえに突然といってもいい死と、駆け落ちをし心中未遂までしたらしい二人の愛の深さがいっそう浮き彫りになる。といってもすでに老年期に入って、日常の中に深く埋もれてしまっていたもの、しかしそれは京の町屋での四季折々の生活のひだにひっそりと組み込まれているものでもあった。それがこのとき吹きだしてくる。二人は若い頃ダンスホールで出会い、タンゴを踊ったのであった。
原作のタイトルは「天使は自転車に乗って」というのだそうだが、自転車に乗って通っている京大で遺伝子研究をしている若い研究員が登場する。趣味のマジックで子どもたちにも人気があるが、彼を妻の手の訓練のためにもと相手を頼むことから接点が出来る。マジックの鮮やかさとその若者の恋の行方も加わって、悲しみもその未来の希望に引き継がれていく感じがする。
長い年月を重ねた愛(藍)とこれから築かれていこうとする愛(紅)とあわせた二藍で染めたかざみ、それがこの映画の色彩であろう。
伝統に根ざした暮らしと美しさ、そこから飛び立っていく新しい息吹。京都が舞台であるからこそ生まれた映画であるような気がする。
しみじみと心に染み入る感動を与えるようなもの、またはマジックのように心に鮮やかな驚きを与えるもの、そんな詩が書けるといいなあ・・・。
2006年01月29日
「ヒポカンパス詩画展」に行く
28日は最終日で「詩の朗読会」がある日。
この日は前から予定が入っていたので、行けないと最初思っていたのだけれど、このイベントに出ないのは寂しい気がしたので、先の方はキャンセルしてこちらの方に出てしまった。
こういうものは機会を逸すと二度とめぐり合えないと思ったからである。
でも出かけて本当に良かった。井上直さんの画も少し早く行ってじっくり見られたし、朗読もそれぞれに個性と味があり、ギターとヴァイオリンと古楽器の演奏も交えながらの楽しいものだった。
前の個展の時は行けなかったので直接拝見するのは初めてだが、今日の画はブルーを基調とした宇宙空間のような静謐さと浮遊感、それでありながら何か懐かしげな囲気のものが集められていて(というのは本質は変わらないのだろうが主題によって変化してきているというお話だったから)引き込まれた。
ヒポカンパスの世界とどこか通じるものがあるようだ。
静かな天空や風景やビルの上にいつも白い何かが飛んでいる。それが画に動きをもたらしているようだ。遊星、惑星でなくて恒星、相手との距離を常に一定に保ちながら、自ら発光する星。それは自己というそれぞれの星ではないだろうか。しかもそれは漂流している。まさに私はそんな孤独な星(それほどの輝きはないにしても)である。
ヒポカンパスの皆さん、ありがとうございました。
2006年01月21日
大雪、また仏教のこと。
朝起きると、辺りはしんと静まりかえって外はまだ暗い。カーテンを開けると、一面の雪景色だった。
予報どおりに雪になって、絶え間なく降り続いている。少しくらいの雪ならばと思っていたが、残念ながら出かける気持ちがなくなってしまった。駅まで歩いて20分、坂道のちょっとした峠も越えるので足元がおぼつかないからである。小森さんの「『坑夫』をよむ」の講座なのだが・・。その点受講する側は勝手で、気楽である。もしこれが仕事であればそういうわけにはいかないだろう。やはり仕事というのはつらいものだなあ。
そこで専ら雪見となった。予報では3,4センチぐらいの積雪のはずだが、朝の段階で6,7センチ、今はもう10センチ近くにもなってきた。夜まで降り続けるつもりかしら。
前回の「日本語で読むお経」のことから、仏教についてちょっと書いてみたくなった。
地球を救うのは仏教思想だと書いたが、そのことについてである。
イスラム教、キリスト教、仏教をそれぞれ「砂の文明・石の文明・泥の文明」から生まれでたものだと読み解いた人がいる(同名の新書で著者は松本健一)。確かに仏教はアジアのモンスーン地帯の泥沼、湿潤地帯で生まれ育った。インドにも中国にも砂漠はあるが、西側のそれとは違って湿っているという。
インドのカルカッタの名の由来は「葦の生える沼沢地」だそうである。太古の日本は「葦芽(アシカビ)の国」と呼ばれていた。
砂や石が無機質の、荒蕪な土地で、生命を生みださないものであるのに対して、泥、泥濘、土のどろどろは生命の源である。その風土から仏教は生まれた。
この世が石や砂であるのが基本の地において、生命体である人間が生きていくためには、この世以外の大きな力、神の存在が必要になるだろう。そして理想の国、天国は、この世から離れた遠いところ、天にあると考えるしかない。
しかし泥という混沌は、そのものが生命を生み出すものであり、そこから生まれでた命はまたその中に帰って行く。外からの力など必要とせず、そのものの中にその力がある。地獄もそこにあれば天国もそこにある。輪廻転生という思想が生まれるのもここからであろう。
今、宇宙の時代などといって、地球を汚し破壊した挙句、人類は別の星に移住をしてしまおうという考えもあるようだが、それは石や砂の思想から来たものであって、泥の世界からは生まれないのではあるまいか。
「日本語で読むお経」の中に、お経の本文からちょっと離れて、その神髄をやさしい言葉で詩のように表現した一節がある。それは水野さんがブログでも紹介していた「法華経方便品」の末尾で、これは詩人が自分の言葉で心を込めてその思想(諸法実相)をやさしく表現しようとした部分であろうと、私も心を打たれた。そこでたとえとして「野の花」が出てくる。
その野の花々も秋になれば枯れ、冬にはなくなってしまって、いったんは消えたように見える。しかし天の法雨と光を受けて、大地からまた蘇って花を咲かせるといい、宇宙の因縁の中で滅びることはないという。
聖書にも、「野の百合」として有名な箇所があるが、「労せず」「紡がず」育つのは神の恩恵であり、神の大いなる力であり、だから神を信じなさいという。そして求めなければそれは与えられない。信じ求め続けなければならない。一種のロマンチシズムに通じるところがある。
だが仏教では野の花も無であり、空であるが、それ自体が野の花という生命を、色を生む。それは現実であり、それをそのまま肯定する。しかしそれを無であり空であると「観じ」なければならない。何という徹底したリアリズムであろうかと、私は思う。
砂や石というきびしい現実であるゆえに、その現実を否定し、より美しい世界を高みに求めようとするロマンチシズムではすでに救えなくなっている地球、まだまだ豊かな生命力を持つ地球の現実を観じ、直視する仏教のリアリズムが、これから必要になっていくのではあるまいか・・と。だんだん堅苦しくなり、自分でも収拾がつかなくなりそうなので、この独断と偏見の感想文はそろそろ終わりにします。
2006年01月19日
仏典詩抄『日本語で読むお経』八木幹夫・訳 を読む
八木さんからこの新刊の本を送っていただいた。
「経典の中でも比較的多くの人々に読誦されてきたお経を選んで」「現代語に置きかえる作業をした」とあるように、名前だけは聞いたことがあるようなお経14巻ほどが、原文と共に現代語訳をされ、とても読みやすく、しっかりした装丁ながらハンディな本として仕上げられています。
私は「般若心経」だけは諳んじることが出来ます。そしてその内容を解説した本も実は持っているのですが、それを読んでもなかなかその意味がすんなりとは入ってこないので、あまり意味など考えないでただ諳んじていただけだったのです。
ところがこれを手に取り、その部分を読み始めると、ページの上下に現代語訳と経文を並列されているために、大変読みやすく、またその訳もやさしく的確で、とても気持ちよく心に染みこんでくるようでした。そのためたちまち全てを、読み進めていくということになったのでした。
名前は知っていてもどういうお経かというのは、これまで知りませんでしたが、これを読んでいくうちに、なるほどと少しは判るような気がしてきたくらいです。こんなことを言ってはいけないわけで、その有難さが判るなどとでも言わなければならないのでしょうが、そういう信心の心は私にはないのでした。
しかし今、仏教は大いに見直されなければならないのではと思っています。
というより宗教のようなものが必要な時だと思うのですが、その中でも梅原猛氏なども言うように、仏教こそが地球を救う宗教になりえると私も思うのです。
キリスト教も感嘆すべきものではありますが、そしてこれまでの人類の発展、特に科学の発展などにもつながるものとしての素晴らしさを持っていましたが(これは同根であるイスラムも同様)、これからは仏教の思想こそが、必要になって来るのではないかと思うのです。
そんな意味からでも、このようにお経を詩人がやさしい言葉で開いて見せてくれたことは、とても意義あることだと思います。
解説部分も最小限度で、できるだけ小さく記されており、肝心のお経本体がしっかりと前面に出ていることも好ましく。しっかりして軽くて小ぶりでもあるので、これを座右において、口語訳を目の端でとらえながら、般若心経はもちろん他のお経も、時には読誦しようと思っています。
八木さんへのお礼もこめ、仏陀のメッセージが人々に伝えられるためにもこれが多くの人に読まれるといいなあ・・と私も期待しています。
2006年01月13日
T温泉行き(4)
T温泉から春に向けての案内状が届いたのを見て、大雪も何とか凌いでいるにちがいないと安心する。
これは絶えずラッセル車が動いていて、道路が確保されているからだが、明日からは急に気温が上がるらしいから、今度はなだれの方が心配だろうなあ・・・。
この項目も今回で一応終わりにしたいので、最後に一緒に行く人たちについて簡単に触れておこう。
*参加してきた人々。
この温泉はたまたまある時、亡くなった人と私が訪れ、静かな山間で湯も気に入ったことから、その年の大晦日と正月を過ごしてはどうかと、若い友人のカップルに声をかけたことから始まる。それに彼らの友人2人も加わった6人で、先ず訪れたのが1983年(昭和58)であった。
それがなぜか延々と続いた。次の年は11名。のち大体7,8名から10人で、多い時で14人、もっとも多かった時は20人にもなったことがあり、今振り返ってみても、よくあんなことが出来たものだと思う。まさにこれは合宿状態ではないか!
こういう人数の融通無碍が出来たのは、ある特殊な事情があったからである。
最初の年、訪れてみるとどうしても部屋の都合がつかず、中広間で一緒にどうかと言われてそこに入った。立派な36畳敷きの広間で空調も完備(古い温泉ゆえ木造の建物もある)、しかも渓流に面した大きな窓もあり雪見には最高である。値段も初め頼んだ通りなので、安い。なんといっても広いのでゆったりとして、それに客室群からは離れた位置にあるので離れにいる感じ。これに味を占めて、次の年は、最初からその中広間を所望すると、OKと言うことで、それからその中広間(昔の大広間はつぶされて日帰り客の温泉客の食事と休憩所に改装され、今ではここがただ一つの広間となった)の常連となったのであった。これが今まで続いたのも、長湯できる温泉のおかげとスキー場が近いこともあるが、特に何か共通したり統制したりするものを持とうとはせず、それぞれが勝手に自由に時間を過ごせるからだろう。
最初からずっと続いている常連もいるが後から常連になった人、ときどき来る人、また一回限りの人もある。20人になった時は、常連のカップルの行きつけの酒場のマスターの一家と従業員までが参加した時で、お客としては到底飲めない高級ワインをt沢山持ち込んでくれて、大変な口法楽した。
子どもを連れての人もあり、その子どもが妙齢の娘さん、大学を出て就職した青年になったりして参加したりもする。去年一緒だった若い女性は、今年は上海に派遣されているとかで不参加、代わりに今年は社会人一年生の青年が参加した。この間まで無口でシャイな学生だった彼が、今年は何かにつけて弁舌たくましく意見を述べるほど、急に大人っぽく成長したのに驚かされたりして、毎年変わり栄えしない大人たちの中で子どもたちの姿にこの温泉行きの時間の推移を見る思いがし、また年一度の集まりでも何かふるさとの家に集まったような擬似家族的な雰囲気まで味わえて嬉しい気持ちになるのも、こちらが年を重ねたせいだろうと、苦笑したりもしている。
2006年01月09日
T温泉行き(3)
*T温泉について。
和紙の灯篭に導かれながら長い廊下を谷底まで下りたところに、民芸調に趣を凝らした脱衣所と岩風呂風にしつらえた湯場がある。最初の頃、ここは男女混浴の変哲もないタイル張りの浴場で、タオルケットを巻いてでなければ入れなかった。だから私たちは元湯を敬遠して、それを沸かした旅館内の内湯のほうにばかり入っていた。その後大きな温泉センターが出来たりしてこの場所は使われなくなっていたが、今では温泉場らしい新しい趣に作り変えられ、一番新しいものに生まれ変わっている。
窓からは太くて長い氷柱の列と、窓までせりあがっている雪が見える。湯気でぼんやりした壁に入浴者の心得が掲げられていて、その最後に宿主でも主人でもなく「湯守」とある。
世の中や政策に翻弄されながらも、それらに精一杯対応しながらここの人たちはこの湯を守ってきたのだなあ、と湯に漬かりながら思った。
透明なラジウム温泉であるここの湯は、ぬる湯で、長く入っていられることに特徴がある。一時間ぐらいはざらで2時間以上も大丈夫。少しからだが冷えてくるようだったら熱い方の湯船で身体を温め又入れば、何時間でも可能なのである。去年は本を持って入ってきた若い女性がいたが、今年は湯に漬かってもいい本を読んでいた娘さんがいたので聞いてみると、宿屋で貸してくれたのだという。鴎外の「阿部一族」であった。
長く入っていると、毛穴から空気の粒が出てくる。日が経つにつれて出方も盛んになり、撫ぜるとブツブツと気持ちが悪いくらいで、その気泡がサイダーのように立ち上ってくる。それが面白く、また温泉の効果が出てきたような気がして嬉しい。
ところがこの作用がほとんど見られなくなってしまった一時期があった。
即ちそれはバブル期で、その時村が、そしてこの宿がそれに巻き込まれたようだった。
国民保養地の指定を受けたとかで、別棟に温泉センターが出来たのは行き始めて3年ほど経った頃だった。クワハウスの名の下に全身浴、泡沫湯、寝湯その他の浴槽を備えた広いものになった。これで女性もタオルケットを巻かないでぬる湯の恩恵を受けることになったのは良かったが、更にその後急にその温泉センターが目を見張るほど立派な二階建ての建物に建て替えられた。広いエントランス、会議場、トレーニングセンターなど。そして浴場にはエレベーターを使うという有様であった。その頃から、ももともとぬるい湯がいっそう冷たくなり、いくら入っても泡が生じてこない。とろっとした感じもなく、誰もが薄まったと口にした。
去年訪れた時、その温泉センターは、宴会場と一階にある湯場だけを残しすべてが閉鎖されていた。そしてこの古くからある元湯が復活したのである。湯に漬かりながら耳にした話(去年)によれば、やはり陣頭指揮した村長の失策であったという。結局自分の会社をつぶしで一家離散の憂き目に遭ったったとか・・・。
気泡ならぬバブルがはじけ、今風に少し姿を変えながらも、やっと元来の姿に落ちついたのである。
正月2日には、餅つきのサービスがある。玄関先に臼をすえ、杵で餅をつく。ほとんど水を使わず短時間のうちにつきあげる餅は美味しく、餡子と黄粉と醤油で振舞われる。お神酒と漬物までついてただである。しかし今年は都合により休みとなった。初めてのことである。いつも杵を取って、腰つきも見事な年配の男衆が入院したらしい。鷹揚なこの振る舞いも、もう復活することはないだろうと、私には思われた。
2006年01月06日
T温泉行き(2)
*交通機関について。
不通になっていた秋田新幹線はやっと再開されたが、鉄道の混乱は続き、家屋の倒壊や死者も多くなり、雪国の生活の大変さが思いやられる。その雪国から何事もなく帰ってこられたことは、感謝しなければならないだろう。
だがT温泉の宿の主人が「私たちは雪の専門家ですから・・」と言っていたように、平常どおりであれば何も騒ぐことなく、都会生活者よりもずっと豊かな雪国の暮らしを味わっていたはずである。ただ今年は余りにも異常なのだ。
上越新幹線がまだ不通になっていないのは、きっと、高崎を出ると上毛高原、越後湯沢、浦佐と停車する地点だけ姿を出すだけで、長岡に至るまでの豪雪の山岳地帯の大部分がトンネルになっているからであろう。列島を横断する同じような秋田新幹線の方は、盛岡を出てからのトンネルは地図で見ると一箇所しかない。後は平地を走っている。
今はT温泉には浦佐から車で40分ほどだが、昔は小出からバス、30分ぐらいで辿りついていた。
小出は、只見線との分岐点である。ここに新幹線が止まるべきだと素人は考えるが、そうではなく新しい駅ができた。駅前には元首相の銅像が立っている。
1983年(昭和58)の初回の時は、急行に乗って行った。その後、新幹線が開業しても、急行の方に固執した。もちろん安いということもあったが、新幹線に乗りたくなかったからである。トンネルが多いことが分っていたし、第一小出に停まらないからである。
しかしだんだん急行の本数が減り、最後は無くなってしまった。そこでやむを得ず新幹線で浦佐に行き、在来線に乗り換えて小出に出た。そこからバスに乗る。
ところが浦佐から小出への連絡も時間によっては40分も待たなくてはならないことがあり、バスの連絡もうまく行かないこともあったが、それなりに小出の町をぶらぶらしたりして時間をつぶした。時にはバスを一台やり過ごして買い物を愉しんだりした。持込みのための(または土産の)酒を買ったり、こちらでは手に入らない雪国ならではの長靴を買ったりもしたのだった。(この長靴はずっと毎年持参して今でも役に立っている)
そのうち今度はバスも当てにできなくなってきた。そして今では浦佐から旅館の送迎の車に頼っている。
新幹線だけの旅になってからも、帰りは湯沢まで在来線で行って乗り換えるコースを考えた。これだとそこまでの沿線の雪景色や土地の人も乗っている車内の雰囲気も味わえると思ったからである(実はこの分、新幹線の料金が節約でき、お昼の弁当代ぐらいが浮くのである)。
ところが去年、その日突然在来線の時刻変更で、乗り換え時間に間に合わなくなり、幸いというかやってきた新幹線に一区間乗れば間に合うといわれ、急遽新幹線で乗り継ぐという技をやらせられて(JRが私の魂胆を見抜いて意地悪をしたのではないかと思えたほど)、懲りたので今年からは往復とも浦佐まで新幹線ということにしたのだった。
急行を利用していた初めの頃、上野を9時半ごろ出て、旅館には午後遅く着いた。
今は自宅で昼食を済ませてから出かけ、旅館には同じ頃着く。帰りも11時ごろ宿を出て、我が家に帰り着いたのは午後3時すぎである。なんと楽になったことだろう。自宅から旅館まで、すいすいと寒さもほとんど感じることなく運ばれていく。(ただ新幹線の指定を取ることだけ苦労するが)
だが便利で楽になっただけ、何かが失われていくのを感じる。
2006年01月05日
T温泉行き21年目に当って(1)
新聞によると寒冬・大雪は20年ぶりだという。また12月の気温も戦後最低だったとの事。T温泉で過ごしたお正月の中では一番の大雪だと思い、また土地の人もそう言っていたが、当っていたわけだ。
昨年は戦後60年ということで話題になり、回顧されることも多かった。ああ、それは還暦ということだな、と思い当たった。もう戦後ではないという言葉が使われたことがあったが、これからはもう「戦後ではない」事からも遠くなるということだろうか。しかし戦後長く続いた「平和」に赤いチャンチャンコを着せて、それではお役目ご苦労様と言われてはかなわないなあ・・と思う。この長寿の時代、いつまでも「平和」には長生きをして、現役でいてもらわねば困るのである。
その3分の1である20年というのも、一つの節目ではあるだろう。
オー・ヘンリーの短編「20年後」は、20年後に同じ場所、同じ時間に会おうと約束して別れた親友の二人が、運命的な再会をする話だが、20年はそのくらい人間の運命を変えることさえある。それに比べ自分のことについていえば、年をとっただけで何の変わり映えもしてないな・・と全く情けない。むしろT温泉行きの方が、最初から眺めてみればかなりの変遷があった。グループの人たち、交通手段、温泉地と宿自体にそれがあり、そのことを同人詩誌「Who‘s」(100号)にもエッセイとして書いたのだが、年頭に当ってここにも簡単に記して置こう。
次回から何度かにわたってそれを書いていきます。
2006年01月03日
雪の温泉から帰ってきました
新年おめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
今日、上越新幹線で豪雪地帯の温泉から無事に帰ってきました。
行きも帰りも、遅れは10分ほどで、本当に恵まれました。
ここで暮れから正月にかけて過ごすようになってから丁度21年目ですが、今年ほどの大雪は初めてでした。その上、正月元旦は雲一つないような日本晴れ(と、つい言ってみたいようなお天気)になったのですから、まさに奇跡のようで、土地の人も弾んだ声を上げていましたが、素晴らしい元旦でした。12月半ばから、降り続けていた雪が嘘のように止んだ貴重な一日だったようです。
ところが2日からまた雪は降りはじめ、今日も駅に送ってくれる宿の車も十分に余裕を見ていたのに時間に間に合わなくなるのではないかと、次第に心配になって来たほどでした。
宿を出る頃はそうでもなかったのに、雪は吹雪のようになり、視界もきかなくなり、ただただ真っ白い世界を走っていくようで、そのうちライトがつき始めました。それでも運転手さんの懸命の努力で何とか間に合う時間につくことが出来たのでした。
川端の『雪国』の文章で有名ですが、トンネルを抜けた世界の劇的な変化には、いつも感嘆の声を上げてしまいます。しかしこの何年か、雪が少なくなってその声も消え入るようになっていたのですが、去年からまた雪が多くなり、そしてまさに今年は異常なほどでした。
さて、帰りもトンネルを抜けるともう雪は一片もありませんでした。大宮あたりはまだ雲が蟠っていましたが、このあたりに来るとまったくの青空になってしまいました。ほんの3時間前、真っ白い雪に包まれた世界にいたことが信じられないくらいです。あの雪が懐かしくてたまりません。あれは夢ではなかったのでしょうか・・・。そう思いたくなるほど、雪の土地が美しく懐かしく感じられるのです。
不思議なことに、東京の方が寒いと感じました。あちらは気温は低いのにもかかわらず、風は柔らかくこちらより暖かかったような感じさえするのでした。それは私の部屋の暖房が不完全で、宿の方がしっかりした防寒をしているせいでもありましょうが、それだけではなく確かに風は刺すようで、底冷えしています。
ほんの僅かな日々ではありますが、そこでの雪景色を、温泉を、人たちの暮らしを記憶の中に蘇らせながら元気をもらい、これからの一年へ向けて歩みだして行くつもりです。
2005年12月28日
来年 少しは世界が明るくなりますように
禍々しい事が多かった今年の、最後の一撃というような強い寒波の襲来。異常なほどの大雪と、なんて痛ましい羽越線の事故! 猛吹雪の中、救助する方も大変だなあと、青空の下で思うだけですけれど。
このところ私の毎朝は、鳥の水飲み場(浅い皿と鉢)の氷を割ることから始まります。5ミリほどの氷を砕いて捨て、水を湛えておくのですが、陽がささないうちにまたうっすらミルクの膜のような氷が出来ていたりします。12月からこんな寒さがやって来るなんて初めてだと、灯油を届けてくれた人が驚いていました。
それでも鳥たちは水浴びにいつもより多いくらいやって来るようで、いつの間にか水は底に近いほどに減っていて、それを見ると嬉しくて、また新しい水を張ってやったりしています。
年末から年始にかけて、新潟の鄙びた温泉にグループで行くようになってもう20年にもなりますが、去年は大地震でダメかと思いましたが、何とか復旧して出かけたのですが、今年はまたこの大雪で、どうなることやらと少々心配しています。
このようなわけでこのブログも今年は最後にいたします。
このようなぶつぶつした呟きをご覧くださった方々に、お礼を申し上げると同時に、皆様どうか良いお年をお迎えくださいますように、お祈りしております。
では、また来年もよろしくお願いします。
2005年12月23日
「Little Biredsーイラク 戦火の家族たちー」を観る
鎌倉・九条の会主催の「十二月に語る平和」でこのドキュメンタリー映画(綿井健陽監督)を観る。
第一部は、朗読と歌。
朗読:原田 静
「野ばら」小川未明作。 「はなのすきなうし」マンロー・リーフ作
歌:新谷のり子・有澤 猛(ギター演奏)
「花はどこへいった」ピート・シーガー作詞・作曲
「死んだ男の残したものは」谷川俊太郎作詞 武満徹作曲
*いずれも決してスローガン的なものではなく、やさしくしみじみとしたもので、演出・演技もよく心に平和への思いが伝わってきた。
第二部が、映画である。これは副題にあるように、2003年3月、アメリカによるバクダット空爆に始まるイラク戦争を、その爆撃を受ける側からその現状を報じたドキュメンタリーである。空爆前の市民の姿や市場の賑わい、「最後通告」が始まっての市民の声や動きがとらえられ、そしてあの空爆・・・・。そしてその後が、語られる。
そこで破壊され殺され傷ついたものの多くは無辜の市民たちであり、特に子どもたちである。その現場の姿をカメラは平静に、しかし彼らに寄り添うように記録して行く。民家の破壊の様子や病院の内部、学校。さまざまな破壊現場や傷つき苦しむ人々、肉親を失って悲しく人々が映されるが、特にイ・イ戦争で2人の兄を失い、今度の空爆でまだ幼い子を3人もなくした一家には、家庭の中、心の内まで踏み込んだ形でその悲しみを描き、それを克服して行こうとする様子をとらえている。
イラク人は概して日本人に対して好意的である。インタビューにも日本は好き、日本人も好きと答える。しかしブッシュと組んで(アメリカに原爆を2つも落とされたのに・・)イラクを攻撃したのはなぜか、許せないというのだ。
日本の自衛隊が到着した時の映像もある。隊員が悪いわけではないが、まさに漫画チックであった。
市民たちは日本人が来ること、援助してくれることは歓迎しているが、それは自衛隊や軍隊としてではないことが、よく分るのである。
バクダットが制圧されて、米軍の戦車が入ってくるのだが、サダムが倒されたことは喜んでいても、それ以上に多くの市民、特に子どもたちが殺され被害が拡大して行くことで、フセイン政権下以上の憎しみも募って行く。銃を構え、決して手放さない米軍の無表情な顔と、異口同音に「自分たちはイラクを解放に来た」、そして「彼らは自由を得て皆喜んでいるはずだ」としか答えないロボットのような姿がとても印象的だ。確かに兵として戦うことは誰もがロボットとならねばできないことだ。故郷にいれば溌剌としていたにちがいない青年も、そこでは無表情で銃を突きつけるロボットにならねばならない米兵が、哀れでもある。そのことをカメラも感じるのか、質問に「自分になぜ聞いてくるのか。答えることはできない」といって去っていく、悄然とした後姿を暫く追っているシーンもあった。
終わってからは、しばらく何もいえない気持ちになってしまった。
この映画の詳細は同監督の著書によって知ることができる。多くの写真もあって読みやすい。関心のある方は、お読みになってください。
『リトルバーズ 戦火のバクダッドから』綿井健陽 晶文社 1600円
2005年12月17日
やっと「李禹煥」を見にいく
横浜に出ることがあって、やっと横浜美術館に行くことができた。プーシキン展も行きたかったけれど、とうとう行けそうもない。しかしこれだけはぜひ見たかったのである。
クリスマスと年末を控えて、横浜駅周辺の人ごみにうんざりしながら、泉の水を求めるような気持ちで辿りついたのだった。
思ったとおり入場者は少なく、広々とした空間にゆったりと身をゆだねる事ができた。
まさに鋼鉄そのものといったような鉄の屏風とその前におかれた採石場から今持ってきたかと思われるような角ばった白い大石たちに迎えられる。
内部もたくさんのこれは見事に長い歳月によって造形されたさまざまな形と色をした大きな石、この自然の造形に対する人工でしかもそれに対決できるものとしては鋼鉄しかないだろう。それが常に形を変え、位置を変え、互いに呼応するように置かれている。その中の一つの石だけを眺めていたとしても飽きないだろうと思われるほどの素晴らしい大きな石たち・・・。それと同じくらいに人の手による技術によって磨き上げられた鉄の板や棒との組み合わせ。
そういう不動のものに対して、白い大きなパネルに平たい刷毛で墨色をわずかにのせたばかりの作品の数々は、まさに余白の芸術といってよいだろう。
鋼鉄と石の作品が関係項と名づけられ、それが確たる物の存在を示しているとすれば(それぞれ照応、安らぎ、過剰、張り合い、彼と彼女などと名付けられている)、こちらの方は、その間を吹き抜ける風のようにも私には感じられた。その風が、余白が、ずしりとした存在を輝かせ、呼吸させる。
白いカンバスに筆を下ろすグレーの色について、次のような言葉が書かれていたのでそれを記したい。
「複雑な現実に近づきたい人は
多くの色の配合を、
厳密な観念を表したい人は
明確な単色を好む。
私の発想に中間者的なところがあるせいか、
用いる色が次第に曖昧なものに限定され、
グレーのバリエーションが多くなった。
筆で白いカンバスに
グレーのわずかなタッチを施すと、
画面がどこか陰影を伴い漠とした明るさに満ちる。
グレーは自己主張が弱く概念性に欠けてはいるが、
限りない含みと暗示性に富んで、
現実と観念を共に浄化してくれるのである。」
人間は、純粋に現実だけでもまた観念だけでも生きられない。ここにあるグレー、墨色、また鋼鉄という技術のきわみと石という自然そのものとの照応、この微妙な釣り合いが、人の心をなごめ、またゆったりとそれらに包まれる感じを与えるのではないだろうか。
2005年12月14日
「第九」を聴きに行く
今朝は冷え込んで、鳥の水のみ場に薄く氷が張っていた。
屋根に霜が下りるのはもう何日も前からだが・・・。
12日の宵、上野の東京文化会館に早々と『第九』を聴きに行った。
Tさんが、このブログでも前に紹介した合唱団「東京コール・フリーデ」に属しているので、そのお蔭で最近は毎年愉しんでいる。(東京シティ・フィルハーモニック 指揮:北原幸男)
こんな風に第九がもてはやされるのは日本だけだそうだが、やはりベートーベンは年末に合う気がする。寒風に落ち葉が(所によっては雪が)舞う中、一年の間にたまった塵や埃、悩みや苦しみ、不愉快なことを、オーケストラの管弦楽器、打楽器の力強い響きが背をたたいて押し出してくれ、元気が取り戻せるような感じになるのでは・・・と思ったりする。
いつものように第一部はソリストたちの「珠玉のオペラ・アリア集」で、「鳥の歌」や「オレンジの花咲く国・・」・・・など。第二部が、いよいよお待ちかねの合唱つきの第九。
ここの公演の歴史は古く、今年は28年目のようである。第一回のオケの指揮者は渡辺暁雄でその後大町陽一郎、石丸寛など私も知っている名前がある。しかし最近は合唱団員不足で、この練習に向かっての結団式があった9月には60名しか集まらなかったそうで、しかしその後の実行委員たちの尽力もあって、最終的には160名以上になったとの事。それでも少数精鋭で頑張ったと、最後の挨拶で合唱指揮の伊佐治邦治氏が述べていたが、確かに合唱もオーケストラもしっかりした音色で熱気が感じられた。今年は一度も眠らなかった、と共に聴いた友達の一人が笑いながら感想を述べていた。
Tさんも実行委員の一人である。
2005年12月04日
隣組について
今日は2ヶ月に1度の町内会クリーン・デイであった。
でも朝8時に清掃の準備をしていくのは、ちょっときびしい。
今のところ私は毎朝のように道路の落ち葉を集めているのだけれど、これは自分のペースに合わせてやっている。しかも今朝は一番の寒さになった。どうしても皆より遅れてしまう。
次回は冬場の2月だけれど、厳寒の時期、そのときはもう冬枯れで落ち葉もないわけだから、必要ないのではないかと、大きな声で言ってしまった。
もちろんこれは自主参加で、都合があれば出なくてもいいし、ぜんぜん出なくてもかまわないのだ。しかしそういうわけには行かない。また出ないとちょっと言い訳をする。
確かに共同で作業をするのはいいことだ。私など植木を切ってもらったりして助けられるし、近隣の助け合いにもなる。
しかし「隣組」について、戦時下を少し知っている私には警戒心がある。
昨夜テレビで山田太一のドラマ「終わりに見た夢」を見た。現在を生きる平均的な家族4人と友人親子2人が、タイムスリップして昭和19年に移されてしまい、そこで生きるという設定である。終戦間近の餓死寸前の物不足の生活、その日常や不便さは、多少はその頃のことを知っている私にも到底耐えられないだろうと思った。しかしもっとも耐えられないであろうと思ったのは、そういう物質的なことより、人間一人一人に覆いかぶさる監視の目である。それは隣組という、細胞のいたるところに張り巡らされている毛細血管のような役目を果たしている存在があるためである。それをバックアップしたのが軍である。
それゆえに、いろいろ生きる知恵をしぼって何とか一家で暮らせると思ったとたん、その網にかかって逃げ出さねばならなくなり、転々とする。
今無残な児童の殺害事件などがあって、近隣の目や協力が必要になっているけれど、それが必要以上に、異分子を排斥する形で行われると危ないなあと思う。犯罪のためならば有効であるにしても、思想の取締りというようなことにも、すぐ当局はその網を使ってくるのだから。
戦時中、「とんとんとんからりと 隣組・・・♪」という歌がありましたよね。
でも今日は寒いので、そそくさと作業を終えて、一時間もしないうちに皆引き上げてしまいました。
めでたし めでたし。
2005年12月02日
映画「春の雪」を観る
藤沢の東急ハンズに行ったついでに「春の雪」を観た。
これは三島由紀夫の晩年の長編連作小説全4巻の第1巻目に当たるが、全体を貫くテーマはここに出ている。
三島の作品については、通り一遍の知識しかないが、惹かれる面と反発したい面を持っている。禁断の恋(これは東西共通で、日本でも「伊勢物語」から「源氏物語」、姿は変わっても近松の心中物に引き継がれた恋愛の本筋である)と転生がテーマである。
私はそれらの内容よりも大正という時代をタイムスリップして味わいたい、特にここでは上流階級(文化の贅が尽くされている)の住まいや日常生活が映し出されるはずであり、それらに対する興味の方が強かった。若い監督とそのスタッフによる美術や衣装やセットによって、一応満足が得られた。
大正時代は、急激な近代化を押し進めた明治時代がやっとある成果を上げてほっとした時代、日清日露で戦勝国となり自信も金も何とか潤ってきて、文化的にも一種の爛熟期、デカダンの時代でもある。しかしそれもわずかの間で、次には昭和という戦争の時代に突入するのである。
この映画でも重要視されているのは夢日記である。夢日記で始まり、叉それで終わる。人と人の結びつき、その究極である愛も、その夢の中で果たされるしかないのであろうか。この世に生まれ変わり生き返って、転生はするが、それもまた夢であり幻視であり、現世はやはり荒野、砂漠であるのだろうか・・・・。
今原宿の若者たちの間で、ファッションとしての着物が流行っているという。羽織1000円、着物も5000円くらいで手に入れられ、ブーツをはいたまま着物を着たり、勝手な愉しみ方をしているという。
竹下夢二などで象徴されるように、大正時代は庶民も爛熟した文化の香りを愉しんだ。しかし軍靴の足音はひしひしと近づいていたのである。その大正時代に似た雰囲気を若者たちは好んでいるようだ。もちろん私もまたデカダンには魅力を感じる。だが今この国には、ヒルズ族と言う成金の上流社会が形成されていると同時に、下流という言葉が流行りだした。社会や政治も変になってきている。何か大きな恐ろしいものが近づいてこなければいいのだが・・・。
2005年11月17日
「中村勘太郎・七之助 錦秋特別公演」を観る
近くの芸術館に、歌舞伎の公演があったので行く。今年その襲名披露で話題になった十八代目中村勘三郎の長男と次男。初めて兄弟による、しかも父親抜きでの共演だというが、今朝初めて蕾が開いたバラという感じの若々しさと艶やかさがあって,愉しかった。実は行く前はあまり期待していなかったのだが・・(といっても歌舞伎が詳しいわけではなく、何となく素人の感覚で)。やはり伝統の強さかなー。とにかく彼らは歌舞伎界のサラブレッドなのだから。『花伝書』に言う「時分の花」だなー。
演目は「蝶の道行」と次に芸談(アナウンサーによるインタビュー)、休憩が入り「妹背山婦女庭訓」と「団子売」。すべて台詞のない歌舞伎舞踊である。といっても、もともとは文楽の物言わぬ人形が演じる演題だから、義太夫が台詞を語る、お芝居ということになる。
すべて恋を主題にしたものを選んだそうで、最初は主君のために犠牲になった若い二人が死後蝶となって冥途への道行きをする、哀れにも美しく幻想的な踊り。三度の早変わり、舞台装置の転換などもあわせ見事で(初めて演じるという)、観客を先ず惹きつけた。
「妹背山・・」は、一人の男をめぐる二人の女の恋。内容は三輪山伝説やら大化の改新やらをまぜこぜにした妙な話だが、そんなことはどうでもよいのである。ただ好い男とそれをめぐる美女二人、お姫様と町娘の、上品な美しさと蓮っ葉な色気などの対比を見せようというもの。
「団子売」は、これまで演じられて定評となっているそうだが、なるほど軽快で楽しく面白く、「蝶の・・」のような大掛かりで派手ではない、細やかな見せ場があって楽しかった。これは屋台を持ち運んで売る団子売りの夫婦の話で、臼と杵で餅をつき、その餅をこねたり投げたりする所作、また最後は浮かれてお多福とヒョットコのお面をかぶって踊りだす。長年連れ添った夫婦の呼吸や機微が感じられ、和やかで親密な雰囲気が漂ってくる。この中にはマツケン・サンバも取り入れている、どこにあるか気をつけていてください、とインタビューで言っていたが、すっかり忘れていた。さてどこにあっただろう?
「蝶・・」と「団子売」は兄弟二人が、互いに男女を交替して演じていたが、それぞれになかなか色っぽく、
ヨンさまもいいけれど、日本の歌舞伎界にも魅力的な若者が次々に出てきたなあ、と思ったのであった。
帰りに空を見上げると、ちょうど満月で、冬を思わせる寒さの秋空にくっきりと中天にあった。
私は小学校に入る前から中学1年まで、祖母の趣味で日舞を習わされていた。舞台にも何度か立ったことがある。最後の舞台は「大原女」で、これはお多福の面をかぶった大原女の姿で前半を踊り、早変わりして今度は奴となり男になる、かなり難しい踊りだが、奴姿で纏を持って花道に走って見得を切る、その瞬間に拍手喝采、やはり気分の良いものである。遠い遠い昔のことである。
2005年11月10日
チェ・ヨンミ(崔泳美)『三十、宴は終わった』を読んで
解説を書いた佐川亜紀さんからこの詩集が送られてきたので読みました。
題からでも分るように、30代のこの女性の詩集は百万部も売れてベストセラーになっているのだそうです。日本では考えられないことです。韓国での詩の位置が日本とは大きく違うことは、よく言われることですが、実際私も一度だけソウルに行った時に大きな本屋に行き、その様を実感しました。
大胆に性を描いたことでも話題を呼んだということは、いまだ儒教精神の根強い韓国だからで、日本ではとっくに開放され、そういう詩人も何人かいるわけですが、それだけでなく、若い感性と肉体を通した心情の新鮮さ、またしっかりした批判精神もあって、魅力的です。
民主化運動のための学生運動の挫折や、失恋などが背景にあるようですが、都会に暮らす若い女性の心をつかむものが確かにあり、多くの読者を得ただろうということも分ります。
「ああ、コンピュータとセックスができさえすれば!」(Personal Computer)というフレーズなどは,「私はお釈迦様に恋をしました」(お釈迦様)と書いた林芙美子を思わせますが、彼女のように元気溌剌とした上昇志向ではなく、暮らしに追われる人々に中に身を添わせるところがあります。
「詩」という題の詩は「私は私の詩から/お金の匂いがしたらいい」に始まり、「評論家一人、虜にできなくても/年老いた酌婦の目頭を、温かく濡らす詩/転がり転がり、偶然あなたの足の先にぶつかれば/ちゃりん!と時々音をたてて泣くことのできる//私は私の詩が/コインのように磨り減りつつ、長持ちしたらいい」で終わります。
イタリアの詩人ウンベルト・サバの「石と霧のあいだで/休日を愉しむ、大聖堂の/広場に憩う、星の/かわりに/夜ごと、ことばに灯がともる//人生ほど、/生きる疲れを癒してくれるものは、ない。」(ミラノ)[須賀敦子訳]というのに近い感じがします。
とにかくこの、詩に対する彼我の違いはなぜだろう・・・といつも思います。国情の違い、民族文化の違いでしょうが、これを読みつつ思うことがありました。韓国には両班(やんばん)の制度がありました。これは中国の科挙制につながるもので、高等文官試験のような役人の登用試験で、男子一生の仕事として、これに合格することが出世する第一の道です。もちろんこれにははじめ文と武があり、実践的なこともあったでしょが、何しろ試験ですから、教養の度合いや詩文の暗記、作成、そのような瑣末なことに精力が注がれることになります。韓国では李朝、その支配階級だけが科挙を受験でき、それが両班、すなわち特権階級であった文官です。ベトナムも詩の国と言います。韓国と良く似ていますが、そこも科挙制が最後の王朝阮朝まで続いています。
振りかえって日本を見ますと、科挙制は採用されませんでした。宦官制度もなかったように。日本は文化的には京に天皇という文化の拠点は残しながら、実権は江戸の将軍であり、これは武であり、サムライであり、軍事政府です。
中国でも韓国でも、またベトナムでもトップに立つ人間は、文章家であり、詩人であることが多いのはそのためではないでしょうか。日本で付け焼刃的に和歌を詠んだり、古典を引用したりするのとは、土台が違うような気がします。
(断っておきますが、私は歴史については疎い人間です。これはまったく知らないことの恐ろしさで、勝手なことを類推しているにすぎません。)
こう考えると、日本はずっと武の国であったのだなあ、と思います。だから黒船がやってきた時、うまく立ち回れたのかも知れないし、それに比べて大国である中国がめちゃめちゃに侵略されたのは文の国でありつづけたからかもしれない。
そう考えると、今しきりに刺客などを放って、巧みな戦略で獅子吼をする人物が人気を集めるのも、むべなるかな、と思わずにはいられません。
詩人が韓国のように、多くの人々に浸透できるようになるのは至難の業かも・・・と思ったりしています。
2005年11月08日
立冬の鶯
7日の昨日は暦の上では立冬だが、気温が高く9月下旬の陽気になった。
この時期、朝夕の寒暖の差が大きいのは例年の通りだが、やはりその揺れがいっそうひどくなったような気がする。
これは昨日の話しである。
前の日、やはり日中暖かかったが、寒気が入ったのか夜になって雨が降った。そして7日の昨日、庭に出ると鶯の、舌打ちをするような笹鳴きが聞こえると思っていると、鶯の声が聞こえた。二声、短いとっさの鳴き声であったが確かに聴いた。実は少し前のことだが、やはり鶯の声を聞いたのであった。こんな季節になって、しかもこんな間近に鶯がいるなんて!と嬉しさよりも不安を感じた。とっくに里から山に帰っているはずであった。帰りそびれたのか、お山の縄張りからはじき出されてしまったのか。愛しくなって、しきりにその姿を探したが、もちろん見つけることは出来なかった。
不等辺三角形の狭い庭であるが、大きな石があって、その上に鳥の水場を作っている。餌は、この辺では害獣にされてしまったリスを寄せることになるので、出していない。鳥たちが水浴びに来るのを見ているだけでも飽きずに一日が経ってしまう。そんなわけには行かないので、毎朝水がほとんどなくなっているのを見て、多く想像するのである。シジュカラ、メジロがやってくる。
この日もお天気が良く、予報も太陽印だけだったのに、午後から急に雲が湧き出てにわか雨が降った。そんな雨の庭を眺めていると、ドウダンの垣根に3羽のシジュウカラがいた。雨宿りしているのかしら・・・と見ていると、どうも水場を目指している様子、雨が降っているのになぜ? 天然のシャワーである雨が降っているのにと思っていると、本当に一羽が水をたたえた鉢のそばにやってきて、身を浸したのである。羽をぶるぶると羽ばたかせて、気持ちよさそうに水浴びをした。
日本人がシャワーだけでは満足せず、湯船にたっぷりと浸りたいように、鳥もそういう気持ちになるのかしらと、微笑みながらそれを眺めていたのだった。
8日の今日、鶯は鳴かなかった。お山にちゃんと帰ったのだろうか。
2005年11月04日
歴史について(1)
このところ秋晴れのお天気が続きます。「書物など捨てて巷へ出よう」と寺山修司は言いましたけれど、パソコンなど閉じて紅葉の林を散策しようと叫びたくなります。でもまだこのあたりは少しだけ色づいた感じでしかありません。
歴史について、続けます。小森さんの講座に出ていて感じたことは、いかに私が近代から現代にかけての歴史を知らないかということです。点としての事実は多少知っています。でも日清戦争がなぜ起きたか、またその結果は?というようなこと。そのとき莫大な賠償金をせしめたために一種のバブル景気になったことや、その後の日露戦争の時、大国ロシアに勝てるはずはないのに、各国の外交上の思惑もあって、辛うじて勝利を収め、賠償金などは望めべくもなかったのに(負けないだけ運がよかった)、前回のことで味を占めたせいもあって国民は承知せず(もちろん犠牲が大きかったので)、暴動まで起こったことなど、ちゃんとした因果関係としてはほとんど何も知らなかったのです。
もちろん私の不勉強、無知のせいでもあります。しかし考えてみると、高等学校までの学校教育における正規の歴史の時間にそんなことをちゃんと習っただろうかと、振り返ってみて思うのです。私たちの年代はまだ予備校などはなく、受験競争が始まろうとした頃ですが、歴史の時間は近代史になると時間が足らず、ほとんど打ち切りになってしまっていました。
歴史の時間は大体太古から始まります。それはロマンの世界です。確かに面白いにちがいないのですが、今と関わりのある歴史は、少し前の現代、近代です。それはもう歴史になっており、それは客観的な物となり、文献でも正疑が確かめられるものです。それを知らないで、今では存在しなくなった武将たちの国取り合戦や、弓矢や騎馬による合戦の模様や作戦を推理と架空をまじえてあれこれしたとしても、経営者の人生訓として少しは役に立つとしても、現実の政治や外交を考える上で、ほとんど役に立ちません。それは物語にすぎず、歴史ではないのです。
学校教育でちゃんとした歴史認識を育てるためには、歴史を現代からはじめ、近代、近世、中世・・・へと遡っていくのはどうだろうと思ったりします。そうすれば、今の政治のあり方も、また外交や憲法問題も、それぞれが考える下地が出来てくるのではないでしょうか。私自身を考えてそう思いました。
それがないから、日本人に神話を与えようとする、ロマンに満ちた歴史教科書が登場してくるのだと思います。
2005年10月31日
歴史について(はじめに)
何年か前から月一回、朝日カルチャーの「漱石を読みなおす」を受講している。講師は小森陽一氏。
誘われて行ったのだが、面白くなってずるずると今に続いている。博覧強記で、氏の頭脳の襞には政治から文学に至るまでの年表がびっしりと書き込まれている感じで、それを縦横に使っての独自な展開、文学の枠にとどまらない新しい視点からの読み解きは、いつも眼から鱗の思いをさせられる。それが面白く、また刺激的でもあるのでついつい跡をひいてしまっている。
漱石は明治元年の前年、慶応3年に生まれた。またロンドンに留学したのは1900年、ちょうど20世紀が始まろうとしていた年である。日本はもちろんだが、世界(といってもいわゆるヨーロッパだが)も大きな転換期を迎えていた。近代化の途ではまだほやほやの赤ん坊の日本から、没落期とはいえ産業革命の中心地、大英帝国のど真ん中に、国家の使命を帯びて投げ込まれた漱石が、どんなに大きなカルチャーショックを受けたかと考えると、神経衰弱になるのも無理はない。深く感じ、深く考える人であるからなおさらである。
だがその落差が大きいだけに、そして漱石がすぐれた感性と知性を持っていただけに、近代化の過程と行く末を、その時点ですでに見通していたことが、小説を読んでいくうちに分ってきた。やはり漱石は偉大な文学者である。文豪といっていい人だろう。(もちろんこれは私の独自の見解ではないのだけれど)。
というのもその時代に漱石が感じ、考え、憂慮した事柄が決して古びていない、というより今こそそれが展開している、ということが分るからである。漱石が感じていた不安や危惧、それがいま具体的に姿を現してきたような気さえする。その時から100年が経って21世紀を迎えた。今年は戦後60年ということでその推移や変貌の検証を、マスコミはしばしば取り上げている。これは私が生きてきた時代と、ほぼ重なる。自分の生きてきた道のりと同時に、生まれ育った国についてもやはり考えてしまう。
こういうことを書くつもりではなかったのに、ついこうなってしまった。それでこれを「はじめに」ということにし、次に書こうと思っていたことを書くことにします。
2005年10月26日
『かはたれ』朽木祥作(福音館書店刊)を読む
朽木さんは、近所に住むファンタジー作家で、これが第一作です。頂戴して読みましたが、自然や人に対する細やかな感受性があって、詩情も豊かで快い空気に包まれる感じがしましたので紹介します。
このファンタジーは、−散在ガ池の河童猫ーという副題が付いているように、河童族の大騒動の中で一人ぽっちになってしまった子河童が、子猫に姿を変えて人の世界に紛れ込み、同じように母を無くして父親とラプラドール犬と暮らしている女の子とひと夏をすごす、出会いと別れの物語です。その中で女の子はその悲しみを自分で少しずつ乗り越え、また子河童(猫)も長老の教えを時々思い出しながら(霊力が衰えて時々河童の姿に戻ったり・・)人間世界での修行を積んで成長していきます。
「かはたれ」時とは、「いろいろな魔法がいちばん美しくなって解ける、儚い、はかない時間ね」と亡くなった母親の言葉として解説していますが、そういうあわいを美しく大切なものとみなし、イギリスの詩人キーツの詩の「耳に聞こえる音楽は美しい、でも耳に聞こえない音楽はもっと美しい」のように、耳に聞こえない、眼に見えないものに耳を澄ませ眼を凝らそうとする作家の意図が作品の底に流れているのも、朽木さんが妖精の国アイルランド文学の研究者であるからでしょうか。
物語の舞台になる散在ガ池周辺には5つの沼があり、その周辺の地図が表紙裏に描かれていて、もちろんこれはフイクションですが、散在ガ池という名は、この近くに実在の池に名を借りています。というよりこの現実の地に幻視したものではないかと私には思えるのです。というのもこのあたりは私が住み始めた頃から急激に開発が進みました。そういうことへの愛惜と嘆きの気持ちがもう一方にはあるのではないかと、同じ気持ちである私には思えるのです。最初の大きな開発から辛うじて残った近くの切り通しも、ここでは「落ち武者の道」と名づけられ登場させられているので、嬉しくなってしまいました。けれどもこの幻視された河童の国にも開発の波が押し寄せている現実もちゃんと描かれています。また残された自然の身近な動植物への眼差しと描写にも楽しませられます。
どうかこれを読んで興味や関心をもたれた方は、図書館でリクエストなどして読んであげて下さい。大人でも(というより大人の方がと言いたいほどレベルが高いです)十分に楽しめます。
2005年10月25日
ピアノの練習(3)
水野さんの24日のブログを読んで少なからぬショックを受けた。
それは高橋たか子の「日記」からの言葉を紹介したもので、日本文化への批判だが、まさに私自身に向けられている感じさえしたからだった。
存在的エネルギーの量や強さが西洋人に比べて少ないのではないかというが、そんな日本人の中でも少ないと常々思っている上、それを少ないなりに一つにまとめ、自分の存在をはっきり打ちたて、強力にした上で他人と向き合うべきなのに(それがまた他人への礼節につながる、また他人への深い眼差しにもなる)、そういう内在の力を養うことをしていない、という批判は、まさにその通りだと思った。その強力な内在の力で、とことん学問をしたり政治を行ったり(もちろん芸術することも)、することがない。「一方向への徹底性がない」・・・・ああ、ほんとうに自分を眺めてもそうだなあと思うのだった。
ピアノは独習だといったが、いまさら上達にかける年齢でもないけれど、わたしにとってこれは「ひとりあそび」の一つだと書こうとしたところだった。「世の中にまじらぬにはあらねども ひとりあそびぞわれはまされる」という良寛の和歌をひいて・・・。
良寛にとって、和歌も漢詩も書も「ひとりあそび」に過ぎなかった。その世界を追究したり、新しく切り開いたり(または何らかの名誉や栄達のためにでも)するのではなく、存在する上の「すさび」だったのである。ここには存在する自己の確立もないかわり他者もいない。
良寛の漢詩に次のようなのがある。「花 心無くして蝶を招き/蝶 心無くして花を尋ぬ/花開く時 蝶来たり/蝶来る時 花開く/吾れも亦人知らず/人亦吾れを知らず/知らず 帝の則(=自然の道)に従う」
花も蝶も人間も、すべて自然の則の中でただ存在しているだけである。この世での束の間の存在、命の中で、花が開き蝶が舞うように「すさび」をして生きているだけである・・・という内容。
考えてみるとこの「北窓だより」の題をもらった菅原道真も,政権争いに敗れて流されたのに、恨みに恨むという激しさ、「岩窟王」になることもなく(もちろん怨霊となって後に恨みを晴らすのだけれど)、現実的には北窓からささやかな3つの楽しみに甘んじるという悟りに似た心境で過ごすわけである。
こういう日本的な無常観に満ちた文化的土壌がいやだなあという気持ちも一方には強くあって、それが西欧の思想や文化に向かうのだけれど、この落差を自分の中でどうするか、それが大きな課題です。
西欧文化の一つであるクラシック、そしてピアノに私が惹かれるのもそれであろうと思われ、そのことを強く感じさせられた水野さんのブログでした。
2005年10月23日
小ホールでの寄席
昨日、近くにある芸術館の小ホールに落語「柳家小三治独演会」を聞きに行った。舞台だけを見ているとちょっとした寄席気分が味わえる。寄席などは構えて遠くまで出かけるものではないような気がする。小三治さんも、何の役にも立たないことに、無駄に時間を過ごしにやってくるようなもの・・・、しかし会場でメモを取る人も最近はいて・・・、と言って笑っていたが。このホール寄席に、私も時々ふらりと行くようになった。
前座は柳家三三の「お菊皿」で、小三治は「付き馬」と仲入りの後「一眼国」。
古典落語だが、語りに入るまでの枕の部分に今の世情の機微なり政治や社会への風刺のようなものが織り込まれることが多い。最初の枕は、古いカメラのことから最近の事件ATMに取り付けられた盗聴カメラのことになって、それが文明批判じみたものになっていき、次のには一昨日中国から帰ったばかり(小沢昭一、永六輔らと)と言い、ちょうど小泉首相の靖国神社参拝の日であったことからそれに影響されたことや国民性の違いなどの話を面白おかしく・・。
小三治の落語を聴いていると間のうまさを感じる。息もつかさず面白いことを言ういう人もいるが、全体に語り口はゆったりして、それでいてふいについて出る話に思わず笑ってしまう。つい枕が長くなって・・・と言う。枕だけでなく中途にも枕が入って・・・と言ったが、確かに時々横道にそれて、本題は何だったかな、ととぼける。それもまた面白い。
落語はまさに言葉の芸、話芸であるが、それに加えて「間の芸」でもあると思う。そこに人柄がにじみ出る。それは文体に似ている。同じような内容を語り、描いても、その語り口によって面白くもあり、快くもなる。詩もそうなのだろうなあ・・・。
行く時は小雨が降っていたが帰りは上がっていて、夕焼け雲が西空に広がっていた。そして今日は気持ちのいい秋空になった。
2005年10月21日
ピアノの練習(2)
ピアノはまったくの独習です。先生について習ったほうがいいですよ、と言われます。
上手になるには、また早道のためには、もっともなことなのです。変な癖がつかないためにも・・・。けれども習うとなると、時間に縛られます。そして先生からの課題に努力しなければなりません。しかしピアノに関して言えばそれがいやなのです。どうしてかなあ・・・。
両手で何とか弾けるようになったのは中学校の音楽の時間,オルガンで「結んで開いて」と「子狐こんこん」(題は間違っているかも)を弾かされた時で、そのときコツのようなものが掴めた気がしました。
その後はずっと遠ざかっていて、この家に来た頃、20年ぐらい前でしょうか、家を建て替える人からピアノを一時預かったことがあり、そのときバイエルや楽譜も預かって、それを見て練習したのでした。そのときはフォスターのものを何曲か,また「ドナウ川の漣」に挑戦したりした記憶があります。
そもそも私はピアノなどに親しむ環境にはありませんでした。地方にいて、貧しい(その頃は皆そうだったのかもしれませんが)母子家庭で、しかも邦楽のほうに縁があったからです。母は三味線がうまく、私は祖母の道楽から日本舞踊を習わされていました。だからクラシックのことを洋楽なんていっていました。
その洋楽なるものを初めて聴いたのは、小学上級くらいで、それを聴いてもよく分りませんでした。中学になって初めて聴いたのが「アヴェ・マリア」で、そのとき初めて「なんて快いのだろう」と思ったのです。
そのくらい文化果つる(?)境遇でした。
それら西洋音楽に急速に馴染むようになったのは、東京に来てからです。
これは私の中の明治維新のようなもので、私の近代化でした。
2005年10月20日
ピアノの練習(1)
私の家の宝物でもあり友達でもあるピアノは、黒く光るアップライト式で、4年半ぐらい前にここにやって来ました。友人Mさんの友人、Hさんから幸運にも頂戴したものです。白い鍵盤は象牙で、音色がいいことは素人の耳にもわかります。前にも書きましたが、それからというもの私は家にいるときはたいてい一時間ぐらい彼女と遊んでいます。
彼女が来てから、早速「おとなのためのピアノ教本」の一つ、有名な曲のサワリだけを集めた「ピアノで弾くクラシック名曲集」を買ってきて練習し始めました。その後「弾けますピアノ わたしのポピュラー」というのも買って・・・。
今では何とか40曲くらい楽譜を見ながら弾けるようになりました。暗譜をしようと心がけているのですが、それを一応果たしたのはその半分くらいでしょうか。でも覚えたつもりが、暫くすると忘れているので、何度も復習し直さなければなりません。というわけで今のところ、新しい曲にはなかなか進めず、このくらいがもう限度なのかなあ・・と思っています。でもこれだけのレパートリーがあれば、結構楽しめます。
言葉とは違って、音や色はそのものだけで美しいというところがありますから、たとえ下手でも、その音を耳に(色ならば眼に)するだけでも快感を覚えることが出来るのは、いいなあ・・と思います。
「ラ・カンパネラ」や「魅惑のワルツ」などを自分でうっとりしながら弾きつつ・・・という、あまり人には見せられない姿で彼女と戯れているのです。
2005年10月10日
民芸公演「ドライビング ミス・デイジー」
しょぼしょぼと秋雨の降る中、池袋の「芸術劇場」の民芸公演を観に行ってきました。
舞台はアメリカのまだ人種差別意識が色濃く残っているアトランタ、72歳のユダヤ人の未亡人とその雇われ黒人運転手との間に、次第に友情が育っていく過程を描いたものですが、時の推移が25年ということですので、少々駆け足の感がありました。民芸の奈良岡朋子と無名塾の仲代達矢という豪華さ。最後は認知症になって病院で車椅子生活をしているデイジーを運転手のホークが見舞うというところで終わっているので、シビアであり身につまされます。同じようにそう言って帰る人が多かったと、製作部で受付をしていた友人が、芝居がはねた後、話していました。
「女の一生」などで一人の女優が娘時代から老年までを演じ分けることがよくありますが、ここでは老年期の次第に衰えていく過程を、細かく演じ分けているといっていいでしょう。
晩年を、老年という地図のない冒険・・・ととらえ、詩集「一日一日が旅だから」を出したメイ・サートンを思い出します。
2005年10月09日
「日曜喫茶室」をよく聴いています
朝から雨になってしまいました。
道路に張り出すので大きく剪定せざるを得なかった金木犀、それでも少しだけ花をつけて香っていたのですが、もう散っていきます。
私は「日曜喫茶室」をいつも楽しみにしています。今旬の人、話題になったり著書を出したりした人が登場して話をするからです。先日も、ある漫才師が自分の祖母のことを書いた「がばい(凄いという意味)ばあちゃん」と言う本のシリーズが大変反響を呼んでいるということを知り、早速文庫本を手に入れ読んでみて、なるほどと思って、そのことを書こうと思ううちに日が経ってしまい、今日は「日本語で数えナイト!」のテーマで、TV「英語でしゃべらナイト」の司会者パッククンと、日本語の数の数え方辞典を研究出版した飯田朝子さんがゲスト。
TV番組は最初、語学はさっぱりダメ人間、の私は興味がなかったのですが。最近ふと覗いてみたとき面白く思って、このところ3回ほど見ていたので、ああ、あの人だと、その点も興味を覚えたのでした。
在日12年だと言うのに日本人と変わらないほどの会話力、語彙力、そして文化についての知識もあるようで驚きます。詩人でエッセイストのアーサー・ビナードさんもそうですが、その日本語力(短期間でそこまでいくなんて、私には驚異的です)はもちろんですが、言葉に対する敏感さが素晴らしいと思います。
パッククンさんも、言葉が大好き、言葉を知ることでその国の文化が判る、と好奇心にあふれていて、刺激されます。TV番組も彼のキャラクターによるところも大きい気がします。飯田さんも、複雑極まりない日本の数詞を探っているうちに、日本人の物にたいする繊細さに触れ感動を覚えるようになったと語っています。どちらも言葉に対する興味、関心、愛情があるのですね。
文化の根っこには言葉がある。詩を書く者としてそれをもっと大切に慈しまなければ、と思わされました。
2005年10月04日
私の散歩道
最近医者から骨ソショウ症だと言われ薬を飲んでいて、出来るだけ運動をするようにとも言われるので、家にいるときはなるべく散歩をすることにしました。
今は夕方日が暮れる前の2〜30分、裏山の六国見山に登ってきます。ちょうどその時間は犬の散歩の時間でもあるようで、犬たちに会えるのも楽しみです。今日は5,6頭グループとなって歩いていくのにぶつかりました。縫ぐるみのように可愛らしいプードルや小型のコリーや、柴犬や、目だったのは耳がぴんと立ったドーベルマンなど。最近はいろいろな小型で珍しい種類の犬なども見かけるようになって、まさにペット大国になったなーと思います。私の目には先ず犬が見えて、人間の姿はあまり見えてこないのです。だから、あ、あの時の犬だな、と思っても綱の先にいる人間がどうだったか覚えていません。「こんにちは」と犬に言い、触らせてもらえると嬉しくなります。
さて犬とは別れて、六国見の細い坂道にかかります。なぜか最近ススキが多くなった感じがします。小暗い杉林や藪の道を登るとすぐ頂上。遠くの海も空も灰白色に曇って、大島の影も見えません。下りは貯水所に至る別の道をたどって、階段を下ります。その途中に一本だけすっかり紅葉した樹がありました。ハゼの樹です。桜はまだところどころが黄色という段階です。
住宅地を歩いていると、金木犀の香が漂ってきます。我が家の金木犀は、2年前に大きく切り詰められてしまったので、今年もまた花は望めません。
遠くにちらちらと灯火が点りはじめました。これからはだんだん日が短くなっていくでしょう。
2005年10月01日
モンゴルの馬頭琴を聴く
さわやかな秋の一日となった今日(日中は少し暑くなりましたが)、モンゴルの草原の空気を味わいに行ってきました。「子どものためのコンサート」とありましたが、それは子どもへのサービスがあるからで、内容はレベルの 高いものでした。演奏者は馬頭琴第一人者のチ・ボラグさんとその息子さんのチ・ブルグットさん、ピアノは西村和彦さん、パーカッションの人、最初の童話「スーホーの白い馬」の朗読(民芸の稲垣隆志さん、子どもへの導入部だと思いますが、これもよかった)も含めて独奏と合奏、2時間たっぷり楽しませられました。
途中20分の休憩時に、馬頭琴に触り弾くこともできる体験コーナーもあり、民族服姿のお姉さんが手をとって教えてくれます。子どもたちに混じり、勇を奮って私もちょっと弾かせてもらいました。音はちゃんと出ます。でもこの楽器はとても力が要るのだそうです。一曲終わるごとに汗を拭いているほどでしたから。
馬頭琴は草原のチェロと言われるそうですが、繊細さと野太さの両方を持っているような、l日本の尺八、馬子唄や木こりの唄といった朗々とした民謡にもどこか通じるような、やはり東洋的な音調があり、それが広々とした草原と青い空にどこまでも広がっていくような感じがしました。
チェロの名曲カザルスの「鳥の歌」も、レパートリーにはありました。「万馬のとどろき」の、何万頭もの馬が疾走する様子を描いた勇壮で華麗な演奏は圧巻でした。アンコールの曲は優しく艶めかしく、弾く方もうっとりと弓を動かしている感じにさえ思えました。
心の中を草原の秋風が吹き抜けた一日でした。
2005年09月29日
北窓より(3)
中国の唐時代の詩人白居易の詩に「北窓の三友」があると、菅原道真が『菅家後集』に書いており、その詩を読んで、彼も同じく漢詩を作っています。もちろん大宰府に流されてからのものです。
白居易が北窓、すなわち書斎における三友を <弾琴>、<詩>、<酒>、としているのに倣って作ったものですが、琴と酒は「交情浅し」、すなわち友とするほどの交わりはない。当然流謫の身であればそれらは叶えられなかったわけですが、それにかこつけて友人や息子たちとの別れなど悲しみをいろいろ述べた後、自分に残った友はただ詩のみであるとし、琴や酒の代わりは、軒端に来る「紫燕の雛」、「黄雀の児」位のものだと観じるのです。
悲劇の学者であり政治家でもあり、文筆にすぐれた天才でもあった人を引き合いに出すのは気が引けますが、「北窓」について調べていたら判ったので、気分だけでも壮大であったほうがいいだろうと、それにあやかる事にしました。
凡才で、最初から流謫 のような身の私ですが、詩のようなものを友としているわけですし、また西洋の琴、ピアノを片言めいた弾き方ですが独り楽しんでいますし、酒は大好きで毎晩のようにワインか缶ビールを少しばかり飲んでいるので、道真よりも境遇としては恵まれているといってよいでしょう。
そんなわけで、このブログのカテゴリーを「北窓だより」としたのでした。
2005年09月25日
北窓より(2)
台風17号が伊豆半島沖を通過しているため、上空を灰色の雲がゆっくりと南西へ流れています。
その下には、眼下の谷戸を隔てて雑木林が横たわり、この場所が気にいったのもそれがあるからでした。
右手の家並みは駅へと続き、その甍の波に泳ぎだそうとする大きなクジラのようにそれは横たわっています。頭に当たるところには立派な長屋門があり、それをくぐった屋敷の中には母屋と竹林を含んだ広い庭があり、その背後が雑木の小山になっているのです。それが目の前に広がる林で、このあたり次々と山地が切り崩され宅地造成され緑が少なくなっていく中で、貴重な一画です。このあたりの名主だった家で、今でも甘糟屋敷と呼ばれ、敷地面積は約3600平米とのことですから1000坪ぐらいですかね。甘糟家は室町時代からこの地の郷士であったといわれる古い家柄のようです。私たちがここにやってきた頃、老朽化していた長屋門がほぼ原型を残した形で再生され今日に至っていますが、その中の竹林や梅林も外から窺がい見るだけですが大いに憩いを与えられています。手入れもちゃんと行われているのでまだ財政的基盤は大丈夫のようですが、いつまでもこのままであり続けて欲しいなあ・・・と借景を満喫させてもらっている側からすればただ祈るだけなのです。
その緑(今はまだ紅葉していない)のクジラの尻尾の辺りからの尾根伝いの道は、この家の背後に当たる六国見山へと続いています。
夜になると左手の家々や駅近くのビル、信号機の点滅などの灯がきらきらとして、ここは山の中でもなく街中でもなく、まさに里なのだな、と思っています。
2005年09月24日
北窓より(1)
この小家には北側に大きな窓があります。丘の中腹にあるので眺めはいいのです。
この眺望に魅かれて、ここに案内された時に即決したのでした。生活の便不便とかその他、ほとんど考えませんでした。あとで分ったことですが(何とかの後知恵といいますが)北斜面というのは、地所が広ければ問題ありませんが、狭いと南側に隣家が迫ると、日当たりがいっそう悪くなるわけで、だから南側にある庭も日陰がちになるわけでした。冬になるとそれがいっそう身にしみます。眺めがいいだけに暖かそうな眼下の家々を眺めながら、恨めしく暖房を早くから入れているわけです。
「日の当たる坂道」でしたかしら、日の当たる裕福な階級を羨望する、日陰に住む貧しい人たち。日当たり、太陽の恵み、に対する人類の本能的な憧れがあるのでしょうね。
でも日陰の花の言葉があるように、日陰の方が育つ花があります。陽が少なくても育つように花自身が自分を変えていったのだと言うことです。水のない砂漠にもそれに適応した植物があると同様に。そしてそれぞれに趣のある花を咲かせます。これら花々を見習わなければなりません。
人類は戦争ばかりやっています。日本もこれから巻き込まれるかもしれません。そのようにして人類は滅び、しかし植物の方は生き残るでしょう。
実はこういうことを書くつもりではなく、北窓からの眺望について先ずお知らせしようと思っていたのでした。それはこの次にしましょう。
2005年09月23日
初秋の庭
わたしの家の小さな庭、二枚組になっている三角定規の90度角ではない方の形に近い狭い庭ですが、いま秋の野っぱらのようになっています。露草、水引草、犬蓼(=赤まんま)、やっと杜鵑(ほととぎす)が咲き始めました。
あまり日当たりがよくないことから、日陰や湿り気につよい草花しか育たないことと、少々怠け者であることから、これら雑草がはびこりやすいのですが、この趣が気に入り、少しばかり手を入れながらむしろ楽しむことにしました。
とくに露草は、普通見られる瑠璃一色ではなく、周囲が白いグラデーションとなり、仄かで可愛らしいのです。露草は最初はどんどんランナーを出して這い回るので、手に負えない感じでつい抜き取りたくなりますが、それを何とかうまく管理しつつ残しておくと、夏の終わり頃から次々に咲き始めます。この変わった露草はなぜかこの庭内だけしか私の目につきません。満天星の垣根の外にあるのは普通の色なのです。そのことに気がついたのは亡くなった人であり、だからそれを見ると彼のことを思い出します。
彼の魂が、そんな仄かな形でこの庭を訪れているのかも・・・と思って、少し毎朝の花の数が減り始めたその露草を眺めながら、秋の訪れを感じています。