2012年05月30日
メタボのメダカの死
2年ほど前から、メダカを飼っている。駅に行く路地にメダカを飼育している家があって、そこから譲り受けたヒメダカである。
最初私の失敗から何匹も死なせたりもしたが、夏場に沢山子どもが産まれ、それをお隣さんに分けたり、それが増えて、こちらが冬場にいなくなって貰ったり、いろいろなことがあったが、小さくても、というより小さいから尚更、命というものの不思議さとそれを眺めることでの安らぎ、愉しみを覚える。
ところがである。2匹だけ残って冬を越し、昨年大量に繁殖したお隣さんからとりあえず2匹だけもらった現況であるが、わが家の1匹のお腹がとりわけ膨れていることに気づいていた。
訪れた宅配のお兄さんも、玄関わきのその大鉢を覗き込んでいるので、「メダカを飼っているんです」というと、「へえ、金魚かと思った」などという。確かに小さく細身の金魚ならそのくらいのもいるかも…。
卵を抱えているかと思ったがそうでもなさそうで、お隣さんとも「メタボ」と名付けて話題にしていた。
そのメタボが、昨日横になって水面に浮かんでいた。やっぱり…。
だが、まさか実際にメダカがメタボのような症状を起こすとは考えていなかった。
そして最近、暖かかくなったし、若いメダカがやってきたので、エサを与えたりもしていたが、それを若者よりも先にパクパクやるのも彼(?)だった事を考えると、まさにその肥満が死に至らしめたのであろう。これもわが責任だと大いに反省しているが、メダカがメタボになるなどとは、ほんとに思っていなかったのである。
2011年03月27日
地震、大津波と原発事故その後について
前回急ごしらえの浅い知識ながらこの原発事故の怖さを、そうならないことを願いつつ書きましたが、そのシナリオ通り進み、いやすでにスリーマイルを上回り、チェルノブイリに近づいていくということにもなりかけていて、言葉が出ません。
地震と大津波の惨状も、日が経って状況が分かるにつれ、その凄まじさが露わになり、まさに目を覆いたくなります。その中にあっても奮い立って頑張ろうとしている人々の姿、救援の手をいち早く差し伸べる人々など、いざとなった時の人間の底力に心打たれています。そうせざるを得ないのでしょうし、カメラに向かって意気阻喪した姿は見せられないでしょうが、視ている私のほうが、今萎れてしまいそうな日々です。
今、この大震災、また特に原発事故について世界もあらゆる意味で注目しているようですが、今度の事故で、私は初めて「爆」と「曝」の違いを知りました。被曝とは、爆弾を受けるのではなく、放射能を浴びることなのですね。この辺りももう放射能が飛んでいるとお言われてます。なるべく外を歩かないようにと。水もだんだん危なくなるということ。これなどはまだまだ大したことありませんが、20キロ圏内の指示、30キロ圏内の避難要請。故郷を捨てざるを得ない人々の気持ちを考えると、胸が痛みます。
今日本はまさに、世界にその姿を曝(さらす)、曝してもいるのだな・・・とも思います。ただただ原発が一刻も早く鎮静することを願い、また被災地の復興が一日でも早いことを願っています。ほとんど役に立たないかもしれないけれど、私なりのささやかな心や義捐金を届けることぐらいしかできませんけど。
震災後の行事や集まり、約束などはすべて取りやめになっていたが、だんだん世の中も平常を取戻してたので、今日はこれから初めて電車を使っての外出です。
これから先は、帰宅してから追記したものです。
行く先は、横浜みなとみらいにある神奈川大学エクステンションセンターの、市民に開かれた講座、「『遠野物語』と現代」(講師:安藤礼二)でした。『遠野物語』が世に出て100年ということから、遠野の現地をはじめいろいろなところでもシンポジュームや催し物が企画されましたが、これもその一つです。水野さんや福井さんに誘われてですが、毎回とても刺激的で高度な内容の講座です。遠野も今度の大震災の被害地の一つですね。
3回連続講座でしたが、最終回の前に地震が起こり延期になり(このことも劇的でありました)、2週間遅れて今日になったのです。この物語の持つ意義を、日本の古典から始まり現代までの文学、歴史や民俗学にまでわたって論じてきて、最後は現代に及ぶところで中断していたのです。
この物語が、いかに現代の、まさにこの大災難に直面した日本、そして日本人に示唆を与えるものであるか、この今を予感したようなこの最終講座であったことを知り、しかも現代と結びつく内容であったということでちょっと興奮しました。
その一端でもここに書こうと思いましたが、難しいです。
節電のため駅はホームなど肝心な場所以外は消灯していて全体が薄暗い。コンビニもスーパーも閉店かと思えるほど薄暗く、売り場だけを照明が当てられているが、どことなく薄寒い。品物も平時とそれほど変わっていないように思えるが、肝心なもの、売り切れと言われているような品目の棚はがらんとしている。みなとみらいもエスカレーターや歩く歩道は停止しているので、皆ぞろぞろと歩いています。日曜なので停電がないので、買い物などにみな出ているのです。従業員たちの応対は丁寧で落ち着いており、客も通行人も、皆平静で目的に従って行動しているという感じで、この異常な事態を平静に受け止め、淡々と行動しているように見えます。苛立った声も、喧嘩も言い争いも見かけませんでした。黙々とした感じで雑踏が動いています。
よく政治家が使う常套句、「粛々と」がありますが、今日電車に乗り街を歩いた私の印象から言えば、民衆は今のところ粛々とこの事態に対応しているように見えました。
私は花粉症になったか、風邪かという感じで鼻がむずむずして気分もよくありませんが、『遠野』講座を聞き、大変大きく深い内容で私が理解できたかどうか危ぶまれますが、何やら勇気をもらい、帰ってきました。「人はどこからきて どこへ行くのか」というのがありますが、「日本人はどこからきて どこへ行くのか」の示唆のあるこの書を持つ私たち日本人は、誇りを持っていいような気がしました。みなさん、それぞれの立場で元気に生き抜き、これからいい世の中になるように努力しましょう。
今日は計画停電がなかったのでのんびりしていましたが、明日からまた始まります。直前になければ分からないので、この点スーパーなども開店するかしないかで困っているようです。ここも予定通りだと夕方から夜の時間帯になり、一番嫌な時間帯です。電気の有難さが分かりますけど。
2011年03月24日
地震および原発事故
最近このブログへの投稿がほとんど見られないのは、未曾有の地震とそれによる被害の大きさ凄まじさに言葉もなくただ愕然、呆然、惨状の酷さ傷ましさにただ胸をいっぱいにするしかないからではないだろうか。私もそうであった。
またそれを身に受けた東北の被災者の人々の冷静沈着な、また勇気ある態度、その後運命を敢然と受け止め、過酷な中からでもなお立ち上がり、互いに助け合おうとするけなげで優しい心情、それらを支える厳しい風土によって培われた力強さや忍耐強さ、そういう姿に打たれながらもただ映像を眺めているしかないもどかしさを感じるばかりだった。
さらなる追い討ちが原発事故である。
津波はたとえ想定外の巨大さであったとしても天災である。しかし原発事故は正に人災なのだ。
原子爆弾を落とされた日本人の多くはこの建設に反対であったろう。私もそうである。それを自分の町や村に諸手をあげて建設したいなどという人は極めてまれなはず。しかし原発は絶対大丈夫だ、安全だという国の言葉を地元の人たちは信じてそれを作らせたのである。この結果がこれである。そしてそれによる電力の恩恵を私も受けている。
私自身を考えても最初は原発建設に反対だった。しかし特に反対運動をしたわけでもなく、旗も振らずデモにも参加してこなかった。次第になし崩しに原発は次々に建設されていった。あちこちから小さな事故や放射能漏れなどの情報が流れてきてはいたが、ただ黙っていただけである。
ところが、この事故が発生してからの政府の発表、会見が、何やら表面的ではっきりしない。何か隠していることがあるに違いない、実態はどうなのだ、とう気持ちが高まってきた。本当のことを知りたい、本当はどうなっているんだ、という気持ちに駆られ、遅ればせながら19日に週刊誌を買い集め、その記事を読み学習した。もちろんそこには誤報や偏りがあり、真偽のほども分からないオーバーなものもあるだろう。しかしガイガー計数機を持って潜り込んで取材した記事もあれば正しいかどうかは別にして学者、専門家の意見、これまでの資料も載っているので、その中から、パニックにならないようにと慎重な政府の公式発表より真実がつかめるのではないかと思ったからである。ツイッターでもいろいろな意見が飛び交っているという人もいたが、それはいま見たくなく、原子力資料室というのに確かな情報ありというのも知らせでそれも見ましたが、ここでは今どういう状態なのかということを端的に知りたいので、主としてその時発売の週刊誌によったものです。
それによるとその時すでに大変深刻な状態だということが当事者には、また外国でも分かっていたようです。やはり知らされないのは自国民なのだな… 。もちろん買占めや風評被害に見られるような事態を避けるためにも悲観論より、あくまでも楽観論で、その時が来るまで手綱を引き締めていなければならないのでしょうが。
チェルノブイリまでには至らないだろうけれど、スリーマイル島よりもひどくなりそうで、チェルノブイリにいかにして近づかないようにするかにかかっているようなのでした。そこで分かったことの肝心なことは、必死に水を注入して高温になるのを防いでいるけれどこれはあくまでも対症法で、外部から引き入れた電気が通じて電源が入り、これによって各号機のモータが作動、冷却水が循環するようになってやっと収束に向かうということでした。これはもう映像でも説明され誰も知っていることですが、通電しても冷却水が循環するようになるまでが大変だということ、いまそれに少しずつ近づいているようですが、早くそうなることを、ただただ祈るしかありません。
そしてそのわが身を挺して必死の努力をさせられるのは常に現場の人々、自衛隊員や消防士たち、その働きに頭が下がりますが、こういう事態にいたった大本はいったいどこにあるのだろうという思いになります。
私のうちのお向かいさんの次男は市の消防士だそうですが、今福島の現地に派遣されているそうです。被災地ですからもちろん手弁当、食糧・燃料をすべて積み込んだ車で、現地ではテント生活、あちらは雪も降る寒さで、大変らしいです。このように全国から派遣され協力もして懸命の放水努力などしているのですから、何とか冷却水循環が作動できるようになるよう、これも祈るしかありません。
いま、原発事故に関する政府の公式発表などテレビで見たくも聞きたくもない気持ちです。
とうとう浄水場が汚染されるまでになりました。
「乳幼児のミルクはこれを使わないように」と言われて、ボトルが店には売り切れであればいったいどうしたらいいのでしょう。急きょ都がボトルを配布するですって!
また「大人も使わないほうがいいけれど」「手に入らなければ、使ってもいいです」って?当たり前です。水を飲まなければ死んでしまいます。汚染されたものでも飲まざるを得ないではないですか!
「でもこの数値はこれを継続的に一年間飲み続ければ危険だというもので、一時的に飲むなら大丈夫」「この数値はレントゲンを一回とった時と同じ数値でしかありません」「航空機でニューヨークに往復してきたのと同じくらいです」とかいかにも科学的なことで当座を安心させようとしている手口に憤りを覚えます。そんなことではなくもっと根本的な事柄、これからどんな事態になっていくのか、その場合はどうしようと考えているのか、また我々はどういう覚悟が必要なのか、それを政府はどういう風に考えているのか、国民に向かって真剣に、真実を語り、対策を話してほしいのではないでしょうか。
でもそういう政府を作ったのは私たちであり、また原発を作らせ享受してきたのも私たち、その一員である私であるわけですから、自らの胸にも問いかけねばならぬことでしょう。
それはそうと、原発の寿命は何年だと思いますか? 30年だそうです。
「従来、原発の寿命は30年とされていましたが、福島第一は今年でちょうど40年になります。原発を40年以上も運転し続けた例は世界的に少ない。予想できないトラブルが起こる可能性が高まる。30年で廃炉すべきです」と語っているのは、NPO法人「原子力資料情報室」の西尾漠共同代表の言葉です。
またこれは資料を見て私が数えた全国各地にある(たいていは海岸)原子力発電所の原子炉の数は54基、今建設中が4基でした。でもこれは私が数えたのですから誤差があると思います。福島は6基ですね。
もうそろそろ終えることにします。
今日も計画停電があるはずでしたが、中止になりほっとしています。もしそれが実施されていたら、ちょうどこの時間が始まりのころなので慌てたところでした。昨日は夕方6時20分からと準備したのに行われず、中止かなと思っていたら突然7時に消灯。このようにこの辺は計画停電に振り回されていますが、津波と原発の二重苦に振り回されても黙って耐えている人たちを見ると、どんなに憤懣やるかたないだろうと思わないではいられません。この原発に寄りかかっている今の文明生活について、これからはじっくり考えていかねばならない時なのでしょう。
テレビに天皇陛下の姿が現れた時、なにか不思議な感覚が生じました。これは誰のすすめでもなく陛下ご自身の気持ちからだということが報じられていましたが、なぜか終戦時の放送が浮かびました。あらあらまた同じ光景?! 不謹慎かもしれませんけど。
na
2010年05月02日
コール・ミレニアム第8回定期演奏会
昨日の5月1日、蒲田にある会場アプリコ(大田区民会館ホール)に行く。
爽やかに晴れた新緑の一日、昨年と同じように一部が日本の合唱曲で、高田三郎没後10年メモリアルプログラムとしての合唱組曲「みずのいのち」(弦楽合奏とピアノ)、2部はこの合唱団がメインとしているレクイエム。今回はフォーレ(ニ短調作品48)であった。
残念なことにいつもの指揮者、小松一彦氏は体調を崩されたため荒谷俊治氏に変更。一日も早いご快復をお祈りします。
パンフによると、この荒谷さんは指揮を石丸寛氏、作曲を高田三郎氏に師事とあったので、今回も深い縁があってのことだろう。
昨年は世界的にも活躍で著名だった音楽家貴志康一の合唱曲を教えられたが、今回も初演(昭和39年)以来人気の高いというこの組曲を、楽しませてもらうことが出来た。
「みずのいのち」は、雨、水たまり、川、海、海よ、という題でそれぞれ水の相を人の姿や命の本質をも絡めながら描き歌い上げた5曲の組曲。作詞家の名前を見てああ、と思った。高野喜久雄ではないか!「荒地」の詩人で、物事の本質を、物自体の本然を究めようとする真摯な詩人である。私もその詩集を現代詩文庫だが持っている。帰ってからその経歴を一覧してみると、確かに高田三郎との出会いによって幾つかの合唱曲を手がけているようであり、また讃美歌や典礼聖歌などのあるという。演奏と歌声でその水の姿が生き生きとイメージされる。合唱団の女子は黒のドレスに水色のヴェールをまとい、ピアニストも水色のコスチュームだった。
その一つをここにも書き出してみよう。
2曲目 水たまり
わだちの くぼみ
そこの ここの くぼみにたまる 水たまり
流れるすべも めあてもなくて
ただ だまって たまるほかはない
どこにでもある 水たまり
やがて消え失せていく 水たまり
わたしたちに肖ている 水たまり
わたしたちの深さ それは泥の深さ
わたしたちの 言葉 それは泥の言葉
泥のちぎり 泥のうなずき 泥のまどい
だが わたしたちにも
いのちはないか
空に向う いのちはないか
あの水たまりの にごった水が
空を うつそうとする ささやかな
けれどもいちずな いのちはないか
うつした空の 青さのように
澄もうと苦しむ 小さなこころ
うつした空の 高さのままに
在ろう と苦しむ 小さなこころ
休憩を挟んでの第二部は、フォーレのレクイエム。3大レクイエムの一つとされるこの曲の特徴は、あくまでも静かで透明である。儀式のためではなかったらしく、また「怒りの日」の部分がない事から批判もされたというが、フォーレ自身「死とは永遠の至福の喜びに満ちた開放感である」と述べているように、これは死を恐れる人のための子守唄だという。晩年の作であるこれは、彼自身のたどり着いた信仰の境地だったようだと、聞いたことがある。
この曲の時は、空色のヴェールは白に替わっていた
外は光と命のあふれる5月、いずれも穏やかで静謐、内省的な曲の響きに包まれた会場であった。
終演後、陽射しがふんだんに差し込む階下のロビーでは、舞台の上にいた人とそれを楽しんでいた人たちとの自由な語らいがあちこちに見られたのも、今回はいつもと様子が少し違っていた。皆さん、お疲れ様でした、そしてありがとう!
2009年02月06日
六国見山でジョウビタキに会う
冬型の気圧配置で日本海側は崩れているようだが、ここは雲一つない冬晴れの空、日なたはもう春の暖かさである。日ざしに誘われ六国見に散歩に出た。何しろこの家は北斜面なので、この暖かい太陽も10時過ぎから2時近くまでで、後は遮られてしまう。
冬場は野鳥を見るには絶好の季節、落葉樹はすっかり葉を落としているので、鳥の姿がよく見えるからである。この間は双眼鏡を持って行かず残念な思いをしたので、今回は忘れずに持参した。
思ったとおり麓の登り口の、最も日当たりのいいところでジョウビタキに出会った。もちろん雄である。
赤橙色の胸と尾ですぐ分る。眼の上の頭部から首にかけては青みがかったグレイ、喉と羽根は黒、その羽根に紋のような白い部分がある。だから定紋のあるヒタキと名づけられたわけだが、スズメより少し大きいその鳥は、紋付を着たというふうに、どこかおっとりとして優美である。黒目も大きく可愛らしい。
双眼鏡を向けても驚かず、枝に止まって細かに尾を震わせている。日差しを浴びて気持がいいのだろうか。動くと飛び去ると思ったので、私も暫く背にポカポカ日を受けながら立ちつくしていた。別の枝に飛び移ってからもまだ飛び去る様子もなく、かなりゆっくりとその姿を堪能したのであった。
そのほか、鳥の姿はなかった。出かけたのは、朝でも夕方でもなく2時近くなので、人も犬も散歩の時間ではなく、鳥もきっと物陰でまどろんでいるのであろう。人間と同様、時間も所もおかまいなしというようなカラスでさえ、時々遠くから間延びした声が聞こえてくるだけで、静まり返っていた。
頂上から見晴らす海や山は薄い霞がかかっている。ここも無人だった。
ジョウビタキは、昔はこの家にも訪れる事があったが、今はない。その彼に久しぶりに会えたことが嬉しく、冬芽に春を感じている木々の中、落ち葉を踏みしめながら下りていった。
いまこの庭に咲いているのは、梅、ヒイラギ南天、水仙、桜草も少し。気がつかなかったけど馬酔木も(今年は花が少ない)咲きはじめました。
2008年03月08日
窓辺で鶯鳴く
数日前、窓の外で何かがぐずぐずと声を出しているのに、あ!鶯が声繕い・・と思っていたのだが、今日やっと声を発したのを聞いた。まだ様になってなくて、ホケホケといったり、尻切れトンボになっていたりするのも可愛らしい。声もまだささやき、つぶやき程度。これが春たけなわとなると、林全体に響きわたる高い声になるのだから面白い。どの鳥も囀りを持っているのだけれど、その差の大きさと声のユニークさで抜きん出て、「初音」を愛されるのだろう。
とにかく日本人にとっては鶯の声は特別で、又その声もあたりを制するのですが、その声自体を賛美表現したものはあるかなあ・・と思ったとき、私の頭に浮かぶのは、同じく声を愛されるホトトギスで杉田久女の
谺(こだま)して山ほととぎすほしいまま
で、まことに春半ばから夏にかけての鶯の声は、「ほしいまま」という感じで響き渡るのですから。
ご存知の通り鶯は、姿としてはかなり地味な方で、鶯色というのはむしろ目白の方がふさわしく、こちらはくすんだ緑だし、冬場は藪の中にひっそりと暮らして、いわゆる笹鳴きというつぶやく声を出すだけである。白いアイラインを持つ目白の方がしぐさも姿も可愛らしく、鶯の方は眼も切れ目の感じで身体も細身、きりっとしているがどこか怖そうな女人を思わせる。でもやはり貫禄があるなあ。
さて、その声を聞いた私はやはり胸が躍って、ちょうど障子を開けていたので、慌てて声のあたりを眺めると、いましたいました! 声を出すたびに羽根を小さく広げ、パタパタさせながら喉を震わせている。懸命に練習をしているのでした。
それを見ているとなんだか私も元気が出てきました。ちょっとこのところ気分が落ち込んでいたのですが、今日の春めいた日和のせいもあって、それを眺めているうちに次第に内から元気が出てくる感じがしたのです。やはり春なのだなあ・・・と。春に感応して、そんな小さな生き物でも、これからの春に向って生きようとしている。囀ろうとしている。それは多分本能でしょう。そして同じ生き物である私の中にも、そういううごめきがあるのを感じる思いがしたのでした。それを十分に感じながら、さあ、元気を出さなくちゃあ・・・と。
2007年12月09日
博多うどん
昨日、民芸『坐漁荘の人びと』を観に行った。
年末の公演は、三越劇場となることが多い。大抵は東京駅から行くので、年末の駅の賑わいやビル街の年始にかけての装いなどを眺めながら、常盤橋のほうから歩いていく。
それでこの日のお昼は、久しぶりに東京駅南口の八重洲ビル地下街にある「博多うどん」を食べていくことにした。
昔九州から上京してきたとき、いわゆるカルチャーショックのような物を感じたけれど、うどんについてもその一つだった。東京のうどんは、汁の色が醤油色で濃い。向こうのは関西風に昆布だしで白っぽい。濃い、醤油だけで味付けしたような、うどんなどは○○が食べるような・・という風に差別語で軽蔑されるほどである。博多に、いや厳密に言えば福岡に帰ったときなど、何が一番食べたいかと聞かれると私は、「うどん」と答える。そして暫くはうどんばかりを食べ歩く。
「博多うどん」は健在だった。よくもこのような小さな、安いうどんだけしか置いていない店が、趣向を凝らし贅を尽くし、華やかな店が軒を連ねている中に生き残っているものよと思う。
正午を過ぎた頃だったが店は空いていた。土曜だからだろう。平日だといつも満席で混みあっている。たぶん近くの店員とか会社員が利用するからだ。いつも私は丸天うどんを食べる。丸天とは、さつま揚げのことで、その形の丸い物を指す。向こうでは、さつま揚げに類した物を天ぷらと呼ぶ。天麩羅も天ぷらである。さつま揚げも、「練り物」を揚げることでは変わりないからであろう。
しかしこの日は、ごぼう天にした。最近おでんにすることが多く、練り物を食べることも多くなっていたからである。ところが、「うどんだけですか?」と言われて、オヤ?と思いめぐらすと、厨房前に垂れ下がっている紙が眼に入った。ランチ定食というのが2つあって、Aが「博多うどん+いなり寿司」、Bが「ごぼう天+いなり寿司」とある。ああ、そうか。うどんは消化がいいので、男の人は大抵そのほか何かを取らねばお腹が持たない。
そういわれてみて、そのお稲荷さんも食べてみたくなった。ダイエットのことなどは考えないことにして、それを注文してみたのだった。これで740円(ごぼう天だけだと640円)。
天ぷらと名の付くものはこれだけである。かき揚げも、また値の高い海老天もない。一番高いのは鰊を載せたものぐらいだろうか。
このうどんの特徴といえば、特徴がないのが特徴というべきだろうか。讃岐うどんのように腰があるわけでもなく、姿だってどこにでもあるうどん、どちらかといえば柔らかく年寄りや子どもにには良い感じで、しいて表現すれば、しなしなつるつるした柔らかさで、なよやかな女体が湯船につかっている感じ。汁も始めはほとんど白湯ではないかというほどに薄いのだが、何度か口にしているうちに味がじわじわと広がってきて、いつまでもこのまま味わっていたい気分になるのである。それで塩分を考えれば汁は全部飲まない方がいいと思っても、最後の一滴まで味わいつくしたい気になるのである。
さて、食べにかかるのだが、かの地のうどん屋の特徴としてテーブルには丼くらいの大きさのすり鉢が必ず置いてあって、刻みネギが常に山盛りになっている。それをたっぷりとかけて食べる。もちろんここにも置いてあるのだが、皆白い。向こうでは青くて細い葱。香の良い、ビタミンもたっぷりありそうな細い刻み葱は白いうどんと見た目も美しいはずである。それに唐辛子の赤い色。
いなり寿司は、甘ったるくなく何となく家庭で作るような味であった。
とにかくうどんにしても稲荷寿司にしても、特別に目立つようなところはなく、贅も尽くさず洗練もされず、自己主張もなくといって卑下してもいない。淡々とした日常のような顔をしているのである。それはお袋の味なのかも知れない。だから時々食べたくなるのだろう
汁が白いものでは、有楽町の大阪のうどん、いわゆる、けつね即ちきつねうどん屋があって時々行ったが、無くなってしまった。新宿の紀伊国屋ビルの地階にも小さな店があるが、何となく落ち着かない。
またこの店には、学生食堂でも置いているようなチリ蓮華に似た木の匙のようなものもないので、熱い鉢を手で持ち上げて啜らねばならない。まあ町中の食堂という感じで飾りっ気もない。それゆえにきらきらした店に囲まれて気持が休まるのかもしれない。
地下街を抜けて駅の北口から地上に出て、常盤橋のほうに歩いて三越を臨む。銀杏が今黄金色に染め上げられ足元もまた落ち葉が散り敷いていた。師走なのに日ざしは暖かく風もなくその下に立ち、私はクリムトの画の中にいるような気分になりながら黄金色に包まれる。
公演については、次回に書きます。
2007年09月23日
朝顔と蟷螂
今日はやっと曇り空になり残暑が和らいだ。昨日は大阪など36度を越える記録的に遅い残暑だという事だったが。
団十郎の朝顔も、咲き急ごうとしたのか14輪も咲きそろった。たった二本の蔓からだが。今年最高の花数である。
実は昨夕、その蔓上にカマキリがいるのを発見。青蛙のいた少し上である。お腹がはちきれんばかりに膨らんでいる。これも葉っぱと全く同じ色で、動かなければ見逃すところだった。ちょっと脅かしてみると鎌を振り上げ、三角形の顔をむける。そのままにしていたのだが、今朝雨戸を開けたとき、そこにまだいたのである。最初は彼女の姿は眼に入らず、おかしなものが蔓についているのが先ず眼についた。親指の第一関節までぐらいの大きさの、繭でくるまれたようなもの、その少し下には昨日のカマキリがまだいた。もちろんお腹はスマートになっていた。そして、これも青くて小さいバッタのようなものを腕に抱え、むしゃむしゃと頭から食べているではないか。いかにも無事産卵を終えて、お腹が空いたとでもいう風に・・・。またちょっと、ちょっかいを掛けて見ると、三角の顔を振り向けてまさに睨む感じ。餌はしっかと掴んで離さない。そのままにしていて、次に見たときはもう食事は完了。ご本人はまだそのままであった。よほどこの朝顔の館は、小さな生き物たちには快適のようである。
この小さな庭はあまり手入れをしないので草類がはびこり、まさに秋の野の風情、今は秋海棠、ホトトギス、水引草、藪蘭、蓼類などがそれぞれ花をつけて色を添えている。それらを見下ろす朝顔の棚は高台のようなものかもしれない。
これを書くころ、もうカマキリの姿は無かった。彼女の生みつけた卵だけがある。運がよければそこからすでにカマキリの姿をした糸くずのように小さなものたちが、沢山生まれてくるのが目撃できるだろう。
2007年09月09日
高校生の花火
ここから400mほど離れたところに県立高校があり、今日は体育祭だった。最近は近隣のことを考えて音量も控えているようでうるさくはない。また理解や協力を請う気持からプログラムやチラシなども配ったりしているが、まだ見に行ったことはない。この家よりも後で建った学校で、歴史は浅い。
そこで後夜祭の打ち上げとして、何年か前から本物の花火を打ち上げるようになった。
今夜も、ちょうど夕食時、突然大きな音がしたので驚かされたが、花火であることを思い出した。
慌ててカーテンをあけて見る。北側の窓から大きく眺められるのである。最初の頃はいかにも手製花火の実験という感じであったが、昨年ぐらいからなかなか本格的になってきたな、と思わせるところが出てきた。薬玉のように大きく広がりそれが柳のように垂れる尺玉や、あちこちに小さく連続して打ち上げる花火の色合いも新しい色があったりして、ほんの15分足らずであるけれど、結構楽しめるのである。
学校は丘の中腹にあるので、町の多くから眺められると、チラシには宣伝してあった。花火はよほど注意しないと危ないし、又職人技なので技の習得や準備も必要だろう。頼もしいなと思ったりしている。
それが終わったと思っていると、まだ花火らしい物音がする。おかしいなと覗いてみると、それは遠くの方で花火が打ち上げられているのであった。もう花火の時期ではないし・・・・野球場か何かだろうか?
玄人の花火と素人である高校生、若者の花火を、同時に見た夜であった。
2007年09月01日
朝顔と青蛙
雨がちになり、やっと秋の気配がただよいはじめました。
今年はほんとうに猛暑の長丁場でした。蛇でもぐんにゃりと伸びてしまいそうな。
水野さんから頂いた朝顔の苗2本が、この庭は日当たりが良くないので最初は発育が遅れていたものの、ちゃんと蔓を伸ばし、あわてて立てた竹を伝わって軒近くまで這い登り花を咲かせています。
団十郎という品種で、色はご推察どおり海老茶色、葉っぱは地模様のある面白いもので、毎朝咲く花の数を数えて楽しみしているのですが、昨日の朝、雨戸をあけた時、葉の上に小さな青蛙がいるのを見つけました。
日当たりが良くないといっても南側の一番日当たりがいいところ、ちょうど目の前の蔓の上に体長2センチほどの青蛙が眠そうに半眼あけて坐っていました。青蛙を見るとつい思い出してしまう 〈青蛙おのれもペンキ塗りたてか (芥川龍之介)〉の句ですが、ほんとうによく見ないと判別できないほど、いきいきとした葉っぱ色。
それぞれの鉢に3本立ててぐるぐる巻きつけるやり方に失敗したので、それぞれの長い一本にどんどん這い上がってきたのを互いに交差させたりしていましたが、その平行になったところの、蔓本体と葉と蕾の三角地帯に、小さな身体を乗せていたのです。柔らかな喉がひくひく動いているのがわかり、目の前に人の顔があり、間近に寄せても恐れません。半眼の眼が少し細くなるのは、又眠りにはいろうとするのでしょうか。
どこからやってきたのだろう。そしてなぜこんな朝顔の蔓の上のほうにまで・・・・? わざわざこの細い蔓を上ってきたのだろうか? 小さな小さな青蛙、蚊でも食べようとするのだろうか。
その日出かけて帰ってきた時も、まだ同じ状態でそこにいました。夕方になり雨戸を閉めようとするまで・・・・。
その時は黒い小さな眼をパッチリ開けて、少し位置は変わっていましたが、そのうちに葉の真ん中にぴょんと乗りました。それでも滑り落ちる事はないほどに軽いのでした。そのままでいることを願いながら、しかい暫くして見るともう姿は消えていました。
ぴょんと下の草むらに飛び降り、どこかへ行ってしまったようです。
かつて道端に青蛙がいたので、少しだけ滞在してもらおうと、捕らえて持ち帰り、大きな水盤風鉢に入れ、きちんと蓋をしていたつもりなのに、朝になるともうどこにも姿かたちはありませんでした。あの体で重たい蓋を持ち上げたとは考えられません。蛙はどこか妖術使いめいたところがあります。
2007年08月12日
水中花火
猛暑が続いている。このような暑さの中では、脳も煮詰まってくるようで働かない。蝉の声に静かさを感じるくらいが関の山である。
しかもこの季節は賑やかで騒々しく、沸き立つような行事が多い事でいっそう暑さが募る。頭が働かないからこそ、そういう事柄で刺激をし恍惚状態にさせ、暑さを忘れようとするのだろうか。
8月は地獄の釜のふたも開く旧盆、原爆を落とされて敗戦を喫した月、その他さまざまな行事がデッドヒートしていやがうえにも熱くなる感じだ。
それにも拘らず、そんな中の一つ、花火を見に行った。
ここの花火の見ものは、走る船から海中に落として破裂させる水中花火である。砂浜に座っていると、眼前の海から巨大な半円の火の花びらが身体を突き上げるような轟音と共に花開き、それが船の移動と共に次々に咲いていく。それが4回ほどプログラムにあり、後はもちろん尺玉やスターマイン、職人の工夫を凝らした新しいのもある。海風を受けビール片手にそれらを眺めるのは快く、かつては時々出かけていたのだが、行きはまあまあとしても、帰りの混雑が怖いので、最近は行かなくなっていた。
人の流れの混雑はまだいいとしても、そこに行くには電車に1駅乗らねばならない。小さな駅なので、その改札が大変なのである。だからかつてもそれを避けるためにフイナーレの最も見所となる場面をあきらめて一足早く帰ったり、駅の近くに銭湯があった頃はそこで時間をつぶして帰ったりしたものである。
しかし今回は最後まで残るつもりであった。
開始一時間半まえに駅から歩き出したのだが、もう人の波である。しかし海にでると、正面は避けたのでまだゆっくりと場所は取れる。なんといっても海岸線は続いていて、目の前に海は広がっている。混雑など忘れてしまう。夕陽が雲を染めながら沈んでいき、夕闇に少しずつ包まれえていくのを感じながらビールを飲みながら枝豆やおにぎりなどを食べるのは心が伸びる。風もなく海も静かだった。
昔よりも少し変わっていた事は、もちろんその年の流行とか新型というのはあるでしょうが、私の感じでは水中花火に色々な色彩の花火が混じっていたこと、かつては昔からの花火色の同色だけで、しかし太く大きく堂々として、それが次々に花開いていくのが素晴らしいと感じていたのが、今回はそれを最終には感じたものの、前の方は華やかさの方がかっていた感じ。
見物客の方も、年によって違いはあり、今年は携帯を向ける人が多い事、「やはり花火はナマがいいよね」と言いながら、私の前方に座っていた青年はしきりに携帯を差し上げて、それを見ることの方が多い気がして、おかしくなってしまった。
帰りはどうでしたかって?
この群集の多くが小さな駅の改札に殺到するわけですから・・・・。それで砂浜で30分以上(8時15終了ですが少し延びました)そのまま浜風に吹かれていて、やおら歩き出したのですが、これぐらいでは駄目でした。
それにしてもこの人波をさばく技術と苦労は大変だなあと思い、その方法の一端を見たということ、またさばかれる群衆の一人となって体感したということ、その事もちょっぴり書こうと思いましたが疲れたので省略します。しかしそれほど辛抱はせず何とか10時30には帰宅しました。
しかしこの混雑を避けるのはもっと遅くまで帰る時間を延ばして、帰ることを覚悟しなければならないでしょう。だからなかなか出かける気持ちにならないのです。
2007年06月07日
初夏の「ゾリステン コンサート」。
みるみる緑がふくらんできました。
あまりに伸び放題にしていた庭木を、思い切って切り詰めてもらったのですが、またぐんぐんと枝葉をのばしているのを見て、植物の生命力のたくましさを今さらのように感じています。しかしその伸び方の違いがとてもはっきりしていて、ここにも生存競争のきびしさが窺われえます。すなわち邪魔だと思っている木の方がすぐさまぐんぐん伸び、伸びて欲しいものはなかなか新芽すら出さない。人間の勝手などに左右されない、彼らの掟があるわけです。雑草と名づけられるものが、いかに逞しいかというのも、この時期よく分ります。
こんな日の先日、コンサートに出かけてきました。実はこの会が結成されて15年を迎えるとかで、弦楽奏者16人ほどからなるこの演奏会は最初から最後まで和やかな雰囲気に包まれていました。
曲目は
E.H.グリーク 組曲「ボルベアの時代より」 作品40
F.シューベルト ヴァイオリンと弦楽合奏のための
ロンド イ長調 D.438
F.シューベルト(マーラー編曲)
弦楽四重奏曲 第14番 ニ短調 「死と乙女」 D.810
グリークの曲はリズムカルで、舞曲の楽しさがあり、チェロのソロが気持ちよくひびきます。またシューベルトの四重奏曲はアダージョのゆったりしたところや軽快なところで愉しく、独奏者は漆原朝子さんで、素晴らしい音色にうっとりさせられました。これはシューベルトの唯一のヴァイオリン独奏と弦楽合奏の曲だそうです。
「死と乙女」は、身体的衰えを感じ始めた頃の作品だそうで、シューベルトの絶望感や悲しみが美しい音色の中からほとばしり出てくるような曲ですが、それゆえに泣いた後の安らぎのような快さを感じます。
今、一番昼が長い季節。まだそれほど暑くない、初夏の宵(この言葉を気象庁はあいまいだとして使わないことにしたとか・・)はゆったりとしていて、好きな時間です。でも少しだけ悲しみを底にたたえた・・・。
2007年05月30日
ホトトギスの初音を聞く
終日、しとしと梅雨のはしりのような雨でした。
朝、ホトトギスの声が聞こえてきたので、なにやら心に灯が点ったように明るくなった。
初音! と思ったからである。どうして季節の最初に耳にしたとき、嬉しくなるのだろう。
ウグイスはもう毎日朗々たる声で鳴いているので、ああ又鳴いている、と思うくらいになってしまった。
全く、勝手なものだ。申し訳ない、ウグイス君。
ホトトギスは、細かに降る雨の中で、一日中鳴いていた。
実は、「台峯を歩く」会で先日の20日(日)に歩いてきたのですが、ブログに入れないままになってしまっていた。でも来月の会は、予定が入って休む事にしたので、この日のことを簡単に記しておくことにします。
この日も、道端の春の花たちにたくさん会うことが出来ました。菊の花に似たハルジオン、そしてヒメジオン、その見分け方を教えられました。良く似ていますが違う種類で、咲く時期も少し違う。一番よく分るのは茎を触ってみて、中が空洞なのがハルジオン。花自体はとてもよく似ていますが。そのほかスイカズラ、卯の花、マルバウツギ、ハコネウツギ、ノゲシ・・・など。
木の花では、ミズキが終わって青い実になり、同じ白い花を咲かせるエゴノキも散っているところ。
最初の田んぼに着きますと、嬉しい事に今年も生き残っていたようで、苗代が作られ、田んぼには水も張られていました。傍らには黄ショウブの花も咲いていて。水溜りにはオタマジャクシの姿も見られ、シュレーゲル蛙も鳴いていました。石の上に何やらいたのは、カルガモで、一羽だけ蹲っていたのですが、水が少ないのでオタマジャクシのほとんどはその餌になってしまうだろうとのことでした。とにかく今年も稲田が見られるのは嬉しいことです。
面白かったのは、「落とし文」を教わったことです。ケヤキの葉をくるくると巻いて、そのなかに潜んでいるゴマダラ・オトシブミ。栗やクヌギが多いそうですが、オトシブミも種類が多くて、巻きかたもいろいろなのだそうです。
第二の田んぼは、もう絶望的でした。辺りは大開発、元田んぼには一面のクレソンが丈高くなり、白い花を咲かせていました。
谷に降りての湿地帯のハンゲショウは、まだ青い葉で、白くなるのはもう少し先のことです。
水場にはヤマサナエというトンボの姿が見られました。これはオニヤンマと似ているのですが、胴が短いのです。何事も知れば知るほど奥が深く、知らないことがたくさん出て来るものですね。興味は尽きることがありません。
今日は簡単に、これまでとします。
2007年05月02日
「公園」になってしまった六国見山
散歩道であるこの辺りが、最近整備されていたのは目撃していましたが、いよいよ公園としてオープン(?)しました。森林公園と銘打って、立派な看板も出来、ベンチや水飲み場も設置され、駐車場がないだけいいのですが、複雑な気持ちになっています。山道は階段状に拡幅されて、ブッシュも整理され、樹も伐採されて見晴らしがよくなり、たしかに気持の良い空間になりましたが、私には魅力が薄らいでしまいました。市はずいぶんお金をかけたようで(総工費4000万)、たしかに床屋に行ったようにサッパリしましたが、麓には歌壇向けの花なども植えられて、いかにも小奇麗な公園風、昔のもしゃもしゃ髪ながら個性的な風情がなくなってしまったようなのです。
私の個人的なわがままでしょうか。ここは今まででもガイドブックにも載っているオオヤケの散歩道。でも大した見どころがないので(興味のない人には)、訪れる人は少なかったのですが、この4月始めに整備が終わり、広報にも紹介され、また宣伝もされたので、早速グループで次々訪れているようです。
「公園」という言葉、概念について、ちょっと考えさせられました。公開されている「庭園」は、公園とはいいいませんね。もちろん公園の中に庭園が属している場合もありますが。自然をなるべく生かした形で
整備(手助け)しながら、人間もその一部として、ちょっとその中を散策させてもらう、という形の丘は、なんと名づければいいのかなあ、公園ではないのではないのだろうかと、思ったのでした。
でもここは観光地の端っこですから、こうなっていっても仕方ない事でしょうか。またお役所としても、こういうきちんとした形でなければ、予算が使えないのでしょうね。
2007年02月04日
立春です
今日は立春。
まさに春は立ち上がってくるんですね。雲や霧なども立つといい、こんな場合の「立つ」は自然界の現象が上方に向って動きを示し、確実にくっきりと目に見える状態を言うのだそうですが、今年の春はとくに、きりっと立つことをせず、全くぐにゃぐにゃな感じです。
雪は、先日九州でもかなりの雪が降ったというのに、この辺はまだ初雪もありません(一度だけ微かに舞いましたけど)。鳥の水場も、昨日は凍りましたが今日は凍りませんでしたし、今年はそのほか一日だけしか凍らなかったのです。鳥たちは毎日水浴びに来ているようですが、このところ眺める時間がなく、でもこの間、ジョウビタキが訪れたのを目撃して胸を躍らせました。シジュウカラは名前どおりしじゅうやってきて、メジロも可愛いのですが、この羽に白い紋をつけた鳥に出会うと感動です。憧れのスターやタレントを一目見ようと押しかけ、ただ「見た」ということだけで感動する「追っかけ」の気持と同じなんだな、と苦笑してますけど。昔はもっといろいろな鳥が、10種類以上は来ていました。ジョウビタキ(これは渡り鳥なんです)もよく目にしましたけれど。
昔といってもウン十年前に初めて上京したのは2月でした。いわゆる先日雪も降った九州の地からでしたから、毎日が晴天つづき、南側だと一日中ぽかぽかの陽射しに満ちた日が続くことが不思議に感じられた事を思い出します。思えば遠くに来たもんだ、という感じにとらわれながら今日もまた雲一つない空を見上げています。
風は冷たく、まさに光の春です。
2007年01月04日
T温泉行き22年目
明けましておめでとうございます。
今年もどうかよろしくお願いします。
昨年のブログに4回にもわたって書きましたが、新潟のT温泉行きが23年目となりました。雪が深く、温泉もよく、料金も安く、もてなしも豪雪に耐えてきた人たちなので質実で温かく、ついどこにも行かずここに行き続けました。今では時たま帰る故里のような感じさえしてきます。
昨年は地元の人たちでさえ驚くほどの記録的な大雪で、被害も甚大、上越新幹線もぎりぎりまで不通になったくらいですが、今年はまたスキーが出来ないと心配されるほど少ない雪の年末年始でした。
もちろん自然はいつも同じではなく、雪の多さも年によるので、それに適応・順応する知恵を学んでいくのだけれど、最近はそれが想像以上に極端だと地元の人は言っていました。
昨年は、駅に降りたときにも雪は降り続けており、高い雪の壁の道路を車は走ったのですが、今回は駅前の道路はほとんど乾いた状態です。
元旦は晴。昨年も同じでしたが、それは大雪の中の快晴で、銀世界の輝きでしたが、今年はもう雪解けかと思えるような情景にしかならないのでした。それでもやはり雪国です。十分に雪と温泉と山の幸を中心にした料理、美味しいお米とお餅とお酒を楽しんできました。
今年の朗報は2日の餅つきが復活した事です。昨年からもう廃止されたとばかり思っていましたが、今年はいつもの年季の入ったお年寄りの姿はありませんでしたが、まだ杵の操りがときどき不安定になる若い人も加わってちゃんと2臼がつきあげられ振舞われました。
去年中止になったのは、あの大雪、豪雪地帯でも記録的といわれたほどの雪で、全員腰を痛め、また気力も実は萎えていたのだと、宿のご主人が述懐していました。
2日は曇り、一時雪ではなく雨が降ったりもして・・・。それでもメンバーの若い人は近くのスキー場に出かけていき、夕方まで楽しんできたようです。
3日は、曇り空でしたが晴れ間も出て日が射すようになりました。そして宿から駅までの途上で不思議な現象を目撃したのです。最初は何でもなかったのに辺りがぼんやりしてきて、フロントガラスが曇ったのかと思ったりしていると次第にそれは濃くなり、霞か霧のようになって来たのです。まさにそうなのだと言うことでした。それほど日差しが強く、立ち上った水蒸気が雪で冷やされて霧状になって立ち込めていたのです。それは春かまたは秋に見られる現象で、こんな真冬に出現したのは初めてだそうです。
昨年の超豪雪と今年の暖冬、これからどうなるか分りませんが、やはり異常なのか、はたまた長い目で見ればそれも一つの流れなのか、人知は自然を超える事は出来ません。
今年の同行者は13名でした。
毎年感じる事ですが、そこでの4日の日々が夢のように思える事です。それはどんなに少なくてもそこには雪があり、それがトンネルを抜けたとたん、こちら側では全く乾ききっているからでした。同じ平面にあるとは思えず、別天地にあったような気がするのです。その異界から帰ってきて、今年もまた地上の暮らしが始まります。どうかよろしく。
2006年10月31日
六国見山への散策
10月ももう今日で終わり。なんて日が経つのが早いのだろう。
例年より暖かい日が続いて、今が一番過ごしやすい気温だとか。このところ秋晴れも続いたので、久しぶりの散歩に出る事にした。足の指の捻挫もまだ痛みは残っているが正常近くになったので、足慣らしの意味もあって。
日が暮れる寸前に家を出る。輝きだけはあっても熱気を失った夕陽が張り付いたように西空に、白い半月が中空に望めた。丁度人も犬も散歩の時間帯で、ジョギングをする人やそれぞれ犬を連れた一団に出会ったりする。カラスもねぐらへと急ぐ時らしく、あちこちで「あ〜あ〜」と鳴きあっている。新しい住宅地から登り道に入るが、まだ紅葉の時期ではなく、ただ木々に巻きついた山芋の葉だけが黄色になっている。我が家のブナの木も、日の当たるところだけやっと黄色になりつつある。頂上近くになったとき、耳を疑った。あれはヒグラシの声ではないか! この温かさで蝉がまた出てきたのか・・・と思ったのだが、そうではなく、どうもモズであるようだ。モズは百舌というように、物まねも得意だ。まさかヒグラシを真似したのではないだろうが、例えばシジュウカラのジュクジュクというような声を真似たのか・・・と結論する。
頂上は無人で、夕もやの中に向いの丘陵だけが見渡せる。太陽の姿はもうなく、残光だけである。少し佇んだだけで下ってくると、麓の高校から吹奏楽が洩れてきた。部活の練習であるようだ。学園祭の季節でもある。カラスの声はもう全くしない。みんなねぐらに落着いたのだろう。辺りは暮れ始めていて、町の灯もともり始め、帰り着いたとき、丁度とっぷりと暮れた。
万歩計で歩数をはじめて測ってみたが、ずいぶん歩いたと思ったのに877歩でしかなかった。一日1万歩歩けなどと言われるが、到底無理だなあ・・・と思った。
2006年10月25日
秋の野の庭
久しぶりのブログです。
秋の嵐、昔風にいうと野分と言うのでしょうか、吹きすぎていって、今日はすっかり深まった秋空でした。
手入れをほとんどしないわが狭庭も、ホトトギスやリュウノヒゲの花が盛りで、紅色の秋海棠、まだ咲き残った水引草、ツワブキの花が咲きはじめました。隣の家ではサザンカの花。
水仙の葉は毎年ちゃんとこの時期伸びてきて、今年は頂いた種を蒔いた、新顔のマダガスカル・ジャスミンが、幼いながら濃い緑の5枚目の新葉を出そうとしています。
日が本当に短くなり、これを書き始めたときはまだ明るかったのに、もうとっぷり暮れてしまいました。
この日照の短さが、年齢の秋をも感じさせるのではと思ったり・・・。
私もブログを始めて1年と一ヶ月。熱しやすく冷めやすいところがあるので、ブログ熱も気温とともに少し冷めてきたのかも。
2006年08月31日
山口・下関旅行(3)
午前中4時間の定期観光バスに乗りました。
昨日それを知り申し込み、バスでは寄らないところだけを訪ねたのですが、今日はあなた任せのすっかり観光客になりました。ところがなぜか6人の乗客の中で(平日なので乗客は少なくたった一人ということもあって、この日は多い方のようでした)いつもバスを降りる時に、もたもたして最後になってしまう私でした。
観光バスというのは、とにかく盛りだくさんにいろいろな所を連れ歩き、知識を次々詰め込もうとするのですね。ガイドさんは、乗客がちゃんと自分に注意を向けてよく聴いていないと快くないみたい。学校の先生みたいだなあ・・・と、(自分も多少その経験があるのを棚に上げて)可笑しく思いました。
バスは観光の定番の、安徳天皇を祭った赤間神宮、その裏手にひっそりと弔われている滅びた平家の武者たちの碑、日清講和条約が結ばれた料亭(記念館)などに寄り、源平合戦のあった壇ノ浦、武蔵が決闘した巌流島や前日泊まった宿などを車窓に眺めながら関門橋を渡って門司港レトロ街に着きました。
ここはレトロの名称通り駅自体が昔のままの風情、街中にも明治・大正時代からの古い建物を沢山残し、あたり全体を観光化しているのでした。そこを自由散歩、近代的な高層マンションの31階の展望台からの俯瞰を楽しんだりしたのちバスに乗ると、関門トンネルをくぐってまた本州に戻り、今度はこれも古い城下町のたたずまいを色濃く残した長府へと向かいました。
ここは長府毛利藩の城下町、深い緑と美しい流れをもつ静かな町で、国宝功山寺の仏殿は山口で見た瑠璃光寺五重塔に通じる美しさがありました。ここも長屋門のある屋敷や侍屋敷の街並み全体を残そうとしていて、昨日、市美術館に来た時に一人で訪れた長府庭園もその一つです。
ここも暫くの自由散策でしたが、なんと言っても真夏の昼近い時間、緑が深いので日陰はあるにしてもあるくのはもう限界のようでした。町の真ん中を貫く流れの中、鴨たちも日陰の石の上にぴったりとお腹をつけてうつらうつらと昼寝していたりして・・・・。
これで観光の行程は終了、車窓に唐戸市場(この近くにある水族館に入りたかったな・・)や海峡ゆめタワーを見やりながら下関駅に帰ってきたのでした。
この旅は私のルーツ探しの一つでもあったわけですが、その思い入れもありますが、下関が、そして山口県が好きになりました。下関は明治以降外国に開かれた海峡の町、港であり、明治維新と開国の様子を偲ばせる古い建物もあちこち残っていて、小さいながらも横浜の街に通じるところがあるようにも思えました。歴史と文化があり古いものが残っていて、しかも自然もまた美しく、本州の端っこであることから日本海と瀬戸内海の両方に接して変化に富み、萩や津和野などもあって行きたくなってしまいます。
ここだけでなく、地方はそれぞれに頑張っているんだなあ、日本にも自分が知らないだけで沢山素晴らしいところがあるんだなあ、という当然のことでしょうが実感、発見でもありました。
これまで博多に帰りながら一度も訪れたことのなかったこの地を、訪れる気持ちにさせるきっかけを図らずも与えてくださった水野さんに感謝、感謝の気持ちです。
2006年08月29日
山口・下関旅行(2)
下関市では駅に近いホテルに宿をとりました。あちこち行動するのに便利だと思ったからでした。
先ず最初に私の生れ落ちた地に行ってみるつもりでした。そこは市内でも在来線で一駅戻ったところにあり、そのためにも駅に近いのは便が良いことでした。
その駅、幡生は山陽・山陰本線の分岐点に当たっています。夏の盛りで毎日暑い日がつづいているので、できるだけ朝早いうちに行動して、日中は動くのを控えたいと思ったのですが、そうは行きませんでしたけれど・・・。
夏の朝は気持ちがいいものです。駅に降りると丁度登校時間帯らしく、夏休みだと言うのに中・高校生が次々に降りていました。駅舎自身は古い場末の感じがするもので、便所などと言う漢字が大きく書かれていたりして、ちょっと気持ちが殺がれましたが、出るや否や大きな工事現場が広がっていて、いっそう戸惑ってしまいました。すなわち今この駅前には高架橋が通ることになっていて、その橋梁工事が進行中なのでした。金網やコーン標識(?)に誘導されるようにしてしばらく歩き回りました。探す地点は駅に近いところで橋と川が目印でした。幸い川と橋は存在していたようです。でも私が探していた地点は、多分高架橋梁工事の範囲内であるに違いありません。遠くの方でこれから作業を始める人たちの準備運動する姿が見えました。川辺の大きな合歓の木の花(こちらではもう花を散らしたのになあ・・)を眺めたりしながら名残惜しく歩き回った後、駅に引き返してきたのでした。
広々としたホームはがらんとして、そこからは古く立派な瓦屋根の家やいくつかのマンションが眺め渡され、市の中心部に近い郊外の住宅地と言う風情でした。
後で判ったことですが、ここは海にも近く、昔からの海水浴場だったようです。いい季節の時でしたら、その海にも出てみればよかったのですが、それはまたの機会にして(何しろ帰ることのある福岡からは近いわけだから)、下関に引き返すことにしました。
その足で市役所と図書館に行きました。そこで下関の資料を少し手に入れ、近くにあるはずの林芙美子生誕の地の碑の場所を尋ねましたが、図書館員でさえ知りませんでした。この辺りでは今、金子みすずに大きな照明が当てられ、芙美子は影が薄くなっているようです。
あまり注目されていないその碑を見てから、バスで唐戸(東京の築地にあたる唐戸市場がある)に出て、そこから県立美術館と長府庭園を訪ねました。ここはバスの便がとてもよく、タクシーの必要がないようです。
歴史の古い長府は城下町の名残が多く残っていて、今ではそれら建物や街並みを観光資源としているようで、中でも山口の瑠璃光寺の五重塔の優美さに通じる功山寺の仏殿があります。長州庭園もその見所の一つで、丁度蓮の花が咲いていました。もう名残のようでしたが・・・。その向かいにあるのが市立美術館。緑に囲まれ海が眺められる広々としたところにあり、心が伸びやかになります。ここでは、下関に英国領事館が出来て100年目に当たるので、「日英の絵本」特別展が催されていました。
ここでゆっくりとしていたかったのですが、予定の中に「火の山」(昔ここで狼煙を上げたという小高い山)ロープウエイでのぼり、その展望台から関門海峡と、その吊橋を眺めることが入っていたので、またバスで唐戸に帰ってきました。そして最後はその唐戸市場に降りて見学し、そこの食堂で新鮮な魚料理でも・・・と楽しみにしていたのですが、残念ながらその日は市場は休業で、それでもたった一軒だけ寿司屋が店を開けていたので、そこで夕食とし、暮れていく海峡と行き交う大小の船舶をしばらく眺めた後、ホテルに引き上げました。ここに2泊したのは正解でした。
明日のことはもう一回、簡単に書くことにします。
2006年08月27日
山口・下関旅行(1)
20日から24日まで旅行してきました。
水野さんが山口の国民文化祭の現代詩部門の選考を依頼され、山口市に行かねばならないと聞き、とっさに気持ちが動いたのでした。実は、自分は九州(北部)出身と思い、そう言ってはいるものの、生れ落ちたのは下関市です。しかも記憶はほとんど無く、この歳まで、一度も訪れたことの無い土地で、山口県そのものにも行ったことがありませんでした。赤ん坊の時に一家は関門海峡を渡り、九州に来たのでしょう。福岡県の田舎が、お墓もある一族の故郷であったのですから。
最近になって、戸籍上に記載されたその地に一度出かけてみたいという思いが、なぜか兆していたのでした。多分そこで両親は知り合い結婚し、私も生まれたのだろうと思います。そんな折も折り、水野さんが招かれて山口まではるばる出かけるといいます。それに便乗して私も一緒させてもらおう、と思い立ったのでした。
20日は水野さんが選考の仕事なので、その日に私は出かけていき、次の日に連れ立って観光をし、それから互いに西と東に別れ、私だけ下関へと向かう計画を立てました。
20日は山口に午後1時前には着いたので、ホテルに荷物を置いてから先ず中原中也記念館を訪れました。明るくモダンでゆったりとした空間に、詩集や原稿や手紙や資料がいろいろ展示され中也の生涯が辿れるようになっています。ちょうど特別企画で「青山二郎と中也」も加わっていたので、当時の文学・芸術家たちの交流ぶりや雰囲気までが伝わってくるようで愉しく、ゆったりした時間が過ごせました。
ゆっくりしてもまだ夕方までに時間があるので、雪舟が一時期過ごした庵、雲谷庵跡というところにタクシーで訪れてきました。庵は自分が造った庭のある常栄寺からも名刹瑠璃光寺(五重塔が望める)からも離れ、住宅地の中にポツンとあるので訪れる人は少ないようで、小さな丘を背景にしてクマゼミが鳴きしきる夏木立の中にひっそりと在りました。そこからは長州藩庁の古い門を残した県庁などがある市の中心部まで暑い日差しの中を歩きました。このあたりから駅までの通りは、パークロードと名づけられた緑豊かな公園のような界隈で、古い歴史と深い緑を感じさせる街並みです。欲張って市美術館(秋の雪舟展に先駆けてその弟子たちの書画、常設展としては香月泰男の初期の作品が観られた)にまで時間すれすれに飛び込んだりしたものですから、また日曜日ということもあるのかバスの便も悪く、タクシーもなかなか捕まらず、水野さんを心配させましたが、やっと6時前にホテルに到着。夕食は他の選考委員の何人かの詩人の方たちともご一緒させてもらい、近くの美味しくて雰囲気のある和食の店に案内されて歓談したという恵まれた一日になりました。
次の日は、水野さんと一緒にタクシーでサビエル記念聖堂、瑠璃光寺(国宝の五重塔が気品があって美しい)、常栄寺・雪舟庭を観て、山口を訪れた歴代の政治家が宿泊したという菜香亭(最近廃業して記念館として保全)の内部を眺めてからホテルに預けていた荷物をとって、新幹線駅へ。そこからお互い東西に別れました。私は在来線を使って一時間、念願の下関へと着いたのでした。
2006年06月02日
ムクドリの雛は無事。
台所や庭に出て耳を澄ますと、しきりにジャジャジャ(ピヨピヨなどと可愛らしくはない)という雛らしい声がきこえてくる。
雛は無事に育っているらしく安心する。
餌を運んでくるのは朝方や夕方が多いようで、日中はシンとしている時もある。だがやたら騒がしい時があって、そんなときは他の鳥の鳴き声もして、カラスがいることが多い。騒がしいのは親が辺りを警戒して、威嚇の叫びを上げているのか。だが考えてみれば、戸袋というのはなかなかいい場所だな、と思う。雨風は防げて、人の手が入れるようにえぐられた部分を持っているので、そこを出入り口にすると住処となる。穴はカラスが入り込むには小さいのである。ただ最大の障害は人間であろう。だからそこがほとんど使われていないところだと、ちゃんと観察した結果でもあったのだろう。しかもそこの真向かいの、かなり離れた場所にテレビアンテナが立っている。そこからは辺り全体が見下ろせ、また戸袋には一直線だ。うまく選んだものだ。
しかし巣に餌を運び入れる瞬間を見ようとするのだが、それを見るためにはかなり不自然な格好をして待たねばならないのでなかなか果たせない。
昨日は真夏日になったところもあって蒸し暑かった。日が大きく傾いた夕方、六国見まで散歩した。ウグイスもまだしきりに鳴いているが、ホトトギスの声があちこちする。「目に青葉 山ほととぎす・・」である。ホトトギスが生きられるのも、托卵するウグイスがいるからであろう。だが卵を預けるウグイスがいない場合、本当にホトトギスは自分で卵を育てられないのかしら。それともただ子育てがうまいウグイスに頼って怠けているだけかしら、などと思う。
電線の上で盛んに囀っているホオジロが一羽いた。囀りは縄張り宣言や雌を呼ぶときなどとよく言われるが、胸毛をふくらませ、嘴を天に向けて胸を張り、声高らかにしきりに囀り続けるその姿を見上げながら、本当にそういう限られた目的だけだろうか、という気持ちがする。雨がちだった日の貴重な晴天、涼しくなった夕方の空気の中で、快く嬉しくなって、心から楽しい気持ちで美声を張り上げているのではないか、自ら楽しんでいるのではないかと思わせるものがあった。
2006年05月31日
ムクドリが巣を作る
ジャージャーという鳥のしわがれ声が、何日か前からときどき聞こえ、特に昨日から騒ぎ立てるというほどになっていたので何だろう、カケスかなと思っていたのだった。ところがお隣さんの戸袋に巣があるらしく、親鳥が餌を運んでいるのを見たという話をごみ捨てに行ったときに聞いた。
「ほらほら、あそこにいる鳥・・」と言われてみると、雀よりも大きい鳥が2羽(夫婦であろう)、付かず離れるず飛び交っている。ここは北斜面になっているので、お互いの家何軒かが見通せるようになっているが、最初に見つけた人は道路かららしい。
その家は私の家の南側にあり、庭に出るとその雨戸も戸袋も見えるので、盛んにしわがれ声を上げているとき急ぎ出てみると、我が家と並んだ東隣の家のテレビのアンテナに止まって、巣のあるらしい南隣の家の雨戸に向かってジャージャー鳴いている姿が何度か目撃できた。たしかに橙色の嘴と脚が特徴の、ムクドリである。お隣さんは息子さんたちが独立して家を離れているので、二階は普段は使わずに雨戸も閉め切ったままなのであった。ところが昨日、お世話をしにやってくる人が気を利かせて雨戸を開けて風を通そうとしたらしく、雨戸が開いている。それでムクドリとしては思いがけない事態が出来したわけで、大騒ぎしているらしいのである。お隣さんはこれまで気が付かなかったのである。
これらがはっきりするまでの経緯は省略するが、とにかく巣も雛も今のところは無事のようで、お隣さんもそれらが巣立つまで、その雨戸には近づかないようにすると言うことになったのであった。
雛や巣を守ろうとするときの親鳥の剣幕は相当なものだ。攻撃心も生じるらしく、我が頭上の屋根の上を音立てて、慌てて飛び去るものがいると思うとカラスだった。どうもムクドリが怒りをそちらに向けたのではないかと、その姿も見えたようなので、私はそう解釈したのだったが・・・
雛が無事に巣立つ日はいつだろう・・・と、見守っている家がこのあたりに何軒かあるわけだ。
2006年03月06日
啓蟄の日 鶯も本番前
今朝6時すぎ、ウグイスのクチュクチュというつぶやきが、眠っている私の耳に聞こえてきた。囀りの練習をしているようであった。そのうち、なんとかホーホケキョウと声を出した。これは初音?? いや まだ練習の段階であるようで、稚拙である。その稚拙なところが可愛らしく、すっかり目覚めてしまった。
遠くの方に行って、谷渡りの練習もしている。
キジバトも ククウ ククウと声を上げている。電話線の上につがいが仲良く身を寄せ合っていた。
「春眠暁を覚えず 処々啼鳥を聴く」・・・か。
なかなか冬将軍もしぶといが、もう春である。
晴れていたのに、にわかに曇りだし、突風も吹いたが、それがニュースによると春一番だそうだ。
虫たちが土の中でうごめき出す、ちょうど啓蟄の日。
緑のものたちも少しずつ身じろぎをし、勢いづき始めた。
2006年03月01日
3月1日の庭
冷たい雨で、冬に逆戻りしたような一日でしたが、それでも何かしら春を感じさせられます。
水戸偕楽園では昨年より26日遅れで梅が咲き始めたそうですが、わたしの庭でもやっと少し前から乏しいながら花がほころび始めました。
そのほかヒイラギ南天の黄色い花。これは少々強い香りですが、よく匂います。
馬酔木の花も花房をたらし始めました。これは白ではなく薄い紅色です。
happyブログのロビーではもうウグイスが鳴いていて、愉しませてもらっていますが、ここではまだです。先日、何となくぐずり声が聞こえてきたようですが・・・・。
今日はほぼ半日、押入れの片付けをしていて潰れてしまいました。
水橋さんの突然の死、また「ふーず」で一緒したこともある渋田耕一さんの死、また茨木のり子さんや先日その全仕事を見に行った松井やよりさんの壮絶で見事な死など、死を身近に感じさせられることが多くなり、少しずつ身辺整理をしていかねばならないなあと思ったりしてます。
2006年01月26日
残雪の六国見山。
まだこの辺りは雪がたくさん残っている。
屋根は今の時間ほとんど解けたが、朝はまだたっぷりあった。わが日当たりの悪い庭は、こういうとき雪の貯蔵庫になる。万両の赤い実だけが彩りである。
日が高くなった11時ごろ、六国見山に登る。雪もゆるみ始めたと思ったからである。靴も山靴とまではいかないがハイキングシューズにする。標高たった150メートルあまりだが、山は山である。
思ったとおりかなりの残雪。山道の雪はシャーベット状になっているので良かったが、下りの方はかなり滑りやすく、朝早くだとカチカチだっただろう。両側の僅かなブッシュにつかまったり、雪の積もった上などに足を置きながらゆっくりと下った。
雲ひとつない快晴。頂上には誰もいなかった。地平線はかすみがかかり、大島も富士を中心にした山並みもおぼろだ。鳥の姿もなく声も聞こえない。ただカラスだけが、声を上げている。遠くに飛行機の爆音、小さな銀色の飛影。しかし下ってきて住宅地に入ると、富士の姿がぼんやり薄い雲の中に現われてきた。丹沢の山並みも・・・。トンビが上空をゆっくり旋回している。
なんとのどかな昼の風景だろう。世間は年の初めから今年もまた騒々しくなり、きびしくなって来ているけれども・・・。
2006年01月23日
大雪の朝
大雪になりました。横浜は10センチぐらいとテレビは報じていたが、ここはもう少したくさん降ったよう。
今朝になっても屋根は厚い雪の布団をかぶったまま、辺りはまだ雪景色でした。
昨日雪かきの音があちこちでして、私も少しだけ、郵便や新聞配達のための道路を雪かきした。ここは坂道なので、凍ると歩くのが大変。
鳥の水飲み場はもちろん固く凍っていた。餌をやってはいないので、まったく姿を見せないのは当然だが、鳥たちは雪の中ではどうしているのだろうと思う。氷を熱湯で解かし、お湯を入れて出しておいたのだがしばらくするとうっすらと氷のようなものが浮かび始めている。
雪晴れで、すがすがしい。雪は輝き、空気は冷たく澄んで、しかも寒さはとげとげしくなく柔らかく包みこんでくれる感じ。何よりも静かだ。なぜ?もちろん雪が騒音までも吸い取ったと思えるくらいだが、実際は車が通らないことにあるようだ。仕事のある車以外、近所の車も出られないでいる。
病院にいく日なので、足元に気をつけながら出かけた。早く出かけ、検査はない日なので意外に早く終わって、今帰ったところ。これから出かけなければならないのだけれど、ちょっと一言、訪れた雪への挨拶のつもりでこれを書きました。太陽に照らされ、だらしなく解けていく前に・・・。
2006年01月08日
更に、鳥の水飲み場の氷
今朝の冷え込みも厳しかった。この辺りは、聞くところによると同じ市内でも山辺にあるので寒いそうだ。水飲み場の鉢(直径15センチほど)はほとんど底まで凍って、握り拳二つほどの石でたたいても割れそうになく、器の方が壊れそうなので、お湯で氷を解かすことにする。皿(直径22〜3センチ)の方はお湯を入れると、氷の輪っかが取れてきた。
それにお湯を入れて出すことにする。
しばらくして見ると、あたり一面水が飛び散っている。またその後次々にメジロやシジュウカラ、雀までがやってきて、先ず水を飲み、それから盛んに水浴びをしていく姿が見られるようになった。押し合い、時には喧嘩したり・・きっと水場の多くがまだ凍っているのだろう。
日本海側の方もまだ雪が続いているようだ。T温泉は、去年の中越地震のときもひどくはなかったというが被害を受け、その修理のために営業を一時中止した。一昨年のT温泉行きは、新幹線の再開も危ぶまれたが、旅館自体もどうだろうと問い合わせたのであった。それに加えてのこの豪雪である。
元日のたった一日の晴天が、今では奇跡のように感じられる。
今旅館はどんな具合だろうか。お見舞状を出そうと思っている。
2006年01月07日
鳥の水飲み場の氷
今朝も水飲み場に氷がしっかり張っていた。
それを石で割って水を満たすのだが、そこにはまだ昨日の氷がまだ解けないで残っている。
そのようにしても暫くすると、うっすらとまた表面が凍っていくのが観察できる。それをかき回して砕く。
何という連日の寒さ!
T温泉の温泉センターの高い屋根に上って雪下ろしをする光景を見た。片側は断崖になって下は渓流である。人の背丈以上の雪を3人で下ろしているのだが、見ているだけで背筋がぞっとした。本当は綱をつけてやらねばいけないのだが、そうすると作業がし難いとも言っていた。
元旦だけが奇跡のように晴れたが、また大雪続きでどうなっているのだろうと心がいたむ。
確かに雪は素晴らしい天からの贈りものだが、豪雪地帯での生活は大変だ。
雪がだんだん少なくなった時期が何年か続いたが、その時はやはり生活が楽になったと、ホッとした表情だった。しかしそのうち、せっかく来てくださるのだから、雪がなければ・・・と申し訳なさそうな顔をし、それを口にした。
そして今年は、12月からという雪の早さ、多さに驚きつつも、3メートルに近い雪の壁の中を通りながら、この雪の壁を見てもらわなければ・・と自慢げでもあった。客商売としては、そうだろう。しかし実際問題としては大変であるにちがいない。
「駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」という言葉があるが、所詮私たちは駕籠に乗る人であるに過ぎない。雪という風流を愉しんできたのである。
やっとこの庭にも陽が射してきた。氷も解けるだろう。最初はなかなか水浴びをする鳥の姿を見ることができなかったが、今では鳥の間にも知れ渡ったのか、よく見られるようになった。先日などメジロが次々に5羽もやってきて、まさに目白押しで水浴びした。いつかはヒヨドリが、鉢いっぱいに大きな身体を入れて水を引っくり返してしまったことがある。
こんなことを書いてしまったので、T温泉の続きは次回まわしにします。
2005年12月25日
新潟の「大停電」から「マッチ」を思う
日本海側が依然として異常な大雪に見舞われているのに、今日もここは、からからの晴天続きである。
なんと自然は不公平なものだろう。大変だろうなと思ってもどうすることも出来ない。
先日新潟で雪による大停電が起こった。一番長くて31時間、65万戸に至ったという。
さっきFMの「日曜喫茶室」(今日はクリスマス特別番組で、常連4人からの贈りものと題した雑談)で安野光雅さんがその停電に触れ、そうなったらこの寒さの中どういう風に暖を取ったらいいか考えてしまったという。懐中電灯、マッチでさえ手元になくて・・・・という言葉に触発されて、「マッチ」についてここに書きたくなった。
寒中の暖について言えば、いまやガスストーブは少ないのではないだろうか。石油は私も使っているが考えてみれば温風式なので、発火には電気を使っているのでダメである。湯たんぽは、最近になって重宝なことが分り一昨年まで使っていたが、羊毛シーツにしたのでやめてしまった。残るのは木炭、炭である、幸い最近火鉢に炭の生活を愉しんでみようと思って、しばらく楽しんだが、やはり風流には余裕と忍耐が必要で、元の簡便な暮らしに戻ってしまった。しかしまだ炭は残っているので、電気もガスも止まってしまってもそれで一応は煮炊きもでき暖もとれる・・などと思ったりした。
ここで「マッチ」に戻るのだが、今私はマッチが買えないでいる。スーパーには確かにあるにはあったが、大箱しかなく、いわゆるマッチ箱のようなという比喩にも使われる小箱のがないので、コンビニのほうが置いているかと思ったが、2、3軒入ってみたが置いていない。線香や小さな蝋燭は置いてあるのに、なぜ、と問いただしたのであるけれど・・・。ライターで火を・・ということだろうが、仏壇や神棚の前でライターは似合わないだけでなく、それは丸々燃えないごみになる。
折りしもクリスマス、その蝋燭にはやはりマッチが似合うはずだ。「マッチ売りの少女」などはファンタジーの中だけだけれど、ライターでは幸福な幻などは見られない。ライターは点火という一瞬の機能だけを果たすが、マッチは燃え上がり、炎が揺らめき、それが次第に燃え尽き、黒く灰になって残骸になって横たわるドラマがある。
うちにはマッチは置いていませんよ、と何でもなく言い放つコンビニの店主に、心のうちで腹を立てながら帰ってきたのであった。
2005年12月11日
上原綾子 ピアノ・リサイタル
この辺りは、いま、もみじが最も美しい。風と雨が来ると一度に散ってしまいそうな気配を持つもみじである。その下に立つと怪しげな感じさえして、昔の人が猩々やら何やらが表れ出ると感じたのも分る気がする。紅葉狩りなどといって・・・。
昨日、芸術館のピアノ・リサイタルを聴きに行った。曲は前半はモーツアルト(ソナタ第4番)シューマン(クライスレアーナ)、後半はスクリャービンの曲が多く、最後はラフマニノフ(ソナタ第2番)だった。スクリャービンを私はほとんど知らなかった。ラフマニノフは有名なピアノ協奏曲などでなじみだが、同年代のロシア人だというけれど、不思議な感じがする曲だった。ピアニストも高い技術と理解力が要るのではないかと思われる抽象性を持った曲のような気がした。音楽鑑賞としても初歩である私だから当っているかどうか分らないが、とにかくそういう思いを抱きつつ、白いコスチューム姿の、清楚で若い上原さんの流れるように情熱的な演奏に耳を澄ませた。
2005年12月07日
庭に来る鳥(アオジ)
今朝も落ち葉かきをしたが、それを裏に運んで振り返った時、アオジと出会ってしまった。
箒を置いたままにしていたが、鳥がいるので近づけず、「達磨さんが転んだ」の鬼に見つめられている時のように動けなくなってしまった。
この庭に、昔はもっとたくさん鳥が訪れていたが、今は少なくなった。メジロ、シジュウカラ、時々ウグイス、冬場はヒヨドリ、ひまわりの種を出している時はカワラヒワが大勢で来ていた。訪れる鳥について書くと長くなるので止めるが、アオジは変わった鳥である。私とぶつかってもすぐには逃げないのである。
鳥たちはたいていお喋りしながらやってくる。声高ではなくても、チッチッという風に・・・。ところがこの鳥はほとんど声を出さず、しかも鶏のように地面を啄ばんでいるのである。
ホホジロ科というので確かにホホジロに似ていて、お腹の方は黄緑色、背中はそれに雀色がまじったようで、縞々の感じがする。人を恐れない感じで、なかなか逃げない。多分樹上の木の実ではなく、地面に落ちているものを啄ばんで食べているのだ。だからというわけではないのだが、庭をあまり綺麗にしない方が、自然になるべく任せたようにするのが良いと、怠け者の口実にしている。
戸をあけて出ると、アオジがいたりすると、ゴメンゴメンといって、顔を引っ込め、暫く経ってから出たりする。
今日も、暫く動かないままにしていたが、彼(彼女)はなかなか立ち去らず、水を二口ほど飲み、叉地面に降りて、私の方にやって来るのだった。寒いので早く行ってしまいなさいと思いつつ、じっとしていたのだが、近所のシャッターの音がして、やっと飛び立ってくれた。
ペットを飼うと、ご主人様になるというより、召使になるというのが普通のようだが、この場合もそうだなあ・・・・と笑っている。
本によれば、アオジは繁殖期には枝先や草にとまって、ゆっくりしたテンポでうつくしい囀りをするとあった。声を聞いてみたいものだ。これらから考えても、のんびりした鳥のようだ。
2005年11月29日
もみじが美しくなりました。
急に風が変わって暖かくなり10月の気温とか、今朝雨が降って強い風が吹きました。
向かいの雑木林のもみじも、今が一番美しいようです。くすんだ赤色の桜やケヤキの褐色に混じって、クヌギやコナラの黄色が陽を浴びて輝いています。
ここの狭い庭でも、ハゼ(もう散っています)と3本ほどのカエデの紅色が急に美しくなりましたが、裏にある2本にブナの、少しずつ黄葉していたのがやっと全部が金色になったと思っていたら今朝の風でほとんど散ってしまいました。この木の下の地面は庭内なので積もるままにしておけば良いのですが、狭い割には道路に面した部分が多いので、これから毎日落ち葉を掃き集めねばなりません。草花の上に落ちた葉っぱも取り除かねばなりません。これらも一仕事です。
先日テレビの再放送とかで「ターシャ・チューダ 四季の庭」が映されていましたが、30万坪の花に溢れたれたアメリカの絵本作家の庭、まさに夢のような理想の庭。
私など確かに緑に囲まれているので、恵まれているといえましょうが、数えるほどの木々に振り回されて音を上げているのですから、やはり能力の差、人間の違いだなあと思ったりしてます。
2005年11月26日
タンゴコンサートに行く
書きそびれたことを少し書きます。ちょうど一週間前になりますが、タンゴを聴きに行きました。
門奈紀生ひきいるオルケスタ・アストロリコ楽団、アストロリコとは「素晴らしい天体」の意味のスペイン語の造語で、バンドネオン奏者のアストル・ピアソラはじめ3人の名手に因んでの命名だとか、クラシックとは違った懐かしく切なく熱っぽい雰囲気の魅力で心が揺さぶられました。
バンドネオン奏者は門奈氏のほか4人、その他ヴァイオリン,ビオラ,ギター、チェロ、コントラバス、ピアノと総勢若手11人を率いています。本場南米からもレギュラーメンバーとして歌手、友情出演のダンサーのカップルも加わっての素晴らしい舞台でした。聞きなれたものも混じっていて、歌手のロベルト・デ・ロサーノ氏は、パーキンソン病だそうでマイクを持つ手が震えるのでご容赦をといっていましたが歌唱力の衰えはなく、さすがアルゼンチンの歌い手で心を震わせ、同じ地の出身ホセ・マリア&ラウラのペアのダンスも、洗練されたエロチシズムとはこういうものかと思わせるような、肢体の美しさはもちろん、足のさばきや表情の、端正で技巧的な振りの数々に感嘆させられました。
小ホールとはいえ舞台の上でのタンゴはどんなものなのだろうと、イメージできませんでしたが、なかなか楽しいもので、最後は聴衆も歌にあわせて手拍子で参加して盛り上がりました。実はアルゼンチン大使も招待されていたようで、最後に紹介され拍手で迎えられました。
門奈氏は本場でも強い支持を受けているとのことで、日本では引っ張りだこ、これから岩波ホールで始まる映画「二人日和」の音楽も手がけたのだそうです。それも楽しみです。
2005年11月18日
小春日和に
今朝は真冬のような冷え込みとなった。
10時過ぎから少しずつ陽が差しこんでくるが、午後からまもなく、また去っていってしまう。かつては南西に家がなかったので、午後からは夕方まで太陽が望めたのだが・・・。
けれども入ってくる日影は長い。それに手足を差し伸べながら、陽の恵みのありがたさを思う。
わが庭には、今ツワブキの花がたくさん咲いている。それからホトトギスの花。お隣をはじめ山茶花もあちこちで美しく咲いているのを眺めながら、外は暖かそうなので、六国見山に上った。丘陵はやっと褐色に黄色にもみじし始めたくらいである。この辺りの紅葉はそれ程色鮮やかではない。ここを限って言えば、秋よりも春の方が私は好きだ。早春、緑が兆しはじめて次第に薄紅色がまじり、若草色と紅色の濃淡グラデーションが柔らかくやさしく、はんなりと低い山並みは身を横たえる。
遠く海には靄がかかり大島は見えない。箱根や富士、丹沢などの山並みも逆光と薄い雲に隠れておぼろである。これら自然は、私がこの世にいなくなっても、依然としてこのように美しく在り続けるのだなあ・・と、思ったりする。この季節だからそう思うような気がする。春だとそうは思わず、何かいいこと起こらないかしら・・などと、少しは心がうきうきするようだ。
帰り道、ハゼの木(ウルシ?)が一本、見事に紅葉しているのが眺められた。この辺り赤くなる木は少ないので目立つのである。
2005年11月14日
「詩と音楽」シリーズ最終回(4回目)に行く
小春日になった12日、県民ホールにいく。このシリーズは水野さんに教えられて、2回目から行くようになった。最初の馬頭琴は、幸いにも近くのホールに別の企画でだが聴くことができて、無念が晴らせた。
「シェイクスピアからワールドランゲージ」ということで、作品の朗読や歌、古楽器演奏、仮面舞踏会風な古い衣装でのダンスなど、王宮にでも招かれたような雰囲気を味わいながら愉しんだ。
演奏家や歌い手、踊り手は皆日本人だが、中に一人すらりとした英国人がいて、朗読と解説をしたが、彼がピーター・バラカン氏であることが帰ってプログラムを読んで知った。
ラジオFMではたいていクラシックを聴いているが、土曜の朝7:20からは、各国の現代の音楽、ロックなどが流れてきて、何となく聞いていたのだが、その担当者が彼であった。あまりに自然な日本語なので、日本人とばかり思っていたのに、名前がどうもそうではなくいつも不思議に思っていたのである。コメントもちょっと耳をそばだたせるものを持っていた。その本人を、目の前に見てきたのである。
ところがその日の新聞の別刷りBeに、当人のコラム記事が写真入で載っていたのを発見。声のみと本人自身と写真・記事との三つが一日のうちに偶然重なった、不思議な日であった。
そこへ行く前に、近代文学館にも行って、「日本の童謡」展も観てきた。これについても書こうと思ったが、これはまた別の機会にする。
2005年11月03日
「嘔吐」を思い出す
今このブログに向かっているが、あまり良い気分ではない。16歳の少女がタリウムという毒薬を使って母親を毒殺しようとしたらしく、しかもその経過や写真までブログに出していたという報道に接したからである。おぞましいというか、いやな気分というか、生じた気持ちを表現しようがない。ブログを書く気持ちにもなれなかった。ブログそのものを閉めてしまおうかと思う気持ちにもなった。
そのうちこの「嘔吐」を思い出した。サルトルの実存主義を言う時によく持ち出される有名な作品である。うろ覚えであるが、図書館の本を順番にすべて読んでしまったというような男が(これは記憶違いかもしれない)、なんとも表現しがたい木の根っこを見たとき、嘔吐しそうになる。名づけようもない、奇怪で、混沌とした状態に耐えられなくなるからである。神は死に、ブルジョア的秩序も破られた時、そこに出現するもの、それが実存だという風に理解したりしたものだったが、西洋人でもなくまたキリスト教の信仰もない私にとっては、ただ言葉上の理解に過ぎなかったと思う。
もしかしてこういう感情、不愉快さかもしれないなと思った。同級生をナイフで殺害した少女も、パソコン上で自尊心を傷つけられたのが動機だという。今子どもたちの犯罪は多かれ少なかれパソコンが絡んでいる。
そういう犯罪に限らず、ここ数年世の中の経済という実業の世界をはじめとして世の中が大きく変わっている。教育、政治の世界までもそれによって変貌しているのではないだろうか。通信システムの変化にとどまらず、それらが世の中を根元から変えつつあり、産業革命が世界を大きく変えたように、いやそれ以上の見えない力でもって変えつつあるのではないだろうか。だからこの嫌悪感、嘔吐感は少女やブログに対するというより、自分には理解できない、得体の知れない事柄が生じているのではないかという思いに対したものではないかーと、言葉を使って、気取って言えばそういうことになる。でも確かにこのニュースは私に、ブログに対するおぞましさを感じさせたということだけは事実である。
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2005年10月30日
コンサートに行く
伊佐地那冶 合唱指導40周年記念コンサート(大田区民ホール アプリコ大ホール)を聴きに行く。氏が指揮・指導している合唱団東京コール・フリーデに友人のTさんが所属しているからである。Tさんは都の職員で図書館勤務、ベテランであるが、仕事が終わった後、宗教曲をメインにしているこの合唱団で練習を重ねること数年、だんだん深みに入っていくようである。今回はそこだけでなく、皆で六つのグループの150人以上、プロのソリストも加えた大合唱であった。
演目は、ベートーベンの「ミサ ハ長調」作品86番とモーツアルトの「レクイエム ニ短調」K626という、記念コンサートにふさわしい二大宗教曲であった(オーケストラは東京ユニヴァーサルフイル管弦楽団)。
ベートーベンのは、いかにも彼らしい堂々とした曲であるが、心が引き絞られるように出だしから感じられたのはモーツアルトの方である。映画「アマデウス」の影響で、天才の彼がそくそくと迫る自分自身の死期を感じて書いたと思うからかもしれない。事実はそうではなく、また最後の方は後の人が書いて完成させたらしいけれど、やはり予感というのはあったにちがいない。
氏の経歴を見るとプロの合唱団を率いているが、職場や地域や学校などの多くの合唱団の指揮と指導を手がけてきた人のようだ。Tさんの合唱団には、80歳をすぎた高齢者で、それ程ではない年金暮らしの中で他の支出は極力切り詰めて、合唱活動にだけ全力を注いでいる女性がいるといい、その気迫に感心させられると同時に励まされるという。
キリスト教の神髄である宗教曲を日本人が歌い、それに感動するということについて、いまや西洋音楽の名手に東洋人も多く出現していると同様、文化はすでに国境を越え、宗教を超えているのだと思った。
そして、仕事を持つ傍らそれらに熱中したり、またそれを鑑賞したりできるのも、それだけ音楽の裾野が広がっていることであり(私もまたその裾野にいる一人であるが)、そのような事柄にも貢献した伊佐地氏の40年でもあろうと思った。
また、終演後に何人かで店に入り語りあいながら、こういう美味しいものを食べたり飲んだり、音楽を楽しんだりできるのも、日本が豊かで平和であるからだと言い、でももしかしてこれがたちまち幻となってしまうのではないかという恐れを特に最近は感じると言ったのは、私を含めた戦争や欠乏を知っている世代だった。
このブログにコメントが出来なくなっているといわれました。どうしてなのか分りません。何とかしたいと思っているのですが・・・