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2007年12月01日

「描く道具としての鉛筆」

鉛筆は、今こそ「道具」と呼ぶにはあまりにも素朴で、ありふれたものになったが、ヘンリ・ペトロスキー「鉛筆と人間」(晶文社)を読むと、三千年以上も昔、古代エジプトの時代から、人間が工夫と発明を重ねて、鉛筆を今の形にしてきたことが分かる。 鉛筆も立派な道具の一つだ。

鉛筆は置くと点になり、引くと線になる。 それを面にするために、同じ角度と同じ力で平面を埋めていく。 心を静かにして手を動かしていると、時間を忘れる。 自分が「時間」の外に出てしまったような不思議な感覚だ。 私はこの素朴な道具だけで、十年間絵を描いていた。 道具も人間と同じなのか、長く付き合ううちに、当初の美点が欠点にもなり、欠点が逆に美点に変わったりする。

鉛筆で作品を描いていた時、大きなものになればなるほど、「仕上げるのにどの位かかりました?」と聞かれた。 例えば「三ヶ月。」、あるいは「五ヶ月。」と正直に答えると、「、、、そうでしょう、、、」と、相手は納得したように頷いていらっしゃる。 ああ、、、五秒で描いたデッサンでも、いいものはいいのだから、このような質問をされること自体、絵が悪いからだ、、、と、こちらは落ち込むが、相手はけなすつもりではなく、むしろ感嘆していらっしゃるようだ。

鉛筆という道具は「時間」を目に見える形で呈示する。 それは鉛筆の強みであり、危険なところだ。 「内容に」ではなく、「かけられた時間に」感嘆されてしまう。 構想の段階でこそ色々苦労はあるものの、一旦描き出してしまえば、時間を忘れて手を動かし、そして出来た作品は、まぎれもなく「力作」ということになる。

アクリル絵の具に移ってからも、私は鉛筆を使い続けてきたが、それが果たす役割はかなり違ってきた。 アクリル絵の具は、水彩なのに強度があり、速乾性があり、応用範囲が広い。 薄塗り、厚塗り、エアーブラシ、、、どんな風にも使える。 下地のヴァリエーションも豊かだ。 他方、絵の具の色が浅はかというか、そのままでは深みに欠ける。 鮮やかな色が好きな人は辛いかもしれない。 私の場合は、もともと日本画に使われるような鈍い色が好きだ。 色に対してあまりに喜びを感じるので、抑制して使いたい。 何度もレイヤーを重ねたり、何色も混ぜたりして色をコントロールする。 そういう私にとって、マチエールの対比として、鉛筆の「鋭さ」、「柔らかさ」、「軽さ」、「繊細さ」はありがたい。 最近は、それに「心細さ」や「苛立ち」も加わった。 始めた頃は、心を「安定」させ、じっくりと「辛抱」して、鉛筆と付き合っていた人間が、「心細さ」や「苛立ち」を表そうと同じ道具を使っている。

今、鉛筆はしだいに過去の道具になってきている。 小学生の筆箱には、今なお鉛筆しか入れてはいけないそうだが、中学生になると、シャープペンシルとサインペンが主流になる。 大人の日常生活で鉛筆を使うことはほとんどない。 しかし、絵の中では、マイナーな存在である鉛筆だからこそ、できる表現というものが、まだある、と私は思っている。 社会の中で個人が置かれている状況を考え、絵がその個人と繋がっていこうとして描かれていくのであれば、「マイナーな存在」であることは、必ずしも悪いことではない。

投稿者 nao : 00:26 | コメント (0) | トラックバック