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2012年03月24日
電子ブック漂流記 10)
ここまできて急に視界不良、航行不全に陥ってしまった。
どこかで針路を間違ったのか、潮に流されたのか、突然サルガッソーの海にでも迷い込んだかのように。
縦組みヨコ組み問題を手がかりに電子ブック体験をなぞってきたが、肝心な何かが底のほうで抜けているせいではないか。と、振り返ってみた。そこでわかった。途中で "オルタナティブな道" にそれてしまい、"本"来の文字中心の、もしくは文字のみの電子ブックという原点からどんどん遠ざかっていた。
よくよく考えてみると「画像や映像の高品質化によって縦組みヨコ組み問題がきれいに解消する」というのは間違いではないにしても限られたケースでの話ではないか。いま試みている電子詩集(電詩ブック)のようなスタイルに限ってのことではないか。
文字オンリーと言っていい本来の文芸にとっては、縦組みの画像化や映像化は渋滞を避けてバイパスにスルーするようなもので、本質的な解決にはならない。小説のような長編であるほどはっきりする。何百、何千のページを一枚一枚の文字画像で構成する、あるいは映像で展開するのは至難の業だし、そもそも電子ブックとはいえない。
電子詩集(電詩ブック)は短編で、かつ、あえて視聴覚世界の方向へ舵を切りバイパス、というよりアナザーワールドを探ったものだ。いわゆる文芸(ジャンル)とはみなされない、であろうものだ。
文字文化、文芸という心臓を途中で(半分は意識的にだが)抜きにしてしまった、あるいは避けた。その時点で漂流がはじまっていたのだろう。
またふりだしに戻ってしまった。が、この漂流体験をなぞった、というか追体験した成果はある。なによりもこの一年の現実感を少し取り戻せた。
もういちど "オルタナティブな道" にそれる前まで戻って、リスタートしてみたい。が、いまは難しい。そうとう技術的、専門的な海域に突入することになり、いまのわたしのスキルでは遭難必至だから。次の機会にしよう。
2012年03月20日
電子ブック漂流記 9)
話が前後したりワープしたりでまさに漂流状態だが、さて...
そもそもePubというフォーマットに技術面でこだわったいちばんの理由は、Apple(iPad、iPhone、iPod touch)がこのフォーマットを標準として採用し、かつ飛び抜けた能力を持つePubリーダーを公開していたからだった。
「iBooks」というリーダーだ。
ePubフォーマットとそのリーダーの守備範囲はもともと文字から静止画像止まりだったが、「iBooks」はその範囲を映像(動画)や音声にまで拡張し、かつ高い品質でそれらを再現できるというスグレものだった。
そのことがわかって、ようやく「電子ブック計画(ePubプロジェクト)」はスタートしたのだった。
そこでまず着手したのが詩集のePubブック化だった。
10年ほど前、電子ブックの前身ともいえるCD詩集を手がけた経緯があるが、当時もいまも、文芸のジャンルで電子(ブック)化を図るなら「詩」がもっとも適しているんじゃないかというあまり根拠のない思い入れというか趣味嗜好があった。
映像(動画)や音声まできわめて高い品質で再現できる、ということは、縦ヨコ問題はきれいに解消するし、映像も朗読もCD詩集の頃をはるかに上回る高品質を実現できる、かもしれない。
ePub(フォーマット)+ iBooks(リーダー)
このメインとジブのふたつの帆を頼りに、漂流はつづく
2012年03月18日
電子ブック漂流記 8)
新型iPadの発売でなにより期待したのは「iBookstore」の日本(語)店のオープンだったが、今回もそれはないらしい。
そのせいで、こんどの新型iPadにはさほど興味をそそられなかった。発売日も忘れていたぐらいだ。
新型(三代目)iPadは二代目より画面の鮮明度が倍加したり、データの処理速度がだいぶ向上したらしい。けれど、iPadを電子ブックリーダーとしての側面から見れば、読む(見る、聴く)対象である肝心な本(コンテンツ)の需給の場がなければ、性能がいくら向上してもあまり意味がない。
電子ブックリーダーとしての性能は新型と旧型に大差はないと思う。ePubブックのフォーマットを表示する仕組みはおなじだから。鮮明度=解像度の差がいくらかあるかもしれない。そこは興味のあるところだ。
ePubブックがiPadでどのように表示されるか、パソコンのディスプレイに正確に再現するのはむずかしい。そこで近似的にパソコン(ブラウザ)でも見られるようにしたのが「Flash」というソフトを使ったウェブ仕様の疑似的電子ブックだ。
文字中心(静止画も可)に構成されたePubブックであれば、ブラウザの「Firefox(EPUBReaderをアドオン)」や「Adobe Digital Editions」といったツールによりパソコンでも閲覧できる。が、映像(動画)や音声も一体化したePubブックとなると、いまのところiPad(iPhone、iPod touchも可)ぐらいしか対応していない。
続く
2012年03月16日
電子ブック漂流記 7)
吉本隆明氏が他界した。
久しぶりに地下鉄で池袋へ向かっている途中、日刊紙の見出しで知った。が、さほど驚きはなかった。お年のことや体調のことを耳にしていたし、なによりも吉本体験ともいうべき荒野から帰還して久しい。それでも残り火はいまも尻尾のように後を引いているが。
池袋へ向かったのはジュンク堂が目あてで、ePubブックストアの本棚を飾る詩人の、ある"紙の詩集"がどうしても必要になり入手するためだった。幸いその詩集はすぐに見つかった。
そこで紙の詩集が並ぶ本棚にしばらく魅入っていたら『吉本隆明 代表詩選』という一冊が目に入り、迷わずいっしょに購入した。わたしは詩人としての吉本隆明には疎かったから。詩というものに関心を持つひとつのきっかけをもらった思いはあるけれど。
自宅に戻ったらテレビで吉本氏の訃報といっしょに「新型iPad」発売のニュースが騒々しく流されていた。新型iPadのことは前々から気になっていたが、今日のアタマのなかからすこんと抜け落ちていた。
銀座へ向かわなくてよかった、のか、どうか。
続く
2012年03月15日
電子ブック漂流記 6)
電子ブック化がいちばんすすんでいるのは、いまもコミック(マンガ)など画像をメインにしたジャンルだ。ヨコ書きでも違和感のないハウツー本やビジネス書、学習書といったジャンルも健闘している。
一方、小説をはじめとする文芸ものは、iPad上陸時には大いに期待され喧伝もされたが、さほど広まっていない。
ひとつには"縦組みヨコ組み"問題もあるが、電子ブックが流通する場、つまり書店環境がネット上に整っていない、あるいはいびつに形成されていることが大きい。
とくに、ePubブックを専門に扱うApple社の「iBookstore」や、Amazonの「Kindle Store」(ePubも扱う)といった立役者の日本(語)での開店が遅々としてすすまない。国内外の出版利権が複雑に絡んでいるからだろう。
個人が出展、販売できるオープンマーケットであることも、開店を阻む要因になっているようだ。
そこで、それならePubブックを専門に扱うネット書店を自前でつくっちゃえ、と立ち上げたのが「ePubブックストア」だった。
続く
2012年03月12日
電子ブック漂流記 5)
電子ブックらしさというのは、文字中心より、やはり画像や映像といったイメージ構成の妙にあるのではないか。
「Alice for the iPad」という電子ブックを初めて見たときますますそう実感した。
もちろん携帯図書館としてたくさんの図書を持ち歩け、いつでもどこでも好きな図書が読める、それが電子ブックのいちばんのメリットではある。が、それだけではいまひとつ醍醐味というか面白みに欠ける。
個人が自分で電子ブックをつくる場合、これを一般に"自炊"と言っているが、いちばん多いのが紙の本をページごとにイメージスキャナでデジタル画像に変換し、それをPDFやePub形式に再構成するというものだ。かなり手間のかかる原始的なやり方だが。
そこでは文字は画像として扱われるわけだが、最近のデジタル機器は高性能で、画像化された文字でも見栄えは紙印刷の状態と比べてほとんど遜色がない。むしろそれゆえ、パソコンなど端末装置に組み込まれた機種依存文字(フォント)より審美性が高く、バラエティにも富んでいる。
このことからもわかるように、文字をはじめから画像として扱えば、フォーマットや技術的な背景など関係なく"縦書き”は実現する。これをもう一歩押しすすめれば、文字(縦ヨコ問わず)、イメージ画像、さらには音までパッケージ化した魅力的な電子ブックを実現できることになる。もちろんePubで、だが。
続く
2012年03月11日
電子ブック漂流記 4)
今度の電子ブック維新はApple社のiPadから起動した。
わたしにとってもそうで、そのインパクトはビートルズ、ピストルズの時と同じぐらい鮮烈
だった。
iPadそのものは電子ブックを読むためとは限らない多用途の端末装置(デバイス)だ。けれど、そのフロアには電子ブックというワンダーランドへの扉をひらくカギが周到に落とされていた。それが主役であるかのように。
このあたりの経緯は以前紹介したことがあるが、かくして「iPad → 電子ブック・リーダー → ePub」というワンダーランドへの道筋がひらかれたのだった。ePub形式にライセンス料がかからないことも大きかった。誰でもePub形式の電子ブックを作成し公開できるということ。そして読める。これがじつは決め手になった。
一方、「XMDF」や「ドットブック」は有償で、ことにXMDFは高額なライセンス料を要し、大手出版社等にしか扉がひらかれていなかった。大手出版社にしても本音は電子ブックの普及を警戒していたから、XMDFを導入したとしても一部の売れ筋ジャンルを除いて取り組みは消極的だった。よって、ニポン発の電子ブックは限定的にしか広まりようがなかった。ここにきて黒船ePubに倣って、XMDF作成のためのツールが無償化され(販売にはライセンス料が必要)いくらかハードルは低くなった。
ヨコ書きの自由と縦書きの不自由。そんな舶来と国産の悩ましい問題。そこに絡むソフト、ハードにわたる技術的問題。本は誰のものかといった問題。権利関係、国際標準。それらの決済は次のステージへ持ち越されるかもしれない。
が、オルタナティブな道もじつはある。あった。
続く
2012年03月09日
電子ブック漂流記 3)
電子書籍ブームはじつは二度目で、10年ほど前に第一次のミニブームがあった。
その頃は国内が舞台でマーケットもまだ小さくジャンルもコミック等に限られていた。「XMDF」や「ドットブック」といった国産の優れた電子ブック形式(フォーマット)も生まれた。
ここにきて書籍全般にわたる本格的な電子化ブームが起きているのは、AppleやAmazon、Googleといった黒船を先頭にグローバルな電子ブック化の波が押し寄せてきたからだ。iPad、iPhone、あるいはKindleといったリーダー(読む、見る、聴く、高度な装置)を従えて。
グローバルな流れのなかで電子ブックの形式(フォーマット)の標準化がすすみ、いまのところ「ePub」というフォーマットが事実上の国際標準になっている。ライセンス料もかからず、誰でもePubフォーマットの電子ブックを作成し公開できる。
ところがePubには" 日本語 "の電子ブックにとって困った不備というか瑕疵があった。
グローバルな仕様だけにヨコ書き文化圏の文字組みが優先、というよりヨコ組みに限られ、縦組みができない仕様なのだった。最近になって縦組みも可能な新仕様が発表されたが、実用化への先行きは不透明だ。
そこで再浮上してきたのが、かつて第一次ブームの頃に開発された「XMDF」や「ドットブック」だ。これらは国産だけに縦組み機能が備わっていたのだった。
続く
2012年03月08日
電子ブック漂流記 2)
電子ブック漬けは大震災のショックを緩和するのに好都合だったのかもしれない。
本という観念の投影装置をさらにヴァーチャル化するのが電子ブックだ。イメージの投影に格別向いているだろうことは当初から予想できた。画像や映像、音声をメインにしたもの。たとえば写真集や絵本、コミックス、アニメーション...
では「本」来の " 文字 " についてはどうだろう、と考えると、そこには日本語の壁が縦書きに立ちはだかっているのだった。いまどきヨコ書きだっていいじゃんというヨコヤリも内心あるにはある。このブログだってそうだし、雑誌だって...と。
けれども、意味や論理を追うのが主眼ならいいが、形象美としての文字、そこに潜むニュアンス、流れるように視覚に訴える文字列の味わいは縦書きにかなわない。それと、小説のような長編になるとヨコ書きを読み続けるのはさすがに苦痛だ。これは習慣にもよるだろうけど。
村上龍が昨年電子書籍化した『歌うクジラ』を読んでみたが、やはりヨコ書きのせいだろう途中でギブアップした。
縦書きの電子ブックがないわけではない。
と、つづく
2012年03月07日
電子ブック漂流記
昨年の3月5日に初めて電子ブックというものを刊行してからちょうど1年が過ぎた。
ePubブックストアというウェブサイトを立ち上げた。が、直後に3.11大震災があり、いったん開店休業やむなしとなった。
その後再開し、のろのろ何かをやっているうちに早1年、マイブログを再開しなくちゃ、と不意に、平常心というか正気に戻った。この一年は戦時中だったのだ。かちわり生活も強いられた。
大震災と電子ブック。この一年の出来事がどうも現実感があるようでない。なにがどうしてどうなったのか、はっきりしない。もしもし電子ブックって?
と、続く...