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2005年08月31日

しずかに流れるみどりの川

 ユベール・マンガレリの『しずかに流れるみどりの川』を読んだ。『おわりの雪』の著者が
1999年に小説第一作として発表したものという。『おわりの雪』は少年と父親の寡黙な
関係が、一羽のトビの飼育をめぐって、ひそやかに展開する物語だ。雪原を犬と歩き
続ける少年の心理が、雪の一片のように、読後心に溶けていく、そんな読後感があった。
大きなドラマは起こらないのに、マンガレリの文体は読むものの内部に消えがたい印象
を残す。
この『しずかなに流れるみどりの川』も、少年がその父親との貧しい暮らしのなかで、二人
で追い求めるガラスびんの植物への夢とか、草のトンネルをたどりながら、少年がひとり
育てる夢想の世界とか、その低声による語り口で、同じように読者の胸に深い香りのア
ロマを残す作品だ。知らず知らず、私は少年と同じ草のトンネルを歩み、室内に斜めに
さしこむ光のなかで、百個のガラスびんをのぞき、教会でローソクを盗み、神様に一緒に
お詫びしたのかもしれない。どこにもある暮らしというもののもつ語られない哀しさ、少年
の素朴な優しさは、とまどいながらも、私の戸口をたたく雨か風のように思われる。

 『しずかに流れるみどりの川』  田久保麻理訳 (白水社)

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2005年08月28日

樹の気持ち

この家は丘の上のマンションの8階なので、ベランダも地上よりはるか上にある。ベラン
ダから下を見ると、都会の中ながら、ちょっとした木々の茂みが青々としていて、緑の小さ
な森みたいだ。
ところで、今日、書斎のわきのベランダに置いていた鉢植えの通称「ジャックの豆の樹」に
油蝉が一匹とまってやかましく!鳴きたてているのを発見。蝉の声というのは近くで聞く
と、もう耳がおかしくなるくらいやかましい。耳を聾するとはこのことだと思う。
すぐ下にはあんなに豊かに木が茂っているのに、何もこんなにひょろひょろとした鉢植え
の若木にやってきて、縄張り宣言をしなくても…などと思うのだが、蝉の気持ちは今ひと
つ分からない。
何年か前、10センチばかりだった苗を買ってきておもしろがっていたら、たちまち野放図
に伸びて、いまや天井に梢がとどきかけ、何度も若枝を切ってしまったのに、樹はへこた
れない。それにしても蝉が止まったのは、初体験に違いない!私の耳にはジンジンうる
さいが、樹にとってはこれはどんなふうに聴こえるのだろう?波動が樹液を波立たせる
のかな…などと思う。蝉のとまる樹と、蝉のとまらない樹というのはあるのかしら、など。
いつかバルコニーに置いた鉢植えのかんきつ類の樹でアゲハチョウの卵が孵って、
羽化して飛び立つのを見送ったときも、私はやはりその樹に一目おいたものだった。
なにしろ樹はこういうことを淡々とやってのけて、知らんぷりして立っているのだから。

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2005年08月27日

夢という、不思議なもの

夢について、いい文章を読んだ。作品社から出た「夢」というシリーズの高橋たか子の一
文です。

(私の場合、目が醒める時、夜の間に生きていたらしい生活について、妙に豊穣なものと
いう印象とともに目が醒めることは事実である。断片的な記憶が去っていくことがないよ
うにと、しっかり意識にピンで留めておき、それを反芻していると、それを含んでいる夢の
時間全体の豊穣さが、髣髴させられる。ああ、いい生活を送っていたな、と感じる。その
生活を具体的に知りようがないにもかかわらず、そういう感じが残るのである。良い夢の
場合はもちろんそうだが、悪い夢の場合にすら、現実の世界にはないような豊穣さが感
じられるのは、なぜだろう。豊穣さというのは、なまなましさ、一杯に充ちている命、緊密
さ、などと言い換えてもいい。)
 このさいごの行をよむだけで、私はこの人の作品をきちんと読んでみたくなる。

(ネルヴァルの「夢はもうひとつの生である」にたいして、私は「夢は唯一の生である」とい
う言葉を提出しよう。)

(じつに不思議なことだと思うのだが、原稿用紙をひろげて、スタンドを灯すと、白い紙の
上に、明かりの輪ができ、その小さな場所から、私は何処にもない世界にたちまち入っ
ていくのである。)

(私は、夜は、いわゆる夢のなかで生活し、昼間は、小説という形式をもった夢のなかで
生活しているといった次第なのだ。その両者は無関係どころではない。深いところで一
続きになっている。両者の間で違う点は、夜のほうの生活については意識的でないのに
反して、昼間のほうの生活については意識的だということだけである。…いったい何処か
ら、知らない素材ばかりがこれほど出てくるのか、自分でも気味が悪いほどである。もし
かしたら、夜の夢のなかで体験しているが、その体験が知りようもないままに私の頭の
なかに蓄積されている、そんな無意識の記憶から、私は素材を取っているのかもしれな
い。だが確かにそうなのかどうか、それを知りようもない。)

私は大庭みな子の作品が好きだが、彼女と高橋たか子が、親しい友人同士であり
二人でよくこんな話を交わしたという文章を何かで読んだことがある。
背後に豊穣な夢を負って生きる人々が多い世は、昼の世もまた陰影の深いものになる
ような気がする。そのような人々の出会う世の中はまた、含蓄の多い言葉が交わされる
世の中でもあるだろう。
ところで私は今夜どんな夢をみるのだろう。予想できないところが夢の魅力だけれど。

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2005年08月24日

ウイキョウ

明日は台風が来るということで、バルコニーの鉢や、外に出してあった「ベンジャミン」や
「ジャックの豆の木」などを片付けたり、室内に入れたりする。
以前も書いたけど、花屋さんにもらった”グロキシニア”の鉢を見たら、いつのまにか新し
い蕾がいくつもついている! あまり世話をやかないで放っておいたのが、よかったの
かも。
また、バルコニーではウイキョウがどんどん増えつづけて、あちこちのプランターで1,5
メートルくらいに伸び、この夏もレモン色のレース状の花をいっぱいつけていた。(そのう
ちウイキョウの林になりそう)。今日はその熟した実を摘んで、バジルの葉と冷蔵庫の中
のローズヒップティーとをブレンドしてお茶にしてみた。キャンドルウオーマにのっけて、
ゆっくりゆっくり温めて。
そうしたら癖がなくておいしいお茶になった。ウイキョウの種はそのまま噛んでいても、
甘くて、香りがあり、おいしかった。そういえばインドへ行ったとき機内でフェンネルを配ら
れたことを思い出した。
ウイキョウは目にもいいと昔から信じられていたという。消化を助ける実力はほんとに
あるらしく物の本にもそう書いてある。
それにしてもいろんなハーブ類の鉢があるのに、あまり実用に供さず、もっぱら水をやり、
見ているだけなのだ。
ローズマリー、タイム、バジル(これはもっぱらトマトと一緒のサラダなどに愛用する)、
チャイブなどが折々に花を咲かせてくれるし、いろんな種類のセージもブルーの花を咲か
せてくれる。

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2005年08月19日

カミナンテス

カミナンテス(旅人たちという意味)というフォルクローレのグループからCD[わが道づれ」が送られてきた。以前私が上福岡に住んでいた頃からの友人夫妻、高橋正樹さんと葉さんを中心にした5人のメンバーのグループだ。
あのころ、よくコンサートできいた曲、そればかりでなくある夜は我が家のリビングで、またある夕べは高橋家で、としばしばたのしませていただいたレパートリーの数々をまたこうしたかたちで耳にできるのは嬉しい。
ヌンカという曲は私がその頃つけた詞によって歌われていて、それにもびっくりしたし、懐かしくも思った。あれらの日々から、もう20年近くは経っていると思うのだが、それにしても若々しくロマンチックなご夫妻の歌声は変わらない。
     
             「空はどうして藤の花の上に
             冷たい雨をふらせるのだろう
             水はかよわい花を痛めつける
             まるで人生が私を痛めつけるように」

という高橋 葉さんの語りの入る「空はどうして泣いている」という曲を、今日はことさら懐かしく聴いた。
これからもフォルクローレへの尽きない夢を抱いて歌い続けてほしいと、カミナンテスの仲間へ心から声援を送る。

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2005年08月18日

銅版画展

Gallery元町で田代幸正さんの銅版画展をみる。田代さんの「野兎」という銅版画を私は一枚だけ持っている。
それはもう何年か前に出会って,ふしぎに心ひかれた作品だった。彼の絵には既視感と、ある懐かしさがあって、その背後に秘められた物語性を感じる。人が生きてそこで静かに呼吸している空間みたいなものが、私を誘う。その版画も、ひとりの少年が兎を抱いてこちらを見ている…ただそれだけなのだが。
それからもう一枚、傘をさした少年が大きな犬を連れて雨の中をあるいている小品。これはプレゼントされたもの。地に落ちて跳ね返る雨の感触、あたたかな動物の手触り…。

私は兎を抱く少年にひそかに名をつけていて、いつか物語のなかを歩かせてみたいなあ…と思っている。

ギャラリー元町は彼の絵を見るのにふさわしいスペースだった。彼はそのセピア色の光の底で、グレン・グールドのCDをかけ、鉱物やアンモナイトのことを話した。残暑の窓から入る斜めの光も、空間を涼しく異質なものに感じさせる。そういう時間はとてもすてきだ。

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2005年08月17日

旧制高校

60年も前の旧制松本高校の学生たちのインターハイや駅伝の記録をビデオで見ることができた。
亡兄の友人であったY氏から拝借したものだ。それは昭和21年10月の映像なのだが、若者たちはあの敗戦直後の貧しい食糧難の時代にも、なんとあっけらかんと、生き生きと、精一杯若さをたのしんでいることか!寮歌を歌い、ストームをし…。(そこは男ばかりの世界だが…。)
雨のふるフィルム越しに、かれらの生気あふれる姿を眺め、その後に過ぎた年月と、今の時代を思って複雑な気持ちになる。

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2005年08月16日

誰もひとりでは立てないところ

今日はエルビス・プレスリーが他界した日。あれからもう28年も経つ。CDを聴いているけれど、
彼の歌声ははなぜいつまでも古びないのか…というより年毎に新しくなるのかが不思議。

彼の歌ったゴスペルのなかで、私がもっとも心にしみる曲、その詞を書いてみたい。 機会があったら
聴いてみてください。

            WHERE NO ONE STANDS ALONE

            Once I stood in the night
            With my head bowed low
            In the darkness as black as could be
            And my heart felt alone and I cried oh lord
            Don’t hide your face from me

            Like a king I may live in a palace so tall
            With great riches to call my own
            But I don’t know a thing
            In this whole wide world
            That’s worse than being alone

            Hold my hand all the way,every hour every day
            Come here to the great unknown 
            Take my hand let me stand
            Where no one stands alone
            Take my hand let me stand
            Where no one stands alone
             
         
                 

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2005年08月14日

万葉集

鈴木ユリイカさんから「MAN’YO LUSTER」(万葉集の英訳)という本が送られてきた。
それぞれの歌ごとに美しいカラー写真の入った本で見ているだけでも愉しい。
英語で万葉集を読むことができるのは楽しみだ。リービ英雄その他による。

佐保河の小石ふみ渡りぬばたまの黒馬の来る夜は年にもあらぬか

(さほがわの こいしふみわたり ぬばたまの くろまのくるよは としにもあらぬか)
これは藤原大夫に大伴郎女のこたえた歌とのこと。
《佐保河の小石を踏み渡って宵闇の中をあなたの黒馬の来る夜は、年に一度で
もあってほしいものです》
私は黒馬というイメージにとらえられたみたいだ。

Would that,
even a single night a year,
your pitch‐black steed would come,
   treading over the pebbles
   in the Saho River

これを英訳で読むと、(私には)小石を蹴るひずめの音が聴こえてくる。
不意の連想…漱石の夢十夜のなかで、白い裸馬に乗ってまっしぐらに
駆けてくる女の図。黒馬と白馬、男と女はちがうけれども。

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2005年08月12日

メイ・サートン

昨夜、メイ・サートンの、すてきな言葉をまた一つ見つけた。
これは、高橋茅香子さんの「英語となかよくなれる本」のなかで見つけた一節だ。メイ・サートンが八十歳の一年間を綴った『アンコール』という著書に記されているとのこと。

「もし私が四十歳で—彼は今四十歳なのだ—結婚していなかったら、絶対に彼に結婚してほしいと迫っただろう。彼が普通の男性とちがうのは、ロマンチックだということ……わたしたちはいろいろなことについて語りあった。幸せでいる義務、そして自分のまわりの世界つまり人間、植物、花、天候などを楽しむ義務を持ちながら、現代がかかえている苦しみや恐ろしさをできる限り意識していなければならない、と語りあった」

これは「あなたに似た人の書いたもの」という章のなかに引用されている。私はメイ・サートンの愛読者だが,この『アンコール』という著書はまだ読んでいなかった。このように共感する著者の文の中に、また別の作家のすてきな言葉を発見するのは二重の悦びでもある。

特にこのなかで、「幸せでいる義務」という言葉が心に刻まれた。これははっとするような印象的な言葉で、私はこれからも折につけ、この表現を思い出すことだろう。

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2005年08月11日

むかご

福岡の日嘉まり子さんから、おにゆりのむかごが3粒送られてきた。「すぐに蒔いてください。来年(または再来年)の五月ごろ花が咲くそうです」とある。このむかごは「平成9年7月、中国山西省の五台山の佛光寺の境内で拾ったむかごの子孫。以後6年間日本で咲き続けています」とのこと。彼女も知人からいただいたとのこと。バルコニーでも咲くかしら?と不安だが蒔いてみよう。日嘉さんは去年もツタンカーメンのえんどう豆の種を送ってくださった。それは見事にいくつも莢を実らせてくれた。種をとったのに今年は蒔くのを忘れてしまった。来年は必ず蒔くことにしよう。

何年も前から、バルコニーではシルクロードからやってきたという濃いピンクの朝顔が、夏ごとに落ちた種から花を咲かせてくれる。見ていると、それはだんだん空へ上っていく音符のように見える。

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2005年08月10日

読書会のことその他

フォーラム横浜でのさいごのたこぶね読書会があった。テキストは恩田陸の「夜のピクニック」だった。
後味が爽やかという意見が多かった。本来なら屈折した感情を抱いた人間同士の葛藤があるはずのとこ
ろを、情念の絡み合いへは降りていかず、若者たちが知的な目で、行動的に解決へ向かうのは、この著
者の資質なのかもしれない。あるいは個々の人間の惑いや内面の悩みそのものよりも、それらを包むトポスの働きに関心があるのかも…などと私は思う。それにしてもさまざまなキャラクターを書き分け、関係づけていく筆力、また一昼夜の歩行祭を、読者にも飽きさせずに、同時体験させるような筆力には感じ入った。出席者は9人だったが、それぞれいろんな感想や意見が出て、それがひとりの読書と違うおもしろさなのだ。この次は場所を変え「ペンギンの憂鬱」を読むことになった。

帰ってから、ベイスターズのファンである私は、大魔神佐々木のさいごの試合をTVで見る。涙を浮かべた
清原とのさいごの対決。マウンドで一瞬抱き合う二人の姿を見て、かれら二人だけのひそかな記憶のフィ
ルムを巻き戻して、覗いてみたい気がした。

昨日新聞で元文学界の編集長だった西永達夫さんの死亡記事を読んで愕然。彼は大学時代も卒業後
も、若い日々を通して忘れられないいい友人だった。最近は会うこともほとんどなかったが、かつての爽
やかな交友の日々がしきりに思い出されてならない。いちにち淋しい。

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2005年08月08日

エッセイの愉しみ

高橋茅香子さん(私の英訳の先生)から、新刊の文春文庫「英語となかよくなれる本」が届けられた。
この本は以前晶文社からの単行本で読ませていただいていたが、実に愉しくて、なぜか元気の出てく
るエッセイ集だった。
英語を使って何かしようという読者であろうとなかろうと、帯にも書かれているとおり、「料理、コミック、
音楽に朗読、旅とミステリー、読みたい本、外国人と付き合うヒントetc.」、なにしろ愉しくて、肩がこら
ず、いろいろ目からうろこが落ちる一冊なのだった。おもしろくて、かつ得るところの多いエッセイは少ない
ものだ。いままたこの文庫本を手にできて、身軽に持ってあるき、新たに付け加えられた章とともにもう一
度読み返せる楽しみができた。

なお、著者には、アリス・ウオーカーの「メリディアン」(ちくま文庫)、アドリエンヌ・リッチの女性論
「女から生まれる」(晶文社)などをはじめとして、その他多くの訳書がある。

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2005年08月07日

恩田陸のファンタジー論

今度の読書会のテキスト、恩田陸の「夜のピクニック」を読み続ける一日。
朝の8時から翌朝の8時まで全校生徒で過酷な一昼夜を歩き通す歩行祭という行事を舞台に
思春期の若者たちの微妙な心理が語られていて結構引き込まれて読む。たいしたドラマがお
きるわけでもないのにこの淡々と続くモノローグ的な長丁場を飽きさせず読ませる筆力に感心
しつつ、立秋の日の相変わらずの暑さをしのぐ。

かつて恩田陸は「ファンタジーの正体」という一文で、以下のように書いている。
「ファンタジーというのは、戦争の話である。…もっと正確にいえば「秩序を取り戻す
話」とでも言い換えるべきだろうか。」「そもそも、戦争というのは、世界の中での均衡
が失われ、バランスの歪みに耐え切れなくなった時に起こるものだ。そして、戦後処
理とは新たな秩序の始まりを意味する。日々のニュースを見ても、今まさに、人工的
かつ欺瞞に満ちた秩序を作るために、かの国で終戦工作が行われているではないか。」
「かつてトールキンの「指輪物語」が書かれたのは第二次世界大戦の暗い世相下で、それが
アメリカ学生のバイブルとなったのはベトナム戦争の70年代。…そう考えると、この戦乱に
溢れた世界でファンタジーが流行ることの皮肉を思わざるを得ない。」「世界は秩序を、賢者
を、失われた倫理を取り戻すことを切に求めている。魔法の杖の一振りで、失われたものを
取り返すことを願っているのだ。それは逆に言うと、いかに世界が多くのものを失い,この世
に魔法も奇跡もないことを実感しているかということの裏返しだ。世界はヒーローを求めている。
秩序を回復してくれる聖なる存在を,だれもが血眼で捜しているのだ。「聖」や「神」という言葉
がこれほど安売りされている時代もない。」…しかし「ファンタジーの主人公たちの最後はいつも
虚しい。成功の後には、長い虚無の時間しか残されていないのだから。」「ラストで突然50年
後くらいに話が飛んで、数々の業績を成し遂げた老齢のハリーが、ロッキング・チェアかなんか
に揺られて、あの親戚の家の、階段の下の部屋を懐かしく思ったりしていなければいいのだが−
まさかね。」

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2005年08月06日

アイスクリーム

このところヒポカンパスの詩の原稿に追われていて、さっぱりブログを入れる
ことができなかった。
昨日も猛暑でもう夏ばて気味。そんな日はアイスクリームに限る。昨日はハ
ーゲンダッツのラズベリー、その前の日はバニラ、そのまた前の日は抹茶だった
かも。
それにしても子どものころ、冷えた銀のカップにのせられたシンプルなアイスクリー
ムはおいしかった。添えられたウェハースやクッキーの軽やかなはかなさも。
凝りすぎの濃厚なアイスクリームを前にしていまさらのように子供のころを思い出す。
話がとぶけれど、かのクラリネット吹きのジョージ・ルイスのレコードに「アイスクリーム」
という名曲があった。すてきだったあの曲!今夜また聞こう。

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