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2007年02月25日
ねずみ女房
今度読書会でルーマー・ゴッデンの「人形の家」を読むので、その準備のために同じ作家の「ねずみ女房」を読んだ。この本についてはいろいろな評論家や作家が書いていておもlしろかった。お話はわりと、短かい単純なもので分かりやすい。一家をととのえ、子どもや夫のねずみたちの世話をきちんと果たしているどこにでもいる主婦としての、一匹のねずみが、ある日、鳥かごに捕らえられて家の中にやってきた一羽の鳩と出会い、鳩の話してくれる外の世界のことを知っていく。そしてその鳩のだんだん弱っていく様子を見ているうちに、鳩の本来の生き方を思いやって、その鳥かごの蓋を自分の歯で押し開けて、鳩を自由にしてやる…と、まあそんなお話です。このねずみ女房は日々の暮らしの運び手として、責任をちゃんと果たしていましたが、でも自分のせまい暮らしの外に広がる空のこと、雲のこと、丘のこと、麦畑のこと、そして飛ぶこと、草の露のことなど話してくれる人はいなかったのです。鳩が行ってしまったら、もう未知の世界のお話も聞けなくなるさびしさを知りながら、鳩のために身を挺してあえて彼を放してやったのです。そして彼の飛び去った後、彼女はひとりで初めて遠くに,金ボタンのように輝く星を自分の目で見ることができたのです!
その後、彼女は、チーズ以外のことをなぜ考えるのだ?ときく、彼女の心を察しない夫ねずみ、自分の世話を必要としている赤ん坊ねずみたちを、それ以後もちゃんと守り育てながら、一生を送ります。けれど彼女は、ふつうのねずみとはどこか違うところがあって、晩年もたくさんのひいひいまごたちに慕われる、すてきなしよりねずみになりましたというお話です。
私はこの物語について書かれたふたつのエッセイを読みました。矢川澄子の「わたしのメルヘン散歩」と清水真砂子の「そして、ねずみ女房は星を見た」です。両者ともこの一冊を珠玉の短編として評価しています。矢川澄子はこのような物語が子どもの本のなかにまぎれこんでいることのすごさに驚き、これは「恋愛小説」だ、いやむしろ偉大な姦通賛歌だとまでいっています。「家ねずみの分際でありながら天翔ける鳩のこころをわかってあげられる…この奥さんの知恵の悲しみ、強者の孤独。」、「遠くを見つめる目をもつものと、もたないもの」についても書いています。そしてまた、この本はどんなポルノ番組やH漫画よりもはるかに深甚な影響力をもつ破壊的文書かもしれません」とも。
さて清水真砂子の評については次回に。
2007年02月13日
ロバート・ブライの詩 中上哲夫訳
中上哲夫さんから「十七音樹」という俳誌が送られてきた。中上さんはもう20数年間、ブライの詩を読み続けてきたとのこと、特に2005年から若い詩人たちとブライを読む会を月一回開いてきたとのこと。
私もその訳を読んで、新鮮な印象を受けた。ここにその俳誌2号に載った、ロバート・ブライを読む(1)−恋をするとーから、引用させていただくことにした。
LOVE POEM
When we are in love, we love the grass,
And the barns, and the lightpoles,
And the small mainstreets abandoned all night.
恋の詩
恋をすると、ぼくらは好きになる、草原を、
納屋を、電信柱を、
そして夜通し見捨てられた本通りを。
DRIVING TO TOWN LATE TO MAIL A LETTER
It is a cold and snowy night. The main street is deserted.
The only thing moving are swirls of snow.
As I lift the mailbox door, I feel its cold iron.
There is a privacy I love in this snowy night.
Driving around, I will waste more time.
夜遅く車で町へ手紙を出しに行く
寒い、雪の夜。本通りには人っ子一人いない。
動いているのは渦巻く雪だけ。
郵便ポストの蓋をあけると, 鉄が冷たい。
こんな雪の夜にはわたしの好きなプライヴァシーがある。
その辺をドライブして、も少し時間を浪費しよう。
(この訳の”プライヴァシー”という表現が心に残った。PRIVACYとう言葉は、日本語に訳すのはここでも難しいというのが分かる。プライヴァシーが意味する観念を日常の日本語ではまだ表わせないんだと気がつく。では最後に訳された詩だけを…。 )
秋
雉子撃ちの季節の最初の日曜日なので、男たちが獲
物を分けるために自動車のライトの中に集まる。 そし
て電気の近くで押し合いへし合いし、暗闇に少し怯え
ている鶏たちがこの日最後の時間に小さな鶏小屋のま
わりを歩きまわっている。鶏小屋の床はいまは剥き出
しのように見える。
夕闇がやってきた。西の方はまっ赤だ。まるで昔の
石灰ストーブの雲母の窓からのぞいたように。牡牛た
ちが納屋の戸のまわりに立っている。農場の主人は死
を思い出させる色あせていく空を見上げる。 そして、
畑では玉蜀黍の骨がきょう最後の風にかすかにかさこ
そ鳴る。 そして、半月が南の空に出ている。
いま、納屋の窓の明かりが裸木の間から見える。
※
さいごの詩の後半部分を読んでいると、聞く、見る、触れる、嗅ぐ、そしてもしかしたら味わう…までの感覚が刺激され、どこかただならない雰囲気をもつ、秋の夕暮れの一瞬へと、呼び込まれていく。風景の背後に隠された雉たちの殺戮が、この夕景をいっそう赤々と印象付けている。このくだりを小説の一部として読んでも、そこで立ち止まり、強烈な印象を刻まれるだろう。それにしても思うのだが、詩人というものは散文がちゃんと書けないと駄目なのだと。それも一応意味を伝える、用件を果たす、ただ普通の文章が、きちんと書けないと…と。
さてこの一文は中上さんの次のような句で、終わっています。
雉子撃ちや火薬の匂ひと血の匂ひ ズボン堂
雉子撃ちの男をつつく家畜かな
2007年02月09日
月へ 原利代子
SOMETHING 4からもう一篇。原利代子さんの詩です。
月へ 原利代子
信じないかもしれないけれど 月へ行ったことがある
鉄棒に 片足をかけエイッと一回転すると
月に届く秘密の場所があるのだ
あちらでの住まいはダンボールづくりの茶室
お湯も沸かせないところだけどー
壁にくりぬいた丸窓から月の表面が見渡せる
にじり口に脱いだわらんじに
月のほこりがしずしずと積もっていくばかり
月ってそういうところ
わたしの住んでいた街が
こんな風になってしまったことがある
月の光景はあの時とそっくりなの
見渡す限りがあんな風にー
焼け跡の地面はいつまでも熱かった
はいていたわらんじが焦げるので水をかけて冷やした
歩いては水をかけ 歩いてはまた水をかけ
あれから六十年
地球はいつでもどこかで燃えていて
わたしのわらんじは冷めないまま
秘密の場所?
いいえ 教えない
普通の人はロケットで行けばいいのよ
アポロ サーティーンなんて気取ってね
また月に行くかって?
そうねえ ここから眺める月は美しいけど
月から眺めるのはとても淋しいの
完璧な孤独ってわかる?
わらんじがいつか冷めたらまた行くかも知れない
その時 まだ鉄棒でエイッと出来るといいけどー
※
この詩に心底、脱帽! こんなに愉しく怖い作品にはめったに出会えない。ファンタジーの手法を駆使して、ここまで痛烈な作品を書けるんですね。何の理屈も言わずに。最後の連を読むと、シーンとした気持ちになってしまう。(わらんじ)っていう表現もいいなあ。
2007年02月07日
「水を作る女」 文 貞姫
鈴木ユリイカさん発行の「SOMETHING 4」を読了。力強い作品の数々を読む楽しみにしばらく浸った。いくつかの魅力的な詩の中で、今日は特に惹かれた文 貞姫さんの作品を写させていただきたいと思う。
水を作る女 文 貞姫
娘よ、あちこちむやみに小便をするのはやめて
青い木の下に座って静かにしなさい
美しいお前の体の中の川水が暖かいリズムに乗って
土の中に染みる音に耳を傾けてごらん
その音に世界の草たちが生い茂って伸び
おまえが大地の母になって行く音を
時々、偏見のように頑強な岩に
小便をかけてやりたい時もあろうが
そんな時であるほど
祭祀を行うように静かにスカートをまくり
十五夜の見事なおまえの下半身を大地に軽くつけておやり
そうしてシュルシュルお前の体の中の川水が
暖かいリズムに乗って土の中に染みる時
初めてお前と大地がひとつの体になる音を聞いてごらん
青い生命が歓呼する音を聞いてごらん
私の大事な女たちよ
(日本語訳 韓成禮)
※
この詩をよむと、のびのびと心が解放される感じです。人の体は水の運搬人,水の管なのだと私も実感します。この感じは都会の暮らしではなかなか味わえませんけど。私は、乾いた鉢植えの木の根元に水をやるとき、地面が水を吸い込んでいく音が大好きです。
十五夜のような下半身…ていうのも新鮮!エッセイ「髪を洗う女」も同じ題の詩もどきどきする生命力を感じました。鮮やかな詩でした。