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2011年07月24日
木漏れ日の家で
映画「木漏れ日の家で」を見た。ポーランド映画。監督・脚本はドロタ・ケンジェジャフスカ。
以前岩波ホールで上演されたときに行きそびれたのを、近くのシネマ・ジャック・ベティでやっていたので見に行く。めずらしくモノクロ映画である。
ポーランド、ワルシャワ郊外の森のなかに、木漏れ日に一面のガラス窓が輝く古い木造の屋敷がある。91歳のアニェラは、ここで愛犬のフィラデルフィア(フィラ)と長く暮らしていた。淡々と老女と一匹の犬の暮らしが見つめられていて、ほとんどこれという事件も起こらない。その分見るものは彼女の内面に同化して、彼女とともに双眼鏡で森深い庭の出来事や、隣家の情景を眺め、そのすてきな共演者である犬のフィラの表情に一喜一憂する気分になる。犬のフィラはその演技で受賞したとのことだ。この共演ぶりが興味津々だ。
老いていく孤独な一人暮らしの中で、息子への期待を裏切られ、孫の言動に失望し、しかしその森の家での日々の暮らしを深く味わっているアニェラの表情はとても魅力的だ。それは彼女が生きてきた自分の時間へのゆるぎない信頼からくるものかもしれない。彼女は最後まで自らを閉ざすことなく、毅然と信念に従って生き、若い音楽仲間たちに自らと屋敷とを解放し、思い残すことなく世を去るのだが、そこには老いの閉ざされた暗さはなく、孤独をこえたふしぎな明るさがある。
ラストシーンでカメラがはじめてこの屋敷の上空へと、はるばる上昇し、大きな広い空の下の森に囲まれたこの古い屋敷を俯瞰図のなかにとらえるシーンは感動的だった。野の果てまで続く、あの白い花房をつけた樹木はなんだろうと思いながら、ポーランドの自然の豊さを想った。
アニェラを演じたダヌタ・シャフラルスカのすてきな微笑に引き付けられたが、この名女優は95歳になる今も舞台で現役をつづけているという。またこの女性監督ドロタ・ケンジェジャフスカの作品をぜひ見たいと思った。
作家の金原瑞人が書いている。「ろくに起伏がなく、じつに退屈で,じつに眠気を誘う映画…のはずなのに、じつに生き生きとしていて、じつに心に食い込んでくる映画だった。
なにより忘れられないのはファーストシーンだったかで、アニェラが屋敷の二階から外を眺めている姿を外から撮っている場面だ。四角く区切られている大きな窓のガラスを、カメラがしっかり撮っている.格子のひとつひとつにはめられている、気泡の混じったガラス、表面にでこぼこのあるガラス、皺のあるように見えるガラス……四角いガラス一枚一枚が個性と存在感を持って、迫ってくる。そう、この古々しい屋敷の窓ガラスはずいぶん昔につくられたものなのだ。おそらく半世紀以上、もしかしたら一世紀以上前のものかもしれない。……監督、撮影の力量というのはこういうところで推し量れるのだと思う。」
この映画はシネマジャック・ベティで8月5日までやっているそうです。
2011年07月18日
兎 (岬 多可子)
兎
岬 多可子
夜の飼育小屋で
たくさんの兎がしずかに混じり合っている
声というものがないので
区限ということがない
小麦粉のドウとドウを捏ねてひとつにする
そんなふうな混じり方
そして また
そこからひきちぎられたように
濡れたにぎりこぶしが
夏の赤い穴の中にころがっている
粉のような虫が
小屋の錆びた鍵穴から 大量に湧き出て
どこかへと長い長い列を作る
にじみでていく夜というものが
兎というものの全体なので
生死を数えることはできない
”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””
これは岬多可子詩集『静かに、毀れている庭』のなかの作品。ひさしぶりに兎の詩を引用
できて嬉しい。この詩からは「生命」とか,「類」というもののもつ不条理な重さ,哀しさを感じる。
3連の(夏の赤い穴)とはなんなのか、(ひきちぎられたようにころがっている…濡れたにぎりこぶし)
とはなんなのか。生き続けていく生命の奥底にひそむ不気味な営為やエロスを感じる。詩で
なければ表現できないある感覚だと思う。とくに最後の連が印象的だ。
2011年07月17日
「牛」 吉井 淑
詩集『ユニコーンの夜に』を巡って、詩友の方々からさまざまな言葉の贈り物をいただく機会がここ二度ほど、連続してあって、爽やかな緊張感と喜びの日々だった。もちろん今後に向けていろんな形での刺激をもいただいた。これはめったにないことでもあるので、今週は少し孤独にその余韻を味わいながら、同時にこの夏の暑さにも驚いていた。
今日は詩を一つ。
牛 吉井 淑
曲がりかどで牛に出会う
板塀から染み出たように立っている
かわたれどきの空き地でも
ひっそりと
黒牛のかたちに闇が濃くなっている
川のほとりに住んでいたころ
土手の斜面を上がると牛がいて
空いっぱいに腹が広がっていた
たくさんの虻が飛び交って
ぬうっと振り向いた瞳はよく光るのに
なにも見ていないのだった
草を食むためにだけ一歩二歩進む
耕さない牛が
どこをどう歩いてきたのか
ずっと私の側にいる
虻を払うように
ときどき尻尾で叩きながら
街頭の下に大きな影を倒している
毛深い腹に潜り込むと
みわたすかぎりの星空
土手の空
そこから森への小道
はぐれていく
ぴしりぴしり
尻尾の音
”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””
このところ原発問題とからんで牛または牛肉問題で大騒ぎになっている。騒いでいるのは我々人間、そして牛たちは寡黙である。もくもくと藁をはむだけの彼らのすがた。(板塀から染み出たように立っている…)(ひっそりと黒牛のかたちに闇が濃くなって)くる、その影は隠喩に満ちている。ここにあらわれる牛は、存在自体の影のようだ。それはみわたすかぎりの星空や、森への小道につながっているのだから。
この詩は吉井 淑さんの詩集『三丁目三番地』から引用させていただいた。好きな詩なので、もし以前にも取り上げさせていただいていたらすみません。
2011年07月05日
不思議な羅針盤
詩友の佐藤真里子さんにお借りした梨木果歩の『不思議な羅針盤』という本は最近のヒットだった。ミセスに連載したエッセイをまとめたものとのことだ。著者の小説はよく読んでいたので、その文章のもつ肌合いや感触には慣れていたが、今度のエッセイで著者が日ごろ何を感じ、どんなことを想っているかが伝わってきて、共感できる部分がたくさんあった。
たとえば「スケールを小さくする」という章である。片山廣子の『燈火節』に触れて、(アイルランド文学の翻訳で有名だった彼女だが、その生きていた現実世界のスケールの小ささとそのことがどんなに世界に細かな陰影を落としていたか…外国に足を運び、生身の体に余計な情報を入れる必要などなかったのでは、と思われるほど一つの世界として彼女の内界に、例えば神話世界の「アイルランド」が確立しているのだ。…と述べている。生身の体での知見を広げるということと、想像世界の豊かさを耕すということは、必ずしも重ならないのだと私も思うことがある。
(グローバルに世界をまたに掛けて忙しく仕事している人たちの、大きくはあっても粗雑なスケールに)最近なんだか疲れてしまった、という著者は(距離を移動する、それだけで我知らず疲弊していく何かが必ずあるのだ。…世界で起こっていることに関心をもつことは大切だけれど、そこに等身大の痛みを共有するための想像力を涸らさないために、私たちは私たちの「スケールをもっと小さくする」必要があるのではないか…つまり世界を測る升目を小さくし、より細やかに世界をみつめる。片山廣子のアイルランドはその向こうにあったのだろう。)
と、書いている。
私もあまりに目先のことに忙しいとき、大きな留守をしている気になってくる。そんな時は周囲の流れに追い立てられ、自分も大きな忘れ物のつまった袋を背負って、やたら右往左往しているだけの一人なのかもしれない。ときどき意識して世界を測る小さな升目を取り戻したいと思う。
2011年07月03日
命日
今日は7月3日。前田千代子さんの亡くなられた日です。三年前の今日はすぐそこにある。その2週間前に富山の病床を見舞い、交わした会話。その翌日金沢のホテルからかけた電話での「私は水野さんに励まされて詩を書いてきただけ…」という彼女の静かな口調を思う。そんなことではなかっただろうに。 もっともっと生前に彼女に会って話をきいておきたかった…という無限の思いばかりくりかえしよみがえる。
その旅から帰ってきて、私はすぐ体調を崩し、10日ばかり入院してしまった。6月30日に退院して翌日、手紙をすぐ書いて投函したが彼女には読んでもらえなかったと思う。手紙は彼女のとこに7月2日に着いているにしても、彼女は同日の朝には倒れ、意識のないままに3日に亡くなったのだから。だから私の最後の手紙は今も彼女のあとを追いかけているだろう。空のどこかを。
3年前の日記を読むと、欄外に小さく、「閉じし翅 しずかにひらき 蝶死にき」 (梵) と書かれている。