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2011年09月21日

届かぬ声(2)

前回の続きです。


         届かぬ声
                                      斉藤 梢


市役所の壁のすべてを埋めてゆく安否確認の紙、紙、紙が


三日目の朝に降りくるこの雨を涙と思う 抒情は遠し


傷あれど痛みを言はぬ人たちにガーゼのやうな言葉はなくて


生と死を分けたのは何 いくたびも問ひて見上げる三日目の月


どう生きるかといふ欲は捨てるべし震災四日目まづ水を飯を  


我が家へのガソリンのみになりし夕 震災五日目帰宅を決める 


津波にて取り囲まれし八階より見下ろす田圃 田圃にあらず


消費期限切れたる豆腐・卵・ハムどんよりとある冷蔵庫は闇


「届かなかった声がいくつもこの下にあるのだ」瓦礫を叩く わが声


この眼(まなこ)で見たのはいつたいどれほどのことであろうか汚泥が臭う


定型に気持ちゆだねて書く、書く、書く、余震ある地に言葉を立てる


もうここで書けぬ書けぬとさらに書くわれの心に無数の亀裂


被災地にしだいに闇のかぶされば星はみづから燃えているなり

””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””
また次回につなぎます。
今日は台風が関東地方にも刻々と迫っています。雨音がさっきから急に
激しくなってきました。

投稿者 ruri : 2011年09月21日 11:09

コメント

これらの短歌に強く胸を打たれながら読んでいます。
その中の「定型にすがりて」「定型に気持ちゆだねて」という言葉に、「形式」の強さ、そしてそれを破ろうとしてきた近代・現代詩の行方についても改めて考えさせられています。
台風は浜松市付近に上陸したようで、こちらも薄暗くなり雨が激しくなってきました。

投稿者 kinu : 2011年09月21日 14:39

定型のいさぎよさを感じます。いさぎよい故に広がる世界。言葉の持つ力のすごさ、気持ちが強くゆさぶられます。

投稿者 eiko : 2011年09月21日 15:05

私も定型のもつ力を感じました。余分を切り捨てて、伝えられる心情の切迫感。日本人特有のリズムと抒情に包まれて伝達されるストレートな心情。それは格言や広告文にさえ生きているものですが、理屈抜きに心の奥にしみいる力をもっている…。現代詩でやると、なぜか批評性が前面に出て、意味として知的に解釈されがちになるのです。
現代詩という器は哀しみよりも怒りの表現に勝っているのか?こういう場合にも。そして現代は哀しみよりも、怒りや批評の語彙を殖やしつつある時代かも。などとあえて思いました。

投稿者 ruri : 2011年09月23日 18:30

現代詩において、怒りや批評ばかりが正当かされていくような気がします。それらが倫理的に正しければ正しいほど・・・・ひとつのジャンルとしてあるのはいいのですが。その奥にあるものが、詩としては大事だと思うのですが。

投稿者 eiko : 2011年09月23日 19:34

哀しみは、詩では、近代で表現し尽くされたような扱いをされているふしがありますが、決してそうではなくて、現代詩では、その奥にある世界をひらくことが、わたしも、大事なことだと思います。

投稿者 青りんご : 2011年09月23日 22:16

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