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2011年10月29日
ことば が 佐伯多美子
詩誌「すぴんくす」から佐伯多美子さんの詩を一篇載せます。
ことば が
ことばが ずれる
すこしずつ ずれていくと
ことば が
裏返ったり
宙づりに なる
おもいとは
別れて 暴走していく
暴走していく ことばを
ただ 傍観している
むかし
いいわけに いいわけに いいわけを
して
なお 混乱して
いま は
天井から宙吊りになっている ことばを
部屋のまんなかで
へたり
座りこんで 見上げている
”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””
わたしにとって3.11以後の言葉との関係をこんなふうに言ってくれたんだ
と最初に読んだときに思ってしまった。くっきりと筆太に。
もう一篇。これも佐伯さんが書いた作品と思うと、うれしい。もちろん誰が書いても
うん、うんと思うけれど。
あのね
あのね
きょう ひとつ いいことあった
きもち やわらかかったし
あたま パンクしなかったし
ねこが フードいっぱい食べたし
目が ふっと通じあえたし
あじさいの大きな花が涼しげにゆれていたし
テレビドラマ見ていて ぽろっとなみだこぼれたし
ゴミ出しもできたし
ねこと「り」の字になってひるねもしたし
玉子なしのチャーハンもおいしかったし
きな粉ミルクも
こころの中だけど「ごめんね」っていえたし
ひとつ
なのに よくばりだね
””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””
こんな一日があるといいな、と思いました。私のなかに、ないがしろにされた、
たくさんの”いちにち”がこっそり膝を抱えているようで。
2011年10月15日
雪物語
田中郁子さんの新詩集『雪物語』を読む。田中郁子さんの詩を読むと、あらためて
人とその「場所」の出会いの運命的な意味を考える。人は場所に選ばれることで
自分の生を創造していく存在かもしれない。
とてもいい詩を読んでいるとき、私もきっと窓から星を撒く人を見ているのかも知れ
ない。
孤島
田中郁子
人間が老いると 窓になってしまうということは まわ
りの人が気づかないだけで ほんとうはよくあることな
のだ わたしの場合 数日窓からあおいものを見ていた
時のこと 胡瓜の葉が 一面に地をおおい 蔓の先が巻
きつくものを求めて空をつかもうとしている畑を 見て
過ごすことに始まった
ーあれはどんなにしても コリコリと歯ごたえのある
実をつけるだろう 葉がくれに黄の花さえちらつか
せているではないかー
そのうちに はげしく茂ってくる葉と蔓に かこまれ
て 自分がどこにいるのか わからなくなってくる
ある夜 星を撒く男を雲間に見る その男の手から た
くさんの星がばら撒かれるのを 瞬きもせず見たのだ
地上には落ちなかったが そのうつくしい輝きの下でカ
タバミが葉と葉を閉じて うっとり眠っているのを見て
から 誘われたのかふかい眠りに落ち そのままになっ
てしまう 二度と窓から入ることも出ることもなかっ
た 窓になってしまったのだ
遠い山里の古い家では 無数のわたしが無数の老婆とな
っていまでも窓に映っている 結局 わたしが窓から見
たものは 胡瓜の茂みとカタバミだったと思う その畑
の大きさが 孤島そのものだったと思う わたしはその
孤島を今でも全世界のように見つづけている