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2013年05月31日

あすの朝

NHKBS3のクラシック倶楽部をときどき見る。

今朝はラチャ・アヴァネシヤンのバイオリンとリリー・マイスキー(父はミーシャ・マイスキー)
のピアノによる曲をいくつか聞いた。
 
そのなかでチャイコフスキーの「あすの朝」という曲が印象的だった。静かである分だけ、さま
ざまのイメージを呼び起こしていった。リリー・マイスキーが(父と何回も編曲を重ねた曲だった)
という。彼女も好きなのだ。

「あすの朝」はそれぞれの人の心の中にそれぞれのイメージで沈んでいるだろう。期待に満
ちた明日もあれば、無関心な明日もある。もはや出会えない明日の朝…もある。死者にとって
の明日とはなんだろう、残されたものにとっての明日とは?とふと思う。

投稿者 ruri : 09:44 | コメント (0)

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2011年09月21日

届かぬ声(2)

前回の続きです。


         届かぬ声
                                      斉藤 梢


市役所の壁のすべてを埋めてゆく安否確認の紙、紙、紙が


三日目の朝に降りくるこの雨を涙と思う 抒情は遠し


傷あれど痛みを言はぬ人たちにガーゼのやうな言葉はなくて


生と死を分けたのは何 いくたびも問ひて見上げる三日目の月


どう生きるかといふ欲は捨てるべし震災四日目まづ水を飯を  


我が家へのガソリンのみになりし夕 震災五日目帰宅を決める 


津波にて取り囲まれし八階より見下ろす田圃 田圃にあらず


消費期限切れたる豆腐・卵・ハムどんよりとある冷蔵庫は闇


「届かなかった声がいくつもこの下にあるのだ」瓦礫を叩く わが声


この眼(まなこ)で見たのはいつたいどれほどのことであろうか汚泥が臭う


定型に気持ちゆだねて書く、書く、書く、余震ある地に言葉を立てる


もうここで書けぬ書けぬとさらに書くわれの心に無数の亀裂


被災地にしだいに闇のかぶされば星はみづから燃えているなり

””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””
また次回につなぎます。
今日は台風が関東地方にも刻々と迫っています。雨音がさっきから急に
激しくなってきました。

投稿者 ruri : 11:09 | コメント (5)

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2011年09月20日

届かぬ声(斉藤 梢)

青森の詩人佐藤真里子さんから、このたび斉藤 梢さんの短歌70首あまりの載った詩誌
のコピーが送られてきた。斉藤 梢さんは仙台にお住まいの歌人ときく。この震災に遭われた
その直後から、時間を追って書き続けられたその短歌からいくつかを転載させていただく。
コピーされた短歌誌は『桟橋』だそうです。


         届かぬ声            
                                 斉藤 梢



二キロ先の空港がいま呑まれたと男がさけぶ 四時十一分


この力どこにあったか「津波だぞ」の声にかけ上がる立体駐車場


七分後マンホールの蓋とびあがり周囲はすべて水の域なる


くろぐろと津波が至る数秒を駐車場四階に見るしかなくて


閖上(ゆりあげ)漁港呑みこみていまマンションに喰いつきてくる津波ナニモノ


閖上の「浜や」へ食いに行こうかと。 夫の声が声のみ残る


十二日の朝日を待ちてペンを持つ 言葉は惨事に届かぬけれど


避難者の三十一万に含まれて車泊のわれら市役所駐車場


桜餅のさくらの色の懐かしさひとりにひとつの配布に並ぶ


木のごとく立ちてゐるなりわが裡に「戦争は悪だ」の結句が強く


夜のうちに溜まりしものを文字にして書き始めゐる今朝も車中に


推敲はもはや必要なくなりてただ定型に縋り書きつぐ

”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

斉藤 梢さんは、震災に遭われたそのとき、偶然外出先で拙詩集「ユニコーンの夜」
を、バッグに入れておられた由、佐藤真里子さんからのメールで以前知りました。
とても胸が痛くなり安否が気遣われてなりませんでした。いま、こうして現場からの
切迫した思いを乗せたなまの声に触れ、感無量です。
この「届かぬ声」は次回に続けます。

投稿者 ruri : 10:57 | コメント (1)

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2007年09月29日

聴くということ(つづき)

 (こころのケアやカウンセリングにおいて、、慰めの言葉や助言よりも「こうなんですね」と(語るひとに)
繰り返して確認することが大きな意味をもつのは、おそらく、そういう語りののなかで、語るひと自身がみずからを整えるような「物語」を紡ぎ出していくことになるからである。)

 (語るひとは聴くひとを求めている。語ることで傷つくことがあろうとも、それでも自らを無防備なまま差し出そうとするのである。ケアにおいてそのリスクに応えうるのは、「関心をもたずにいられない」という聴く側のきもちであろう。)

 (とはいうものの、ほんとうに苦しいことについてひとは話しにくいものだ。…どのように語っても追いつかないという想いもあるだろう。だからそこから漏れてくる言葉は、ぷつっ、ぷつっと途切れている。だれに向けられるでもなく、ぽろっと零れるだけ.自分にとってもまだ言葉になっていないような言葉、ひとつひとつその感触を確かめながらでないと音にできない言葉だ。
 
 そういうかたちのなさに焦れて、聴くひとは聴きながらつい言葉を継ぎ足してしまう。ただ相手の言葉を受けとめるだけでなく「〜ということなんじゃないですか、だったら…」と解釈してしまう。こうして話す側のほうが、生まれかけた言葉を見失ってしまう。
 
じっくり聴くつもりが、じっさいには言葉を横取りしてしまうのだ。言葉が漏れてこないことに焦れて、待つことに耐えられなくなるのだ。
 
 ホスピタリティ、つまり歓待〈=他者を温かく迎えるということ)においては、聞き上手といった素質の問題ではなく、どのようにして他者に身を開いているかという、聴く者の態度や生き方が、つねに問われているようにおもう。)
                              
                              ※


 以上、思い当たることの多い内容ではないか。その人の身になって聴く…という態度は、自分をまず語ろうとすることとは対極にあるものだろう。折あらば相手の話のすきまを見つけて自分を語ろうとするのが、現代では一般的かもしれない。

 電話などでもこちらが話しているときに、それを無視して口を挟んで話をとったり、親切に?話を要約してくれようとするひともいて、それはたとえば混雑したデパートの売り場や地下道で、自分の行く手をつぎつぎと阻まれるストレスと似たものを与える。

 いま面している相手に自分を重ね、その心の動きに関心をもつ、かけがえのない共感能力は、著者もいうように「待つ」という心性に通じるものだろう。「待つ」ということは、ぼんやりした受身の姿勢でなく、集中力が求められるものだ。

 自然のなかの植物たちや、季節の大きな循環のなかで、「待つ」という態度を、訓練によって身につけなければならないのだ。電子機器にかこまれた、この都会の生活のなかで、息切れしかけている自分の呼吸を、もう一度静めるようにして。

投稿者 ruri : 11:29 | コメント (2) | トラックバック

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2007年09月28日

聴くということ

鷲田清一「まなざしの記憶」(だれかの傍らで)という著書には、胸を打つ言葉がたくさんある。

私は、日ごろ《きく》という行為を大切にしたいと思っているのだが、個々人のもつ感覚の差やその不思議について、またひとの話を聴くという行為について、印象的な部分を引用したい。

 (聴くといえば、だれもがおそらく、耳で、と答えるだろう。聴覚は鼓膜に伝わる空気の振動を聴覚神経が大脳に伝えて……と、むかし学校で習った記憶がある。しかし、聴くという行為が、耳でする、ただ単に音響情報を受け取るという受動的な行為だとはとても信じられない。
  たとえば、数名が同じ部屋にいてもおなじ音を聴いているとはかぎらない。…BGMを聴いている人もいれば、…ワープロのキーを打つ音に神経を集中している人や、…鳥の鳴き声に耳を澄ましている人もいる。後者の人たちにはBGMの音はほとんどきこえていない。…聴くというのは、こちら側からの選択行為でもあるのだ。
 ひとの話を聴くというのも、…じつは選択的な行為なのである。相手が親しい人なら、きちんとその言葉を受け止めていないと「ちゃんと聴いているの?」「聴く気はあるの?」と問い詰めてくる。)

(聴かれる方からすれば、相手が自分に関心があるかどうかは、その聴き方ですぐ分る。こちらの聴き方しだいで、愛されていると感じたり、じぶんのことなんかこのひとにとってはどうでもいいのだと感じたりする。正確に、そして繊細に。だからこそ会話においてはしばしば、語るほうが先に傷つくのである。聴くということが選択的行為である限り、…相手が伝えたいことをそっくりそのまま受け取るというのは、なかなか難しいものだ。そしてそこに自分が出る。何を聴くかというところに。)

(聴くというのは、相手の言葉をきちんと受けとめることである。理解できるかできないかは,ふつう思われているほど重要ではない。話すほうが「わかってもらえた」「言葉を受けとめてもらえた」と感じることが重要である。なぜなら、自分について話すことは、自分を無防備にすることだからだ。逆に言えば、何でも話せるということは、相手に自分が、いまのままで十分に、そして(もしあなたがこうしてくれるなら、といった)条件付でなくそのまま受け容れられていると感じることだからである。「わかってもらえる」というのは、苦しみを「分かち合ってもらえる」ということでもあるのだ。ちなみに西洋の言葉で、シンパシーというのは「苦しみを分かちもつ」という意味だ。)  ーつづくー                           

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2006年08月30日

小長谷さんの詩集『わが友、泥ん人』より

小長谷清実さんの詩集『わが友,泥ん人』を読む。感じのいい詩がいくつもあって、暑苦しい日々の現実…いや暑苦しい自己のフレームからしばらく解放された。コトバを発することと、周囲の具体的世界が共呼吸していて、ああ、無理がないなあ…と感じさせる。ほんとうは気配というものに、こんなに耳を立てている生き方ってすごいことなのだけど。

                  

                       震えとして

                   
                   天井の裏側を這うようにして
                   少しずつ移動していく何かがあって
                   

                   壁の内側でひっそりと
                   身を捩っている何かがあって

                   
                   部屋の外の階段を目立たぬように
                   ずり落ちていく何かがあって


                   そうした何かに絶えず
                   気を配って


                   もう一匹の
                   何かとして


                   時にふと思い立って 周りの気配を
                   鉛筆で紙の上にメモしたり


                   メモの上にメモを重ねて
                   判読しがたいメモとしてしまったり


                   そうした日々を怪しんでみたり
                   毎日のことだ 怪しむに足りぬと思ったり


                   かくして 表現力のまことに乏しい
                   メモのアーカイブスを


                   ひらひらの一片の紙の上に
                   写し取っているのだ たった今


                   あるいは世界とやらに共鳴するやも知れぬ
                   もう一匹の震えとして 


                        空の破れめ 


                   空に散らばる
                   冷蔵庫 テーブルや椅子 洗濯機
                   書物 枕 電子レンジなど
                   それぞれが
                   傾いたり 寝そべったり
                   ときに倒立したりして
                   散らばり
                   浮遊し 漂ってい
                   その
                   とりとめなさは
                   なんだか
                   わたしの住む世界みたい、
                   わたしの
                   こころの在りようみたい、
                   顔みたい、
                   はらわたみたい、
                   影みたい、
                   来し方かたる
                   経歴みたい、


                   空には深さも
                   奥行きも
                   あまつさえ 理解しがたい
                   破れめもあって
                   あっちにこっちに
                   散らばっている薬壜 パソコン装置
                   テレビ装置 掃除機やシャツなど
                   受話器 ベッド 招き猫など
                   遺失物など
                   それぞれが揺らぎ
                   震え 微かにケイレンし続けていて
                   小さく見えたり 中ぐらいに見えたり
                   まるでわたしの
                   夢みたい、
                   生のステップみたい、
                   足跡みたい、
                   その痕跡の
                   詩であるみたい、
                   ウソみたい、


                   卑小さをうつす鏡みたいな
                   そして 茫漠としたドームみたいな
                   時空に向けて
                   わたしに似た男がコトバを発している
                   やみくもに放っている
                   たとえば「行く!」
                   あるいは「黙る!」
                   たとえば「食う!」
                   あるいは「聴く!」
                   たとえば「眠る!」
                   あるいは「笑う!」
                   けれどもコトバはことごとく
                   それぞれの語尾を震わせ
                   語幹を揺さぶり意味を捩じらせ
                   多層化しアイマイ化し
                   時空のなかに その破れめに
                   吸い込まれて行く、
                   小刻みに、
                   ことごとく、ぜんぶ、


                   朝が来て夜が来て
                   輝く闇が 翳る光が
                   互いが互いを
                   責め合うように     
                   かつ補完するように
                   くんずほぐれつ、
                   セクシュアルな呼気吸気で
                   空を充たしていく、
                   空をネットワークしていく、
                   その破れめを繕っていく


   
こんな風に詩の行為を続けていけたらいいなあ、と思う、そんな読み方をした。          
                     
                              

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2006年07月18日

ヘイデン・カルース(�)

カルースの作品には動物がたくさん出てくる。アビ〈鳥)の詩を読んだ。最後の連のアビの鳴き声の描写の強烈さ。いまの私にはこわいほど共感できる。私はカラスの声にいまそれを感じている。

                      フォレスター湖のアビ

                   
                 夏の原野……青みがかった光が
                 木や水にきらめいている。しかしその原野も
                 いまは消滅しかけているのだ。「おや?
                 あれはなんの鳴き声だろう」。すると
                 あの狂気の歌、あの震える調べが
                 ランプのなかの魔法使いの声のように 聞こえてきた。
                 人生の遠い原野のなかから聞こえてきた。

                    
                 アビの声だった。そしてそのアビが
                 湖を泳いでいるではないか。岸辺にある
                 メス鳥の巣を見張り、
                 潜り、信じられないくらい長い時間
                 潜りつづけ、そしてだれも見ていない水面に
                 姿を現した。友人があるとき
                 子供のころの話をしてくれたが、
                 アビがボートのしたを潜りつづけて
                 静かな神秘的な水中の世界に
                 黒ぐろと力強い姿を見せ、それから
                 背後にふんわり
                 白い糞を発したという。「すばらしかったよ」
                 とかれは言った。


                 アビは
                 二度三度湖面の静寂を
                 破った。
                 鳴き声で……まさに名残の鳴き声で……
                 原野を
                 破った。その鳥の笑い声は
                 初めはすべての陽気さを超え、
                 それからすべての悲しみを超え、
                 最後にすべての理解を超え
                 このうえなく微かな震える永遠の嘆きとなって
                 消えていった。その声こそぼくには
                 真実で唯一の正気に思えた。


もう一つ別の詩の一部分を引用します。
            

                   
             ……この歳月は動物を消滅させる歳月だった。
             動物は去っていく……その毛皮も、そのきらきらした眼も、
              その声も
             去っていく。シカはけたたましいスノーモービルに追い立てられ
             ぴょんぴょん跳ねて、最後の生存のそとへ
             跳んで消える。タカは荒らされた巣のうえを
             二度三度旋回してから星の世界へ飛んでいく。
             ぼくはかれらと五十年いっしょに暮らしてきた。
             人類はかれらと五千万年いっしょに暮らしてきた。
             いまかれらは去っていく。もう去ってしまった、と言っていい。
             動物たちには人間を責める能力があるかどうかは知らない。
             しかし人間にサヨナラを言う気がないことは確かだ。

                                   「随想より」後半部分

以上の2篇は『兄弟よ、きみたちすべてを愛した』より抜粋。
 
               
                                      


         
                     
                      

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2006年07月15日

ヘイデン・カルースの詩

急に猛暑になってぐったり。夜、八木幹夫さんに拝借したヘイデン・カルース(1921年アメリカ・コネティカット州生れ)の詩集「雪と岩から、混沌から」(沢崎順之助訳)を読む。氷点下の厳しい寒さのつづくヴァーモント州北部の冬から生まれてきたというこれらの詩は、自然のただなかを生きる生活者のきびしい精神と張り詰めた美しさを感じさせ、この程度の熱帯夜にげんなりした私の気持ちを洗い直してくれた。鉱物のようなかっきりとした手触りをもつ彼の作品を紹介したい。まず一篇目を。


                            夜の雌牛


                      今夜の月は満杯の盃のようだった。
                      重たくて、暗くなるとすぐ
                      靄のなかに沈んだ。あとに


                      かすかな星が光り、道ばたの
                      ミルクウィードの銀色の葉が
                      車の前方に輝くだけだった。

                     
                      それでも夏のヴァーモントでは
                      夜のドライブがしたくなる。
                      山奥の闇のような靄のなか、


                      褐色の道路を走っていくと
                      まわりに農場が静かに広がる。
                      やがてヤナギの並木が途切れて、


                      そこに雌牛の群れが見えた。
                      いま思い出してもどきっとするが、
                      闇のなか間近で深々と呼吸していた。


                      車を停め、懐中電灯をつけて
                      牧場の柵まで行くと、雌牛は
                      寝そべったまま顔を向けた。


                      闇のなかで悲しい美しい顔をしていた。
                      数えると——四十頭ばかりが
                      牧場のあちこちにいて、いっせいに

                      
                      顔を向けた。それは遠い昔の
                      無垢だった娘たちのように
                      悲しくて、美しかった。そして


                      無垢だったから、悲しかった。
                      悲しかったから、美しかった。
                      ぼくは懐中電灯を消したが、


                      そこを離れる気はしなかった。
                      といってそこでなにをするのか
                      分からなかった。その大きな


                      闇のなかで、はたしてなにが、
                      ぼくになにが、分かっただろう。
                      柵に立ちつくすうちに、やがて


                      音もなく雨が降りはじめた。 
   

 

                       

                        

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2006年07月04日

一枚の絵の言葉

《政治的な作家、あるいは政治的な芸術家とは、作品中になにか政治的なことがらを登場させる作家ないし芸術家である……こういう平板な見方にはぼくはいつも逆らってきた。だったらたとえばゴッホの「ひまわり」の絵はどんな意義をもっていたかと自問してみればいい。平板な芸術観からすれば、あれは「社会的視点には関連しない」絵と言われるだろう。ひまわりの花以外、なにも描かれていないんだからね。だがしかし、ゴッホの「ひまわり」がヨーロッパで引き起こした意識変革の事実は、おそらくベトナム反戦プラカードの全部を集めたものより大きかったと思われる。一枚の絵によって広汎なひとびとの意識が変えられてしまうなんてことを、平板な頭脳の持ち主にはわかりっこない。ヴァン・ゴッホがもたらしたのは、見る力の新生だった。美とはなにかの新しい概念、そしてその帰結としての新しい意識内容、新しい意識フォルムを,ゴッホはもたらしたんだ。》

以上はミヒャエル・エンデの『ファンタジー/文化/政治』からの言葉だが、ずっと以前、対談集『オリーヴの森で語り合う』で出会ったときから強く印象に刻まれている。

投稿者 ruri : 21:51 | コメント (2) | トラックバック

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2006年06月19日

詩集『CARDS』より

國峰照子さんの詩集『CARDS』は粋な詩集だ。造本、装丁、内容がぴったり、息が合っている。

                ヒカゲトンボ
                                      

              青い風のまなざし
              青い椅子の聞き耳
              青い果物皿の欠けたふち


              時が自習する
              破線の行く手に
              かげろう
              青の末裔


              きのう 見たでしょ
              いいえ 見ませんでした

              
              二十世紀に絶滅した 
              青いシラブル
              帽子のひさしに止って
              すぐ落ちた


巧みな詩。詩が完璧な壷のように自己完結していて、誇り高い?詩だなあと思う。「私は私でいいのです」という感じ。詩でなければ書けない詩。余分なことを、あえていうと、口に出せない哀しみがあって…。「昨日見たでしょ?」ときかれても、「いいえ 見ませんよ…」とさりげなく答えてしまうダンディズム。

もう一つ引用させていただく。このユーモアがいい。これもプライドのあるうさぎ一匹。会ってみたい。


                 ナキウサギ


              氷河の爪痕
              標高ニ千米の岩場で
              春風に酔いをさます
              ナキウサギは
              優雅な耳の先を
              古里の床屋で
              さっぱりと
              切り落としてきた
              かわりもの
              秋口にはせっせと
              葉っぱを集め
              乾し草をつくり
              冬は
              やわらかい記憶のわら床で
              花の蜜のおいしい
              春を待つ
              季節は裏切らない
              ともだち
              耳が丸い理由など
              どうでもいい         

投稿者 ruri : 20:44 | コメント (1) | トラックバック

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2006年06月10日

五十センチの神様

              五十センチの神様      田中美千代                                                                    


              見て、
              ほら、あそこ


            Mさんが指さした大きな樹の幹には
            建物に反射した夕日が
            幅五十センチほどの
            光の帯をつくっていた


              照り返しの陽があたっている幹のところには
              神様がいるんですって


            夕暮れの中で
            そこだけほのかにオレンジ色に
            染まっていた


            ひと目を避けて
            光の屈折したところに
            ひっそり住んでいる五十センチの神様は
            永遠に会えないけれど
            本物のような気がする

                          
         


 田中美千代さんの詩集『風の外から押されて』の巻頭に置かれたこの詩には、なんとなくうなずいてしまうものがある。南向きの窓の多い部屋にいると、太陽が東から西へ移動するにつれて、光が室内の隅々を照らしながら西から東へと細やかに移動していくのに気がつく。どんな隅々の小さな部分も忘れずに満遍なく…という照らし方で、ああ、お日様の光って平等だなあ、なんて変な感心の仕方をする。
 光のあたる部分に、そのたびちいさな神様の姿がふと見える…というのは素朴な民話のような感触だが、なぜか説得力があっていい詩だと思った。私の小さな住まいにも、ちいさなカミサマがほのかに出没しておられるのかもしれない。


  
 

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2006年05月23日

近藤久也詩集「伝言」より

近藤久也さんの詩集「伝言」を読んで、いい詩をみつけたので紹介してしまおう。このコトバのレンズは何を発見させてくれるのか。

                 生垣のある家
 
               ああまた
               生垣のある家に住みたいな
               地面に覚えたての字を指で書いたり
               蟻たちが死んだミミズを担いでいくのをみていると
               生垣の向こう側を見知らぬひとたちが
               意味の解らないことばかり喋りながら
               通り過ぎていく

               ウバメガシの隙間から
               ちらちらみえる足首は
               知ることもない不思議な生き物
               飼っているわけではないんだけど
               ウバメガシのジャングルで
               昼寝していた青大将の
               ぞっとするほど
               つめたい目


(この世界の秘密の一角を、こっそり透明な小さなレンズでのぞいたときのわくわく感。これはまさに子どもの目。それとも青大将の「つめたい目」かな。)


                  

                馬が朝
                川べりにやって来て
                首をのばして水を飲んでいる
                黒い馬
                白い馬
                茶の馬
                灰色の馬
                斑の馬
                次から次と
                朝霧の中
                何頭も何頭も
                誰かの使いのように
                みえないところから
                いそいそとおどり出てきて
                並んで水を飲んでいる
                後から来る馬が入れるくらい
                隙間をあけてやり
                一列に並んで飲んでいる
                川面に視えなくなるくらい遠くまで
                馬が映っている
                後から後から馬が
                やって来る
                ひとはいない


(これも映像的だが、ファンタジックでもあり、コメントのないのがいいなと思う。私は今朝、すごく大きな樹のてっぺんあたりに,ゾウが何頭か見え隠れする夢を見たけれど、なぜかそのことを思い出す。この詩集にはほかにもおもしろい詩がいっぱいある。)        

                    

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2006年05月07日

アフターダークより

おもしろいコトバや、印象に残るコトバをときどき載せていこうと思う。
そのままにして忘れてしまうのはもったいないし、「言葉というレンズ」で違った風景を見てみたいので。

今日は村上春樹の「アフターダーク」のなかの文章から。
ラブホテル「アルファヴィル」で、ヒロインのマリと従業員のコオロギが話し合っている場面から。
以下はコオロギの言葉です。

「それで思うんやけどね、人間いうのは、記憶を燃料にして生きていくものなんやないのかな。その記憶が現実的に大事なものかどうかなんて、生命の維持にとってはべつにどうでもええことみたい。ただの燃料やねん。新聞の広告ちらしやろうが、哲学書やろうが、エッチなグラビアやろうが、一万円札の束やろうが、火にくべるときはみんなただの紙切れでしょ。火の方は「おお、これはカントや」とか「これは読売新聞の夕刊か」とか「ええおっぱいしとるな」とか考えながら燃えてるわけやないよね。火にしてみたら、どれもただの紙切れに過ぎへん。それとおんなじや。大事な記憶も、それほど大事やない記憶も、ぜんぜん役に立たんような記憶も、みんな分け隔てなくただの燃料」

「それでね、もしそういう燃料が私になかったとしたら、もし記憶の引き出しみたいなものが自分の中になかったとしたら、私はとうの昔にぽきんと二つに折れてたと思う。どっかしみったれたところで、膝を抱えてのたれ死にしていたと思う。大事なことやらしょうもないことやら、いろんな記憶を時に応じてぼちぼち引き出していけるから、こんな悪夢みたいな生活を続けていても、それなりに生き続けていけるんよ。もうあかん、もうこれ以上やれんと思っても、なんとかそこを乗り越えていけるんよ。」

「そやから、マリちゃんもがんばって頭をひねって、いろんなことを思い出しなさい。……それがきっと大事な燃料になるから…以下略」

                             д        

(記憶というものに、生命力というものに、こんな角度から光を与えられて、なんとなく納得する。ニヒリズムというわけでもなく。私はときどきカラスの鳴き声をききながら、人間のやってることの無意味さをふと示唆されたりする。それとどこか共通するかもしれない。)

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