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2006年04月19日

「言葉、広い夜」キャロル・アン・ダフィ  イギリスの新しい星

言葉、広い夜     キャロル・アン・ダフィ   小泉博一訳


この広い夜と私たちを隔てているこの距離の
向こう側のどこかで
私はいまあなたのことを想っています
いまこの部屋は月からゆっくり逸れています


これは愉しめることです そうでなければ
そんなことはやめにして それは悲しいことです
と言いましょうか? そのような緊張のひとつのなかで
あなたに聞こえない叶わぬ希望の歌を唄う私


ラ ララ ラ 分かりますか?
あなたのもとに辿り着くために 私は眼を閉じて
どうしても超さなければならぬいくつかの暗い丘を想像します
なぜなら 私はあなたに恋しているからなのです


そしてこれはそのようなもの
あるいは言葉にすればそのようなものだからなのです


Words,Wide Night        Carol  Ann Duffy


Somewhore on the other side of this wide  night

and the distance between us,I am thinking  of you

the room is turning slowly away from the moon.


This is pleasurable. Or shall I cross that out  and say

it is sad? In one of the tenses I singing

an impossible song of desire that you cannot hear.


La Lala la. I close my eyes and imagine.

the dark hills I would have to cross

to reach you. For am in love with you 
and this

is what it is like or what it is like in words.

 


<愛>があるから<ことば>があるのか?
 <ことば>があるから<愛>があるのか?
それとも、<愛=ことば>なのか?
などと誰だっていちどは考えてみたことがあるのでしよう。

そして、詩を書いたり、読んだりすることはそうしたことと、とても深い関わりあいがあるのではないでしょうか?

 でも、あまり、そうしたことばかりを考えているとややもすると倫理的になりすぎたり、思想的になりすぎたりして、あげくのはてには、詩が見えなくなってしまうこともあります。

 この詩がとても魅力てきなのは、そういう状態にいながら、あたかも広い海を目の前にしているかのように、<愛と詩>についてかたっているからです。

 それを可能にしているのは、<広い夜>ということばによって生み出される新しい愛のあり方だとおもいます。

 それは、愛の現実や愛の心をしっかりとみつめていながら、しかも、それを所有せすせず自由にしていると思われるからです。

投稿者 yuris : 19:22 | コメント (3) | トラックバック

2006年04月06日

「雨」蟹澤奈穂   李禹煥の繊細さ  

雨   蟹澤奈穂   

駅を出ると 空の向こうに
観覧車が見える
あれはいつも止まっているようだけど
とてもゆっくり 動いていることに気づく
りょうほうの足に
自分の重さを感じながら
坂道を下りて行く

すると
雨が降ってくる

雨か それもいいね
ふいにメロディが口をついたので
そっと歌ってみた
ひくい声で つぶやくように
そしてこれを聴いている人が
たとえばどこかにいるのだと考えてみる

雨がぱたぱたと音をたてはじめる
服にしずくが染みを作る
虫の匂いはいつも懐かしい
さすがに少しいそぎ足で
橋を渡ろう
帰ったらまずコーヒーをいれて
それからでいいのかな と
どこかにいるその人に
心の中で許しを乞う

 

 この詩を読んだとき、どうしてかLEEUFANのことを思い出してしまった。こんなに繊細な詩をかいて人に味わってもらいたいと思うのは間違っている。などと本人に文句をいったりした。傷ついたかもしれない。

 でも、いい詩なのでおぼえていて、あとから心の中で許しを乞うたりした。
 まるでこの詩のように、雨粒のようにいちいち心が動き出してびっくりした。

 LEEUFANの絵には絵筆のとおりに色彩が字を書くようにまっすぐに一度きりにのびていて、次の線がまた引かれる、また次の一本、そうするとそれらの線に 色彩のグラディションがあって美しかった。考えてみればこの詩のひとつひとつの言葉遣いが非常に注意深くて、
行為、想い、雨の音などそのもののようにうごいている。行きつもどりつもしていると、急に歌ってたりもしてことばが自分の歌を聴いているひとがどこかにいるのだと考えたりして、他人がふっと現れて消える。

 まして、どこかにいるその人に心の中で許しを乞うたりされると読者もまいってしまうのである。いいけれど、何が何だかわからないというのは、困るかもしれない。うつくしいけれど。絵とは違うのだから。   などとすこし辛口に言ってみた。

投稿者 yuris : 02:47 | コメント (0) | トラックバック

2006年04月03日

「駅」岩田まり  わかりやすいということ

駅     岩田まり


京浜工業地帯
新芝浦駅にいったことあるかい
朝 小さな電車がやってきて
ぎっしり詰めた男たちを
機械の部品のように吐き出すんだ
プラットホームを過ぎるとすでに工場の入口だから
窓にむかつてごちゃごちゃと欠伸をしていた男たちが
口を閉じて儀式のように出て行く
純粋に働く人だからね
昼にはからっぽの電車がゆったりと
海を埋め立てた運河を行ったり来たりして
魔法の乗り物みたい
夕方には
キオスクの
あまり若くない女の人ふたりの腕が急に忙しくなって
ぬうっと顔を出す
今日の仕事を終えたのっぺらぼうの男たちの手に
次からつぎへと缶ビールを手渡す
白い腕と太い腕が宙を切って
缶が開けられ
缶が捨てられ
ダンボール箱にあふれていくんだ
いくつもね
すると
夜の電車がやってきて
水たまりのようにできている赤ら顔の男たちの輪
みんな
一気にかっさらっていく
彼らの小さな家にね
カール・サンドバーグ『シカゴ詩集』のページみたいな駅なんだ

 

 

 私がこの詩は面白いとか、いい詩だとか感じるときの一つの重要な基準として、わかりやすいということがあります。この詩はとてもわかりやすいと思います。書かれている内容は奥行き、広がりもあるのですが、それにもかかわらず、すこしも不明瞭な感じを受けません。
 
 それはなぜなのかと考えてみますと、一つはこの詩のリズムにあると思います。ひとの話し方や声には
それぞれ独自のリズムや音色があって、時には話すことばの意味よりも、さきざまなことを相手に伝えます。

 嬉しいとき、淋しいとき、そして駅を見ているとき、その話すリズムや声の音色は恐らくそのときだけのものがあるのでしょう。それがこの詩の魅力であると思います。

 それともう一つ、(これはリズムと深い関係があると思いますが)この詩が平明で的確であるということです。そして、最後にもしかしたら、これがいちばん大事なことかも知れませんが、作者が街や駅や、そこに生きる人間に対して熱い関心を抱いているということです。そのためにこの詩全体が優しく哀しく、そしてユーモアが漂っているということだと思います。

投稿者 yuris : 01:27 | コメント (0) | トラックバック