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2006年08月12日
「かれらの内には土があった」パウル・ツェラーン 強制
かれらの内には土があった パウル・ツェラーン 飯吉光夫訳 ドイツ
かれらの内には土があった、そして
かれらは掘った。
かれら掘った、そして
かれらの昼は夜はすぎていった。しかもかれらは神を讃えることがなかった、
これらすべてを望んだという神を、
これらすべてを知るという神を。
かれらは掘った。そしてもはや何の声もきかなかった——
かれらは賢明にならなかった、何の歌も作りださなかった、
何のことばも考えださなかった、
かれらは掘った。
静けさが来た、嵐がきた、
海がこぞって押し寄せて来た。
ぼくが掘る、きみが掘る、そして土のなかの虫が掘る、
するとかなたで歌っているものがいうのだ——かれらは掘っていると。
ああだれか、だれひとりでも、だれでもないもの、きみよ——
どうなったのか、どうにもなりようがなかったのに、
ああきみが掘る、ぼくが掘る、ぼくは
きみのほうにむけてぼくみずからを掘る、
するとぼくたちの指に、指輪が覚めている。
これほどまでに自分の内部を掘ることが本当にあるだろうか? 掘らなければならない状況があるのだろうか? 恐らく、これは自分を見つめるとか、あるいは孤独とかいうものではない、全然別のことのようだと思います。
むしろ、掘ることは全く意味がない、それでも堀りつづけなければならない、恐らく、こうした状態を続けていると生きることも全く意味がないということになるに違いないと思います。それを意味づけようとして、
<かれやぼくの内側>ということばで支えてみますが、そこにあるのは、<土>でしかなかった。
掘るから土があるのか、土があるから掘るのか、殆どわからない。これほど、掘ることが無意味であったということだと思います。しかし、それにもかかわらず、<静けさが来た、嵐が来た……………かなたで歌っているものが——かれらは掘っていると。>
人間の犯しがたい意志が感じられます。
そして、最後の連は<きみ>や読者に向かって呼びかけているのです。たとえどのような無意味な
生を強制させられているとしても。
2006年08月11日
「ぼくは 聞いた」パウル・ツェラーン 喜び そして…
ぼくは聞いた パウル・ツェラーン
ぼくは聞いた、水の中には
ひとつの石とひとつの輪があると、
水の上には言葉があって、
この言葉が石のまわりに輪をえがかせていると。
ぼくは見た、ぼくのポプラがこの水の中におりていくのを、
ぼくは見た、ポプラの腕が深みへとさしのばされるのを、
ぼくは見た、ポプラの根が空へむけて夜をねだっているのを。
ぼくはぼくのポプラのあとを追っていきはしなかった。
ぼくは地上から、きみの眼のかたちと
きみの眼の気高さをもつパンのうちらをひろっただけだ、
ぼくはきみの頸から箴言の鎖をはずして
パンのうちらのちらばったテーブルのまわりを縁どった。
それからというもの、ぼくはポプラを見ない。
すぐれた詩は一度読んだら、決してわすれられないものです。しかも思い起こす度に、まるで初めてこの詩に出会ったかのような新しい不思議な感じがします。この詩もその中のひとつです。特に一連目に
私は強く感じます。この一連目は詩でしか味わうことのできない喜びを私に与えてくれます。
<水の上に言葉があって>この言葉が水の中の石のまわり輪をえがかせている。これはなんでしょう。
これは、私にとってあたかもひとつの奇跡をおしえられたようです。しかも、私は水を見るとき、必ずこの
奇跡がわたしの内によみがえってくると信じます。
つまり、これが詩だけがもたらす喜びです。
恐らく、この連は詩人にとって、何ごとにもかえがたい宝であったに違いありません。
こういってもいいかも知れません。神の贈り物であったと。
たとえ、この詩を書いたとき、神がいかに詩人からとおくへ逃れてしまったとしても。
そして、<ぼくは見た、ぼくのポプラ…>のこの<ぼくのポプラ>は恐らく詩人自身と考えていいのではないでしょうか?
ただ、逆立ちしているのは、とても怖いような悲しい感じがします。
<きみ>はなつかしい人でもあるし、神であるかも知れない、母親なのか、恋人なのか、大切なひとなのでしょう。その人のほんのわずかなおもかげが日常の生活の中でちらとかすめたのでしょう。けれども
その奇跡のような喜びのなかに逆立ちまで追いかけていきはしなかった。
最終行は自分の奇跡とか無垢なものにたいするあきらめも感じられます。
2006年08月02日
「人がいる」岡島弘子 人がいるという秘密
人がいる 岡島弘子
ほんのひと突きで崩れてしまいそうな
「岡島」の筆跡
自筆署名するたびに おもわくから外れて
右側へ傾いてしまう
なだれ落ちてしまいそうな
一画一画を 息でおさえて
空中分解寸前の 字画の肩を
目で押しもどしてみる
数学の前田先生は
黒板いっぱいに
「因数分解」と書いた
チョークの跡もかぼそくて
ひと吹きで 飛び散ってしまいそうな
右肩下がりの あやうい文字
結核を病んで
この世の黒板を早々と拭き去って 逝かれた
台所の流し台のすみから
ゴキブリが出たと家人がさわいでいる
一匹のために「台」の字がぐらついて
家庭崩壊する
はずみで ころがりそうな「部屋」「命」「生活」の文字を
四次元の裏側で
けんめいに ささえている 人がいる
「文字は人を表す」この詩を何度かよんでいるうちに、このことばが頭に浮かんで
きました。この詩がこのことばとどんなふうに関わっているのか(本当はまったく関係がないのかもしれませんが)はっきりとはわかりませんが、私はいま、人と文字やことばとの秘密、そして「人がいる」という秘密の前に立たされて、呆然としている感じです。 それは、いままであたりまえのこと、分かり切っていることと思ってことが、突然不確かな秘密に変わってしまったような不安な感じです。 この不安な感じにあるリアリティがあるのは、この詩の一連目「・・・・・なだれ落ちてしまいそうな 一画一画を 息でおさえて 空中分解寸前の 字画の肩を 目で押しもどしてみる」にあるような気がします。
ここでは文字と人が逆転してしまい、「空中分解寸前」なのは、「岡島」と自筆署名する詩人自身かもしれないし、さらにもしかしたら「一画一画を 息でおさえて 」「字画の肩を 目で押しもどしてみる」と息をこらすように読んでいる私自身かもしれません。
それにしても、この詩に登場する文字たちは危険にさらされてなんとあやうい感じがするのでしょう。数学の前田先生が(おそらく遠い記憶の中で)書いた「因数分解」、
一匹のゴキブリの出現でぐらつく「台」、ちょっとしたはずみで転倒しそうな「部屋」「命」「生活」。
こうしたあやうさをとおしてしか、わたしたちは、文字をそしてことばを持つことができないのかもしれません。
「文字は人を表す」現代のわたしたちにはそういいきることがとても難しくなってきたようです。それがどういうことなのか、この詩は問いかけているような気がします。
2006年08月01日
「ちいさな川は…」新川和江 まねしたくなる詩
「ちいさな川は…」 新川和江
ちいさな川は
一日じゅう うたっている
鳥が はすかいに つい! ととべば 鳥のうたを
白い雲がかげをおとせば 雲のうたを
風が川面を吹いてわたれば 風のうたを
女の子が花を浮かべれば 花のうたを
夜がくれば 空いっぱいの星たちのうたを
他のひとの作品を読んでいて、「こんな詩を書きたいなあ、でも、書けるかな? 書けないかも知れない。
でも、やっぱり、いつかかけるといいなあ」と思う詩に出会うことがあります。この詩がその一つです。
こういう詩は、なぜ好きだとか、どこがすばらしいとか、実はよくわからないのです。
でも、何かとても鮮やかな体験みたいなものがあって、それをあれこれいっても仕方がないとさえ思って
しまいます。一陣のさわやかな風が体を通りぬけていくような感じで、そのあとには何ものこらないのですが、通り抜けたという感じはとてもはっきりしています。
私が詩を書き始めたのは、これと殆ど同じような体験からだったのではないかと思います。こんな詩が書きたいな、でも書けるかなと思って、詩を書き始めたような気がするのです。
ただ本当に゛こんな詩″が書けたかどうかわかりません。
また、ある時は殆ど、まねのような詩を書いたこともありますが、それでも、私はとてもどきどきして、もしかしたら私にも詩が書けるかも知れないと思ったりしました。
この詩人には他にも「水」をモチーフとした作品が幾つもあります。それらの作品を読むと、私はいつも、
生と死、現実と幻の世界を旅しているような、能を味わっているような不思議な気持ちになるのです。
そして、実はこの詩にも同じようなものをかんじます。 この詩は子どもにもよくわかることばで書かれて
いますし、実際そのとおりだと思いますが、私にはなんとなく、生と死どころか、無限のあの世への旅が感じられるのです。
それが、他のどの詩よりも自然に書かれていて、この詩は私にとって、別格に思えるのです。
どこがすばらしいかわからないといいましたけれど、それでも、今回は
<鳥が はすかいに
つい! ととべば> と
<夜がくれば 空いっばいの星たちのうたを>の部分が特に好きです。
次の時は、どこが好きになるかわかりませんが。