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2007年09月29日
「卵を埋める」高良留美子 メッセージ
卵を埋める 高良留美子
卵を雪のなかに埋めている。
いまは二つの卵だけが上着のポケットに残っている。アヒルの卵より大きめの
丸みが、わたしの右手に触れている。左手にはさらに大きい、ぶよぶよの殻の
感触がある。指をつっこめばたちまち壊れてしまうだろう。
雪は神社の拝殿の階(きざはし)の横に水平に降り積もっている。わたしは目の前の垂直な断面に、すでに多くの卵を埋め終わった。外からは見えないが、白い卵が点々と雪の壁に埋まっているはずだ。
神社の重々しい屋根をかすめて、黒い鳥たちが飛び交っている。羽音をたてながら、しきりに鳴きかわしている。カラスだろうか。でも雪のなかの卵は保護色
だから、鳥たちの餌食になることはないだろう。
冷たい雪のなかで、卵は孵るだろうか。゛埋める"とは゛生める"なのだろうか。
鳥たちが卵の親だとわたしは感じている。
背後に、なにものかの気配がある。隠れ住むものをひっそりと包み込むような、厳かで穏やかな雰囲気がかもしだされている。地を踏まえ、天を指して立つ
御柱(おんばしら)だ。ここは生と死の再生の地、諏訪なのだ。
子どもたちの声が聞こえる。近隣の小学生が遊んでいるのだ。女の子の声もする。かれらがかって卵から孵り、これからも孵るとわたしは感じている。
この詩は私のなかで忘れることのできない詩の一つとなるでしょう。
なぜなら、最近、私が読んでいる詩は技術的には大変優れた詩が多いけれども、率直な詩人の考え、メッセージが感じられないからです。私はこの詩のなかにあるメッセージを感じました。
しかも、それは未来に向けられているようであり、それは微かでありますが、
しかし、迷いのない感じで私に届いてくるからです。
すべては「卵を埋める」という行為にかかわっていると思います。私にはこの行為が非常に創造的な、そして冒険的な、しかもそこには一筋の意志がくっきりと感じられます。
卵は雪のなかに埋められても必ず新しい命として甦るだろうと思います。
ところで、雪とは現代のことかも知れない。
それでは諏訪神社とはなんなのか?
私は日本の風土(自然と人間の歴史)全体のような気がしますが、正確には
わかりません。
はじめに未来に対するひそかなメッセージといったのはこの諏訪神社にも深くかかわっています。
私の諏訪神社はなんなのか、とても気になります。
2007年09月24日
「空白公園」野木京子(訂正)こんなふうに
「空白公園」−−パーク・エンプティ 野木京子
風が薄く巻いていた
空白の公園の中を 音もなく走った
ペンチには老人が座っていた
老人には名前がある 多分
ある日 名前を問うてみたら
バーク・エンプティと答えたろう
(なくならなくてもよいはずだったものたちが
今でもひぃひぃ聲をあげる)
ミスタ・エンブティは日がな一日座っていた
彼は動くことが嫌い
動くとぴちゃぴちゃ音がする
水面が恐ろしい
水の表はただの薄いフィルムなのに
無限大に近い闇がその下に広がって 遠くまで流れていく
「誰にだって、悲しみがあるだろう?
それが水の音をたてている」
ミスタ・エンプティは声を出して言っただろうか
水面がぴちゃぴちゃ波立つたびに 彼から声が消え
言葉も消え
一日が砂の粒子になる
とりもどすことができないもの
水の下に沈んでいったもの
喪われるために生まれてきたもの
それらの影は 今でも時折 地表に落ちて
斜めに彼の頬を 黒く刺すのだろうか
だけどミスタ・エンプティ
失われたものたちが ぐるりを囲んで
お行儀良く 膝をかかえて 並んでいる
思い出したくないのに決して忘れることができない
そんなできごとが起こった日や
今でも苦いものが喉元をこみあげてくる日
ミスタ・エンプティ
そういう一日というのは
幾度も思い返すためにある
ミスタ・エンプテティ
悲しみをかかえてつらいというなら
いっそそれらを愛してしまえばいいのに
波立つ薄い葉のどれかに 潜りこんだり出てきたり
波を立たせたらいい
そうしたら 喪われたものたちが一緒にいることの暖かみが
乾いた肌に揺れるだろう
それが愛するということで
そうしたら暖かくなる
誰もいない公園でも
空白公園ーーパーク・エンブティ
えーと、これがこの詩のタイトルですね。
空白公園ーーパーク・エンプティ、なんとなくわかる。
次に<風が薄く巻いていた>と書いてありますが、でも、<風が薄く巻いていた>というのは、どういうことかしら、とちらりと考えたりします。
はっきりわからないまま、なんとなく不確かな感じを持ちながら、それでも次の
<空白の公園の中を 音もなく走った>と読んでいきます。
この詩に限らず、どの詩を読むときも、はっきりとした確かなイメージなど実はないのだろうけれど、この詩の場合はことさら不確かな感じがします。
でも、先へ読んでいきたくなる(多分「空白公園」が気になっているのだろう)。
老人の名前はパーク・エンプティというのだから、老人と空白公園は同じことなのか、と考え、また立ち止まる。
この作品はどうも立ち止まりながらしか、読めない、味わえない詩のような感じがする。そう考えて読んでいく。そうすると、底なしの砂地の中を歩いて行くようでなんとも気味が悪い。
それなのに、誰かがとても冷静にその様子を書いているようで、これには全く
びっくりしてしまう。
それでもやはり、私はミスタ・エンプティとどこかしら似ている気がする。
そして、最後に
<ミスタ・エンプティ 悲しみをかかえてつらいというのなら いっそそれらを愛してしまえばいいのに>
といわれると「まいった」とも思うし、大爆笑したくなる。
2007年09月21日
「SHADOWS」1 岡野絵里子 影の始まり
SHADOWS1 岡野絵里子
駅ごとに明滅する白い光 呼ぶ声がこだまし 人工の昼と夜がめまぐるしく交代する地下 無限に連なる時間の目盛りを列車は声高に数えて止まない 「銀鼠(ぎんねず)」 「夢解(ゆめとき)」 「虚泣林(そらなきばやし)」 白金製の表示板が見えれば もう国境を越えたのだ 私たちは過ぎ去ったものたちの闇の中に入って行く
「あの‥この線路はどこ行きでしたか?」振り向いたビジネススーツの男も
夜をまとって透けるようだった 「どこ? 有楽町線じゃありませんか どこまでも行きますよ 私は永田町で下りますが」 だが彼が下り立ったホームには「虚泣林」 と読める表示が掲げられているのだ 見回すと 車内は昏く茫茫と 乗客たちの輪郭もほどけ始めているのだった
車両の一番遠い端 シルバーシートに小さい姿が腰かけていた 近寄るとそれは内側から灯るように光っている漆黒の影の子どもで 幼い手を目もとにあて 泣いている 宿主を持たない影が 人のようにふるまうことに驚きながら 私は子どもの顔を覗き込んだ なつかしい顔 誰が知らなくても 私だけは忘れない 最も親しい痛み その瞬間 ああ私は死んだのだと悟った
SHADOWS は千百年代に書かれた書物『興南寺聞書』「江談打聞書」
に誘発されて書かれた長篇詩です。
それで、今回ここで取り上げるのはその一部です。
しかし、独立した詩として読んでも面白いと思います。
歴史や時代の動きを影の方から、影のサイドから描くのはよくあることです。
しかし、この作品は必ずしもそうでないような気がします。では、どうなのかというと、どこまでが影か、どこまでが実在かはっきりしないからです。
まず、そのことは第一連目で明確にされます。つまり、「銀鼠」 「夢解」 「虚
泣林」は私たちが殆ど触れたことのないような古層の言葉であり、ある種の虚構であると思います。この虚構を入口として、この詩の世界が始まっているからです。
影と実在の世界がはっきりしないと書きましたが、ほんとうは現代の毎日の世界こそが、そうなのかも知れません。
毎日のように子どもが子どもを傷つけ、親が子どもを殺し、介護に疲れた子どもが親を殺している。
こうしたことは実在の世界なのか、影の世界なのか、私にはわからないのです。実在の世界とするならば、そうした出来事の存在する理由が全くわからないのです。だから影としか感じられないのです。
この詩を読んでこうしたことがよくわかります。
歴史や人生に光や影があるとよくいわれることですが、それが決して喩え話
ではないということがよくわかります。
それにしても、最後の連は、ある深い恐怖をもって読みました。
2007年09月15日
「春の岬」斉藤恵子 名作映画
春の岬 斉藤恵子
岬の上から海を見る
淡いグレイにかすみ
ひくい島が
いくつも浮かんでいる
さっき
白壁の酒蔵の奥にある
江戸の時代の
はだか雛を見た
巻き貝のくちに
しろいはだかの男と女が
ならんで座り
さびしく
わらっていた
岬の果ての逢瀬なのか
身よりのない者どうし
紙細工の
うすい手をにぎり
女は好きでもないのに
ゆるしたにちがいない
外に出ると
潮の匂いのする風が流れていた
何百年たっても同じつめたさだ
耳たぶのピアスがひやりとする
つめたさに
ふるえるのではない
生きていることの
恐ろしさにふるえるのだ
丘の上の園芸館から
老いた女の爪弾く大正琴が
アンプで増幅され
岬のはしにも響く
カモメが争いながら
光る魚をくわえ
海はふるえるように
さざ波をたたせている
海のように
生きれば
なにも怖くはないだろうか
突然わたしは
わけもなく
泣きたくなった
ばくれん女のように
こぶしで泪をぬぐい
詩のなかに時々、映画のワンシーンを思わせるような詩があります。そうした
なかでもこの作品は特にそういう感じが強い詩です。
情景あるいはイメージだけではなく、登場人物の気持ち、心理が大変鮮やかに伝わってきます。
それはまるで名作映画を観ているようです。
岬の上から海を見ている第一連目、二連目はそこから時が逆戻りして、江戸時代のはだか雛との出会い、そして三、四、五連目はそのはだか雛に対する登場人物の思いが大変くっきりと描かれています。
それから、六、七連目はこの詩のひとつの頂点ではないかと思いますが、大変平明なことばでそれが表現されているのが、私にとってはひとつの驚きでさえあります。
この平明さであるということはこの詩人の特質であると思います。
平明でわかりやすい、しかし、この詩は私をとんでもないところに連れて行ってしまうのです。
それが最後の
海のように
生きれば
なにも怖くないのだろうか
突然わたしは
わけもわく
泣きたくなった
ばくれん女のように
こぶしで泪をぬぐい
これが本当の頂点であると思います。
2007年09月11日
「緯度0度」中堂けいこ 詩の力
緯度0度 中堂けいこ
赤い道を歩いてみたいと女がいう
糸杉がまばらに生える
ベンガル色の小径なら知っている
この机からは遠くはなれて
円環の謎がくるくるまわる
春と秋の分かれ目では
深い井戸も水が涸れ
ガーデンバーデイが開かれるほど
そこでは決まってサインペンが配られる
なんて安っぽい酸化第二鉄と少量のメディウム
わたしたちは互いの裸体に赤い線を描きなぐる
血の匂いがすると女がいう
この藍靛(インジゴ)の球形
止めどない上昇気流に乗り
モンスーンのなかに
踏み出せば足の甲に光のスジとして
あらわれるものらしい
私はこの作品を読んで、とてもびっくりし、感動しました。
なぜなら、私は今までこのような詩を読んだことがないからです。それにもかかわらず、この作品は私の鼓動とどこか共鳴するところがあります。
今まで読んだことがないというのは、まず、この詩に書かれている意味内容が
殆どよくわからないからです。
でも私は繰り返し、この詩を読んでみたくなりました。そして何回も読みました。その度に私のなかで、どっきん、どっきんと共鳴するものがあり、私自身びっくりしました。
なぜ、こうなったかというと、恐らく、それはこの詩の暗喩(メタフォー)の力だと
思います。
たとえば、それは初め、
<赤い道を歩いてみたいと女がいう>
にすでに始まっています。このことばは誰が言ったのか、どういう意味で言ったのか、実は殆どわかりません。しかし、この詩を読んでいくと、このことばが大変
リアルに感じられるようになります。
つまり、この一行は意味ではなく、暗喩(メタフォー)そのものなのだと思います。メタフォーというのは、どこかしら宙ぶらりんの感じがして、そこからどちらの方向に飛んでいってもいいような感じがします。但し、跳躍することがその本質です。
ポール・ヴァレリーが「散文は歩行であり、詩は舞踏である。」といいましたが、
この暗喩の宙ぶらりんな感じ、跳躍の感じが舞踏にあたるのではないかと思います。
この作品は決して意味もイメージも私にははっきりとわかりませんが、それでも私にこれほど驚きと感動を与えてくれた作品を読んだことがありません。
また、この詩をダリやムンクの絵の世界のようにも感じました。
ある人はこの詩を現代の人間社会のメタフォーのように感じるかも知れません。
私はこの詩を女性の性の世界のメタフォーのように感じました。