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2008年09月23日
「漕ぐひと」荒川みやこ 毎日の生活に穴があいた
漕ぐひと 荒川みやこ
明け方 車をだしてもらう
助手席にすわっていると前のほうに
ボートを漕ぐひとが見える
もやが波に見えて
波の中に大きな岩がでていて
そこから 漕ぐひとが一人沖に向かう
水平線がうっすら歪曲してきた
となりで 連れがハンドルを握りながら
スピードをすこしずつ上げる
魚のように息を吸って前を見ている
漕ぐ人は オールをぴっちりそろえ
影になり
波をとらえ
救命袋がついたチョッキを着ている
ぷくぷく膨らんでいるのがよくわかる
こっちは
シートベルトのせいで胸がペチャンコだ
バンパーに 魚が平たく重なって
張りついてきた
海までは遠いが
高速を降りるまで漕ぐひとに見とれている
詩は日常世界からの脱出とか、飛躍とかいわれますが、この作品はかなりその典型のような気がします。
とにかく、とにかく私は<バンパーに魚が平たく重なって 張りついてきた>という言葉を読んだとき、ほんとうにびっくりしてしまいました。
そして、私は日常世界から見事に追放されました。
こんなことって、あるのかと思いましたが、しかし、この言葉を読んでしまったからには、そして、妙な開放感を味わってしまったからには、なんと言っても受け入れざるを得ないという感じです。
この詩はごくごく普通の日常的な風景が書かれています。しかし、よく注意してみると「漕ぐひと」が妙にくわしく描かれています。漕ぐひとがたいして面白くもないのに、妙に。
それと、隣りの運転しているひとが<魚のように息している>というのも気になります。
もしかしたら、こうした日常世界というのはすべてまやかしかも知れない。
そして、<バンパーに張りついた魚>だけが本当のことなのかも知れないと思えてきます。これはいわば寓話の世界なのかも知れません。
2008年09月21日
「氷が説けるとき」ロッテ・クラマー 木村淳子訳 解ける言葉
氷が説けるとき ロッテ・クラマー 木村淳子訳
幾日も
雪と氷が厚くおもく
草の上をおおつている
銀色のおおいは川や湖のうえにも
油のように頑固に
居座っている
草の葉も小枝もそれぞれに
金属のような氷のよろいを着ている
光は歳月を真ふたつに切る
小さな私は父のかたわら
その手のとどく
すぐそばにいる
私たちの足は注意深く氷の上を歩む
ラインの川は いま
終わりのない 白いあたらしい道となり
頼りがいのある河は消えて死んでしまった
それでも 生きている
その広いかたい胸の上に
遊園地の雑踏ができるとき
紙面のかわりに
かたく凍った河のうえで 踊りながら
人びとがその河の流れ行く先も
起源も否定するとき
けれど 詩だけは 流れつづけようとするのだ
凍てついた言葉が解けるとき
ひとつの詩を読んでいて、その意味内容がはっきりとはわからない場合があります。
ああなのかな、こうなのかなと思いながら、何度か読んでみますが、それでもはっきりしません。それにもかかわらず、私のなかにあたらしい出会いというか、経験のようなものがかんじられて、そうしている
うちに、私はその詩を受け入れようという気持ちになります。
私にとって詩との出会いは、ひとりの人との出会いと同じようなもので、その人の考えや行動について、よくわからなくても、出会ったとたんに、魅了されてしまうこともよくあるからです。
その人の目の輝きや、落ち着いた声などが理由で。
ところで、この詩が私をひきつけたのは最後の二行です。
<けれど 詩だけは 流れつづけようとするのだ 凍てついた言葉が解けるとき>
この言葉は、私に何一つ曖昧なところなく、伝わってきました。
そして、これをもとにこの詩を読むと、すこしぐらい内容がわからなくても大傑作という感じがします。
良い詩はこうした不思議な力を持っているのではないかと思います。
2008年09月20日
「飛行鍋」 小池昌代 詩と鍋が空を飛んだ
飛行鍋 小池昌代
風の吹く なだらかな丘に 立ち
紙飛行機を飛ばします
詩を書いた紙はこうしてすべて。
読まれて困るということはありませんが
読むひとは そもそもおりません
子供のために折ってやって
今は自分が夢中になりました
風は必要です 強風より微風が
天気は 晴れより曇り空が好みです
尖った先 突入する
さいきん鍋を焦がしました
(もういくつもこがしているのですが)
鍋のなかに だしの素とみずをいれ
ガスを細火にしていたんです
わたし という人間は
すべて廊下の角をまがると
曲がる前のことを忘れるサル
広い家ではありません
けれどあのとき 角をまがって
忘れました ちいさい火のことを
かつをぶしのパックは焦げて鍋底にはりつき
煙があがり 発火寸前
ミイラを焼くと きっとアンナ匂いがするでしょう
白血球が二万を超え 体のなかで炎症がおきている
せきがとまらない せきがとまらない せきをするたび
失禁する なにかが飛び出る
自分がちらかる ちらばっていく
生理のくる間も飛ぶようになりました
いきなりきたり なくなったり
咳がとまらない頭が痛い時々泣きます時々怒ります
フィスラーの鍋はとてもよくできた鍋です
どんなに焦がしても 鍋自体が変形することはない
重い、強い、えらい、存在だ、この鍋は、
焦げた部分をたんねんにはがす
はがせば下から 銀色に輝く地が現れる
現れたとき 号泣したくなる
あれはわたし のような気がするものだから
毎日すこしずつ
はがす はがす はがす はがす
それをつみかさねて ついに おおきくなにかがかわる
焦げた鍋から輝く鍋が。
まる焦げになったわたしからわたしが。
はがす はがす はがす はがす
ごりごりと 夢中で 焦げををはがす
成田からフランスへ向かう旅客機で
アフリカ人の女性と隣りあわせたことがあります
白いシャツブラウスの 襟は帆のように立って
首もとには ダイヤモンドが光っていました
ダイヤとは 黒い肌にこそ つけるべきものであることを
そのとき心底理解しました
彼女は孤独な狂人で わたしのものを何でもほしがった
それ お借りできますか?
これ? もちろん どうぞ
そのときわたしが読んでいたのは
日本語訳のフランス現代詩読本(つまらなかった、です)
彼女はパラパラッと頁を繰り
すぐに返してくれました 懐かしい人
たった一度しか会わなくても 死ぬまで忘れないでしょう
そう、 飛行機ってね 何種類もの折り方があり
しかも案外 複雑な折り方をするんですよ
胴体部分は 重ね折りのため 分厚くなって
突端が コンコルドのように 下を向いたものも
ああコンコルド
かつて大きな墜落事故を起こし、 今は運転を停止しています
あの折れ曲がった機種の 微妙な角度は
まるで始終 自分の内側を見つめているようで
どこかいたたまれなくなったものです
空がたわみ わなわなとふるえ
ある日 産み落とされた 尖った白いもの
産道を傷つけ 自ら傷つき
風のなかで 紙は命を授けられた
わたしは いつも その瞬間がみたい
何かが 乗りうつる その瞬間を
人間の無力な両腕が
空から気根のようにたれさがっています
折ると祈る よく似ています
つーっと 飛んで
いつも最後
最後のところで
あっ、伸びた
ほんのすこしだけ 思ったより遠くへ着地するでしょう
飛行距離の伸び それが わたしへの
折り返される よろこびである
飛ぶ夢を いまもわたしはよく見ます
飛ぶにはちょっとしたコツがあり
はずみをつけて
空気の抵抗を押しのけながら
上昇する
ああ ぐわんぐわんぐわんぐわんぐわん
あまりに確かな快楽なので
目覚めた後も
わたしは飛ぶ「技術」を 持っていると感じる
眠る空のなかを
覚醒したわたしが飛んでいました
最高技術を駆使しながら
ええ あれは消して夢ではない
風葬のあと
海で骨を洗う沖縄の女たちの写真をみたことがあるのです
洗骨の儀式
腰をまげて
骨と骨のあいだについた腐肉を
たんねんに 波に洗わせていました
ゆるい丘から ひくくなだらかに
航路を描き 地に帰る白
優雅な着地
(泣き声がする)
風が吹いています こんな日には
重いフィスラーの鍋も空も飛びます
群れ飛ぶ紙飛行機にまざりながら
戦争は終わりました(ほんとですか?)
私がこの詩を面白いと思ったり、好きになつたりするには幾つかの共通した感覚があります。そのなかでも、最近特に強く感じるのは、今この時代に、この社会に生きているという共生感覚です。
そして、この詩は、そういったことがとてもわたしには素直に感じられる作品です。
私はこの作品に書かれている内容も、そして、その書き方にも、現代をすっぽり感じます。まるで、テレビのようです(私はテレビも結構好きで、ニュースやドキュメンタリー、推理ドラマ等をしょっちゅう見ています)。
テレビは、現代の社会そのもの、あるいは、現代の社会はテレビそのものです。これはどちらから言っても同じひとつのことなのでしょうが、でもその正体はよくわかりません。
私はこの詩を読んでいると、ある夢のような感じを持つのですが、それにもかかわらず、とても日常的というか、現実的な感じもします。
また(風の吹くなだらかな丘に立ったり、眠る空に乳首を立てたり、台所で鍋を焦がしたり、それを磨いてもうひとりの自分を見つけたり、旅客機でアフリカの女性と隣りあわせになったり、夢のなかでぐわんぐわんと飛んだり等々……)
これは本当のことなのか、それとも夢(想像)なのか、わからないのですが、どちらなのかな、どちらなのかなと思いながら読んでいくのが、私にはリアリティがあって気持ちがよい感じさえします。
これは散文では書けない、それぞれの言葉が自立している(勝手にふるまう)詩句です。
もしかしたら、この詩はテレビ的な現代、現代的なテレビから密かに脱出しようとした居るのかも知れない。
いずれにしても、「詩と鍋が空を飛んだ」この詩を私は決して忘れないでしょう。