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2010年04月26日

「タブラ・ラサ」――アルヴォ・ペルトの音楽に

タブラ・ラサ     ――アルヴォ・ペルトの音楽に


わたしたちは半分砂に埋もれた住居に住んでいた
毎朝わたしたちは水を求めて砂を掘ったり
わずかばかりの野菜をつんで食したりしていた
毎朝わたしたちは散歩に出かけるのだった


どこへいっても崖や砂が襲いかかり
路を歩く度に少しずつ少しずつ停止しなければならなかった
わたしたちは数百年もの間ひとりの人に会いたいと思っていた
誰もその人を見た者は居なかった しかし
その人がどんな人であるかわかっていた
そして 毎日 その人に会うのだった


今日も路が途切れたところで皆の息が苦しくなった
路はもうなかった しかし 空が割れて
光りがふりそそぎ その一つの穴から地響きがして
よろよろとひとりの人が現れた
ああ と皆が叫んだ


地響きが続き 海も街も森もなくなりつつあった
もともと何があったかわからない
一つの穴からほのかな光りにつつまれた人が出てこようとしていた
しかし 誰であるかわからなかった


神という人も
弥勒菩薩という人もいた
おかあさんという人も
パパという人も
娘という人も
未来のともだちという人もいたが
誰も明確にいうことができなかった
ああ 皆がいうと胸が熱くなった


まるで原爆のような光りのなかで
一瞬 会いたい人に会ったのだ
それから 永遠にちかい静寂がやってきた
光りは消え 崩れかけた崖と
砂だらけの路があった


そうして皆は今日一日を過ごすのだった

投稿者 yuris : 10:16 | コメント (0)

2010年04月17日

左子真由美「愛の動詞」  ことばってなあに?

愛の動詞        左子真由美

■Manger
食べること。46億年のむかしから、何かは何かを食べ続けてきた。何かは何かの餌になってきた。食べることは祝祭。食べることは弔い。いのちがいのちを食べる。大地はいのちを吸って哀しく、やさしく熟れていく。地球はまるごと美しい果実。愛することは食べられること。食べられてもいいと思うこと。マンジェ
。いのちを差し出すこと。

■Oublier
忘れること。雨傘を。本を。サラダに胡椒をいれるのを。約束の時間を。 忘れたものはどこへ行くのだろう。どこかに大きな忘れものの箱があって、その中にみんな詰まっているのかしら。ちっちゃな部屋から
飛びだしたものたち。 入りきらなかった思い出。みんなみんなどこに? ウブリエ。まだ雨のしずくがしたたっている雨傘。

                        ※

 私もことばについての詩を書こうとしたことがあります(でも、実際にはまだ書いたことはありません)。

 そして、そういう詩を何度も読んだこともあり、その度に「なんて上手なんだろう!」とか「ぜんぜんつまらない!」とか反応してしまいます。

 ということは、私にとって楽しいことです。何故かというと、ことばについての詩は純粋な遊びのように
感じられるからだと思います。ちいさな子どもが積み木やクレヨンで好き勝手に遊ぶように私もことばで
遊びたい。

 ところで、「愛の動詞」から二つを、MangerとOublierを選びましたが、この二つは特に最近の私にとって大変身近なことばだからです。私は多分四六時中、これらのことばを使って遊んでいるのだと思います。

 それにしても遊びというのは子どもでも私でも随分自由にしてくれるし、遠くまで連れて行ってくれます。

 Manger〈食べること〉、あれやこれや遊んでいって、〈いのちを差し出すこと〉となると何とも自由な感じがするのです。

 Oublier〈忘れること〉、あれを忘れたり、これを忘れたり、まるで私の毎日のようです。そして、最後に
ウブリエ。〈まだ雨のしずくのしたたつている傘〉となると、時間というものを充分に感じるのです。

 はじめに、遊ぶと書きましたけれど、この詩人が毎日を一生懸命生きて、ことばを大切にして、ことばを使って考えたり、悩んだりしているのが、とても嬉しいというか、好ましく思えるのです。

投稿者 yuris : 14:23 | コメント (0)

2010年04月16日

原利代子「桜は黙って」  絵本と詩は双子のようなものかも知れない

桜は黙って     原利代子


南に住む人から 早咲きの桜の花が
蛍の丘老人病院に届けられた
病院はスタッフたちは
見事な桜の枝をかつぎ
入院中の患者たちに見せて回った


認知症で寝たきりの
イイノさんの部屋にも桜がやつてきた
上を向き 寝たままのイイノさんの顔の上に
満開の桜の花をかざして見せた
焦点の定まらない老人の目
しばらくは ただの空ろに ぼんやりとー
やがて その目がゆっくりと瞬きをすると
かわいた小さなほら穴の奥から
清らかな水が涌きでてくるように
イイノさんの目に涙が浮かんできた
涙はいっぱいになり 目から溢れ
ひとすじ またひとすじと
ほほをつたってこぼれ落ちた


花びらは その上に 優しくふりそそいだ
スタッフの口から
おおーっ という声が上がる
イイノさんの顔は桜色に照り映えていた
イイノさんは春の野の中にいた


しばらくすると老人は潤んだままの瞳を閉じ
また いつものように眠った
桜の花は その上で
黙って咲いていた

                       ※

 この作品を読んで、私はとても懐かしいような感じがしました。もう少し進めていうと、大人の絵本のような感じがしました。

 それは内容からくると考えがちですが、必ずしも私はそればかりではないと思います。その一つは、
この詩の一行一行がとても無駄がないということ、二つ目は大変平易なことばで書かれているということ、三つ目は一つ一つ場面がはっきりとしている、特に三つ目の場面がはっきりとしているということが
私には印象深く感じられました。

 そして、このことが絵本と詩がどこかしら似ているということであると思います。また殆どの絵本は懐かしく、大らかで、深い(夢と現実が交じり合う)世界を持っていますが、この詩にも私はそれを感じます。

 このことを特に感じるのは最後の(桜の花は その上で 黙って咲いていた)です。桜と人間が交流
しているような、とてつもない深さが感じられるのです。

 私は詩と絵本はもしかしたら、その出発点は同じではないかと思います。

投稿者 yuris : 21:56 | コメント (4)

2010年04月13日

坂本真紀「あらゆるピアノのうえを」  はじまり

あらゆるピアノのうえを      坂本真理


あらゆるピアノのうえをわたってくる。いくつもいくつも並んだピアノのうえを、アップライトヒアノのうえを、

グランドピアノのうえを、歩いてわたってくる、踏みはずすことなく。あらゆる動物のうえ、あらゆる人間の

うえを、わたしは歩いてわたっていく。いちど殺し屋に狙われたら一発でいのちを落とすかもしれないけ

れど。紐はからだに結ばれていて、紐をたぐってどこかにある、もう一方のはじをたぐりよせるまで、わた

しは階段を走りつづける。かわいらしくてやさしいのは、ピンク色のゾウ、それから。ゾウはちいさな水

色。男は彼のおくさんと、女は彼女の家族とともに。わざと遠くはなれて歩いている。わたしはというと、

どう猛な動物ばかりが集められたエリア入口の鍵をあける。

 

                    ※
 詩とは冒険であると私は思います。そして、この詩を読んで、ここにひとりの詩人がいると思いました。
「あらゆるピアノのうえをわたってくる」これがこの詩の始まりであり、それ故冒険の始まりです。

 このあと、作者はいままで誰も見たこともない、生きたこともない世界に入っていきます。
そして、それがどんなふうに広がっているのか、どんな道があるのか、全くわかりません。

 もしかしたら、想像することさえできないのかも知れません。ただ、ことばだけがその世界を切りひらいていくことができるのです。

 ですから、人間がすべてを捨てて、ことばそのものになったとき、本当の冒険ができるのだと思います。

 この作品は決してこのようなことを語っているわけではありません。もしかしたら、私のひとりよがりかもしれません。でも、私はこの詩に何かしら、詩人のいのちのようなものを感じるのです。
 


投稿者 yuris : 23:15 | コメント (0)

2010年04月11日

高塚かず子「大村湾」  面白いと生きるは似ている

大村湾      高塚かず子


ヒトはわたしを大村湾と呼ぶ
だけど私は湖だった盆地だった
大陸だった
どろどろの熱い混沌だったマグマだった
―――世界のはじまりのそのひと雫だった
ほんの四十六億年前には

わたしのなかを
泳いでいるスナメリ
大気も水も土もひとつに溶けていた昔
同じ混沌のひとつらなりのいのちだった
魂のように跳ねる魚も
ほほえみのようにひらく花も
心のように羽ばたく鳥も
祈りのようにうまれる赤ん坊も
核を抱いている真珠貝も
おびただしく浮遊している
ブランクトンも

この地球も ひとつの生命体(いのち)
 どこから来て
 どこへ行くのか

あ いま 太陽がわたしに溶ける
さざ波をくまなく染めて

              ※
 この詩は日本を見ているようで、私はとても幸せな気持ちになりました。
こんなふうに考えたり、ことばを使ったりすることができれば、みんな子どもから大人まで仲よくなれるにちがいないと思います。

 それにこの頃はごちゃごちゃして目も心も疲れてしまう世の中ですが、この詩を読んでいると元気が出てきます。

 特に私が「ああいいなあ、とてもいいなあ」と感じたのは最後の「あ いま 太陽がわたしに溶ける/さざ波をくまなく染めて」の二行です。私が太陽に溶けたような感じがしてびっくりしました。よく読んでみると「このわたしは大村湾」なのですから、私ではないのですけれど。

 そうわかっても、私には「私が太陽にとけているような感じがします」。

 そして、このことは決して間違っていないと確信します。それはとても愉快な感じです。子どもの無邪気というのはこういうことをいうのではないかと思うのです。

投稿者 yuris : 16:57 | コメント (0)