« 映画「ブレイド・ランナー」 | メイン | できるかできないかやってみよう »
2010年08月03日
鈴木ユリイカ「生きている貝」
最新ツイート:この動画はお薦めです -- 鈴木ユリイカ「生きている貝」"Lady Sings The Blues" 紗桜さよ
生きている貝
外では雪が幽かに降りはじめたようだ
「働きすぎじゃない?
あたしたちってねどうなるのかしら?」
24時間も眠らずに仕事をし
真夜中に帰ってきたあなたが
ものも言わずビーフシチューを食べ
果物の皮わむくのを見ていた私は
何かの不安にかられ あなたに聞いたのだ
音なしテレビの瞬きの中にいたあなたは
いよいよ寝床に入る段になって
ふすま一枚へだてた隣の部屋から
ゆつくりと 答えた
「あの貝のこと憶えているだろ?
ぼくらはあの貝のようになるのさ。」
ある夏 きたの海岸で買ったその貝は
全く驚嘆すべき形をしていた
ヴァイオリンの先端のように渦巻いていて
手のひらのように星形に開いていたり
内側はバラのつぼみのように輝いていた
「どんなふうにあの形ができあがつたんだろうね。海の運動や光や砂の温度か
らなのか、実際には食物を獲得するために、貝が少しずつ行動したかも知れ
ない。ぼくらの貝は目には見えないから、どういう形をしているかわからない
けれど、ずっと生きていれば、ある形ができあがると思うよ……。」
私はそのときひどく感動して
冷気の中で目をぱっちり開けた
生まれてはじめて 時間というものを
鮮やかに見たような気がしたからだ
すると 燃えたつ青空の中の透けるような
私たちという貝が見えてきた
「もちろん、死というものがあるから、完璧にはいかないけれどね。死という
一点はぼくらにはわからないから、ぼくらの形をあの貝のように完璧に見る
ことはできないけれどね。」
「死ぬときあたしたちがどういう形をしているかわかるかしら?」
「わかると思うよ。ごく自然な形でね。」
それから あなたは眠りについたのだ
人間という貝を私はヨーロッパで
たくさん見てきたばかりだった
ミロのヴィーナスもサモトラケのニケも
ラオコーンもすばらしい形をしていたが
私がいちばん魅かれたのは
ミケランジェロのピエタだった
あれはいきますひきとったばかりの聖らかな
息子イエスを抱くマリアの像なのだが
まるで死んだ恋人を抱く若い女のように
私には思われたのだ あのように
純粋な抱擁を 私は見たことがなかつた
それは白い冷たい椿のように
私の方に流れてきた
けれども 私の心の中に在る
私たちという貝は生きていて
これからどうなるかわからず
無限に熱を持ったもののように思われた
そとでは雪が降りしきっていた
私は目には見えない貝に心の中で
そっと触れてみた すると
もはや時の刻みが痛いほどついていた
たとえ流砂のようにこぼれ落ちる
日々の空しさに私が生きていようと
私は憶えておこう
息子が生まれた日の青いぬれたような空を
そして病院から連れてきたばかりの
ガーゼに包まれた首のくにゃくにゃする
バラ色の息子をまるで祝復でもするように
四回の窓までのぞきにきた
一本のにれけやきのことを
あの木は空中であやとりするみたいに
何日も何日も息子をあやしていた
それから 何かの行き違いで
張り裂けんばかりになっていた私を
不意に 台所の隅でしっかりと抱いた
あなたのことを
あの生の全き充足のことを
投稿者 yuris : 2010年08月03日 12:17