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2010年09月23日
クノップフの『見捨てられた街』とブルージユが繋がった
ベルギーの象徴派のフィルナン・クノップフと画家の画集を小柳玲子さんが出版しているが、この「見捨てられた街」という絵は「死の街」というタイトルであったこともあった。この絵でいちばんはっとしたの人が街に誰も居ないということもあったが、台座の上に立っていた銅像もなくなり、海が静かにおしよせてきて、ただただ
静かになっていくということだったと思う。こんな絵をだいぶ若い頃見て、ほんとに怖かったのだ。今はこんなものを見てもそれ程怖くはなくなったように思える。なぜなら、死でさえ、現代は静かではなくなったように思えるからである。もしかしたら、死はもっとにぎやかななもので、少しも美しくもないかもしれないからである。どうしてか、私たちは死の静けささえ失ってしまったかも知れないからである。たまには過去のことも確認してみるのもいいかもしれない。
松田聖子「ブルージュの鐘」
ブルージュとは橋のこと、ローマ時代からの名前、BRUGGEだそうです。中世からの古い町で「屋根のない美術館」ともいわれる。いまは世界遺産になっていて、観光化しているらしい。
2010年09月22日
マラルメ「ベルギーの友の思出」 石に刻むように
ベルギーの友の思出 鈴木信太郎訳
幾時もまた幾時も、風に揺めくこともなく、
殆ど香の色に似た 古めかしさが 悉く、
石洞の家が一襞一襞と衣を脱いでゆく
忍びやかだが眼に見える 古めかしさを
宛らに(さながらに)、漂ふ、そのさま、新しく惶(あわただ)しくも
契られた私たちの友情の上に 昔の香油として、
(私たち、満足し合ってゐる太古悠久の民の幾人)
時間の寂(さび)を注ぐのでなくては何の詮もなかろう。
永久に凡庸でないブリュージュの町、白鳥が點々と
游いでゐる 死の澱む運河に 黎明を積み重ねる
この市(まち)で、邂逅した おお 懐かしい人々よ、
白鳥の鼓翼(はばたき)のやうに、白鳥ならぬ他の飛翔が
忽然と精神の火花を散らしてゐることを示す これらの
子らの誰かを、厳粛に市(まち)が私に知らせた時に。
※
昔、マラルメは嫌いだった、それなのに「詩は話しことばのようでも、書きことばのようでも、歌のようでもあり、しかも石の刻まれたことばのようでもあるのだ」と誰かにいわれたとたん、どうしてもマラルメが読みたくなり、読んでも、私の知っている詩
は見つからずはなはだ困った。でも、まあこの詩はわりあい好きだつた。
2010年09月17日
クローディア・エマソン「レンジャック」木村淳子訳 単純なこと
レンジャック クローディア・エマソン
シダーレンジャックが 落ちたのだろう
あなたには見えない巣から
だからあなたは鳥を助けようと
家に持ちこんだ。キッチンを鳥かご代わりにして
私たちはこおろぎを与えた。
バス釣り用に箱で売られているものだ。
鳥は幾日かの間 食器棚にとまっていたー
その口は飽くことを知らない食虫花ー
動かない天井の扇風機へ、
隣室に飛ぶことに気付く前は、
私たちは何週間も羽ばたきを聞いて
暮らした。私はくちばしの立てる
音になれた。肩に軽く触れる
電気のような、ビリッとした
感触になれた。
鳥の恐れるものなどなかったのだろう。
レンジャックは私たちをそのまま受け入れ、
私たちと一緒に抑圧された空と
ガラスに覆われた明かりと、狭い階段を受け入れた。
だから私たちが放してやると、鳥は昔の空に
戻ることを拒んで、きっかり一ヶ月
屋根の上に聳え立つヒッコリーの木に
とまっていた。私たちはそれを養ったのはなぜ、
私はあなたにたずねた。
異界に落ちた何を私たちは助けたのだろうと。
レンジャックは私たちがつかの間暮らしたあの部屋で
自分は死んだと思っていたかもしれないのに。
Claudia Emerson (1957-)
Waxwing
The cedar waxwing had to have
fallen from some nest you couldn't
see, so you bought it into the house.
to save it. We fed it crickets
sold it. We fed it crickets
the cage we made of the kitchen―
where the bird sat on the side board
for days ― its mouth an insatiable.
urgent flower ―before findinng flight.
the stalled blade of the ceiling fan.
other rooms. For weeks we lived
with the sound of wings, I gree
accustomed to the billing-purr,
the feel of an electric, furious
linghtness clinging to my shoulder―
what it should have feared. The waxwing
accept us as given. and with us
our seized , repressive sky, glassed
narrow starway. So when we let it go.
when it refused the atavistic
sky, remind instead for one full
month in the hickory tree that loomed
over the house, I asked you why
we'd fed it. what had we saved
for a world so alien, the waxwing
must have believed it had died in those rooms
where for a while we went on living?
※
誰かと話していたとき、一体私はどんなときに、どんな作品に、どんなふうに惹かれたときに、この作品は好きだとか、好きでないとか、いいと思うとか、あんまり感じないとかと言うのだろうと思った。たとえば、私はあまり、俳句と短歌がわからない。つまり
ある程度は感じられても、どの作品がいたくいいと思い、それからそうでもないのか、わからない。つまり、芭蕉とか万葉集とかの他に、現代の俳句や短歌はどれもこれもおなじように読めてしまうのである。
結局、詩や音楽や写真ゃ絵画のばあい、何度も何度も繰り返して読んだり、聞いたり、
見たくなる作品が私にとっていい作品なのである。この単純な方法はかなり、私を自分で自分を納得させるいちばん良い方法だと考えている。
2010年09月14日
中村安希『インパラの朝』 図書館の貸し出し36人目
図書館の貸し出し36人目でようやく借りてきました。噂に違えず、すばらしい本でした。648日もかけて、ユーラシア、アフリカを横切った記録です。お金がなく、すこし病気で窓から眺める風景はよわよわしい木が一本だけで、たまらない暑さだけでは新しい詩を書こうにもなかなか書けないだろうと思っていたら、頭の後ろをがーんとなぐられたような衝撃でした。たった一日で読みあげました。特にアフリカがよかった。
「一面に広がる草原に、わらの家が建っていて、小さな村の子供たちがレールの周りに集まってきた。礼儀正しい子供たちはレールに沿ってきれいに並び、順番に自分の名前を言って私と握手してくれた。エチオピアの子供たちは、列車の中の幼児から村で出会った子供まで、世界で見てきた子供たちとは決定的に何かが違って、あまりにも情緒が安定していた。熱気に蒸せる鉄の車内で十数時間揺られても、泣き出す子供はいなかった。喧嘩をしたり、悪さをしたり、騒ぎだす子もいなかった。好奇心や感情は内面のみに存在し、自制の利いた態度の枠をはみ出したりしないのだ。子供たちは平均的に声を上げて笑わなかった、ただそよ風のようなやさしい笑みと澄み切った瞳で私を見ていた。太陽は除々に高度を下げて、地平線に着地すると、そのままみるみるしずんでいった。村には電気や水道はなく日没と共に闇がきた。ランプやロウソクゃ焚火といった灯りのもととなるものがそこには一つもなかったからだ。列車の床や線路の脇に乗客たちは横たわり、長くて暗い夜に備えた。私はビニール敷物とシュラフを引っ張り出してきて、草の大地にそれを並べた。船上、港、ジブチのプラットホームーー夜のアルハマを
出港してからの野宿はその日で四日目だったが、その日の夜空は雲に覆われ、月明かり
さえも届かなかった。私の周りの闇の中には、少年たちの白い歯と輝く両目が見えていて、彼らがそこにいることをおぼろげながら確認できた。その反対に、少年たちには私の姿がはっきりと見えているらしかった。彼らの名前を一つずつ私は順に呼んでみた。
少年たちは「イエス」と返し、私の指をそっと握った。暗闇の中のすべての物が少年たちには見えているのだ。私のカバンが倒れると、誰かがすぐ元に戻した。メガネの置き場を忘れると、誰かが私に手渡した。少年たちは、私の頬ゃ髪の毛にそっと触れ、「ビューティフル」と呟いた。私は右手をゆっくり伸ばし、少年の顔に手を触れた。柔らかく滑らかな肌だった。私は彼にこう言った。
『君はもっと美しいね。』と。
何もないということがある種の芸術性を持ち、ゆとりに満ちた子供の動作が心の琴線に静かに触れた。」
2010年09月12日
清岳こう「風吹けば風」面白おかしく面白い
西瓜の種をかむと 清岳こう
爪先の細胞がひとつめざめる
南瓜の種をかむと かかとの細胞がひとつはじける
蓮の実をかむと 乳首の細胞がひとつふくらむ
こうして 私はアジア大陸に一歩を踏み出す
※
そっとしておいて 清岳こう
草原のただ中
少年が両手を広げうつ伏せになり寝ころがっている
地球のきしむ声を聴いているのだ
※
大皿で 清岳こう
運ばれてきたのはあばら骨だった
羊の心臓をけなげに守っていた
羊の小さな肝っ玉を心から愛していた
左右対称の空洞だった
湯気のあがる肝臓に 胡椒・腐乳豆腐(とうふペースト)・黒酢をまぜソースを作り
あばら骨の肉をむしりあばら骨をほおばりすわぶり指を脂でにぶくひからせ
その夜以来 若い羊がささやくのである
私の耳をくすぐった 薊の歌はどこに行ったの
私の巻き毛に止まった 蟋蟀のゆくえを探して
私の瞳に住んでいた ヒマラヤを舞う大鷹のはばたきを伝えて と
2010年09月08日
どうしてこの詩人が好きなんだろう?
ニューヨークから帰る ジェーン・ケンヨン 矢口以文訳
こってりした味の食べ物と
熱すぎる部屋での遅くまでの話し、
それにぼろをまとって夜を過ごす人間の形と
生ゴミとの間を歩きまわつた三日三晩の後で、
自分の玄関に、
自分の木造の階段に帰ってきた。
最後の赤い木の葉が大地に落ち
霜が ベランダ横に生えたハーブや
アスターを黒く染め上げた。空気は
静かでひんやりとしており、枯れた草は
畑に平たく横たわつている。ゴジュウカラが
木の粗い幹をらせん状に降りる。
クロイスターズではしなの木に描かれたピエタを
眺めながら 私は敬虔な気持ちに浸ったー
槍に突き刺されて力を失った御子を
マリアがひざに抱いている。しかし誰かがホテルの方から
房のついた日よけの下にを歩いて近づき 私に
「不幸せな者にお慈悲を」と声をかけた時、急いで背を向けた。
今 木の皮と苔の小さなかけらが
小鳥のくちばしと爪の下ではじけて
既に落ちていた葉の上に落ちるのに私は耳を傾ける。
「あなたは私を愛するのか」とキリストは弟子に聞いた。
「主よ 私が愛するのを
あなたはご存知です」
「それなら私の羊を養いなさい」
Back from the City
After three days and nights of rich food
and late talk in overheated rooms,
of warks between mounds of garbage
and human forms bedded down for the night
under rags,I come back tomy dooryyard.
to my own wooden step.
The last red leaves fall to the ground
and frost has blackend the herbs and asters
that grew beside the porch. The air
is still and cool,and the withered grass
lies flat in the fileld. A nuthatch spilals
down the rough thunk of the tree.
At the Cloisters I indulged in pieta―
Mary holding her pierced and desiccated son
across her knnes; but when a man steped close
under the tasseled awning of the hotel.
asking for “a quarter for someone
down on his luck.”I quckly turned my back.
Now I hear tiny bits bark and claw.
break off under the bird's break and claw,
and fall onto already-fallen leaves.
“Do you love me?”said Christ to his disciple.
“Lord, you know
that I love you.”
“Then feed my sheep.”
どうしてこの詩が好きなんだろう?まず開かれていて世界中の誰にも理解出来ると思うから。少し平凡なぐらいスタンダードというかオーソドックスだからだろう。仏教語の
「般若波羅蜜多」ではわからない。「言葉を越える」という言葉よく使われるか゛、それで何かが曖昧になるのでは?と考えてしまう。「シャローム」というのも面白い。
しかし、“Do you love me?”詩人がこの言葉をつかうときに読む人が何かを感じるのは確かだから。詩はいのちだから。それに個人だから。