« 2013年04月 | メイン | 2014年04月 »
2013年10月28日
清水弘子「思イダシテクレロ」在るけどない
思イ出シテクレロ 清水弘子
川に寄り添う緑の丘陵の川向かいに暮らしている ここから見ると丘
陵は 伏した大きな生きもののかたち そんな丘陵をゴンドウと名付け
川沿いの土手道を十年散歩して
犬が透明になってもいっしょに散歩して
まいにち川向こうのゴンドウを愛でる
ゴンドウはますますゴンドウになり
夕くらやみ
身体をふたまわり大きくして
かすかにうごく背中の気配の
こちらの頬まで触れてきて
何度もわたしに言ってくる
モットモット思イ出シテクレロ
何百何千年前ノ
此処ノコト オレノコト
トップリ其処ニ沈メルクライ
思イ出シテクレロ
わたしの受け継ぐ
わたし以前のものたちは
忘却の厚い真綿をなぞるだけ
わたしをせつなくさせるだけ
そういえば
お前のすがたはここから見ると
古い都の
古墳みたいだと言ってやると
あの犬みたいに
ない尻尾をぶんぶんふる
いない犬の伏したかたちになって
ソウソウ ソレカラ ソレカラ
こんなわたしに
在るけどない
ないけど在る
そんなものを紡げという
※
この詩のはじめの二行に出会ったとき私は背中がぞくぞくする程感動しました。「犬が透明になっても」とは犬が死んだことなのでしょうが、それがわかると、透明な犬が本当に一緒にいるようで、びっくりしました。この二行は私にとって、この詩全体を決定するようなものでした。
この二行によって、というか、「犬が透明になっても」という言葉を通して全く世界が新しく見えはじめたのです。それはまさに別世界の扉のようでさえありました。
それから、二連三連と続く古代ゴンドウとの交流や対話などもとても面白いのですが、それも、この
透明な犬と同じ世界なのだと思います。
その世界は何億年も超える時間の中で生きものがお互いに言葉を交わしたり、愛し合ったりすることです。「在るけとない ないけど在る」を紡ぐのは透明な犬なのだと思います。
柳岸津(ユ・アンジン)「自画像」魂の発見
自画像 柳岸津 奇延修(キ・ジョンス)訳
生涯を生きてみると
私は私は雲の娘であり、風の恋人なので
雨と雲が、雪と霜が
川と海の水が他でもないまさに私だった事を悟る
ワシミミズクの鳴くこの冬も真夜中に
裏庭の凍った畑を駆る雪風に
心をゆすぐ風の恋人
胸の中に溶鉱炉に火をつける恍惚の嘘を
あぁ、夢中なだけでどうもできない憐れな希望を
私の分として今日の分として、愛して流れること
熟すほどエビの塩辛がおいしくなるように
垢が染みるほど人生がそれらしくなるように
生きるということも愛するということも
垢がついて汚くなり
真実より虚像に感動し
正直さより罪業に恋いこがれ
どこかへ休まず流れていくのだ
いっしょに横になっても互いに別の夢を見つつ
どこかへ休まず流れていくのだ
遠く遠く離れるほど胸はいっばいに満たされるのだ
果てまで行って帰ってくるのだ
空と地だけが住処ではないのだ
虚空がむしろ住む価値があり
漂い流れる事がむしろ愛することなのだ
振り返らないだろう
ふっと振り返れば
私は私は 流れる雲の娘であり
漂う風の恋人であった
※
とても勢いのある詩だと思います。ひとつひとつの言葉、比喩、イメージ、そして構造、すべてに於いて勢いが感じられます。
その勢いを支えているのは、ひとりの人間の生き方であり、更にもっと深く魂のようなものだと思います。
自然や歴史、そして多くの人々とつながっているものなのかも知れません。だから時には自分の力ではどうしようできない程荒々しくあり、人はそれで黙ってみているしかないのでしょう。
第一連に私はそんなひとりの人間と魂のドラマをみるような気がしました。つまり、これが自画像の
枠なのだと思います。
第二連以降は、その自画像のデティールが鮮やかに、しかも勢いよく突風のように描かれています。
私はこの詩を読んでいてゴッホの自画像やムンクの「叫び」などを思い出しました。
最終連を読むと、魂と向き合って生きていくこの詩人の覚悟が伝わってきます。
2013年10月23日
長田典子「もしもできたら」言葉と一緒に
もしもできたら 長田典子
できたら
犬のポチのときみたいに
湖の見える山の斜面に埋めてください
心臓の辺りに小さな梅の木を植えてください
二月のある日 白い花が
冬の花火のように満開になる頃
漣のように甘い匂いが広がるでしょう
鳥が乳のように蜜を吸い 囀るでしょう
誰かが ふいに振り向いて言うでしょう
もうすぐ暖かい季節が始まると
できたら もしできたら
※
私の場合、ひとつの詩を書くのに何日も何日もかかるときと、一時間もかからずにあっという間に
できる場合があります。そして、このことは誰もが同じではないかと思います。
しかし、よく考えてみると、これは不思議なことのような気がします。一時間足らずで、できるときは、まるで風が吹いてきたように、ふあっとできます。
あるいは小鳥の声がきこえてきたかのようでもあります。
ところでこの詩は、あるとき詩人の中にふあっと生まれたものではないかと感じます。ひとつの詩としては決して深遠な詩であるとか、鋭い詩とかいうものではありませんが、何とも今生まれたばかりのような初々しさがあります。(恐らく、この初々しさはいつになっても消えることはない)
こういう詩は書けそうで、しかし、決してそうではありません。いつもいつも、言葉と一緒に何かを
考えている、言葉と一緒に何か悩んでいる、
そうしたなかから初めて生まれるのだと思います。
そのひとつの証が最後の言葉にあります。「もしできたら」、この言葉が私のこころの奥に響いてきました。
2013年10月22日
柳内やすこ「輪ゴム宇宙論」興味津々
輪ゴム宇宙論 柳内やすこ
宇宙はごく細いパンツのゴムが一瞬にして悠久の時を駆けて
一周してつくられる。
輪の本質は閉じていることである。歴史は閉じている輪の上
をたえまなく時計回りに進んでいる。従って歴史には始まりも
なく終わりもない。現在は最も遠い過去であり最も遠い未来で
ある。アダムとイブは過去の神話であると同時に未来の神話で
ある。宇宙に果てがないというのも同じ論理である。「ここ」
は宇宙で最も遠い地点である。胎児は母親にとって最も遠い存
在である。
ゴムの本質は伸び縮みすることである。従って時間は速く進
むこともゆっくり進むことも可能である。宇宙が大きくなったり
小さくなったりするのもこのためである。ゴムの伸び縮みに
ついては後述の別次元の作用によるがまた変形することも可能
であるからまれにひょうたん形になってくびれた部分が接触し
た場合歴史の流れが8の字になり半分逆行してしまうこともあ
る。
平ゴムの本質は表と裏があることである。従って宇宙は交わ
ることなく循環する一対の世界である。明白に二つの世界は生
者と死者の住みかである。ねじれたメビウスの輪であるからど
ちらが表なのかは定かでない。時間の進行はそれぞれの世界で
全く独立しているが魂は時間の流れを垂直に横切ることにより
互いの世界を行き来できる。
ところで一方宇宙に果てがあるという場合がある。それは平
ゴムの幅のことを言及している。ごく細いゴムであるから宇宙
の果てはごく身近に存在している。
ブラックホールはいたる所に存在する。白いゴムの上以外は
すべて暗黒の別次元なのだから、それは生でもなく死でもなく
無機物でもなく歴史も言葉も感情もなく輪ゴム宇宙にないもの
がすべてある完璧な別次元である。
また歴史に始まりと終わりがあるという場合パンツのゴムが
最初に一周した時点とやがて使い古されて切れてしまう時点を
問題にしている。しかし両時点は輪ゴム宇宙外の別次元の作用に
関するものであるから我々輪ゴム宇宙の住民にはとうてい理解不
可能なのである。
※
私も宇宙論に関しては、それなりの興味を持っています。だから、宇宙論のニュースや話題には
耳をそばたてて聞き入ることもしばしばです。
しかし、こんなユニークな宇宙論ははじめてで、思わずお終いまで読んでしまった。
そうすると、宇宙について新しいことは全くわからなかったけれど、輪ゴムについては今までと
全く違った認識を得るに至ったのです。
それと同時に、もしかしたら宇宙は理性や科学によってわかるものではなく感触によってわかる
ものかも知れないと思いました。
そして新しい世界に出会ったような気がします。
この詩には何かとぼけたような感じが漂っていて、しかもどこかしら真剣なところもある、それが
この詩の魅力であると思いました。
それは輪コム宇宙論という内容にあるのか、それともこの詩の言葉使いにあるのか、私にはよく
わかりませんが、今までにない詩の世界がはっきりと感じられます。
どんなささいなもの、どんな小さなものでもそれなりの世界をもっていて、それはみんなつながって
いるに違いないと思いました。