2016年04月19日
川越文子「園丁は静かに歩く」大地が育むもの
園丁は静かに歩く 川越文子
太陽はまだ低く
春菊の露をかすかに照らし出す
葱の筒は夜の話をすいあげたまま
丸く丸く立てり
大地み畝の穴にも
いまだ残る夜の声
ひとつきりの美を称えるかのごとく
雑木林の枝に張りめぐらされた蜘蛛の網に
露 光る
朝ぼらけ 白い背中
まあ お父さん速いこと
もう草取り?
いえ振り向かないで
わたしが横を過ぎるまで
死ののちもこうしてときどき
庭に出でくるお父さん
山裾の雑木林で樫の葉が一枚落ちたのだ
谷川の水が
その葉を乗せてこっちへ来る
わたしが立つところまで
園丁は静かに歩く
※
この詩は短くて、小さい詩ですがきらりと詩人の光を放っている、私にはそう思えます。
最初は古文の調子を感じさせながら朝の大地(畑)が目覚めていくのが語られています。
大地か育むものは春菊や葱や大根や無花果だけではなく、私たちの言葉も同じかも知れない。古文は私たち今使っている言葉の根であろうか、それがこの詩の初めに使われているのは、消して偶然ではないと思われます。そうした畑のなかで亡くなった父と出会うのは自然であり、しかも奇蹟でもあるのでしょう。
とにかく、この詩人は、朝の畑のなかで、父を見た。
それがこの詩の始まりである。
2015年11月06日
今井好子「揺れる」言葉との出会い
揺れる 今井好子
ひさしぶりに帰省してみれば
父も母も揺れていました
子供が子供がと
忙しいけれどおおむね楽しくやってきた間にです
揺れだしたのは父が先か母が先か
なにがあったか
どうしたのか
面と向かっては聞きづらく
後ろから
父と母の揺れる背中ばかりをみていました
久しぶりに帰省してみれば
生まれ育った家も
庭先のねぎも仏様の菊も
トタンぶきの小屋も揺れていました
私をはぐくんた敷地の
どこからなにかが揺れだしたのか
皆目わからないまま
なにもかも揺れていました
父は揺れながら時間をかけて大根をぬき
母は時間をかけて大根を煮てくれました
私は何も聞けず時間をかけて大根を食べました
その夜揺れる父と揺れる母の間で横になり
右手は父の手をにぎり
左手は母の手をにぎり
父と母に揺られながら
静かにめを閉じました
屋根をたたく夜の雨音が続いていました
※
私はこの詩に民話のような、寓話のような遠さと近さを感じます。いつの間にか、私も同じところに
行く夢をみているような気持ちになります。それは「揺れる」という言葉が持っている不思議な力です。その力に気づいたのが、この詩人の優れた心でありね気概であろうと思います。
同じような詩は誰でもかけそうですが、決してそうではないと思います。
その年流行した言葉が新聞やテレビで発表されますが、この「揺れる」も今年の流行であってもいいのではないかと私は思います。
「言葉とは何か?」
私はうまく言えませんが、詩を読んでいて、時々その答えに出会うこともあります。その一つがこの詩てす。その答えは決して大げさな物で歯はないのですが、時折、口に含んでみたくなるチョコレートのようなものです。
青山みゆき「黒い空」闇の場所
黒い空 青山みゆき
どろどろと黒い空が鳴っている
わたしは通いなれた道を自転車で突っ走る
空は途方にくれて
泣きながらわたしの頚すじをなめる
見なれない雲の上では
深海魚たちが
くちびるを尖らせて順番を待っている
疾走する雨に濡れた電柱に
あなたではない
あなたでもないなたを
縛り付ければ
わたしのなかでとけてくれますか
わたしの寂しさをはがしてくれますか
耳を思いっきり噛んで
血が流れるくらいのことをしてくれますか
頭をかかえこんだ空と
わたし
もうこれで
他人ではありません
どろどろと黒い空が鳴り
深海魚たちが歯を立てて降ってきた
あれから
わたしたち
ずっと家にたどり着けない
※
「どろどろと黒い空が鳴っている」
この初めの一行を読んだとき、私は私のいちばん深いところで何かが動いたような気ガシマシタ。そして、更にこの詩を読んでいくうちに、これはとてつもないアナーキーな世界であると思いました。
外の世界と私の内部の世界が殆ど地続きのようで、外の世界と思っていた物が、実は私の内部で
あったりして、呼吸するのも難しい感じさえします。
そもそもアナーキーとは時代や社会のものであり、決して一人の人間のなかにあるものではないと
思います。この詩にはアナーキーとしかいえない深い闇があるような気がします。
それが現代という時代を写したものなのか、それとも一人の人間の闇から生まれたものなのか、
私にはよくわかりません。しかし、ただ時代の風潮であるとするならばね私は決してこれ程、この詩に魅かれることはなかったでしょう。
和田まさ子「ひとになる」変身の願望
ひとになる 和田まさ子
夜のうちに
豹になっているわたし
黒い斑点の美しい模様の体で
アフリカの大地をかけめぐり
肉をひきちぎって食べていた
そのスピードがゆるゆる落ちて
朝がきた
服を着替え
パンとサラダを食べ
化粧をし 口紅をひいて
鏡をのぞき込む
ひとらしく見えるだろうか
豹のまなざしになつていないか
飢えた心が見透かされるはしないか
バス停で待っていると
待っているのは
バスなのか
餌食となる動物なのか
判然としない
まだ、眠りと現実のあわいにいるようだ
二月の晴れた日にアフリカではなくて
ここにいる不思議にとどまっている
あそこにもひとり
夜、なにかになっていた女性がいる
懸命にひとになろうと努力しているのがわかる
ひとになるのがいちばんむずかしい
※
フランツカフカは重要な作家の一人で、その作品の中手も「変身」は何度も詠みましたが、その度に新たな興味がわいてきました。この小説のテーマは歴史や社会によってもたらされる個人の疎外
、否定といつてもいいと思いますが、私の心に残っているのは「変身」した青虫に対する自分自身の
親近感というか、いとおしさです。
そのことから、私は思うのですが、「変身」は私の一つの願望であり、「究極の逃げ手」ではないのかと思いますが、この詩を読んでますます、得心を得たような気がしました。
草野理恵子「蕗の風景」真実に美あり
蕗の風景 草野理恵子
私の心の中に蕗の葉の生い茂るひとつの風景がある
汽車の煙がかかり薄汚れた大きな蕗の葉は
恐怖のようにどこまでもむ続いている
葉の上に白く蠢くものをみつける
助けを求めるに似た両腕の動きに君の声が重なる
夜ごと犬のように扱われ口に綿を詰められる
捨てられた空き箱や発砲スチロールの闇
錆の多い街は降る雨さえ鉄が混じる
赤く細かに鋭い粒が手のひらを傷つける
その声は君だったのだろうか
誰とでも繋がれる水路が蕗の下にはあり
ふと夢と夢をつなぐはいの話を思い出し水流を逆に泳いでみる
天井に蕗が青黒い
毎日ひとつその風景の中にもものをすてに行く
蕗の葉の上に根元に 生い茂る暗闇に
※
過酷な生の姿が一枚の風景画のように、きちんと描かれています。普通だと、こういった内容、テーマの詩はなかなかすすんで読む気にはならないのだけれども、この詩破損な私を惹きつけてやまない静かな力があります。
「私の心の中に蕗の葉の生い茂るひとつの風景がある」
この言葉は作者の告白であり、同時に「私」への伝言であるとおもいます。この一行によって、この詩のすべてが決まったといっても良いと思います。私には人生という一枚の風景画を描いている一人の人間の姿が浮かんで来ます。その動作は決して大げさではなく、私を怖がらせる物でもありません。自分自身と読者に納得させると願っているようです。絵を描く絵筆のように詩人は言葉を選んでいます。そして私の前には過酷であるが、美しい絵が見えます。
2015年05月16日
中神英子「砂丘」もう一人のわたし
砂丘 中神英子
よる 鳥が来て
わたしのかたちで啼くので
わたしは砂を握り眠る
鳥がわたしの両手に翼をそえて
その啼き声通り
わたしが あした はろばろと歩む
砂丘を作ってくれるように
やわらかに美しく流れる風紋と
乾いた清涼な空気の中に
新しい夜明けをもって
立てるように・・・・・・・・・・・・と
まだくらいうちに
わたしの方向へ鳥が来て
わたしのかたちで啼くことを
わたしは知っているので
よる
わたしはわたしの分の砂を握り眠る
※
この詩は私を私の知らない異次元への世界へとひきこんでいく。
よる 鳥が来て
わたしのかたちで啼くので
わたしは砂を握り眠る」
と始まり、声高でも刺激的でもなく、静かにかたられていきます。
決して今まで見たこともない。聞いたこともないとは感じないのですが、これまでの私の世界の
向こう側を通っているような気がします。
わたしがあした はろばろと歩む
砂丘を作ってくれるように」
その世界は決して堅固ではないのだけれど、私の内側と同じぐらい、しっかりと脈打っている。
異次元だと思っていた世界は、もしかしたら、私自身のなかに遠い昔からあったかも知れない。
まだくらいうちに
わたしの方向にへ鳥が来て
わたしのかたちで啼くことを
わたしは知っているので
よる
わたしはわたとしの分の砂を握り眠る」
この詩人は独りで自分を抱きしめているのだろう。
詩はこの詩人の唯一の支えであろうと思います。
2015年05月14日
宮尾節子「ニューイングランドの朝」詩と世界
ニューイングランドの朝 宮尾節子
「朝は露をおくところ*」
これはニューイングランドの
詩人のことばだが……
泣いた瞳も
濡れたほっぺたにも
落ちた恋の
池にも
白い封筒に
切手が一枚貼られたように
ことばに ひと粒の
光る露玉を載せて
すべての泥濘
湿った露地や
乾いていない傷口に――
ニユーイングランドの朝が
発見されている
詩人の手によって――
*エミリ・ディキンスンの詩のフレーズにより
※
この詩は「ニューイングランドの朝」という言葉によって成り立っている詩であると思います。
これ以外の言葉は不必要だと思える程この言葉だけで成り立っているのです。宮尾さんにとって「ニューイングランドの朝」は唯一無二のものであり、発見だったのです。これを宮尾さんがエミリ・
ディキンスンの詩のなかで発見しました。と同時に、宮尾さんの内部にも、全く同じものを発見したのです。そのことが宮尾さんにとって、いかに確かなことであり、大切なことであるかは、二節、三節、
四節の言葉のひとつひとつから、感じ取れます。そのなかでも、特に「
すべての泥濘
湿った露地や
乾いていない傷口に――
あまねく
暁を届ける
にそれを感じます。
そして、宮尾さんはエミリ・゛ディキンスンに頭をたれながら、「ニューイングランドの朝」を書いています。
世界各地に絶景というものがあり、多くの光景を心に焼き付けます。
私もお金と時間が゛許すなら、こうした絶景と出会いたい。でも、一方ではある日、ふと見あげた街が全く新しい光景として感じられることもあり、それはある意味では私にとって絶景であると
言えます。そして、ここに私の詩が生まれることもよくあります。恐らく、この詩人にとって「ニューインク゛ラントの朝」はそうしたものなのでしょう。
宮尾さんは詩のなかに彼女自身の絶景を発見したのでしょう。
2015年05月12日
狩野貞子「空」優しい言葉
空 狩野貞子
3.11
日本列島の空いっぱいに
たくさんの靴が 漂っている
泥にまみれたスニーカー 紅葉色のビンヒール
傷だらけのゴム長靴に 黒い革靴
真っ白いフェルトの靴は
掌二隠れてしまうほど小さくて
うねる高波に呑み込まれたとき
黒い濁った海から
空は全身で抱きかかえた
一緒に流した 汗の匂い 魚の匂い
膝を伸ばして 町を闊歩した
幸せなひととき
三年余りが過ぎたが
2,609足の靴がまだ見つからない
一足ずつ
すべての靴が
持ち主に届いたとき
青い空は
やっと高みをます
※
この詩人には童話作家が持っている包容力とユーモアのセンスがあると思います。
それは初めの三行と終わりの二行に
3;11
日本列島の空いっぱいに
たくさんの靴が 漂っている
終わりの二行に
青い空は
やっと高みをます
まで全体をとおして私によく感じられます。
一つの言葉の選び方、つながり方、それは何とも優しくて、
たっぷりしていて、ユーモラスなのです。
この詩の内容は3.11の災禍であり、一人一人のいのちのことなのですが、それにもかかわらず、
私には「悲惨」であるとか「絶望」であるとかという言葉は少しも浮かんできません。
でも、私の心は、私の知らないところで悲しんでいるようです。
それはちょうど私が幼い頃、絵本をよんで初めて怖い世界を知ったときのようです。そんなとき私は
一人でしたが、誰かが優しく見つめていることも感じました。
私はこの詩に同じものを感じました。詩の神さまが舞いおりたのでしょう。
そして、思わず空を見あげました。私の心のなかの空を。
2015年05月11日
峯澤典子「運ばれた花」幻のようなもの
運ばれた花 峯澤典子
カウンターの周りが薄く明るんだ
朝早いカフェで
向かいの花屋にランジス市場から着いたばかりの花が
並べられるのを見ていた
細いが よくしなう枝を持つはずの庭薔薇は
ほかの花よりも
器から大きくこぼれ
手折られた苦しみのかたちを
乱暴に 解いてくれる風を待っていた
本来のうねりをしずめ
自分の花影にもたれた枝は
数日前 公園のベンチに座っていた男を思わせた
男は服の色も判別できない木影で
寒いのだろうか 膝に何枚も新聞紙を広げ
そのうえに両肘をつき 額を支え
少し波打った白髪まじりの髪と痩せた首筋
湿った長い手足を
雨あがりの匂いにさらし
手折られた姿で 風を聞いていた
視線を合わせるのも そらすのも
こうした花に姿を重ねるのも、不遜、と知りながら
目はなぜ瞬時に識別するのか
底に満ちる孤独を
底が深ければ深いほど
見つめたあとは すべもなく離れるしかないというのに
すべての花が店頭に並べられ
花屋の扉がいったん閉まると
手折られた庭薔薇も男も 朝日に溶け
丸まった新聞紙だけが
風に運ばれていった
※
光とか色とか風というものは、本来それ自体は形もないし、言葉や絵の具などで描くには適していない。でも、もしかしたら、そこにしかないもの、そこでしか現れないものもあるのかも知れない。
たとえば、それは能の世界だったり、イギリスの風景画家ターナーの世界のようなものだ。
私はこの詩を読んでいると、そうした世界を同じようなものを感じる。
たとえば一節目の終わりの二行
手折られた苦しみのかたちを
乱暴に 解いてくれる風を待っていた
にそれを感じる。そしてねその内実は次の節に注意深く語られている。それを読んでいくといつの間にか、私も能やターナーの絵にはいっていくような気持ちになる。
しかし、その世界は決して幸せなものではない。
底に満ちる孤独を
底が深ければ深いほど
見つめたあとは すべもなく離れるしかないとい
うのに
しかも、不思議なのは、こうしたことが日常のカフェで起きているということである。そこに私はこの詩の
現代性を強く感じる。
2014年10月22日
志田道子「忘れていたもの」我々はどこから来てどこへ
忘れていたもの 志田道子
電車が鉄橋にさしかかると
明るい銀鼠色が
目の前にいっぱい広がった
誰も未だ
春のことなど思い出してもいないうちに
鋭い太刀が斬りさいていた
その真一文字の切口にだけ
日の光が射し込んで
水平線がどこまでも続いていた
空も
河口も
薄雲鼠色
河の真中を
扇子をだんだんと広げて行くように
白波の航跡を従えて
貨物船が音もなく
海に出て行こうとしていた
男は吊革にぶら下がって
片手でコートの胸の釦を確かめ
目を細める
ずいぶん長い間
使うことのなかった
肩甲骨の間の
翼の根っこが疼く
こんな静かな
昼下がりには
※
「我々はどこから来て、どこへ行くのか」
この言葉を私はいつも忘れているようです。でも、突然思い出すこともあります。それはなんの前ぶれもなく私のなかに立ち上がってきます。
ひとりで海を眺めているときだつたり、あるいは大勢の人に交じって街を歩いているとき、「我々はどこから来て、どこへ行くのか」と思うのかも知れません。
この詩を読んではるかに遠い世界にさそわれる感じがしました。
突然、目に飛び込んできた青い海、それは「目の前いっぱいに広がった」「鋭い太刀が斬り裂いていた」水平線がどこまでも続いている。
たぶんこの詩人はひとりで自分の言葉を探していたに違いない。(それは私と同じではないかと思います)
「ずいぶん長い間 使うことのなかった 肩甲骨の間の 翼の根っこが疼く」「我々はどこから来て
どこへ行くのか」決して生と死のことたけではなく、私と鳥、私と魚たちとのことでもあるのでしょう。
2014年10月21日
岡島弘子「みえてくる」三百六十度
みえてくる 岡島弘子
山梨の山脈野坂をこえて
六十歳をこえて
今 私は三百六十度ひらけたところに出てしまった
スター・オブ・ホノルルの甲板に立つと
南国のいちまいの空と いちまいの大海原がひろがる
十二時の方向にクジラがいると おしえられて
目をこらす
周囲でどっと蕨市があがるか何もみつからず
なおも目をみひらく
なおも なおも 頭が海と同化するまで 青にそまるまで
みつめていると
あ
海と空をおしわけて
とつじょ あがる ふんすい
じゃなくて
いのちのいとなみがかたちを得たような
あれが潮吹き
なおもみつめていると 山が隆起する
こえてきたはずの小仏峠がハワイの海にあらわれた
と思ったがクジラのせなかだった
それはすぐ消え 尻尾がたかくあがる
御坂峠のように けわしく切れ込んだ稜線
が それはゆっくりうごいて
海原に太古の文字をえがいた
よみとれないうちに 消える
幼い日 蚊帳のなかでおよいだこともあった
ホノルルの海の群青色に波だつた蚊帳のなか
思い出にせなかを 直立させられて
私はなおもハワイの海を凝視する
クジラが八頭 イルカが九頭
西山連山のようにつらなり そして
尻尾があらわれ
太古の文字をえがいて消えた そのあいも
なおも目をこらす なおもなおも目をこらす
眼が海と同化するまで 海にそまるまで
目をこらす
海のひかりの果てまで
空のかがやきの果てまで
そのさきまで
むこうがわがみえてくるまて
※
初めの三行「山梨の山脈の坂をこえて 六十歳をこえて 今 私は三百六十度ひらけたところに出てしまった」はどんな意味か、この詩を更に読んでいくと深く深くわかります。
「意味」が「深くわかるというのは少し変な言い方ですが、この場合は他に言いようがありません。
幼い頃の「南国のいちまいの空」と今、目の前にひろがる「いちまいの大海原」が重なり合い、溶け合っていきます。
大海原を見つめていると、波が山になったり、峠になったかと思うと山々が鯨になったり、太古の文字になったりします。これが三百六十度ひらけたところなのです。
風景や場所は時を隔てて、私たちをつなげているようです。
「海のひかりの果て」「そらのかがやく果て」その先に何があるのか、わかりませんか、私たちはそこにむかっているような気がしました。
山田玲子「雨にぬれた木」でも思うのです
雨にぬれた木 山田玲子
五十年まえ
わたしは堺市に住んでいました
二階の部屋の窓をあけると少し向こうに
石油コンビナートの建物がみえたのです
もっと前
二歳年うえの夫が子どもの頃に
そこは白砂青松の浜辺で
子どもたちは
家から裸足で泳ぎにいったということです
賑わっていた海岸
もうそのわが家はありません
家族のなかで
生きているのは わたしひとり
でも思うのです
横浜の中ほどに今住んで
雨にぬれた一本の木を眺めています
そのうちわたしもかならずいなくなる
でもこの木はなくならないでしょう
わたしより長生きするでしょう
桜も開き花見の人も集うでしょう
ふとわたし思います
わたしもやはり幸せなのだと
※
この詩はひと言でいうならば意味もとりやすく単純な詩です。でも、私はこの詩を宝物のように大切に大切にしまって置きたいという感じがします。お終いの節
でも思うのです
横浜の中ほどに今住んで
雨にぬれた一本の木を眺めています
そのうちわたしもかならずいなくなる
でもこの木はなくならないでしょう
わたしより長生きするでしょう
桜も開き花見の人も集うでしょう
ふとわたし思います
わたしもやはり幸せなのだと
を読むと何とも心が軽くなります。この節の前は一行開いていて、それが〈でも思うのです〉と始まります。私はここの処画とても好きです。
この明けた空白の一行に時の流れをありありと感じます。だからこそ、〈でも〉なのです。
そして最後に〈ふとわたし思います わたしもやはり幸せなのだと〉これはとても単純デ意味はよくわかります。たぶん私たちの幸せとはこういうことなのだと思います。
2014年10月19日
鷲谷みどり「フラミンゴ」言葉の旅
フラミンゴ 鷲谷みどり
フラミンゴたちは眠りのあいだ
木のように
夜のしずくを吸い上げている
この公園の
いきものたちは毎夜
四角い柵に自分の眠りを立てかけて
四角い夢を見るけれど
自分のかたちの上手な手放し方を
よく知らない私は
まだ うまく眠れない
彼らの眠りを一体何が支えているのか
植物のような関節で
ここにこうして立ち続けるために
一体どれほどの夜のしがいが そこに
井戸のように落とし込まれ続けなければならなかったのか
その疑問に答えようとして
なぜか私が足をもつれさせてしまう
この箱のなかの
うす赤いいのちの群れの中に ひとつだけ
張りぼていきものが立っているような
そんな不思議な間違いが この四角い柵に
眠っているような今夜
私は なんだか何度も
鳥たちの顔を覗き込んでしまう
鳥たちの夜の色をした目を覗き込んでから
私の夢のなかに
その紙のいのちの質感が消えない
かさこそとした音の
むせかえる夜の匂いのなかで
紙のいきものは 一体
どんな重心で
みずからのいのちをこらえているのか
息をつくたび ほどけていこうとする
その桃色のいのちの首とで今
とうやって夜の色をせき止めているのか
奥行きのない 淺い水の夢のなかで
あらゆるものから目から覚ましていても
あるはずのない私の体の底の井戸の
くらい水のたてる音からは
ついに起き上がることのできないまま
水辺の鳥たちは 夜明けを前に
自分の体の
上手な折り目を探している
※
とても不思議な感じのする詩です。
私は一度もこれほど鳥を見つめたこともないし、鳥の間近にいて、遂に鳥と一体化してしまうような
ことは、全く未経験なので、何が書いてあるのかよくわからないのですが、それにもかかわらず、先へ先へと読んでしまいます。
なぜそうなのかといえば、もしかしたら、この詩の言葉が持っている独特の力のせいかも知れません。
言葉と言葉として生まれる私たちの内側にも外側にも同時にある言葉、その言葉が生まれる前になにかしらあるもの、殆ど物質のようなもの(人によってはこれを「言霊」などといったりしますが私はこの言い方はあまり好きではありません)この詩人がめざしているのは、この言葉の基ではないでしょうか。
この言葉の基があるのは私たちを生み育てた場所かも知れません。
2014年04月28日
草野早苗「洞へ」詩の住処
洞へ 草野早苗
昔、島で戦いがあって
谷あいの集落の
全員が命を落とした
村人は自分の死が理解できず
今も地下で暮らしている
午後から夜にかけて
雨が止むとき
低い声が谷間に響くのはそのためだ
民宿の主人に言われた
明日の朝
村の裏口の鍾乳洞に行ってみたらいいと
小さな洞の近くに大きな洞があるらしいと
地質学者は言うけれど
大きな洞の入口がまだみつからないのだと
夜明け前
ちいさな鍾乳洞の入口から出入りする
半透明な人々
魚を持ち山菜を持ち実直な姿で歩く
母親がこどもに何か言っているが言葉の意味がわからない
人々は私に向かい
声を出さずに会釈する
どうぞこちらへと手招きをする
ここに入ってはいけない
ついていつてはいけない
急な驟雨が谷間に降りそそぐ
午後までここにいてはいけない
紫色の島は西方向に遠ざかり
島の上にだけ
透けるように薄い青紫の
絹布のような雲がかかっている
私は自分のポケットに
方解石のかけらを見つけた
それは親指ほどの大きさで
夏の雨ほどの湿った匂いがした
※
それぞれの詩にはそれぞれの住処というか、次元というようなものがある感じがします。この詩ではそれが初めの一節ではっきりと姿を現しています。それは怪談仕立のようであり、オカルト風でもあります。
それにしても「村人は自分の死が理解できず」「今でも地下で暮らしている」という言葉には私はびっくり仰天してしまいました。そして、その意味が理解できないままにこの詩の住処をたどるように
読んでいくとそこには、「半透明な人々」や「言葉の意味が分からない人々」がいて話しかけようとします。
この怪談のような世界は決してグロテスクでも血なまぐさい感じがするものでもありません。
でも、とてつもない大きな穴が開いているような気がします。「自分の死を理解できず」「命をおとす」ことなどあるのでしょうか?
もしかしたら、あるのかも知れない。
ちょっと乱暴な言い方かも知れませんが、原爆や東北大震災、そしていまの日常の生活と思い浮かべてくると、私にはそのことが必ずしも怪談とはいいきれません。
ひとつの詩が心に残るのは、その詩の一行か、あるいはひとつの言葉があることによって、そうなる場合がよくあります。
「自分の死が理解できず」というのが、この詩のポイントであり、この詩の住処と思います。このことを私は最後の「方解石」によって実感するのです。この詩をよみながら私はカフカの「審判」の「犬のように殺された」というのを思い出しました。
b࣫
2014年04月27日
植木信子「便り」 詩を歩く
便り 植木信子
薄青い空間に
靄に覆われて笑っているひと
泣いているような
西の空は夕日があかい
誰なんだ 何故なんだ
朱色したとても大きい秋なんだ
黄金色の稲穂に刈り取りのすんだ茶色の田がまじり
遠くの山並みがあおい
すすきの穂が光って
白鳥のように下りの列車がすべっていく
ふるさとの便りを届けるなら
柿の実色した夕日が眩しくて どこかに
すすきだけの原があるのです
白い穂並みが海原のようにつづく真中を
道がまっすぐに延びている
誰かが一人その道をゆく
道は夕日に向かって延びていて
地平に消えていきます
日も暮れて
祝歌、太鼓も鳴って
びしょうぶつが影を落とします
暗い洞をぬけた半円の陽のなかに佇むひとがいます
はさ木の交叉する道で声をだしてわらうので
昔きいたあなたのようなので振り返ります
月画のぼって 田園は沈んでいって
星も落ちてくるようです
街の灯が懐かしく
秋の夜長
ふるさとに便りをしたためるなら
今年もお酒ができました お茶もうまく実りました
追伸として
秋深い行道です
暮れた大地のはさ木の辻にはびしょうぶつが並んで
影を落としています…と
※びしょうぶつ 木喰いが作ったとされている微笑をうかべた一本彫りの簡素の木像
※はさ木 刈りとった稲を干す木
※
この詩を読んでいくと、どこかへ導かれていくようです。突然「誰なんだ 何故なんだ」と大きな声が
きこえてきて、とてもびっくりしました。でも、道は先の方に続いているようで、辿って行かずにはいられません。
その風景はひとつひとつ細やかで思わず見とれてしまいます。なつかしいようでもあり、初めてのようでもあります。
いつの間にか日常から夢の世界へ、あるいは生の世界から死の世界へ導かれていきそうで、少し
怖い感じです。
決してどこへたどり着くのか、わからないので、それが不安です。その一方で、私はこの詩を読みながら、宮澤賢治の世界や災害にあった東北のことなどを思い浮かべたりしました。
多分、ここには「詩の道」があるのでしょう。それは宇宙の星のように人間の世界をめぐっています。
多分、ひとの詩の道はひとつの星の道と同じように無限の時空に向かってひらかれているのでしょう。だから、この詩人は明日になると再び新しく詩の道を歩き始めるのでしょう。
「便り」というのは、多分、この人にとって詩の別名なのでしょう。。
大石ともみ「天秤ばかり(三)」おいしい詩
天秤ばかり(三) 大石ともみ
私は物の重さを量るよろこびは
その沈黙を聴くこと と
洋菓子店の閨房で
小さな天秤ばかりは
また語りはじめた
一グラムの分銅に見合う粉砂糖
二つの皿が 揺れ定まると
粉砂糖には
沈黙が降りてくる
沈黙に 在って
静寂に 無いもの
万華鏡の軽やかさで
沈黙は 澄んだ一音で
透明な旋律をかすかに響かせる
物の重さを量るよろこびは
沈黙の旋律が
祈りの音色に聞こえると と
一グラムの粉砂糖を量り終えた
古典的な道具は
哲学者の眼差しでこう語った
※
私が面白詩と考える詩のなかには時に「おいしい詩」としか言いようのないものがあります。
この詩はその代表的なものです。
この詩ができるまでは多くのの年月や時間か体積しているような感じがします。
でも、この詩はとてもみずみずしく、小さな子供や木の芽のように柔らかです。これらの言葉がどこから来て、どこへ向かっていくのか、私には分かりませんが、この詩を読む私を甘く包んでいることは
確かです。
宇宙はどこにあるのかわかりません。このお菓子屋さんもどこにあるのかわかりません。
でも、必ずあるような気がします。それはこれらの言葉が喜びながら歌っているからです。
永い時間生きてきたからこそ、伝わるものがあります。それはたとえば私の好きなシュベルヴェーイルの詩に「馬はふりむいて 誰も見ないものを見た」というのがあります。
私はこの「天秤」に同じようなものを感じます。
それは私たちの間近にありながなら決して見たり、触れたりすることがめったにない極上のお菓子のようなものなのでしょう。
2014年04月24日
神泉薫「忘却について」地平線
忘却について 神泉薫
わたくしたちがいま
忘却しているのは
もっとも等しく大地を照らしている 太陽
もっとも明るく夜空をてらしている 一番星
もっとも無防備な裸足に優しい 土の温もり 砂浜の清々しさ
季節に傾く雨の匂い静かな小鳥のさえずり
枝を這うカタツムリの歩みの ゆったりとした時間の豊饒
手をつなぐこと
頬に触れること
本当はひとつの椀で充ち足りること
充ち足りれば 永遠に争いは起こらないということ
「生き方はいくらでもある
ひとつの中心点からいくらでも半経がひけるように」
と綴った
ウォールデン湖畔に住んだH・D・ソローのまなざし
着こみ過ぎた衣類に
隠れてしまった新しい肌があること
人工の偽の皮膚を脱いで
大いなる自然の大気に まるごとさらさらされること
冬の時代に流され 翻弄され
掛け違えた胸のボタンを正す指がかじかんでいる
わたくしたち
生の中心に屹立する一本の志の鋤で
柔らかくも逞しい心を耕すこと
ときには
開いたままではなく
忙しない瞳を閉じること
さらなる沈黙のために 饒舌な書物を閉じること
閉じた視界の裡には
深々とした漆黒の夜が開かれ
決して忘却してはならない
もっとも強靱な人間の孤独が
生い茂る森のように目覚めている
※
この詩は警句のようであり、論理的緊張をはらんでいながら、しかも、どこか抒情的です。
冒頭の<わたくしたちがいま/忘却しているのは>という問いが柱となって、その周りに壁や窓がつけられていくような感じがします。それらはひとつひとつ温もりがあり、やさしく、みずみずしい。
だから安心してひとつひとつの言葉に導かれ、建物のなかを眺めて行くことができるのです。
その光景はときには今まで見たことがあるようなものであったりしますが、それにもかかわらず、初めの<わたくしたちが/忘却しているのは>という柱がしっかりと屹立しているから、全く新しいものと
なります。
そして、このことが最も単的に現れているのが最後の三行です。
<決して忘却してはならない
もっとも強靱な人間の孤独が
生い茂る森のように目覚めている>
警句は外に向かって発せられるものであるが、この詩の場合明らかに内側に向かっても発せられている。これがこの魅力なのです。。
2013年10月28日
清水弘子「思イダシテクレロ」在るけどない
思イ出シテクレロ 清水弘子
川に寄り添う緑の丘陵の川向かいに暮らしている ここから見ると丘
陵は 伏した大きな生きもののかたち そんな丘陵をゴンドウと名付け
川沿いの土手道を十年散歩して
犬が透明になってもいっしょに散歩して
まいにち川向こうのゴンドウを愛でる
ゴンドウはますますゴンドウになり
夕くらやみ
身体をふたまわり大きくして
かすかにうごく背中の気配の
こちらの頬まで触れてきて
何度もわたしに言ってくる
モットモット思イ出シテクレロ
何百何千年前ノ
此処ノコト オレノコト
トップリ其処ニ沈メルクライ
思イ出シテクレロ
わたしの受け継ぐ
わたし以前のものたちは
忘却の厚い真綿をなぞるだけ
わたしをせつなくさせるだけ
そういえば
お前のすがたはここから見ると
古い都の
古墳みたいだと言ってやると
あの犬みたいに
ない尻尾をぶんぶんふる
いない犬の伏したかたちになって
ソウソウ ソレカラ ソレカラ
こんなわたしに
在るけどない
ないけど在る
そんなものを紡げという
※
この詩のはじめの二行に出会ったとき私は背中がぞくぞくする程感動しました。「犬が透明になっても」とは犬が死んだことなのでしょうが、それがわかると、透明な犬が本当に一緒にいるようで、びっくりしました。この二行は私にとって、この詩全体を決定するようなものでした。
この二行によって、というか、「犬が透明になっても」という言葉を通して全く世界が新しく見えはじめたのです。それはまさに別世界の扉のようでさえありました。
それから、二連三連と続く古代ゴンドウとの交流や対話などもとても面白いのですが、それも、この
透明な犬と同じ世界なのだと思います。
その世界は何億年も超える時間の中で生きものがお互いに言葉を交わしたり、愛し合ったりすることです。「在るけとない ないけど在る」を紡ぐのは透明な犬なのだと思います。
2013年10月23日
長田典子「もしもできたら」言葉と一緒に
もしもできたら 長田典子
できたら
犬のポチのときみたいに
湖の見える山の斜面に埋めてください
心臓の辺りに小さな梅の木を植えてください
二月のある日 白い花が
冬の花火のように満開になる頃
漣のように甘い匂いが広がるでしょう
鳥が乳のように蜜を吸い 囀るでしょう
誰かが ふいに振り向いて言うでしょう
もうすぐ暖かい季節が始まると
できたら もしできたら
※
私の場合、ひとつの詩を書くのに何日も何日もかかるときと、一時間もかからずにあっという間に
できる場合があります。そして、このことは誰もが同じではないかと思います。
しかし、よく考えてみると、これは不思議なことのような気がします。一時間足らずで、できるときは、まるで風が吹いてきたように、ふあっとできます。
あるいは小鳥の声がきこえてきたかのようでもあります。
ところでこの詩は、あるとき詩人の中にふあっと生まれたものではないかと感じます。ひとつの詩としては決して深遠な詩であるとか、鋭い詩とかいうものではありませんが、何とも今生まれたばかりのような初々しさがあります。(恐らく、この初々しさはいつになっても消えることはない)
こういう詩は書けそうで、しかし、決してそうではありません。いつもいつも、言葉と一緒に何かを
考えている、言葉と一緒に何か悩んでいる、
そうしたなかから初めて生まれるのだと思います。
そのひとつの証が最後の言葉にあります。「もしできたら」、この言葉が私のこころの奥に響いてきました。
2013年10月22日
柳内やすこ「輪ゴム宇宙論」興味津々
輪ゴム宇宙論 柳内やすこ
宇宙はごく細いパンツのゴムが一瞬にして悠久の時を駆けて
一周してつくられる。
輪の本質は閉じていることである。歴史は閉じている輪の上
をたえまなく時計回りに進んでいる。従って歴史には始まりも
なく終わりもない。現在は最も遠い過去であり最も遠い未来で
ある。アダムとイブは過去の神話であると同時に未来の神話で
ある。宇宙に果てがないというのも同じ論理である。「ここ」
は宇宙で最も遠い地点である。胎児は母親にとって最も遠い存
在である。
ゴムの本質は伸び縮みすることである。従って時間は速く進
むこともゆっくり進むことも可能である。宇宙が大きくなったり
小さくなったりするのもこのためである。ゴムの伸び縮みに
ついては後述の別次元の作用によるがまた変形することも可能
であるからまれにひょうたん形になってくびれた部分が接触し
た場合歴史の流れが8の字になり半分逆行してしまうこともあ
る。
平ゴムの本質は表と裏があることである。従って宇宙は交わ
ることなく循環する一対の世界である。明白に二つの世界は生
者と死者の住みかである。ねじれたメビウスの輪であるからど
ちらが表なのかは定かでない。時間の進行はそれぞれの世界で
全く独立しているが魂は時間の流れを垂直に横切ることにより
互いの世界を行き来できる。
ところで一方宇宙に果てがあるという場合がある。それは平
ゴムの幅のことを言及している。ごく細いゴムであるから宇宙
の果てはごく身近に存在している。
ブラックホールはいたる所に存在する。白いゴムの上以外は
すべて暗黒の別次元なのだから、それは生でもなく死でもなく
無機物でもなく歴史も言葉も感情もなく輪ゴム宇宙にないもの
がすべてある完璧な別次元である。
また歴史に始まりと終わりがあるという場合パンツのゴムが
最初に一周した時点とやがて使い古されて切れてしまう時点を
問題にしている。しかし両時点は輪ゴム宇宙外の別次元の作用に
関するものであるから我々輪ゴム宇宙の住民にはとうてい理解不
可能なのである。
※
私も宇宙論に関しては、それなりの興味を持っています。だから、宇宙論のニュースや話題には
耳をそばたてて聞き入ることもしばしばです。
しかし、こんなユニークな宇宙論ははじめてで、思わずお終いまで読んでしまった。
そうすると、宇宙について新しいことは全くわからなかったけれど、輪ゴムについては今までと
全く違った認識を得るに至ったのです。
それと同時に、もしかしたら宇宙は理性や科学によってわかるものではなく感触によってわかる
ものかも知れないと思いました。
そして新しい世界に出会ったような気がします。
この詩には何かとぼけたような感じが漂っていて、しかもどこかしら真剣なところもある、それが
この詩の魅力であると思いました。
それは輪コム宇宙論という内容にあるのか、それともこの詩の言葉使いにあるのか、私にはよく
わかりませんが、今までにない詩の世界がはっきりと感じられます。
どんなささいなもの、どんな小さなものでもそれなりの世界をもっていて、それはみんなつながって
いるに違いないと思いました。
2013年04月28日
植村初子「夜明け前AFTER DARK」決定
夜明け前AFTER DARK 植村初子
稲穂とねこじゃらしの野を
兄弟は雲にのって
かけつけた ロビーのソファで
仮寝をして時をまちうけた
父は死んだ。
(このことばを石にしたい)
病院の
浴衣を着せられ
三十分後には もう
県道を疾走。
深夜二時の
まだ重くない あかりを消した家々の
ぎざぎざするシルエツトの暗闇にの上に
一本の纜にぶらさがるゴンドラの
ディアーヌ。
車の窓からみあげる、
兄弟三人の月
家族の物語
王は父。
帰還後の銀色の美しい着物。
こんなことばでいいのかしら
娘が父親の死をいうのに
まっすぐ父に向きもしないで
なにかはしゃぐようで
しらじらと鍵盤が野のように広い
どこに指を落そうかと始まる音を想像し
手を空中にとどめる
でも…
道にアベリアが咲き
父は死んだ
神戸屋で秋のぶどうジュースをのむ
父は死んだ
白い槿が咲く
父は死んだ
生垣のむこうを調布駅南口行の
小田急バスが明かりをつけて通った
※
「決定的瞬間」という言葉はよく写真について言われますが、私はこの詩を読んで「決定的時」という
言葉を思いつきました。「決定的時」というのは、その前でその後でもないるそういった時のことです。
それがなぜ「瞬間」ではなく「時」であるのかというと「瞬間」は目で捉えるもので、「時」は心でとらえるものであり、従って言葉でしか現すことができないのです。
なぜこんなことをくどくどとかいたかというと実はこの詩を読んでそういう感じになったのです。つまり、この詩は決定的時を書いたものだとおもったからです。
「父は死んだ。
(このことばを石にしたい)」この二行
これがこの詩の決定的な時です。
恐らく、この詩は「父は死んだ」ということのためにだけ書かれたものに違いありません。この詩を書いたひとは、この言葉を書くことによってはじめて「父が死んだ」ことを納得できたのだと思います。
そうしないと詩人は「父が死んだ」という事実の前でふあふあして自分自身の存在か゜とても不確かなものに感じられたのだと思います。
こういう時に誰でもが生きていく間にどうしても「決定的時」に出会い、それを引き受けなければならないのかも知れません。
そういった状況で、詩というのは大きな力を発揮するのだと思います。
2013年04月27日
木村透子「凍る季節」拡張する言葉
凍る季節 木村透子
血管を透かせた羽虫が這う
遅い午後の微光のなかを
二月の闇がむくむくと育っていく
からだが沈んでいく
足元からずりずりと
何かに引っぱられて あるいは
からだの重さで墜ちていく
けれど どこに
真っ暗な空間をただ下へ 下へ
手にも脚にも触るものはない
虚しく空を切りながら
冷たい闇を ああ―
目が馴れてくる
黒にも濃度があるらしい
緩い流れもある
流されている
いえ むしろからだが流れにのっている
わずかに右に傾くことで
ゆるりと渦を巻きながら
らせん状に墜ちていく
身をまかせれば案外楽にいられる
闇の底を覗けるのなら
それもいい
体液も凍るのだろうか
感覚も思考もざらざらとこぼれて
規則的な生命音だけがかすかにつづく
堕ちつづける
なおも
凍りきらない赤いひとすじが
わずかに意識をつなぐ
真っ赤なダリアがひらく
大輪の花の完璧な幾何学図形
花はゆるりと自転しはじめる
ものたちがらせんを描いて
吸われていく
花心の
ブラックホールに
※
この詩人は物理的な世界(原子の世界から宇宙まで)と心的世界(思いこみや誤解から人類愛まで)を交流させたいという願望があるようです。
それはたとえば初めの二行のなかによく感じられます。
血管を透かせた羽虫が這う
遅い午後の微光のなかを
二月の闇がむくむくと育っていく
これらの言葉が息づくためには物理的世界だけてもなく、また心的世界だけでもないという感じがします。
「二月の闇がむくむくと育っていく」ためには、どうしてもこの二つの世界が同時に必要であるとこの詩人はいっているようです。
それをうけいれて読んでいくと、次の連に書かれていく内容は、平凡なようですが、それにもかかわらず今まで全く体験したことがないような異質世界を感じまする
さらに四連めの「僅かに右に傾くことで ゆるりと渦を巻きながら らせん状に墜ちていく 身をまかせれば案外楽にいられる」と読んでいくと私自身がこの異質世界に迷いこんだ感じになつてくる。
しかし、この世界は<五連目>「体液も凍るだろうか 感覚も思考もざらざらとこぼれて 規則的な
生命音だけがかすかにつづく 恐れともすっかり親しくなってしまった」
でもねもしかしたら、これは3.11以降の私たちの世界とどこかつながつているのかも知れない。
臺洋子「静寂しじま」小さくて大きな世界
静寂しじま 臺洋子
闇の中で あなたの声を聞いた
触れることもなく 声だけで距離をはかり
あなたの顔を知らないまま 会話する
あなたの思い出や わたしの思い出
わたしたちの声だけが
行ったり来たり 浮遊している
かたちのない時が
はじまりのどこかにあって
それでも声は
魂のようにゆらゆらと響き合う
そんな場所で
いつか話していたような気がして
※
音楽にたとえるなら、この詩は小夜曲(セレナーデ)であると思います。
圧倒的な感動というわけではありませんが、心の隅に息づいていてなかなか忘れられない感じがします。
私がこの詩を好きなのは、言葉の流れ、リズムがとても自然で気持ちがいいということです。
読んでみるうちに、いつのまにか、私は声を出して読んでいるような気持ちにさえなります。
音楽というとね私はどんな好きな音楽であってもその全部を覚えていることはできない、でもそのうちのどこかしらの旋律が必ず心に残りまする
さて、この詩でも全部覚えていることはないと思いますが
「かたちのない時が
はじまりのどこかにあって
それでも声は
魂のようにゆらゆらと響きあう」
この部分は決して忘れないでしょう。
静寂(しじま)というタイトルについて本来、「夜の静寂(しじま)」とか「森の中の静寂(しじま)」とかというように、環境についていわれるものだと思いますがこの詩の場合、心が宇宙と融け合うような感じがしてタイトルとしては大変成功していると思います。
三井葉子「秋の湯」のなかの「断絶」時間のなかで
断絶 三井葉子
夜中にデンワのベルが鳴って
いまから死ぬ
と
石原さん*が言った
わたしはちょっと考えたが
仕方がないので
どうぞ と言った
彼はそのとき死ななかったがさくらのような雪のふる抑留地シ
ベリアで凍っていたので、ときに解けたくなるのだ。
でも
凍っているからこそヒトとの間は断絶することができ
る。それこそがわたしたちが共生できる基なのだと彼は言った
のだ。
夕焼け雲が解けながら棚引いている
断絶も
共生も
もうわたしたちには用がないわね。
*詩人・石原吉郎
断絶―三井葉子詩集『灯色醗酵』から
※
嘗て私はこの「断絶」という詩を一度読んだことがあります。
それはいつの頃のことなのかはっきりとは思いだせませんが、私が若かったということ、そして、この詩がとても大人びていて大胆な感じがしたことをよーく覚えています。
「わたしはちょっと考えたが
仕方がないので
どうぞ と言った」
この言葉を読んだとき、私はドキドキして何だか無性に「大人になるって大変なんだ」と思いました。
今度、この詩を読んでみて、不思議なことにこの詩に対する感じは殆ど変わっていません。
「大人になるのが大変」というのは「人間になるのが大変」というのに変わったような気もします。
そして、はじめて読んだ時には殆ど気にかけなかった最後の゛断絶」という言葉が私の頭の上を雲のように流れていきました。
さて、今回この詩は詩「秋の湯」の一部として発表されいるわけですが、私はこの詩のスケールの
大きさに大変感動しました。
そのスケールというのは「断絶」を原子とした宇宙のひろがりのような感じがします。恐らく、このスケールを支えているのは詩人と自死した友人との信頼であると思います。
2012年11月05日
中村純「もしも、私たちが渡り鳥なら」母親論
もしも、私たちが渡り鳥なら――すべての母たちへ 中村純
(あなたを産んだ夜、何度も産みたいと思った。完璧な個体であるあな
たのからだ、あなたの人生。私のものではない。あなたの人生ははじ
まったばかり。放射能が振ろうとも。全ての母よ、渡り鳥のように
子どもを連れて安全なところに飛び立て、裸で産んだあの日のように、
素足で生きることを恐れるな。)
裸の凜とした肢体で 私たちはただの母だ
裸の凜とした肢体で 私たちは君たちを産んだ
君たちが産まれて
分娩室で裸の私たちの胸にのせられたとき
君たちは懸命に生きようと乳を吸おうとした
何もないことがしあわせだつた
私たちは裸でも生きていかれる
素足のまま 歩いてゆける
もしも私たちが渡り鳥なら
何も持たず
安全な食べもののあるところを目指して
きみたちを育てられるところを目指して
今すぐにでも飛び立てる
ただ母として ただの裸のいのちとして
今 私はただの母に戻りたい
君を産んだあの日
素足で世界に降りたって
世界と和解した夜
何度でも君を産みたいと願ったあの夜
はだかの私 はだかの君
お金も家もしがらみも仕事も何もかも棄てて
もう一度 君と生きることだけ考えて
君を連れて ここから飛び立ちたい
そしてすべてがはじまる
※
この詩は何にも難しいところはない。小学生からお年寄りまで、子どもも大人も、おかあさんもおとうさんも誰でもが、この詩の意味と作者の願いがわかるに違いない。
こういった詩(誰でもわかる詩)を読む時に大事なことは、書かれた言葉をそのまま受け取り信ずる
ことではないかと思います。
それは簡単なようでもあり難しいことでもあります。たとえば二連目の<何にもないことがしあわせだった 私たちは裸でも生きていかれる 素足のまま 歩いてゆける> この言葉をずうっと受け入れることは決して簡単名ことではない。
それにもかかわらず、私たちは心のどこかで、「ああ そうだ」と了解しているのだ。
実は、この詩全体が、これと同じようにかかれている。
そして、このことが、この詩の魅力の秘密であるとおもいます。
ただ私なりに、この詩を読んで感じたことを言うと、何だかとても怖い感じがします。
母であることは、とても怖いことでもあるのです、特に現代のような時代では。
それにもかかわらず、わたしたちは一人ひとり渡り鳥のような母でなくてはならないと、この詩を読んで感じます。
2012年11月04日
網谷厚子「瑠璃行」時を結ぶ言葉
瑠璃行 網谷厚子
夜を行く 星の輝きがとがった無数の針となって 空に
開く夜 幾度も傷ついた人々の深い眠り 透明な涙が溶
ける ねっとりと厚みを増した夜 深く沈んだ魂が ほ
んのり輝きながら 黄色や青 紫の珊瑚礁の上を 飛び
回る 空も底も賑やかな 夜を行く 死にいく意志そのものと
なって 弾丸となって 砕けていった魂 ふるさとに帰
えりたくとも帰れない悲しみが青く輝く 飛行機や駆逐艦
の残骸も 静かに眠る 珊瑚が生い茂り いくつもの塊
となって 水にそよいでいる 遙か彼方の島では 今で
も遺骨を探す金槌の音が響いている 一万数千の魂が
帰る日を待っている 目を凝らしても 明日は身えな
い いつも世の中は 不安でいっぱいだ 闇の中をかき
分けて 両手両足にたくさんの傷を作りながら 人は歩
いて行く いやされることのない肉体が 生きながら蝕
まれていく 何十年経っても 終わらない戦い 誤解と
中傷と憎悪と失意の渦に 否応なく誰だって いつだっ
て巻き込まれる 狭い地球の中で 人々は 犇めき合い
大地や海底に旗を立て 資源の領有を主張する 戦いは
永遠に続いていく 勝った負けた 負けた勝ったを繰り
返しながら 痩せていく地球 激しくなっていく戦い
増え続ける 帰れない魂 浮かぶ身体が 青く輝きなが
ら 珊瑚礁の上を漂い 珊瑚色の水から飛び上がり 瑠
璃色の天空へと 駈け上っていく 夜を行く 悲しみに
包まれて 冷たく 眠ろう
※
この詩が書かれたのは、恐らく十年以上前のことだろうと思います。ですから、この詩と今回の東
日本大震災は全く関係がないわけですが、それにもかかわらず、私にはこの二つが無関係であると
は思えないのです。この詩が今回の大惨事を予告しているとは少しも思いませんが、私のなかでこの詩と今回の大惨事は密かに繋がっているような気がしてなりません。
それはなぜなのか、ということは、決して説明出来ないのですが、あえて言うならば、それはこの詩の持っている強さによるものではないかと思います。この詩に書かれている言葉は、ものごとをできるかぎり正確に、そしてできるだけ多くの人に届くように語られています。
それはこの詩全体について言えることなので、特に何行目、どの言葉とかいうわけではありません。でも、たとえば、はじめの
「夜を行く 星の輝きがとがつた無数の針となって 空に開く」は特にそういう感じがします。
前に、「ものごとをできるかぎり正確に」といいましたが、この詩人にとってものごととは目に見える
現実と決して目に見えない心のなかの出来事、この二つを合わせたものであると思います。
そして「正確に」というのは、この二つの世界を必ず重ね合わせて見ることだと思います。
これがこの強さです。
2012年10月29日
金恵英「やわらかな時計の中で」率直さということ
やわらかな時計の中で 金恵英
私か解読しようとする記号は
空から降り注ぐ雨だったり
頭蓋骨から降り注ぐ言葉だったり
二本の足の間から流れる精液だったり
二つの足の裏から逃げていく風だったりした
私が解読しようとする貴方は
ベッドに横たわり丸いおっぱいを晒したまま
犀月の日差しのごとく眠っては開いた唇に
私の舌を重ねれば赤いチューリップになる
愛撫した手がチューリップのスカートを脱がせば
ぽろって落ちてしまう花びら
首だけ残ったチューリップ
私が解読しようとする絵は
モナリザの微笑みをあざ笑う
分かりそうで分からないなぞなぞのような
記号でぎっしりの
柔らかな時計の中で道を尋ね
か細い指にモナリザの服は脱がされる
肌の色した玉ねぎのように
一枚二枚と剝がすほど
何もない!
白い血を増殖する時計が
体の中でちくたくと回り
私が解読しようとする肉体は
真ん丸の月のごとく萎れていく
※
私はこの詩にある率直さを感じます。
それは日本の詩には殆どみいだせない民族の資質なのだとさえ感じられます。
この率直さは、子どもが持っているような正直さであると思いますが、しかし、それだけではなく、
互いに引っぱり合ったり、はじけ合ったりするようなエネルギーを感じます。
たとえば、「私か゛解読しようとする」という言葉は、この詩を一つの建物にたとえるとするならば、その柱にあたると思います。
この言葉にも、私は一種の率直さを感じます。それは何か未知なものに全身で向かっていく率直さです。
はじめ読んだだけではやや理屈っぽいこの言葉も何回か繰り返し読むと、それ自体が言葉の肉体
性のようなものを持っています。
「頭蓋骨が降り注ぐ言葉」
「二つの足の間から流れる精液」
「私の舌を重ねれば赤いチューリップになる」
「愛撫した手がチューリップのスカートを脱がせば」
とかといった表現はイメージというより、言葉と言葉のぶつかり合いのような感じがして、私はあまり
詩のような感じがしません。その代わり、私はどこかでこんな言葉を使ってみたいと思ったりもします。
これにもあの率直さがあると思うのです。率直な言葉はいわばことばの元素のようなもので、互いに
ぶつかり合って大きなエネルギーを発散させたり、また時には全く新しい世界をつくリだすかもしれません。それを「やわらかな時計の中で」可能にするのです。
投稿者 yuris : 13:50
2012年10月28日
小島きみ子「ひそやかな星のように」いのちは星のように
ひそやかな星のように 小島きみ子
*
いつの間にか雨が止んで、灰色の岸辺にでは、春の初めに咲く
花の木がそよぎはじめた。その蕾は次第に膨らんで、ひそやかな
星のようだった。冬を連れ去っていく風の音を聞きながら、枯
れ草の上を歩く時、白い雲に流された影を、私は、鳥が獲物を
追う目になって、影のなかを見つめる。私たちは、見えるよう
な愛を求めていたのか。空は、泣きじゃくる子の波打つ髪の毛
のように揺れていた。
*
ふと、懐かしくて、影のなかに向かってなまえを呼ぶとき、
きっと言うのだ。それも明るいきっぱりとした声で。(僕)は
あなたの思うとおりにはならない。(僕)は(僕)を守るよ。そ
れでも、どうか元気でいてください。(僕のmama)と。私は
再び影のなかの、草の種のような、小鳥の目になって言うのだ。
私の母へ。(mama 私は、あなたの思う通りにはならない。そ
れでもどうか元気でいてください)
*
かっての私たちが暮らした、キッズクラフのその家では、放
課後の子どもたちが、ボランティアの青年と遊んでいたる黒い
髪の少年たちのなかに、ブラウンの髪の少年が混ざっていて、
彼は誰よりも速く野芝の上を、カラマツの木々の間を、走り抜
け行くのだった。その枯芝のなかに、小さな札と囲いがあっ
た。「花の種が(芽)をだします。踏まないでください」私の
影の上に重なる芽の、青い影を踏んだのはだれ。
*
森の小道を、別れてゆく人と散歩する。まだ花の咲かない桜
の樹皮は、夕べの雨で濡れて、新しく生まれてきた子どものよ
うに、光った息をしていた。私たちは、樹にもたれて、苦しめ
られた仕事のいろいろなことを思い出す。あなたは、また再び
言ったのだ。きっと戻ってくる、また一緒にやろうって。その時、
つややかに光る木の枝を折るように、白い雲の間を渡って行っ
たのは小さな獣、それとも辛夷のはなびらだったのか。
※
この詩のなかで、不思議な、でも、そんなふうに私も考えていたのかもしれない、と思ったのは、
三連目に書かれていることです。
「(僕)はあなたの思う通りにはならない。(僕)は(僕)を守るよ。それでも、どうか元気でいてください。(僕のmama)と」
「私の母へ。(mama 私は、あなたの思う通りにはならない。それでもどうか元気でいてください)」
というところです。家族の絆とか、つながりをこんなふうに、きっばりと、しかも冷たくではなく、ある種のユーモアが感じられるように、言ったのは、とても面白いと思いました。
この詩全体についていうと、自然そして宇宙と人間がどこか深いところでつながっているような感じ
がして、そのことを感じるままに言葉にしたような気がします。
それは特に一連芽によく現れています。たとえば
「私は 鳥が獲物を追う目になって、影のなかを見つめる。私たちは、見えるような愛をもとめていたのか」に私は感動しました。
一連目と同じ四連目も自然と人間が融合するような世界が書かれています。
こうしたなかに、二連目の家族の営みが挿入されているのが面白いと思います。
この詩はどこかイギリスのターナーの水彩画を思い起こさせます。
2012年05月10日
伊藤啓子「おとこの家」家というもの
おとこの家 伊藤啓子
あの家には玄関がなかった
遊びにおいでと言われても
どこから入ればいいのかわからなかった
茶色い犬はおとなしく
くったり眠っていた
お祭りの日
あの家で
ひっきりなしに動く人影を見た
どこから出入りするのだろうと思ったが
いつの間にか笑い声がさざめいていた
一度だけ
台所の出窓が開いていたことがある
バラの花びらを詰めたビンと
サボテン鉢植え
腹の足しにならぬものばかりだった
遊びにおいでと言われても
花びらを口に含み
サボテンの棘で指をくすぐるような
女のひとが出てきたとしたら
とても気が合いそうになかった
※
私は十八歳のとき、東京に出てきて以来、一軒家に住んだことはなく、アパートかマンション暮らしであり、それは私の住まいということはできるけれども、私の家ではない。
その違いはとても面白く、家を舞台とした映画やテレビのホームドラマなどに見とれたりすることもある。
そういう私にとって、この詩は「おとことおんな」の詩というより、「家」という詩という感じがします。それと、この詩全体が何かひとりごとのようなリズムがして、そのことも私の家と関わり合いがあるような気がします。私が家について考えたり、話したりしようとすると、とこかしら、ひとりごとのような気がするからです。
もしかしたら、家というのは現代の人々にとって、そういうものかもしれません。たとえ、その人が今一軒の家に住んでいなくても。つまり、家はそれ程、かっては濃密な存在であり、物語性をもっていたということだと思います。
こうしたことが、この詩の余白にあるような気がします。それはたとえば<犬がくったり眠っていた>ことだったり、<台所にバラの花びらを詰めたビン>が見えるということ、これらの後に余白がひろがっているような気がします。
2012年05月06日
池谷敦子「夜明けのサヨナラ」一回限り
夜明けのサヨナラ 池谷敦子
どうしても こころは海に向かってしまう
どうしてか 岸辺に向かってしまう
ふわりとからだを放り投げて
草の底から
水面の下から
見上げてみたいのだ
出会ってしまったひとだから だいじにしてきた
背負ってしまった重荷だから だいじにしてきた
そう? 自分をだいじにしてきたんじゃなかったの?
ぜんぶ受け容れてくれたのが あなた
今は薄い骨だけになっている あなたなのだ
酸素マスクをずらしてあげると
サ・ヨ・ナ・ラ と
僅かな口の動きだけで伝えた
サヨナラ
しあわせな魚族だった頃の
水の感触が
もう まもなく
あなたを くるむ
※
この詩について、はじめに思うことは、この詩を高齢者だけではなく、多くの若い人たちに読んでもらいたいということです。
このような詩を書くことは、年をとり、それなりの人生を送ってからではないと、できないと思います。
しかし、これを読み、味わうことは別です。
若い人も必ず、この詩がよくわかると思います。よい詩には必ずそういった年齢を超える
力があります。
私がこの詩を読んで感じたことは、人というのは、何とやさしく、何と無邪気なものかということですが、それよりも言葉にならない、不思議さ、不思議であるが故に何とも素敵な感じです。この不思議さは、この詩を読んで私は初めて体験しました。いや、もしかしたら、私の中にあったかも知れない。それをこの詩が想記させてくれたというべきなのです。
この人の不思議な素敵さは、きっと誰の中にもあるのだと思います。それに、いつか出会う、それは一度限りの出会いかも知れません。
できたら、この詩を何度か、くり返して読んで下さい。そして、最終連に続けて、第一連、第二連と続けて読んでみて下さい。そうすると、私が書いた「不思議な素敵さ」がよくわかるのではないかと思います。詩はぐるぐると回る輪舞のようなところがあります。
岡田喜代子「潮は」今も潮はのぼってくるのだろうか?
潮は 岡田喜代子
朝ごとに ひたひたと
潮は河口から のぼってくるのだった
くちなしの花が しおれかけ
つややかな葉に少しばかり無残なかたちで
うなだれている
短い梅雨が明けようとする時に
また 水底のような渋谷の大学路を
泳ぐように行く途中
たった今 自分の暗い物語から覚めたばかりだ
という若者の目と出会った
初秋の朝にも
ただ潮が
その河をのぼつてくるのだった
誰ひとり 傷つけずに
※
私はこの詩のなかで最も感動し、心にぴったりと残っているのは最後の<誰ひとり 傷つけずに>です。私もこういってみたかった。でも、同じような言葉で詩を書くことはできなかった。
そういった思いがずっと長くあって、そしてこの詩に出会ったから、強くそう感じるのだろう。
ところで、この詩の枠がであり、モチーフともいえる「潮」はいつどこからやってきたのだろうか?<朝ごとに ひたひたと 潮は河口から のぼつてくるのだった>。恐らく潮はずっと昔から、もしかしたら太古の時代からのぼつてくるのかも知れない。しかし、その水は今でも<短い梅雨が明けようとする時に>、そして<たった今 自分の暗い物語から覚めたばかりだ という若者の目と出会った 初秋の朝にも>のぼってくる。
そして、これは私の想像ではあるが、未来にも、潮はのぼってくるのだろう。この潮は私たち人間の力を越えているかのようであるが。
けれども、それは<誰ひとり 傷つけずに>のぼってくる。これが作者の願いであり、欲望なのだと思う。
2012年05月04日
間島康子「ある十月の日の雨の降る」詩の場所
ある十月の日の雨の降る 間島康子
うす汚れた地下鉄のホームに
うら哀しいギターのバッハが流れる
黒いロングコートの男が長い髪をして
多分日銭稼ぎのために弾いているバッハ
昼下がりの雨の降りはじめた十月の日は
すれ違う人から何も奪わず
奪われるものもない
静かな気持ちが似合っていて
ベンチに腰をおろして電車を待った
記憶へ傾いていく苛立ちもなく
先へ先へとのけぞっていく重い力も湧かず
マンハッタンの真ん中の人のまばらな地下で
ヨハン・セバスチャン・バッハを聴いていた
疲労ではない 幸福というのでもない
ひとり ひとり くねくねと生きてきた
細い道のりのやわらかい穴のような時間
にそっと身を置いていた
アーチ形の闇の向こうから風が吹いてくる
竈に吹き送る息のような体温の束ねられた
風の波を先立てて電車が滑りこむ
一体どこへ行こうというのだろうか
あの人 その人 この人 このわたくし
それぞれにつないだ場所や行方や
あるもの無いものへの見えない契りに
背中を押され吸いこまれていく
あ バッハが
無造作に閉じられた電車のドアにはさまって
つやめいた声を響かせ
そして途切れた
ゴトン
とためらいの音がひとつ
電車はゆっくりと動き出した
わたくしをまかせていく
闇に光るレールの上を レールの先へ
※
現代のような状況で詩を書いたり読んだりすると、やはりどうしても日常的な世界や自分の内部へと気持ちがいってしまいそうです。
この詩はそうしたなかで、私が出会った「共感」できる詩です。日常的といってもただ単に
目の前にあることを書くだけでは決して詩はひとつの詩にならないと思います。
この詩は初め何気なく、いかにも日常のひとこまのように始まっていきます。けれども、この詩のなかで、じっと佇んでいるある存在、ひとりの人間が秘かに感じられます。それは特に
第二蓮目の<疲労ではない 幸福というのでもない ひと ひとり くねくねと生きてきた 細い道のりのやわらかい穴のような時間 にそっと身を置いていた>という表現に感じられます。
そして、この詩は読んでから現代という状況を再び考えてみると、私にはそれが少し違ったように感じられます。ほんの少しかもしれないけれども、この変化はとても大切なことだと思います。最後の連はとても格好がいいというか、見事です。まるで、懐かしい映画のシーンのようです。
2011年12月03日
広瀬弓「こころがまだ水のころ」対話
こころがまだ水のころ 広瀬弓
空のまなざしは低く
水色と青の上にあると言われる
気圈や宇宙の言葉を知らなかった
対話だけがあった
ドッチニシヨウカナ
カミサマノイウトオリカキノタネ
どっちでもよくなくて
どっちかでならなくて
いつも選ばれなくてはならなかった
空の声のするところは低く
直接こころに流れてきた
それとも
耳をつたわったのだろうか
ブランコを思いきりこいで
木の葉につま先が届きそうになるまでこぐと
すぐ近くに降りている面だけの方
あたたかくもやわらかくもない
大き過ぎるので
顔が見えなかった
その方はとても小さくわたしのなかにもいるようだった
どんな形にもなれる対話
うつしたり
とかしたり
べつの名で呼ばれたり
※
私はこの詩から殆どイメージを受け取らない。
けれども読み終わると何かが残る、というか心にぽっかりと穴が開いたような感じがする。これはもう少しくわしく言うと、心のありようである。しかし、それ以上は何ともいいようがない。
一蓮目については一つ一つの言葉が生き生きと息づいていて、私はこの部分がとても好きだ。でも、だからといって、やはり特別のイメージがわいてくるわけではない。
イメージではなく、心の動きというか、考え方のようなものがある、実感を持ってつたわってくる。そのなかでも特に「対話」というのが残る。
そして、第二蓮目はこの心の存在証明のような感じがします。
第三と四蓮目はもう一度、空にたくして心のありようを確認しているようです。
四蓮目についていえば、この詩のなかで私がいちばん好きな部分で
<その方はとても小さくわたしの中にもいるようだった>
というのが特別心に残りました。このなかに、心のありようを詩で書くという一つの頂点が
あるような気がします。そして、「対話」がとてつもなく大きなものに感じられます。私はこの詩を読みながら、この詩を読む間じゅう「こころがまだ水のころ」という言葉を思い浮かべていました。
2011年12月02日
若狭麻都佳「Amazing Planet kの正体」冒険することば
Amazing Planet kの正体 若狭麻都佳
ばら
ばら…
の
秩序だった
白い混沌
まぶしい
底が
抜けた
時間
人々は楽しげに狂っている
魚たちが
燃え立つように 青く走り
ちりばめられた丘のうえ
荘厳な声が吹き抜ける
絞首台に吊られてゆく
シャーマンの
こなごなになった
いのちの破片を拾い集めて
覆されたものたち
が
草になる
古代ノ骨ガ咲イテイル
やがて…
草が産み落とした
「ツギハギの星」
が
何処にあるのか
遡るたびに
進化してゆく
そのおとこ
にだけは
聞いてはいけない
※
私はこの詩が全体で何を言おうととしているのかよくわかりません。この詩からはっきりとしたイメージをつかむこともできません。しかし、それにもかかわらず、私はこの詩に強く惹かれます。それはひと言で言うと、この詩がとても緊張をはらんでいるからです。それをピーンと張った緊張というよりいうより、ちょっと足を踏み外すと無限の闇のなかに墜落しそうだからです。
たとえば、初めの蓮は言葉がとても清潔な感じがして、その意味もイメージも私にはよくわかります。でも、ここを読むときあまりに慎重になったり、もたもたしていたりすると暗闇のなかに落ちてしまうのではないかと思います。この蓮は、文字の形や並べ方によってそういった緊迫感がよくでています。
次の蓮はこの詩で私がいちばん好きな部分です。
<魚たちが
燃え立つように 青く走り
ちりばめられた丘のうえ
荘厳な声が吹き抜ける>に惹かれます。
そして、この言葉についても前と同じように前と同じようにあまり考えすぎないように、もたもたしているとかえって大切なものを見失ってしまうような気がします。つまり、ここでも
私は緊張感をかんじます。それはやや大げさに言えば、生命(いのち)を賭けているようなような感じさえします。
さて、次の<古代ノ骨ガ咲イテイル>については私は停止した感じがします。つまり、私は
殆どわからないのです。でも、この言葉の前で停止してしまうというのは、面白い感じがします。それで、突然私はわかりました。私の前にあるのはガラスのケースに入った古代人の、たぶんエジプト人の骨ではないかと。そう思うと、さらに面白くなりました。
古代の栄華をきわめた人々の模様をつたえる展覧会があって、そこを訪れた詩人が感動して、とてつもない霊感を受けて、この詩を書いたかも知れない。
おしまいの「そのおとこ」についても、多少、想像を込めて言えば「神」であろうと思います。でも、エジプトに「神」はいたのだろうか……………。
いずれにしろ、この詩は私の心をとても自由にはばたかせてくれるのです。
2011年11月30日
濱條智里「プール」 わかる詩、感じる詩
プール 濱條智里
小さな坂道や 三毛猫がいる狭い路地を通っ
て 近道をしたけれど クローバーが茂って
いる空地に出ると足が止った ちょっとした
段差があるだけだが 回りの水分を吸い込ん
だように 今日は足が重い 会合の時間が迫
っているので わたしは咄嗟に頭を空っぽに
して 足を浮かせたけれど もう近道はしな
いでおこう その日の午後プールに行くと
コンニチハ 久しぶりですね 隣から声をか
けられた 時々見かけるきれいな色の水着の
人も 足に問題をかかえている 誘われて出
かけたけれど 今日の会合は行かなくてもよ
かった などと思いながら わたしたちは何
回も行ったり来たりして 元のかたちに戻っ
ていく
*
私にとって詩は<わかる詩>と<感じる詩>があります。<わかる>というのはその詩がつたえようとしている内容や一行一行の言葉の意味が<わかる>ということです。そして、<感じる>というのはこうした内容や意味があまりよくわからないにも関わらず、何か確かなものを<感じる>ということです。この詩は私にとって<感じる詩>の代表的なものだと思います。それは何を感じるかというと、何か小さなものです。小さな小さな限りなく小さなものを
私はこの詩を読んで感じます。
それはもしかしたら、現代という限りなく肥大してしまった世界の<私>という存在なのかもしれません。私にはこの詩がどこかしら、とても現代的な感じがするからです。
<小さな坂道や 三毛猫がいる狭い路地を通って 近道をしたけれど………………>どこまで
引用していってもきりがありません。どこまでもつながっていく感じです。そうしながらどんどんどんどん私的な世界に入っていくようで、それはとても微細な存在を向かっていくような
感じがします。生命(いのち)というものはこんなに微細なものだったのかとびっくりするのです。
しかし、わたしはにはこの詩が伝えようとしている意味や内容は殆どわかりません。
この詩で気になるところは最後の四行です。
<誘われて出かけたけれど 今日の会合は行かなくてもよかった などと思いながら わたしたちは何回も行ったり来たりして 元のかたちに戻っていく>
特に<わたしたちは何回も行ったり来たりして 元のかたちに戻っていく>の部分は不思議な感じがします。もしかしたら、ここにこの詩の意味が隠されているのかも知れません。できればいつかその意味を知りたいと思います。
私はこの作品を読んで、あるとき、突然、志賀直哉の「城の崎にて」を思い出しました。それがどんな意味があるのかわからない。でも私は感じるのです。
2011年09月01日
西脇順三郎「太陽」びっくりするほど好きな詩
太陽 西脇順三郎
あの大理石の産地
カルモヂンの里に
夏を過した
ひばりもゐないし蛇も出ない
...ただいびつな毒李の藪から
太陽がのぼり曲って
また李の藪に沈んで行く
時々少年は小川の流れで
ドルフィンを捉えて笑った
2011年08月30日
島田陽子「星になる」びっくりするほど好きな詩
星になる 島田陽子
吸われるように見ている
梅雨の暮れ方の空
木がつくと
バスは灰色の雲の渦に巻き込まれ
無音の世界を
螺旋状にゆるやかに廻りながら
高みへ高みへとのぼっていく
なつかしいこの感覚
海のように重いものをすっぽり脱いで
たましいがのぼっていく日を
そういえば
母はどこまていったのだろう
白い割烹着姿の
少し猫背の小さな母は
いまも わたしといっしょにいる
(わたしの背が近頃丸くなってきたのはそのせいだ)
鬱屈の石を胸に沈め
テレビを見ていても眉を開かなかった母の顔が
わたしの表情に重なることがある
こちらでの痕跡はまだ消えてはいないが
夢にも会いにこないのは
すでに子どものたちのことを忘れて
透明な微塵となって漂っているにちがいない
それは宇宙のどのあたりか
いつか
わたしたちは互いの見分けもつかず
無数の塵とつとして星雲を形づくり
引き合い 熱くなり 高速回転し
遂に 新しい星になるだろう
何千万年もかかって
2011年04月30日
寺本まち子「仮想十二支行列」 化学反応
仮想十二支行列 寺本まち子
来客用のベッドは鳥の巣の形にする
男は左 女は右
ワタシは 私とあなたに分かたれた片割れ
ふたりはそれぞれの影
タツ年の妹は「鸚鵡(おうむ=ルビ)を殺した男を愛してしまつた」と
白蟻のようにすすり泣く
庭でジョンが尻尾を三度振る
ニンゲンとイヌの関係は寒い地質時代に成立したらしい
サルは16時に柿を食う サルはネズミを畏れる
さつまいもに水分が充実する24時 畑でネズミが動く
蚯蚓(みみず=ルビ)は22時に茗荷の根元で交尾する
この年 冷夏に濡れた野菜を食べて
ウサギは流産した
夕暮れ時 鳥目のトリはウサギの光った眼をつつく
そのトリは20時 野犬に襲われる
ウシは正午に草を食べる 牛になるまで
龍は春分に天に昇り 秋分に淵に潜む
ウマ年の秋は 枯葉がざわめく
トラの指の数は奇数ヒツジは偶数 ヒツジは紙が嫌い
トラ年は山雪が多い
日本の北の方の積雪量がニュースとなった
イノシシ年の暮れは雨が多く イノシシは腹をこわす
アオダイショウは丸呑みにした卵の殻を消化するため
高い処から何度も自ら落下する
このヘビは何故サルを食べないのだろう
幽霊は呼ばれたときだけ現れる
死者にも時間はあるだろうか
東方の夜空には青みを帯びた木星(ジュピター=ルビ)
森へ向かう道で病める象とすれ違った
すべての不運には根がある
位置があって 循環がある
一億五千キロ離れた距離から
六千度のコロナを放ちつづける太陽が
今日も 東から昇り
西へ沈む
※
確か、小学生の五、六年の頃だと思うけれども理科の時間で、酸素はいろいろなものにくっついて、その結果、様々な新しいものが生まれるということを勉強した。
たとえば、水素とくっついて、水が生まれたり、鉄とくっついて錆が生まれる。そういうことが面白かった。
ところで言葉についても、同じようなことがいえるのではないかと思う。言葉は「私」とくっついて名前になったり、数字とくっついて時間や運命になったりする。そうした中から詩が生まれたりする。
この詩はそうした中のひとつではないかと思います。私にとって、この詩が面白いのは、言葉の持っている酸素のような性質をわからせてくれるからです。でも、こういったからといって、特別こみいったことをいっているわけではなく、小さな子どもでさえも、たとえば「かぞえうた」などをとおして、よくわかっているのだと思います。
ここでは十二支とくっついて動物の世界や幽霊や死者、そして宇宙を自由に飛びまわっています。
2011年04月28日
崔正禮チェ・ジョンレ「月とすいか畑」神話のすいか
月とすいか畑 崔正禮チェ・ジョンレ
月の光は本当に遠くから来た
すいか畑に
黒い縞模様のすいかの畝間に
月の光は本当に
モーテルの中に真っ黒な車が
滑り込んで
赤い車がまた音も無く染みこむ
そこを照らしたりもする
一日中ずっと
すいか畑は熱かったのだが
月の光は本当に
ポプラを横たえ
谷間の田水にポプラが
横になって揺れて曇り
夢に入って朦朧とした
そこを通ったりする
すいかは一人で
丸くなり丸くなり丸くなる
葉っぱできた櫓を漕いで
丸い月に
這い上がったりもする
月の光は本当に
緑で段だらになった縞模様の中に
赤い部屋にいっぱいに詰まろうと
遠くの太陽の黒点からすいかの種まで
どれほど長い間
君に会いにきたのか分からないとつぶやき
夏の日と冬の日が入り混じってしまうように
のどが渇いて
青い谷間の赤い畑に
月の光は本当に
※
私はこの詩をよんで、すぐにメキシコの画家ルフィーノ・タマヨのことを思い出しました。ルフィーノ・タマヨは現代を代表する画家の一人でその作品にはメキシコの神話
の世界が色濃く漂っているといわれています。
そのルフィーノ・タマヨが好んで描いたのがすいかです。このすいかの絵はうっとりするように私はとても好きです。そのうっとりするという中に神話の深さとやさしさが
あるような気がします。
実はこの詩にも同じような感じを持ちます。月の光が本当にすいかの中にやってくる。その様子は朦朧として、しかも何かしら確かで、それは神話のような、民話のような感じがするのです。
私はこの詩をゆっくりよむのが好きです。そうすると月の光が私の体の中にやってくるようです。
2011年04月27日
池田寛子「Voyage」詩と子ども
Voyage 池田寛子
終わりのみえない
このいらだちにもかかわらず
あなたは
大海原をたゆたって
やすらぎだけに つつまれていて
からっぽの胃袋をひきしぼる
吐き気にもかかわらず
あなたは
ひもじさを知らず みちたりていて
私はあなたの海
そして船
そしてなぜだかひとり
船酔い
ああどうか つめたい潮水に呑まれて
涙にむせたりなんて しないで
ほら おおきな白い鳥が
川の中にまっすぐに立って
こちらをみている
今ならなれる
あなたの目に
そして耳に
あなたがひとり
真白い地図を手に
旅にでるまで
私の中のいのちよ
あなたは見る そして聞く
私には見えない 聞こえないものを
あなたの中にいつか
私には届かない
理解できない何かが
はぐくまれる
※
この詩はとても素直でよい詩だと思います。飲み物にたとえれば、ほのかに甘いレモン水のようで、読み終わった後、体がどこか新鮮になった感じです。
<終わりのみえないこのいらだち>といったスケールの大きな世界、と同時に<このからっぽの胃袋をひきしぼる>という実感的世界、この二つが殆どぎくしゃくしないで
私の中にまるで水のように入ってきます。
これはこの詩人の素直さが並大抵のものでないからであると思います。この詩は何か
とても深い肯定的な世界に支えられているような感じです。それを神といってもよいかもしれませんが、やはり、それは正確ではないと思うのです。
恐らく、「あなた」はやがて生まれてくる子どものことであろうと想像しますが、もしかしたら、それもどうでもいいのかも知れません。
詩人にとって、素直であるということは神や、やがて生まれてくる子どもの前か後に
あるのではないでしょうか?
私のこうした考えは、大げさすぎると思われるかもしれませんが、私は決してそうではないと思います。
一遍の詩には、それだけの不思議があるものだと思います。
2011年04月24日
清岳こう「西瓜の種をかむと」 発見
西瓜の種をかむと 清岳こう
爪先の細胞がひとつ目ざめる
葡萄の種をかむと かかとの細胞がひとつはじける
蓮の実をかむと 乳首の細胞がひとつふくらむ
こうして 私はアジア大陸に一歩を踏み出す
※
詩とは発見であるとよくいわれますが、この詩をよむと、まさにその通りだと思います。<爪先の細胞>、<かかとの細胞>、<乳首の細胞>、これらのことばも事柄も
この詩がつくられるまで、この世のなかにはなかったのでした。
これこそ、発見です。だから、この詩をよむとびっくりして、この衝撃で体が地面
から浮きあがり、あぶなっかしいような、やはりとても自由な感じがするのだと思います。
<爪先の細胞>なんてあるのかしらと疑っていると、それもつかの間で<ひとつ目ざめる>。こうなると、これはもう、ああ、そうなのかと納得してしまうしかありません。
私は冗談をいっているつもりはありません。むしろ、初めに書いたように、これが
詩における発見なのだと思うのです。
この発見がいかに現実の力となるかどうかは最後の「こうして 私はアジア大陸に一歩を踏み出す」をよむとよくわかると思います。
確かにこの作者は<爪先の細胞が ひとつ目ざめる>ことによって、アジア大陸に
行ったのだと思います。
2011年01月05日
いろいろかんがえたけれど
いろいろかんがえたけれど
「愛しきれる」ということばが分らないのだと思う。
何かが不明瞭なのだと思った。
愛は愛するか、愛さないかの二つしかないのであって、
到達するものではないのだと思った。どうしてこんなふうに思うのか
分らない。でも、少しでも分って良かったと思う。
2011年01月04日
鮎川信夫「あなたの死を越えて」 少しだけ好きな詩
あなたの死を越えて
一九五〇年一月三日 鮎川信夫
ひとつの年が終り
ひとつの年が始まる神秘な夜にくるまって
わたしの魂は病んでいる
落ちた夕日の赤い血が
わたしの胸のなかで腐っている
落ちてゆくわたしの身体を支えてくれるのは
淋しい飛行の夢だけだ
二十年もむかしに死んで
いまでも空中をさまよっている姉さん!
誰も見てはいないから
そして闇はあくまで深いから
死者の国の
いちばん美しい使いである姉さん!
わたしとあなたを距てるこの世のどんな約束も
みんな捨ててしまうのですか
大きすぎる白い屍衣を脱ぎ
そっとわたしの寝室に近より
あなたはかすかにしめった灰の匂いを覆いかける
「もし身体にも魂にも属さない起きてがあるなら
わたしたちの交わりには
魂も身体も不用です」
あなたのほそい指が
思い乱れたわたしの頭髪にさし込まれ
わたしはこの世ならぬ冷たい喜びに慄えている
誰も見てはいけないから
そして闇はあくまで深いから
姉さん!
一切の望みをすててどこまでも一緒にゆこう
わたしの手から鉛筆をとりあげるように
あなたは悪戯な瞳と微笑で逃げていけばよい
わたしは昔の少年をなってどこまでも追いかけてゆくだろう
愛していても愛しきれるものではないし
死んでも死にきれるわけではないのだから
姉さん!
あなたとわたしは
始めも終わりもない夢のなかを駈けめぐる
二つの亡霊になってしまおう
Beyond your Death Ayukawa Nobuo
January 3, 1950 trancelated Takao Lento
Robed in mysterious night when
one year ends and another begins
my soul is ailing
the red blood of the sinking sun
decays inside my bosom
only a dream of lonely flight
props up my falling body
Sister! You still roam in thin air
having died 20 years ago already
Because the darkness is really deep,
Sister,the most beautiful messenger
from the domain of the dead.
are you going to abandon all
the rures of the world that separate you and me?
You shed your loose white shroud
gently come toward my bedroom
and cover me with the scent of slightly moist ashes
"If there are tenets that belong to neither body nor soul
our intimacy
needs no body or soul"
You slender fingers
slide into the hair on my head.Confused and agirated
I tremble with a chilling joy that is not of this world
Because no one is looking
and because the darkness is so deep
Sister!
let us go to the furthest end,shedding all hopes
You can run away with your mischievous looks and smiles
likes you did when you yanked a pencil from my hand
I,the youth of my past once more, will chase you to the farthest end
Because love cannot be exhausted
because death cannot be complete
Sister!
you and I,
we shall be two ghosts
scampering in a dream that has no beginning or end
とても難しい詩であるし、好みの詩であるわけではないけれど、だから全部がすきだというわけではないけれど、ただ「愛していても愛しきれるものではないし」というところがただごとではないと思わせた。愛とはあいしていても愛しきれるものではないところもあるのだとわかっただけても、この詩を読んだかいがあったと思った。
2010年12月13日
金芝河(キム・ジハ)「あの遠い宇宙の」 びっくりするほど好きな詩
あの遠い宇宙の 金芝河 翻訳・佐川亜紀・権宅明(クォン・テクミョン)
あの遠い宇宙の どこかに
ぼくの病をわずらう星がある
一晩の荒々しい夢をおいてきた
五台山の西台 どこかの名の知れぬ
花びらがぼくの病をわずらっている
ちまたに隠れ 息を整えているはずの
ふしぎなぼくの友だち
夜ごと病むぼくを夢見て
昔 袖ふれ合った ある流れ者が
ぼくの中でクッをする
女ひとり
ぼくの名を書いた灯籠に 火をともしている
ぼくはひとりなのか
ひとり病むものなのか
窓のすき間から なぜか風が忍び込み
ぼくの肌をくすぐる
五台山……韓国東北部にある名山。上から見ると五つの峰が蓮の花のような形
をしている。
クッ………供え物をして踊りを踊ったり呪文や神託などを唱えたりして、村や
家の安泰、病気の治療などを祈ること。
詩集「中心の苦しみ」から
高見順「出発」 びっくりするほど好きな詩
出発 高見順
夕暮れに一日がおわるとき
同時に何かが終る
一日の終りよりももっと確実なものが
同時にもっと夢幻的なるものが
それに気付いたとき
生きるといふことがはじまつた
1949(昭和24)日本未来派22号
佐川英三「蟹」 びっくりするほど好きな詩
蟹 佐川英三
ふりかざした小さな蟄(はさみ)に
荒涼たる海が迫っている。
蟹はその傲慢な甲羅をふるわせて、
怒りに燃えている。
垂れ込めた雲。
閃く稲妻。
何か、
異常なるものが来たるらしき、
晦冥のとき、
砂は、
洗われ洗われて
若い静脈のように濡れている。
1949(昭和24)日本未来派27号
2010年12月06日
仲嶺眞武、四行詩「宇宙」 びっくりするほど好きな詩
四行詩「宇宙」七篇 仲嶺眞武
1 木や石を見ていて
木を見ていて 石を見ていて、思う
木や石は宇宙の分泌物であるに違いない、と
そして、思う
私もまた、宇宙胎内の一粒子であるのだろう、と
2 存在と時間
存在とは、時間というカンバスの上に描かれた絵である、と君は言うが
存在は絵だろうか? 時間はカンバスだろうか?
存在と時間は、人間の意識によって構成された現象ではないだろう
存在は宇宙が生み出した万物であり、時間は宇宙の心臓の鼓動であろう
3 少年、発情す
性欲が高進し、少年の私は発情する
脳髄が全部、性感帯となっている
ああ、少年の私を悩ますこの性欲は、どこから起こってくるものなのか?
宇宙よ、あなたの生理によるものだろうか? わが存在の母よ
4 宇宙の前で跪く
人間の足は何のためにあるのか?
それは、地球上を二足歩行するためのものであろう
だが、それだけのことだろうか?
人間の足、それは、宇宙の前に跪くためのものであるだろう
5 宇宙の中の人間の言葉
至聖至高の存在として彼は語る
彼の言葉を聞け、と君は言うが
彼の言葉は小さい
宇宙の中の、人間の言葉は、小さい
6 立ち枯れても
立ち枯れ、という言葉が、思い浮かんできた
地上で立ち枯れている自分の姿を想像する
老耄、既に、立ち枯れの状態である
だが、私と宇宙との対話は、まだ続いているのだ
7 棺は宇宙に抱かれている
私は死んで、棺の中に納められた
棺の中で仰向けに横たわり、目を閉じていると
棺は宇宙に抱かれている、と感じた
棺の中のわたしの魂は天には昇らず、宇宙の奥へと運ばれて行くのだ、と思った
2010年10月15日
塩田禎子「物語山」 山登り
物語山 塩田禎子
ひたすらに続く上りのの道に
からからと瓦のような石が鳴る
砂岩で埋めつくされた山
前を行く人と後ろからくる人との
足元が奏でる響きのなかに
むかしの悲しい物語が聞こえる
豊臣氏の小田原城攻めの時
前田軍に滅ぼされたこの地
落ち武者たちは山に逃げ込み
岩に登り
蔦を切り落とし切り落とし
つぎつぎにいのちを絶ったという
長い林道を歩いて
上りの道に差しかかつたとき
見上げる頂の少しそれたところに
四角い形の岩が白くそびえるのを見た
この土地の人の言う「メンバ岩」の
なまえの響きと重なって
胸に刻み込まれた物語
剥がれ落ちて
薄い一枚になった石のかけらを
手のひらに乗せ
指で軽くはじいてみる
メンバ岩への道はいまも途切れたまま
かすかな石の音がする
注 物語山…群馬県下仁田町。
メンバ…メンベともいいまないたのこと。
※
懐かしい感じがする。
それがこの詩全体から受けた私の印象です。
素直で率直な感じがすると言っていいと思います。
この詩人にとって山に登ることと、その山について詩を書くことはおなじようなことではないかという感じがします。
山に登るのは体にも心にも良いことであろうと思います。
そしてこの詩人にとって詩を書くことは全くそれと同じようなことではないかと感じます。
それがこの詩が自然であるとか素直でとかというふうに感じられた元ではないかと思います。
私も詩を書き始めたばかりの頃はこんなふうに詩を書いてきました。でも、いつのまにかここから離れてしまったような気がしてなりません。
実はそのことに気がついて、時々この場所に戻ろうとすることもあります。でも、なかなかうまくいきません。
それは書いている詩の内容やテーマが深く複雑になったからということだけではないと思っています。
この場所を離れては詩は存在しないのだと思います。この詩の内容はある意味ではたわいものないものかも知れませんが、それにもかかわらず、私には響いてくるものが
あります。
2010年10月12日
北川朱美「電話ボックスに降る雨」アリスの電話ボックス
電話ボックスに降る雨 北川朱美
厨房で
一心不乱に料理を作る人のうしろ姿を
眺めていた
その人は
スープを素早くかきまわしかと思うと
キャベツを刻み
熱くなった油の中にパン粉をつけた魚を入れると
流しに走って皿を洗った
それはまるで
アンデスの祭りのようだった
気に吊り下げた鉦を鳴らしたかと思うと
足元の壺を叩き 虎の骨を打つ
――バッハもモーツアルトも
今より半音低かったんだよ
時代に引かれて高くなってしまった
そう言った人は 何度も携帯電話が鳴り
その度に私たちは
とつぜん電源を引き抜かれた機械のように ちぎれて
中空をさまよった
たくさんの鍋や皿がぶつかる音が
細かいちりになって舞いあがり
世界わ覆っていく
いつだったか けんか別れした人に
公衆電話から電話をかけたことがあった
長い沈黙のあと彼は言った
――今、どこにいるの?
私は海に降る雨のことを思った
音もなく海面を叩いて
魚たちにすら気づかれぬ雨
名前のない場所のまん中で
耳から 何百年も前の音をあふれさせて
遠い人の声を聞き取ろうとした
※
何回かこの詩を読んで、私の記憶に残ったのはタイトルの<電話ボックスに降る雨>
と<私は海に降る雨のことを思った 音もなく海面を叩いて 魚たちにすら気づかれぬ雨 名前のない場所のまん中で 耳から 何百年もの前の音をあふれさせて 遠い人の声を聞き取ろうとした>です。
はじめに<電話ボックスに降る雨>ついていえば短編小説のタイトルのようでもあり、また懐かしい映画の一シーンように感じます。
なにかしら、毎日の日常世界よりもちょっと遠くにあって、しかも妙にリアリスティックな感じがします。
これは、私を誘うようです。そして近づいていくと、すうっと遠ざかる。もしかしたら、こういう場所は本当にあるのかも知れません。
街の中に、あるいはレストランの片隅に、あるいはあなたの心の片隅にも。それをじいっと眺めていると、ますます吸い込まれ、遂には名前もない場所のまん中までいってしまうのかも知れません。そこでは遠い人の声が聞こえてきます。
もしかしたら、日常世界のなかでは本当の聞きたい人の声はこんなふうにしか聞こえて
こないのかも知れません。
ところでちょっと飛躍しているかもしれませんが、私の大好きな芭蕉の句のなかの一つに
さまざまなこと 思い出す 桜かな
というのがあります。この句を詠む度に桜の花の散る向こう側で、人の声が聞こえてくるような気がします。
そして、私は思います。<電話ボックスに降る雨>と<さまざまな桜>はアリスの穴とつながっているのではないかと思うのです。
村野美優「住処」 小さな穴の発見
住処 村野美優
壁や石垣のあいだに
ぽつんぽつんと空けられた
水をだすための小さな穴
プラスチックや煉瓦でできた
それら小さなトンネルのなかを
覗いて歩くと
小石や砂や枯葉が
うっすらと溜まっていたり
菓子の袋や吸殻が
押し込まれていたり
倒れた植木鉢のように
カタバミやハコベがあふれ出ていたりする
今日
知らない家の石垣に
素敵な穴をひとつ見つけた
なかにエメラルド色の苔が生え
その上に無数の泡がきらめいていた
そのきらめきを胸にしまうと
カニのように
わたしも自分の住処に戻った
※
愛であろうと、詩の方法であろうと、「小さな穴」であろうと、その人が発見したの
なら、その大事さは変わりない。
私はこの詩を読んで、そのことがよくわかりました。それと同時にこの詩がとても好きになりました。
子どもの頃、何度かこれと同じようなことを経験したのを覚えています。その時のなんともいえない満足感もまだほのかにではありますが覚えています。
これは発見ということだろうと思います。発見というのは、愛であろうと詩の方法で
あろうと、相対性原理であろうと、発見というのは自分を発見することだと思います。
この詩が私にそれを教えてくれました。
すべての発見はこの詩のように「小さな穴」の発見と同じものではないかと思います。なぜなら、自分を発見し、自分と出会うことは最大の幸せだからです。私は発見とは幸せであるということに気がつきました。
ランボーのヴォワイアン(見者)について、時々私なりに考えますが、幸せになる一つの方法といってもいいんじゃないかと思います。穴を見つけたときに、自分は生きていると思ったに違いない。しかもそれがなんと偶然に起きた、それが私はとても好きです。
2010年10月09日
筏丸けいこ「私は 子供のようになるときの」面白いものは不思議である
私は 子供のようになるときの 筏丸けいこ
母が好きだ
なにかエキゾチツクな木が
枝をのばして
欲求をもつときの
はっきり あなたが 母だと 思えないとき
いったい あの発光する都市で
眠りかかった葉っぱは
その内部に 岩を支え
誕生と 死を 思い出させるのか
母よ
うつろな太陽に ほほえみかけてくれるな
急流
母という 表面に充満する 素直
※
私が面白い詩の条件の一つは、何故この詩が面白いのかわからない、この詩のどこが
面白いのかわからない、それにもかかわらずこの詩は面白いというのがあります。
さて、この作品はまさにその条件にぴったりの作品です。
私は初めてこの詩に出会ったときから、とても面白い、新しい詩だと思いました。何度か読んだいまでも同じようにかんじます。
けれど、何故面白いか、どうしても私にはよくわからない。うまく説明できない。こうなると、これは本物だと思わずいいたくなつてしまうのです。
ただ、この詩に私が感ずる特別のことがあります。それは読む度に、詩のほうで私に
何かしら合図を送ってくるような感じがすることです。
それはあたかも小さな生きもの、けれども宇宙に繋がる生きもの(カフカが見たオドラテク)のようで、その触覚なのか尻尾なのか、わからないけれど、ぴくぴくと動かして、私に合図を送って
いるような感じがします。
たとえば<枝をのばして 欲求をもつとき>とか<誕生と 死を>とか(どの連のどのことばでいいし、行間でもいいのですが)私がこの詩を読む度にぴくぴくと合図を送ってくるような気がするのです。
どうやら、この詩のことばたちはいままでの詩のことばよりも、はるかに自由なのだと思います。詩からも、この詩をつくった詩人からも。
これは、もしがしたらすべての詩人たちの夢かも知れません。こんなふうに、ことばと自由に付き合えたら、ほんとうに面白いと思います。
2010年09月22日
マラルメ「ベルギーの友の思出」 石に刻むように
ベルギーの友の思出 鈴木信太郎訳
幾時もまた幾時も、風に揺めくこともなく、
殆ど香の色に似た 古めかしさが 悉く、
石洞の家が一襞一襞と衣を脱いでゆく
忍びやかだが眼に見える 古めかしさを
宛らに(さながらに)、漂ふ、そのさま、新しく惶(あわただ)しくも
契られた私たちの友情の上に 昔の香油として、
(私たち、満足し合ってゐる太古悠久の民の幾人)
時間の寂(さび)を注ぐのでなくては何の詮もなかろう。
永久に凡庸でないブリュージュの町、白鳥が點々と
游いでゐる 死の澱む運河に 黎明を積み重ねる
この市(まち)で、邂逅した おお 懐かしい人々よ、
白鳥の鼓翼(はばたき)のやうに、白鳥ならぬ他の飛翔が
忽然と精神の火花を散らしてゐることを示す これらの
子らの誰かを、厳粛に市(まち)が私に知らせた時に。
※
昔、マラルメは嫌いだった、それなのに「詩は話しことばのようでも、書きことばのようでも、歌のようでもあり、しかも石の刻まれたことばのようでもあるのだ」と誰かにいわれたとたん、どうしてもマラルメが読みたくなり、読んでも、私の知っている詩
は見つからずはなはだ困った。でも、まあこの詩はわりあい好きだつた。
2010年09月12日
清岳こう「風吹けば風」面白おかしく面白い
西瓜の種をかむと 清岳こう
爪先の細胞がひとつめざめる
南瓜の種をかむと かかとの細胞がひとつはじける
蓮の実をかむと 乳首の細胞がひとつふくらむ
こうして 私はアジア大陸に一歩を踏み出す
※
そっとしておいて 清岳こう
草原のただ中
少年が両手を広げうつ伏せになり寝ころがっている
地球のきしむ声を聴いているのだ
※
大皿で 清岳こう
運ばれてきたのはあばら骨だった
羊の心臓をけなげに守っていた
羊の小さな肝っ玉を心から愛していた
左右対称の空洞だった
湯気のあがる肝臓に 胡椒・腐乳豆腐(とうふペースト)・黒酢をまぜソースを作り
あばら骨の肉をむしりあばら骨をほおばりすわぶり指を脂でにぶくひからせ
その夜以来 若い羊がささやくのである
私の耳をくすぐった 薊の歌はどこに行ったの
私の巻き毛に止まった 蟋蟀のゆくえを探して
私の瞳に住んでいた ヒマラヤを舞う大鷹のはばたきを伝えて と
2010年09月08日
どうしてこの詩人が好きなんだろう?
ニューヨークから帰る ジェーン・ケンヨン 矢口以文訳
こってりした味の食べ物と
熱すぎる部屋での遅くまでの話し、
それにぼろをまとって夜を過ごす人間の形と
生ゴミとの間を歩きまわつた三日三晩の後で、
自分の玄関に、
自分の木造の階段に帰ってきた。
最後の赤い木の葉が大地に落ち
霜が ベランダ横に生えたハーブや
アスターを黒く染め上げた。空気は
静かでひんやりとしており、枯れた草は
畑に平たく横たわつている。ゴジュウカラが
木の粗い幹をらせん状に降りる。
クロイスターズではしなの木に描かれたピエタを
眺めながら 私は敬虔な気持ちに浸ったー
槍に突き刺されて力を失った御子を
マリアがひざに抱いている。しかし誰かがホテルの方から
房のついた日よけの下にを歩いて近づき 私に
「不幸せな者にお慈悲を」と声をかけた時、急いで背を向けた。
今 木の皮と苔の小さなかけらが
小鳥のくちばしと爪の下ではじけて
既に落ちていた葉の上に落ちるのに私は耳を傾ける。
「あなたは私を愛するのか」とキリストは弟子に聞いた。
「主よ 私が愛するのを
あなたはご存知です」
「それなら私の羊を養いなさい」
Back from the City
After three days and nights of rich food
and late talk in overheated rooms,
of warks between mounds of garbage
and human forms bedded down for the night
under rags,I come back tomy dooryyard.
to my own wooden step.
The last red leaves fall to the ground
and frost has blackend the herbs and asters
that grew beside the porch. The air
is still and cool,and the withered grass
lies flat in the fileld. A nuthatch spilals
down the rough thunk of the tree.
At the Cloisters I indulged in pieta―
Mary holding her pierced and desiccated son
across her knnes; but when a man steped close
under the tasseled awning of the hotel.
asking for “a quarter for someone
down on his luck.”I quckly turned my back.
Now I hear tiny bits bark and claw.
break off under the bird's break and claw,
and fall onto already-fallen leaves.
“Do you love me?”said Christ to his disciple.
“Lord, you know
that I love you.”
“Then feed my sheep.”
どうしてこの詩が好きなんだろう?まず開かれていて世界中の誰にも理解出来ると思うから。少し平凡なぐらいスタンダードというかオーソドックスだからだろう。仏教語の
「般若波羅蜜多」ではわからない。「言葉を越える」という言葉よく使われるか゛、それで何かが曖昧になるのでは?と考えてしまう。「シャローム」というのも面白い。
しかし、“Do you love me?”詩人がこの言葉をつかうときに読む人が何かを感じるのは確かだから。詩はいのちだから。それに個人だから。
2010年08月31日
ジェーン・ケンヨン「田舎の宿での暮方」矢口以文訳
田舎の宿での暮方 ジェーン・ケンヨン
ここから赤い雲のひときれが
町役場の風向計に突き刺さっているのが見える
今 馬たちを走らせ跳びあがらせた
犬たちの姿はどこにもない。
あなたが今日笑ったのはただ一度だったー
チェホフの物語のなかで 猫が
キュウリを食べた という所でだつたーそして今
あなたはたばこをくゆらせながら
長い廊下をゆっくり下りてゆく。
コックが夕食のために肉を焼いている、
その煙が部屋という部屋に立ち込めている。
赤ら顔のスキーヤーたちが足をふみならして
あなたを追い越して行く。彼らの食欲はすさまじい。
あなたは事故のことを思い出しているのだー
彼の髪から銀色のガラスをつまみとったことを。
たった今 干し草を満載したトラックが
ガソリンのために村の店に止まった。
その干し草を見てほしいー
美しくて 健全で しっかり束ねられた干し草を。
Jane Kenyon(1947-1995)
Evening at a Country Inn
From here I see a single red cloud
impaled on the Town Hall Weathervane.
Now the horses are nowhere in the stalls,
and made them run and buck
in the brittle morning light.
You laughed only once all day―
when the cat ate cucumbers
in Chekhov's story…and now you smoke
and pace the long hallway dowstairs.
The cook is roasting meat for the evening meal
and the smell rices to all the rooms.
Red-faced skiers stap past you
on their way in; their hunger is Homeric.
I know you are thinking of the accident―
of picking the silvered glass from his hair.
Just now a truck loaded with hay
stopped at the village store to get gas.
I wish you would look at the hay―
the beautiful sane and solid bales of hay.
あんまり一生懸命いきたので48歳でいってしまったので悲しい。
アメリカの女の詩人はどうしてこんなに緊張して早く死んでしまうのかわからない。
でも、英語でも読むと翻訳ではわからないものが伝わってくるようだ。
2010年08月30日
レバトフの英語はほんとにわかりやすい
Settling Denise Levertov(1923-97)
I was welcomed here ― clear gold
of late summer, of openning autumn,
the dawn eagle sunning himself on the highest tree.
the mountain revealing herself unclouded,her snow
tinted apricot as she looked west.
tolerant,in her steadfastness, of the restless sun
forever rising and setting.
Now I am given
a taste of the grey foretold by all and sundry,
I'm london-born. And I won't. I'll dig in,
into my days, having come here to live, not to visit.
Grey is the price
of neighboring with eagles,of knowing
a mountain's vast presense,seen or unseen.
定住して 寺島博之訳
ここでわたしは歓迎された―夏の終わりの、
秋の開幕の、澄み切った黄金色に、
夜明けの鷲はいちばん高い木の上で日にあたっている。
山は雲のない自分自身をあきらかにしている、その雪は
西に面しているの杏色に染まっており、
その確固たることで、永久に上りまた沈む
変化を求める太陽に対して寛大だ。
いまわたしは
みんなが予告していた灰色の味覚をあたえられた、
重々しくひんやりともする灰色。気にしないわ、
ロンドンうまれだから、と自慢した。これからは自慢しないだろう。
わたしの人生を掘り起こすだろう、訪問をためでなく、
生活するためここにきたのだから。
灰色は、鷹の近くに住むことの、
見えても見えなくても、山の巨大な存在に気付いていることの
代償だ。
翻訳詩とエッセイ「Aurora」15号より
この『Aurora』という詩誌はすばらしいです。このような詩は私の理想です。
2010年08月27日
レバトフ「八月の夜明け」寺島博之訳 生れ変わりについて
八月の夜明け デニス・レバトフ
ゆっくりとカラスが手すりを巡回する。
ヒョウ・ナメクジは葉っぱのジュースで満足し、昼の間は消える。
褐色の、ゆったり回転するキングサリの家は
六月の黄金色の雨を反復する。
屋内では臆病なヤスデが
地下室の床を横切って危険を冒してタンゴを踊る。
わたしはすべての部屋で本が静かに
呼吸するのを聞く。そして何年も前に見た夢を思い出す。
わたしの父はーあの視線そのもの、カバラの知識、
子供っぽい自尊心、英雄的な博識、善良さ、弱さ、
挫折と信仰ー死の門を付けたトンネルをくぐり抜ける旅の後
一輪のバラに
古風な暗いピンクの庭のバラになった。
風は全くない。乳色の空。青い陰の
形跡が
氷のように溶けている。
昼は暑くなるだろう。
影でなくー夜の気配。わたしは眼下で
それを感ずる。開いた窓に向かって
深呼吸の後で、ブラインドを下ろす。
つまりこういうことだったとわたしは考える、彼はその両手から
知識を落下させた、
もはや必要がなくなったのだ、いまでは本来の自分になって
そこにずっとあった
それは最初から、多くの花弁のある、香りのよい、
陽光の中の「祝福された判断力のないバラ」だった。
わたしは眠りに戻る
あたかも森林のつかみどころのない香気に、
柔らかな暗がりにの中の松葉のなだらかな傾斜に、
取り戻された夜の結末に戻るように。
だれだったか、朝起きて、散歩に出かけると、きれいな蛙がいて、ぴょんぴょんはねている、あれは私の生れ変わりみたいだという詩を書いていて、どうも私は生れ変わりというものがわからないと、友達にはなしたことがある。
すると、友達が私は生れ変わりのことは、おばあちゃんからよくきいた、といった。彼女はとても小さい頃、お母さんがなくなったので、おばあちゃんがときどき蛍や蝶々をみると、あれはおかあさんだよ、
といってくれたのだ。小さい子でもよくわかるように、そういう話があるのだろうといった。でも、自分の生れ変わりをみるなんて、いただけないとも、いった。すこし気味が悪いから、ともいった。
このレバトフの詩はよくわかった。
昔、吉原さんと対談をしていて、フェミニズムについて、どうしても、レバトフが賛同しないので困っていた吉原さんとレバトフのことをどちらもわかるというか、困ったものだと思ったことを思い出した。
いまでは、この詩とともに懐かしく思い出す。
2010年07月02日
鈴木ユリイカ「海のヴァイオリンがきこえる」
若い役者、紗桜さよとコラボレーション、
可知日出男作曲の即興的モチーフとEn.Green4のメンバーが彼女の読みを盛り上げる。
2010年05月04日
笠間由紀子「書きとどめて」 詩を好きになるための理由はない
書きとどめて 笠間由紀子
私が ここにいた と。
そんな物語を語ってください
書きとめてください
夕方の涼しい風の中を
歩いて
門から したたりおちる
白い花に見とれたり
古い歌を小さく くちずさみながら
思いがけず 道にまよったり
まがり角で
子供が しゃぼん玉とばしているのを
楽しくながめて
道にまようのも 時にはいいねと笑いあった
私が そこにいたと。
万年筆 鉛筆 ボールペン パソコン
それらのどの文字より
私たちは はかないから。
2010年04月26日
「タブラ・ラサ」――アルヴォ・ペルトの音楽に
タブラ・ラサ ――アルヴォ・ペルトの音楽に
わたしたちは半分砂に埋もれた住居に住んでいた
毎朝わたしたちは水を求めて砂を掘ったり
わずかばかりの野菜をつんで食したりしていた
毎朝わたしたちは散歩に出かけるのだった
どこへいっても崖や砂が襲いかかり
路を歩く度に少しずつ少しずつ停止しなければならなかった
わたしたちは数百年もの間ひとりの人に会いたいと思っていた
誰もその人を見た者は居なかった しかし
その人がどんな人であるかわかっていた
そして 毎日 その人に会うのだった
今日も路が途切れたところで皆の息が苦しくなった
路はもうなかった しかし 空が割れて
光りがふりそそぎ その一つの穴から地響きがして
よろよろとひとりの人が現れた
ああ と皆が叫んだ
地響きが続き 海も街も森もなくなりつつあった
もともと何があったかわからない
一つの穴からほのかな光りにつつまれた人が出てこようとしていた
しかし 誰であるかわからなかった
神という人も
弥勒菩薩という人もいた
おかあさんという人も
パパという人も
娘という人も
未来のともだちという人もいたが
誰も明確にいうことができなかった
ああ 皆がいうと胸が熱くなった
まるで原爆のような光りのなかで
一瞬 会いたい人に会ったのだ
それから 永遠にちかい静寂がやってきた
光りは消え 崩れかけた崖と
砂だらけの路があった
そうして皆は今日一日を過ごすのだった
2010年04月17日
左子真由美「愛の動詞」 ことばってなあに?
愛の動詞 左子真由美
■Manger
食べること。46億年のむかしから、何かは何かを食べ続けてきた。何かは何かの餌になってきた。食べることは祝祭。食べることは弔い。いのちがいのちを食べる。大地はいのちを吸って哀しく、やさしく熟れていく。地球はまるごと美しい果実。愛することは食べられること。食べられてもいいと思うこと。マンジェ
。いのちを差し出すこと。
■Oublier
忘れること。雨傘を。本を。サラダに胡椒をいれるのを。約束の時間を。 忘れたものはどこへ行くのだろう。どこかに大きな忘れものの箱があって、その中にみんな詰まっているのかしら。ちっちゃな部屋から
飛びだしたものたち。 入りきらなかった思い出。みんなみんなどこに? ウブリエ。まだ雨のしずくがしたたっている雨傘。
※
私もことばについての詩を書こうとしたことがあります(でも、実際にはまだ書いたことはありません)。
そして、そういう詩を何度も読んだこともあり、その度に「なんて上手なんだろう!」とか「ぜんぜんつまらない!」とか反応してしまいます。
ということは、私にとって楽しいことです。何故かというと、ことばについての詩は純粋な遊びのように
感じられるからだと思います。ちいさな子どもが積み木やクレヨンで好き勝手に遊ぶように私もことばで
遊びたい。
ところで、「愛の動詞」から二つを、MangerとOublierを選びましたが、この二つは特に最近の私にとって大変身近なことばだからです。私は多分四六時中、これらのことばを使って遊んでいるのだと思います。
それにしても遊びというのは子どもでも私でも随分自由にしてくれるし、遠くまで連れて行ってくれます。
Manger〈食べること〉、あれやこれや遊んでいって、〈いのちを差し出すこと〉となると何とも自由な感じがするのです。
Oublier〈忘れること〉、あれを忘れたり、これを忘れたり、まるで私の毎日のようです。そして、最後に
ウブリエ。〈まだ雨のしずくのしたたつている傘〉となると、時間というものを充分に感じるのです。
はじめに、遊ぶと書きましたけれど、この詩人が毎日を一生懸命生きて、ことばを大切にして、ことばを使って考えたり、悩んだりしているのが、とても嬉しいというか、好ましく思えるのです。
2010年04月16日
原利代子「桜は黙って」 絵本と詩は双子のようなものかも知れない
桜は黙って 原利代子
南に住む人から 早咲きの桜の花が
蛍の丘老人病院に届けられた
病院はスタッフたちは
見事な桜の枝をかつぎ
入院中の患者たちに見せて回った
認知症で寝たきりの
イイノさんの部屋にも桜がやつてきた
上を向き 寝たままのイイノさんの顔の上に
満開の桜の花をかざして見せた
焦点の定まらない老人の目
しばらくは ただの空ろに ぼんやりとー
やがて その目がゆっくりと瞬きをすると
かわいた小さなほら穴の奥から
清らかな水が涌きでてくるように
イイノさんの目に涙が浮かんできた
涙はいっぱいになり 目から溢れ
ひとすじ またひとすじと
ほほをつたってこぼれ落ちた
花びらは その上に 優しくふりそそいだ
スタッフの口から
おおーっ という声が上がる
イイノさんの顔は桜色に照り映えていた
イイノさんは春の野の中にいた
しばらくすると老人は潤んだままの瞳を閉じ
また いつものように眠った
桜の花は その上で
黙って咲いていた
※
この作品を読んで、私はとても懐かしいような感じがしました。もう少し進めていうと、大人の絵本のような感じがしました。
それは内容からくると考えがちですが、必ずしも私はそればかりではないと思います。その一つは、
この詩の一行一行がとても無駄がないということ、二つ目は大変平易なことばで書かれているということ、三つ目は一つ一つ場面がはっきりとしている、特に三つ目の場面がはっきりとしているということが
私には印象深く感じられました。
そして、このことが絵本と詩がどこかしら似ているということであると思います。また殆どの絵本は懐かしく、大らかで、深い(夢と現実が交じり合う)世界を持っていますが、この詩にも私はそれを感じます。
このことを特に感じるのは最後の(桜の花は その上で 黙って咲いていた)です。桜と人間が交流
しているような、とてつもない深さが感じられるのです。
私は詩と絵本はもしかしたら、その出発点は同じではないかと思います。
2010年04月13日
坂本真紀「あらゆるピアノのうえを」 はじまり
あらゆるピアノのうえを 坂本真理
あらゆるピアノのうえをわたってくる。いくつもいくつも並んだピアノのうえを、アップライトヒアノのうえを、
グランドピアノのうえを、歩いてわたってくる、踏みはずすことなく。あらゆる動物のうえ、あらゆる人間の
うえを、わたしは歩いてわたっていく。いちど殺し屋に狙われたら一発でいのちを落とすかもしれないけ
れど。紐はからだに結ばれていて、紐をたぐってどこかにある、もう一方のはじをたぐりよせるまで、わた
しは階段を走りつづける。かわいらしくてやさしいのは、ピンク色のゾウ、それから。ゾウはちいさな水
色。男は彼のおくさんと、女は彼女の家族とともに。わざと遠くはなれて歩いている。わたしはというと、
どう猛な動物ばかりが集められたエリア入口の鍵をあける。
※
詩とは冒険であると私は思います。そして、この詩を読んで、ここにひとりの詩人がいると思いました。
「あらゆるピアノのうえをわたってくる」これがこの詩の始まりであり、それ故冒険の始まりです。
このあと、作者はいままで誰も見たこともない、生きたこともない世界に入っていきます。
そして、それがどんなふうに広がっているのか、どんな道があるのか、全くわかりません。
もしかしたら、想像することさえできないのかも知れません。ただ、ことばだけがその世界を切りひらいていくことができるのです。
ですから、人間がすべてを捨てて、ことばそのものになったとき、本当の冒険ができるのだと思います。
この作品は決してこのようなことを語っているわけではありません。もしかしたら、私のひとりよがりかもしれません。でも、私はこの詩に何かしら、詩人のいのちのようなものを感じるのです。
2010年04月11日
高塚かず子「大村湾」 面白いと生きるは似ている
大村湾 高塚かず子
ヒトはわたしを大村湾と呼ぶ
だけど私は湖だった盆地だった
大陸だった
どろどろの熱い混沌だったマグマだった
―――世界のはじまりのそのひと雫だった
ほんの四十六億年前には
わたしのなかを
泳いでいるスナメリ
大気も水も土もひとつに溶けていた昔
同じ混沌のひとつらなりのいのちだった
魂のように跳ねる魚も
ほほえみのようにひらく花も
心のように羽ばたく鳥も
祈りのようにうまれる赤ん坊も
核を抱いている真珠貝も
おびただしく浮遊している
ブランクトンも
この地球も ひとつの生命体(いのち)
どこから来て
どこへ行くのか
あ いま 太陽がわたしに溶ける
さざ波をくまなく染めて
※
この詩は日本を見ているようで、私はとても幸せな気持ちになりました。
こんなふうに考えたり、ことばを使ったりすることができれば、みんな子どもから大人まで仲よくなれるにちがいないと思います。
それにこの頃はごちゃごちゃして目も心も疲れてしまう世の中ですが、この詩を読んでいると元気が出てきます。
特に私が「ああいいなあ、とてもいいなあ」と感じたのは最後の「あ いま 太陽がわたしに溶ける/さざ波をくまなく染めて」の二行です。私が太陽に溶けたような感じがしてびっくりしました。よく読んでみると「このわたしは大村湾」なのですから、私ではないのですけれど。
そうわかっても、私には「私が太陽にとけているような感じがします」。
そして、このことは決して間違っていないと確信します。それはとても愉快な感じです。子どもの無邪気というのはこういうことをいうのではないかと思うのです。
2009年09月29日
「泥酔と色」中島悦子 詩という事件
泥酔と色 中島悦子
「せっかくですから」と言って、入った寺で濃茶をいただく。あ、
これ、入場料に含まれているわけですね。
あああ、そうですか。そうですか。
(入場券は財布にしまう。)
寺ってのは、いろいろな罪をかぶってくれるんですって。
コインロッカーの中に、朝早くから詰められる荷物は、たとえ ば、黄緑色の芋虫。その輪廻のまわりは早い。生まれ続ける芋
虫に、たった一週間であふれそうなコインロッカー。
その輪廻をめぐりを反省する。蝶にに生まれても反省する。魚に
生まれても反省する。もちろん芋虫に生まれても反省する。餓
鬼になり反省し、地獄へ行っても反省する。人間になった時は、
小さな紙に必ず記録して反省する。反省。
何にもなりたくなかった。
ただ、何かの染料にはなりたかった気がする。
自分自身が、完全な色となる日。
ひきこもりの松田君が、問題をだしてくれる。
「次のうち、低級アルコールはどれでしょう。①イソプロピル
アルコール ②ステアリルコール ③ラウリルアルコール
④ミスチルアルコール」
その痛々しい問題にどうこたえたらいいのかわからないうちに、
窓の外でふみきりの警報機が急に鳴り出した。
よく夢で殺されそうになる。絶体絶命、藁葺きの屋根の上に追
い詰められると、大抵飛び降りて逃げようとする。途中で、空
中に飛べる。それは不思議な光景なのだが、あの時、もう死ん
でいたのだろうと思う。
濃茶を飲む。 濃緑になる。
正月には、満員列車に窓から乗り込んで故郷をめざす。おみや
げがある。その袋が大きく重い。自分の荷物はほとんどない。
故郷とはどこか。これは現実か。
こころの声は誰にも聞こえない。奇声だけはやたらに聞こえる。
わたしの声もどこか奇声となって、しかし、それが普通に聞こえて
いるかもしれない。
どこかで気持ちを落ち着けるとしても、
染料といえば、ムラサキがいい。
ムラサキ科の多年草の根からとれる紫。
紫足袋にでもなって、
下々の女の足にまとわりついていればいい。
下々の女の。
染料になって。
※
これって一体どういう事なんだ! これは何なんだ! あっちへ行ったり、こっちに来たり、走ったり、
立ち止まったり、これって一体どういう事なのか?
というのが、初めてこの詩を読んだときの感じです。このことをもう少しくわしくいう前に、一つだけはっきりさせて置きたいのは、とにかく、<事>であり、やや大げさにいうならば<事件>なのだということです。
たとえば、一連目、これくらい元気な詩は今までに読んだこともあるし、私自身も書いたような気がします。けれども、三行目の<あああ、そうですか。そうですか。>などという乱暴とまでいえるような調子にのった言葉は私は書いたことがありません。元気がよすぎて、ドタバタしている感じがしますが、でも気分は決して悪くない……。
まあ、これはいいとして、一連目から次の二連目は殆どつながりには感じられず、ガチンと頭がぶつかる感じがします。でも、決して気分が悪いわけではない。
さて、続いて三連目はこの詩のなかで、私のいちばん気に入った所です。
私は蝶になったり、魚になったり、地獄に行ったり、人間になったり、どんどこ移っていきます。もちろん、
私は反省なんかしません。こんなに早く移っていつては反省どころではありません。反省しないのは、
私の責任ではないような気がします。
それは私がいつも大声でいいたいことで、私は反省が大の苦手だからです。
というわけで、この詩は私に自由に読んで、自由に解釈していいんだよといっているような感じがします。というと、何かしら悟りきった宗教と勘違いする人もいるかもしれませんが、そうではありません。
この詩に私が最も近いと思うのは、私が中学生の時、五、六人の友達と一緒にいろんなことを自由に
話した時のことです。後になって考えてみると、その時、自分でも何をしゃべっているか、よく分からないのに、私は夢中で話しをしていたような気がしました。そして、相手には私の話の細かいところはわからなくても、
全体はわかってもらえたような気がしました。さて、このおしゃべりのような詩のなかから「色になりたい」ということが、一つの思想ののように私のなかに残りました。それは最後の連で決定的となつたわけてすが、おそらく、そのわけはこの詩が中学生のように自由に話す力をもっているからだと思います。
2009年09月27日
「黒い運動」小野原教子 フェルメールの絵
黒い運動 小野原教子
南側の窓に木が並んでいて林のようになっている
季節の風は心地よくいつまでもここにいたい
あなたからの贈り物をもらう約束をしてわたしの黒い
ビーズの髪飾りを大きなライターに巻いてみた
なかみはなんだろうと想像してみてあふれだす透明な
いろたぶんきっとそれを注いでみると喉は喜ぶ
筆圧が強く誠実なかんじで埋められている面積の
広くて大きいのを指で触ってみる裏からも触る
傘の先から黒い水が垂れてきて雨は絵の具のように
なっているのは塗料それとも木を燃やした跡?
※
私がこの詩に惹かれるのは、この詩の形がはっきりとしているからです。この詩はそれぞれ二行づつで、その二行が同じ数の文字でそれぞれ同じに造られています。
全体の姿は優美な橋や瀟洒な建物のようにすっきりとしています。こうするためには、言葉の選び方や並べ方を
ひとつひとつについて、かなり注意深くする必要があるのだと思います。時には、その言葉本来の姿を加工しなければならないこともあると思います。でも、その苦労のあとは殆ど
目に残りません。
たとえば、いちばん初めの連。二行目の形式は保たれていて、しかも言葉は殆ど自然に書かれています。これと同じような五連でこの詩は成り立っているわけですが、一連一連の意味のつながりよりも、形の統一が感じられて私はそのことにとても惹かれます。
ただそうして何度か読んでいくうちに、オランダの画家、フェルメールの絵がふっと頭に浮かびました。
フェルメールの絵はすべての物を気持ちのいちばん深いところにひっぱりこんでくる。
それはどういうことかというと、私たちが日頃見たり、感じたりしている風物がそれが絵をとおして気持ちのなかに浸みこんできて、とても満ち足りた気分になります。
はっきりとはわかるわけではないのですが、恐らく、その秘密はフェルメールの絵の形式にあるのではないかと思えます。私は、詩にも必ず形があると思います。それは、いつもはっきりとわかるわけではありまんが。
それはそれとして、最後の連についてはとても怖い感じがしました。黒い水が流れているのはどこなのか? 私の部屋なのか? 私の家のなかなのか? それとも私の体のなかなのか?
2009年09月25日
「石段、橋」塚越祐佳 新しい乗物
石段、橋 塚越祐佳
石段をあがるたび
水面が膚をさすりながらさがつていく
石からわきでる
とまらない
湯気がわたしの体温をうばっていって
もう胸まであらわになっている
石段をあがるたび
頂上の神社は遠のき
羽虫のように雪
わたしの白目になりたがる
温泉街のはずれに
収集された外国製のオルゴール
囲いの外にはとどかない響き
(離陸ラインはまっすぐすぎて)
窓にはよみがえる手形に着地する
石段をあがるたび
土はかたくかたく
山がおんなに姿をかえる
ヨーロッパに連れられ
夢見た温泉街
捨てられた旅館の向こう側
には橋があってわたりたいのに
おんなはビョーキで
鹿のようにビョーキで
でも橋はきてくれなくて
(最上階の部屋だけが茶色に明るく)
湯気が分厚くはりついていくのを
水面はうながすように
ながれて
去り
白目に雪がつもった
わたしははだか
おんなは湯気を越えられないでいる
はみだす呼吸音
鳥居のあいだに
わぎりになった太陽が
膜をはっている
臓器たちが
はじめての光りに
とまどうまえに
剥がしていれば
見えたのは
きっと
山間の橋
※
実はこの詩の内容はよくわからない。それにもかかわらず、私はこの詩をもう一度初めから読みたい
と思い、何度か繰り返し読んだ。
それは、この詩がまるで古い写真と全く新しい近未来のような世界が共存しているからだ。ふつうは
あまり違った世界を読んでいくことは困難なことなのだが、この詩の場合はそれができる。
この異なる世界はとても巧みに組み合わさって、それをばらばらに離すことはできない。たとえば第
一連目がそうした感じが強い。
しかし、先に述べたように異なった世界を取り出すことはできない。二つの異なる世界と私は言ったけれども、それは世界でなくてもいいのだろう。
とにかく、異なっていることが重要なのかも知れない。この異なる世界を飛翔することがとても重要なことであり、それは何かしらエクスタシーをともなうような言葉の運動なのだ。
それで私は内容がよくわからないにもかかわらず、この詩を何度も読みたくなるのだろう。
あらゆる詩の源にこの詩に似たような言葉の冒険があるような気がする。
2009年09月24日
「夕月」丸山由美子 不思議の国のアリス
夕月 丸山由美子
山河のページをめくりかけたままの
指の形をして
夏の白い娘が断崖から落ちていく
咲いている間ずうっと
名前も知らなかった野の花が
びっしりちいさな実をつける頃
※
この詩は余白のうつくしい詩です。
それは<夕月>というタイトルに対してまず私そう感じます。
<夕月>は余白のなかで漂っている。そんなふうにイメージされるのです。そして、この余白のイメージ
はこの詩全体を支えているような感じがします。
最初の連の一行目と二行目、二行目そして三行目が終わったあと、ここにはひそやかではありますが
しかし確実に余白があります。
そして初めの三行とお終いの三行、この間にはここにも余白があり、それは大きな深淵のような感じ
がします。
恐らく、この詩人はこの余白をとおして、不思議の国のアリスが鏡をとおしてもう一つの世界へ入って
いったように、大自然のなかへ入っていったのではないでしようか?
2009年09月18日
「エアリアル」シルヴィア・プラス皆見昭訳
Ariel
Stasis in darkness.
Then the substanceless blue
Pour of tor and distances.
God's lioness,
How one we grow,
Pivot of heels and knees!--The furrow
Splits and passes, sister to
The brown arc
Of the neck I cannot catch,
Nigger-eye
Berries cast dark
Hooks----
Black sweet blood mouthfuls,
Shadows.
Something else
Hauls me through air----
Thighs, hair;
Flakes from my heels.
White
Godiva, I unpeel----
Dead hands, dead stringencies.
And now I
Foam to wheat, a glitter of seas.
The child's cry
Melts in the wall.
And I
Am the arrow,
The dew that flies,
Suicidal, at one with the drive
Into the red
Eye, the cauldron of morning.
天駈ける精(エアリアル)シルヴイア・プラス 皆見昭訳
暗黒(くらがり)の中の静止(とどまり)。
それから限りなく青い
岩の地平の彩りの噴き出し。
神の獅子は天駈ける、
わたしたちは一つになり、
かかとと膝は要だわ。裂けて
過ぎて行くわだち、逃げる
首の茶色の弧の
いとしい分身(かたわれ)。
暗黒のひとみの
木の実が暗いひずめを
投げ上げる。
黒くて甘い口一杯の血と、
影たち。
わたしを空中に
ほかの何かがほうり出す。
股も、髪も、みなすべて。
わたしのかかとから雪片を。
真綿のように白い
裸のゴタ゜イヴァさながらに、私ははぎ取る、
死せる手を、死せる厳しいこの世の規則を。
今や私は
麦の間に光る泡、海のきらめき。
子供の生ぶ声は
壁の中で溶ける。
そして私は
走る矢となり、
わが身を断つため
大気を割って飛び去る露になる、
煮え立つ大鍋、
真赤な朝の眼(まなこ)へと。
※
それでも、この詩はすばらしい、朗読する声もきれいに澄んでいる。
でも、若いときこの詩を読んだときは気がつかなかったけれど、この詩にも、死が打ち消しがたく
埋め込まれているのは、驚きだ。エアリアルはシェクスピアのテンペストなどに出てくる精霊で普段は
目に見えない透明な妖精。この詩の中ではプラスの馬の名前らしい。グウィネス・パルトローがシルヴィア・プラスになって映画に出ているらしいが見てみたい気がする。
2009年09月16日
「二本の足が自分の家なのだとあなたは言った」田口犬男
二本の足が自分の家なのだとあなたは言った チェ・ゲバラに 田口犬男(世界を新しくする恐るべき詩)
1(自分が誰なのか分からないので)
自分が誰なのか分からないので
ぼくたちは
知ろうとするのだ
せめてあなたが誰だったのか
2(捧げられた幾千もの詩行の中に)
捧げられた幾千もの詩行のなかに
あなたは蹲っている
美しすぎる修辞に塗れて
あなたは身動きがとれない
愛の言葉が喉につかえて
あなたは息をすることが出来ない
3(闘牛士のような眼で)
闘牛士のような眼で
あなたが睨み付けたのは
猛牛ではなくて 歴史だった
間に合わせの武器弾薬と
あふれるほどの愛
自分はいったい誰なのか
歴史が歴史自らに
尋ね始めた
4(二本の足が
自分の家なのだとあなたは言った)
二本の足が
自分の家なのだとあなたは言った
川の辺(ほとり)で
青空の下で
ジャングルの奥地で
その家は
胡座をかき
立ち上がり
ときに跪いた
家には窓がついていて
いつでも世界を窺っていた
5(愛と怒りで
充分に満たされていたので)
愛と怒りで
充分に満たされていたので
風船は空へと吸われていった
より高い所で
破裂するために
だが今では人が破裂している
澄み切った眼差しで
時に穏やかな
微笑さえ浮かべて
6(大地は飲み込んでいく)
歴史を傍観する傲慢と
歴史を動かそうとする傲慢が
せめぎ合っている
大地は飲み込んでいく
勝利を 敗北を
砲弾を 野の花を
数え切れないほどの死者たちを
大らかに咀嚼して
ゆっくりと飲み下していく
だが飢えは
いっこうに治まる気配がない
7(星は行き倒れた)
星は行き倒れた
ボリビアの山中の苦い村で
夢の瞳孔が開いた
座礁しなければ
辿り着けない遙かな岸辺に
あなたは打ち上げられたのだ
虚空を見つめ続けたまま
全身で全世界を映す
鏡になって
8(山が連なるように
人が連なることは出来ないか)
山がつらなるように
人が連なることは出来ないか
木々が目覚めるように
人が目覚めることは出来ないか
川は夢中で流れていた
影はゆっくりと落ちていた
誰も叫んでいないのに
山から谺が帰って来た
9(死んで良かったことがひとつある)
死んで良かったことがひとつある
それは喘息が治ったことだと
あなたは笑いながら言うだろうか
銃口を向けられることも
銃口を向けることも最早ない
怒りに震えることもない
だがあなは密かに眼を凝らしている
遠く煙る地上の未来に
山が連なるように
そこでは人が連なっている
2009年09月04日
政治 キャロル・アン・ダフィ 英国王室桂冠詩人
政治 Carol Ann Duffy 熊谷ユリア訳
一体どうやったら、あんたの顔を、
痛みで啜り泣く石に
変えられるのか。あんたの心臓を、
ズキズキと血の汗を流す
固く握りしめた拳に変えられるのか、
あんたの舌を
扉のない掛金に換えられるか
※
全くわたしの大好きなキャロル・アン・ダフィは英国王室桂冠詩人になってしまった。あの反抗的な、夜
のしずかな窓をあけ、あなたを愛していますなんていっていたうら若い女が男と一緒になって、タマネギ
なんかあげていたり、マンハッタンの高層ビルから裸で手をふっていた彼女があっという間にシングルマザーになり、レスビアンにもなり、大学教授にもなり、おデブちゃんになり、王室のローリエ詩人になってしまった。現代は少しもゆっくりさせてくれないらしい、彼女もおばあちゃんになったり、わたしもおばぁちゃんになったけれど、シルビア・ブラスのように悲劇的になりたくはないと思っていたら、その息子はどこか
地球の寒い寒い場所で凍え死んでしまった。これほど過激になることはないと思うけれど、しかし、この
単純な詩を書く詩人はちょっと女の人でも怖かったのです。
2009年07月16日
iliad in greek
Ἔνθ᾽ αὖ Τυδεΐδῃ Διομήδεϊ Παλλὰς Ἀθήνη
δῶκε μένος καὶ θάρσος, ἵν᾽ ἔκδηλος μετὰ πᾶσιν
Ἀργείοισι γένοιτο ἰδὲ κλέος ἐσθλὸν ἄροιτο·
δαῖέ οἱ ἐκ κόρυθός τε καὶ ἀσπίδος ἀκάματον πῦρ
ἀστέρ᾽ ὀπωρινῷ ἐναλίγκιον, ὅς τε μάλιστα 5
λαμπρὸν παμφαίνῃσι λελουμένος ὠκεανοῖο·
τοῖόν οἱ πῦρ δαῖεν ἀπὸ κρατός τε καὶ ὤμων,
ὦρσε δέ μιν κατὰ μέσσον ὅθι πλεῖστοι κλονέοντο.
イーリアス 上 呉茂一訳
怒りを歌え、女神よ、 ペーレウスの子のアキレウスの、
おぞましいその怒りこそ 数限りない苦しみを
アカイア人らにかつは与え、
また多勢の 勇士らが雄々しい魂を 冥王が府へと
送り越しつ、その間にも ゼウスの神慮は遂げられていった、
2009年06月28日
ハイデッカーが読むヘルダーリンの「イスター」浅井真男訳
Friedrich Hölderlin
Der Ister
Jetzt komme, Feuer!
Begierig sind wir,
Zu schauen den Tag,
Und wenn die Prüfung
Ist durch die Knie gegangen,
Mag einer spüren das Waldgeschrei.
Wir singen aber vom Indus her
Fernangekommen und
Vom Alpheus, lange haben
Das Schickliche wir gesucht,
Nicht ohne Schwingen mag
Zum Nächsten einer greifen
Geradezu
Und kommen auf die andere Seite.
Hier aber wollen wir bauen.
Denn Ströme machen urbar
Das Land. Wenn nämlich Kräuter wachsen
Und an denselben gehn
Im Sommer zu trinken die Tiere,
So gehn auch Menschen daran.
Man nennet aber diesen den Ister.
Schön wohnt er. Es brennet der Säulen Laub,
Und reget sich. Wild stehn
Sie aufgerichtet, untereinander; darob
Ein zweites Maß, springt vor
Von Felsen das Dach. So wundert
Mich nicht, daß er
Den Herkules zu Gaste geladen,
Fernglänzend, am Olympos drunten,
Da der, sich Schatten zu suchen
Vom heißen Isthmos kam,
Denn voll des Mutes waren
Daselbst sie, es bedarf aber, der Geister wegen,
Der Kühlung auch. Darum zog jener lieber
An die Wasserquellen hieher und gelben Ufer,
Hoch duftend oben, und schwarz
Vom Fichtenwald, wo in den Tiefen
Ein Jäger gern lustwandelt
Mittags, und Wachstum hörbar ist
An harzigen Bäumen des Isters,
Der scheinet aber fast
Rückwärts zu gehen und
Ich mein, er müsse kommen
Von Osten.
Vieles wäre
Zu sagen davon. Und warum hängt er
An den Bergen grad? Der andre,
Der Rhein, ist seitwärts
Hinweggegangen. Umsonst nicht gehn
Im Trocknen die Ströme. Aber wie? Ein Zeichen braucht es,
Nichts anderes, schlecht und recht, damit es Sonn
Und Mond trag im Gemüt, untrennbar,
Und fortgeh, Tag und Nacht auch, und
Die Himmlischen warm sich fühlen aneinander.
Darum sind jene auch
Die Freude des Höchsten. Denn wie käm er
Herunter? Und wie Hertha grün,
Sind sie die Kinder des Himmels. Aber allzugeduldig
Scheint der mir, nicht
Freier, und fast zu spotten. Nämlich wenn
Angehen soll der Tag
In der Jugend, wo er zu wachsen
Anfängt, es treibet ein anderer da
Hoch schon die Pracht, und Füllen gleich
In den Zaum knirscht er, und weithin hören
Das Treiben die Lüfte,
Ist der zufrieden;
Es brauchet aber Stiche der Fels
Und Furchen die Erd,
Unwirtbar wär es, ohne Weile;
Was aber jener tuet, der Strom,
weiß niemand.
イスター フリードリッヒ・ヘルダーリン 浅井真男訳
いまこそ来たれ、火よ!
われらこがれる思いで
日を見るのを待っている、
まことに、試練が
ひざまづく者にとって過ぎれば、
彼は森の叫びに気づくであろう。
けれどもわれらは、インダス河から、
アルプェイオスを通ってはるばると
やって来たものを歌う。長いあいだ
われらはふさわしいものを探し求めたのだ、
いささかの飛躍をもって
身近なものにまっすぐに
手をのばし、反対がわにおもむく者もあろう。
しかしわれらはここで土をたがやそう。
あまたの川が土地を耕地に
してくれるからだ。なぜなら、雑草がはびこり、
夏に水を飲もうとして、けものが
川のほとりにゆくならば、
人間もまた仕事をはじめるのだから。
だがこの川をひとはイスターと呼ぶ。
この川はうるわしく土地になじんでいる。円柱をなす樹々の葉は熟し、
ざわめいている。樹々は野生のままに
入り乱れて立っている。その上には
樹々とはちがう高度を保って、岩々の
屋根がそびえている。これを見れば、
この川がヘラクレスを客として
迎えたことも、わたしを驚かさない。
遠くまで輝きをとどかせて、この川は
彼が炎暑のイストモスから影を求めて来たときに、
あの南方のオリュンポス山のほとりで、彼をさそったのだ。
なぜならば、そこでもひとびとは活気に満ちていたのだが、
死者たちの霊のためにはやはり
冷気が必要だったのだ。だからこそ彼は好んで
ここの泉と黄色い岸辺まで足をのばしたのだ。
ここでは高いところでは強い香りがただよい、
猟人が好んでさすらう谷間は
真昼にも唐檜の森におおわれて暗く、
イスターの樹脂の多い樹々からは
その成長の音が聞き取れるのだ。
ところがイスターは引っ返してゆくように見え、
わたしには、この川が
東方から来たとしてか思えない。
これについては
あまたのことが言えるだろう。そしてこの川は、なぜ
山々にまといついているのだろう、もうひとつの川、
ラインはわきによけて
流れ去っていったのに。あまたの川が
乾燥地帯を流れるのもあだではない。だが、どうしてか?太陽と月とを、
また日と夜とを、心情のなかに
分かちがたく保持して、運び、
天上的なものたちが温くたがいを感じあうための
しるしこそは、ぜひとも必要だからなのだ。
だからこそ、あのあまたの川はまた
最高者の喜びなのだ。 どうして最高者は
地上におりてこられよう?そしてヘルタが緑であるように、
川はみな天空の子らなのだ。だがイスターはわたしには
あまりに忍耐づよく、
殆ど見る者をあざけるほどに、自由でないように見える。すなわち、
日は、生長しはじめる
青春のときに昇らなくてはならず、
もうひとつの川は青春のおりに
早くも高々と壮麗な活動を示し、若駒にひとしく、
埒のなかで荒れ狂い、遙か遠くの風も
その狂乱を聞くのに、
イスターは満足しているのだ。
けれども岩には通路が
大地には鋤溝が必要なので、
もし停滞がなかったら、川は荒廖たるものになるだろう。
だが、あの川のなすことは、
だれも知らない。
※
イスターはドナウ川のこと。
ヘラクレスは極北人ヒュペルポレオイの国、もしくは西のはての国スペロスへ行ったともされるが、いずれの国も生の彼岸という意味を持っている。
イストモスはコリント地域のこと。
イスターはSalzburgあたりから、10の国を通過して、黒海に入る。
ラインは反対の大西洋に出る。
一時ヘルダーリンはすたれたが、最近またフランスで興味を持たれている。
2002 - 2008 © Ister.ORG
2009年06月27日
こんな詩が書きたかった!
Rilke ゛ Das Buch der Bilder ゜ eingang
Wer du auch seist: am Abend tritt hinaus
aus deiner Stube, drin du alles weißt;
als letztes vor der Ferne liegt dein Haus:
wer du auch seist.
Mit deinen Augen, welche müde kaum
von der verbrauchten Schwelle sich befrein,
hebst du ganz langsam einen schwarzen Baum
und stellst ihn vor den Himmel: schlank, allein.
Und hast die Welt gemacht. Und sie ist groß
und wie ein Wort, das noch im Schweigen reift.
Und wie dein Wille ihren Sinn begreift,
lassen sie deine Augen zärtlich los...
リルケ 「形象詩集」 序詩 富士川英郎訳
君がどんな人でもいい 夕(ゆうべ)がきたら
知りつくした部屋から出てみたまえ
君の住居(すまい)は 遠景の前に立つ最後の家に変わっている
君がどんな人でもいい
踏み減らした敷居から ほとんど離れようとせぬ
疲れた眼で
おもむろに君は一本の黒い木を高め
それを大空の前に立たせる ほっそりと孤独に
こうして君は世界を造った その世界は大きく
沈黙のうちにみのることばのようだ
そして君の意志が その意味をつかむにつれて
君の眼は やさしくその世界を放す……
この詩はyou tube にないので、発音がわかりません。でも、電子辞書に豆電池をいれたので、
すこし単語がわかりました。
welt ヴェルト 世界
gemacht ゲマはト 造られた
wer ヴェーア 誰
Abend アーベント 日暮れ時
この四つがわかれば、今日はいいでしよう。
リルケはやがて「世界ー内ー存在」ということをいうようになります。
この頃はまだ、世界はそんなに壊れていなかったのでしょう。いまは、世界という観念もすこし変わっているかも、知れません。壊れた世界の穴を埋めながら、世界を造るのは容易ではありません。
でも、この詩の魅力はそれとは別にあるようです。何かが可能だと思わせるのです。
2009年06月26日
エミリーディキンソンの「わたしは死のために…」亀井俊介訳
Because I could not stop for Death (712)
by Emily Dickinson
Because I could not stop for Death –
He kindly stopped for me –
The Carriage held but just Ourselves –
And Immortality.
We slowly drove – He knew no haste
And I had put away
My labor and my leisure too,
For His Civility –
We passed the School, where Children strove ( played at wresting)
At Recess – in the Ring –
We passed the Fields of Gazing Grain –
We passed the Setting Sun –
(Or rather – He passed us –
The Dews drew quivering and chill –
For only Gossamer, my Gown –
My Tippet – only Tulle – )
We paused before a House that seemed
A Swelling of the Ground –
The Roof was scarcely visible –
The Cornice – in the Ground –( The cornice but a mound.)
Since then – 'tis Centuries – and yet (Since then ’t is centuries; but each)
Feels shorter than the Day
I first surmised the Horses' Heads
Were toward Eternity –
わたしは「死」のために止まれなかったので―― エミリー・ディキンソン 亀井俊介訳
わたしは「死」ために止まれなかったので――
「死」がやさしくわたしのために止まってくれた――
馬車に乗っているのはただわたしたち――
それと「不滅の生」だけだった。
わたしたちはゆっくり進んだ――彼は急ぐことを知らないし
わたしはもう放棄していた
この世の仕事も余暇もまた、
彼の親切にこたえるために――
わたしたちは学校を過ぎた、子供たちが
休み時間に遊んでいた――輪になって――
目を見張っている穀物の畠を過ぎた――
沈んでゆく太陽を過ぎた――
(いやむしろ――太陽がわたしたちを過ぎた――
露が降りて震えと冷えを引き寄せた――
わたしのガウンは、蜘蛛の糸織り――
わたしのショールは――薄絹にすぎぬので――)
わたしたちは止まった
地面が盛り上がったような家の前に――
屋根はほとんど見えない――
蛇腹は――土の中――
それから――何世紀もたつ――でもしかし
あの日よりも短く感じる
馬は「永遠」に向かっているのだと
最初にわたしが思ったあの一日よりも――
2009年06月25日
リルケの愛の歌 富士川英郎訳
Liebes-Lied
Wie soll ich meine Seele halten, daß
sie nicht an deine rührt? Wie soll ich sie
hinheben über dich zu andern Dingen?
Ach gerne möcht ich sie bei irgendwas
Verlorenem im Dunkel unterbringen
an einer fremden stillen Stelle, die
nicht weiterschwingt, wenn deine Tiefen schwingen.
Doch alles, was uns anrührt, dich und mich,
nimmt uns zusammen wie ein Bogenstrich,
der aus zwei Saiten eine Stimme zieht.
Auf welches Instrument sind wir gespannt?
Und welcher Geiger hat uns in der Hand?
O süßes Lied.wutz
愛の歌 ライナー・マリア・リルケ 富士川英郎訳
お前の魂に 私の魂が触れないように
私はどうそれを支えよう? どうそれを
お前を超えて他のものに高めよう?
ああ 私はそれを暗闇の なにか失われたものの側にしまつて置きたい
お前の深い心がゆらいでも ゆるがない
或る見知らぬ 静かな場所に。
けれども お前と私に触れるすべてのものは
私たちを合わせるのだ 二本の紘から
一つの声を引きだすヴァイオリンの弓の摩擦のように。
では どんな楽器のうえに 私たちは張られているのか?
そしてその手に私たちを持つ それはどんな弾き手であろう?
ああ 甘い歌よ
2009年06月23日
ランボーの酔っぱらった船 宇佐美斉訳
酔っぱらった船 アルチュール・ランボー 宇佐美斉訳
平然として流れる大河を下っていくほどに
船曳きに導かれる覚えはもはやなくなった
甲高く叫ぶインディアンが色とりどりの柱に
彼らを裸のまま釘づけにして弓矢の標的にしてしまった
フランドルの小麦やイギリスの綿花を運ぶ船である私は
あらゆる乗組員どものことにもはや無頓着だった
船曳きがいなくなるのと同時にあの喧噪も収まってしまい
大河は私の望むままに流れを下りゆかせた
たけり狂う喧噪のなかを ある年の冬のこと
子供の脳髄よりも聞き分けのない私は
疾走した 纜をとかれた半島といえども
これほど勝ち誇った大混乱に身を委せはしなかった
嵐が海上での私の目覚めを祝福した
コルク栓より軽々と波の上で私は踊った
遭難者を永遠に転がし続ける者と呼ばれるその波の上で
十夜にわたって 角灯のまぬけた眼を惜しむこともなく
子供らが囓る酢っぱい林檎よりもなお甘い
海の蒼い水は 樅材の私の船体にしみとおって
安物の赤葡萄酒と反吐のしみを洗い流してくれ
梶と錨までももぎ取ってどこかへやってしまった
そしてその時から 私は身を浸したのだ 星を注がれ
乳色に輝いて 蒼空を貪り喰っている海の詩のなかに
そこでは時折 色蒼ざめて恍惚とした浮遊物
物思わしげな水死人が 下ってゆくのだつた
またそこでは 蒼海岸がいきなり染めあげられて
太陽の紅の輝きのもとで錯乱し かつゆるやかに身を揺すり
アルコールよりもなお強く また私たちの竪琴の音よりもなお広大に
愛欲の苦い赤茶色の輝きが 醗酵するのた゜った
私は知っている 稲妻に切り裂かれる空 そして竜巻
砕け散る波と潮の流れを 私は知っている 夕暮れを
一群の鳩のように高揚して舞い上がる暁を
そして私は時折まさかと思われるようなことをこの眼で見た
私は見た 神秘の恐怖にしみをつけられた低い太陽が
菫いろの長い凝固の連なりを照らしているのを
そしてまた古代史を彩る立役者たちのように
大波がはるか遠くで鎧戸の戦きを転がしているのを
私は夢に見た 眩惑された雪が舞う緑の夜
すなわちゆるやかに海の瞳へと湧き上がる接吻を
驚くべき精気の循環を
そして歌う燐光が黄と青に目覚めるのを
私は従った 何箇月もの間 ヒステリーの牛の群れさながらに
暗礁へと襲いかかる大波の後を追って
その時は マリアさまのまばゆい素足が 喘ぐ太陽の鼻面を
押さえつけることができるとは思いもしなかった
私は衝突した 本当に まさかと思ったフロリダ
人間の膚をした豹の眼に花々がまぜ合わされるあの国に
そしてまた 水平線の下へと 海緑色の野獣の群れに
手綱のように張り渡された虹にさえ衝突した
私は見た 巨大な沼が魚梁となって醗酵し
蘭草のなかに怪獣レヴィアタンがまるごと腐乱しているのを
べた凪のただなかで海水が崩れ落ちるのを
そしてはるかな遠景が滝となって深遠へと雪崩れてゆくのを
氷河 銀の太陽 真珠の波 熾火の空よ
褐色の入江の奥で味わったおぞましい座礁の体験
そこでは南京虫に貪り喰われた大蛇が
猛烈な臭いを放ってねじくれた木からずり落ちてくる
子供たちに見せてやりたかった 青い浪間の鯛や
金の魚 そしてあの歌うたう魚らを
――泡沫の花々が私の漂流やさしく揺すり
絵も言われない追風が時々私に翼をあたえた
時折 海はすすり泣いて私の横揺れを甘美なものにしながら
極地や様々な地帯に倦み疲れた殉教者である私に向かって
黄いろい吸玉のついた影の花々をさし出すのだった
そこで私はじっとしていた 跪くひとりの女のように……
まるで島だった 私が揺すっている船べりには
ブロンドの眼をした口うるさい鳥たちが争いをしたり糞をおとしたりしていた
そしてなおも後悔を続けていると か細くなって垂れ下がった私の纜を横切って
水死人らが後ずさりしながら眠りに落ちてゆくのだった
ところでこの私は入江の髪のなかに迷い込んでしまって
鳥も住まない天空へハリケーンによって吸い上げられた船だった
モニター艦やハンザの帆船といえどども
水に酔っぱらったこの骨組みを救いあげようとはしなかったろう
自由気まま 菫色の霞に跨がられ 煙を吐きながら
私は赤く染まった壁のような空に風穴をあけていた
そこにはお人好しの詩人にとって甘美なジャムである
太陽に彩られた苔と蒼空の鼻汁とがこびりついている
私はさらに走りつづけた 三日月模様の電光に染まって
黒い海馬ヒッポカムポスに伴われる狂い船となって
その頃 七月は 沸騰する漏斗をそなえた群青色の空を
棍棒の乱打でくずおれさせていた
私はみぶるいしていた 五十マイルも離れたところで
発情した怪獣ペへモットやメールストロームの大渦潮が唸るのを感知して
青い不動の海原を永遠に糸を紡いで渡る身のこの私は
古い胸壁に取り囲まれたヨーロッパを懐かしんでいる
私は見た 星の群島を そして航海者に
錯乱に陥った空を開示する島々を
――おまえは眠りそして隠れ住むのか あの底の知れない夜のうちに
無数の金の鳥たちよ 未来の生気よ
それにしても 私はあまりに泣きすぎた 暁は胸をえぐり
月はすべて耐えがたく 太陽もま例外なく苦い
刺激のきつい愛が私の全身を陶酔のうちに麻痺させた
おお 竜骨よ砕け去れ 海にこの身を沈めるのだ
私が渇望するヨーロッパの水があるとするならば
それは黒々とした冷たい森の水たまりだ そこではかぐわしい匂いのする夕暮れに
悲しみに胸をあふれさせてうずくまるひとりの少年が
五月の蝶さながらのたおやかな小舟をそっと放ちやるのだ
おお波よ おまえの倦怠に浴してしまった私には
もはや不可能だ 綿花のを運ぶ船の航跡を消してゆくことも
旗や吹流しの驕慢を横切ることも そしてまた
廃船の恐ろしい眼をかいくぐって航行つづけることも
Le Bateau ivre
Comme je descendais des Fleuves impassibles,
Je ne me sentis plus guidé par les haleurs :
Des Peaux-Rouges criards les avaient pris pour cibles
Les ayant cloués nus aux poteaux de couleurs.
J'étais insoucieux de tous les équipages,
Porteur de blés flamands ou de cotons anglais.
Quand avec mes haleurs ont fini ces tapages
Les Fleuves m'ont laissé descendre où je voulais.
Dans les clapotements furieux des marées
Moi l'autre hiver plus sourd que les cerveaux d'enfants,
Je courus ! Et les Péninsules démarrées
N'ont pas subi tohu-bohus plus triomphants.
La tempête a béni mes éveils maritimes.
Plus léger qu'un bouchon j'ai dansé sur les flots
Qu'on appelle rouleurs éternels de victimes,
Dix nuits, sans regretter l'oeil niais des falots !
Plus douce qu'aux enfants la chair des pommes sures,
L'eau verte pénétra ma coque de sapin
Et des taches de vins bleus et des vomissures
Me lava, dispersant gouvernail et grappin
Et dès lors, je me suis baigné dans le Poème
De la Mer, infusé d'astres, et lactescent,
Dévorant les azurs verts ; où, flottaison blême
Et ravie, un noyé pensif parfois descend ;
Où, teignant tout à coup les bleuités, délires
Et rythmes lents sous les rutilements du jour,
Plus fortes que l'alcool, plus vastes que nos lyres,
Fermentent les rousseurs amères de l'amour !
Je sais les cieux crevant en éclairs, et les trombes
Et les ressacs et les courants : Je sais le soir,
L'aube exaltée ainsi qu'un peuple de colombes,
Et j'ai vu quelque fois ce que l'homme a cru voir !
J'ai vu le soleil bas, taché d'horreurs mystiques,
Illuminant de longs figements violets,
Pareils à des acteurs de drames très-antiques
Les flots roulant au loin leurs frissons de volets !
J'ai rêvé la nuit verte aux neiges éblouies,
Baiser montant aux yeux des mers avec lenteurs,
La circulation des sèves inouïes,
Et l'éveil jaune et bleu des phosphores chanteurs !
J'ai suivi, des mois pleins, pareille aux vacheries
Hystériques, la houle à l'assaut des récifs,
Sans songer que les pieds lumineux des Maries
Pussent forcer le mufle aux Océans poussifs !
J'ai heurté, savez-vous, d'incroyables Florides
Mêlant aux fleurs des yeux de panthères à peaux
D'hommes ! Des arcs-en-ciel tendus comme des brides
Sous l'horizon des mers, à de glauques troupeaux !
J'ai vu fermenter les marais énormes, nasses
Où pourrit dans les joncs tout un Léviathan !
Des écroulement d'eau au milieu des bonaces,
Et les lointains vers les gouffres cataractant !
Glaciers, soleils d'argent, flots nacreux, cieux de braises !
Échouages hideux au fond des golfes bruns
Où les serpents géants dévorés de punaises
Choient, des arbres tordus, avec de noirs parfums !
J'aurais voulu montrer aux enfants ces dorades
Du flot bleu, ces poissons d'or, ces poissons chantants.
- Des écumes de fleurs ont bercé mes dérades
Et d'ineffables vents m'ont ailé par instants.
Parfois, martyr lassé des pôles et des zones,
La mer dont le sanglot faisait mon roulis doux
Montait vers moi ses fleurs d'ombres aux ventouses jaunes
Et je restais, ainsi qu'une femme à genoux...
Presque île, balottant sur mes bords les querelles
Et les fientes d'oiseaux clabaudeurs aux yeux blonds
Et je voguais, lorsqu'à travers mes liens frêles
Des noyés descendaient dormir, à reculons !
Or moi, bateau perdu sous les cheveux des anses,
Jeté par l'ouragan dans l'éther sans oiseau,
Moi dont les Monitors et les voiliers des Hanses
N'auraient pas repêché la carcasse ivre d'eau ;
Libre, fumant, monté de brumes violettes,
Moi qui trouais le ciel rougeoyant comme un mur
Qui porte, confiture exquise aux bons poètes,
Des lichens de soleil et des morves d'azur,
Qui courais, taché de lunules électriques,
Planche folle, escorté des hippocampes noirs,
Quand les juillets faisaient crouler à coups de triques
Les cieux ultramarins aux ardents entonnoirs ;
Moi qui tremblais, sentant geindre à cinquante lieues
Le rut des Béhémots et les Maelstroms épais,
Fileur éternel des immobilités bleues,
Je regrette l'Europe aux anciens parapets !
J'ai vu des archipels sidéraux ! et des îles
Dont les cieux délirants sont ouverts au vogueur :
- Est-ce en ces nuits sans fond que tu dors et t'exiles,
Million d'oiseaux d'or, ô future Vigueur ? -
Mais, vrai, j'ai trop pleuré ! Les Aubes sont navrantes.
Toute lune est atroce et tout soleil amer :
L'âcre amour m'a gonflé de torpeurs enivrantes.
Ô que ma quille éclate ! Ô que j'aille à la mer !
Si je désire une eau d'Europe, c'est la flache
Noire et froide où vers le crépuscule embaumé
Un enfant accroupi plein de tristesses, lâche
Un bateau frêle comme un papillon de mai.
Je ne puis plus, baigné de vos langueurs, ô lames,
Enlever leur sillage aux porteurs de cotons,
Ni traverser l'orgueil des drapeaux et des flammes,
Ni nager sous les yeux horribles des pontons.
投稿者 yuris : 14:44
2009年06月21日
「空の庭」川口晴美 ショックだった詩
空の庭 川口晴美
わたしはどんなふうに死んでいくのだろう
いつか 何十年後それとも今夜 どんな死に方をするのだろう
必ず死ぬのだからそれはふつうに考えるけれどわたしは死ぬときこういう顔を
するだろうかそんな暇があるだろうか
飛行機にのるときは死ぬかもしれないといつも少しだけ考えるけど
空に浮かんだオフィスビルで伝票を書いたり書類を提出したりしているときには
死ぬとは思っていない ほとんど
思っていなかっただろう本当に死んだひとたちも
ニューヨークビルに飛行機が突っ込んでいく映像はすうっと吸い込まれていく感じが
満点の高飛びみたいに美しくてエロスだなあとおもってしまったねと
秘密を打ち明けるように昨夜男友達が言った
笑おうとして うまくいかなかった わたしは
友達とはいってもセックスはするので そいつの前でホウエツの顔ほしたことが
あるかもしれない あるかもしれないけどそいつのペニスが入ってくるとき
あっけなく壊ればらばらに砕け散る窓硝子のある高層ビルのようだと
じぶんの体をおもったことはなかった
それとも操縦桿をにぎられて否応なくいっしょに落ちてゆく体なのだろうかわたしの
体に夥しい見知らぬ死が宿る
重すぎて軽い
(詩集「Lives」/「空の庭」より)
※
この詩はひどいショックだった。いちばんショックだったのは、「重すぎて軽い」ということばだった。
私たちの平和も、いのちも愛もからだもことばも重すぎて軽いのかもしれないし、地球も戦争も重すぎて軽いのかもしれない。この詩のいいところは、いいロック歌手がからだを張って歌うように、からだを張って詩を書いたことによる。
この詩のいいところは共通項がたくさんあることである。共通項は
9.11
男
女
セックス
痛み
ホウエツ
友達
死
空
エロス
ビル
壊ればらばらに砕け散る
重すぎて軽いもの、それはまるで、パソコンのエラーでぱっと消えてしまうことばのようだ。それでも詩人は果敢に挑戦している。
2009年06月20日
「旅へのさそい」シャルル・ボードレール安藤元雄訳
L'invitation au voyage
Mon enfant, ma soeur,
Songe à la douceur
D'aller là-bas vivre ensemble!
Aimer à loisir,
Aimer et mourir
Au pays qui te ressemble!
Les soleils mouillés
De ces ciels brouillés
Pour mon esprit ont les charmes
Si mystérieux
De tes traîtres yeux,
Brillant à travers leurs larmes.
Là, tout n'est qu'ordre et beauté,
Luxe, calme et volupté.
Des meubles luisants,
Polis par les ans,
Décoreraient notre chambre;
Les plus rares fleurs
Mêlant leurs odeurs
Aux vagues senteurs de l'ambre,
Les riches plafonds,
Les miroirs profonds,
La splendeur orientale,
Tout y parlerait
À l'âme en secret
Sa douce langue natale.
Là, tout n'est qu'ordre et beauté,
Luxe, calme et volupté.
Vois sur ces canaux
Dormir ces vaisseaux
Dont l'humeur est vagabonde;
C'est pour assouvir
Ton moindre désir
Qu'ils viennent du bout du monde.
— Les soleils couchants
Revêtent les champs,
Les canaux, la ville entière,
D'hyacinthe et d'or;
Le monde s'endort
Dans une chaude lumière.
Là, tout n'est qu'ordre et beauté,
Luxe, calme et volupté.
— Charles Baudelaire
旅へのさそい
私の子、私の妹、
思ってごらん
あそこへ行って一緒に暮らす楽しさを!
しみじみ愛して、
愛して死ぬ
おまえにそつくりのあの国で!
曇り空に
うるむ太陽
それが私の心を惹きつけるのだ
不思議な魅力
おまえの不実な目が
涙をすかしてきらめいているような。
あそこでは、あるものすべてが秩序と美、
豪奢、落ちつき、そしてよろこび。
歳月の磨いた
つややかな家具が
私たちの部屋を飾ってくれよう。
珍しい花々が
その香りを
ほのかな龍涎の匂いにまじえ、
華麗な天井、
底知れぬ鏡、
東方の国のみごとさ、すべてが
魂にそっと
語ってくれよう
なつかしく優しいふるさとの言葉。
あそこでは、あるものすべて秩序と美、
豪奢、落ちつき、そしてよろこび。
ごらん 運河に
眠るあの船
放浪の心をもって生まれた船たちを。
おまえのどんな望みでも
かなえるために
あの船は世界の涯からここに来る。
――沈む日が
野を染める、
運河を染める、町全体を染め上げる、
紫いろと金いろに。
世界は眠る
いちめんの 熱い光の中で。
あそこでは、あるものすべて秩序と美、
豪奢、落ちつき、そしてよろこび。
2009年06月19日
アルチュール・ランボーのオフィーリア 宇佐美斉訳
I
Sur l'onde calme et noire où dorment les étoiles
La blanche Ophélia flotte comme un grand lys,
Flotte très lentement, couchée en ses longs voiles...
- On entend dans les bois lointains des hallalis.
Voici plus de mille ans que la triste Ophélie
Passe, fantôme blanc, sur le long fleuve noir
Voici plus de mille ans que sa douce folie
Murmure sa romance à la brise du soir
Le vent baise ses seins et déploie en corolle
Ses grands voiles bercés mollement par les eaux ;
Les saules frissonnants pleurent sur son épaule,
Sur son grand front rêveur s'inclinent les roseaux.
Les nénuphars froissés soupirent autour d'elle ;
Elle éveille parfois, dans un aune qui dort,
Quelque nid, d'où s'échappe un petit frisson d'aile :
- Un chant mystérieux tombe des astres d'or
II
O pâle Ophélia ! belle comme la neige !
Oui tu mourus, enfant, par un fleuve emporté !
C'est que les vents tombant des grand monts de Norwège
T'avaient parlé tout bas de l'âpre liberté ;
C'est qu'un souffle, tordant ta grande chevelure,
À ton esprit rêveur portait d'étranges bruits,
Que ton coeur écoutait le chant de la Nature
Dans les plaintes de l'arbre et les soupirs des nuits ;
C'est que la voix des mers folles, immense râle,
Brisait ton sein d'enfant, trop humain et trop doux ;
C'est qu'un matin d'avril, un beau cavalier pâle,
Un pauvre fou, s'assit muet à tes genoux !
Ciel ! Amour ! Liberté ! Quel rêve, ô pauvre Folle !
Tu te fondais à lui comme une neige au feu :
Tes grandes visions étranglaient ta parole
- Et l'Infini terrible éffara ton oeil bleu !
III
- Et le Poète dit qu'aux rayons des étoiles
Tu viens chercher, la nuit, les fleurs que tu cueillis ;
Et qu'il a vu sur l'eau, couchée en ses longs voiles,
La blanche Ophélia flotter, comme un grand lys.
Arthur Rimbaud
オフィーリァ
ⅰ
星の眠る黒い静かな波のうえを
色白のオフィーリアが漂う 大輪の百合のように
長いヴェールを褥にいともゆるやかに漂う……
――遙かな森に聞こえるのは獲物を追い詰める合図の角笛
千年以上にもわたって 悲しみのオフィーリァは
白い亡霊となって黒くて長い川の流れに従っている
千年以上にもわたって そのやさしい狂気が
夕べのそよ風にロマンスを囁きかけている
風は彼女の胸に口づけし ゆるやかに水面を揺れる
大きなヴェールを 花冠のようにひろげる
柳はふるえて彼女の肩に涙を落とし
蘆は彼女の夢みる大きな額のうえに身を傾ける
押し歪められた睡蓮が彼女のまわりで溜め息をつく
ときおり彼女は眼覚めさせる 眠る榛の木が匿う
何かの塒を するとそこから小さな羽ばたきが逃れ出る
――不思議な歌声が黄金の星から落ちてくる
ⅱ
雪のように美しい おお蒼ざめたオフィーリァよ
そうだ きみは川の流れに連れ去られて幼い命を終えたのだ
――というのも ノルウエーの高い山から吹き降ろす風が
きみの耳にほろ苦い自由をそっと囁いたせいだ
一陣の風がきみの豊かな髪をくねらせては
夢みる精神に奇妙なざわめきを伝えていたせいだ
樹木の嘆きと夜の溜め息のうちに
きみの心が自然の歌声を聞き分けていたせいだ
広大無辺なあえぎにも似た狂える潮の音が あまりにも
やさしく情にもろいきみの幼い胸を押し潰していたせいだ
ある四月のこと 蒼ざめた美しい騎士
あわれなひとりの狂人が 黙ってきみの膝に座ったせいだ
天と愛と自由と おお何という夢をみたのだ あわれな狂女よ
きみはその夢にとろけてしまった 火に溶ける雪のように
きみのみた壮大な幻がきみのことばを締めつけた
――そして恐ろしい無限がきみの青い瞳をおびえさせた
ⅲ
――さて詩人はいう 星の明かりに照らされて
夜ごときみが自分の摘んだ花々を探しにやって来ると
長いヴェールを褥にして 水のうえを
色白のオフィーリァが大輪の百合のように漂うのを見たのだと
2009年06月14日
「私は自分の人生が気に入っている」李謹華イ・グンファ 韓成禮訳
私は自分の人生が気にいっている 李謹華 1976年生まれ (世界を新しくする詩6)
私は自分の人生が気に入っている
季節ごとに一回ずつ頭痛が来て、二つの季節ごと一回
ずつ歯をぬくこと
がらんとした微笑と親しい皺が関係する私の人生!
私は自分の人生が気に入っている
私を愛する犬がいて、私の知らない犬がいる
白く老けを落としつつ、先に死んで行く犬のために
熱いスープを煮込むこと、冬よ、さらば。
青い星が尻尾を振って私のところに駆けて来て
その星が頭の上に輝く時、カバンを無くしてしまったっけ
カバンよ、私のカバンよ、古いベットの横に、机の下に
くちゃくちゃな新生児のように生まれ変わるカバン
肩が傾くほど、私は自分の人生が気に入っている
まだ渡って見たことのない橋、まだ投げてみたことのない石ころ
まだ取って見たことのない無数の多くの姿勢で、新しく笑いたい
しかし私の人生の第一部は終わった、私は第二部の始めが気に入っている
多くの店を出入りせねば、新たに生まれた手相に付いて行かねば
もう少し謹厳に、私の人生の第二部を知らせたい
私が好きになり、私を気に入る人生!
季節は冬から始まり、私の気に入った人生を
一月からまた計画しないで、カゴとパンはまだたくさん残っていて
皿の上の水は乾くことを知らない
魚と尻尾を突き合わせて、黄色い星の世界に行き
魚の木を植えねばならない
第三部のスープは冷えて、あなたの唇に流れこむ葡萄酒も
事実ではない、しかし人生の第三部でもう一度言うつもりだ
私は自分の人生が本当に気に入っている
息子も娘もにせ物だが、わたしの話は嘘ではない
丈夫な尻尾を持って、斧のように木に登る魚
ふさふさと魚が開かれる木の下で
私の人生の第一部と第二部を悟り
第三部のドアが開かないように祈る私の人生!
気に入った部分がちょきんと切られて行って
ずっと明るくなった人生の第三部を見ている
私は遂に尻尾を振って笑い始めた
2009年06月04日
「イタリック体の都市に住む秘密の言葉」金遠倞キムウォンギョン 韓成禮訳
イタリック体の都市に住む秘密の言葉 金遠倞 1980生まれ (世界を新しくする詩5)
雪の降るイタリック体の都市を点字で歩いて見なよ
暑い水脈の指紋が空中で沸騰している それなら指も旋
風を巻き起こしながら沸騰しているだろう、踊っている
だろう 君のために青い血管を開いて古い初潮を取り出
すつもりだ 絹糸のようにきれいな葉が耳を開いてひら
ひらするだろう
膨れるゴムのボールのような心臓に血が入って来れば、
うずくまっていた指先に最初の発声が落ちるだろう 秘
密の言葉は惜しんできた息をてっぺんに呼吸し、いっぺ
んに消えてしまい、指は消えつつ少しずつ月の子宮を記
録しているだろう
ここは光の世界を否定するいくつかの影たちが言語の
前の時間を押し出す所だ 私の小さな引き出しよ いく
つか耳を切って光が吐き出した沈黙をよく噛んで食べて
ごらん 歩くほど指の関節は外から暗くなるだろう 私
は秒針のような指で世界の風向計を少しずつ回していよう
2009年06月03日
「夕暮れの印象」李秀庭イ・スジョン 韓成禮訳
夕暮れの印象 李秀庭 1974生まれ (世界を新しくする詩4)
鍵盤一つを
ダーンと
打ち下ろす。
張り詰めて震える絃、
「ファ」の音階を飛び超えた
馬たちが、
一万頭ほど
手綱を切った馬たちが
走る。野原がいっぱいに
青いたてがみに覆われて
野原の果てまで駆けて行った馬たちが
塩辛い水の揺れる海の中に
跳びこむ。海に入った馬たちが
積みあがり積みあがり
黒い水嵩を成したまま
揺れながら横になる。
あなたと私の仲
瀑々とした水平線に
赤い鍵盤を広げた
夕焼けがかかり、
馬の鳴き声で深くなる
闇が来る。
2009年06月01日
「朝の少年」伊藤悠子
朝の少年 伊藤悠子 (世界を新しくするための詩1)
「暑いなあ」と大きな声で言いながら、少年が後ろから近づいてきた
「暑いねえ」と私
「寒いなあ」と追い越してから言った
「木陰にはいるとね」
「誰もいないなあ」
坂の横のバスの発着所を見おろして言っている
十四歳ぐらいだろうか
「バスだけね、運転手さんは休んでいるのね」
私はその少年に言うと同時に
私が手を引いている小さな子にも言うように言った
少年は階段を降り左の方に曲がるとき
こちらを向き大きく手を振った
私も片手を高く上げて返した
交差点を少年がひとり渡っていく
眞白い半袖シャツを着て
小説が始まる朝のようだ
渡り終えると
交差点の方に歩いていく私たちのために
歩行者用ボタンを押してくれた
こちらを見ながらひとつうなづいた
押しておくよ
ありがとう
少年は左の方へ
私たちは右の方へ
一本道を遠ざかっていったが
幾度も振り返り合図のように手を振った
そして少年は道を曲がったのだろう
誰もいないなあ
2009年03月30日
「ぶどう畑のように」羅喜徳ナ・ヒドク たたずまいのある詩
ぶどう畑のように 羅喜徳ナ・ヒドク
あの背の低いぶどう畑のように暮らしたかった
尾根の下に身を曲げて
低く低く伏せて暮らしたかった
隠れたか隠れていないかわからないように
世の中の外で実って行きたいと思うことがあった
口の中に残ったたった一言
ぶどうの種のように噛み
最後まで外に出したくなかった
丸い身を転がしてどこかに閉じ込めておきたい夢が
私にあった、何枚かの葉の後ろで
しかし私はもう世の中の酒樽に投げ入れられたぶどうの粒だったかも
しれない、熟しもしないうちにつぶされて赤い液になってしまった、
あまりに多くの言葉を口の中いっぱいに含んでむかむかする、私は
いつの間にか丸い身を忘れてしまったのかも知れない、ぶどうでない他の
身を失ってしまったのかも知れない、ぶどうでない他の身となり
ポチャッと音を出し、においになりもう一つの噂になって広がりながら
世の中を濡らしていたかも知れない
あの遠く背の低いぶとう畑の平和、
まだ私の体がぶら下がっているようだ
消えた手で消えた身を手探りして見る
秘密に実って行きたいと思うことがあったように
※
いろいろなことを考えさせられる詩です。
幼い頃のことや青春時代やそして、つい二、三年前のことまで。
私はこの詩を読んで、この詩のことを考えているうちに、いつのまか、自分のことを思いおこしていました。
恐らく、この詩にはしっかりしたたたずまいのようなものがあるからではないかと思います。子供の頃、
毎日ながめていた遠くの山々とか学校の帰り道にぽつんと立っている大きな杉の木に感じるのと同じようなある種のたたずまいのようなものです。
それにしてもぶどう畑のようになりたいとは、なんて新鮮な、なんて個性的な夢であり、欲望なのでしょう。その甘ずっぱい感じが思わず私の体のなかにひろがつてきます。
そして、私もああ、そうだったのかも知れないと思うのです。
中頃の連はさておいて、私がこの詩でもっとも強く惹かれたのはおしまいの四行です。この四行で、このぶどう畑はいまも彼女とともに(私とともに)あると思えるからです。
2009年03月29日
「エッグスタンド」蟹澤奈穂 瞬間の人生ドラマ
エッグスタンド 蟹澤奈穂
静かな午前の光のなか
白い卵の殻を
スプーンでかつんとたたいて
あなたは
何かを聴き取ろうとして
耳をそばだてる
聴くんだ 遠くから響くあの音を
ここがどんなに穏やかでも
泡立つ波に風が吹きつける
あの 嵐が生まれた場所のことを
きみは 思い出さなければ
いけない
たくさんの街をとおって来た
広場で 大声で叫んでいた人びとのように
みんなに加勢することはたやすいがね
大切なことは
孤独をわすれないようにすることだ
たったひとり
心の奥底に降りてゆけ そして
嵐吹きすさぶ場所を
思い出せ
それから
耳をすませて聴くがいい あの
止むことのない
風の音
そしてふいに あなたは
エックスタンドを
倒す
※
わかりやすい詩だと思います。それはこの詩が私の前にすくっと立って何のごまかしもなく、こちらを向いている気がするからです。
この詩の一つ一つの言葉はよけいな飾りや気取りがなく、それが私にはとても気持ちよく感じられるからでしょう。
同時にこの詩の強さも感じられます。その強さは幼い頃から、この詩人がずっと持ちこたえている純情
さかも知れません。
それと、もう一つ私はこの詩に独特のユーモアというか、ゆとりのようなものを感じます。それはたとえば<白い卵の殻を スプーンでかつんとたたいて>です。ここには音もあり、かつんとたたかれた痛さも感じられてまるで、私自身もたたかれているようです。もしかしたら、詩のなかの他者とは、こういうものなのかも知れない。そして、この詩のなかで話者や対者が入れ替わったりするのも、そのことと関係があるような気もします。とにかく、何かが<越境>している感じがします。この<越境>が私にとってユーモアのように感じられるのです。そのはじまりが<卵の殻のかつん>です。
おしまいに<そしてふいに あなたは エッグスタンドを 倒す>と読み終わると、一分間のひとり舞台を見たような感じがします。それは詩としてはユーモラスであり、ゆとりであるような感じがするのです。
2009年03月25日
Paradise 中本道代 パラダイスへの道
Paradise 中本道代
遠くで雨がふっている
遠いところ
バルドよりも遠いところ
ブロギイナよりも遠いところ
晴れやかに
透明のしずくが群がって落ちる
そこに人は行けない
そこで人は死んでしまう
ある種の生きものにとっては
そこは何でもないところ
もっと遠くでも雨がふっている
硫酸の雨
そこに行こうとしただけで死んでしまう
すこしも近づくことができず
もっと遠くでも
もっと遠くでも
裏側の宇宙
晴れやかな
そこから想ってみることもできないほど遠くに
私たち
純粋なる接近
※
この詩人が感じている世界、見ようとしている世界、私たちに伝えようとしている世界、それはいずれにしろ、彼女が深くかかわる世界があるようです。
それは何かしら、この世には実在しない世界のようです。しかし、彼女にとっては<実在する>のかも
知れない。
<遠くで雨がふっている>その<遠いところ>はどこなのか?
バルドでもなければ、ブロギイナでもない。しかも、バルドは物語や神話に登場する土地や国の名前のようです。
彼女が説明すればするほど、遠いところはますます遠くなり、ますます、その現実世界からは遠くなるのです。それにもかかわらず、彼女はその場所について一生懸命私たちに何かを伝えようとしているようです。
話は突然飛びますが、以前私はイギリスの車椅子に乗った物理学者ホーキング博士のベビーユニバース(小さい宇宙)にびっくりし、感動したことがあります。
そのベビーユニバースは私のすぐ側に、その入口があるということでした。この詩を読んでいて、なぜか私はベビーユニバースのことを思い出したのです。
もしかしたら、人はそれぞれベビーユニバースのような世界を持っているのかも知れない。そこでは、日頃みんなと一緒に生きている場所では見えないものが見えるのかも知れない。
たとえば、硫酸の雨のような恐ろしい雨、それは宇宙の裏側にあるのか、意識の裏にあるのか、いずれにしても、遠くにあるのか、それともすぐ間近にあるような気がする、この詩を読みながら、こんなふうに思いました。
2009年03月21日
「あさのひかりをあなたに」入江由希子 誠実な声
あさのひかりをあなたに 入江由希子
あなたは もう夜明けを見ただろうか
だれにももとめられないままあけていく夜の涙が こぼれ
うすいそらが あおく あおくひろがっていく
かなしみのうえにも かなしみが
かさねられてしまうときにも
どうしようもなくたちふさがるさみしさや
うめようのないむなしさ いたみ
ひかりに背をむけ 耳をふさぎ
うずくまるときにも
わすれないで
しんじることのできないときでも
わすれないで
やさしさのうえにも やさしさを
あいするよりも もっとあいされて
あなたに ふれていく
あなたが ふれていく
そのひかりのはしで
うまれつづける夜明けを わすれないで
※
いい詩だな、 この詩を初めて読んだとき、私は思いました。それは「傑作」とか、「名作」というのとは、ちょっと違った感じで、もっと親しみのある身近な感じです。
しかし、それでいながら、私とは違う、そういう感じです。妙なたとえをしますと、ひと組の幼い子供と親
がいて、思わず私が「いいお子さんですね」といいたくなるような、そんな感じです。
これはその理由をいってもなかなかわからないかも知れないし、私自身うまく説明できないのですが、
いい詩だなという感じは、全く間違いないと思います。
ただ、これだけは言っておきたいと思うのですが、ひとや物事を思ったり、感じたり悲しんだりする、
本当にするということは、それは言葉をとおしてであるということです。
このひとはこの詩を書いたとき、自分の心に素直に、それと同じように言葉に素直にあいたいしたのではないかと思います。
自分と言葉とどちらが先にあるのか、本当はわからない、そんな感じがする、それはいい詩であるということではないかと思います。
幼い子供はどこまでが自分で、どこまでがお母さんかわからない、 そんな子供がいいお子さんですねといいたくなるのです。
2008年09月23日
「漕ぐひと」荒川みやこ 毎日の生活に穴があいた
漕ぐひと 荒川みやこ
明け方 車をだしてもらう
助手席にすわっていると前のほうに
ボートを漕ぐひとが見える
もやが波に見えて
波の中に大きな岩がでていて
そこから 漕ぐひとが一人沖に向かう
水平線がうっすら歪曲してきた
となりで 連れがハンドルを握りながら
スピードをすこしずつ上げる
魚のように息を吸って前を見ている
漕ぐ人は オールをぴっちりそろえ
影になり
波をとらえ
救命袋がついたチョッキを着ている
ぷくぷく膨らんでいるのがよくわかる
こっちは
シートベルトのせいで胸がペチャンコだ
バンパーに 魚が平たく重なって
張りついてきた
海までは遠いが
高速を降りるまで漕ぐひとに見とれている
詩は日常世界からの脱出とか、飛躍とかいわれますが、この作品はかなりその典型のような気がします。
とにかく、とにかく私は<バンパーに魚が平たく重なって 張りついてきた>という言葉を読んだとき、ほんとうにびっくりしてしまいました。
そして、私は日常世界から見事に追放されました。
こんなことって、あるのかと思いましたが、しかし、この言葉を読んでしまったからには、そして、妙な開放感を味わってしまったからには、なんと言っても受け入れざるを得ないという感じです。
この詩はごくごく普通の日常的な風景が書かれています。しかし、よく注意してみると「漕ぐひと」が妙にくわしく描かれています。漕ぐひとがたいして面白くもないのに、妙に。
それと、隣りの運転しているひとが<魚のように息している>というのも気になります。
もしかしたら、こうした日常世界というのはすべてまやかしかも知れない。
そして、<バンパーに張りついた魚>だけが本当のことなのかも知れないと思えてきます。これはいわば寓話の世界なのかも知れません。
2008年09月21日
「氷が説けるとき」ロッテ・クラマー 木村淳子訳 解ける言葉
氷が説けるとき ロッテ・クラマー 木村淳子訳
幾日も
雪と氷が厚くおもく
草の上をおおつている
銀色のおおいは川や湖のうえにも
油のように頑固に
居座っている
草の葉も小枝もそれぞれに
金属のような氷のよろいを着ている
光は歳月を真ふたつに切る
小さな私は父のかたわら
その手のとどく
すぐそばにいる
私たちの足は注意深く氷の上を歩む
ラインの川は いま
終わりのない 白いあたらしい道となり
頼りがいのある河は消えて死んでしまった
それでも 生きている
その広いかたい胸の上に
遊園地の雑踏ができるとき
紙面のかわりに
かたく凍った河のうえで 踊りながら
人びとがその河の流れ行く先も
起源も否定するとき
けれど 詩だけは 流れつづけようとするのだ
凍てついた言葉が解けるとき
ひとつの詩を読んでいて、その意味内容がはっきりとはわからない場合があります。
ああなのかな、こうなのかなと思いながら、何度か読んでみますが、それでもはっきりしません。それにもかかわらず、私のなかにあたらしい出会いというか、経験のようなものがかんじられて、そうしている
うちに、私はその詩を受け入れようという気持ちになります。
私にとって詩との出会いは、ひとりの人との出会いと同じようなもので、その人の考えや行動について、よくわからなくても、出会ったとたんに、魅了されてしまうこともよくあるからです。
その人の目の輝きや、落ち着いた声などが理由で。
ところで、この詩が私をひきつけたのは最後の二行です。
<けれど 詩だけは 流れつづけようとするのだ 凍てついた言葉が解けるとき>
この言葉は、私に何一つ曖昧なところなく、伝わってきました。
そして、これをもとにこの詩を読むと、すこしぐらい内容がわからなくても大傑作という感じがします。
良い詩はこうした不思議な力を持っているのではないかと思います。
2008年09月20日
「飛行鍋」 小池昌代 詩と鍋が空を飛んだ
飛行鍋 小池昌代
風の吹く なだらかな丘に 立ち
紙飛行機を飛ばします
詩を書いた紙はこうしてすべて。
読まれて困るということはありませんが
読むひとは そもそもおりません
子供のために折ってやって
今は自分が夢中になりました
風は必要です 強風より微風が
天気は 晴れより曇り空が好みです
尖った先 突入する
さいきん鍋を焦がしました
(もういくつもこがしているのですが)
鍋のなかに だしの素とみずをいれ
ガスを細火にしていたんです
わたし という人間は
すべて廊下の角をまがると
曲がる前のことを忘れるサル
広い家ではありません
けれどあのとき 角をまがって
忘れました ちいさい火のことを
かつをぶしのパックは焦げて鍋底にはりつき
煙があがり 発火寸前
ミイラを焼くと きっとアンナ匂いがするでしょう
白血球が二万を超え 体のなかで炎症がおきている
せきがとまらない せきがとまらない せきをするたび
失禁する なにかが飛び出る
自分がちらかる ちらばっていく
生理のくる間も飛ぶようになりました
いきなりきたり なくなったり
咳がとまらない頭が痛い時々泣きます時々怒ります
フィスラーの鍋はとてもよくできた鍋です
どんなに焦がしても 鍋自体が変形することはない
重い、強い、えらい、存在だ、この鍋は、
焦げた部分をたんねんにはがす
はがせば下から 銀色に輝く地が現れる
現れたとき 号泣したくなる
あれはわたし のような気がするものだから
毎日すこしずつ
はがす はがす はがす はがす
それをつみかさねて ついに おおきくなにかがかわる
焦げた鍋から輝く鍋が。
まる焦げになったわたしからわたしが。
はがす はがす はがす はがす
ごりごりと 夢中で 焦げををはがす
成田からフランスへ向かう旅客機で
アフリカ人の女性と隣りあわせたことがあります
白いシャツブラウスの 襟は帆のように立って
首もとには ダイヤモンドが光っていました
ダイヤとは 黒い肌にこそ つけるべきものであることを
そのとき心底理解しました
彼女は孤独な狂人で わたしのものを何でもほしがった
それ お借りできますか?
これ? もちろん どうぞ
そのときわたしが読んでいたのは
日本語訳のフランス現代詩読本(つまらなかった、です)
彼女はパラパラッと頁を繰り
すぐに返してくれました 懐かしい人
たった一度しか会わなくても 死ぬまで忘れないでしょう
そう、 飛行機ってね 何種類もの折り方があり
しかも案外 複雑な折り方をするんですよ
胴体部分は 重ね折りのため 分厚くなって
突端が コンコルドのように 下を向いたものも
ああコンコルド
かつて大きな墜落事故を起こし、 今は運転を停止しています
あの折れ曲がった機種の 微妙な角度は
まるで始終 自分の内側を見つめているようで
どこかいたたまれなくなったものです
空がたわみ わなわなとふるえ
ある日 産み落とされた 尖った白いもの
産道を傷つけ 自ら傷つき
風のなかで 紙は命を授けられた
わたしは いつも その瞬間がみたい
何かが 乗りうつる その瞬間を
人間の無力な両腕が
空から気根のようにたれさがっています
折ると祈る よく似ています
つーっと 飛んで
いつも最後
最後のところで
あっ、伸びた
ほんのすこしだけ 思ったより遠くへ着地するでしょう
飛行距離の伸び それが わたしへの
折り返される よろこびである
飛ぶ夢を いまもわたしはよく見ます
飛ぶにはちょっとしたコツがあり
はずみをつけて
空気の抵抗を押しのけながら
上昇する
ああ ぐわんぐわんぐわんぐわんぐわん
あまりに確かな快楽なので
目覚めた後も
わたしは飛ぶ「技術」を 持っていると感じる
眠る空のなかを
覚醒したわたしが飛んでいました
最高技術を駆使しながら
ええ あれは消して夢ではない
風葬のあと
海で骨を洗う沖縄の女たちの写真をみたことがあるのです
洗骨の儀式
腰をまげて
骨と骨のあいだについた腐肉を
たんねんに 波に洗わせていました
ゆるい丘から ひくくなだらかに
航路を描き 地に帰る白
優雅な着地
(泣き声がする)
風が吹いています こんな日には
重いフィスラーの鍋も空も飛びます
群れ飛ぶ紙飛行機にまざりながら
戦争は終わりました(ほんとですか?)
私がこの詩を面白いと思ったり、好きになつたりするには幾つかの共通した感覚があります。そのなかでも、最近特に強く感じるのは、今この時代に、この社会に生きているという共生感覚です。
そして、この詩は、そういったことがとてもわたしには素直に感じられる作品です。
私はこの作品に書かれている内容も、そして、その書き方にも、現代をすっぽり感じます。まるで、テレビのようです(私はテレビも結構好きで、ニュースやドキュメンタリー、推理ドラマ等をしょっちゅう見ています)。
テレビは、現代の社会そのもの、あるいは、現代の社会はテレビそのものです。これはどちらから言っても同じひとつのことなのでしょうが、でもその正体はよくわかりません。
私はこの詩を読んでいると、ある夢のような感じを持つのですが、それにもかかわらず、とても日常的というか、現実的な感じもします。
また(風の吹くなだらかな丘に立ったり、眠る空に乳首を立てたり、台所で鍋を焦がしたり、それを磨いてもうひとりの自分を見つけたり、旅客機でアフリカの女性と隣りあわせになったり、夢のなかでぐわんぐわんと飛んだり等々……)
これは本当のことなのか、それとも夢(想像)なのか、わからないのですが、どちらなのかな、どちらなのかなと思いながら読んでいくのが、私にはリアリティがあって気持ちがよい感じさえします。
これは散文では書けない、それぞれの言葉が自立している(勝手にふるまう)詩句です。
もしかしたら、この詩はテレビ的な現代、現代的なテレビから密かに脱出しようとした居るのかも知れない。
いずれにしても、「詩と鍋が空を飛んだ」この詩を私は決して忘れないでしょう。
2008年04月10日
「ふるさと」新川和江 面白いところ
この詩の面白いところは
「そうでしょ おとうさん」とか
「そうでしょ おかあさん」とかいうとき
まるで、おとうさんやおかあさんが ふるさとであるかのようにきこえてくるところです。
考えてみると、自分のうまれたところですから、特におかあさんは そこから 自分がうまれたんですか
ら、その通りなのですよね
2008年04月08日
「Kの土地」小柳玲子 ぜんまい
Kの土地 小柳玲子
地下鉄のあとは何に乗ったろう
汽車は三つめで降りた
すすき野の中でバスに乗った
時計のぜんまいのようなものが
たえず空気の中から生まれ
バスの床に落ちていった
それは暗がりにすぐ見えなくなった
それからバスを降りた
山の中腹にKの家が見えていた
それは何のはずみか急になくなり
突然また現れるのだった
夕焼けを吸って壁も納屋も暗かった
そのあたり ぜんまいのようなものが
生まれては消えていた
K お元気ですか
久しくおめにかかりませんでしたね
あなたは——何故だろう とても幼くなった
それは双六ですか あなたが遊んでいるのは
めくらねずみや るみこちゃんの靴がありますね
みんなとても小さい
小さい
わたしには見えません
あなたの声ばかりがきこえる K
L どうして来たの
こんな遠い土地まで
頼りなく不審気にKは訊いた
「お正月だから」
私は そう答えた 何故か消え入りたかった
初夢にしても——さらにとりとめない声でKは言った
——ここは滅多に来る人はいないのだけど
うつくしい空気の中から
Kはいくつもいくつもぜんまいを拾った
L きみは駄目になっていくみたい
ほら こんなに壊れてしまって
夜あけ 霧
汽車は三つめで降りるのだった
バスは幾つめだったろう
すすき野で 券売機の前で
ぜんまいのようなものが
たえず 生まれ
帰っていく駅の名前を
つかのま 思い出せない時
K あなたは誰か
※ ※ ※
何かしら発光体のようなものに書かれた物語。
Kの土地を訪ねる<私>。
しかし、殆ど現実味が感じられない。
いろいろな物(ぜんまいやKの家など) が現れたり、消えたりする。
淡い光芒とともに、恐らく、それは書かれているのが発光体の上だから。
発光体というのは詩人の意識なのだろう。
言葉は呼吸と同じようなリズムで自然に語られるので、内容が物語のような
ものであるにもかかわらず、香りのようなリアリティがあります。
そして、私は知らず知らずのうちに、私自身の失われた時を探しているような
感じがします。
<時計のぜんまい>とは詩人の失われた時間であり、私自身の失われた時間でもあります。
この詩のなかで、<ぜんまい>があらわれないのは、三連目です。そこだけが、リアルであるから、
失われる時間が現れることができないからではないかと思われます。
幼い時の時はそれ程までに充実しているものなのかしら?
そうなると、最後の<K あなたは誰か?>のKとはもうひとりの自分、もうひとりの私です。
2008年04月05日
「夏茱萸」尾崎与里子 〔私〕と〔老女〕の距離
夏茱萸 尾崎与里子
かぞえていたのは
梅雨明けの軒下の雫と
熟しはじめた庭隅のグミ
そのグミの明るさ
私は〔老女〕という詩を書こうとしていた
眼を閉じるとひかりの記憶に包まれて
すぐに消え去ってしまう いま と ここ
時間のなかで自画像が捩れてうすく笑う
初夏の明るさに
この世のものではないものが
この世のものをひときわあざやかにしている
母性や執着の残片があたりに漂って
耳もうなじも
聞き残したものをきこうとしてなにかもどかしい
それはふしぎな情欲のようで
手も足も胸も背中も
そのままのひとつひとつを
もういちど質朴な歯や肌で確かめたいと思う
刈り取られていく夏草の強い香
ひかりの記憶
たわわにかがやく夏グミの
葉の銀色や茎の棘
〔老女〕はきらきらした明るさを歩いていて
※ ※ ※
この作品は私には俳句の世界と通じ合うものが感じられます。
私は俳句や和歌については殆ど知りません。それでも、タイトルの「夏茱萸」にはやはり俳句を強く
連想します。
またそればかりではなく、「梅雨明け」「雫」「庭隅」という自然に対する細やかな気づかいが何よりも
俳句や和歌の世界を強く感じます。
日本人の自然に対する「気づかい」は独特のものではないかしらと以前から思っていましたが、この作品を読んで再確認しました。
それは自然に対する観察であり、感情移入であり、そして擬人化などがひとつになったものではないかと思います。
ひとつにするのは日本語の力であり、やや大げさにいうと日本の文化の源であるといってもいいかも知れません。
私はこの詩にそういうものを感じます。それをなんとも鮮やかに表現しています。
<私は〔老女〕という詩を書こうととしていた>
しかし、この詩のなかで〔私〕と〔老女〕との距離はとても現代的な感じがしました。
それは決して短歌や俳句の世界では感じられないものでした。この詩はその部分が光っているのだと
思いました。
2008年04月03日
「投光」関中子 町に住む
投光 関中子
町の奥に住んでいる
町の東側に向かいずんずんずんずん歩くとわたしの住処につく
そこはかたつむり通りの向かい側になる
柿の木森の東隣ですすき原の西
くぬぎトンネルをぬけたところ
くぬぎトンネルに入る前に夜になると
西に沈んだはずの太陽がそっと隠れたつもりのような
太陽の幼子団地と名づけた建物群が散らばる
北の大地は太陽の幼子団地に仄かに照らされて地上に浮かぶ
そこで輝く変身山は一番迫力がある
さらに人が乗った噴火流が北に西に南へと見え隠れる
隠すものと隠されるものと
沈黙するものと声高に話すものとどちらも素敵に見える
時々 妙にもの哀しく見える
輝かない窓がいくつかあり
これがあたりまえならその言葉を人目に触れさせまい
その窓の奥のできごとのひとつふたつ
窓の哀しみ わたしの胸の淋しさ
わたしは別れた双子の兄弟姉妹などいないのだし
わたしの窓はあの幼子団地にあるはずもない
わたしは町の奥に住んでいる
町の東側に向かいずんずんずんずん歩くと住処につく
そこはかたつむり通りの向かい側になる
柿の木森の東隣ですすき原の西
くぬぎトンネルをぬけたところ
三年前までは葛の葉橋を渡ったが
それは熊笹砦の思い出話になった
空に向かって葛の花びらを投げた
まっすぐに投げた
でもたちまち勢いを失ってははらはらと熊笹砦に流れた
熊笹砦から西南を望むと町で誰かがまっすぐに
空に投光するのが毎晩見える
雨の日も 風の日も 曇り空の日も
まっすぐ まっすぐ見える
わたしの夢に形があるとしたらこんなふうに
空に向かって行きたいのでは?
※ ※ ※
この作品は全体としてとても観念的であり、思考的であると思います。
でも、私には思考しているひとの体や息づかいが感じられたりもします。それがこの詩の不思議さだと思います。
はじめの二行<町の奥に住んでいる 町の東側に向かいずんずんずんずん歩くとわたしの住処につく>が特に私には印象的でこの二行によって何かが始まる感じがします。
何が始まるかといえば、町のなかで何かが起きているようで、それに立ち会うような感じです。
そして、その起きていることが幻想と観念(思索)が融け合っているような———私はこの二つがうまく
融合しているようには感じ取れないのですが———ことが起きている。
こうしたことが必ずしも、うまく表現されているとは思えないのですが、それにもかかわらず、私は感動するし、元気づけられます。
つまり、町のなかでひとりの人間が哀しかろうが、淋しかろうが、一生懸命生きている、このことが伝わってくるからです。
内容的にはそういうことが書かれていないにもかかわらず、そこで生きているひとの息づかいや体の
動きが感じられる、それがこの詩の不思議さであり、新らしさであると思います。
こうしたことのすべてを支えているのは<わたしは町の奥に住んでいる 町の東側に向かいずんずんずんずん歩くと住処につく>この二行です。
町というのは、幻想と思索の産物かも知れません。
2008年04月02日
「てのひら」伊藤悠子 二つの視線
てのひら 伊藤悠子
四階の窓辺から
誰もいないバス停を見つめている
まっすぐ落ちていく蝙蝠のように見つめている
バス停も
草も
あれほど遊んだ草たちも
もはや昇っていくように
わたしより上だ
わたしが落ちていくので
なにもかも上になって遠ざかる
懸命に思い出す
てのひらだけを
きっとよいものだから、死は一番最後にとって置きなさいと
幼子をあやすように言った人の
てのひらを
誰もいないバス停に見つめている
わずか16行の作品で、決して長いのではないのだけれども、私は久しぶりにスケールの大きな世界
をこの詩に感じました。
しかも、同じく胸がきゅんとなるようなリアリティも感じました。
この詩には、恐らく、二つの視線があります。その一つは<四階の窓辺から 誰もいないバス停を見つめている>ともう一つは<てのひらを 誰もいないバス停に見つめている>のこの二つから生まれています。
そして、この二つの視線は大変精妙に、というか「奇蹟」のように融け合っています。
この融合をどう感じるかによって、最後の二行は<てのひらを 誰もいないバス停に見つめている>大変ちがったものになるのではないかと思います。
大きなスケール、大きな深さを私はこの詩に感じます。
ここまで、書いて、私はリルケの「秋」という詩を思い出しました。
「けれども ただひとり この落下を
限りなくやさしく その両手に支えている者がある」 富士川英雄訳
2007年09月29日
「卵を埋める」高良留美子 メッセージ
卵を埋める 高良留美子
卵を雪のなかに埋めている。
いまは二つの卵だけが上着のポケットに残っている。アヒルの卵より大きめの
丸みが、わたしの右手に触れている。左手にはさらに大きい、ぶよぶよの殻の
感触がある。指をつっこめばたちまち壊れてしまうだろう。
雪は神社の拝殿の階(きざはし)の横に水平に降り積もっている。わたしは目の前の垂直な断面に、すでに多くの卵を埋め終わった。外からは見えないが、白い卵が点々と雪の壁に埋まっているはずだ。
神社の重々しい屋根をかすめて、黒い鳥たちが飛び交っている。羽音をたてながら、しきりに鳴きかわしている。カラスだろうか。でも雪のなかの卵は保護色
だから、鳥たちの餌食になることはないだろう。
冷たい雪のなかで、卵は孵るだろうか。゛埋める"とは゛生める"なのだろうか。
鳥たちが卵の親だとわたしは感じている。
背後に、なにものかの気配がある。隠れ住むものをひっそりと包み込むような、厳かで穏やかな雰囲気がかもしだされている。地を踏まえ、天を指して立つ
御柱(おんばしら)だ。ここは生と死の再生の地、諏訪なのだ。
子どもたちの声が聞こえる。近隣の小学生が遊んでいるのだ。女の子の声もする。かれらがかって卵から孵り、これからも孵るとわたしは感じている。
この詩は私のなかで忘れることのできない詩の一つとなるでしょう。
なぜなら、最近、私が読んでいる詩は技術的には大変優れた詩が多いけれども、率直な詩人の考え、メッセージが感じられないからです。私はこの詩のなかにあるメッセージを感じました。
しかも、それは未来に向けられているようであり、それは微かでありますが、
しかし、迷いのない感じで私に届いてくるからです。
すべては「卵を埋める」という行為にかかわっていると思います。私にはこの行為が非常に創造的な、そして冒険的な、しかもそこには一筋の意志がくっきりと感じられます。
卵は雪のなかに埋められても必ず新しい命として甦るだろうと思います。
ところで、雪とは現代のことかも知れない。
それでは諏訪神社とはなんなのか?
私は日本の風土(自然と人間の歴史)全体のような気がしますが、正確には
わかりません。
はじめに未来に対するひそかなメッセージといったのはこの諏訪神社にも深くかかわっています。
私の諏訪神社はなんなのか、とても気になります。
2007年09月24日
「空白公園」野木京子(訂正)こんなふうに
「空白公園」−−パーク・エンプティ 野木京子
風が薄く巻いていた
空白の公園の中を 音もなく走った
ペンチには老人が座っていた
老人には名前がある 多分
ある日 名前を問うてみたら
バーク・エンプティと答えたろう
(なくならなくてもよいはずだったものたちが
今でもひぃひぃ聲をあげる)
ミスタ・エンブティは日がな一日座っていた
彼は動くことが嫌い
動くとぴちゃぴちゃ音がする
水面が恐ろしい
水の表はただの薄いフィルムなのに
無限大に近い闇がその下に広がって 遠くまで流れていく
「誰にだって、悲しみがあるだろう?
それが水の音をたてている」
ミスタ・エンプティは声を出して言っただろうか
水面がぴちゃぴちゃ波立つたびに 彼から声が消え
言葉も消え
一日が砂の粒子になる
とりもどすことができないもの
水の下に沈んでいったもの
喪われるために生まれてきたもの
それらの影は 今でも時折 地表に落ちて
斜めに彼の頬を 黒く刺すのだろうか
だけどミスタ・エンプティ
失われたものたちが ぐるりを囲んで
お行儀良く 膝をかかえて 並んでいる
思い出したくないのに決して忘れることができない
そんなできごとが起こった日や
今でも苦いものが喉元をこみあげてくる日
ミスタ・エンプティ
そういう一日というのは
幾度も思い返すためにある
ミスタ・エンプテティ
悲しみをかかえてつらいというなら
いっそそれらを愛してしまえばいいのに
波立つ薄い葉のどれかに 潜りこんだり出てきたり
波を立たせたらいい
そうしたら 喪われたものたちが一緒にいることの暖かみが
乾いた肌に揺れるだろう
それが愛するということで
そうしたら暖かくなる
誰もいない公園でも
空白公園ーーパーク・エンブティ
えーと、これがこの詩のタイトルですね。
空白公園ーーパーク・エンプティ、なんとなくわかる。
次に<風が薄く巻いていた>と書いてありますが、でも、<風が薄く巻いていた>というのは、どういうことかしら、とちらりと考えたりします。
はっきりわからないまま、なんとなく不確かな感じを持ちながら、それでも次の
<空白の公園の中を 音もなく走った>と読んでいきます。
この詩に限らず、どの詩を読むときも、はっきりとした確かなイメージなど実はないのだろうけれど、この詩の場合はことさら不確かな感じがします。
でも、先へ読んでいきたくなる(多分「空白公園」が気になっているのだろう)。
老人の名前はパーク・エンプティというのだから、老人と空白公園は同じことなのか、と考え、また立ち止まる。
この作品はどうも立ち止まりながらしか、読めない、味わえない詩のような感じがする。そう考えて読んでいく。そうすると、底なしの砂地の中を歩いて行くようでなんとも気味が悪い。
それなのに、誰かがとても冷静にその様子を書いているようで、これには全く
びっくりしてしまう。
それでもやはり、私はミスタ・エンプティとどこかしら似ている気がする。
そして、最後に
<ミスタ・エンプティ 悲しみをかかえてつらいというのなら いっそそれらを愛してしまえばいいのに>
といわれると「まいった」とも思うし、大爆笑したくなる。
2007年09月21日
「SHADOWS」1 岡野絵里子 影の始まり
SHADOWS1 岡野絵里子
駅ごとに明滅する白い光 呼ぶ声がこだまし 人工の昼と夜がめまぐるしく交代する地下 無限に連なる時間の目盛りを列車は声高に数えて止まない 「銀鼠(ぎんねず)」 「夢解(ゆめとき)」 「虚泣林(そらなきばやし)」 白金製の表示板が見えれば もう国境を越えたのだ 私たちは過ぎ去ったものたちの闇の中に入って行く
「あの‥この線路はどこ行きでしたか?」振り向いたビジネススーツの男も
夜をまとって透けるようだった 「どこ? 有楽町線じゃありませんか どこまでも行きますよ 私は永田町で下りますが」 だが彼が下り立ったホームには「虚泣林」 と読める表示が掲げられているのだ 見回すと 車内は昏く茫茫と 乗客たちの輪郭もほどけ始めているのだった
車両の一番遠い端 シルバーシートに小さい姿が腰かけていた 近寄るとそれは内側から灯るように光っている漆黒の影の子どもで 幼い手を目もとにあて 泣いている 宿主を持たない影が 人のようにふるまうことに驚きながら 私は子どもの顔を覗き込んだ なつかしい顔 誰が知らなくても 私だけは忘れない 最も親しい痛み その瞬間 ああ私は死んだのだと悟った
SHADOWS は千百年代に書かれた書物『興南寺聞書』「江談打聞書」
に誘発されて書かれた長篇詩です。
それで、今回ここで取り上げるのはその一部です。
しかし、独立した詩として読んでも面白いと思います。
歴史や時代の動きを影の方から、影のサイドから描くのはよくあることです。
しかし、この作品は必ずしもそうでないような気がします。では、どうなのかというと、どこまでが影か、どこまでが実在かはっきりしないからです。
まず、そのことは第一連目で明確にされます。つまり、「銀鼠」 「夢解」 「虚
泣林」は私たちが殆ど触れたことのないような古層の言葉であり、ある種の虚構であると思います。この虚構を入口として、この詩の世界が始まっているからです。
影と実在の世界がはっきりしないと書きましたが、ほんとうは現代の毎日の世界こそが、そうなのかも知れません。
毎日のように子どもが子どもを傷つけ、親が子どもを殺し、介護に疲れた子どもが親を殺している。
こうしたことは実在の世界なのか、影の世界なのか、私にはわからないのです。実在の世界とするならば、そうした出来事の存在する理由が全くわからないのです。だから影としか感じられないのです。
この詩を読んでこうしたことがよくわかります。
歴史や人生に光や影があるとよくいわれることですが、それが決して喩え話
ではないということがよくわかります。
それにしても、最後の連は、ある深い恐怖をもって読みました。
2007年09月15日
「春の岬」斉藤恵子 名作映画
春の岬 斉藤恵子
岬の上から海を見る
淡いグレイにかすみ
ひくい島が
いくつも浮かんでいる
さっき
白壁の酒蔵の奥にある
江戸の時代の
はだか雛を見た
巻き貝のくちに
しろいはだかの男と女が
ならんで座り
さびしく
わらっていた
岬の果ての逢瀬なのか
身よりのない者どうし
紙細工の
うすい手をにぎり
女は好きでもないのに
ゆるしたにちがいない
外に出ると
潮の匂いのする風が流れていた
何百年たっても同じつめたさだ
耳たぶのピアスがひやりとする
つめたさに
ふるえるのではない
生きていることの
恐ろしさにふるえるのだ
丘の上の園芸館から
老いた女の爪弾く大正琴が
アンプで増幅され
岬のはしにも響く
カモメが争いながら
光る魚をくわえ
海はふるえるように
さざ波をたたせている
海のように
生きれば
なにも怖くはないだろうか
突然わたしは
わけもなく
泣きたくなった
ばくれん女のように
こぶしで泪をぬぐい
詩のなかに時々、映画のワンシーンを思わせるような詩があります。そうした
なかでもこの作品は特にそういう感じが強い詩です。
情景あるいはイメージだけではなく、登場人物の気持ち、心理が大変鮮やかに伝わってきます。
それはまるで名作映画を観ているようです。
岬の上から海を見ている第一連目、二連目はそこから時が逆戻りして、江戸時代のはだか雛との出会い、そして三、四、五連目はそのはだか雛に対する登場人物の思いが大変くっきりと描かれています。
それから、六、七連目はこの詩のひとつの頂点ではないかと思いますが、大変平明なことばでそれが表現されているのが、私にとってはひとつの驚きでさえあります。
この平明さであるということはこの詩人の特質であると思います。
平明でわかりやすい、しかし、この詩は私をとんでもないところに連れて行ってしまうのです。
それが最後の
海のように
生きれば
なにも怖くないのだろうか
突然わたしは
わけもわく
泣きたくなった
ばくれん女のように
こぶしで泪をぬぐい
これが本当の頂点であると思います。
2007年09月11日
「緯度0度」中堂けいこ 詩の力
緯度0度 中堂けいこ
赤い道を歩いてみたいと女がいう
糸杉がまばらに生える
ベンガル色の小径なら知っている
この机からは遠くはなれて
円環の謎がくるくるまわる
春と秋の分かれ目では
深い井戸も水が涸れ
ガーデンバーデイが開かれるほど
そこでは決まってサインペンが配られる
なんて安っぽい酸化第二鉄と少量のメディウム
わたしたちは互いの裸体に赤い線を描きなぐる
血の匂いがすると女がいう
この藍靛(インジゴ)の球形
止めどない上昇気流に乗り
モンスーンのなかに
踏み出せば足の甲に光のスジとして
あらわれるものらしい
私はこの作品を読んで、とてもびっくりし、感動しました。
なぜなら、私は今までこのような詩を読んだことがないからです。それにもかかわらず、この作品は私の鼓動とどこか共鳴するところがあります。
今まで読んだことがないというのは、まず、この詩に書かれている意味内容が
殆どよくわからないからです。
でも私は繰り返し、この詩を読んでみたくなりました。そして何回も読みました。その度に私のなかで、どっきん、どっきんと共鳴するものがあり、私自身びっくりしました。
なぜ、こうなったかというと、恐らく、それはこの詩の暗喩(メタフォー)の力だと
思います。
たとえば、それは初め、
<赤い道を歩いてみたいと女がいう>
にすでに始まっています。このことばは誰が言ったのか、どういう意味で言ったのか、実は殆どわかりません。しかし、この詩を読んでいくと、このことばが大変
リアルに感じられるようになります。
つまり、この一行は意味ではなく、暗喩(メタフォー)そのものなのだと思います。メタフォーというのは、どこかしら宙ぶらりんの感じがして、そこからどちらの方向に飛んでいってもいいような感じがします。但し、跳躍することがその本質です。
ポール・ヴァレリーが「散文は歩行であり、詩は舞踏である。」といいましたが、
この暗喩の宙ぶらりんな感じ、跳躍の感じが舞踏にあたるのではないかと思います。
この作品は決して意味もイメージも私にははっきりとわかりませんが、それでも私にこれほど驚きと感動を与えてくれた作品を読んだことがありません。
また、この詩をダリやムンクの絵の世界のようにも感じました。
ある人はこの詩を現代の人間社会のメタフォーのように感じるかも知れません。
私はこの詩を女性の性の世界のメタフォーのように感じました。
2007年06月10日
「流氷」飯島正治 事実
流氷 飯島正治
シベリアの捕虜収容所に送られて
六十年も消息がわからなかった父親が
突然パソコンの画面に
カタカナだけになって現れた
帰還した一人がこつこつ調べた死者名簿の四万六千人の一人だった
名簿には
アムール川の名を冠した下流の町に
埋葬されていると記されている
死亡日は重労働を続けて三年後の冬の日
同じ収容所の多くの仲間達も春を待てなかった
二月に北海道紋別に行った
海沿いの山からオホーツク海を望んだ
流氷が白い帯となって沖を埋めている
間宮海峡に注ぐアムールの水が海水を薄めて
蓮の葉の形をした流氷になったという
北風が吹いている
やがておびただしい数の氷の葉が
折り重なって海岸を埋め尽くすだろう
凍ったアムール川の底の
わずかな水も海峡をめざして這っている
わずかな行数の詩という形式は、どうしてこんなに途方もない事実を描くことができるか信じられない
ほどである。この詩を書き上げた詩人はいまどんな気持ちでいるのだろう。
カタカナだけになってあらわれた父親をどんな気持ちで迎えたのだろう。
夏でも凍りつくような詩である。そして最後に、アムール川の凍った川の底のわずかな水でさえ
故郷に帰ろうと海峡めざして這っていると感じているのだ。六十年も立っているのに。
2007年06月08日
「欠落」新川和江 こんどの
こんどの新川さんの詩集『記憶する水』のなかで、わたしがいちばん好きだったのはこの詩です。ひとはちがう詩というかも知れないが、わたしはこの詩をすばらしいと思った。みんなすばらしいけれど。
欠落 新川和江
わたしは
蓋のない容れものです
空地に棄てられた
半端ものの丼か 深皿のような…
それでも ひと晩じゅう雨が降りつづいて
やんだ翌朝には
まっさらな青空を
溜まった水と共に所有することができます
蝶の死骸や 鳥の羽根や
無効になった契約書のたぐいが
投げこまれることも ありますが
風がつよくふく日もあって
きれいに始末してくれます
誰もしみじみ覗いてはくれませんが
月の光が美しく差し込む夜は
空っぽの底で
うれしくうれしく 照り返すこともできる
棄てられている瀬戸もののことですか?
いいえ わたしのことです
アンデルセンのブリキの兵隊のようでもあります。泥んこになってたり、欠けてしまったり、いろいろ冒険してもこころを失わないモノとして。なんというか、この作品は最初は瀬戸もののことを
かこうとして、それが、きらっとひかる場所を探し、あまりにこころをひかれるので、「わたし」にしちゃったのかも知れません。「はじめに言葉ありき。」ではなく「はじめにモノありき。」ですと新川さんはおもっていらっしゃるのかもしれません。
2007年06月02日
輪郭 ——還暦 原田瑛子 こんなふうに
還暦をこんなふうに面白く捉えた詩を読んだことがなかった。びっくりである。
輪郭 原田瑛子
——還暦
まぶしさに目をほそめていた
いくさきに真っ白く光っているものの
とらえられない輪郭を
とらえようとして
いっしんにみつめていた
あしもとにはみしらぬ時があった
風のような果実のような
垂直のような
たおやかないいしれぬものたちに
囲まれていた
あるいたそして
ここに来たのだ
ここにいる
いま
後ろ手に
ざわざわとひきよせられる
時たち
ゆっくりと回転しながら
まきもどっていくモノクロの画像
にわかにわたしのうちがわをおおう
夕やけ だが
微熱をおびてなおも背筋をのばす
ものがいる
(そうよ
そうすてたものでもなかったのだけれども・・・)
岩にうちつけられたままのこころや
むきあえなかったままのゆめ
が輪郭だけの星砂になって
ゆびのすきまからおちていくのを
みている
2007年05月15日
「マリーナ」T.S.エリオット 人生の時の時
マリーナ T.S.エリオット 水崎野理子訳
ここはどこだ、なんという土地、世界のどこなのだ?
どんな海がとんな岸が灰色のどんな岩がどんな島が
どんな波が船の舳先に打ち寄せてきたか
松の香り 霧の中に聞こえて来るツグミの声
どんな風景が蘇って来るか
おお 娘よ
犬歯を研ぐ者は
死
ハチドリの栄光に煌めく者は
死
満足して豚小屋に居座る者は
死
獣の情欲にふける者は
死
彼らは消えて行く 風にかき消されて
この恵みによって
まっ風のよよぎ 霧の中のツグミとなる
この顔は何だ だんだんぼんやりしてだんだんはっきりしていく
手の脈はだんだん弱くなりだんだん強くなっていく
現実か夢か? 星よりも遠ざかりしかもだんだん近付いて来る
歯のそよぎと急ぐ足音 その中ささやく声と小さな笑い声が聞こえる
眠りの下 海は鎮まる
船は氷でひび割れペンキは熱の為剥げた
これは私の船 私は忘れていた
そして思い出す
船の装具は弱まり帆は腐ってしまつた
ある年の六月から次の年の九月の間に
私はこのことを忘れていた 人にも言わなかった
船板から水漏れがした 継ぎ目は修復が必要だ。
この姿 この顔 この命
私を越えた永遠の世界に生きている
私は私の命をこの命に委ねる
私の言葉をその未来の言葉に委ねる
私は目覚める 開かれた唇 希望 新しい船
どんな船どんな岸輝かしいどんな島が私の船に向かって来るか
霧の中私を呼ぶツグミの声
娘よ
眠りから目覚めようとしているのか、あるいは、軽い痴呆症を患っている脳が再び活性化しようとしているのか? いずれにしても、意識が混濁しているときに言葉を発し、それを書きとめるとするなら、このような作品が生まれるのかも知れません。
けれども、そうしたことは殆どあり得ません。恐らく、ごく稀にコカインなどの麻薬の助けを借りて、このような詩がつくられた例も幾つかあります。そういう場合、どこか不自然で、言葉そのものが貧しく歪んでいるのが通常です。
しかし、この詩はそういったことが全く感じられません。何かしら、この詩のなかで、わかり難い、ぼんやりしているところがあるとすれば、それは言葉がそうなのではなく、言葉の置かれている場所(夢と現実の間)がそうなのですから。
つまりその場所とは(眠りと目覚めの間)であり、(痴呆と正常の間)であるからです。さらに、実は(生と死の間)であるからです。ということは、もしかしたら、(眠りと目覚め)、(痴呆と正常)は、そのまま(死と生)に結びついているひとつの同じ道程かも知れません。
それが美しいとか、醜いとかいうのではなく、そこに生きる意味の本質があるとこの作品は語っているのではないでしょうか。
2007年05月11日
「投光」 関 中子 もうひとつ
投光 関 中子
わたしは町の奥に住んでいる
町の東側に向かってずんずんずんずん歩くとわたしの住処に辿りつく
そこはかたつむり通りの向かい側になる
柿の木森の東隣ですすき原の西
くぬぎトンネルをぬけたところ
くぬぎトンネルに入る前に
夜になると西に沈んだはずの太陽がそっと隠れたつもりのような
太陽の幼子団地と名づけた建物群が散らばる
北の大地は太陽の幼子団地に仄かに照らされて地上に浮かぶ
そこで輝く変身山は一番迫力がある
さらに人が乗った噴火流が北に西に南へと見え隠れる
隠すものと隠されるものと
沈黙するものと声高に話すものとどちらも素敵に見える
時々 妙にもの哀しく見える
輝かない窓がいくつかあり
その窓の奥のできごとをひとつふたつ考えようとすると
窓の哀しみとわたしの胸をよぎった淋しさが
あたりまえの言葉は地中に埋めて人目に触れさせるなと震える
わたしには別れた双子の兄弟姉妹などいないのだし
わたしの窓はあの幼子団地にあるはずもない
わたしは町の奥に住んでいる
町の東側へ向かってずんずんずんずん歩くとわたしの住処に辿りつく
そこはかたつむり通りの向い側になる
柿の木森の東隣ですすき原の西
くぬぎトンネルをぬけたところ
三年前までは葛の葉橋を渡ったが
それは熊笹砦の思い出話になった
窓に向かって葛の花びらを投げた
まっすぐに投げた
でもたちまち勢いを失ってはらはらと熊笹砦を流れた
熊笹砦から西南を望むと町で誰かがまっすぐに
空に投光するのが毎晩見える
雨の日も 風の日も 曇り空の日も
まっすぐ まっすぐ見える
わたしの夢に形があるとしたらこんなふうに
空に向かって行きたいのでは?
2007年05月09日
「かくされた町」関 中子 純粋
言葉をあつかっていて、時々歪まないでいることは難しい。思想の深みにわけいり、闇の返り血をあびないでいることは難しい。ランボーではないが、精神の闘いはなかなかむずかしいのだ。ときどきは季節よ、城よ、無傷なこころはどこにある? などといいたくなるときも、ある。
しかし、毎日のように、わたしは新しい詩に出会う。だから、いろいろなことはさておいて、詩に魅せられてしまうのだ。この詩はいつか、解説をかくつもりだが、まだ、書けない。半月ばかりよんでいてもまだ厭きないのはどうしてだろう。きっと本人が大事にしているからだろう。
かくされた町 関 中子
緑の起伏のなかに町はかくれた
昼が夜を訪ねるように小鳥がねぐらに帰るように
町はかくれた
わたしは道をくだると背後の道は閉じた
わたしは戻ろうと思ったか いいや思わなかった
青い空が視界を飾り またかくれたが
緑であふれでる泉が町の中央でとうとうと
躍動するのを感じた
町はあちこちで休息と活動を繰り返していた
駅で街角で建物の内部で
建物も人もどちらも数が多く憶えきることは無理だった
だれにも心をこめて
通り過ぎることも握手することもできなかった
遊び相手がわたしの願いのようにあらわれてそして消えた
その安易さはわたしはどこかに連れ去ろうとしていた
見えない手が地下を千手観音のように伸びくねり緑の束を振った
地上では緑の香りに鼻孔をふくらませうっとりと町の空気が半眼を閉じた
町は母親になるだろう
歩き回る誠実な園芸師になるだろう
疲れたわたしはあまりに身近な物がわすれられないように
緑の起伏のなかに町はかくされた
2007年05月07日
追悼 ロストロポーヴィッチ
G線上のアリア 鈴木ユリイカ
——ロストロポーヴィッチの若き日の演奏をCDで聴く
黒い写真には洋梨のような顔をしたひとりの若いチェリストが
いまにも 死にそうな顔をして立っている 彼のいのちは
蝋燭の炎のようにふいにかき消えてしまいそうだったけれども
音楽家の手は神のそれのように美しくしっかりと楽器を支えている
チェロが鳴り出すと たちまち わたしの心臓はふくれあがり
血液は全身を駆けめぐった その時 わたしの中から
透きとおった五歳の女の子が脱け出し記憶の中で立ち止まった
その時 女の子の母親が「あれが東京よ」と言った
その時 引揚列車が停まり 硝子窓から何かが見えた
東京はなかった ぐにゃりと飴みたいに曲がった電柱と
恐ろしくいためつけられた大地と そのうえに降る
白いちらちらするものが見えた 子どもはまだ知らなかった
白い雪というもののしたで都市の数知れぬ建物が燃えさかり
人間が焼芋と同じに真っ黒焦げになることを知らなかった
恐らく数分間、数十分間の汽車の停止なのに女の子は憶えていた
汽車はゆっくりと走り去りもはや誰もそのことを語らなかった
知らなかった 夢の駅で汽車は幾度も停止し
あれがヒロシマよ と誰かが言った 知らなかった
はだかの人間の皮膚がだらりと垂れ下がったまま赤ん坊に乳を含ませるひとを
雪の中に黒い線路は続き吹雪は舞いG線上のアリアは続いていた
知らなかった ポーランドの田舎町では終日
人間を焼く匂いがし 知らなかった 中国の都市では
兵隊がにたにた笑いながら人間の首を切り落としていた
知らなかった ロシアの田舎町では戦車がガラガラと動き
壁から血が噴き出していた 知らなかった 知らなかった
知らなかったと言い いつまでも夢の駅でなきじゃくる五歳の
子どものまま歳とっていく わたしを知らなかった
吹雪の中で音楽は続いていた 恐怖の時代に個人が生き
耐えるとは何かを考えながら 音楽家はチェロを弾いていた
死んでいったひとひとりひとりを訪ねるかのように
死者たちに何かを話しかけていた 優しく 悲痛に
遠い流刑地にいる友に届くように 心をこめて弾いていた
それでも彼はまだ若く 時に死にそうになりながら
彼自身が死なないためにも弾いていた その時
わたしと 五歳のわたしは見つめ合いふたりで耳をすました
女の子はすでに知っていた
にんげん というものを
大地の心臓が破裂するまで近づいては遠ざかり
遠ざかっては近づき すべてをさらう戦争を (1995、3)
2007年04月03日
「月曜の朝のプールでは」川口晴美 デジャヴュのような
月曜日の朝のプールでは 川口晴美
つめたいみずのにおいがする
水飛沫をくぐって
深いところへ躰を沈ませると
青く塗られたプールの底に室内灯の光が揺れ
消えて届かない音のように 揺れて
薄いヒフに包まれている体温のかたちが
浮かびあがってくる
壊れそうに
泳いでいく
なまあたたかいみずのなかを漂うような七月
駅へ向かう道の隅で さっき
短い泣き声を聴いた気がした
みあげる集合住宅の窓はどれも同じかたちで
誰かの悲鳴 それとも
快楽の叫びだったのだろうか
どんな声だったかもう思い出せない
どこからか降りそそいで染み込んだ
夏の光に似た一瞬の痛みが
泳ぐ躰の内側でまだ揺れている
わたし
だったのだろうか
クッションに顔を埋めて一人で泣いたのは
わたしかもしれない誰か
湿度90パーセントの世界で
濡れたヒフは
隔てられ眠っていたそれぞれの痛みを
浸透させてしまうから きっと
数え切れないかなしみのみずが
混じりあい ひっそりと波立つのだろう
プールサイドでは
耳の中に入り込んだみずが
届く音を歪ませる
いいえ 地上は歪んだ音に満ちあふれていて
震えるみみを傾けると
飽和してこぼれた雨の最初の一滴のように
落ちていく滴は
少しだけわたしのかたちをしている
まず私がこの作品を読んで感じたことは、どこかでいつか私もこれと同じような体験というか、感じたことがあるということです。それは必ずしも、全く同じというわけではありませんが、それにもかかわらず、私には「似ている」という感じがするのです。
それはこの詩そのものから来るのか、それとも現代という時代性から来るものなのか、はっきりとはわかりません。現代(と私という存在)をことばで描こうとすると、もしかしたら自ずとこのようになるのかも知れません。自ずといいましたが、でも、そのためにかなり高度な技術やトリックが必要なことだと思います。
水、プール、街などといった物と人の気持ち、感情、意識を結びつけたり、同化させたり、融合させたりすることば、これらが恐らく、この詩の技術であり、トリックであると思います。
それがとても見事にできているために、この詩の中心部分(第二連)には、詩でしか表現することができない叙情が感じられます。
人が生きていくためには、いつの時代にも、真実とか、正義とか、愛といった、なにかしら絶対的な基準
というか、よりどころを求めるのだと思います。しかし、現代は、それだけではいきていけない。
それだけだと、けつまづいたり、傷ついたり、傷つけたりしてしまいます。
現代を認識し、そして生きるためには、技術とトリックが欠かすことできない。
私はこの詩を読んでそんなことを考えました。
そして、もしかしたら現代というのはデジャヴュの世界かも知れないと、あるいはカフカがイメージしたとおりなのかも知れないと。
「透過率」 渡辺めぐみ 現れてくることば
透過率 渡辺めぐみ
凍える緑がほしかった
初夏にぬかづくこともなくかじかんで
そんな緑がほしかった
漁られた者が街をゆく
激しく息を吐きながら
敗者のように雄々しいではないか
彼はある者の目にそのように映じ
ある者の目に夜具かほろとしてしか映らないのかもしれない
時ならぬときに目を開けておおというだけだろう
ちぢれた時を焼きながら
漁られた者に捧げるべき涙は流れない
ただこの夏は凍える緑がほしかった
満天の星なんかもいらないね
悲鳴も鳴咽も響かない沈黙の行だもの
神もマリアもいらないね
祈りの舌もいらないね
凍える緑がほしかった
ひとかたまりの険しく震える
そんな緑がほしかった
漁られた者をかの地に送りとどけるためなのか
一陣の風が吹く
風は逝く
かの地へ
きっとゆくだろう
かの地へ
けれどこの夏に浸しおかれたアスファルトの
高温の堅すぎる路面という路面に
緑はそよがない
緑はここには育たない
凍える緑がほしかった
否 否 否
そんな葉先がほしかった
私の場合、一つの詩に接するとき、一度読んだだけで、ぱーっとその詩のすべてがわかったと思える
場合と一度読んだだけでは全体がよくわからない、それにもかかわらず、私の感覚や考えに強い刺激を
与える場合があります。
後者の場合、何度か読んでいるうちに(時には何年もたってから、読み返してみたり)、それがはっきりとしてきて、詩全体が輝いてきます。この作品は後者のひとつです。
<凍える緑がほしかつた>このことばだけが私の中に一直線に入って来ました。それ以外のことは
はじめはよくわかりませんでした。それと<漁られた者>ということばは何となく宙に浮いたような感じがして私の中には入ってきませんでした。
しかし、何度か読んでいるうちに<凍える緑>が私の中で次第にはっきりしてきて、そうなると宙に浮いていた<漁られた者>が灰色のかげのように形を現わしてきました。そして更にかの地にゆくだろう一陣の風を感じられるようになってきました。
多分、この詩はひとつのレクイエムであろうと思われます。<凍える緑>はレクイエムを唄う詩人の気質かも知れないし、あるいは願望かも知れない。
その答えは<ただこの夏は凍える緑がほしかった 満天の星なんかもいらないね 悲鳴も鳴咽も響かない沈黙の行だもの 神もマリアもいらないね 祈りの舌もいらないね >と透過率という題名に秘められているように思えます。(だからといって、私には気質か願望かわかりませんけれど)。
いずれにしても<凍える緑>に詩人は秘められた何かに賭けていて、それが私に伝わってきた、そう感じます。そして、私はこのことばの中に現代を生きるひとりの人間のことばを感じました。
2007年04月02日
「一本のすずかけの木」石川逸子 やさしい感覚
一本のすずかけの木 石川逸子
一本のすずかけの木
排気ガスのなかで じっと葉をひろげ
きっと 涼やかな草原に
鳥たちの飛び交う深山に
生まれたかつたろうね
でも いま
あなたの伸ばす大きな影に
夏の真盛り バスを待つ私たちは
救われ
あなたになに一つ与えられるものはないのに
こんな喧噪にあなたを植えたのは私たち人間なのに
ただ 黙って
大きな影をさしだしてくれている
その影にいると
少うし 樹に似てくるような気がする
この作品には、どこにも息をころしたようなことばの跳躍や難解な比喩は全くありません。そういう意味でやさしいことば、やさしいことば使いで書かれている詩です。そして、それと同時にもうひとつ、やさしい感じがするのは、一本のすずかけの木に対するこの詩人の気持ちがそのままことばとなつていることからくるやさしさでもあります。この二つのやさしさは結局、おなじ一つの所から発しているのだと思います。
だからこそ、この詩が現代の喧噪の中では何かかけがえのない光景に思えるのです。
戦争や原爆や公害が地球を覆い、街を覆い、家族を覆い、ちいさな子どもたちの心の中にはいりこんできている。そういう時代に生きて書かなければならないからこそ、私はこういう詩に出会うととてもほっとします。
誰にでもわかるやさしい言葉使いと木にたいするやさしい心によって。
それぞれの連と連の間には、何とも言えない静かな吐息のような風が感じられます。そして、私は
最後に<少うし 樹に似てくるような気がする> と読んだとき、ふわっと体と心が軽くなりました。この詩には、やさしいことば、やさしい感じ方の持っている力がよく感じられます。
2007年04月01日
「ハドソン川のそば」白石かずこ 現在とエロス
ハドソン川のそば 白石かずこ
誰から生まれたって?
ベッドからさ 固い木のベッドから
犬の口から骨つき肉が落ちたように
落ちたようにね
わたしの親はまあるいのさ
月のようにのっぺり
やはり人間の顔してたのさ
人間の匂いがしてたのさ
くらやみの匂いがね
黙ってる森の匂いがね
それっきりだよ ニューヨーク
ハドソン川のそば
わたしはたっている
この川と わたしは同じ
流れている
この川と わたしは同じ
たっている
広すぎてはかれないよね おまえの胸巾
遠すぎてはかれないよ おまえの記憶
生まれた頃まで さかのぼることないよ
わたしの想い出
行き先も今も ただよう胸の中
自分でも はかれないのさ
ハドソン川のそば
ちぢれっ毛の
黒い顔の子 やせて大きい目だよ わたしは
笑うと 泣いてるように
顔がこわれて ゆれだすよ
唄うと 腰をくねらせ
世界中が 腰にあるように 踊るんだよ
名前はビリー
すぎた日の名は知らない
わたしの生まれた 空を知らない
なんていう木か 兄弟のハッパがあったか なかったか
わたしは生まれた うまごやを知らない
ワラのべっどか 木のとこか
それでも わたしはそだった
果実の頬のように
果物屋の 店先で
買えない果物みてるうち
肉屋の店先で
切られていく 豚の足をみてるうち
ハドソン川のそば
ひとりで いまはたつ
すこしおとなになったわたしかかえ
わたしのグランマー グランパー
いとしい恋人 ハドソン川
わたし 流れていくだろうよ 川と一しょに
わたしの胸の中 太く流れるハドソン川と
わたしの胸の中 わたしと流れるハドソン川と
私が初めて、この詩を読んだのは、20年位前、私が四十四、五歳の頃だったと思う。それ以来、いままで
ずっと私の中でハドソン川が流れ続けている。はじめの印象は大変強烈なものだったに違いないが、それにもかかわらず、読む度にまったく新しい川が私の中に流れる。
そして、今また、<わたしはたっている この川と わたしは同じ 流れている この川と
わたしは同じ たっている><いとしい恋人 ハドソン川 わたし 流れていくだろうよ 川と一しょに わたしの胸の中 太く流れるハドソン川と わたしの胸の中 わたしと流れるハドソン川と>と読んでいくと私はハドソン川と一しょだ。
つまり、この詩はいつ読んでも私にとっては《現在そのもの》なのだ。《現在》というものは大変不思議な
ものだ。特に、私の《現在》は。
誰かと話しているようでもあり、ひとり黙っているようでもある。生まれたことが気になるようでもあり、そんなことはどうでもよいという感じもする。しかも、生まれたときから、人間の匂い、くらやみの匂い、黙っている森の匂いが感じられたりして、それが自分の匂いのような気もして、(私はこの詩に根源的なエロスを感じてしまう )。
はじめに私の中をハドソン川が流れていると書いたけれども、もしかしたら、このハドソン川がエロスの根源そのものではないかとも思える。ハドソン川が私の中を流れているのか、あるいは私がハドソン川の
中をながれているのか、わからない。このわからないままにしてしかかんじられないものが、この詩にはある。それがエロスかも知れない。
大人のようで、子どもで、子どものようで大人で、女のようで男であり、男のようで女である。
このようなエロスなのだ。
こういうふうにいうと、いかにも非現実のようにかんじられるかも知れないが、それは違う。その証拠に
この詩がある。
あらゆるものをできる限りオープンにすると、秘密は秘密でありながら、秘密でない。
それがこの詩の方法であり、そこになにかしら、根源のようなものを感じる。
2006年08月12日
「かれらの内には土があった」パウル・ツェラーン 強制
かれらの内には土があった パウル・ツェラーン 飯吉光夫訳 ドイツ
かれらの内には土があった、そして
かれらは掘った。
かれら掘った、そして
かれらの昼は夜はすぎていった。しかもかれらは神を讃えることがなかった、
これらすべてを望んだという神を、
これらすべてを知るという神を。
かれらは掘った。そしてもはや何の声もきかなかった——
かれらは賢明にならなかった、何の歌も作りださなかった、
何のことばも考えださなかった、
かれらは掘った。
静けさが来た、嵐がきた、
海がこぞって押し寄せて来た。
ぼくが掘る、きみが掘る、そして土のなかの虫が掘る、
するとかなたで歌っているものがいうのだ——かれらは掘っていると。
ああだれか、だれひとりでも、だれでもないもの、きみよ——
どうなったのか、どうにもなりようがなかったのに、
ああきみが掘る、ぼくが掘る、ぼくは
きみのほうにむけてぼくみずからを掘る、
するとぼくたちの指に、指輪が覚めている。
これほどまでに自分の内部を掘ることが本当にあるだろうか? 掘らなければならない状況があるのだろうか? 恐らく、これは自分を見つめるとか、あるいは孤独とかいうものではない、全然別のことのようだと思います。
むしろ、掘ることは全く意味がない、それでも堀りつづけなければならない、恐らく、こうした状態を続けていると生きることも全く意味がないということになるに違いないと思います。それを意味づけようとして、
<かれやぼくの内側>ということばで支えてみますが、そこにあるのは、<土>でしかなかった。
掘るから土があるのか、土があるから掘るのか、殆どわからない。これほど、掘ることが無意味であったということだと思います。しかし、それにもかかわらず、<静けさが来た、嵐が来た……………かなたで歌っているものが——かれらは掘っていると。>
人間の犯しがたい意志が感じられます。
そして、最後の連は<きみ>や読者に向かって呼びかけているのです。たとえどのような無意味な
生を強制させられているとしても。
2006年08月11日
「ぼくは 聞いた」パウル・ツェラーン 喜び そして…
ぼくは聞いた パウル・ツェラーン
ぼくは聞いた、水の中には
ひとつの石とひとつの輪があると、
水の上には言葉があって、
この言葉が石のまわりに輪をえがかせていると。
ぼくは見た、ぼくのポプラがこの水の中におりていくのを、
ぼくは見た、ポプラの腕が深みへとさしのばされるのを、
ぼくは見た、ポプラの根が空へむけて夜をねだっているのを。
ぼくはぼくのポプラのあとを追っていきはしなかった。
ぼくは地上から、きみの眼のかたちと
きみの眼の気高さをもつパンのうちらをひろっただけだ、
ぼくはきみの頸から箴言の鎖をはずして
パンのうちらのちらばったテーブルのまわりを縁どった。
それからというもの、ぼくはポプラを見ない。
すぐれた詩は一度読んだら、決してわすれられないものです。しかも思い起こす度に、まるで初めてこの詩に出会ったかのような新しい不思議な感じがします。この詩もその中のひとつです。特に一連目に
私は強く感じます。この一連目は詩でしか味わうことのできない喜びを私に与えてくれます。
<水の上に言葉があって>この言葉が水の中の石のまわり輪をえがかせている。これはなんでしょう。
これは、私にとってあたかもひとつの奇跡をおしえられたようです。しかも、私は水を見るとき、必ずこの
奇跡がわたしの内によみがえってくると信じます。
つまり、これが詩だけがもたらす喜びです。
恐らく、この連は詩人にとって、何ごとにもかえがたい宝であったに違いありません。
こういってもいいかも知れません。神の贈り物であったと。
たとえ、この詩を書いたとき、神がいかに詩人からとおくへ逃れてしまったとしても。
そして、<ぼくは見た、ぼくのポプラ…>のこの<ぼくのポプラ>は恐らく詩人自身と考えていいのではないでしょうか?
ただ、逆立ちしているのは、とても怖いような悲しい感じがします。
<きみ>はなつかしい人でもあるし、神であるかも知れない、母親なのか、恋人なのか、大切なひとなのでしょう。その人のほんのわずかなおもかげが日常の生活の中でちらとかすめたのでしょう。けれども
その奇跡のような喜びのなかに逆立ちまで追いかけていきはしなかった。
最終行は自分の奇跡とか無垢なものにたいするあきらめも感じられます。
2006年08月02日
「人がいる」岡島弘子 人がいるという秘密
人がいる 岡島弘子
ほんのひと突きで崩れてしまいそうな
「岡島」の筆跡
自筆署名するたびに おもわくから外れて
右側へ傾いてしまう
なだれ落ちてしまいそうな
一画一画を 息でおさえて
空中分解寸前の 字画の肩を
目で押しもどしてみる
数学の前田先生は
黒板いっぱいに
「因数分解」と書いた
チョークの跡もかぼそくて
ひと吹きで 飛び散ってしまいそうな
右肩下がりの あやうい文字
結核を病んで
この世の黒板を早々と拭き去って 逝かれた
台所の流し台のすみから
ゴキブリが出たと家人がさわいでいる
一匹のために「台」の字がぐらついて
家庭崩壊する
はずみで ころがりそうな「部屋」「命」「生活」の文字を
四次元の裏側で
けんめいに ささえている 人がいる
「文字は人を表す」この詩を何度かよんでいるうちに、このことばが頭に浮かんで
きました。この詩がこのことばとどんなふうに関わっているのか(本当はまったく関係がないのかもしれませんが)はっきりとはわかりませんが、私はいま、人と文字やことばとの秘密、そして「人がいる」という秘密の前に立たされて、呆然としている感じです。 それは、いままであたりまえのこと、分かり切っていることと思ってことが、突然不確かな秘密に変わってしまったような不安な感じです。 この不安な感じにあるリアリティがあるのは、この詩の一連目「・・・・・なだれ落ちてしまいそうな 一画一画を 息でおさえて 空中分解寸前の 字画の肩を 目で押しもどしてみる」にあるような気がします。
ここでは文字と人が逆転してしまい、「空中分解寸前」なのは、「岡島」と自筆署名する詩人自身かもしれないし、さらにもしかしたら「一画一画を 息でおさえて 」「字画の肩を 目で押しもどしてみる」と息をこらすように読んでいる私自身かもしれません。
それにしても、この詩に登場する文字たちは危険にさらされてなんとあやうい感じがするのでしょう。数学の前田先生が(おそらく遠い記憶の中で)書いた「因数分解」、
一匹のゴキブリの出現でぐらつく「台」、ちょっとしたはずみで転倒しそうな「部屋」「命」「生活」。
こうしたあやうさをとおしてしか、わたしたちは、文字をそしてことばを持つことができないのかもしれません。
「文字は人を表す」現代のわたしたちにはそういいきることがとても難しくなってきたようです。それがどういうことなのか、この詩は問いかけているような気がします。
2006年08月01日
「ちいさな川は…」新川和江 まねしたくなる詩
「ちいさな川は…」 新川和江
ちいさな川は
一日じゅう うたっている
鳥が はすかいに つい! ととべば 鳥のうたを
白い雲がかげをおとせば 雲のうたを
風が川面を吹いてわたれば 風のうたを
女の子が花を浮かべれば 花のうたを
夜がくれば 空いっぱいの星たちのうたを
他のひとの作品を読んでいて、「こんな詩を書きたいなあ、でも、書けるかな? 書けないかも知れない。
でも、やっぱり、いつかかけるといいなあ」と思う詩に出会うことがあります。この詩がその一つです。
こういう詩は、なぜ好きだとか、どこがすばらしいとか、実はよくわからないのです。
でも、何かとても鮮やかな体験みたいなものがあって、それをあれこれいっても仕方がないとさえ思って
しまいます。一陣のさわやかな風が体を通りぬけていくような感じで、そのあとには何ものこらないのですが、通り抜けたという感じはとてもはっきりしています。
私が詩を書き始めたのは、これと殆ど同じような体験からだったのではないかと思います。こんな詩が書きたいな、でも書けるかなと思って、詩を書き始めたような気がするのです。
ただ本当に゛こんな詩″が書けたかどうかわかりません。
また、ある時は殆ど、まねのような詩を書いたこともありますが、それでも、私はとてもどきどきして、もしかしたら私にも詩が書けるかも知れないと思ったりしました。
この詩人には他にも「水」をモチーフとした作品が幾つもあります。それらの作品を読むと、私はいつも、
生と死、現実と幻の世界を旅しているような、能を味わっているような不思議な気持ちになるのです。
そして、実はこの詩にも同じようなものをかんじます。 この詩は子どもにもよくわかることばで書かれて
いますし、実際そのとおりだと思いますが、私にはなんとなく、生と死どころか、無限のあの世への旅が感じられるのです。
それが、他のどの詩よりも自然に書かれていて、この詩は私にとって、別格に思えるのです。
どこがすばらしいかわからないといいましたけれど、それでも、今回は
<鳥が はすかいに
つい! ととべば> と
<夜がくれば 空いっばいの星たちのうたを>の部分が特に好きです。
次の時は、どこが好きになるかわかりませんが。
2006年07月08日
raspberry 三浦優子 香気
raspberry 三浦優子
こっちへ来て 教えて
美味しいコーヒーのいれかたとか
どういうふうにその胸が痛むのかを
ヒメジョオンの茂みが揺れている
帰らざる河の岸辺
我慢してきたんだ、ね
砂糖とレモンの汁で煮詰めたラズベリーの甘い香り
狂おしく 甘く 甘く
風にのる
こっちへ来て、そのシャツのボタンを外して
その胸をひらいて
ひらいてみて
ぱっくりと開いた胸にたっぷりと
紅く透き通るラズベリーのジャムを塗ってあげましょう
「パイが焼けたら匂いでわかるんだ」
天にも地にもぼくのいる場所はあるかしら
地上の星 天井の花
嵐がくるたびになぎたおされるのを望みながら
パーティは続く
The show must go on and on and on....
うつくしい粒々の浮いた透き通ったたべものは
あなたの開いた胸をもとどおりにふさぐでしょう
はい もう だいじょうぶ
狂おしく 甘く
体の中でいい匂いを放って
あなたを浸触していくように
そっと触れてあげる
ここへ来て
言葉にならない願いであふれだす心と
葉陰で実るラズベリー
毎日の暮らしというのは同じようなことの繰り返しで、曖昧で、やり切れなくなってしまうことがあります。それに傷つけたり、傷つけられたりしながら生きていかなければならないかも知れないと思うと全く
やり切れません。
そんななかで、私はこの詩を読んで気持ちがすーっと軽くなったような気がしました。たとえ、それが一瞬でも、私はこの詩に出会えてとても嬉しかった。
<こっちへ来て>という詩人のことばが私の心に確かに届いたからです。
<こっちへ来て>と詩人が呼びかけているのは、詩人の最も大切なひとなのか、あるいは詩人の中の
もう一人の自分なのかわかりません。でも、不思議なことに呼びかけられている感じもします。
<こっちへ来て>ということばは毎日の暮らしなかでつかわれていることばです。それは<美味しい
コーヒーのいれかた>と続くからです。それにもかかわらず、私をどこかしら自由な場所へ誘ってくれます。この場所は三連目に書かれている自然のラスベリーの甘さであり、もしかしたら四連目の失われてしまった優しさなのでしょう。
ただ私にはその場所がホーキング博士の日常のなかにあるベビーユニバース(もうひとつの宇宙)のようにも思えます。それとこの詩には何ともいえない香気を感じます。
<ここへ来て、
言葉にならない願いであふれだす心と
葉陰で実るラズベリー>
そして、最後の三行からこの詩の真実が伝わってきます。
2006年06月28日
「はじめての海」丸山由美子
「はじめての海」 丸山由美子
一度だけ
海に連れて行ってもらつたことがある
開けっ放しの列車の窓から見えた松林まで
フライパンのような道を
みんなでもう一度
うす焼きたまごになってひき返した
潮の満ち始めた海はきらきらと
ずうっと遠くまで水着を着たおとなやこどもがいて
どうしてだか突然 ぽつんと
私の家は七人家族なのだと思った
それから父や母を大好きだと思った
それから満潮の海はギラギラと傾き
どこまでも広がって 高く高く
広がって
夕方近く私の手や足がおとなしくなって
もうそろそろ海の家から帰る気分で
最後にかきごおりを食べた
さし向かいのテーブルのもも色のお山のてっぺんから
耳のすこし遠い末のおとうとの
らっきょうのような顔が笑っている
もっとその他に留守番をしている祖母も
音のない潮風が吹く中で
みんなでしつかりと
雲と雲とのようにくっつき合って食べていた
何という何という詩なのでしょう!
丸山由美子さんはわたしと二つしか年が違わないので、ちょうど戦争が終わったばかりで家族で
海にいくなどということは大変幸せな事件だったということがわかります。ただそれだけで幸せだったのです。幸いなことに誰も戦争に行って死んだ人がいないということも大変な幸運だったのです。
ところが、アメリカではクリントン大統領の頃、子どもはもう親より豊かな生活ができないということが分かって
あまり幸せではなくなったそうです。その頃、アメリカにいっていた日本人はアメリカとは大変な国だなと感じたそうです。でも、日本がいまちょうどそうなつたそうです。ニートがたくさんいて、3万人以上自殺者
がいて、殺し合いがいたるところであるようになったわけです。
90年代の半ば頃まで、日本はあまり犯罪がなく、夜ひとりで外出してもいちばん安全な国だと外国人が
感嘆していたそうです。
だからこそ、この詩があまりにいい詩に思えるのでしょう。
こういう幸せより他になにかあるのでしょうか?
2006年04月19日
「言葉、広い夜」キャロル・アン・ダフィ イギリスの新しい星
言葉、広い夜 キャロル・アン・ダフィ 小泉博一訳
この広い夜と私たちを隔てているこの距離の
向こう側のどこかで
私はいまあなたのことを想っています
いまこの部屋は月からゆっくり逸れています
これは愉しめることです そうでなければ
そんなことはやめにして それは悲しいことです
と言いましょうか? そのような緊張のひとつのなかで
あなたに聞こえない叶わぬ希望の歌を唄う私
ラ ララ ラ 分かりますか?
あなたのもとに辿り着くために 私は眼を閉じて
どうしても超さなければならぬいくつかの暗い丘を想像します
なぜなら 私はあなたに恋しているからなのです
そしてこれはそのようなもの
あるいは言葉にすればそのようなものだからなのです
Words,Wide Night Carol Ann Duffy
Somewhore on the other side of this wide night
and the distance between us,I am thinking of you
the room is turning slowly away from the moon.
This is pleasurable. Or shall I cross that out and say
it is sad? In one of the tenses I singing
an impossible song of desire that you cannot hear.
La Lala la. I close my eyes and imagine.
the dark hills I would have to cross
to reach you. For am in love with you
and this
is what it is like or what it is like in words.
<愛>があるから<ことば>があるのか?
<ことば>があるから<愛>があるのか?
それとも、<愛=ことば>なのか?
などと誰だっていちどは考えてみたことがあるのでしよう。
そして、詩を書いたり、読んだりすることはそうしたことと、とても深い関わりあいがあるのではないでしょうか?
でも、あまり、そうしたことばかりを考えているとややもすると倫理的になりすぎたり、思想的になりすぎたりして、あげくのはてには、詩が見えなくなってしまうこともあります。
この詩がとても魅力てきなのは、そういう状態にいながら、あたかも広い海を目の前にしているかのように、<愛と詩>についてかたっているからです。
それを可能にしているのは、<広い夜>ということばによって生み出される新しい愛のあり方だとおもいます。
それは、愛の現実や愛の心をしっかりとみつめていながら、しかも、それを所有せすせず自由にしていると思われるからです。
2006年04月06日
「雨」蟹澤奈穂 李禹煥の繊細さ
雨 蟹澤奈穂
駅を出ると 空の向こうに
観覧車が見える
あれはいつも止まっているようだけど
とてもゆっくり 動いていることに気づく
りょうほうの足に
自分の重さを感じながら
坂道を下りて行く
すると
雨が降ってくる
雨か それもいいね
ふいにメロディが口をついたので
そっと歌ってみた
ひくい声で つぶやくように
そしてこれを聴いている人が
たとえばどこかにいるのだと考えてみる
雨がぱたぱたと音をたてはじめる
服にしずくが染みを作る
虫の匂いはいつも懐かしい
さすがに少しいそぎ足で
橋を渡ろう
帰ったらまずコーヒーをいれて
それからでいいのかな と
どこかにいるその人に
心の中で許しを乞う
この詩を読んだとき、どうしてかLEEUFANのことを思い出してしまった。こんなに繊細な詩をかいて人に味わってもらいたいと思うのは間違っている。などと本人に文句をいったりした。傷ついたかもしれない。
でも、いい詩なのでおぼえていて、あとから心の中で許しを乞うたりした。
まるでこの詩のように、雨粒のようにいちいち心が動き出してびっくりした。
LEEUFANの絵には絵筆のとおりに色彩が字を書くようにまっすぐに一度きりにのびていて、次の線がまた引かれる、また次の一本、そうするとそれらの線に 色彩のグラディションがあって美しかった。考えてみればこの詩のひとつひとつの言葉遣いが非常に注意深くて、
行為、想い、雨の音などそのもののようにうごいている。行きつもどりつもしていると、急に歌ってたりもしてことばが自分の歌を聴いているひとがどこかにいるのだと考えたりして、他人がふっと現れて消える。
まして、どこかにいるその人に心の中で許しを乞うたりされると読者もまいってしまうのである。いいけれど、何が何だかわからないというのは、困るかもしれない。うつくしいけれど。絵とは違うのだから。 などとすこし辛口に言ってみた。
2006年04月03日
「駅」岩田まり わかりやすいということ
駅 岩田まり
京浜工業地帯
新芝浦駅にいったことあるかい
朝 小さな電車がやってきて
ぎっしり詰めた男たちを
機械の部品のように吐き出すんだ
プラットホームを過ぎるとすでに工場の入口だから
窓にむかつてごちゃごちゃと欠伸をしていた男たちが
口を閉じて儀式のように出て行く
純粋に働く人だからね
昼にはからっぽの電車がゆったりと
海を埋め立てた運河を行ったり来たりして
魔法の乗り物みたい
夕方には
キオスクの
あまり若くない女の人ふたりの腕が急に忙しくなって
ぬうっと顔を出す
今日の仕事を終えたのっぺらぼうの男たちの手に
次からつぎへと缶ビールを手渡す
白い腕と太い腕が宙を切って
缶が開けられ
缶が捨てられ
ダンボール箱にあふれていくんだ
いくつもね
すると
夜の電車がやってきて
水たまりのようにできている赤ら顔の男たちの輪
みんな
一気にかっさらっていく
彼らの小さな家にね
カール・サンドバーグ『シカゴ詩集』のページみたいな駅なんだ
私がこの詩は面白いとか、いい詩だとか感じるときの一つの重要な基準として、わかりやすいということがあります。この詩はとてもわかりやすいと思います。書かれている内容は奥行き、広がりもあるのですが、それにもかかわらず、すこしも不明瞭な感じを受けません。
それはなぜなのかと考えてみますと、一つはこの詩のリズムにあると思います。ひとの話し方や声には
それぞれ独自のリズムや音色があって、時には話すことばの意味よりも、さきざまなことを相手に伝えます。
嬉しいとき、淋しいとき、そして駅を見ているとき、その話すリズムや声の音色は恐らくそのときだけのものがあるのでしょう。それがこの詩の魅力であると思います。
それともう一つ、(これはリズムと深い関係があると思いますが)この詩が平明で的確であるということです。そして、最後にもしかしたら、これがいちばん大事なことかも知れませんが、作者が街や駅や、そこに生きる人間に対して熱い関心を抱いているということです。そのためにこの詩全体が優しく哀しく、そしてユーモアが漂っているということだと思います。
2006年03月14日
三角みづ紀 時計じかけのオレンジのように
すばらしい毒、 声をあげては 三角みづ紀
血が流れない
痛みはあるのに
血が流れない
加速されたことばに
翻弄され
地球の裏側から彼等に向けて
放たれた叫びが
いま
届いた
救急車の
どうしようもない明け方に
産まれ落ちた旅人
六月の旅人
心臓を蝕む
薬をもらったんだ
窓際のマトリカリアと
テレビの上の向日葵が
過激に優しくて
やりきれなくて泣いてしまう
少年のようなものが
もはや少女ではない扉を開ける
忘れてしまったのだろうか
息をするということ
そして
うまく血を流すこと
マチカドで執拗につきまとう
おとこにすら
物語はあるのだ
真実を知ったら
思いがけず完結してしまう
すばらしい毒、声をあげては
心臓が
すこしずつ死んでゆく
たいして
悲しくもないのだが
そのたびに
旅人
に近づいているみたい
彼等に云いたいことは
ひとつだけ
でも
そんなこと
たぶんいっしょういえない
笑ってくれればいい
この姿を
笑ってくれさえすれば
この詩人のことばには、スピード感と鮮烈さがあり、読んでいるうちに心臓がドキドキしてきます。それと
恐らく同じことかもしれませんが、ことばからことばへの跳躍力もこの詩人の特徴のひとつだと思います。
このことは必ずしもことばだけではなく、その内容にもよるのでしょうが、詩全体が何か生の断崖をたどっているからのようです。
たとえば
<救急車の どうしようしようもない明け方に 産まれ落ちた旅人 六月の旅人 心臓を蝕む 薬をもらったんだ>
こういうことばの有り様はこの詩人の生そのものであり、それが読む私に伝わってきてドキドキするのだとおもいます。
ことばのスピード感や跳躍力に負けないようについていくと、生の真っ只中に自分が投げ出されたような感じさえします。
それにしても、この詩人か生きている場所はなんと荒涼としていることか。そこでは木や草や水などといった自然の息吹は殆ど感じられず、映画『時計じかけのオレンジ』の世界のようです(それは、もしかしたら、イラクや日本の本当の姿かもしれない)。
しかし、荒涼としているにもかかわらず、その世界は大変新鮮で透明な感じがして、それがとても不思議です。
六連目の<すばらしい毒、声をあげては 心臓が すこしずつ死んでいくみたい>
七連目の<彼等に云いたいことは ひとつだけ でも そんなこと たぶんいっしょういえない>には特にそんな感じがします。
たとえその世界がどんなに荒涼とした世界の悲しい出来事であったとしても、私はこの六連目と七連目に深く感動しました。
2006年03月13日
「森の地図」作田教子 生命(いのち)の雰囲気
森の地図 作田教子
日の出の前から朝が始まっているように
日が沈む何時間も前から闇夜は起き上がる
森の地図は何度も書き換えられる
やさしい木が倒れると
そこに光があたり 花が咲く
大きな鼻を持つ雨の神に出会うと
森はなくした聲を取り戻し 泣くことを思い出す
あなたは雨が通り過ぎたことを知って
時計の螺子を巻くだろう
時は戻らない
幸福とは遠くにいくことかもしれない
やさしい木が天を指していた頃の地図は
未来の空の引き出しのなかに眠る
森はどこにもいかない
けれど 森は通り過ぎていく
雨をくぐりぬけ 風をくぐりぬけ
光も闇もくぐりぬけて
熱帯雨林に行ったことはない
けれど熱帯雨林のことをいつも考えている
だからさようならと言った
やさしい木になれるだろうか
雨も 光も そして死も
花を咲かせるために‥‥
記憶の森の雨の神はやわらかい靴を履いている
すぐ後ろに立つまで気づかない
この詩はひとことでいえば、大変雰囲気のある詩だと思います。
盛り場の雰囲気、港の雰囲気、春の雰囲気などというように。
雰囲気ということばはいろんな場面でつかわれていますが、そのことばの意味を上手に語ろうとすると、
なかなかうまくできません。それは多分、雰囲気というのが、わたしたちの語感や考え方と非常に密接に
関係しているからであり、つまり、生そのもののように捉えがたいものだからなのでしょう。
それはまるくもなく、四角でもなく、過去でもなく、未来でもなく、間近であって、しかも遠くあるからなのでしょう。この詩人がこの詩を書くとき、こういうことを考えていたかどうか、わかりませんが。私はこの詩
を読んで「森の地図」というのは、生命(いのち)の雰囲気だなあと感じました。
つまり、この詩のなかの<森>は<生命(いのち)>に書き換えることもできるのではないかと思います。
生命(いのち)が森になったとき、何とそれは誰にも感じとることができる不思議なやさしさにみちていることか!
森はどこにもいかない
けれど 森は通り過ぎていく
雨をくぐりぬけ 風をくぐりぬけ
光も闇もくぐりぬけて
記憶の森の雨の神はやわらかい靴を履いている
2005年12月17日
「ひとひらの」伊予部恭子 ことばの綱渡り
ひとひらの 伊予部恭子
駅を出ると
道は ゆるい登り坂だ
古本屋 神社 アパート 路地
日射しは音もなく降り
石畳や古いベンチの傷
ひとの内側の 影や小さな窪みを埋めていく
読むのは どれも「わたくし」という本だ
一行から次の行までの間に
短い夢がまぎれ込む
穏やかに登り切ったところから海が見える
惑星の輪郭を 寒そうに歩く人がいる
ここから剥がしてくれるのは
ひとつの言葉かもしれない
ひとひらの 明るい声が
空に翻る
ことばにはいろいろな働きや存在の仕方があると思います。この中で、ことばの表と裏、内側と外側のようなものを感じる時があります。内側と外側というのは、<古本屋 神社 アパート 路地>といったように<わたし>の他に存在している物たちです。この二つは葉っぱの表と裏のようで、どちらかが一方だけというわけにはいかない感じです。さらに、あるときにはこの表と裏がくるりと回転して、あるときにはどちらがどちらだか、わからなくなってしまうこともあります。この詩を読んでいて、まさにこうしたことばの有り様をとても強く感じました。たとえば、<古本屋 神社 アパート 路地>と呼んでいくと、それらの外側に
あったものが、<わたし>の内側にあり、<影や小さな窪みを埋めていく>。そのことばの側に身を置いてみると、短い夢が見えてくるのでしょう。
落ち葉のようにひらひらと舞うことば、それは私の感覚のいちばん奥深いところで乱反射しているようです。それはなにかしら、怖いような感じさえします。とくに最後の<空に翻る>はそう感じます。
2005年12月07日
「茅葺の家」山本楡美子 終わりのない旅
茅葺の家 山本楡美子
ある作家が書いていたことだが
電車の窓から子供の頃に住んでいた家を見つけると
(あった、あった、今日もあった
と安堵でいっぱいになるそうだ。
線路沿いの小さな家は
陽の当たり方によって
ある日は幸せだったり
ある日は淋しかったり
わたしにも
まだあるかどうか確認する家がある
青梅の
古びた茅葺の家。
その家の前に立つと
若くて逞しい父と色の白い母が
太った赤ん坊といっしょに
ちょうど山の上の畑から帰ってくるところに出会う。
信仰などというものがあった古い時代にもどって
桶の水と囲炉裏の火は大事に守られている。
わたしは遠くから帰ってきた者のように
酒とさかなでいっときもてなされ
頭をさげて辞するのだ。
だが去るときは、もうどんな人影もなく
古い家の佇まいだけ。
数年前、ここで見たことのない父母に出会った時は
初めて、とうの昔に父と母を失ったことを理解し
泣きながら帰途についた。
この作品はとても分かりやすい詩です。それは書かれていることばが普段私たちが話したり、書いたりしている、そのままのことばだからです。それともう一つ、この詩は起承転結の形をとっていて、つまり物語と同じ形を持っているからです。たとえば、<ある作家が書いていたことだが>にはじまり、各節は
物語の時間に沿って展開していきます。ですから、殆ど何の違和感もなしに最後まで読めるのだと思います。
ただ、私がびっくりしたのは、最後の三行です。<数年前、ここで見たことのない父母に出会った時は はじめて、とうの昔に父と母を失ったことを理解し 泣きながら帰途についた>
劇が終わって幕が降り、物語が終わった瞬間に、その幕が落ちて、全く新しい世界が始まったような気がしたからです。それまで、私はふるさとというのが懐かしく、どことなく寂しく、それと同時に、こころを和ませてくれるものと感じながら、この詩を読み、それに共感してきたわけですが、このお終いの三行を読んだときに、もしかしたら、この詩人にとって本当のふるさととはその先にさらに詩人の旅を続けよ
といっているのかもしれないと思ったからです。たぶん、私たちは一生懸命生きようとすると、ふるさとよりももっと遠くへ、もっと遙かな所へ終わりのない旅を続けることになるかも知れません。この詩はことばのリズムにも無理がない、分かりやすい詩ですが、とても不思議な詩です。
2005年09月22日
「絵葉書」岬多可子 ことばの豊かさ
絵葉書 岬多可子
明るいオレンジ色の布に覆われたような春
果樹の花が咲き
動物たちが 大きいものも小さいものも
草を食べるために しずかにうつむいたまま
ゆるやかな斜面をのぼりおりしている
家の窓は開いていて 室内の小さな木の引き出しには
古い切手と糸が残っている
みな霞がかかったような色をしている
冷たくも熱くもないお茶が
背の高いポットに淹れられて
それが一日の自我の分量
遠くからとつぜん 力のようなものが来て
その風景に含まれているひとは
みんな一瞬のうちに連れて行かれることになる
以前 隣家の少女を気に入らなかったこと
袋からはみ出た病気の鳥の足がいつまでも動いていたこと
を
女は思う
春のなか
絵葉書は四辺から中央部に向かって焼け焦げていく
ことばの豊かさというと、いろいろな考え方や意味があると思いますが、ひとつは身体、場所、記憶、生活などの関わり合いであると思います。なかでも、私が関心があるのは身体とことばの関わり合いです。
比喩的にいうと、ひとつの詩を読んで、そのときに、ことばを発しているひとの息づかいやたたずまい、つまり、身体が感じられる詩が好きです。
それは決して体について書いた詩という意味ではなく、海であっても、空であつても、この詩のように「絵葉書」でもいいのです。この詩に書かれているひとつひとつのことばや一行一行をとりあげて、説明することは殆ど不可能ですが、たとえば、第一節にはぼんやりと外を眺め、同時に自分の内側も意識しているような、そんな身体の存在が感じられます。このことは決してことばの意味からくるのではなく身体の関わり合いからくるのだろうと思われます。この詩の殆どがそのように感じとり味わうことができると思います。そして最後に(春のなか 絵葉書は四辺から中央部に向かって焼け焦げていく)。
2005年09月21日
「衰耗する女詩人の‥理想生活」財部鳥子 ことばの豊かさ
衰耗する女詩人の‥‥
理想生活 財部鳥子
ベランダの不毛の乾燥地帯
干し物を抱えて
息を切らした女詩人はサンダルのまま
ワインの空き瓶に乗り
変色していくシクラメンのよれよれの
萎れた赤い花鉢に乗り
ついに月経色の花の上で足を挫いた
激痛で半分出来ていた詩編を失う
ガッテム!
それはどんな詩だったか
閃光のような印象だけがのこっている
なぜかといえば
言葉が爆発していたと思うから
おれは死にたいんだ!
眼を負傷した兵士は
テレビニュースで叫んでいた
ああ 彼女は盲兵の泥だらけの手を引いて
吠えまくる犬どもを牽制しながら
死刑のあった廃墟に踏み込んでいくだろう
あのなつかしい硝煙のにおいの中へ
言葉はそこにあるに違いない
血の色の花もあるに違いない
女詩人は愛用の兵隊ベッドの上から
よなかに釣り糸をたらしている
紅鮭の遡行はいつあるのか
いつかきっとある
波を逆立てて上ってくるものが
たとえ古い知り合いの水死人でも
とりあえず釣り上げておこうと思う
欲しいのはチリ紙と歯磨きチューブ
乾燥野菜 凍ったクジラのさえずり
コットンのパンティ数枚
電球も一ダース 買っておこう
一生スーパーへは行きたくない
電話には出ない
ことばはそれを発する人の身体、場所、記憶、生活などのさまざまなものととても密接に関わっている。この作品を読んでこのことがよくわかり、とても面白く、また感動しました。ベランダで足を挫いたため、失われてしまった詩編、しかし(閃光の印象だけがのこっている)。歴史と自らの記憶を蘇らせ、その二つをむすびつけることば、そこにはこの詩人にとって、ことばの始まりがあった(言葉はそこにあるに違いない)。
そして、いま詩人は女詩人として愛用の兵隊ベッドの上から釣り糸をたらし(たとえ古い知り合いの水死人でもとりあえず釣り上げておこうと思う)。
さて、お終いに生活のことばです。
この部分は私がこの詩の中で、もっとも好きで、もっとも感動した部分です。もしかしたら、詩人はここを書くために、これまでのことを書いたのかも知れません。(一生スーパーへは行きたくない 電話には出ない)尻切れとんぼのように終わっているのですが、思わずヤッタネとかガンバレとか言いたくなります。
でも、これは私自身に向かって言っているような気もします。
2005年08月28日
「Trails−踏みあと」 江口節 記憶と伝統
Trails-踏みあと 江口 節
鹿の鳴く声を聞いた
山の稜線が うっすらと浮かぶ頃
フィーヨウ フィーヨウ フィーヨウ
と、わたしは聞き
あなたは カァーンだと言う
初めて聞いたけだものの声を
鹿、だと
知っていたわけではなかったが
確信のように
やってきた最初の一声は
高く延びて ひきしぼっていく
それは わたしの
時間の弓ではない
皮膚や髪の毛、背骨、はらわたにまで
きざみこまれたできごとの
記憶の弓
ではなかったか
おびただしく生きて、おびただしく果てたものたちの
Trailsをひきしぼり
まだ明けやらぬ山襞に
何本も何本も放たれていく
存在の矢、鹿の声は
近づいたり 離れたり
かならず 三回ずつ鳴いて
夜がすっかり明ける頃 ぷっつりと途絶えた
わたしは
ありありと知っていたのだ
わたしの気づく前から知っていることを
もう一度知る、
鹿の鳴き声を聞く、ということを
この詩の心地よさは音楽を聴くときの心地よさに似ています。つまり、感覚や心が一定の律動を得て
自然にひろがっていくということです。そして、そのなかで、いくつかの変調があり、出発点からいつのまにか違った世界へと読む人を誘います。はじめ、山で鹿の声を聴いた、最後には<わたし>の内側で鳴鹿の声を聴いた、そして未來においても<わたし>のなかで鳴くのを聴くであろう。
記憶というのは時間のように一直線にたどれません。つまり記憶は森羅万象が影響しあいながら生きていく最も基本的な力かも知れません。鹿の声ということについていえば、
奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞くときぞ秋は悲しき
を思い出すのは私だけではないでしょう。
意識的であるにしろ、無意識的であるにしろ、この作品の背後には、この平安時代の和歌があると思われます。そう考えると、そもそも鹿の記憶はどこからこの作者に訪れたのでしょうか、と思います。
2005年08月26日
「名」 渡辺みえこ 記憶と伝統
名 渡辺みえこ
夏の終わり
照りつける西陽を背に
野良から上がった母は
首に巻いた手ぬぐいで
汗を拭いながら
決まって
ちゃぶ台の前の私の背に被さって
私の腕に母の腕を巻き付けた
母と私の手に沿って
魔法のように筆が動き
皺だらけの新聞紙に
美しい黒い線が描かれていった
母の心臓の音が
私の背中に伝わった
それは私に
文字というものの
激しい鼓動を伝える音だった
はつひので
にほん
さくら
ちち
はは
雪に降り込められた
年の暮れ
四十の母は
籠の手を休め
土間から上がってきた
母は私の頭の上に被さり
埃だらけの手で
私の名を書いて見せた
その手は細かく震えていた
それは慣れない
力仕事のためだったか
筆名に慣れた私は
本名をほとんど書かなくなったが
その名の文字は
書くたびに
私を震わせる
私の手は
私の名指すその文字に
いつまでも
慣れることができない
まず一節目は、とても懐かしい日本の光景が簡素に描かれています。あたかも奥村土牛のデッサンを
みているようです。しかし、この懐かしい光景は一節目の終わりで一気に、<私>の内部に収斂されていきます。これは、この詩の面白いところであり、不思議なところです。
二節目は、記憶のもつ不思議さをまざまざと感じさせてくれます。
<母の心臓の音が 私の背中に伝わった それは私に 文字というものの 激しい鼓動を伝える音だった>恐らく、作者はその鼓動をいまも鮮やかに感じているのでしょう。そして、この詩をよむ私もその鼓動
に共振させられてしまうのです。
記憶の本体は過去にあるのだろうか? それとも今にあるのだろうか? いずれにしても、記憶には、
とても不思議なエネルギーがあるような気がします。この詩がそのことを証しているといえます。
さらに、最後の節では、記憶は未來におよんでいるとさえ感じられます。さてはじめの懐かしい日本の
光景はどこへいったのでしょう? 今も未來もこの鼓動のまわりを漂っているのでしょう。
2005年08月25日
「夏時刻」水野るり子 境界を生きる
夏時刻 水野るり子
夏のいちにち
森の周辺をさまよっていると
おばあさんが切り株にこしかけ
青葱いろの髪を束ねたまま
うっすらと少女になりかけている
( 夏がゆるやかに胸をひらいて
その襟もとにわたしを呼んでいるのだ)
大気には
ちらちらと青いしみが揺れ
草のふみしだかれた匂いがする
見なれないものたちが
あたりを大股に歩いているのだ
(植物たちの夢が
かぐわしい液体となって
地下の古層から滲みだしてくる)
マメコガネ、カマキリ、カマキリムシなど
おおきな夏の肉体に
たえまなく出入りしている
かれらのささやく羽音は
生きものたちのとぎれない夢のようだ
(だが…わたしはふたたび
ここに帰ってくることはないのだ)
(たとえ…輪廻転生があったとしても?)
自問自答するわたしに
青葱いろの大気の底から
「なら…あたしをたべて」という声がする
ふりかえると 少女は
ひざのあたりまで 露にぬれて
秋のきのこになりかけている
前に哲学か物理の本で、時間から空間へ、空間から時間へと移動するといったようなことを読んだことがあります。そのとき、気になったことは、(いまはそれ程ではありませんが、私はこういうことを持続して考えることは苦手なのです)もしそうだとするならば、時間と空間の境目はどうなっているだろうかということを漠然と考えたことがあります。
ところで、この詩人の作品を読んで私がいつも感じることは<時間>です。時間の奇妙なリアリィティです。奇妙なというのは、日常の時間とは違う時間を強く意識させられるからです。
たとえば、この詩では、
<夏がゆるやかに胸をひらいて その襟もとにわたしを呼んでいるのだ><植物たちの夢が かぐわしい
液体となって 地下の古層から浸み出てくる><おおきな夏の肉体に たえまなく出入りしている>などは時間をあたかも風呂敷のようにひろげたり、たたんだりしているようです。
この詩人は時間と空間の境目を見たかも知れない、あるいは見ようとしているのかも知れない。いずれにしても、この詩人にとって<夢>決して単なる夢ではなく、時間の発見の場なのではないでしょうか?
夢のなかでは、ときとして、時間は海のようにひろがったり、森のように奥ゆきをもっているように思われたりします。しかし、それを、その感覚を、目覚めていながら確かめることはとてもむずかしく、そしてこわいことであると思います。この詩がメルヘンのようでいて、しかも何かリアルな緊張感があるのは、時間というものがこの詩人にとって容易ならぬものであるからなのだと思います。
2005年08月24日
「あらし」井坂洋子 境界に生きる
あらし 井坂洋子
木々との婚約時代もすぎた
風雨が細枝をちぎり
震動が木を降りるが
間断なしに
走査線に運ばれてくる
テレビ電波が脳髄に侵入し
たぶたぶ揺れ 腹をくだっていく
便座で尻の輪をつける 一家族のしるしが
うすれる時刻にまた帰ってくれば
異形の者になっていても
気づかれないか
地殻を両足で踏んで
震動がのぼってくる快さに歩く
ざんばらの風を私流に受け
港まで来てみるが
なにも考えられない
メサイヤコーラスのない貧しさだ
店に入り
蒸したアサリを
食欲のせいではなく口に入れる
燭台のあかりが床におちるあたりに
店の番犬がすわっている
組立自転車も一台 あがりかまちの暗がりで
きちんと身を折って
犬と 荒れた海を見たいと思う
断末のくるしみと向き合うときの従順さで
ふだんは狭い庭を一周し
文句を言わず
バッタの足などを夢中で噛んでいるだろうが
倦まないお前と
地のおくるみの中で
息をひそめて降誕を待つ間
あらしは通り過ぎるだろう
埠頭の鳥たちが違った空気の層からうまれ
擾乱し
朝日に吸収されいくとき
一回だけつよく
ギャーと啼く声をいっしょに聞くのだ
この詩を私が好きなのは、詩全体に何ともいえないユーモアが感じられるからです。それがこの詩人の生来のものであるかはよくわかりませんが、この作品にかぎっていえば、ことばそのものにユーモアの
機能があるようで、そうなると、やはりこのユーモアはこの詩人生来のものということになると思います。
ユーモアはたとえば、
<風雨が細枝をちぎり 震動が木を降りるが>
<テレビ電波が脳髄に侵入し たぷたぷ揺れ 腹をくだっていく>
<便座で尻の輪をつける 一家族のしるしが>
というふうに次から次へといくらでもあげられます。そして、肝心なことはこれらのユーモアが決して同じものではなく、少しずつ微妙にちがっているいうことです。
それらのことばは読んでいくうちに、、私の中で何かがぐらぐらっとしたり、ぴょんぴょん跳ねたりして、何かしら自由というか、それでいていつのまにか未知の世界に入ってしまったような不安な感じになります。その世界は人と物、内側と外側、昨日と今日等々の境界ではないかと思います。その境界を生きようとすると恐らくユーモアが必要なのかも知れません。ただここで注意しなければいけないことは、ユーモアといっても決して笑いや楽しいことだけではなく、この世の始まりののような、あるいはいちばん深い所からきこえてくる声さえ含まれているということです。そのことはこの詩の最後で感じられます。
もしかしたら、現代の現実を誠実に生きようとして、それをなぞっていくと、こうしたことばのユーモアの
機能が是非ともひつようなのかも知れません。というのは、この詩には、「脳髄に侵入するテレビ電波」
「便座の尻の輪で確認される一家」「食欲のせいではなく口に入れる蒸しアサリ」など現代生活の一部が注意深く記されているからです。それはあたかも、短編小説のエッセンスのようであり、それがこの詩の面白さであると思います。