7月20日の夢(中野八丁目)

 中野は学生時代、初めて東京で下宿した街。そして結婚生活をスタートしたのもこの街でした。
(夢ここから)
 会社で「夢日記」のノートを開くと、キャベツやセロリなど、古い生野菜が沢山栞のようにはさんである。食べようと思って、買ったのに、忘れていたのだ。恥ずかしいので、みんなに見つからないように、しおれた野菜をゴミ箱に捨てる。
 会社を退出した後、中野駅で降りる。雨が降り続いているが、傘は差さない。この駅に降りたのは、ぼくが終戦直後の投稿雑誌について調べていて、当時のことを知っている人が「中野八丁目」に住んでいると聞いたからだ。中野八丁目は多分この方向だろうと、適当に歩き出すが、やはりそれでは迷ってしまうだろう。もう一度駅前まで戻って、ぼくは駅付近の地図の看板に見入る。しかし、地図を見ても中野八丁目の位置はよく分からない。きっと中野駅の南側に、右から一丁目、二丁目・・・と続いて、一番左側に位置するのが八丁目だと思い、その方向へ歩き出す。
 一人だけ傘を差さずに歩いてきたが、雨がひどくなってきたので、ついにぼくも傘を拡げる。このあたりまで来ると、風景は戦後そのものだ。道路には近くの農村から出てきたらしいおばさんが農産物を露天で売っている。向こうには、積んだ荷車を停めて、一休みしている女の子が見える。ぼくはごったがえす道路を占領する屋台や荷車をよけながら、前進する。
 かなり歩いてから、ぼくは傘をすぼめ、また地図を見る。どうもこのあたりは中野七丁目らしい。しかし、地図には「八丁目」の表示は見あたらない。そんな場所はないのだろうか。おまけに傘をもう一度差そうとすると、壊れてしまっていて開かない。コンビニでまたジャンプ式の折り畳み傘を買おうか。でも、また余計な出費をしたと、妻に怒られるかもしれない。
 鞄を見ると、当時の投稿雑誌事情を書いた資料の本が、いつのまにか数冊入っている。どこでこんなものを買ったのだろうか。10時過ぎに家に帰り、「中野八丁目で戦後のことを調べていて、遅くなった」と妻に言うと、妻はぼくのことを理解してくれて、ねぎらいの言葉をかけてくれる。家の右手奥の暗い部屋には経理部の部屋がある。あそこで資料代を請求しようか、と考えるが、やめる。

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