炊き込みごはん

昔から「炊き込みごはん」が好きだ。
秋は「栗ごはん」、「鶏と牛蒡の五目ごはん」、あらゆるきのこの「きのこごはん」と、炊き込みごはんの宝庫だ。「きのこごはん」には銀杏を入れよう、、そうしているうちに「牡蠣めし」の季節になる。 「ホタテごはん」や「蟹ごはん」は贅沢だが、ただの大根の葉を刻んだ「菜めし」や「人参ごはん」も充分おいしい。 そして春はもちろん、まず「筍ごはん」だ。 旬の浅利を入れた「浅利ごはん」は格別だし、「ピースごはん」、「フキと油揚げのごはん」、「菜の花ごはん」も私は好き。  夏は夏で、爽やかな「青じそごはん」、「生姜ごはん」、それに、「枝豆ごはん」も塩鮭を混ぜていただく。
こうして並べてみるだけで幸せになり、それぞれの季節がいとおしくなるのだから、日本人にとって「炊き込みごはん」はありがたいものだ。
ごくたまに、目の中にブラックホールのような「虚無」をかかえた人に会うことがあると、つい「炊き込みごはんを食べさせてあげたいなあ、、、」と思ってしまうのだが、さすがに最近は、「それは浅はかな考えだ。」と、思いとどまる。
たぶん「炊き込みごはん」が好きなのは、湯気の中に満ち足りた記憶が混じっているからだろう。 「時」をそのようなものとして受け入れることができるかどうかは、人による。 誰にでも、「既にその空しい結果を予感し、積み重ねることができない状況」というものはあって、その是非は、他人がかかわれない領域だ。 
映画「死刑台のエレベーター」で、恋人からの連絡がないまま、街なかを彷徨い歩くジャンヌ・モローの瞳に、そして身体に染みわたるように流れるマイルス・デイヴィスのトランペットの音色に、深遠なリリシズムを感じるのは、誰にも心の底に同じような経験があるからだろう。
人は、ある晩は「炊き込みごはん」が食べたくなり、ある晩はマイルス・デイヴィスを聞きたくなる。
矛盾した人間の典型である私の場合も、せいぜいバカな法則を思いつく位、、、
人生の法則197:「マイルス・デイヴィスを聞きながら、炊き込みごはんを食べてはならない。」
 

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