デリダの「絵画における4つの真理」

 30代初めに絵を描き始めてすぐ、私は、自分が他の人とまるで違った描き方をしている、と気づいた。 私にとって心の中の何かを表現するための二義的な存在である、色や形、そしてマチエール、、、それら絵画の表面的な問題こそが、どうやら他の人にとっては重大であるらしく、人によっては目的そのものであるらしい、と分かったのだ。
 心の中の何か、、、といっても、別に特定のものではないし、むろん真理やイデオロギー等ではない。 人の心の奥にある根元的なものと、表面との間にある空気、、、言葉にすれば「しみじみ」だったり、「ひりひり」だったり、「しらじら」だったり、「ああーっ」だったりするわけで、どこか詩に似ていると思う。
 でもある時、絵の具の乾く間に読んでいたジャック・デリダ「絵画における真理」で、私は4つの真理に出会い、長い間の疑問から解放された。 とても難解で手に余る部分もある本なのだが、かかえている問題がある時だったから、スーッと入った。 ちゃんと引用すると長くなるので、訳者・阿部宏慈氏の簡潔なあとがきから引用する。 (以下「」内が引用。)
 1.「‥‥すなわち絵画という手段によって提示されてはいるが、絵画のもつ再現力によって、それをおこなっている絵画という手段そのものさえも透明で非媒介的なものと化してしまうように、それ自体として露呈される真理。」 私はフェルメールの絵を思い出した。 デルフトの風景が画家の目から私たちの目へと、まるで時間と空間が繋がっているかのように感じられる。
 
 2.「第二にあらかじめ存在する真理というモデルを忠実に描くという意味での、描かれた真理。」
古くは宗教画、そしてドラクロアやゴヤ、現代ではアバカノヴィチやキーファー等がきっとこの系列だろう、と思った。 そして私自身も、資質としては、この流れの中で描いていくことしかできない、と自覚した。
 
 3.「第三には絵画という芸術に固有の仕方で提示されあるいは再提示(表象)されるところの真理。」 これは前世紀から今世紀にかけて出てきた大部分の絵画が含まれる。 セザンヌ、カンデインスキー、マレーヴィチ、クレー、ピカソ、ニコルソン、ロスコ、、、、とても書ききれない。 
 
 4.「第四に絵画というものの真理、絵画についての真理である。」 デユシャンがそうだし、ミニマル・アートや、写真との境界線上にある表現等もそうだろうと思う。
 
これら4つの分類の後に、阿部氏は続けて、「もちろんこれら四つの翻訳可能性は決してそれぞれに別個の、等価的な可能性でもないし、いずれかがいずれかを包含するというものでもない。 それぞれの可能性はたがいに寄生しあい、また時にはそれぞれに幾つかの可能性へと分岐されうる。 実際にはこのように翻訳を試みても、そこにはつねに翻訳不可能な『残余』が生じてくるのであり、翻訳可能性を試みたのちにいまだに存在するその『残余』こそが「私」の関心を引くのだ、という可能性さえ、デリダは示唆している。」と書いている。 私自身も、自分は、ジャンルとしては2の中に入るのではないかと思うが、もちろん1や3の要素も必要だと思う。 作家は生身の人間だから、常に理論からはみ出し、そのはみ出すところが大事なんだと思う。
 しかし、このような分類に出会い、自分を客観的に位置づけたことはありがたかった。3のジャンルがあまりにも栄えたために、絵画という芸術に固有の仕方でなければダメだ、と思っていらっしゃる方は多く、そのような方にとっては、私の絵は「表現になってない!」と切り捨てられる場面もあった。 そう言われても、自分の内から湧き出てくる必然的な欲求に逆らうことはできないから、私にはどうしようもなかった。 でも、これ以後、私は、心の奥で「デリダの『絵画における四つの真理』‥‥」と呟いて、落ち着いていられるようになった。
 自分の資質に合ったやり方で、内なる必然性に逆らわずに描き続ければ、「その人なりの世界」ということだけであれば、何とかできていくのだろう。 それが、それぞれの時代が求めているものとの間で、どういう価値を持っていくのかは、作家の死後、何年も経たなければ分からないのではないだろうか。 ゴッホもモジリアニも、今日の評価をよもや予想はしなかっただろう。
 お正月には、このようなことをぼんやり考えて、年々速くなっていく時間のスピードを、少しでも遅らせることができれば、と願う。 今年もどうぞよろしくお願いします。

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