「手拭い」

 日本から外国へのお土産として何を選んだらよいのか、毎回迷う。 軽くて、かさばらないもの、そう高くないもの、それでいて日本ならではのもの、、、これが難しい。 決まらないまま出発が迫ってきて、今回は「手拭い」を選んだ。 南天や風知草の柄がモダンでもあり、思わず買ってしまった。
 
 受けとった外国の友人は「美しい布ねえ、、、これは何に使うの?」と聞いた。 当然の質問なのに、返事に困った。 手拭いは、今や私達の生活からすっかり消えてしまったものだ。 「スカーフにしてもらっても、テーブルセンターにしてもらってもいいけれど、本来はタオルとしてお風呂で使うの。」なんて、さすがに言いにくい、、、安易に選ぶから、こういうハメになる。 
 「手拭い」が「タオル」になった、ここ数十年の間に、日本の「暮らし」は「生活」と呼ばれるようになって、人と「もの」との関係がまるで違ってきた。 タオルならば洗面器だろうが、手拭いであれば桶が要る。 そして木の香りのする風呂が欲しくなる。 一つのものが次々と芋づる式に別のものを要求するのだ。 季節の野菜を面とりし、出汁をひいて煮物にする。 器が要る。 陶器も塗りも、日本のものはすばらしい。 糸を紡ぎ、染めて、織られた反物を、さらに手縫いして、ようやく和服ができる。 手のかかったものだから、金具細工のついた桐の箪笥に丁寧に仕舞う。 箪笥にはやはり畳みの部屋が似合う。
 こう考えてくると、昔は「暮らし」の中にあった手作業の痕跡が、すっかり消えてしまったわけだ。今は「もの」は工業製品の一つに過ぎず、常に取り替えの効く品物になったので、私達は、身の回りにある「もの」に思いをかけることができなくなった。 
 私は別に「昔はよかった。」等と言うつもりはない。 そうした手作業の多くは、女性達の労働や職人たちの技によって、支えられていたのだろう。 ただ人が、「もの」との私的な関係の飢餓状態にある、ということは事実で、それは私達の書く詩、描く絵に、必ず影響を与えているはずだ。 
 詩や絵だけが人と私的な関係を結ぶことができる、と思うべきなのか、、、それとも、私的な関係等というものは、もはや結べるはずもない、と、人はあきらめてしまう方向に行くのか、、、
私には何だかその両方が同時に起こっているような気がしてならない。
 それにしても、日本から外国へのお土産、、、ホントに何がいいんだろう? 

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