「夏の虫」

私のように売れるはずもない大きな絵を長年描き続けていると、よほど描くのが好きで楽しいのだろうと思われがちだが、とんでもない! 絵を始めたばかりの頃は、自分の内にあるものを外に向って出すのが精一杯で、いわばベクトルは外方向に向っており、それはとても楽しかった。 でもだんだんそうはいかなくなる。 言葉で表せるものと表せないものを一つの作品に凝縮するという、内方向のベクトルが強くなるにつれ、作品を仕上げることは、自分の限界に常に向き合うことになり、ほとんど苦痛に近い労働になる。
思ったことをそのまま描ける才能があったら、、、と願ったり、思ったことを描けるまでねばり続けることぐらいはしなければ、、、と叱咤したり、私の思っていたことは何だったのかしら、、、と途方にくれたり、創作と苦しみとは切っても切れぬ関係にあるらしい。
彫刻家舟越保武氏は、生前、「掴めると思ったら大間違い!」を口癖にしていらしたそうだし、大江健三郎氏も「何度も書き直すことでエラボレーションしてゆく」と、よく話しておられるので、私のような者でも、このまま続けていけば、いつか、器用に描けない自分にしか描けないものを見つけることができるかもしれない。 できないかもしれない。
それは「アリとキリギリス」のアリのように、冬に備えて何か蓄えているわけでもなく、キリギリスのように、過ぎゆく時を謳歌しているわけでもなく、言うならば夏の虫—光源に向ってただ飛んでいき、結局は力尽きる、というようなものだ。
だから夏の終りに、網戸とガラス戸の間に入りこんでしまったカナブンや、照明器具の中で干涸びてしまった羽虫のなきがらに出会うと、妙にシンとした気持ちになり、「ごくろうさまでした、、、」と、言ってやりたくなる。

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