「ルオーについて」

八月初め、出光美術館に「ルオー大回顧展」を見に行った。 2003年、NAISミュージアムでのルオー展以来五年ぶりだ。 ルオーは、子供の頃や青春期には、好きになれなかった。 厚塗りで、重くて、同じ構図が多くて、、、。 それが、人生の半ばを過ぎた頃から、よくなり出した。
今回、出光美術館では、連作の油彩画「受難」のシリーズがまとまって公開されていた。 もともと、ある詩画集のために、まず版画が作られ、それを元に描かれた油彩画らしい。 同じ構図でくり返し描く、さらに深く、と思う─その気持ちは、今は分かる。 このシリーズで、ルオーは、画面の中にもう一つ窓を作るという、いわば、二重構造の画面を作っている。

その窓枠に当たる部分が、ストーリー性のある、向こう側の世界と、我々の立つ、こちら側の世界との橋渡しをしている。 部分的に青みがかった、あるいは、紫がかった灰緑のマチエールが美しい。 現代美術では、向こう側がなくなって、窓枠だけが残ったのか、、、と、勝手な連想をする。
銅版画集「ミセレーレ」は、五年前、衝撃を受けて以来、久しぶりに再会した。 改めて白黒の迫力に圧倒される。 シンプルで造形的な形だ。 (<ミセレーレ>5  罠と悪意のこの世で、孤独)(<ミセレーレ>6 われらは苦役囚ではないのか?) 
現実の世界を批判しながら、どこか暖かい眼差しがある。 (<ミセレーレ>49 心高貴なれば、首こわばらず)(<ミセレーレ>52 法は過酷、されど法)
ルオーの作品は、版画や絵画でありながら、その分野に留まらない。 宗教的な主題に支えられて、見る人の心の奥にストレートに語りかけ、変革を迫ってくる強さがある。 (<ミセレーレ>57 ”死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順なれば”)(<ミセレーレ>46 ”正しい人は白檀の木のごとく己れを打つ斧に香を移す”)
今、芸術はもうこのような力を持てないのだろうなあ、、、と、憧れと共に、ある無力感を抱えて帰宅した。 

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