「菅原健彦展」

絵に対して、もっとニュートラルな視点を持てればいいのだが、何年も描いているうちに、「他人の作品を好きだ、、、と思うのは、そこに、今、自分が必要としているものがあるから。」ということになってしまった。自分の奥深く眠っているものが触発されて、迸り出てくるような気持になることが、作品と「出会う」ということになってしまった。
12月半ば、新聞に載った小さな写真に、「あっ、キーファーみたい。行かなくっちゃ、、、」と思い、何とか時間を見つけて練馬区立美術館まで出かけた。菅原健彦という人についての予備知識がなかったので、日本にもこういう人が居たんだ、、、と驚いた。
市街地、工場現場、操車場、首都圏境、ジャングルジム、、、彼の東京時代の作品はどれも好きだ。未来の見えない、孤独な人間にとって、都市は、巨大で、暴力的で、無惨なものだ。彼には描きたいものが見えている。脱帽だ。
ところが1995年、1年間のドイツ留学を経て、彼はガラっと変わる。何が起こったんだろう。山梨を経て滋賀の山へ移り住み、樹木と自然風景を水墨画で書き始める。「雲水峡」、「淡墨桜」、、、迫力ある筆勢が見事だと思わないわけではない。しかし、何か割り切れない。題材や手法ということではなく、もっと深いところで、同じ人とは思えないのだ。感性を剥き出しにして、東京をほっつき歩いていた反骨の人にとって、「日本画」というジャンルは狭かったのではなかったか、、、外国へ行き、日本というものを強烈に意識して、彼は日本画が背負ってきたものを背負ってしまったのか。
そして最近の「雲龍雷龍」に至るわけだが、こうなると「ごめんなさい、菅原さん、、、あなたが分からない、、、」と言うしかない。私が今、求めていないせいか、伝わってこないのだ。
1989年〜94年、菅原健彦のこの6年間の絵に、昨年末ギリギリで「出会えた」。それで充分だ。

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