「ウィリアム・ケントリッジ展」

竹橋の国立近代美術館で、今、南アフリカの作家、ウィリアム・ケントリッジの、日本で初めての大規模な展覧会が開かれている。
私がケントリッジを知ったのは、2005年、ベルリン、グッゲンハイムでの展覧会直後で、手に入ったドローイングの画集に衝撃を受けた。「動くドローイング」としてのアニメーションを知ったのは、かなり後だ。ドローイングとして見ても、そのストーリー性は明らかで、「辛さ」と「悲しみ」と「惨たらしさ」の奥に、それでも、この人は人間の知性と美術の力を信じている、、、と思わせるものがあった。それ以来、ウィリアム・ケントリッジは、「そっちの方向へ行けば、厳然として彼が居る。」という意味で、自分の方向を定めてくれる、大事な一人になった。
しかし5年前、彼の大規模な展覧会が開かれることは、戦後、ナチズムへの反省が徹底的に行われたドイツでなら可能でも、日本では無理じゃないか、と思っていたので、今回の思いがけない実現は、本当にうれしい。5年の歳月と状況の変化、そして実現のため尽力された方々の努力を思う。
私は彼がことさら「政治的」だとは思わない。彼の作品を見ていると、「政治的に無色」なんてことはあり得なくて、「無色であろうとする政治的立場」は、美術や文学の力を弱めてきたのではないか、という気持になる。彼の作品は、「政治的」というより、「彼の個人的な悲しみが、個人を越えた集団の悲しみにしっかりと繋がり、虐げられた人間全ての悲しみとして伝わってくる」と、受けとる方がよい。事実、彼の悲しみは身体のあらゆる場所から溢れ出し、部屋中を満たし、街中を満たしていく。彼の描くものは、ただのコップでさえ、とてつもなく「悲しい」し、彼のように「辛く」野原を描く人を見たことがない。
今回、私は新たに彼のアニメーション・フィルム「影の行進」に魅了された。影絵に使われたペープサートは、よく見ると巧みに作られてはいるが、素朴で懐かしい感じも残してあり、どこかタデウシュ・カントルを思い出させる。「ケントリッジ」という名前は「カントルの息子」という意味だそうで、偶然にせよ、そのことは彼の意識に入っていたんじゃないかな、、と想像する。「コメディーを目指してきた。」という彼の言葉も、「笑い」と「涙」と「悲鳴」の間で創造する演劇人の姿勢を感じさせる。その三つの境界線は今やないに等しく、「影の行進」は、どういう形にせよ、全ての人間が参加して、進行中だ。
会場には若い人が多かった。アニメーションの近くで育った、若い人達への影響は量り知れないだろう。会期最終日まで、あと2週間。その後は広島現代美術館。日本の美術にとって、まさに「静かな事件」。街にポスターの類は全く見かけないが、見逃すのはもったいない。ぜひ!

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