演劇を観る時、前もって情報を集め、予備知識を持って劇場に行く方もいらっしゃるだろうが、私は、できる限り白紙の状態で行くようにしている。それは、若い頃「冥の会」による「ゴドーを待ちながら」を観て、演劇が一つの体験であることを実感したからだ。
一幕目、私は二人の浮浪者と共に、ゴドーの登場をひたすら待った。二幕目も同じ状況が繰り返され、待ちくたびれてヘトヘトだった。そして、まさか、と思っているうちに、緞帳が降りてきて終わってしまった。他の人たちが帰っていくので、しかたなく劇場を出たものの、腑に落ちない、というか、狐につままれたような状態で、私は帰りの電車に揺られていた。
しばらくして、ふと見回すと、遅くまで仕事をしていたサラリーマンの人、OL の人が、居眠りをしたり、疲れた、虚ろな目をして、私と同じように揺られている。その時、突然、ウラジミールとエストラゴンの状況が、私たち人間の状況に重なった。そういうことか、、、私たち、皆、待っているんだ、、、と。私は、感動のあまり、夜の電車の中で涙ぐんでいた。まったく白紙の状態で客席に座ったせいで、ベケットにとっても、私は、彼の意図が最も成功した観客の一人ではなかったか、と思う。
2001年、久しぶりに「ゴドーを待ちながら」を観たくなって、世田谷パブリックシアターまで出かけた。佐藤信演出、ウラジミール、石橋蓮司。エストラゴン、柄本明。二人の芸達者な俳優のおかげで、ヒューマニストのウラジミールと、ちょっと胡散臭いエストラゴンの会話も味わい深く、以前は存在すら残っていなかったポッツォ(片桐はいり)とラッキー、ゴドーの伝言を伝える少年まで出てきて、退屈するどころか、非常に楽しんだ。しかし、一度目の、あの身体の芯を揺さぶられるような体験は味わえなかった。要するに、もっと退屈して、待ちたかった、ということだろう。
「ゴドーを待ちながら」は、観る人と、その状況によって、色んな意味を持つ。戦下のサラエヴォで上演されたことは有名だし、日本でも、繰り返し、新たな演出で演じられてきた。私自身も若い頃とは違った意味を加えている。
夏の午後遅く、植物に水をやるために庭に出る。夕方の風が吹き、草木がいっせいに揺れ動く。レモンの葉も、白山吹も、ユキヤナギも、名も知らぬ草も、、、皆揺れて、先に逝った人たちの気配を届ける。あちら側の時間が既に始まっていて、自分はただ「ゴドーを待ちながら」生きている、という感覚が迫ってくる。
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