「3月11日」

震災の日から、ずっと気が晴れない。戦後生まれの私にとって、こんな衝撃は生まれて初めてだ。とにかく自分にできることをやり続けなければと、絵に集中しようとしている。3月11日を境に、何かが大きく変わった。何がどう変わったのか、本当のところは、まだ、はっきりとは分からない。でも、その転換期に描いている、ということは「問われている」ということだ。身の引き締まる思いだ。
以前、個展にいらした、ある絵描きの人から、どうして「苦しみ」や「悲しみ」ばかりを描いて、「楽しみ」や「喜び」を描かないの、、、と詰め寄られたことがある。私は、それを言葉で説明することが面倒になって、じゃあ、あなたは「楽しみ」や「喜び」を担当すればいいじゃないの、、、と議論を打ち切ってしまったことがあった。
「苦しみ」や「悲しみ」と「楽しみ」や「喜び」は、元々、対比させるものではなく、分ち難く一体のものであり、それが人間のすごさだ。それを今回、つくづく思い知らされた。瓦礫の海と化した街に降りていって、「再建」を目指す人、、、自ら被災しながらも、他の人のために働く人、、、大切な人を失ったことに黙って耐えている人、、、皆、すごいなあ、と思う。その人たちも、日々の暮らしの中で、生きる「楽しみ」や「喜び」を見つけ出そうとしているはずだから。
私自身の経験では、「深い傷」というものは、受けとめることすら、すぐにできるものではない。目覚めた瞬間、全ては悪夢だったと感じ、イヤ現実だ、と張り裂ける心を、何とかまた繋ぎ合わせて、重い身体を起こす、、、毎朝、この繰り返しだ。「深い傷」を受けた人は、もう、その傷の上に残りの人生を築いていくしかない。何年か経って、一応、血が吹き出さない状態になったからといって、それを「克服」と呼べるのかどうか、、、美しい風景も、賑やかな笑いも、聞こえてくる音楽も、その傷ゆえに、いっそう美しく、いっそう愉快で、心に染みるのだ。
私はよくバッハのバイオリン・ソナタを聞く。 BWV1014 と BWV1017—クイケンとレオンハルトの音は、私の傷に染みて広がり、「祈り」になっていく。私の絵も、傷を受けた人にとっての、そういう存在になれたら、と願ってはきた。
しかし、今、私の「表現」が、私の想像を越えた「深い傷」を受けた人にとって、空々しいものになりはしないか、、、そういう思いに押し潰されそうになりながら、画面に向っている。

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