「K高校美術部」

淀川辺りにある高校の美術部に居た。部室に続く美術室は3階東の角にあって、放課後、晴れていれば夕焼けが見えた。建てられてから一世紀以上経つというレンガ造りの校舎は、無数の人間の汗と油と埃の臭いがした。
顧問の O 先生は、「美術部に入ろうと思った時点で、その資格がある。」と、部員全員の美術の成績を5になさったので、皆、どこかのびのびと活動していた。倉庫には、ベニア板に先輩達の描き残した絵が、100号から200号まで、沢山並んでいて、好きなのを選んで表面を削り、またその上に描くのが習わしだった。油絵の具も紙も使い放題、部室はある種の「解放区」だった。タバコを吸う先輩も居たし、文化祭の前に秘かに泊まり込む部員も居た。見つかったら停学処分と聞いていたので、何だかドキドキ、ワクワクした。
私はカッコつけて、抽象を描いていた。O 先生はほとんど批評はなさらないで、毎回私の絵をじっと眺め、「まあ、もうちょっとやってごらんなさい。」とおっしゃるだけだった。もうちょっと? 私は言われたように、もうちょっとやってみるのだが、しばらくすると、また、「まあ、もうちょっとやってごらんなさい。」と言われる。高校生の私は、ただ感覚だけでやっていて、内に確固たるものもないものだから、そのうちに、自分が何を描こうとしていたのか迷い出してしまうのが常だった。自分では好きなはずの絵に、何故必然性を見出せないのか、、、というのが、私の隠れた悩みになった。
放課後、下校時刻ギリギリまで描いた上に、食堂で天そばまで食べたりすると、さらに遅くなる。すると校門までの 30m で定時制の生徒とすれ違う。こっちは親のおかげで晝間勉強させてもらって、部活までやって帰る。帰れば夕食が待っている。あちらは一日働いて、これから勉強だ。すれ違う 30m の間、私はとてつもなく恥ずかしかった。
後に、再び絵を描くようになって、私が最も重要視したのは、これを生涯続けることができるのか、、、あの、既に亡くなられた O 先生に、「まあ、もうちょっとやってごらんなさい。」と言われても、自分で納得して、「いや、先生、これで終わりです。」と言えるのか、、、さらに、一日働いてきた人に絵を見てもらった時、恥ずかしくないか、ということだった。
絵を「色、構成、マチエールでできた美術作品」ということだけでなく、「この時代とこの世界に属している、人間そのものの理解と実感を伝える役目がある。」と私が思うようになったのは、きっと、あの淀川辺りの高校でおこった全てのことのせいだ。

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