「加藤周一、レム、そしてバレンボイム」

加藤周一「日本文化における時間と空間」は、物事を考える上での正確な座標軸を与えてくれる、貴重な本だ。 私たち日本人の「今=ここに」生きる、という特徴が、日常生活の習慣の中で、文学や芸術の中で、次々に立証されていく。 分析があまりにも的を射ているので、時に日本人の一人として辛くなるほどだ。 「過去は水に流す」「明日は明日の風が吹く」—よく知っている格言が、実は日本文化の本質を表していたとは、、、
                                           
  「明日がどうなろうと、建物の安全基準をごまかしてカネをもうけ、不良債券を積みあげて商売を盛んにする。 もし建物の危険がばれ、不良債券が回収できなくなれば、その時現在で、深く頭を下げ、「世間をお騒がせ」したことを、「誠心誠意」おわびする。 、、その努力の内容は、「誠心誠意」すなわち「心の問題」であり、行為が社会にどういう結果を及ぼしたか(結果責任)よりも、当事者がどういう意図をもって行動したか(意図の善悪)が話の中心になるだろう。」(原文はではなく、今に傍点。)
この日本文化における「現在主義」が「全体に対する部分重視傾向の一つの表現」であり、「そこでは全体を分割すると部分が成り立つのではなく、部分が集まると全体が結果する」という分析には、思わず唸ってしまった。 絵を描きながら漠然と感じてはいたものの、理由が分かっていなかったのだ。 
部分を重視すると、表現は洗練され、完成度は上がるわけだが、それと共に表現が現実から遊離し、専門分野のみで閉じてしまうのではないか、と感じていた。 そして「描く」ということが、この世界の様々な事柄に、(具体的な事件から普遍的な価値に至るまで)何らかの形で確かに繋がっている、と信じられなければ、描いていけないという自分、常に「全体から部分へ」と考える自分が、よほど変わっているんだろう、と思っていた。 
ただ私の場合、この「全体」という言葉は、いわゆる「グローバル化」のように、個々の国々や個人の状況を上から見て大雑把に普遍化する、という意味ではない。 地球規模の「全体」ではなく、むしろ宇宙規模の「全体」だ。 ちょうどスタニスワフ・レムが地球外生命の立場から人間を見ようとしたように。 宇宙という巨大な空間や時間の中で、レムのまなざしは人間のあらゆる差異を超越し、この世界に存在する私たち人間の必要最低限とも言える本質へと向かっていた。
アトリエでは、毎日「憧れること」と「できること」の違いを思い知らされることばかりだ。 でも時々は八月の夜空を見上げ、加藤周一の分析、レムのまなざし、そしてバレンボイムの次の言葉を思い出したい。
「偉大な芸術作品はみな二つの顔をもっている。 一つはそれが属する時代に向けての顔、もう一つは永遠に向けての顔」          

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