「飛ぶ夢」

子供の頃からよく「空を飛ぶ夢」を見た。 夢の中で、私は、小学校のグラウンドや、住んでいた街の上空を飛んだ。 川辺りに沿って上昇し、風に乗る。 肩をヒョイと動かすと、方向が変わる。 ほら、こんなに簡単じゃない、、、と有頂天だ。 岩波の絵本「つばめのうた」やデイズニーの映画「ピーターパン」を見てからは、メキシコの村や夜のロンドン上空も飛ぶようになった。 時に夕日に向って飛び、時に渡り鳥の一員になった。 自我が強く、集団になじめない子供だったので、昼間辛いことがあった日には、布団に入ってから一晩中飛んでいた。 映画「グラン・ブルー」のジャックは、一晩中イルカと泳いでいたが、私もあんな風に大きくなった、と共感したものだ。
成長するにつれ、「飛ぶ夢」を見る回数は減っていった。 ただ、地上10〜50m位のところを飛んでみたい、という願望は、常時持っていた。 ガラスに囲まれたエレベーターに乗ってみたり、ヘリコプターにも乗ってみたが、どうも不満—飛ぶ時は正面から風を受けたい。 運動もダメだし、機械音痴でもあるので、自分で飛行機を操縦することは無理なのに、夢で味わった感覚は確かなものとして残っていたので、憧れだけが残った。
そのうち映画の中で「複葉機」に出会った。 「冒険者たち」でアラン・ドロンが凱旋門をくぐろうとした飛行機である。 「愛と悲しみの果て」(原題”Out of Africa”)では、主人公達を乗せて、フラミンゴの大群に突入していった。 「イングリッシュ・ペイシェント」では、二機登場し、ゆらゆらと空中で交叉する。 二人乗りの場合、操縦席は後方で、前の席はパノラマを得ることができる。
「複葉」とは、羽が上下に二枚あるからで、元々戦闘機として発達し、第一次大戦中、爆撃に用いられたが、速度が出ないため、1930年代後半には消えていった。 戦闘機としての歴史を考えれば不謹慎なことだが、「複葉機」には、「鳥のように空を飛びたい」という人間の夢が、素朴な形のまま残っているような気がする。 だからこそ、多くの映画に使われてきたのだろう。
だいたい地上を見るのには、ほどよい高さとスピードというものがあって、ジェット機では高すぎるし、速すぎる。 上空に飛立ち、自分が属していた世界がどのようなものだったか、という俯瞰図を手に入れると、自分が、今、居る位置と、目指す方向が確認でき、地上にもどってからも、少々のことには耐えられるものだ。
子供時代は、私もそうやって地上と空中を行ったり来たりしていたのに、いつの間にか、地上の人間になってしまった。 複葉機に乗ってみたい、という私の夢は実現できないかもしれない。 でも、いずれ私は地上を去り、空中の人間になるのではないだろうか、、、その時は、思う存分飛びながら、私の生きてきた世界を眺めてみたいものだ。

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「夏の虫」

私のように売れるはずもない大きな絵を長年描き続けていると、よほど描くのが好きで楽しいのだろうと思われがちだが、とんでもない! 絵を始めたばかりの頃は、自分の内にあるものを外に向って出すのが精一杯で、いわばベクトルは外方向に向っており、それはとても楽しかった。 でもだんだんそうはいかなくなる。 言葉で表せるものと表せないものを一つの作品に凝縮するという、内方向のベクトルが強くなるにつれ、作品を仕上げることは、自分の限界に常に向き合うことになり、ほとんど苦痛に近い労働になる。
思ったことをそのまま描ける才能があったら、、、と願ったり、思ったことを描けるまでねばり続けることぐらいはしなければ、、、と叱咤したり、私の思っていたことは何だったのかしら、、、と途方にくれたり、創作と苦しみとは切っても切れぬ関係にあるらしい。
彫刻家舟越保武氏は、生前、「掴めると思ったら大間違い!」を口癖にしていらしたそうだし、大江健三郎氏も「何度も書き直すことでエラボレーションしてゆく」と、よく話しておられるので、私のような者でも、このまま続けていけば、いつか、器用に描けない自分にしか描けないものを見つけることができるかもしれない。 できないかもしれない。
それは「アリとキリギリス」のアリのように、冬に備えて何か蓄えているわけでもなく、キリギリスのように、過ぎゆく時を謳歌しているわけでもなく、言うならば夏の虫—光源に向ってただ飛んでいき、結局は力尽きる、というようなものだ。
だから夏の終りに、網戸とガラス戸の間に入りこんでしまったカナブンや、照明器具の中で干涸びてしまった羽虫のなきがらに出会うと、妙にシンとした気持ちになり、「ごくろうさまでした、、、」と、言ってやりたくなる。

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「加藤周一、レム、そしてバレンボイム」

加藤周一「日本文化における時間と空間」は、物事を考える上での正確な座標軸を与えてくれる、貴重な本だ。 私たち日本人の「今=ここに」生きる、という特徴が、日常生活の習慣の中で、文学や芸術の中で、次々に立証されていく。 分析があまりにも的を射ているので、時に日本人の一人として辛くなるほどだ。 「過去は水に流す」「明日は明日の風が吹く」—よく知っている格言が、実は日本文化の本質を表していたとは、、、
                                           
  「明日がどうなろうと、建物の安全基準をごまかしてカネをもうけ、不良債券を積みあげて商売を盛んにする。 もし建物の危険がばれ、不良債券が回収できなくなれば、その時現在で、深く頭を下げ、「世間をお騒がせ」したことを、「誠心誠意」おわびする。 、、その努力の内容は、「誠心誠意」すなわち「心の問題」であり、行為が社会にどういう結果を及ぼしたか(結果責任)よりも、当事者がどういう意図をもって行動したか(意図の善悪)が話の中心になるだろう。」(原文はではなく、今に傍点。)
この日本文化における「現在主義」が「全体に対する部分重視傾向の一つの表現」であり、「そこでは全体を分割すると部分が成り立つのではなく、部分が集まると全体が結果する」という分析には、思わず唸ってしまった。 絵を描きながら漠然と感じてはいたものの、理由が分かっていなかったのだ。 
部分を重視すると、表現は洗練され、完成度は上がるわけだが、それと共に表現が現実から遊離し、専門分野のみで閉じてしまうのではないか、と感じていた。 そして「描く」ということが、この世界の様々な事柄に、(具体的な事件から普遍的な価値に至るまで)何らかの形で確かに繋がっている、と信じられなければ、描いていけないという自分、常に「全体から部分へ」と考える自分が、よほど変わっているんだろう、と思っていた。 
ただ私の場合、この「全体」という言葉は、いわゆる「グローバル化」のように、個々の国々や個人の状況を上から見て大雑把に普遍化する、という意味ではない。 地球規模の「全体」ではなく、むしろ宇宙規模の「全体」だ。 ちょうどスタニスワフ・レムが地球外生命の立場から人間を見ようとしたように。 宇宙という巨大な空間や時間の中で、レムのまなざしは人間のあらゆる差異を超越し、この世界に存在する私たち人間の必要最低限とも言える本質へと向かっていた。
アトリエでは、毎日「憧れること」と「できること」の違いを思い知らされることばかりだ。 でも時々は八月の夜空を見上げ、加藤周一の分析、レムのまなざし、そしてバレンボイムの次の言葉を思い出したい。
「偉大な芸術作品はみな二つの顔をもっている。 一つはそれが属する時代に向けての顔、もう一つは永遠に向けての顔」          

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line-line (線のデッサン) について

長篇詩誌「ヒポカンパス」に同人誌「hotel」が協賛して下さって、解散記念朗読会を開くことになった。
Wa! hotel ヒポカンパス
7/21(土)2:00pm
会場:スペースWa!
( 目黒区駒場3-11-14 駒場友和ビル4F Tel. 03-3465-7748)
                                     
                          会費:¥1000
岡島弘子さんから「ヒポカンパス側は、その他のメンバーが皆出演するから、、」と、依頼され、僭越にも、司会をお手伝いさせていただく。 そして不慣れな司会だけでは、あまりに身の置きどころがないので、長い間封印していた「線のデッサン」を展示させていただくことにした。
白衣のシリーズに移る前の10年間、私は鉛筆だけで作品を描いていた。 細かい仕事で、1点を4〜5ヶ月かけて描く。 8H〜EE に至る鉛筆のやわらかなトーンも、鉛筆を削る時の木の香りも、「もの」と向かい合うゆっくりとした時間も、皆好きだった。 そしてそれと平行して、時々「線のデッサン」を続けていた。 「音」、主にジャズのライヴを聞きながら、ほんの2〜3秒、線を走らせる、その行為を「線のデッサン」と名づけていたのだ。 毎日少しづつ、カタツムリのように進んでいく仕事をしていると、そういう瞬間的な行為はたまらなく解放感があって、あちこちのライヴに足を運び、飽きずにやっていた。 10年間でデッサン帳は150册を越え、古いものは一部を除き、随分処分した。
しかし、私はそれを一度も自分の作品として発表できなかった。 あまりに感覚的な気がしたからだ。「言葉」は、一部の擬音語などの例外はあるにせよ、原則として「意味」を持ち、ある「理性」を伴うものだ。 まあ、、、その原則にこそ、私たちは挑戦しているのだ、と詩人はおっしゃるかもしれない。 しかし、私の線は最初から「意味」や「理性」と無縁、、、ブレーキなし、アクセルのみで走る。  それでいいのか、と自分に問い、答えは出なかった。
スペースWa! は、行ってみると、四階にあり、三方が窓、つまり空に向かって開かれた空間だった。ほとんど瞬間的に引かれた線の向こうに、動かぬ空や街が重なる時、意外な効果が出れば幸せだ。
朗読の共通テーマは「私の幼年時代」。 私にとって「線のデッサン」は、まさに「幼年時代」に繋がる感覚の解放だ。 詩人の方たちにとっての「幼年時代」はどのようなものなのか、今から楽しみにしている。 何だか「時間」を感じる午後になりそうだ。 
よろしければ、ぜひ、ご一緒に。

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「最後の朝」と「茶色の朝」

 1995年「最後の朝」という作品を描いた時、私は白衣の持つ不思議な両面性に気づいた。 画面が、絵を見る個人にとっての「最後の朝」にも見えるし、また、(個々の白衣が特徴を奪われた「集団の一単位」として存在するため、)人間たちにとっての「最後の朝」にも見えたのだ。
  それから12年経ち、今描いている絵の中で、白衣は「衣という表皮によって、あるいはその一部によって、ようやく存在しているような状態」にまで変化してきたけれども、この「個人」であり「集団の一単位」であるという両面性は変わっていない。
  だから私にとって、作品が成功している、というのは、私個人のことを語りながら、人間について何か伝えることができて、その両方が分かち難く結びついている状態、のことになる。 もし「状況に対する意識」が強すぎれば、作品は硬直し、のびやかさを失っていくだろう。 逆に「この世界に存在する意識」というものがまるでない作品は、この巨大な消費社会の中で、存在理由を見つけられなくなっていくような気がする。
  自分という個人を見つめていくことと、人間一般について考えていくことは、まったく違うようで、実は結びついている。 個々の状況の中で、私がどのような選択をし、行動するのかということが、個人としての私自身に問われているわけで、難しいけれども、それを引き受けて努力し続ける他はない。
  「茶色の朝」という寓話が私たちにもたらすもの、全体主義への静かな恐怖は、教育基本法、国民投票法と、重要な法案が国民から遠いところで次々と成立していく今の状況の中では、リアルなものとして説得力がある。 国民が既に51%賛成しているという数字が事実なら、近い将来、憲法も改正されるのだろうか。 北朝鮮への恐怖心を煽られて、私たちは大事なものを失いそうだ。
  「憲法」というのは、元来、国家権力に枠をもうけ、国民の基本的人権を保障するものではなかったか。 なぜ「愛国心」等という道徳の理念を明示されなければならないのか。 個人はたまたまこの国に生まれたために、この国の国民になった。 個人にはそれぞれ、国を愛する自由も、憎む自由も、愛憎相半ばする自由も、まったく無視する自由もある。 しかし、「国を愛さなければならない」と明記されれば、「愛さない人間は国民ではない」あるいは「国を守るために軍隊に加入するのは国民の義務だ」という理念が続くのは目に見えている。 それは犬が、クリーム色も、白も、ブチだって、真っ黒だってかまわないのに、「茶色の犬でなければならない」という法案を受け入れてしまうことと同じだ。 「流れに逆らわず、やり過ごすこと」や「茶色に守られた安心を選択すること」が全体主義を成立させる要因だと、この本は私たちに伝えている。
  私も、国民の一人として、「できること」に向かって一歩踏み出したい、と思う。 とりあえず、明日、映画「日本国憲法」(ジャン・ユンカーマン監督、DVD、2005 シグロ作品)を観にいく。

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6月の茶色の朝展

「茶色の朝」(フランク・パブロフ 作/ヴィンセント・ギャロ 絵/藤本一勇 訳/大月書店)という本をご存じだろうか? フランスで2003年のベストセラーになった短い物語だ。 哲学者、高橋哲哉氏は、この物語に寄せたメッセージの中で、次ぎのように述べている。
「『ファシズム』や『全体主義』という用語を厳密に適用できるかどうかは別としても、現代日本社会には、それらにつながる排外主義、差別主義、国家主義への強い傾向が確実に存在します。」
確かにそのとおりだ。 昨年暮れには、憲法と共に、戦後日本社会の根幹となった教育基本法が改正されてしまった。 私は、法律、歴史、教育、どの分野の知識も未熟で、常日頃は、絵のこと以外あまり考えていないのに、あの時は「これはいけない!」と思い、何かに突き動かされるように銀座のデモに加わった。 が、それ以上に何かできたわけでもなく、教育の主体は国民から国家へと移ってしまい、私はまたアトリエの毎日にもどってしまった。
「茶色の朝」への高橋氏のメッセージには、「私たち『ふつうの人びと』にとって最大の問題は. . . . . 社会のなかにファシズムや全体主義につうじる現象が現れた時、それらに驚きや疑問や違和感を感じながらも、さまざまな理由から、それらをやり過ごしてしまうことにある. . . . 」とあった。 後ろめたい限りだ。
そんな折、富士吉田市の画廊「ナノリウム」が「やり過ごさないで考え続けること」という思いを込めて、「6月の茶色の朝展」を企画し、参加のお誘いを頂いた。 矢部史朗氏、藤本光三氏と井上 直のコラボレーション。 矢部氏はヤスリを使った作品、藤本氏は蝋燭を使った作品と伺っている。 私は樹木のシリーズを展示させていただく。
私の絵は「現代社会における人間と人間たちの物語」を目指してはいるけれども、直接、「ファシズムへの抵抗」を意図して描かれたものではない。 しかし、このような機会を頂き、私自身も現代の日本社会における「ファシズム」への流れについて、もう一度考えてみたい。 
「ナノリウム」は樹木に囲まれた、すてきな画廊で、晴れていれば富士山が見える。 雨の日は周囲の樹木が一斉に音をたてる。 6月のご予定に加えていただければ幸せです。

6月の茶色の朝展


6月8日(金)〜26日(火)


11:00am〜8:00pm (木曜定休)



京王バス 新宿〜富士急ハイランドの時刻表
http://www.fujikyu.co.jp/bus/highway/fuji5/time/d-time7-10.html

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拝啓 横山大観さま、

 2月末日に、東京国立近代美術館で、あなたの「生々流転」を再び拝見しました。  
 筆と墨と水だけで表現された水墨画の世界は、遠い記憶のかなたから何か呼び覚まされるような経験でした。 けぶるような、かすかな大気と、くっきりと際立つ樹木たちは、あらゆるトーンと線の魅力にあふれ、大胆な構図と繊細な表現の対比が、見事でした。  そして何よりも、「生々流転」という自然の営みの中に含まれた「円環の思想」は、ちょうど春を迎えたこの時期に相応しく、祖先が感じたであろう「再生の力」が、私の中にも蘇るようでした。
 「大観さま」と呼べば、あなたは歴史上の人物、ほど遠い存在。 でも「横山さま」と呼べば、あなたも同じ人間。 つい84年前、私の両親が生まれた頃に、独りで世界を受けとめた、その志しの高さに打たれます。 40mを描き終えて落款を押された時、あなたのお気持ちはどのようなものであったか、、、これを描くために自分は生まれてきた、とお思いになったのでしょうか。
 「生々流転」の翌年にお描きになった「東山」にも私は魅せられます。 あれほどのお仕事の翌年に、まだやり残した世界として、「生々流転」の手法が凝縮されているように思います。 「見えないものを見えるように」ではなく、「見えないものは見えないままに残す」ことで生まれる「空気」と「品格」─それは、かつて私達の祖先が持っていた大切なものではなかったかと。
 今は風景にも住居にも空いた空間が少なく、「空気」も「品格」も生まれにくい状況です。 あなたのご存じないラップという音楽は、埋め尽くされた世界─まさしく私達が日常感じている圧迫感に近いものです。 このような時代に、「人と生まれたからには、あなたのように世界を受けとめてみたい。」と願う私は、ただの愚か者でしょうか、力もないのに、、、。
 横山大観さま、どうか、いつの日か、私のアトリエにおいで下さい。 そして力をお貸し下さい。 あなたの場所はいつも空けておきます。 「酔心」も用意しておきますから。
                 
                   2007年4月1日
                                井上 直

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「手拭い」

 日本から外国へのお土産として何を選んだらよいのか、毎回迷う。 軽くて、かさばらないもの、そう高くないもの、それでいて日本ならではのもの、、、これが難しい。 決まらないまま出発が迫ってきて、今回は「手拭い」を選んだ。 南天や風知草の柄がモダンでもあり、思わず買ってしまった。
 
 受けとった外国の友人は「美しい布ねえ、、、これは何に使うの?」と聞いた。 当然の質問なのに、返事に困った。 手拭いは、今や私達の生活からすっかり消えてしまったものだ。 「スカーフにしてもらっても、テーブルセンターにしてもらってもいいけれど、本来はタオルとしてお風呂で使うの。」なんて、さすがに言いにくい、、、安易に選ぶから、こういうハメになる。 
 「手拭い」が「タオル」になった、ここ数十年の間に、日本の「暮らし」は「生活」と呼ばれるようになって、人と「もの」との関係がまるで違ってきた。 タオルならば洗面器だろうが、手拭いであれば桶が要る。 そして木の香りのする風呂が欲しくなる。 一つのものが次々と芋づる式に別のものを要求するのだ。 季節の野菜を面とりし、出汁をひいて煮物にする。 器が要る。 陶器も塗りも、日本のものはすばらしい。 糸を紡ぎ、染めて、織られた反物を、さらに手縫いして、ようやく和服ができる。 手のかかったものだから、金具細工のついた桐の箪笥に丁寧に仕舞う。 箪笥にはやはり畳みの部屋が似合う。
 こう考えてくると、昔は「暮らし」の中にあった手作業の痕跡が、すっかり消えてしまったわけだ。今は「もの」は工業製品の一つに過ぎず、常に取り替えの効く品物になったので、私達は、身の回りにある「もの」に思いをかけることができなくなった。 
 私は別に「昔はよかった。」等と言うつもりはない。 そうした手作業の多くは、女性達の労働や職人たちの技によって、支えられていたのだろう。 ただ人が、「もの」との私的な関係の飢餓状態にある、ということは事実で、それは私達の書く詩、描く絵に、必ず影響を与えているはずだ。 
 詩や絵だけが人と私的な関係を結ぶことができる、と思うべきなのか、、、それとも、私的な関係等というものは、もはや結べるはずもない、と、人はあきらめてしまう方向に行くのか、、、
私には何だかその両方が同時に起こっているような気がしてならない。
 それにしても、日本から外国へのお土産、、、ホントに何がいいんだろう? 

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