「相原求一朗展」

暮れに大川美術館から「相原求一朗展」の案内状が届いた。帯広の中札内にある「デッサン館」を訪ねたのは2000年11月末、帯広は既に雪景色だった。10年ぶりであの作品に再会できるわけで、これは楽しみだと1月半ば出かけた。
今回は求一朗の初期から中期の作品が中心で、以前見落としていたことに加えて、自分自身の、この10年のことを色々と考えさせられる旅になった。「作家の人生」ということに、昔は関心が薄い方だったが、年のせいか、最近は少し変わってきた。
彼の絵は色が美しい。白から黒へと少しづつズレていくグレーのトーンがまずしっかりとあって、そこに赤や緑、また黄色を慎ましく滑り込ませてある。山や樹々、建物など、描かれてあるものは必要最低限、伝えたかったのは空気だ、と分かる。冷たくて、澄んだ空気が独特の寂寥感を出していて、気品がある。この人と同じ資質を、ブリジストン美術館で見たレオン・スピリアールトの絵にも感じたことを思い出した。求一朗の「トア・エ・モア」や港の風景はスピリアールトにどこか似ている。
私自身は大自然の中に自分を見つけにいくことはないと思うが、だからといって、彼の作品への敬意が減じることはない。人にはそれぞれ、ふさわしい場所があるはずで、スピリアールトの絵の中にも、求一朗の絵の中にも、私は自分自身を発見する。いつか、彼の後期の代表作「十名山」にも再会したいものだ。
この展覧会は3月27日(日)まで(財)大川美術館にて(桐生市小曾根町3-69、Tel.0277-46-3300)。
大川美術館のHP
都心から桐生までは充分日帰りできる。2月〜3月、展覧会の副題「春を待ちながら」に相応しい小旅行になると思う。初めて行かれる方は、浅草、又は北千住から赤城行きの特急「りょうもう」に乗って、新桐生まで1時間半(約2500円)。新桐生からバス「桐生女子高行き」で、約13分(200円)で桐生駅北口に着く。ただし、このバスは1時間に1本なので、Web上で、時刻表を調べ、特急の時間を逆算して出発するとよい。桐生駅からの道順は、美術館HPをご参考に。少々階段がハードだが、幼稚園裏の近道が便利。

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「マラマッド短編集」

出かける時は大抵、文庫本を一冊バックに入れていく。東京の真ん中に若くもない女が一人で出かけていくのは、それだけで結構気疲れするものだ。電車の中やカフェで、ほんの一時文庫本を開き、気力を補給する必要がある時もある。何だかんだで、その時間がない日もあるのだが、本を持っているのと、いないのとでは大違いだ。そして、もしそれが「マラマッド短編集」などであれば、まさに「万全の体制」と言えるだろう。
マラマッドは1914年、N.Y. ブルックリン生まれ。両親はユダヤ系移民だ。彼の作品は、しっかりした教養のワク組みと、そこからこぼれ落ちるものへの共感を同時に感じさせる。おおよそ短編は、最初の一、二行で読者を「状況」の中に放り込めるかどうか、なのだが、マラマッドの場合も、例えば「最初の七年間」の出だしはこうだ。
 靴屋のフェルドはしきりに物思いに耽っていたが、そんな彼には無頓着に、むこうの仕事台では助手のソベルが狂ったようにがんがんとたたきつづけていた。
それからいわゆる「虫の目」と「鳥の目」の両方で対象を捉えていく。靴屋のフェルドの夢と現実。そして助手のソベルの夢と現実。両方の要(かなめ)の位置に娘のミリアムがいる。助手のソベルは短編の最後に、やはりがんがんと靴の皮をたたいているのだが、事情が判明した後では、それがまったく違った音になる。
マラマッドの文章は情に流されることなく、リアリズムに貫かれているが、人間への暖かさを失ってはいない。翻訳者の加島祥造氏は「あとがき」で、彼の本質を「虐げられた人間をして最後に人間たらしめるものへの信念」と述べられている。
加島氏の言うように、マラマッドの短編に「人間の心を支える最後の支柱」があるとしても、なにせ短いから切り取ってくる場面は限られており、その支柱は、とても象徴的に伝えられる。日々の暮らしの瑣末なことの裏に隠れている支柱を軸にして、人々の生涯が大きく転回していくのだ。
そういうわけで、マラマッド短編集(新潮文庫)—この宝物をバックに入れているとしたら、やはり「万全の体制」と言えるのではないだろうか。たとえ財布の中は万全ではないとしてもだ。
明けまして おめでとう ございます。
今年も よろしく お願いします。  

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「難波田龍起先生という方」

難波田龍起という方は、一度しかお目にかかっていないのに、何故か「先生」と呼びたい方である。1982年の初個展に、ある方の紹介でお見えになった。予想していなかったので、芳名帳を見てドキンとした。当時、私のような駆出し者の書棚にも「抽象」という白い本はあったから、わざわざの来廊に「ありがとうございます。」以外に、何と申し上げたらいいのか、分からなかった。そのような場合、正直に、素直に、という方法しか知らないので、「私の周りに居る方は抽象が多いのですが、私は『抽象』ということが、どうも本当には分からなくて、描くことができません。」と言った。すると難波田先生は、「あなたの、この絵の、ここが既に抽象、、、こっちの絵は、ここが抽象ですよ。」と、いちいち指さして教えて下さった。静かな時間が流れ、淡々とした印象だけ残してお帰りになった。
それから10年ほど経ち、私は銀座4丁目にあった日辰画廊で個展を続けていた。受付に居らしたI さんはいつもやさしくて、銀座に出る度に暖かく迎えて下さった。何度目の個展だっただろう、、言いたい放題、言い放つ、という風にして帰られた方が居なくなった後、シンとしている私に、I さんが「井上さんの絵は、日辰画廊の古くから居らっしゃるお客様に、とても好評ですよ。」と言って下さって、それから「本当にえらい方は威張ったりなんかしません。難波田龍起先生は、時々お見えになると、芳名帳に小さくお名前をお書きになり、小首を傾げて、小さな声で、『うまく書けなかった、、』とおっしゃって、お帰りになります。」と続けられた。一度きりなのに、忘れられない方のお名前が出て、昔の印象が甦った。
それから更に5年が経ち、作品が大川美術館に収蔵していただけることになって、何度か桐生に行った。大川美術館には、難波田龍起先生と、ご子息の紀夫さん、史男さんの絵のある部屋があった。そこで、龍起先生が、私が出会った82年には、深い悲しみを背負って描き続けていらしたことも知った。
難波田先生のことを思い出す度に、生涯、絵を描き続けて、かつ芸術家ぶったり威張ったりしないで、謙虚であり続ける、ということは、どういうことなのだろうか、と思う。大川美術館で見た先生の絵は、最近よく聞く「インパクト」というより、見る人と静かに出会い、様々なことを考えさせ、長く心に残る絵──そのお人柄そのものであった。

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展覧会のお知らせ

品川区のO美術館では、現在、「ゴールデン・コンペティション2010」というアクリルを素材とする作品の展覧会が行われており、「I 字鉄塔のある惑星」100号を出品しています。
よろしければ、ご覧になって下さい。大崎駅から1分。ホテルの上です。

「ゴールデンコンペティション2010」

10月23日(土)〜 28日(木)
会場:O美術館

引越しから一ヶ月経ち、やっと段ボールの山が消えました。残っていることを、とりあえず、リストにしてみたら、まだ少し時間がかかりそうです。でも、11月からは何とかアトリエに入りたいと、現在、奮闘中。これをもって11月のブログに替えさせていただきます。
この夏の暑さはどこへいってしまったのか、急に寒くなってきました。
私は炬燵を出しました。
どうぞ風邪に気をつけて下さい。

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「絵描き」

絵を描くだけでは食べていくことができないので、自分のことを「絵描き」と呼ぶ度に、チラっと躊躇が伴う。そのくせ食べるために描くことはできない。他に仕事をしながら、描き続けてきたわけで、現在の日本では、私と同じような方は沢山いらっしゃるだろう。最近は自由になる時間が増え、そのチラリとした躊躇が薄れてはきたが、まだ少しある。
何故描いているのか、ということに対する立派な理由がないことにもその原因がある。個々の画面に対しては、必然性はあるから、全力は尽くしているが、自分の心の奥の奥を考えると、何故描いているのかよく分からない。中井正一が「美学入門」で「ぬけがけ精神」ということを言っていたが、私の場合、絵に向かっている時だけ、それから自分が解放され、ごまかしの効かない道を辿っている、という感覚がある。どの道を選んだにせよ、あるところに達すれば、きっと人に伝わる、と信じる気持があって、だから苦しい。結局、元々いい加減な人間が絵を描いている時だけ少しまともになれる、ということか、、、と思うと、何だか情けないが、それが絵を続けている本当の理由かもしれない。
描き続けて20年位経った頃、大きな作品と画集や本で、家の中はどんどん狭くなっていた。そこがたぶん分かれ道だった。そこで、遠からず「住めなくなる」という点に危機感を持つべきだったのに、「描けなくなる」という点に危機感を持った。
何とかしなければ、、、と、それから土地を探し、設計をして下さる方を探し、建てて下さる会社を探し、お金を貸して下さるところも探した。どれをとってもスムースに行ったことはなく、、、でもギリギリ最後に出会いがあった。そして9月下旬に引越したのだが、なんだかんだで、分かれ道から10年経っていた。
家の1階が全てアトリエや収納庫、資料の部屋になって初めて、今、自分は「絵描き」かもしれない、と思う。少なくとも、ここは「絵描きの家」だろう。たぶん「絵描き」というのは、そう呼ぶ以外、他に呼びようがなく生きてしまう人のことだ。こうなった上は、お世話になった方々の恩に報いるためにも、ただの「絵描き」ではなく、「いい絵描き」になりたいものだ。

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「言葉と意味と状況」

「言葉」と「意味」の関係を最初に意識したのは、高校生で読んだ、レマルクの「凱旋門」だった。ジョアンが命の瀬戸際にイタリア語しか話せなくなり、ラビックが、自分がドイツ語を話していると気づく場面だ。この状況では、「言葉」が表面上の意味を失うことで、より一層伝わるものがあった。
それから何年も経って、映画「ラストタンゴ・イン・パリ」を観た。「言葉」と「意味」の関係は、「言葉から意味を奪うことでしか成立し得ない男と女」という、より先鋭化された状況で現れた。この映画はスキャンダラスな面ばかりが強調されるけれども、とてもすっきりして、切ない映画だと、私は思った。
そして 2008年、高田馬場にあるプロトシアターに、「Asia Meets Asia」(魯迅「狂人日記」)を観に行った。もうもうと砂塵の舞う舞台では、上海、香港、台北、東京から集まった俳優たちによる、四つの言葉が飛び交った。観客は、台詞の一部しか分からなかったが、虐げられた者たちの、声にならない声、意味にならない意味が、肉体から発せられる音として、強烈に伝わってきた。悲鳴、、笑い、、呻き、、囁き、、あらゆる音は、沈黙も含めて、とても抽象的に響いた。この冬、再演されるそうなので、楽しみだ。
「言葉」が言葉自体の「意味」から解放され、抽象性を増すことが、私には、「具象」が具象自体の「意味」から解放され、抽象性を増すことと、どこかで繋がっているように、思えてならない。そして、途轍もなくシビアな状況に裏打ちされている時だけ、「抽象化され、しかもリアルである」ということが可能な気がする。苛酷なものに日常的に晒されるようになって、私たちがリアルと感じられる状況が限られてきているからだろう。

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「ゴドーを待ちながら」

演劇を観る時、前もって情報を集め、予備知識を持って劇場に行く方もいらっしゃるだろうが、私は、できる限り白紙の状態で行くようにしている。それは、若い頃「冥の会」による「ゴドーを待ちながら」を観て、演劇が一つの体験であることを実感したからだ。
一幕目、私は二人の浮浪者と共に、ゴドーの登場をひたすら待った。二幕目も同じ状況が繰り返され、待ちくたびれてヘトヘトだった。そして、まさか、と思っているうちに、緞帳が降りてきて終わってしまった。他の人たちが帰っていくので、しかたなく劇場を出たものの、腑に落ちない、というか、狐につままれたような状態で、私は帰りの電車に揺られていた。
しばらくして、ふと見回すと、遅くまで仕事をしていたサラリーマンの人、OL の人が、居眠りをしたり、疲れた、虚ろな目をして、私と同じように揺られている。その時、突然、ウラジミールとエストラゴンの状況が、私たち人間の状況に重なった。そういうことか、、、私たち、皆、待っているんだ、、、と。私は、感動のあまり、夜の電車の中で涙ぐんでいた。まったく白紙の状態で客席に座ったせいで、ベケットにとっても、私は、彼の意図が最も成功した観客の一人ではなかったか、と思う。
2001年、久しぶりに「ゴドーを待ちながら」を観たくなって、世田谷パブリックシアターまで出かけた。佐藤信演出、ウラジミール、石橋蓮司。エストラゴン、柄本明。二人の芸達者な俳優のおかげで、ヒューマニストのウラジミールと、ちょっと胡散臭いエストラゴンの会話も味わい深く、以前は存在すら残っていなかったポッツォ(片桐はいり)とラッキー、ゴドーの伝言を伝える少年まで出てきて、退屈するどころか、非常に楽しんだ。しかし、一度目の、あの身体の芯を揺さぶられるような体験は味わえなかった。要するに、もっと退屈して、待ちたかった、ということだろう。
「ゴドーを待ちながら」は、観る人と、その状況によって、色んな意味を持つ。戦下のサラエヴォで上演されたことは有名だし、日本でも、繰り返し、新たな演出で演じられてきた。私自身も若い頃とは違った意味を加えている。
夏の午後遅く、植物に水をやるために庭に出る。夕方の風が吹き、草木がいっせいに揺れ動く。レモンの葉も、白山吹も、ユキヤナギも、名も知らぬ草も、、、皆揺れて、先に逝った人たちの気配を届ける。あちら側の時間が既に始まっていて、自分はただ「ゴドーを待ちながら」生きている、という感覚が迫ってくる。

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「男の子」

「ただぁーいまぁー」裏の女の子の声がする。小学校低学年位だろう。くったくのない、かわいい声で、語尾が上がる。二、三才上のお兄ちゃんは「ただぁーいま。」と語尾が下がる。帰宅して、ほっとした気持と、外であったことを自分なりに整理しようとする気持が戦っている。いきなり甘えを出すことへの照れも含まれている。この声が聞こえると、私は思わずにっこりしてしまう。
私の今住んでいるところは、「桜台」という名前に相応しく、駅までの緩やかな坂の両側に、見事な桜並木がある。満開の桜が散ると、花びらが車に吹き寄せられ、道路脇に溜まっていく。それを掬って男の子が走る。自分も花吹雪を浴び、春を惜しんでいる。
先日、この坂を登っていると、小学校2年生位の男の子に追いついた。普通に追い越す場面だったが、1本だけキバナコスモスを持っており、その茎の長さが 70cm 以上あって、ゆらゆら揺れている。「長いねえ、、、」と、つい話しかけた。「今日、僕のママの誕生日なの。」と、男の子は答えた。「ああ、そりゃあ、、、」と、胸が一杯になった。男の子の愛情表現は独特だ。このキバナコスモスのことを、お母さんは一生忘れないだろう。
男の子が大人になり、社会に出ると、やむを得ず、沢山の鎧を身につけるだろう。でも、「ただいま」と帰ってくる時、桜の下で酔っぱらう時、愛する人に花を送る時、その心の奥に「男の子」は何%か残っているのではないだろうか。
働き盛りの厳つい男性や、かくしゃくとしたご年配の方と話していて、思いがけず、その方の「男の子」のかけらがこぼれ落ちることがあると、私は何だか「会えてよかったなあ、、、」と思う。

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「巣箱」

連休の間に息子が来て、庭の招霊(おがたま)の木にかけてある、古い巣箱を修理してくれた。この春ウグイスやシジュウカラのつがいが何度も訪れ、何事か相談するように鳴き交わしていたのに、結局は飛び去ってしまった。前の家ではスズメが一度雛を孵し、こちらもとても幸せな一週間を過ごしたのに、今度はどういうわけだろう。「家賃0、敷金、礼金0なのにねえ、、、」と私がこぼすと、息子は巣箱についてインターネットで調べてくれて、入口が問題だと発見し、少し小さくしてくれたのだ。
鳥の巣穴の入口は、どうやら種類別に決まっているらしく、シジュウカラ28mm〜30mm、スズメ30mm〜40mmと厳密らしい。大きな鳥が入ってこられたら卵が危ない、と言われてみれば納得する。
最近は、年に数回しか会わなくなった息子のやさしさがうれしくて、連休の後、何とか鳥を呼び寄せようと、私は、水浴び場を作り、餌台を作って、「風呂付き、隣はスーパーだよ、、、」と、どこか遊び気分だった。
招霊の木に白い花が咲いた朝、チュチュチュチュ、、、という高い声がして、小さなメジロの雛が二羽やってきた。スズメも二羽集まって、にぎやかな合唱だ。お米があるよ、、、と言っているのか、と、微笑ましく見ていた。
その時だ。突然、大きなカラスがバッと雛の一羽をくわえて、目の前の電線へ。あっ—と見ている間に、羽を毟り、胸を啄み、頭も足も皆、食べてしまった。驚くのは、首がだらんとなってしまった雛を押さえつけているカラスに、もう片方の雛がチョン、チョンと近づいていくのだ。仲間が犠牲になっている間は安全だと知っているのか、それとも未経験で、ただ分からないのか、、、とにかく私が置いたお米に誘われてきたメジロの雛の存在が、わずか2〜3分の間に、跡形もなく消えた。
そして、とてつもなく明るい午後がきた。

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「庭石」

気がつくと、家のあちこちに石がある。海や川で拾ってきた丸い小石を、窓枠に並べたり、ガラスの器に入れたり。横に草花でも置けば、石はいつの間にか、動かせないものになっている。
鉱物学ではちゃんと名前があるのだろうが、浅学の私には分からない。キメの細かいツルツルの黒い石、目の荒いザラザラした白い石、赤茶が滲んだ生成り色の石、くもの巣状に筋の入った鉄色の石。どこで生まれ、どのような遍歴を経て、ここに至ったのか、、、丸いのも、平たいのも、握っていると、手のひらから石の経てきた時間が伝わってくる。彫刻をやる人から「石は生きている。」と聞けば、そうかもしれないと思う。
庭に大きな石のある家で育った。昔は造園というと、まず石を入れたので、広い庭でもなかったのに、いくつか入っていて、その上でよく遊んだ。日差しを吸い込んだ石に座り込んで、おしりがほんわり暖かくなる感触などは、ずっと覚えているものだ。
庭石は、新しい間は、落ち着きとはほど遠い。日に照らされ、雨に濡れ、雪に埋もれて、そのうち、ずっとそこにあったかのように、周囲に溶け込んでくる。それからが価値だ。造園に石が必要だったのは、造形的な理由、草木に対する石肌というマチエールの理由もあっただろうが、石の持つ長い時間のせいでもあっただろう。岩盤が岩になり、そして石となったものが、しだいにくだけて小石、砂利、最後に砂になる。石の持つ、気の遠くなるような時間を傍らに置き、人の持つ、限られた時間を思うと、その静かな対比が、空を、植物を、水を、より美しく見せていたのだろう。
庭石─私の隠遁生活に欲しいものの一つ。

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