「倶利伽羅峠」

1枚の写真がある。春、一面の菜の花畑を、若い母と3才の私が行く。写真に凝っていた父が、自慢のライカで撮った倶利伽羅峠の写真だ。
倶利伽羅峠(くりからとうげ)は古戦場で、富山県と石川県の境にある。その昔、源義仲が平家軍に夜討ちをかけて壊滅させた、ということらしいが、今では片道、約4km の家族向けハイキングコースになっている。春の一日、親子3人でそこを歩いたことが、両親にとってはいい思い出の一つだったのだろう。繰り返して聞かされたが、私自身はすっかり忘れている。
3才の私は歩いているうちに足が痛くなり、「抱っこ!」と言いたい。でも両親のうちの片方が「昔、あるところにおじいさんとおばあさんが居ました、、、」と始める。「、、うん、、」私は仕方なく歩き続ける。しばらくすると、また「抱っこ!」と泣き出しそうになる。すかさずもう片方が「すると、川の上の方から大きな桃が、どんぶらこっこ、すっこっこ、と流れてきました。」と言う。「、、うん、、」と、私はまた仕方なく歩き続ける。そうやって3才の私は倶利伽羅峠を歩き通し、両親は、次から次へとお話をすることで、抱っこをしないで助かった、、、と、後に何度も聞かされた。私はよほど「物語」が好きだったのだろう。
このことを思い出したのは、先日、水野るり子さんが送って下さった同人誌「二兎」に、徳弘康代さんが「二つ月の二つ兎」と題する詩を載せていらして、「、、、こんなふうに物語は終わった/そんなふうに物語ははじまるはずだ」と書いていらしたからだ。
今は「物語」を語ることが難しくなった。ストーリーそのものが複雑になり、うらのうらのうらが読まれるようになり、「物語」は分断され、錯綜し、自虐的になり、、、惨憺たる有様だ。
でも人は「物語」を求める。数学の好きな青年は、「自然数」に0と負の整数を加えて、いわゆる「整数」ができ、そして小数値を加えて「実数」になり、「有理数」と「無理数」そして「虚数」と、0の周囲には無数の数字が銀河系のように広がっている、と物語る。文学の好きな少女は、ペパーミントの青いお茶に松の実を入れる、トルコの不思議な飲み物と、オルハン・パムクについて物語る。以前、「『物語』という言葉は嫌いだ。」と公言する詩人に会ったことがあるが、それは「好きだ。」と同義語のように聞こえる、と私は秘かに思った。
「どんぶらこっこ、すっこっこ、、、」と語られる物語は、もはや形式だけになっているのか、それもないのか、現代に残っているのは「物語」の気配だけだ。
でも、「昔々、おじいさんとおばあさんが居ました。」と誰かがもし言ってくれたら、私は今も「、、うん、、」と頷いて、歩き続けられるような気がする。

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「石油」  犬塚 堯

二月は忙しかった。人間、忙しいと、考えることが近視眼的になっていけない。犬塚堯の詩を思い出す。いずれは石油になる身なのだから、とりあえず、大事なことだけでいいな、、、と思い直す。
 「石油」           犬塚 堯 (河畔の書・現代詩文庫82)
驚くのは
僕らの五体が石油になるということだ
何十万年もあとに
思念が油の中で揺れるというのだ
けものの四肢は
砂にとけて成金草の根となるそうだ
突然の終末がくるとすれば
その日の最期の宴会がそのまま
花の間を通る運河の中を流れてゆく
僕が新しい空で
小夜啼鳥の眼となるなら
唐黍の輝きから始まる風景に声を上げるだろう
驚くのは
炎の中に出入りする気楽な官能が
垂直に立昇る次代の神の
胸飾りとなっていることだ
急速に滅びた民族の栄光は
半島となって突き出し
実現しなかった時代は
終日風の中で荒れまくる
驚くのは
道徳を仕上げて消えた王朝が
地下になお一竿の旗をもつことだ
そのとき僕は
湧き立つ新平野の秩序に入ってゆけるか
はじめて見る事実と虚偽を
直ちに区別できるか
それから
ずっと未来の鳥の墜落
あちこちで起る山火事
旧世紀が終わるとすぐ生れ出る新型のレモン
これらの出来事に
あらためてわななく感情はどれか
莨色の地層をかけのぼる僕は
たとえ油となっても
今より思慮深い力をもっているか

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「ウィリアム・ケントリッジ展」

竹橋の国立近代美術館で、今、南アフリカの作家、ウィリアム・ケントリッジの、日本で初めての大規模な展覧会が開かれている。
私がケントリッジを知ったのは、2005年、ベルリン、グッゲンハイムでの展覧会直後で、手に入ったドローイングの画集に衝撃を受けた。「動くドローイング」としてのアニメーションを知ったのは、かなり後だ。ドローイングとして見ても、そのストーリー性は明らかで、「辛さ」と「悲しみ」と「惨たらしさ」の奥に、それでも、この人は人間の知性と美術の力を信じている、、、と思わせるものがあった。それ以来、ウィリアム・ケントリッジは、「そっちの方向へ行けば、厳然として彼が居る。」という意味で、自分の方向を定めてくれる、大事な一人になった。
しかし5年前、彼の大規模な展覧会が開かれることは、戦後、ナチズムへの反省が徹底的に行われたドイツでなら可能でも、日本では無理じゃないか、と思っていたので、今回の思いがけない実現は、本当にうれしい。5年の歳月と状況の変化、そして実現のため尽力された方々の努力を思う。
私は彼がことさら「政治的」だとは思わない。彼の作品を見ていると、「政治的に無色」なんてことはあり得なくて、「無色であろうとする政治的立場」は、美術や文学の力を弱めてきたのではないか、という気持になる。彼の作品は、「政治的」というより、「彼の個人的な悲しみが、個人を越えた集団の悲しみにしっかりと繋がり、虐げられた人間全ての悲しみとして伝わってくる」と、受けとる方がよい。事実、彼の悲しみは身体のあらゆる場所から溢れ出し、部屋中を満たし、街中を満たしていく。彼の描くものは、ただのコップでさえ、とてつもなく「悲しい」し、彼のように「辛く」野原を描く人を見たことがない。
今回、私は新たに彼のアニメーション・フィルム「影の行進」に魅了された。影絵に使われたペープサートは、よく見ると巧みに作られてはいるが、素朴で懐かしい感じも残してあり、どこかタデウシュ・カントルを思い出させる。「ケントリッジ」という名前は「カントルの息子」という意味だそうで、偶然にせよ、そのことは彼の意識に入っていたんじゃないかな、、と想像する。「コメディーを目指してきた。」という彼の言葉も、「笑い」と「涙」と「悲鳴」の間で創造する演劇人の姿勢を感じさせる。その三つの境界線は今やないに等しく、「影の行進」は、どういう形にせよ、全ての人間が参加して、進行中だ。
会場には若い人が多かった。アニメーションの近くで育った、若い人達への影響は量り知れないだろう。会期最終日まで、あと2週間。その後は広島現代美術館。日本の美術にとって、まさに「静かな事件」。街にポスターの類は全く見かけないが、見逃すのはもったいない。ぜひ!

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「菅原健彦展」

絵に対して、もっとニュートラルな視点を持てればいいのだが、何年も描いているうちに、「他人の作品を好きだ、、、と思うのは、そこに、今、自分が必要としているものがあるから。」ということになってしまった。自分の奥深く眠っているものが触発されて、迸り出てくるような気持になることが、作品と「出会う」ということになってしまった。
12月半ば、新聞に載った小さな写真に、「あっ、キーファーみたい。行かなくっちゃ、、、」と思い、何とか時間を見つけて練馬区立美術館まで出かけた。菅原健彦という人についての予備知識がなかったので、日本にもこういう人が居たんだ、、、と驚いた。
市街地、工場現場、操車場、首都圏境、ジャングルジム、、、彼の東京時代の作品はどれも好きだ。未来の見えない、孤独な人間にとって、都市は、巨大で、暴力的で、無惨なものだ。彼には描きたいものが見えている。脱帽だ。
ところが1995年、1年間のドイツ留学を経て、彼はガラっと変わる。何が起こったんだろう。山梨を経て滋賀の山へ移り住み、樹木と自然風景を水墨画で書き始める。「雲水峡」、「淡墨桜」、、、迫力ある筆勢が見事だと思わないわけではない。しかし、何か割り切れない。題材や手法ということではなく、もっと深いところで、同じ人とは思えないのだ。感性を剥き出しにして、東京をほっつき歩いていた反骨の人にとって、「日本画」というジャンルは狭かったのではなかったか、、、外国へ行き、日本というものを強烈に意識して、彼は日本画が背負ってきたものを背負ってしまったのか。
そして最近の「雲龍雷龍」に至るわけだが、こうなると「ごめんなさい、菅原さん、、、あなたが分からない、、、」と言うしかない。私が今、求めていないせいか、伝わってこないのだ。
1989年〜94年、菅原健彦のこの6年間の絵に、昨年末ギリギリで「出会えた」。それで充分だ。

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「カレンダー」

毎年12月になると、私は翌年のカレンダーを買いに街に出る。カレンダーは、頂いたりすることもあるのだが、余程気にいったものでない限り、自分で選びにいく。各月ごとに予定の書き込みができる、余白のあるもの、月の満ち欠けの載っているもの、一年全体を見渡せる大きなもの、机の上に置くかわいいもの、毎年、選ぶものはほぼ決まっている。
いつの間にか生活が単純になってしまった私にも、新年は訪れ、仕切り直しの機会が与えられる。ありがたいことだ。来年はどんな一年になるだろう。今年は、仮住まいに暮らしたせいか、忙しく、やっとのことで乗り切った。来年はまた引越しだなあ、、と、緊張感がある。
来年は1月、待っていたウイリアム・ケントリッジが、いよいよ東京に来る。彼は、あるジャンルに当てはめられない作家、「ケントリッジ」というジャンルを創った作家だ。作家というのは、本来、そういうものなのだ。そして2月、「長谷川等伯・没後四百年展」もある。「『想い」を外ではなく、あくまでも内に向かわせる、わたしたちの『強み』」を、もう一度思い出さなければ、、、「外に溢れ出す『想い』」を磨いてきた人たち」はスゴイから。
12月末、私は新しいカレンダーを、アトリエに、食堂に、そして私と社会を繋ぐ狭い通路に、かけるだろう。そこで紡がれる小さな物語が、通路を通って、大きな物語に繋がっていくと信じて。
新しい年の新しい時間、それを手に入れようと、私は師走の街に出ていく。

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「完成、の後」

130号の絵が2枚できた。 とは言っても、今は終わったばかりで、その気になっているだけで、完成直後の「自分」はどうも信じられない。私はむしろ「時間」を信じている。少なくとも1ヶ月、本当は何年か経って、やはり「できてる、、、」ということになると、それは確実にできている。その一瞬の幸福はちょっとたとえようもない。逆に「これはヤバイ、、、」となれば、没にするか、やり直すしかない。ダメなものはダメだ。
絵描きのMさんとはプライベードな付き合いはしていないが、お互い展覧会だけは欠かさないで続いてきた間柄だ。抽象の、いい仕事をする人で、尊敬している。彼女が「若い時の絵をなかなか越えられないのよねぇ、、、久しぶりで見ると『好みだわぁ─』と思う。」と言い、とても愉快だった。
若い時の絵は、「技術」は足りないのに「思い」は強く、間違いなく自分の本質に訴えてくる。その時期に自分の心の中をあちこちうろついて、どこまで掘っても尽きぬ鉱脈を見つけておかないと後が大変だ。若い時、いい絵を描いていた人が、表面こそだんだん手慣れてくるものの、中味はリスクのない、「心の震え」の感じられない状態になってしまう例もある。年と共に誰も何も言わなくなり、自分が自分に対して一番厳しい批評家にならない限り、「一応はできた。」という段階に留まる。
だから絵が仕上がった後しばらくは、私はどうも落ち着かないし、まるで自分のしっぽに噛み付いてうなっている、機嫌の悪いノラ公のような状態だ。

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「自転車」

子供の頃、歩いて通える普通の小学校ではなく、電車通学をしなければならない、山の上の小学校に入学したのは、恐らく母の教育方針だ。近所に同じ学校の子が居なかったせいで、私は、よく自転車を乗り回し、あちこち、ほっつき歩いた。家から少し離れた、川沿いの豚小屋は、ひどい臭いがして、大きな豚も怖かったのに、独特の魅力があって、こっそり通っていた。そこで数匹の野犬に追いかけられた。あれほど必死に自転車を漕いだことはなく、チェーンが外れなくて本当によかった、と今も思う。
当時は戦後、日本が復興していく時期で、高架線が建設され、「産業道路」と呼ばれていた。トラックの通る大きな道路の向こう側は、子供には未知の場所だった。帰れるかどうか不安なまま、ある日、それを越え、以後、何度も出かけて距離を伸ばしていった。そして突然、カラーの花が群生する沼地に出た。この世のものとは思えない「白い風景」を、私は息を呑んで見つめていた。
見知らぬ世界の中へ迷い込んで、僅かな手がかりを頼りに、また見慣れた世界にもどってくる。その時のほっとした気持ち、少しがっかりした気持ちは、子供にとって、「探検」と呼ぶに相応しいものだった。私は孤独で、地平線の向こうに何かを求めていたんだと思う。
美術大学に行かなかったので、美術教育というものも、ほとんど受けていないのだが、自転車の乗り方に限って考えてみても、「乗り方」を教えられることが重要かどうかは人による。決められたルートを速く、見事に走ることが大事な競技もあれば、間違ったり迷ったりしながらも、新しいルートを発見する喜びもある。後ろ向きに乗ったり、車輪の大きさを変えたり、まったく新しい自転車の乗り方を考え出す人だっている。決められたルートの中で自分のオリジナリティーを出すのは大変なことだろうし、新しいルートの魅力を普遍的なものに繋げていくのも、新しい乗り方を発明するのも、やはり大変なことだ。結局、どの方法が自分に向いているか、ということだけで、困難は変わらない。
先週出かけた自転車の旅で、私は、最近珍しくなったカンナに出会った。10年ぶりだった。2m ほどの、赤と黄色のカンナが、秋の日差しを浴びて、すっくりと立っていた。

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「蝉」

京都の貴船神社に行くには叡山電鉄終点の鞍馬駅から由岐神社、鞍馬寺と、森の中の坂道を登っていく。いわゆる「つづら折」から「木の根道」と呼ばれるところだ。深い杉木立の下は夏でもひんやりとして、蝉の声も都会で聞くのとは異なる。樹木の高さがあるので、蝉が遠いというせいもあるが、森が蝉の声を吸い込むというか、あらゆる方向の音が互いに打ち消し合い、やわらかくなって、「蝉しぐれ」という名に相応しい音になる。有名な芭蕉の句の「岩に染み入る 蝉の声」が「閑さ」と結びつく謂れを実感したのは、その「木の根道」だった。
今年の夏は蝉の声が特に耳についた。隣の家が長く空き家で、枇杷と蘇鉄が6mを越えている。そこに大量の蝉がいる。8月半ば、アブラ蝉が「ジー」と鳴き始め、「ジリジリジリ—」とひとしきり、やがて大合唱となった。その数が尋常ではない。毎日の絶え間ない音は忍耐が要る。
     「熱き茶を 息つぎ飲めり 朝の蝉」(秋桜子)
そんな悠長なことは言っていられない。我が家の庭はそこら中、蝉の抜け殻だらけの上に、最期に方向感覚が衰えてしまった蝉がガラス戸に激突して果てる。羽音をたてて、かなりのスピードで飛んでくるので、怖い。
昨年の夏は日本各地で35度、38度と、記録的な暑さだったが、今年は長雨に低温が重なり、本格的な暑さは20日過ぎではなかったか‥‥月末は台風が来てグッと涼しくなったから、暑いと言えるのは1週間位のはずなのに、私は暑さを堪能したように思っていて、それはたぶん蝉のせいだ。アブラ蝉は6年も地下にいて、成虫になって僅か2週間〜1ヶ月の命だそうだ。声に含まれた「必死さ」が暑さを倍増させていたのだろう。
8月もあと少しの頃、アブラ蝉にミンミン蝉が加わり、同じ頃ツクツクボウシも鳴き出した。そして30日の台風と共に、あれだけ居た蝉が居なくなった。あっけない夏の終わりだった。終わってみると、蝉の存在は小さくて大きい。
「片歌紀行」(工藤正廣・未知谷)から建部綾足(タケベ アヤタリ)の21才の句。
     「木は蝉に もたれか丶りて 夕日かな」

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「母と娘」

あと1ヶ月半で89才になろうとする母の手術に付き添った。かすかな点滴の音が規則正しく響く病室で、長い間の、母と私の葛藤を思った。
母は根っからの「女」で、弟には恋人のような感情を抱き、私には、どこか女としての対抗意識を持っていた。よく口にした「お宅は...」という言葉は、私を傷つけた。私の方も、母に会うと、懐かしいような、うざったいような感情を持て余し、つい、そっけない態度で傷つけてしまうのだった。
お互いのギクシャクとした関係は、母の認知症が始まったとたん、あっけなく終わりを告げた。全てが遠い出来事になり、母はようやく得た「私の娘としての安らかな場所」に、しごく満足しているように見える。
点滴の管をつけ、深く眠っている母を見ていると、「自分」という不可思議な生き物の内面に改めて驚く。母の感受性も、夢も受け継ぎ、その批判さえも、そこを出発点とせざるを得ないのに、何をムキになって守ろうとしていたのか...
世界文学のフロンティア1巻「旅のはざま」(今福龍太編)の中にトリン・T・ミンハ「私の外の他者/私の内の他者」(竹内和子訳)が載っている。ミンハは「アイデンティティというのはたいていの場合、他者化のプロセスのなかで形づくられる」と言っている。そしてヴェトナム人作家で詩人のパム・ヴァン・キィーの文章が引用されているのだが、キィーは、母に対するこの不思議な感覚を実にうまく表現している。
母。解き放たれた言葉、正確な輪郭を備えた言葉。私を押しつぶすけれども、完全に覆いかぶさりはせず、また、私のパリでの存在を証明しはしないもの。すでに決定が、私の内部で固まっている...と私のあいだのこの秘かな、控えめな、曖昧な、虚しい夢のような、澱んだもやのような隙間。何も明らかではなく、意見の違いが重なり、苦い思いが尾を引くところ。そこにはどんな草も生えない。ぼんやりとした痛みを感じさせる鎖が私の手首で跳ねて、私の胸にまとわりつき、私の呼吸、私の血液の流れを止めようとする。...ヴァンサンの森で私は海外電報をまた読む。が近くにいるような気がする。私は彼女をそばに引き寄せようとする。しかし彼女はまた遠のいていく。もうすっかり彼女のことを忘れてしまったから、命のために彼女と結びつく度合いが少なくなったというのか。なぜ彼女を私から隠すのか。彼女は血を流しながら私を分娩した。彼女のものではない一本の髪さえも、私は引き抜くことができない。

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「具沢山のスープ」

もう半年前になる。引越した翌日、まだ家の中に段ボールが積み上げてあった。近くのスーパーで材料を揃え、まず、大鍋一杯のスープを作った。やり方はだんだん簡単になり、正式なものではないと思う。
にんにくを刻み、玉ねぎを少し丁寧に炒め、ローストした肉と一緒にして、水とブイヨンをぶち込む。じゃが芋、人参、セロリ、ローリエと共にコトコト煮るだけ、、、もちろんアクはとる。お酒を入れ、味つけをしたら、仕上げに茹でたブロッコリーを入れて、パセリをふる。
誰でも作る、このようなスープを、これまで何度作ってきたことか、、、飲むとお腹がほっとして、とりあえずの体制ができる。引越しの時も、「3トン積みのトラック5台分の荷物、、、ということは15トンかぁ、、、」と、あきれながら段ボールを開け始め、接着剤で手をガサガサにしつつも開け続けた。そして、このスープを飲み続けた。肉と野菜のエキスが緊張した身体に染み渡り、「大丈夫、ここでもやれる。」と思った。
世の中には、それこそ大変な重荷を背負っている方もいらっしゃるから、私の状況など大したことはない。しかし、人にはそれぞれ、その重さが本人にしか分からない荷物もあるのだ。夕暮れの闇が深くなる時、食堂の椅子に何時間も座っていることに気づいて、愕然としたことがある。そんな時、私はのろのろと具沢山のスープを作り始める。
若い時、人は自分の限界になかなか気づかないものだ。年をとるにつれ、自分の体力、経済力、能力の限界に突き当たる。克服できるのなら「限界」とは言わない。どうしようもない、と思い知り、それからが次の段階だ。では、その中でどうする?体力、経済力、能力がなかったために、一層見えてくるものはないか、出会える人はいないか。どんな経験にも、まったく別の側面はあるから、現在の「意気沮喪状態」を脱し、いわゆる「最善のことをする勇気」を持たねばならない。だから具沢山のスープを食べる。
梅雨の時期、あなたもスープを作りませんか?

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