「母と娘」

あと1ヶ月半で89才になろうとする母の手術に付き添った。かすかな点滴の音が規則正しく響く病室で、長い間の、母と私の葛藤を思った。
母は根っからの「女」で、弟には恋人のような感情を抱き、私には、どこか女としての対抗意識を持っていた。よく口にした「お宅は...」という言葉は、私を傷つけた。私の方も、母に会うと、懐かしいような、うざったいような感情を持て余し、つい、そっけない態度で傷つけてしまうのだった。
お互いのギクシャクとした関係は、母の認知症が始まったとたん、あっけなく終わりを告げた。全てが遠い出来事になり、母はようやく得た「私の娘としての安らかな場所」に、しごく満足しているように見える。
点滴の管をつけ、深く眠っている母を見ていると、「自分」という不可思議な生き物の内面に改めて驚く。母の感受性も、夢も受け継ぎ、その批判さえも、そこを出発点とせざるを得ないのに、何をムキになって守ろうとしていたのか...
世界文学のフロンティア1巻「旅のはざま」(今福龍太編)の中にトリン・T・ミンハ「私の外の他者/私の内の他者」(竹内和子訳)が載っている。ミンハは「アイデンティティというのはたいていの場合、他者化のプロセスのなかで形づくられる」と言っている。そしてヴェトナム人作家で詩人のパム・ヴァン・キィーの文章が引用されているのだが、キィーは、母に対するこの不思議な感覚を実にうまく表現している。
母。解き放たれた言葉、正確な輪郭を備えた言葉。私を押しつぶすけれども、完全に覆いかぶさりはせず、また、私のパリでの存在を証明しはしないもの。すでに決定が、私の内部で固まっている...と私のあいだのこの秘かな、控えめな、曖昧な、虚しい夢のような、澱んだもやのような隙間。何も明らかではなく、意見の違いが重なり、苦い思いが尾を引くところ。そこにはどんな草も生えない。ぼんやりとした痛みを感じさせる鎖が私の手首で跳ねて、私の胸にまとわりつき、私の呼吸、私の血液の流れを止めようとする。...ヴァンサンの森で私は海外電報をまた読む。が近くにいるような気がする。私は彼女をそばに引き寄せようとする。しかし彼女はまた遠のいていく。もうすっかり彼女のことを忘れてしまったから、命のために彼女と結びつく度合いが少なくなったというのか。なぜ彼女を私から隠すのか。彼女は血を流しながら私を分娩した。彼女のものではない一本の髪さえも、私は引き抜くことができない。

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「具沢山のスープ」

もう半年前になる。引越した翌日、まだ家の中に段ボールが積み上げてあった。近くのスーパーで材料を揃え、まず、大鍋一杯のスープを作った。やり方はだんだん簡単になり、正式なものではないと思う。
にんにくを刻み、玉ねぎを少し丁寧に炒め、ローストした肉と一緒にして、水とブイヨンをぶち込む。じゃが芋、人参、セロリ、ローリエと共にコトコト煮るだけ、、、もちろんアクはとる。お酒を入れ、味つけをしたら、仕上げに茹でたブロッコリーを入れて、パセリをふる。
誰でも作る、このようなスープを、これまで何度作ってきたことか、、、飲むとお腹がほっとして、とりあえずの体制ができる。引越しの時も、「3トン積みのトラック5台分の荷物、、、ということは15トンかぁ、、、」と、あきれながら段ボールを開け始め、接着剤で手をガサガサにしつつも開け続けた。そして、このスープを飲み続けた。肉と野菜のエキスが緊張した身体に染み渡り、「大丈夫、ここでもやれる。」と思った。
世の中には、それこそ大変な重荷を背負っている方もいらっしゃるから、私の状況など大したことはない。しかし、人にはそれぞれ、その重さが本人にしか分からない荷物もあるのだ。夕暮れの闇が深くなる時、食堂の椅子に何時間も座っていることに気づいて、愕然としたことがある。そんな時、私はのろのろと具沢山のスープを作り始める。
若い時、人は自分の限界になかなか気づかないものだ。年をとるにつれ、自分の体力、経済力、能力の限界に突き当たる。克服できるのなら「限界」とは言わない。どうしようもない、と思い知り、それからが次の段階だ。では、その中でどうする?体力、経済力、能力がなかったために、一層見えてくるものはないか、出会える人はいないか。どんな経験にも、まったく別の側面はあるから、現在の「意気沮喪状態」を脱し、いわゆる「最善のことをする勇気」を持たねばならない。だから具沢山のスープを食べる。
梅雨の時期、あなたもスープを作りませんか?

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「白山吹」

白山吹が散った。四枚の花びらが風に消えた後、対になった葉と、出来たての青い実、そして冬を越した黒い実が残った。四つ集まった、艶やかな黒は、全てが白茶けた冬に宝石のようだった。花で美しく、実で美しい。この花は余程心掛けがいいのだろう。
佐野洋子著「役に立たない日々」を読んだ。痛快で、爆笑し、やがてシンと考えさせられる。 感性の鋭い人ほど年をとっていくことは大変だ。その人が本来持っていた「美学」に逆行して「老い」は現れる。何とか折り合いをつけなければならない。白山吹のようにハラハラと散るのは難しい。
そう言えば、ルキノ・ヴィスコンティの「家族の肖像」は、「死」を描いて秀逸だった。ある日、乱暴に侵入してくる迷惑な存在、仕方なく受容し、愛し、やがて共に生きるものとしての「死」。
ああ、佐野洋子さん、私はイングリッシュ・グリーンのジャガーを買うことはできないよ。「役に立たない日々」ならぬ「役に立たないもの」、大量の作品を、どのように収めて死のうか、と日々考える。私は白山吹のように、やさしく咲けなかった。せめて黒い実を残せたら、と思うが、どうだろうか、、、
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今、展覧会中です。遠い方には遠慮してご案内を差し上げていません。でも大きな絵を展示する機会は限られているので、よかったら足を運んで下さい。

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個展のご案内

武蔵野の雑木林に立つ、プラネタリウムのような画廊がブロッケンです。 ハードな、コンクリートの空間に、鉛筆の繊細さが合うような気がして、久しぶりに「伝説の森で」(1992)を展示します。 ポーランドの裸木の群れ、「かれらのなかに土があった」(2004) を共に展示しますが、二つの作品は、制作時期に12年の隔たりがあるだけでなく、同じ樹木を扱っていながら、まるで違っています。 二つを見比べて、私自身も、自分にとって、樹木とは何だったのか、と考え直すつもりです。 ご覧になっていただければと、ご案内申し上げます。

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「 伝説の森で」1992 200cm×160cm 紙に鉛筆、アクリル、木炭


井上 直展 ”Pencil Works & Now”
5月30日(土)~6月7(日)
12:00〜19:00
ギャラリーブロッケン
〒184-0044 小金井市本町3-4-35 ☎042-381-2723 
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郊外なので、何かのついで、というわけにはまいりません。( 駅から徒歩12~14分。駅前から本町2丁目までバスがあります。 ) ゆっくり半日、と思って、出かけていただければ、と存じます。 私は火、木、土、日の午後、在廊する予定です。

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「職人さん達」

一般に「職人」と呼ばれる人達は、頑固ではあるが、実直であり、独特の潔さを持っていることが多い。 栃木の電工さんの間に残る、「風呂屋の財産」、「菜っ葉の肥やし」は、いつの間にか我が家に根付いた言葉だ。 それぞれ「湯(言う)だけ」、「肥え(声)だけ」の掛け合わせで、品はよくないが、効き目はある。 家族の中に「実」を伴わない言葉を恥と思う感覚ができる。
私の知っている大工さんは、70過ぎの方だが、ほとんどお喋りにならない。 朝、時間どおりにいらして、挨拶もそこそこに仕事を始められる。 ご自分の脚立、道具、外の履物、中の履物、全て持参で、こちらの物を出しておいても、お使いにならない。 お昼には、ポット型のお弁当を出して、暖かいお味噌汁からデザートまで、ゆっくり召し上がる。 休憩の時はカセットで民謡をかけ、寛いでおられる。 夕方にはノルマをちゃんと終え、自分の出したゴミを片付けてお帰りになる。 毎日、淡々とペースを守り、完全に自立していらっしゃる。
以前、資金不足という、やむを得ない事情から、職人さん達の間に入れてもらい、ペンキ塗りをさせてもらった。 水性ペンキならアクリルと似ている、と思ったが、なかなかどうして、、、まず缶が開かない。 マイナスドライバーでも釘抜きでもビクともしない。 仕方なく、例の大工さんに開けていただいた。 甚だ面目ない。 大工さんはバールという棒状の金梃子で、缶を回しながら開けて下さった。 「よく混ぜてネ。」とまで言われてしまった。
「養生」と呼ばれるマスキングをやって、液垂れしないよう、伸びやかさを失わないよう塗っていると、楽しかった。 時間に比例して仕事が進むのがいい。 僅か一週間の経験だったが、やってよかった。 そして「プロの仕事」を見せつけられた。 さすがだ、、、と思うが、彼らにとっては当然のことだ。 artist と artisan、重なるところもあり、違うところもある。 色々と考えさせられた。
職人さん達には何か言う必要はない。 丁寧に一番茶を入れれば分かって下さるし、こちらが仕事をしていれば、しやすいように配慮して下さる。 仕事がのろい分、夜遅くまでやっていると、黙って作業灯を点けて帰って下さる。 外の戸袋を塗っていると、何度も車を入れ直し、できるだけ広いスペースを空けて下さる。 やったことで認められるしかないので、こちらもがんばった。 しかし、所詮、俄仕立てのペンキ屋さんだ。 ある時、塗ったペンキの跡をじっと見られ、何とも居心地悪く、「どう、、で、、しょう、、か、、」と、つい言ってしまった。 やゝ間があって、返ってきた答えは、「暗くて分かんねえ、、、」

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追悼ー大川栄二館長のこと

あれは1996 年 2 月のことで、桐生の大川美術館から、いきなりのお電話だった。私は不覚にも、その美術館の存在を知らなかった。「大川だけどね。今『超女流展』というものを企画していて、20名か10名かで迷っている。10名なら、あなたは入らない。」 そのストレートさに驚いた。 「はあ、、、」と言う以外、答えようもない。
その方が絵を見て変わられた。 「井上 直は下手やなあ、、、だが、いい絵だ。」 
それからは、ずっと、幸福なお付き合いをさせていただいた。 桐生に伺うと、館長室のソファーにもたれ、胃の辺りを押さえながら、これだけは言い残しておく、、、という風に始められる。 でも、だんだん調子が上がってきて、生き生きとした表情になっていらっしゃる。 「有名になろうとするなよ。 うまくなろうとするなよ。 何と言っても、絵は心だから、、、」お話は3時間〜4時間に及ぶこともあった。
私のような無名の作家の絵を、常設に加えて下さり、ご自身も、いつも見て下さったんだと思う。 「使者を待つ森」という、その絵は、自分の心をただ素朴に描いただけの世界だったのに、それを、そのまま受け取ってもらえた、という経験は、私の中の迷いや自信のなさを消した。 有名にならなくてもいいのだから、気が楽になった。 もう少し、うまくはなりたかったが、「心」あっての「技術」であって、逆ではないと思うようになった。
それまでずっと、毎日の現代日本美術展に出していたので、作品の「同時代性」ということを、及ばずながら、意識していた。 しかし、大川美術館を知ってからは、「時代を越えて残るもの」ということも、意識するようになった。
大川館長は私にとって、一人の人というよりも、絵の好きな人達の眼と心を代表する存在であった。 あの方達が居て下さる限り、私は描いていける、と思った。
最後にお会いしたのは2007年秋、館長室からご自宅にもどられるところに、偶然出くわした。 「あーあんたには会いたくなかった、、、」「はあ、、、」やはり何も言えなかった。
後に奥様から「あれは元気な姿で会いたかった、という意味です。」と、お便りを頂いた。
人は出会ったように別れるのだろうか。 あふれるようなロマンを持っていらしたので、荒々しい言葉でバランスをとっておられたのか。
館長が亡くなられたのは、昨年12月5日。 いかなるご縁か、私の生まれた日だった。

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The Clear Landscape ー透明な風景ー

ギャラリーQ のグループ展に参加します。ぜひご覧になって下さい。
80年代前半に個展をさせていただいたギャラリーQ の上田さんに、昨年5月の個展で再会し、以後、マイアミでのアートフェアー、北京でのオークションと、お世話になった。今回は、若い作家たちと一緒で、何だかうれしい。 因に、上田雄三さんは、あの石田徹也展を最初に企画なさった方です。
ー透明な風景ー
村瀬都思、小川奈々誉、米岡響子、井上 直
2009年2月16日(月)〜28日(土)
11:00〜19:00(最終日 17:00)
Opening Reception: 2月16日(月)18:00〜
                       画廊企画

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「引越し」

新年早々引越しだ。 壁や棚から見慣れたものが消え、ダンボールが積まれていくにつれ、ここでの暮らしが急速に遠のいていく。 本と作品が増えすぎたのだし、引越しはやむを得ないと、分かってはいるのだが、何か大きな間違いを犯しているような気がする。 多摩川に近い、この小さな家に、私と私の家族は、約30年暮らした。 たまたま移り住んだ土地だったが、予想以上に深く根を張ってしまい、今や、断ち切る以外、どうしようもなくなっている。
この秋、読んだ、W.G.ゼーバルト「移民たち」(白水社・鈴木仁子訳)には、「すべてを壊しても記憶は残る」とあった。 過去の記憶の細部が、蜘蛛の巣を思わせる繊細さで描かれており、そこに分け入って、ついに絡めとられてしまった蝶を、連想させるような小説だった。 最も未来について考えなければならない、引越し直前に、どうしてそんな小説を読む気になったのか、、、
先週、私は古い手紙を整理した。 新しく住む家の電話工事を予約した。 既に「過去」と「未来」の中継点に来ているのに、ともすると「過去」に引き戻されそうになるので、最近の私は、なるべく機械的に、と心掛けて、ダンボールを詰めている。

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「冬蒲団」

初冬の暖かい日には、ふと、子供の頃、母がよく蒲団を作っていたことを思い出す。 その頃の庶民の家庭には、まだ羽蒲団などというものはなく、冬の蒲団と言えば、「木棉わた」が当り前だった。 古いわたを蒲団屋に頼んで打ち直し、それが薄く積まれて戻ってくると、母は決まって近所のおばあさんに来てもらうのだった。 
朝から二人は縁側に座って、世間話をしながら蒲団の側(かわ)を縫う。 表には、大抵、母の古い着物が使われて、違った柄があちこち縫い合わせてあった。 「わた埃を吸うから、あっち行ってらっしゃい。」と言われながら、私は縁側の隅に座って、二人の話を聞いていた。 おばあさんが、お嫁さんに遠慮しいしい暮らしている話をしたり、母が、引揚げの時死んだ、姉の話をしたり、、、そのうちに、いつの間にか蒲団の側は縫い上がるのだった。
夕方、それを座敷に広げて、薄いわたを、慎重に、均等に、広げてゆく。 すると座敷は、雲が降りてきたような、非日常的空間に変わるのだった。 そして二人は、縁だけに、更に、わたを重ねて厚くすると、四隅を持って、掛け声と共にひっくり返す。 すると手品のように蒲団が出現する。 大きく膨らんだ、出来立ての蒲団を、わたが動かないように長い蒲団針で綴じてゆく。 
朝から夕方まで一日がかりで仕上げる、その行程は、大人たちにはせわしいものであったろうが、子供の私には、時間がゆっくり流れていた証しとして、忘れることができない。 今では家庭で蒲団を作ることもないし、蒲団自体も、重いものより軽いものが好まれる。しかし、あの座敷の光景が甦るせいか、私は、重くて暖かい冬蒲団に潜りこみたくなることがある。

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「アーティストと社会性」(2)

「アヴァンギャルド・チャイナ」とほとんど会期を同じくして、国立近代美術館で「エモーショナル・ドローイング」が企画された。 アジア、中東の作家達16名の、「この世界に生きることで生まれてくる『感情』をたどるドローイング」とのことで、そんなことが可能なのだろうか、と思いながら出かけた。
「ヒリヒリした才能」とでも呼びたいようなレイコ・イケムラのドローイング。 「描く」ことへの彼女の恐れと喜びを探る行為のような線だった。 ルドンを連想する不思議な世界は、彼女の心の痛みを感じさせて、自分はそれを本当の意味では分からないのではないか、分かると言うことは不遜ではないか、という気持ちになった。 描く人と見る人の体験が結びつき、社会や歴史の底に流れているものに繋がっていくとは、どういうことなのだろう、と考えこんでしまった。
辻直之のアニメーションはもっとあっけらかん。 果てしなく浮遊し、変遷してゆく形と線。 脈絡はない。 家⇒男⇒女⇒sex⇒染み⇒涙⇒子宮への回帰⇒汽車⇒ケーキ⇒ヘンゼルとグレーテル. . . . 一度、戦車が出てきたが、「ちょっと恐いもの」という扱いで、かわいい怪獣でもかまわなかったろう。 どこか未熟で、類型的。 ユーモラス。 見ていると、楽しい。 でも、その視線には言語体系に支えられた客観的思考が欠けている。
社会の中で人は被害者であると同時に、加害者でもあるはずで、その客観を通して、人は自己を位置づける。 社会に属している感覚を持てなくて、被害者の意識だけを持って傷ついていく、あるいは全ての事象をパターン化して流していく、それでいいのだろうか。社会に向けられるべき視線が皆、自分の内側に向っていて、それが普遍性を持つために必要な、自己に対する客観性がないのだ。 それでは、やがて、同じところを回りだすか、あるいは、精神的バランスをくずしてしまうのではないか。 たとえ、それが今の社会の現実だとしても、とても問題だと思う。
その原因が何なのか、アーティストを含めて、社会全体で考えていかなければ、「芸術」に向う人の心、そのものが壊れつつある、と思う。
「アヴァンギャルド・チャイナ」と「エモーショナル・ドローイング」、2008年秋、両極端の展覧会がぶつかったことで、何か、変化が起きることを願っている。   

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