「アーティストと社会性」(1)

9月は国立新美術館「アヴァンギャルド・チャイナ」と国立近代美術館「エモーショナル・ドローイング」に行って、「アーティストと社会性」について考えざるを得なかった。 10月は、まず、その前者についての感想を。
「アヴァンギャルド・チャイナ」は、80年代、90年代の中国現代美術の流れを紹介する、初めての展覧会だった。 会場に入って、驚いた。 中国の、特に80年代の作家たちの「社会への眼差し」が、まったく異なった状況で制作してきた私には、新鮮だった。 分厚いカタログには、費大為(フェイ・ダウェイ)氏の詳しい解説が載っている。 作品は、作品のみで立つべきだ、というのも1つの真実だけれども、作品の背景を知らなければ奥行きを感じとれない、ということも真実なので、このカタログは読むべきだと思う。 
1949年の中華人民共和国誕生から毛沢東の時代、1966年の文化大革命を経て、80年代に至るまで、中国のアーティスト達は、ソ連の影響を受けた「社会的リアリズム」か、それとも西欧の「モダニズム芸術」か、という選択を迫られた。 外来文化の影響と前衛芸術の活動は、政府によって規制されていたが、それでも情報流入を押しとどめることはできずに、潜在的な力となっていった。 そして1985年、「八五ニューウェーヴ運動」が起こった。 それは、85年〜89年までの4年間に、100以上の団体の成立が宣言され、1000人以上の芸術家が参加し、100以上の展覧会が開催された運動というのだから、驚嘆する。
費氏は言う。「芸術家は、芸術の革新が社会の変革にとって必要不可欠なものであると信じ、その作品の多くに、強い社会的責任感と世界の再建への野心を込めた。彼らは、壮大なテーマと芸術全体の問題を思考し、犠牲精神に満ちた非功利主義的な態度で芸術を創作した。」この姿勢が作品から感じられて、私には新鮮に思えたのだ。
八五ニューウェーヴ運動は1989年にピークを迎え、(第2次)天安門事件の後、急速に終結した。 今から20年前のこの事件は、私の記憶にも鮮明だ。 非暴力を貫く学生達の民主化運動に、党、政府の戦車が発砲し、市民も巻き込んで流血の惨事になった。 結果的に死者2000人、負傷者5000人とも伝えられた。 各国の大使館も駐在員を引き上げ、中国政府は世界中から非難され、国際的信用を失った。 多くの知識人や芸術家、若者が、海外に流出した。 国内に留まった人達も、厳しく、粘り強い政治闘争を余儀なくされたはずだ。 
そして90年代前半、海外移住した芸術家達が各地で活動を始め、90年代後半、そこから蔡國強(ツァイ・グォチャン)を初めとするスター達が生まれていった。 国内にはシニカル・リアリズムとポリティカル・ポップの流れが誕生し、現代美術が「商業化」と結びついていった。 それと共に、アーティスト達は内部の精神的団結力を失って、個人へと分散していく。
荒っぽい要約で申し訳ないが、この経緯を踏まえると、黄永?(ホアン・ヨンピン)の「爆竹のついたズボン」や「中国美術館を引っ張る」も、王広義(ワン・グァンイー)の「赤い格子の後ろの聖母」や「工業用速乾性オイルで覆われた名画」も、違った意味を感じとれる。 張培力(ジャン・ペイリー)のメディアアート「ドキュメント:衛生No.3」も、鶏が中国の人達に見えて、すごい、、、と思った。
孫原(スン・ユァン)・彭禹 (ポン・ユゥ)の「老人ホーム」は衝撃が強く、夢に出てきそうだった。 揚振中(ヤン・ジェンジョン)のビデオアートの中で、まだ幼い少年が 「アイ・ウィル・ダイ」の言葉を発する時には、芸術の持つ罪深さについて考えてしまった。 インパクトというのは、作家の中でエスカレートしてゆく危険がある。 不特定多数の人に向って発信すると、「伝える」ということが、いつの間にか、「いやおうなく分からせる」ことになってしまう。 会場を出る時、心に残ったのは、張暁剛(ジャン・シャオガン)の「血縁」シリーズ。 静かで、深い画面だった。 人と人を結ぶ、赤い、細い糸が、確かに私にも繋がっていて、自分はアジアの人間だと感じた。
個別性か、社会性か、、、これは芸術家にとって根源的な問いかけだ。 芸術は、結局は個人のものでありながら、個人の集合体である社会や、その歴史から逃れられない。
激動の時代を生き抜いた、中国の芸術家達は、移住を余儀なくされたり、表現活動を制限されたりしながら、それをはね返し、エネルギー溢れる作品を産み出してきた。 その足跡は、戦後60年経って、社会への批判精神が極めて乏しくなってしまった私達に、改めて根源的な問いを突きつけている。

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「ルオーについて」

八月初め、出光美術館に「ルオー大回顧展」を見に行った。 2003年、NAISミュージアムでのルオー展以来五年ぶりだ。 ルオーは、子供の頃や青春期には、好きになれなかった。 厚塗りで、重くて、同じ構図が多くて、、、。 それが、人生の半ばを過ぎた頃から、よくなり出した。
今回、出光美術館では、連作の油彩画「受難」のシリーズがまとまって公開されていた。 もともと、ある詩画集のために、まず版画が作られ、それを元に描かれた油彩画らしい。 同じ構図でくり返し描く、さらに深く、と思う─その気持ちは、今は分かる。 このシリーズで、ルオーは、画面の中にもう一つ窓を作るという、いわば、二重構造の画面を作っている。

その窓枠に当たる部分が、ストーリー性のある、向こう側の世界と、我々の立つ、こちら側の世界との橋渡しをしている。 部分的に青みがかった、あるいは、紫がかった灰緑のマチエールが美しい。 現代美術では、向こう側がなくなって、窓枠だけが残ったのか、、、と、勝手な連想をする。
銅版画集「ミセレーレ」は、五年前、衝撃を受けて以来、久しぶりに再会した。 改めて白黒の迫力に圧倒される。 シンプルで造形的な形だ。 (<ミセレーレ>5  罠と悪意のこの世で、孤独)(<ミセレーレ>6 われらは苦役囚ではないのか?) 
現実の世界を批判しながら、どこか暖かい眼差しがある。 (<ミセレーレ>49 心高貴なれば、首こわばらず)(<ミセレーレ>52 法は過酷、されど法)
ルオーの作品は、版画や絵画でありながら、その分野に留まらない。 宗教的な主題に支えられて、見る人の心の奥にストレートに語りかけ、変革を迫ってくる強さがある。 (<ミセレーレ>57 ”死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順なれば”)(<ミセレーレ>46 ”正しい人は白檀の木のごとく己れを打つ斧に香を移す”)
今、芸術はもうこのような力を持てないのだろうなあ、、、と、憧れと共に、ある無力感を抱えて帰宅した。 

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「水引き」

水引きが、たどたどと伸び、節のところどころに、紅いものが目立ち始めた。
水引きは、ごくありふれた蓼科の植物で、日陰に群生する。小さな花弁のように見えるのは、実は萼で、上から見ると紅く、下から見ると白いところから、紅白の水引きになぞらえて、名前がついた。上下白いものもあり、「ギンミズヒキ」と呼ばれ、それはそれで品格がある。
葉は両方尖った楕円形で、我家のものには黒斑があり、皆、そういうものかと思っていたが、ないのもあるらしい。墨でひと刷毛のせたような、その「徴」は、どんな小さな葉にもついているので、早めに見つけ、庭中に蔓延るのを防いでいる。
群生している水引きには、連なった緑の葉に黒斑が散り、紅い点線がリズムを作って、「集団」としての美しさがある。しかし、一、二本採って、黒い籠などに活けると、何とも凛とした空気を作る。「か細さ」は、個として存在する「強さ」をも、伝えてくれるものだ。
秋も深まると、萼の下が膨らんで、実がつき、燃えるような紅になる。
枯れる直前の水引きは、やることをやり、充ち足りて、もう「か細い」とは言えない。

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「珈琲」

珈琲が好き—珈琲を味わう時間が好きだ。よい場所の、よいカフェで味わう珈琲に勝るものがあるだろうか。本当は毎日出かけたい。だが、そうもいかないので、自分で点てる。昔はゆっくり座る暇もなかったが、今は体力がなくなった分、時間が増えた。苦味の強い珈琲が好きなので、胃のためにも、一日一回、午後遅く、と決めている。うまく入れることが難しくて失敗を重ね、結局は「豆につきる」と思っている。
いい豆をゴリゴリと挽く。ネルドリップの支度をする。挽いた豆を熱湯で充分膨らませる。お菓子の用意をする。お湯を細く、とぎらせずに注ぐ。その過程全てが儀式めいて、そのことで救われている。ともかくも昨日があり、今日がある。
部屋中に珈琲の香りが漂うと、「コロンビア産ウィラ・スペシャル」、「グァテマラ産ラ・リベルタード」と、豆の名前を呼んでみる。人々の汗と労苦を経て、はるばると私のところへ来てくれた豆だ。
部屋は、夕方が近づくにつれ、しだいに西日が満ちてくる。西日は暑いので嫌う人もいるが、私はブラインドの隙間を通過してくる、低い光線が気に入っている。部屋の物全てに影ができ、全体がアウトフォーカスになる。
その日の気分で CD を選ぶ。雨の日は乾いた音、落ち込んだ時はともかくバッハ、絵が難航している時は、こちらの気分も荒れて、それなりにハードなジャズ、、、
私にとって珈琲は、描くことから逃れての、つかの間の休憩であり、考えを纏めるきっかけであり、疲れ切った状態に、もうひと踏ん張りのカンフル剤である。様々な精神状態の、どの自分にも、しっくりなじんでくれる。その昔、珈琲なしでどうやって日々を送っていたのか、不思議な位だ。
一杯の珈琲と共に、これからも何とか、、、

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個展を終えて

10回目の個展が終りました。 お忙しい中を京橋までいらして下さった方、ありがとうございました。 3、4年ごとにやっているはずなので、3回続けて見ていただくと、ほぼ10年見続けて下さることになり、まったく存じ上げなかった方が一言二言話して下さるようにもなって、感慨深いものです。 
美術館の学芸員の方や美術評論家の厳しい目が注がれる時は緊張するし、日頃は忙しく、なかなか会えない友人との再会はうれしいし、たった2週間の個展といっても、実は色んなことがあります。
いつの間にか戦友のようになってしまった絵描きの人も何人か来てくれます。 お互いにまったく違った絵を描いているので、とことんツメてしまえば決裂してしまうかもしれなくても、何故かそうしないで、何年も付き合っています。 抽象であれ具象であれ、できるだけ自分に正直に描き続けていると、どんな人でも、その人だけの世界ができてくることを認め合って、続いてきたのでしょう。  
絵の前ではその人独自の言語が話されているわけだから、「素の自分」にもどって、まずその人の言語に耳を傾ける、、、それは当り前のようでいて、案外難しいマナーです。
個展の一番の意義は、2週間、自分の絵を見続けること、様々な人の反応、苦言や賞賛の一つ一つを思い出しながら、見続けることです。 すると自分自身に、自分の言語の構造が少し見えてくる、、、そのことにいつも驚きます。

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放逸、放散、放擲、そして放心

個展直前だ。 ずっとその中にいた絵は終ったのに、新しいヴィジョンはまだない。 空白で不安定な状態だ。 ブログに関しても、とりたてて何も思い浮かばないので、64号で一旦休刊となった「るしおる」から鈴村和成氏の見事な詩を、、、これまでに経験したことのない瞬間を捉えて、名付ける行為、、、それを積み重ねていくこと、、、結局私たちのできることはそれではないだろうか、と思えてくる。
放散—、             鈴村和成   
わずかに
引いている、とおい
鉄の一族か
片がわの頬だけに
焦げあとが、粉末が
それは
放逸だな
くろずみ、
はやまるよ
はれものや
バーベルに、ひやひやと
ちらばる、手をつかねて
鉄分の、それは
放散だな
さわいでたんだよ
いびつなのがいいんだって、
だってさ、砂鉄が
てんでんばらばらに
それは
放擲だな
ブラインドが
あいている、あてずっぽうで
鉄道でいいかな
かいなでだってね
遠心か、くれてゆくんだ
それは
放心だな

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個展のお知らせ

個展をします。 ブログ上で、一足早くご案内申し上げます。 
今回は鉄塔のシリーズを描きました。
 井上 直 展
5月12日(月)〜5 月24日(土)
 11:30〜19:00(最終日17:00 まで)
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 私は地図を描こうとした。
「見晴らしのない惑星」* と呼ばれた場所の地図を—
   
* 私が今いる場所は楽園だ
  楽園とは衰弱の場所のことだから
  ここは見晴らしのない
  惑星の一つだから
   ヨシフ・ブロツキー、『ケープ・コッドの子守歌』(1975)
  (沼野充義訳、『世界文学のフロンテイア3』岩波書店、1997) 
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「V字鉄塔のある惑星」
   大:194cm×390.9cm (キャンバスにアクリル)2007年 
   小: 60cm×72.7cm (キャンバスにアクリル) 2006年

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「賭け事」

好きな人にとってはワクワクするような楽しみ、一方、関心のない人には何が面白いんだか、まるで理解できない—賭け事とはそういうものだ。 人生を狂わすような大博打からちょっとしたゲームまで、世の中には様々な勝負がある。
私の父は賭けが好きだった。 勝敗にはこだわらなかったが、碁、将棋、ゴルフ、マージャン、ブリッジ、何でもやり、強かった。 真面目な母はそれが嫌いで、「遊んでばっかり、、、」と、手厳しかった。
ある時父は、四歳の私を競馬場に連れていった。 当然母には内緒だったが、私が幼稚園で「お馬の動物園」という絵を描いて貼り出され、バレてしまった。 そういう話が父には沢山ある。
兄弟のように育った同年のイトコが居て、「R伯父さん」と、うちでは呼んでいた。 伯父さんはお金持ちで、青山に住んでいた。 父の死後、懐かしそうに語ってくれた話では、伯父さんの自宅は既にマージャンのカタとして父のものであり、「仮に住まわせてる」というのが、二人の間の冗談になっていたらしい。
春が近づいてくるこの時期、父のお気に入りの賭けは、「四月以降、果たして雪が降るか?」というもので、父は必ず「降る」という方に賭け、「ここ何年も負けたことがない。」と自慢していた。 そして、ちょっといたずらっぽい目で「ただしね、この賭けは三月のポカポカ陽気の日を選んで、持ちかけるのがコツなんだよ。」と付け加えた。
ここ数年の気候の変動は父も予測できなかったろうから、仮に生きていても、早晩賭けには負けていただろう。 しかし父の賭けは、いつも楽しそうに生きていた、その人柄と相俟って、死後18年経った今も忘れ難い。
毎年三月のポカポカ陽気の日には、誰かにふと、この話をしてみたくなる。

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「鈍い色」

鈍い色、、、と考えると、まず「グレー」が頭に浮かぶ。 朝日新聞社編「色の彩事記」は、私の大好きな本だが、それによると「グレー」と言っても、日本には実に様々な色がある。
「薄墨」、「素鼠」という無彩色を表す色の他に、「梅鼠」は紅がかった灰色、「紫苑(しおん)」は紫の入った灰色だ。 「減紫(けしむらさき)」になると、もっと濃い。 「鈍色(にびいろ)」は少し緑味のある灰色、濃くしていくと「鉄色」になる。 「卯花色(うのはないろ)」はオフホワイト、「白鼠」とも言う。 灰色の薄い色は「浅鈍(あさにび)」あるいは「薄鼠(うすねずみ)」と呼ばれる。 「銀鼠」は銀のような鼠色。 明るい茶が混じると「砂色」。  そして「深川鼠」は水色がかった鼠色だ。  「橡(つるばみ)」はどんぐりをつき砕いた汁で染めた色、「生壁色」は乾かない壁のように、茶色味や緑味を含んだ鼠色、「利休鼠」は白秋の「城ヶ島の雨」にも出てくる、緑味のある鼠色。 その他にも「桜鼠」「臙脂鼠(えんじねず)」「暁鼠」「牡丹鼠」「小豆鼠」、、、と、いくらでもある。
ただ「グレー」だけに絞っても、これほどあるのだ。 それは日本人が「グレー」に混じったほんの僅かの色を感じとって、楽しんできた、ということでもある。 澄んだ色に比べて鈍い色は地味だけれども、年と共に好きになる。 丁度、日本料理の中の、栗の渋皮煮、フキノトウの天麩羅、秋刀魚のはらわた等、子供の頃には分からなかった味が、後に好物になるのと同じように、経験を積むにつれ、複雑な味わいを楽しめるようになってくる。 
日本にはどうしてこんなに鈍い色が多いのか? それは日本人が明度、彩度、色相という分類ではなく、日常生活や自然を元に色を作り出してきたからだ。 具体的な事物、あるいはイメージは、時間を経るにつれ、それぞれの心の中で重味を増してくる。 もともと「美しい色」というものがあるわけではなく、分量と配分でお互いを引き立て合って美しくなるのだ。 鈍い色は澄んだ色を際立たせ、逆もそうである。
また、日本料理には「かくし味」というものがあり、お汁粉に塩を、茶わん蒸しに白醤油を、ぬたの酢味噌に芥子を僅かに潜ませ、味に深みを加える。 自己主張の強すぎる色も、ほんの少し鈍い色を加えただけで、深みを増してくるものだ。
鈍い色、、、と考えると、私はいつも、日本という国にも確かに「文化」があった、と感じ、それがほとんど消えてしまったことを残念に思う。

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「エンピツの夢」

アンジェイ・ワイダの「地下水道」が撮られた時代、中井正一の「『土曜日』巻頭言」が書かれた時代は、当局の検閲が厳しく、自分の考えをそのまま表現することはできなかった。 彼らが使った「隠喩」や「象徴」の力を私たちはすっかり忘れてしまったのではないか、、、と、2008 年の幕開けに考える。 
というのも、暮に聞いた歌が、曲は好きなのもあったのだけれど、歌詞があまりに「そのまんま、、」で、うんざりしてしまったからだ。  
そんな折、チェスワフ・ミウォシュ著「ポーランド文学史」(未知谷)の中に、次の詩を見つけた。 
皆さんの初夢はどのようなものでしたか?
   
 「エンピツの夢」    ティモテウシュ・カルポーヴィチ(1921〜2005)
                        沼野充義 訳
エンピツは服を脱いで眠りにつくとき
硬く心に決める
こわばって
黒く眠ろうと
そのとき頼りになるのは
世界中のどんな芯も生まれつき
曲がらないようにできているということ
エンピツの背骨の芯は
折れることはあっても 曲げられない
エンピツは決して 波や髪を
夢に見ないだろう
夢に見るのはただ 直立不動の
兵士たちか それとも棺桶だけ
エンピツの中にあるものは
真っ直ぐだが
エンピツの外にあるものは曲がっている
おやすみなさい

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