私たちは確かに同時代に並べられただけの
安直な食器に すぎなかったかもしれない
たった二人しかいない母と子が 流し台に溜めたお椀や皿や鍋は
この家にいた六人分の家族のすべてを洗い桶に入れても はみ出る
鈍い光を放つ油の汚水を
埃と黒いカビに蝕まれた蛍光灯が点滅を繰り返しながら
玉虫色のとぐろを映し出す
指の曲がらなくなった母の代わりに重い腰を上げると
それらを洗って片づけてしまうことに罪悪感が走る
(片づけて、そして、あるいは、捨ててしまえたなら、
とても遠く、重い、その、流し台の時間を終わらせるまでの距離
引き返せばよかったのか(洗っても、洗っても落ちない汚れ
捨ててしまえば簡単なのに(片づけられない、お茶碗たち
たった二人だけなのに 私のものではない、私のもとにいた家族の茶碗
母の茶碗、父のお皿、誰かの湯飲み、家にいた誰かが使っていた湯飲み茶わん
カビ臭い計量スプーン、網の目のゆがんだ茶こし、流し台の奥に突っ込んである
鉄の黒い焦げ付きの取れないフライパン
片づけていく、その隙間を洗い水が流れていく
誰の霊(ち)を洗っているのだろう
誰の汚れなんだろう
時代遅れの二人きりの暮らしの中
私たちには支える事の出来なくなった重いだけのフライパンで
誰が何を作ってきたんだろう
私たちは確かに同時代に並べられただけの
安直な食器に すぎなかったかもしれない
その食器の隙間を蛇口から捻った水が
汚水になって排水溝に向かって姿を消していく
吸い込まれるだけの黒い水がとても貧しい音を立てるので
私の体の真ん中で堪えていた何かがはじけだし
粉々に砕けた音を上げながら 夜の中へと流されていく
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流し台の洗い桶のなかというのは知らないうちに溜まっていて、気づくとすごいことになっています。汚水や芥、悪臭に顔を歪めながら片付けていると、情けなくなるやら侘しくなるやら、やりきれなさひとしおです。どんな立派な食事でも、食器でも、汚れて流し台に行き着く。見かねてせっせと片付けながら、ため息をつく(経験談)。ひとの暮らしはさびしいなあ、と切に時々思います。
藤 一紀 様
コメントありがとうございます。
年末洗い流して流れていくものはなんなのか、
考えて途方にくれてしまった詩です。
そのなかでも、割ってしまえば一瞬で滅ぶ御茶碗や湯飲みの方が、使っていたものより長生きしてしまったことが、とても、年の暮れに悲しく思いました。
暮らしの中で流れていくものと、時の不条理さの中で、
壊れていったものを、もっとうまく表現できるようがんばります。
お言葉をありがとうございました!